#4904 仕事と経験:「段取り八分」の意味② システム開発編 Jan. 5, 2023 [A.6 仕事]
<最終更新情報:1/8>
前回#4902ではビリヤードテーブルのラシャの張替えを取り上げて、2段構えでやらないと、完璧な仕事はできない、プロはそうしている実例をあげました。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生とスリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のお名前を挙げさせてもらいました。
今回はシステム開発編です。1978年から84年まで、産業用エレクトロニクスの輸入商社と臨床検査会社のSRLでシステム開発に携わりました。それまでシステム開発経験はありません。大学は商学部会計学科、大学院は経済学専攻でマルクス『資本論』と『経済学批判要綱』を取り上げて、経済学の体系構成に関する研究をしておりました。だからシステム開発とは縁もゆかりもありませんでした。そんなわたしに、産業用エレクトロニクスの2代目社長(関周さん:オーナー)は入社1週間後に社運を左右する5つのプロジェクトをわたしに任せてくれました。いい度胸してましたね。プロジェクト名は前回書いています。
システム開発でも2段構えのアプローチが有効でした。基本設計と実務設計がしっかりしていたら、あとはなんてことありません。そのためには、システムに載せる業務について複数の専門知識が必要でした。それに加えて外部設計書を書くためにプログラミング技術は必須でした。システム開発専門書も洋書を含めて3年ほどの間に十数冊読みました。コンピュータに関する専門書も数十冊目を通しています。プログラミング言語は3言語マスターしました。HP-67とHP-97(逆ポーランド方式の言語:1978年経営分析用のための推測統計計算用)、三菱のオフコン(言語:COOL、ダイレクトアドレッシング)、三菱のオフコン(コンパイラー言語「プログレスⅡ」)、SRL(1984年)では当時最大規模の富士通の汎用大型機でした。COBOLでコーディングして、1年後にEasytrieveで書き換え。この言語は簡易言語で生産性が高いだけでなく、コンパイラーした後の処理速度がCOBOLよりも速い。メンテナンスも簡単になるので、この言語に切り換えたと、NCDのM山SEから聞いた。
産業用エレクトロニクス輸入商社では、収益性を高め、財務体質を変革するために必要なシステムを開発するというものでした。欧米50社の総代理店をしていたので、それぞれのメーカーの商品を理解するのはもちろん、外国為替業務、自社の経営分析、為替が変動する中でのたしかな収益見通し、売上総利益率を27%から40-45%へアップさせるためのシステム開発、営業事務のシステム化など、学んでおかねばならないことはたくさんありました。
それぞれ独立のシステムを開発し、開発目標はクリアしました。
(次のステップはこれらを統合することでした。そこで、オーナー社長と方針が合わず辞職し、SRLへ転職してます。予算編成と予算管理業務をしながら、経営統合システム開発を別業種で担当することになってしまいました。そのための練習のようなことになるとは思いもしませんでした。使うコンピュータは汎用小型機から、当時国内最大規模の富士通の汎用大型機になりました。ソフト開発予算も10倍でしたから、思いっきり仕事できました。産業用エレクトロニクス専門輸入商社でシステム開発業務の引継ぎを終わったのが、84年1月末でした。3月中旬にはSRLで10倍規模のシステム開発業務を担当することになったのです。ついてました。天の導きの手に誘われて転職したような気がしました。)
商品の理解は、海外メーカーから毎月のように新商品の説明にエンジニアが来日するので、理系の営業マンと一緒に、新商品解説セミナーに在籍した6年間全部出席してました。おかげで計測器については慣れました。ディテクターとデータ処理部(コンピュータ)とインターフェイスで構成されていました。ディテクトする周波数に違いがあるだけで、みな同じなのです。門前の小僧習わぬ経を読むの類です。(笑)
外部設計書と実務設計は外部SEには不可能です。業務に関する専門知識も経験もありません。そこはユーザー側でないとできない領域ですが、ユーザ側はSEに理解できるように、説明しなければなりません。つまり、外部設計書がそのままプログラミング仕様書になるくらいのレベルで記述しなければなりません。内部設計についてもあるていどのスキルが要求されます。つまり、実務設計及び外部設計と内部設計の全部をやれる技能が要求されるということです。
その当時、一緒に仕事してくれたのは、オービックのS澤SE、その次には日本電気情報サービスのT島SEでした。どちらも業界トップレベルのSEでしたから、一緒に仕事することで、彼らのスキルをコピーさせてもらいました。ありがたかった。
1984年にSRLへ転職して経営統合システムを担当しますが、上場準備で開発中のシステムの内、財務会計及び買掛金支払いシステムだけが手がついていませんでした。経理部門に経理や原価計算や売上債権管理や購買業務の専門知識とシステム開発能力の両方を持ち合わせた人材がいなかったからです。だから、だれもインターフェイス仕様が書けません。暗礁に乗り上げていました。
わたしが担当したのは財務経理システムと買掛金支払いシステム、それと固定資産管理システムでした。固定資産管理がぐちゃぐちゃでしたから、実地棚卸の実務設計と投資案件を入れて、減価償却費の精度を10倍にすることでした。8か月でトップで本稼働しています。
入社1か月後に引き受けると、経理課長は仕事の様子を見ていて、トーマツ監査法人の応援SEは不要だろうと訊いてきました。公認会計士でしたがシステムには素人、足手まといでした。月300万円支払っていました。
内部設計とプログラミングはソフトハウスのNCDさん、M山さんとT本さんと栞さんという女性SEの3人が担当してくれました。実務設計と外部設計が完璧だったので、8か月で本稼働。内部の人件費が600万円、外注支払いが8000万円ほどでした。一番遅れたのは販売会計システムでした。基本設計に問題があり、販売会計部長のK藤さんはストップをかけて見直しました、3年かかりました。2億円くらいかかっています。
購買在庫管理システムはなかなか進まないので、半分以上わたしが外部設計してます。1年半かかって、財務会計システムと同時に稼働しましたから、買掛金支払いシステムも一緒でした。
原価計算は2年半だったかな、担当が3人とも臨床検査に関する知識がありませんでした。プログラミングスキルもないので、5表にすれば簡単なものを1表にまとめるような複雑な仕様書をかいてしまったので、プログラミング工数が膨れ上がりました。一人700万円の人件費とすると、700万円x3人×2.5年=5250万円、それにトーマツ監査法人の応援が300万円x30か月=9000万円、NCDさんの内部設計とプログラミングで1億円ほど、合計2.4億円かかっています。システム開発は期間が長くなればなるほど工数が増えてコストが膨らみます。
だから基本設計や実務設計でミスがあり、見直しが入ると、並行して作成していたプログラムがジャンクになってしまいます。作り直しです。
わたしは、2001年に外食産業の原価計算システム開発を担当したことがありますが、既存のシステム(給与支払い、カミサリーの購買在庫管理システム)をヒアリングして、1週間で仕様書を書き上げました。それをNCDさんに1か月で開発してもらいました。支払ったのは600万円です。なぜそんなに安いのか?開発期間が短いのと、基本仕様にミスがなかったからです。
1984年にやった固定資産管理システムを投資及び固定資産管理システムに作り直した時は、八王子ラボへ出向いて、固定資産台帳と現物を全品自分の目で突き合わせて、確認しています。それで、表記を全部チェックしました。極端な例を挙げますが、「フランキー」「孵卵機」「腐乱機」「恒温槽」、これらは同じものです。経理部が台帳管理していたので、購入協議書で上がってきたのを台帳に書き写すのに勘違いを起こしていました。固定資産実地棚卸マニュアルを作成し、固定資産管理規定を造りました。固定資産分類を検査管理部の機器担当に手伝ってもらってやり、分類コード表を造りました。そのコードで出力すると、マイナス80度のディープ・フリーザがどの部署に何台、会社に何台あるのかがすぐにわかります。台帳を整理すると同時に、予算管理責任者でもあったので、職権を利用して、投資予算を提出させ、減価償却費計算に必要な項目を入力して、翌年度の減価償却予算を計算し、固定資産管理台帳の既存償却資産から計算した減価償却費と合算して、減価償却予算としました。1億千以上の誤差が2000万円以下になりました。
固定資産実施棚卸をして償却資産分類コードを設定し、投資予算を減価償却費が計算できるレベルで全部署から提出させるというのが、二段構えの第一段目でした。後はシステム開発ですから、外部設計とプログラミング仕様書を書けばいいだけでした。
システム開発の二段構えで仕事の段取りをすると、スムーズにいきます。それは開発コストを半分以下にします。場合によっては、臨床検査会社SRLと外食産業のカミサリー(工場)の原価計算システムを例に挙げたように2.4億円対600万円なんて極端なことが起きるのです。この外食産業は株式上場しました
全部実例です。
1978~84年ころは、経営統合システム開発はパッケージシステムの開発のようなものでした。外部設計書と実務設計書をユーザー側で書いて、ソフトハウスに外注していました。
1990年以降は、オラクルなどのパッケージスステムが主流になりました。パッケージに合わせて実務設計をする方向に変わったのです。パッケージスステムを導入しながら、それまでやっていた実務にこだわって、カスタマイズをやりすぎて、メンテナンスがむずかしいシステムにしてしまう例が多いようです。愚かだとおもいます。
それなら、外部設計書を書き、実務設計をして、内部設計とプログラミングを外注した方がいい。
<余談:臨床検査ラボの自動化と米国進出>
1984年にSRLへ転職して、棚卸にかこつけて、八王子ラボの検査機器を全部確認し、驚いたことがあります。GPIBインターフェイスをもった臨床検査機器がほとんどなかったのです。HP社のガスクロやガスマス(質量分析器)はGPIBが標準装備ですから、それ以外はありませんでした。
機器を制御したりネットワークを構築するには双方向のインターフェイスであるGPIBが必須でした。そのときに、ラボの自動化を担当するときには、メーカと交渉してほとんどの検査機器にGPIBを標準装備させようと考えていました。そういう視点で、メーカの営業マンや技術者にコネを造っていきました。検査試薬の20%コストカットを提案して、実質的なプロジェクトリーダーでしたので、製薬メーカの役員とコネクションができました。入社してから2年目、あの当時は平社員です。面白い会社でしょ。3年間はSRLの利益の40%を検査試薬のコストカットで稼いでいたんです。
1991年頃に、細胞性免疫課で、リンパ球表面マーカ検査にDECのミニコンをつないだのが、ミニコン利用の検査サブシステムの初事例でした。
いまでは、血球計算機にもブルーツースが標準装備になっています。
1995年頃、子会社のSRL東京ラボの移転問題が持ち上がりました。社長のMさんと相談して練馬から移転するつもりでいました。3ヘクタール以上の土地が見つかったら、SRLの首都圏全体のラボの再編成をするつもりでした。具体案が書けそうになった段階で、SRL社長のKさんへ相談に行くつもりをしていたら、帝人との治験合弁会社の立ち上げと経営をやれと業務命令があり、計画は頓挫しました。八王子ラボ移転と画期的な自動化ラボ建設は20年ほど遅れました。検査と検査機器とシステム開発の三つの分野の専門知識と経験を有している人材がいなかったからです。生産性を画期的にアップして、社員の給料やボーナスをアップするには意外と個人のビジョンと仕事のスキルが重要なのです。
3年ほど前にSRLは八王子ラボをあきる野市へ移転しています。
双方向のインターフェイスで、画期的な自動化ラボはできたかな?
わたしの構想は、二段構えの自動化ラボ建設でした。
ラボの生産性を2倍に引き上げて、余剰人員の一部を米国法人設立で使おうと思っていました。米国市場へ進出するために必要な布石でした。
平社員の時から、経営者の視点でビジョンを構想し、具体的な戦略目標を立て、戦略を練ること、それが#4901のテーマでした。
<余談:臨床検査項目コードに関する日本標準制定プロジェクト>
日本標準臨床検査項目コードが1990年に臨床病理学会から公表されて、日本中の病院やクリニックで使われていますが、あれも二段階の仕事の第一段階でした。
入社2年目の1986年に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いて、創業社長の藤田光一郎さんから、200億円の予算を認めてもらいました。臨床診断システムを開発プロジェクトは、検査項目コードの標準化やカルテの標準化など、10個のプロジェクトに分解してありました。項目コードがバラバラだと、臨床診断に必要な検査データを集められません。全国の大学病院や専門病院をネットワーク化して、10疾患ほど選んで、プロトタイプを造るつもりでしたから、取引先ではない病院も含めて、臨床検査項目コードが統一されていなければなりません。
BMLが新ラボをつくるにあたって、業界標準コードをつくりたいと大手6社に働きかけがあったので、2回目の会議に出席して、「業界で標準コードを作っても病院が使わない、理由は学術的なバックがないから」だと説明し、臨床病理学会の櫻林郁之助助教授(当時)が検査項目コード委員会の委員長なので、次回お連れするので、産学共同プロジェクトにしようと提案、6社の了解を得られたので3回目から、産学協同プロジェクトになり、1990年に第1版の標準臨床検査項目コードが臨床病理学会から公表されています。櫻林先生にはSRLに入社して間もなく、学会の項目コード検討委員会の仕事を発つだってほしいと頼まれました。仕事がやりづらいなら、藤田社長に行って総合企画室へ異動し、現在の仕事を外してもらうようにするとの申し入れでした。予算返済と予算管理、そして経営統合システム開発をしている最中で、他に変われる人がいないので、お断りしました。その1年半ほど後に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いたのです。世界市場を相手に仕事するつもりだったので、日本標準は単なるたたき台のつもりでした。櫻林先生には構想全体についてはお話してませんでした。産学共同プロジェクトは5回ほど出席しただけ、そのころは購買課で機器担当、ついで学術開発本部へ異動し沖縄米軍の依頼の女性兵士の出生前診断検査の導入、慶応大学産婦人科医との出生前診断検査MoM値の日本標準値作成に関するプロジェクト、製薬メーカーとの検査試薬の開発および共同開発仕事の標準化などを担当していました。そういうわけで、構想全体を櫻林先生にお話しする機会がありませんでした。
「臨床検査診断システム開発」は検査項目コードやカルテの標準化というインフラ整備が第一段階、対象疾患の絞り込みと提携病院やドクターの選定が第二段階、システム開発が第三段階と考えていました。
NTTデータ通信事業本部と数回ミーティングをもちましたが、通信速度と処理能力が要求仕様を満たすのは30年後だろうということになって、予備調査しただけで、開発はあきらめました。でも15年ほどで画像処理を含めてやれるような環境になりました。
200億円使いきって突っ走ればよかった。(笑)
臨床検査項目コードの標準化は先進国では日本のみ、だから、臨床診断システム開発は日本が一番有利です。だれかやったらいい。
<帝人とSRLの臨床治験検査合弁会社>
帝人との治験合弁会社設立プロジェクトを担当するように事例が出たのは96年11月でしたが、そのまえから、帝人の臨床検査子会社の経営状態は知っていました。87年から89年11月末まで購買課で2年半機器担当をしていましたが、あるとき英国のIRS社の染色体画像解析装置を3台購入しています。そのときに、輸入商社の日本電子輸入販売の担当者から、帝人羽村ラボと東北の臨床検査会社から引き合いがあったと話を聞いていました。ピンときました。どちらも業績が思わしくないので赤字打開のために商品ラインを拡張しようとしているのは明らかでした。ラーメン屋がイタリアンを始めるようなものです。染色体の外注市場はSRLが8割握っていました。技術水準が高いからシェアが高い、だから真似しても、受注できないのです。高コストの機器導入でさらに経営が悪化すると予測していました。
不思議ですね、東北の会社は出資交渉を92年の春にわたしがまとめて、役員出向しています。そして96年に帝人の臨床検査子会社との合弁会社設立プロジェクトに参加することになりました。どちらもそういうめぐりあわせになっていました。帝人との治験合弁会社は、出航を受け入れあとで述べる4条件をクリアする代わりに、経営の全権をSRL社長の近藤さんに保証してもらいました。社長は帝人から、SRLの常務取締役でO部さんがいましたが、SRL側での経営の全権は当初は取締役ですらないわたし(SRLでは学術開発部門と管理会計課の課長職、合弁会社では総務経理部門、データ管理部門、システム部門担当部長で取締役ではない)にありました。もちろん業績についての責任もついてまわります。SRLの硬直化した職能等級制度の足枷が産んだ、ヘンな職位でした。(笑)親会社からは営業担当役員とラボ担当役員の2名が非常勤役員として毎月取締役会に出席していました。治験合弁会社で親会社営業部門やラボ部門と調整事項ができたときのためです。帝人本社からも石川常務が非常勤取締役で毎月取締役会に来られていました。これは異例なことです。取締役会では経営方針や経営戦略について毎回わたしが、提案説明し、結果も報告してました。単なる報告会でした。わたしの経営スキルの評価を石川常務が取締役会に出席することで確認していたようです。
(親会社の役付役員が売上規模20-25億円の合弁会社の非常勤役員というのは事例がないのです。帝人側は創業30年を超える臨床検査子会社の経営がうまくいかないので、いよいよその処理について決断を迫られていると読みました。その通りでした。I常務が臨床検査子会社の方に腹心の部下を送り込んで、その方から社内事情を打ち明けられて確認できました。正直にやるのが問題の解決が速いのです。石川常務が今後の臨床検査子会社の経営についてわたしと直接話をしろと指示していたのだと思います)
帝人の臨床検査会社は赤字企業でした。そのなかの治験部門ももちろん赤字でした。SRLでも治験事業は赤字でした。赤字同士の部門を本体から切り離して、黒字にしようというつもりだったかもしれません。帝人本社側はこれ以上赤字続きだと、臨床検査子会社を切り捨てなくてはいけない社内事情がありました。焦っていました。合弁会社のプロジェクトが始まって、SRL社長が日経新聞で1月に帝人との治験合弁会社を設立するとアナウンスしました。10月になって、いくつか問題が発生し、1月のスケジュールは間に合わないような事態になっていました。それで、SRL東京ラボへ出向していたわたしが呼び戻されました。もっていく資料の分量すら、わかっていませんでした。確認させたら当初の報告の倍近くありました。これでは契約したビルに入りません。
プロジェクトメンバーのシステム担当の古株のWが、スケジュール通りに事態を収拾できるのはわたししかいないと「推薦した」と言ってましたが、近藤社長がその言を受け入れて呼び戻したかどうかわかりません。引っ越し先の場所の選定と必要な広さの確認がまだとれておらず、間に合わないスケジュールでした。合弁会社を立ち上げるのに売上債権管理システムの売上計上基準が帝人の検査子会社とSRLでは異なっていました。帝人側は請求基準、SRLは発生基準での売上計上でしたから、そこのところの調整は、新会社は発生基準でやるということだけがわたしの着任以前のプロジェクトで決められていました。SRLは請求基準から発生基準へ売上計上基準を変えた1984年に、半年間トラブルが続き、各部門から応援を出してマニュアル対応で乗り切っています。そういうことを知らないSRL経理次長が発生基準を主張してます、経理部長も報告をつけたはずですがノーアクション。問題の深刻さが理解できなかったのでしょう。しかたなく売上や売掛金関係の帳票を発生基準にするように1週間で仕様書を書いてシステムに渡しています。それで何とか間に合わせました。だが、消込はむずかしくなります。SRL本体から販売会計部の消込担当を一人もらわないと、処理できません。赤字なので人員増員を拒否されてます。ぐちゃぐちゃになるのを承知でほっておきました。上場企業ばかりですから、先方の用紙で納品伝票を上げているので、それを切らないというミスを、合弁会社の営業マンがしない限りは、大きな問題は起きないのです。消込がたいへんなだけ。合わない部分は利益を上げて、処理すればいいだけでした。
SRL東京ラボで、SRL本体の八王子ラボ移転を含むラボ移転構想が具体的な検討段階に入る寸前でしたから迷惑な話でした。SRL東京ラボのM輪社長とラボを移転する話はついて、土地を探すのに条件を言って不動産屋に依頼するところでした。
SRL社長は創業者の藤田さんから、慶応大医学部出身の近藤さんへ変わっていました。合弁会社の経営を任せるについて近藤さんからの要求は四つありました。
①期限通りに会社の立ち上げをすること
②赤字を黒字にすること
③帝人の臨床検査子会社を買収すること
④治験合弁会社の帝人本社持ち分を引き取り、SRLの完全子会社にすること
これら②~④を3年以内にやること。
近藤社長の了解をもらってから、SRLの経理担当役員(入社時の上司、当時は霧課長)に経理マンを一人出向させるように電話で話しました。Sが適任なので指名しました。「ebisuさん、自分でやればいいんじゃないか」、そういって渋りました。でも私に期待されたのは、4項目で、経理実務をやることではなかったのですが、84年に上場準備でシステム開発案件を含め経理部に課せられたすべての課題を消化したので、経理マンだと勘違いしたのでしょう。「わたしの役割は経理の仕事ではありません、近藤さんからいくつか直接指示を受けているので、必要なら近藤さんへ聞いてください。わたしの口からは言えません」、それで了解してもらいました。
問題は②でした。③と④は88年頃に染色体画像解析装置を3台、SRLで購入したときにある情報をつかんでいたので、いずれ③はできると踏んでいました。
治験部門の売上高総利益率は24%以下で、売上高20億円、社員数60人ですから、永久に黒字転換できません。売上高総利益率を30%以上にしないといけない。治験検査以外に新規事業分野を開拓する必要がありました。
半年ほど決算データと仕事を観察していて、治験データ管理分野に可能性があることがわかりました。武田薬品向けのデータ管理システムをベースにパッケージの開発をもくろみました。治験事業の古株のシステム担当のWから、ユニシスの見積もりが出てきました。三菱のオフコンとラインプリンタを使ったシステムを更新するために、機種を変えただけ、7000万円前後の見積もりでした。治験データ管理システムのパッケージ化をやるので、オフコンでは不可能、NTサーバーを導入する旨説明して、ユニシスとは手を切ると告げました。SRLシステム本部から若手のSEのK谷をもらったので、彼にNTサーバー管理を任せ、データ管理業務のM宅と東大応用生物統計のM野にパッケージ開発を任せました。1年後にはパッケージシステムで2億円、売上高総利益率はその分野では7割以上でしたから、赤字は免れました。
NTサーバーはラックマウントのもので、商品開発やデータ管理に使うので、ハードディスクはレイドアレイでした。プリンター類を合わせて5000万円かかっています。このときに、SRLの事業管理部のH本さんから、「過剰投資だ」という報告書があげられていました。旧知のH本さんでしたが、慣れない仕事でデータの読み違えをやっているだけでしたので、そのままにしておきました。データの背景を説明してあげたほうがよかったかもしれませんが、経営分析は推測統計学を使って数年やらなければとてもマスターできないので、あきらめました。売上20-25億円の規模でしかも赤字会社ですから、5000万円の投資は過剰だというのです、数字だけ見たらそういうことも言い得ます。経営分析をするときは、データに先入見をもってはいけないのです。先入見をもつと、その先入見に合致するデータだけをみて、先入見とは違う事実を表しているデータを見ないようになります。その結果判断を誤る。経営分析は自社のデータでやって、実際に自分でいくつか経営改善案を作成して、そのシミュレーションをし、そのシミュレーションが結果と合致するかどうかを繰り返し判断しないと、その妥当性が判断できません。推測統計学と芸術のミックスした領域にある技なのです。資金運用表がつけられていましたが、実際には資金状況は改善していました。スポットの数字だけ見て、その背景をみない、経理屋さんには無理なのだなあというのがその時の感想でした。何度も繰り返し痛い失敗をして自分で気がつくしかありません。S本をSRL経理部から出向させてわたしの下に置いたのは、そういう経理屋になってほしくなかったから、教育研修を兼ねてきてもらっていました。もう一人、S本と同じくらいの年齢で優秀な経理マンがいました。O君です。彼は無能な上司に嫌気がさしてSRLをやめて、ベンチャー企業に転職し、40歳前後で経理担当取締役になっています。同じ理由でエイベックスへ転職したT君がいました。国際経理課長だったかな。ゴルフの好きな男でした。どちらもSRL管理会計課では平社員、こういう有能な若手を育てるのが本当にへたくそでした。優秀な若手は、上司がどの程度仕事ができるのかを測ります。スキルが伸びないので、仕事のできない上司の下で仕事するのを嫌がりますから、いつまでも放置していたら、優秀な若手は転職します。人事部門が調整すればいいことですが、あたらしい制度を導入するばかりで、弱体でした。職能等級で役職をたらいまわししてただけ。たくさんありますが、まだ差しさわりがあるのでいちいち具体例を挙げるのはやめておきます。ひどかった。仕事ができなければ降格すべきでしたね。部長クラスでマネジメントができる人は稀でした。部長の成り上がりが役員ですから、もちろん役員も同じですよ。部長と役員を含めて、数人だけまともな人がいました。
前回#4902ではビリヤードテーブルのラシャの張替えを取り上げて、2段構えでやらないと、完璧な仕事はできない、プロはそうしている実例をあげました。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生とスリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のお名前を挙げさせてもらいました。
今回はシステム開発編です。1978年から84年まで、産業用エレクトロニクスの輸入商社と臨床検査会社のSRLでシステム開発に携わりました。それまでシステム開発経験はありません。大学は商学部会計学科、大学院は経済学専攻でマルクス『資本論』と『経済学批判要綱』を取り上げて、経済学の体系構成に関する研究をしておりました。だからシステム開発とは縁もゆかりもありませんでした。そんなわたしに、産業用エレクトロニクスの2代目社長(関周さん:オーナー)は入社1週間後に社運を左右する5つのプロジェクトをわたしに任せてくれました。いい度胸してましたね。プロジェクト名は前回書いています。
システム開発でも2段構えのアプローチが有効でした。基本設計と実務設計がしっかりしていたら、あとはなんてことありません。そのためには、システムに載せる業務について複数の専門知識が必要でした。それに加えて外部設計書を書くためにプログラミング技術は必須でした。システム開発専門書も洋書を含めて3年ほどの間に十数冊読みました。コンピュータに関する専門書も数十冊目を通しています。プログラミング言語は3言語マスターしました。HP-67とHP-97(逆ポーランド方式の言語:1978年経営分析用のための推測統計計算用)、三菱のオフコン(言語:COOL、ダイレクトアドレッシング)、三菱のオフコン(コンパイラー言語「プログレスⅡ」)、SRL(1984年)では当時最大規模の富士通の汎用大型機でした。COBOLでコーディングして、1年後にEasytrieveで書き換え。この言語は簡易言語で生産性が高いだけでなく、コンパイラーした後の処理速度がCOBOLよりも速い。メンテナンスも簡単になるので、この言語に切り換えたと、NCDのM山SEから聞いた。
産業用エレクトロニクス輸入商社では、収益性を高め、財務体質を変革するために必要なシステムを開発するというものでした。欧米50社の総代理店をしていたので、それぞれのメーカーの商品を理解するのはもちろん、外国為替業務、自社の経営分析、為替が変動する中でのたしかな収益見通し、売上総利益率を27%から40-45%へアップさせるためのシステム開発、営業事務のシステム化など、学んでおかねばならないことはたくさんありました。
それぞれ独立のシステムを開発し、開発目標はクリアしました。
(次のステップはこれらを統合することでした。そこで、オーナー社長と方針が合わず辞職し、SRLへ転職してます。予算編成と予算管理業務をしながら、経営統合システム開発を別業種で担当することになってしまいました。そのための練習のようなことになるとは思いもしませんでした。使うコンピュータは汎用小型機から、当時国内最大規模の富士通の汎用大型機になりました。ソフト開発予算も10倍でしたから、思いっきり仕事できました。産業用エレクトロニクス専門輸入商社でシステム開発業務の引継ぎを終わったのが、84年1月末でした。3月中旬にはSRLで10倍規模のシステム開発業務を担当することになったのです。ついてました。天の導きの手に誘われて転職したような気がしました。)
商品の理解は、海外メーカーから毎月のように新商品の説明にエンジニアが来日するので、理系の営業マンと一緒に、新商品解説セミナーに在籍した6年間全部出席してました。おかげで計測器については慣れました。ディテクターとデータ処理部(コンピュータ)とインターフェイスで構成されていました。ディテクトする周波数に違いがあるだけで、みな同じなのです。門前の小僧習わぬ経を読むの類です。(笑)
外部設計書と実務設計は外部SEには不可能です。業務に関する専門知識も経験もありません。そこはユーザー側でないとできない領域ですが、ユーザ側はSEに理解できるように、説明しなければなりません。つまり、外部設計書がそのままプログラミング仕様書になるくらいのレベルで記述しなければなりません。内部設計についてもあるていどのスキルが要求されます。つまり、実務設計及び外部設計と内部設計の全部をやれる技能が要求されるということです。
その当時、一緒に仕事してくれたのは、オービックのS澤SE、その次には日本電気情報サービスのT島SEでした。どちらも業界トップレベルのSEでしたから、一緒に仕事することで、彼らのスキルをコピーさせてもらいました。ありがたかった。
1984年にSRLへ転職して経営統合システムを担当しますが、上場準備で開発中のシステムの内、財務会計及び買掛金支払いシステムだけが手がついていませんでした。経理部門に経理や原価計算や売上債権管理や購買業務の専門知識とシステム開発能力の両方を持ち合わせた人材がいなかったからです。だから、だれもインターフェイス仕様が書けません。暗礁に乗り上げていました。
わたしが担当したのは財務経理システムと買掛金支払いシステム、それと固定資産管理システムでした。固定資産管理がぐちゃぐちゃでしたから、実地棚卸の実務設計と投資案件を入れて、減価償却費の精度を10倍にすることでした。8か月でトップで本稼働しています。
入社1か月後に引き受けると、経理課長は仕事の様子を見ていて、トーマツ監査法人の応援SEは不要だろうと訊いてきました。公認会計士でしたがシステムには素人、足手まといでした。月300万円支払っていました。
内部設計とプログラミングはソフトハウスのNCDさん、M山さんとT本さんと栞さんという女性SEの3人が担当してくれました。実務設計と外部設計が完璧だったので、8か月で本稼働。内部の人件費が600万円、外注支払いが8000万円ほどでした。一番遅れたのは販売会計システムでした。基本設計に問題があり、販売会計部長のK藤さんはストップをかけて見直しました、3年かかりました。2億円くらいかかっています。
購買在庫管理システムはなかなか進まないので、半分以上わたしが外部設計してます。1年半かかって、財務会計システムと同時に稼働しましたから、買掛金支払いシステムも一緒でした。
原価計算は2年半だったかな、担当が3人とも臨床検査に関する知識がありませんでした。プログラミングスキルもないので、5表にすれば簡単なものを1表にまとめるような複雑な仕様書をかいてしまったので、プログラミング工数が膨れ上がりました。一人700万円の人件費とすると、700万円x3人×2.5年=5250万円、それにトーマツ監査法人の応援が300万円x30か月=9000万円、NCDさんの内部設計とプログラミングで1億円ほど、合計2.4億円かかっています。システム開発は期間が長くなればなるほど工数が増えてコストが膨らみます。
だから基本設計や実務設計でミスがあり、見直しが入ると、並行して作成していたプログラムがジャンクになってしまいます。作り直しです。
わたしは、2001年に外食産業の原価計算システム開発を担当したことがありますが、既存のシステム(給与支払い、カミサリーの購買在庫管理システム)をヒアリングして、1週間で仕様書を書き上げました。それをNCDさんに1か月で開発してもらいました。支払ったのは600万円です。なぜそんなに安いのか?開発期間が短いのと、基本仕様にミスがなかったからです。
1984年にやった固定資産管理システムを投資及び固定資産管理システムに作り直した時は、八王子ラボへ出向いて、固定資産台帳と現物を全品自分の目で突き合わせて、確認しています。それで、表記を全部チェックしました。極端な例を挙げますが、「フランキー」「孵卵機」「腐乱機」「恒温槽」、これらは同じものです。経理部が台帳管理していたので、購入協議書で上がってきたのを台帳に書き写すのに勘違いを起こしていました。固定資産実地棚卸マニュアルを作成し、固定資産管理規定を造りました。固定資産分類を検査管理部の機器担当に手伝ってもらってやり、分類コード表を造りました。そのコードで出力すると、マイナス80度のディープ・フリーザがどの部署に何台、会社に何台あるのかがすぐにわかります。台帳を整理すると同時に、予算管理責任者でもあったので、職権を利用して、投資予算を提出させ、減価償却費計算に必要な項目を入力して、翌年度の減価償却予算を計算し、固定資産管理台帳の既存償却資産から計算した減価償却費と合算して、減価償却予算としました。1億千以上の誤差が2000万円以下になりました。
固定資産実施棚卸をして償却資産分類コードを設定し、投資予算を減価償却費が計算できるレベルで全部署から提出させるというのが、二段構えの第一段目でした。後はシステム開発ですから、外部設計とプログラミング仕様書を書けばいいだけでした。
システム開発の二段構えで仕事の段取りをすると、スムーズにいきます。それは開発コストを半分以下にします。場合によっては、臨床検査会社SRLと外食産業のカミサリー(工場)の原価計算システムを例に挙げたように2.4億円対600万円なんて極端なことが起きるのです。この外食産業は株式上場しました
全部実例です。
1978~84年ころは、経営統合システム開発はパッケージシステムの開発のようなものでした。外部設計書と実務設計書をユーザー側で書いて、ソフトハウスに外注していました。
1990年以降は、オラクルなどのパッケージスステムが主流になりました。パッケージに合わせて実務設計をする方向に変わったのです。パッケージスステムを導入しながら、それまでやっていた実務にこだわって、カスタマイズをやりすぎて、メンテナンスがむずかしいシステムにしてしまう例が多いようです。愚かだとおもいます。
それなら、外部設計書を書き、実務設計をして、内部設計とプログラミングを外注した方がいい。
<余談:臨床検査ラボの自動化と米国進出>
1984年にSRLへ転職して、棚卸にかこつけて、八王子ラボの検査機器を全部確認し、驚いたことがあります。GPIBインターフェイスをもった臨床検査機器がほとんどなかったのです。HP社のガスクロやガスマス(質量分析器)はGPIBが標準装備ですから、それ以外はありませんでした。
機器を制御したりネットワークを構築するには双方向のインターフェイスであるGPIBが必須でした。そのときに、ラボの自動化を担当するときには、メーカと交渉してほとんどの検査機器にGPIBを標準装備させようと考えていました。そういう視点で、メーカの営業マンや技術者にコネを造っていきました。検査試薬の20%コストカットを提案して、実質的なプロジェクトリーダーでしたので、製薬メーカの役員とコネクションができました。入社してから2年目、あの当時は平社員です。面白い会社でしょ。3年間はSRLの利益の40%を検査試薬のコストカットで稼いでいたんです。
1991年頃に、細胞性免疫課で、リンパ球表面マーカ検査にDECのミニコンをつないだのが、ミニコン利用の検査サブシステムの初事例でした。
いまでは、血球計算機にもブルーツースが標準装備になっています。
1995年頃、子会社のSRL東京ラボの移転問題が持ち上がりました。社長のMさんと相談して練馬から移転するつもりでいました。3ヘクタール以上の土地が見つかったら、SRLの首都圏全体のラボの再編成をするつもりでした。具体案が書けそうになった段階で、SRL社長のKさんへ相談に行くつもりをしていたら、帝人との治験合弁会社の立ち上げと経営をやれと業務命令があり、計画は頓挫しました。八王子ラボ移転と画期的な自動化ラボ建設は20年ほど遅れました。検査と検査機器とシステム開発の三つの分野の専門知識と経験を有している人材がいなかったからです。生産性を画期的にアップして、社員の給料やボーナスをアップするには意外と個人のビジョンと仕事のスキルが重要なのです。
3年ほど前にSRLは八王子ラボをあきる野市へ移転しています。
双方向のインターフェイスで、画期的な自動化ラボはできたかな?
わたしの構想は、二段構えの自動化ラボ建設でした。
ラボの生産性を2倍に引き上げて、余剰人員の一部を米国法人設立で使おうと思っていました。米国市場へ進出するために必要な布石でした。
平社員の時から、経営者の視点でビジョンを構想し、具体的な戦略目標を立て、戦略を練ること、それが#4901のテーマでした。
<余談:臨床検査項目コードに関する日本標準制定プロジェクト>
日本標準臨床検査項目コードが1990年に臨床病理学会から公表されて、日本中の病院やクリニックで使われていますが、あれも二段階の仕事の第一段階でした。
入社2年目の1986年に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いて、創業社長の藤田光一郎さんから、200億円の予算を認めてもらいました。臨床診断システムを開発プロジェクトは、検査項目コードの標準化やカルテの標準化など、10個のプロジェクトに分解してありました。項目コードがバラバラだと、臨床診断に必要な検査データを集められません。全国の大学病院や専門病院をネットワーク化して、10疾患ほど選んで、プロトタイプを造るつもりでしたから、取引先ではない病院も含めて、臨床検査項目コードが統一されていなければなりません。
BMLが新ラボをつくるにあたって、業界標準コードをつくりたいと大手6社に働きかけがあったので、2回目の会議に出席して、「業界で標準コードを作っても病院が使わない、理由は学術的なバックがないから」だと説明し、臨床病理学会の櫻林郁之助助教授(当時)が検査項目コード委員会の委員長なので、次回お連れするので、産学共同プロジェクトにしようと提案、6社の了解を得られたので3回目から、産学協同プロジェクトになり、1990年に第1版の標準臨床検査項目コードが臨床病理学会から公表されています。櫻林先生にはSRLに入社して間もなく、学会の項目コード検討委員会の仕事を発つだってほしいと頼まれました。仕事がやりづらいなら、藤田社長に行って総合企画室へ異動し、現在の仕事を外してもらうようにするとの申し入れでした。予算返済と予算管理、そして経営統合システム開発をしている最中で、他に変われる人がいないので、お断りしました。その1年半ほど後に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いたのです。世界市場を相手に仕事するつもりだったので、日本標準は単なるたたき台のつもりでした。櫻林先生には構想全体についてはお話してませんでした。産学共同プロジェクトは5回ほど出席しただけ、そのころは購買課で機器担当、ついで学術開発本部へ異動し沖縄米軍の依頼の女性兵士の出生前診断検査の導入、慶応大学産婦人科医との出生前診断検査MoM値の日本標準値作成に関するプロジェクト、製薬メーカーとの検査試薬の開発および共同開発仕事の標準化などを担当していました。そういうわけで、構想全体を櫻林先生にお話しする機会がありませんでした。
「臨床検査診断システム開発」は検査項目コードやカルテの標準化というインフラ整備が第一段階、対象疾患の絞り込みと提携病院やドクターの選定が第二段階、システム開発が第三段階と考えていました。
NTTデータ通信事業本部と数回ミーティングをもちましたが、通信速度と処理能力が要求仕様を満たすのは30年後だろうということになって、予備調査しただけで、開発はあきらめました。でも15年ほどで画像処理を含めてやれるような環境になりました。
200億円使いきって突っ走ればよかった。(笑)
臨床検査項目コードの標準化は先進国では日本のみ、だから、臨床診断システム開発は日本が一番有利です。だれかやったらいい。
<帝人とSRLの臨床治験検査合弁会社>
帝人との治験合弁会社設立プロジェクトを担当するように事例が出たのは96年11月でしたが、そのまえから、帝人の臨床検査子会社の経営状態は知っていました。87年から89年11月末まで購買課で2年半機器担当をしていましたが、あるとき英国のIRS社の染色体画像解析装置を3台購入しています。そのときに、輸入商社の日本電子輸入販売の担当者から、帝人羽村ラボと東北の臨床検査会社から引き合いがあったと話を聞いていました。ピンときました。どちらも業績が思わしくないので赤字打開のために商品ラインを拡張しようとしているのは明らかでした。ラーメン屋がイタリアンを始めるようなものです。染色体の外注市場はSRLが8割握っていました。技術水準が高いからシェアが高い、だから真似しても、受注できないのです。高コストの機器導入でさらに経営が悪化すると予測していました。
不思議ですね、東北の会社は出資交渉を92年の春にわたしがまとめて、役員出向しています。そして96年に帝人の臨床検査子会社との合弁会社設立プロジェクトに参加することになりました。どちらもそういうめぐりあわせになっていました。帝人との治験合弁会社は、出航を受け入れあとで述べる4条件をクリアする代わりに、経営の全権をSRL社長の近藤さんに保証してもらいました。社長は帝人から、SRLの常務取締役でO部さんがいましたが、SRL側での経営の全権は当初は取締役ですらないわたし(SRLでは学術開発部門と管理会計課の課長職、合弁会社では総務経理部門、データ管理部門、システム部門担当部長で取締役ではない)にありました。もちろん業績についての責任もついてまわります。SRLの硬直化した職能等級制度の足枷が産んだ、ヘンな職位でした。(笑)親会社からは営業担当役員とラボ担当役員の2名が非常勤役員として毎月取締役会に出席していました。治験合弁会社で親会社営業部門やラボ部門と調整事項ができたときのためです。帝人本社からも石川常務が非常勤取締役で毎月取締役会に来られていました。これは異例なことです。取締役会では経営方針や経営戦略について毎回わたしが、提案説明し、結果も報告してました。単なる報告会でした。わたしの経営スキルの評価を石川常務が取締役会に出席することで確認していたようです。
(親会社の役付役員が売上規模20-25億円の合弁会社の非常勤役員というのは事例がないのです。帝人側は創業30年を超える臨床検査子会社の経営がうまくいかないので、いよいよその処理について決断を迫られていると読みました。その通りでした。I常務が臨床検査子会社の方に腹心の部下を送り込んで、その方から社内事情を打ち明けられて確認できました。正直にやるのが問題の解決が速いのです。石川常務が今後の臨床検査子会社の経営についてわたしと直接話をしろと指示していたのだと思います)
帝人の臨床検査会社は赤字企業でした。そのなかの治験部門ももちろん赤字でした。SRLでも治験事業は赤字でした。赤字同士の部門を本体から切り離して、黒字にしようというつもりだったかもしれません。帝人本社側はこれ以上赤字続きだと、臨床検査子会社を切り捨てなくてはいけない社内事情がありました。焦っていました。合弁会社のプロジェクトが始まって、SRL社長が日経新聞で1月に帝人との治験合弁会社を設立するとアナウンスしました。10月になって、いくつか問題が発生し、1月のスケジュールは間に合わないような事態になっていました。それで、SRL東京ラボへ出向していたわたしが呼び戻されました。もっていく資料の分量すら、わかっていませんでした。確認させたら当初の報告の倍近くありました。これでは契約したビルに入りません。
プロジェクトメンバーのシステム担当の古株のWが、スケジュール通りに事態を収拾できるのはわたししかいないと「推薦した」と言ってましたが、近藤社長がその言を受け入れて呼び戻したかどうかわかりません。引っ越し先の場所の選定と必要な広さの確認がまだとれておらず、間に合わないスケジュールでした。合弁会社を立ち上げるのに売上債権管理システムの売上計上基準が帝人の検査子会社とSRLでは異なっていました。帝人側は請求基準、SRLは発生基準での売上計上でしたから、そこのところの調整は、新会社は発生基準でやるということだけがわたしの着任以前のプロジェクトで決められていました。SRLは請求基準から発生基準へ売上計上基準を変えた1984年に、半年間トラブルが続き、各部門から応援を出してマニュアル対応で乗り切っています。そういうことを知らないSRL経理次長が発生基準を主張してます、経理部長も報告をつけたはずですがノーアクション。問題の深刻さが理解できなかったのでしょう。しかたなく売上や売掛金関係の帳票を発生基準にするように1週間で仕様書を書いてシステムに渡しています。それで何とか間に合わせました。だが、消込はむずかしくなります。SRL本体から販売会計部の消込担当を一人もらわないと、処理できません。赤字なので人員増員を拒否されてます。ぐちゃぐちゃになるのを承知でほっておきました。上場企業ばかりですから、先方の用紙で納品伝票を上げているので、それを切らないというミスを、合弁会社の営業マンがしない限りは、大きな問題は起きないのです。消込がたいへんなだけ。合わない部分は利益を上げて、処理すればいいだけでした。
SRL東京ラボで、SRL本体の八王子ラボ移転を含むラボ移転構想が具体的な検討段階に入る寸前でしたから迷惑な話でした。SRL東京ラボのM輪社長とラボを移転する話はついて、土地を探すのに条件を言って不動産屋に依頼するところでした。
SRL社長は創業者の藤田さんから、慶応大医学部出身の近藤さんへ変わっていました。合弁会社の経営を任せるについて近藤さんからの要求は四つありました。
①期限通りに会社の立ち上げをすること
②赤字を黒字にすること
③帝人の臨床検査子会社を買収すること
④治験合弁会社の帝人本社持ち分を引き取り、SRLの完全子会社にすること
これら②~④を3年以内にやること。
近藤社長の了解をもらってから、SRLの経理担当役員(入社時の上司、当時は霧課長)に経理マンを一人出向させるように電話で話しました。Sが適任なので指名しました。「ebisuさん、自分でやればいいんじゃないか」、そういって渋りました。でも私に期待されたのは、4項目で、経理実務をやることではなかったのですが、84年に上場準備でシステム開発案件を含め経理部に課せられたすべての課題を消化したので、経理マンだと勘違いしたのでしょう。「わたしの役割は経理の仕事ではありません、近藤さんからいくつか直接指示を受けているので、必要なら近藤さんへ聞いてください。わたしの口からは言えません」、それで了解してもらいました。
問題は②でした。③と④は88年頃に染色体画像解析装置を3台、SRLで購入したときにある情報をつかんでいたので、いずれ③はできると踏んでいました。
治験部門の売上高総利益率は24%以下で、売上高20億円、社員数60人ですから、永久に黒字転換できません。売上高総利益率を30%以上にしないといけない。治験検査以外に新規事業分野を開拓する必要がありました。
半年ほど決算データと仕事を観察していて、治験データ管理分野に可能性があることがわかりました。武田薬品向けのデータ管理システムをベースにパッケージの開発をもくろみました。治験事業の古株のシステム担当のWから、ユニシスの見積もりが出てきました。三菱のオフコンとラインプリンタを使ったシステムを更新するために、機種を変えただけ、7000万円前後の見積もりでした。治験データ管理システムのパッケージ化をやるので、オフコンでは不可能、NTサーバーを導入する旨説明して、ユニシスとは手を切ると告げました。SRLシステム本部から若手のSEのK谷をもらったので、彼にNTサーバー管理を任せ、データ管理業務のM宅と東大応用生物統計のM野にパッケージ開発を任せました。1年後にはパッケージシステムで2億円、売上高総利益率はその分野では7割以上でしたから、赤字は免れました。
NTサーバーはラックマウントのもので、商品開発やデータ管理に使うので、ハードディスクはレイドアレイでした。プリンター類を合わせて5000万円かかっています。このときに、SRLの事業管理部のH本さんから、「過剰投資だ」という報告書があげられていました。旧知のH本さんでしたが、慣れない仕事でデータの読み違えをやっているだけでしたので、そのままにしておきました。データの背景を説明してあげたほうがよかったかもしれませんが、経営分析は推測統計学を使って数年やらなければとてもマスターできないので、あきらめました。売上20-25億円の規模でしかも赤字会社ですから、5000万円の投資は過剰だというのです、数字だけ見たらそういうことも言い得ます。経営分析をするときは、データに先入見をもってはいけないのです。先入見をもつと、その先入見に合致するデータだけをみて、先入見とは違う事実を表しているデータを見ないようになります。その結果判断を誤る。経営分析は自社のデータでやって、実際に自分でいくつか経営改善案を作成して、そのシミュレーションをし、そのシミュレーションが結果と合致するかどうかを繰り返し判断しないと、その妥当性が判断できません。推測統計学と芸術のミックスした領域にある技なのです。資金運用表がつけられていましたが、実際には資金状況は改善していました。スポットの数字だけ見て、その背景をみない、経理屋さんには無理なのだなあというのがその時の感想でした。何度も繰り返し痛い失敗をして自分で気がつくしかありません。S本をSRL経理部から出向させてわたしの下に置いたのは、そういう経理屋になってほしくなかったから、教育研修を兼ねてきてもらっていました。もう一人、S本と同じくらいの年齢で優秀な経理マンがいました。O君です。彼は無能な上司に嫌気がさしてSRLをやめて、ベンチャー企業に転職し、40歳前後で経理担当取締役になっています。同じ理由でエイベックスへ転職したT君がいました。国際経理課長だったかな。ゴルフの好きな男でした。どちらもSRL管理会計課では平社員、こういう有能な若手を育てるのが本当にへたくそでした。優秀な若手は、上司がどの程度仕事ができるのかを測ります。スキルが伸びないので、仕事のできない上司の下で仕事するのを嫌がりますから、いつまでも放置していたら、優秀な若手は転職します。人事部門が調整すればいいことですが、あたらしい制度を導入するばかりで、弱体でした。職能等級で役職をたらいまわししてただけ。たくさんありますが、まだ差しさわりがあるのでいちいち具体例を挙げるのはやめておきます。ひどかった。仕事ができなければ降格すべきでしたね。部長クラスでマネジメントができる人は稀でした。部長の成り上がりが役員ですから、もちろん役員も同じですよ。部長と役員を含めて、数人だけまともな人がいました。
(SRLは臨床検査業界ではをの技術レベルも売上規模も成長率もダントツのナンバーワンでしたが、最近はSRLは売上でBMLに負けています。その原因はこういうところ(人事機能のマヒ)にもありました。こんな状態を25年も放置したら、徐々に業績の伸びが止まっていくのは仕方のないことだと思います。BMLとの戦い方を間違えました。SRLは千葉に別会社で一般検査ラボをもっていましたが、そこを上手に使えたら、BMLの息の根をとめられた可能性があります。東北の臨床検査会社CC社との資本提携を1993年にやっていますが、そこを子会社化して、生産性を2倍にアップできたら、一般検査で東北市場でBML社にダメージを与えることができました。首都圏も同じ方式でよかった。金沢の臨床検査会社も買収も担当しましたが、そこも千葉ラボ方式でよかった。生産性を2倍にできれば、社員にSRL並の給料を支払って売上高経常利益率は15%を維持できました。特殊検査のガリバーだったSRLは一般検査会社の経営の仕方がわからなかった。それを強力な武器にするという戦略が描けなかったのです。わたしは、関係会社管理部で千葉ラボの新システム導入を担当したときに、対BML戦略としてここが拠点になると確信しました。新システムを導入し生産性が2倍を超えてシミュレーション以上の利益がでたとたんに、一番古い臨床検査子会社のSRL東京ラボと合併させてしまいました。東京ラボ社長のM輪さんが千葉ラボも兼務していたから、会社を一つにすれば面倒がないとでもSRL本社側で判断したのかもしれません。あれは重大な戦略ミスでした。千葉ラボの新システム導入を関係会社管理部で担当して半年ぐらいで、金沢の臨床検査会社の経営分析と買収を担当し、ついで東北の臨床検査CC社との資本提携交渉をまとめて、役員出向していました。出向していなければ、関係会社管理部で、対BML戦略で千葉ラボ方式が武器になることを説明して、吸収合併はさせなかったでしょう。当時は課長職でしたがそれぐらいの力はありました。副社長のY口さんの信頼が厚かったので動かせました。Y口さんは、陸士と海士に合格し、陸士へ行った人です。戦後はちゃっかり東大へ入り直して、富士銀行へ勤務、支店長職を経て、上場前のSRLへ専務取締役で出向してきた人です。面白い人でした。上場前の経理部門の課題を全部解決し、都立病院ドクターへの贈収賄事件で売上の伸びが止まった時にも、検査試薬のコストカットを提案して、購買課長が不可能というので、提案者のわたしに「言い出しっぺのお前がやれ、プロジェクトチームを作ってやるから」とわたしに仕事を振ってきました。実際にやって見せ、16億円カットしたので、わたしの提案すること、やることに反対しません。全部OKでした。2か月だけのプロジェクトでしたが、効果が大きかったので、翌年もやらせようと購買課へ異動辞令が出ました。これは寝耳に水でした。わたしでなければやれないと思ったのでしょう。異動して1年目くらい(86年か87年)に八王子ラボで、外口監査役にラボバスで一緒になりました。「ebisuさんいまどこにいるの?」「購買です」「そうか購買部長か」「いいえ、平社員です」と答えたら、絶句していました。外口さんは親会社の富士レビオの経理部長をしていた人です。上場準備の経営統合システムの核の部分とインターフェイスを8か月で本稼働した仕事もそばで見ていましたし、固定資産台帳の整備や投資・固定資産管理システムをつくり、棚卸実務マニュアルをつくったのも、検査試薬のコストカットをしたのも監査役として全部見ていましたから、当然購買部長だろうと考えたようです。親会社の富士レビオならそういう人事になるということ。あきれてましたよ。入社1年後に、初代の管理会計課長として富士銀から出庫してきていたI本さんが人事へ申請してますが、上場準備で一番後に入社したわたしが一番最初に課長になるのはダメだと人事部門が反対したと聞きました。ほんとうだとしたらアホな話です。仕事と昇進がまったく関係ない会社でした。)
製薬メーカ向けの治験データ市場は小さいので、そこをまず固めるのが第一段階。次は病院の治験データ管理システムに狙いを定めました。情報を収集していると、東京のある国立大学の治験管理スステムが暗礁に乗り上げ、応援要請が来ているとのこと、担当役員として挨拶に行って、無償での全面支援を約束しました。1年後にはうまく動いてました。なぜそんなことをしたかというと、病院のニーズが知りたかったからです。製薬メーカ向けの治験データ管理システムとはニーズが違うので、仕様が異なります。絶好の勉強の機会だったのです。それに製薬メーカ向けに比べて、病院向けの治験だーた管理システム市場は数十倍の規模ですから、データ管理業務だけで、合弁会社の社員にSRL以上の給料を支払ってやれます。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の中にはその企業で仕事する社員や準社員も入っています。
合弁会社を立ち上げて2年目には治験の管理基準のGLPが改正されて、治験売上が激減しています。データ管理業務にシフトしていなかったら、アウトだったでしょう。
メインバンクは管理部門の担当がわたしだったので、帝人側のメインバンクである三和銀行にしてます。SRLはみずほ銀行で、西新宿支店(支店長は取締役)。両方の銀行へ決算報告をしていました。経理担当のSを伴なっていってました。資金管理実務は大事ですから、銀行交渉を経験してもらおうとの算段でした。2年目の決算に三和銀行本店へ出向きました。応接室に通されて、決算報告をすると三和銀行の営業部長は「親会社の保証なしでいくらでも貸付します、前回の決算報告の時に聞いた収益りあげていどだった見通しを上回っています、来年も予算以上の利益をだすでしょうから」、そう言ってくれました。「無制限ということはないでしょう、ほんとうに親会社の担保もなしでよろしいのですか?」と訊くと、「わたしの決裁で10億円まではOKです」。ありがたかった。運転資金が年間売り上げの1/12、つまり月平均売上程度だったので、インパクトローンで金利1%で1億円お付き合いで借入しました。相棒のSにやり方を指示して体験してもらいました。
SRLの近藤社長から指示された四つの課題は全部3年以内にクリアしています。
帝人の臨床検査会社買収交渉をする寸前のことでした、帝人のI常務から、帝人の臨床検査会社を治験合弁会社の子会社にして、両方の企業の社長をしてもらいたいと申し入れがありました。SRLの近藤社長にはその旨伝えましたが、SRLの社内ルール(職能等級制度)上、次長職は子会社の社長職にはなれないのです。そして有力子会社社長はSRL本体の役員ポストでもありました。近藤さんは役員の中では社歴が一番若いので、無理を通すことはできないとわかっていました。帝人の臨床検査子会社を黒字にする具体案はありましたが、わたしが経営するのでなければ無理、近藤さんにはリストラしかないと告げました。帝人本社が社員の就職斡旋をしていましたが、かわいそうでしたね。救う方法があった。7年までに実証済みでした。
近藤さんにお約束した4項目は期限内に全部クリアしたので、16年間勤務したSRLを退職して、老人医療で新規事業をやるために、首都圏のある特例許可老人病院を療養型病床へ建て替え・転換する仕事を引き受けました。300ベッド弱の病院から、常務理事で来ないかと、半年以上前からお誘いがありました。
SRLでは実にいろんな仕事を担当させてもらった愉しい16年間でした。
<エビソード:帝人との縁>
産業用エレクトロニクス輸入商社関商事(上場時にはセキテクノトロンへ社名変更、三代目社長になって2010年頃業績不振で他者へ吸収合併されて上場廃止)で統合システム開発を単独で開発していた時に、オーナー社長の関周さんが重大な約束違反をしました。電算化推進委員会メンバーの総意で、やめてもらうように交渉し、社長がOK出していましたが、破られました。それで12月初旬に辞表を書きました。1月いっぱい引継ぎをしましたが、1日だけお休みをもらいリクルート社で就職の斡旋のためのSPI試験と面接を受けました。7ランクの最高ランクの結果でした。「5年たったら再就職のつもりがなくても、また来てください、偏差値が上がっていますから」、そんなお誘いを面接官から受けました。提示されたファイルには優良会社が並んでいました。興味を引いたのは半導体製造会社のフェアチャイルドジャパン、経理課長で850万円、プレジデント社と臨床検査センターのSRLの3社でした。SRLが給料が一番安かったのですが、5年間の決算書を見て成長性の高い、そして高収益企業だったので、SRLに決めました。上場準備中というところも魅力でした。
関商事をやめて1週間ほどで、総務部長が日商岩井の子会社で課長職で斡旋できるがどうかという電話をもらいました。日商岩井を退職して関商事へ再就職した方でした。営業部長からも電話をもらい、同期が帝人エレトロニクスにいるので課長職で紹介できると申し入れがありました。退職した翌週からSRLで仕事していたので、丁重にお断りしました。「そうだろうな」って、仰ってました。2週間後にオービックのSEのS澤さんから電話をいただきました。「うちの取引先の輸入商社が20社ほどあるので、一緒に仕事をしませんか?」というお誘いでした。輸入商社向けの為替差損の発生を回避できる経営統合システムは需要があったのです。SRLは当時西新宿のNSビル22階に本社がありました。「超高層ビル」は当時は少なかったので、一度そいうところで仕事したかったのもSRLを選んだ理由かもしれません。オービックさんは西新宿の三井ビルに本社がありました。そこから電話をいただいたのです。「もう近くで仕事してます」とお断りしました。もっと早く連絡いただいていたら、超高層ビルで仕事のできるオービックへ転職していたかもしれません。S澤さんはほどなく取締役になっています。開発担当取締役、優秀なSEでした。彼からずいぶんとスキルを盗ませてもらいました。専門書を読んでいただけではスキルは身につかないのです。良質の仕事をこなすことで、そして自分よりもスキルの高い人と一緒に仕事することで、技術のコピーが可能になります。S澤さんのつぎにお付き合いしたのは、日本電気情報サービスのSEのT島さんでした。関商事社長の関周さんが、コンピュータを三菱電機から日本電気の汎用小型機に変えるにあたり、トップクラスのSE派遣を条件にしてくれました。お陰で、この二人のいいとこどりが可能になりました。
財務会計分野、原価計算を含む管理会計分野、システム開発分野、外国為替、マイクロ波計測器、臨床検査などの業務知識と経験と積んだので、経営情報システム開発に関しては、国内トップクラスのSEよりもすこしスキルが上になっていました。さまざまな専門分野の知識と実務経験からたしかな実務設計ができることがわたしの強みでした。システム化すると実務がまったく違ったものになります。そうでないと意味がありません。従来の実務をそのままコンピュータに載せるなんて愚の骨頂です。実務のほとんどが消滅し、生産性が数倍にならなければシステム化の意味がありません。
SRLに入社してからは1年半の間、NCDさんのSE3人と一緒に仕事してました。彼らもその分野では国内トプレベルでした。M山さん(すぐに取締役に就任)、T本さん(独立起業)、N口さん(女性:結婚退職)の三人。N口さんの後任のSE(女性)も優秀でした。彼女の下でメンテナンス部隊を取りまとめていたU田さんもいいSEになっています。優秀な人たちと大きな仕事をすれば、スキルは伸びます。だから、これから伸びる人たちとも一緒にお仕事して恩返し。
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製薬メーカ向けの治験データ市場は小さいので、そこをまず固めるのが第一段階。次は病院の治験データ管理システムに狙いを定めました。情報を収集していると、東京のある国立大学の治験管理スステムが暗礁に乗り上げ、応援要請が来ているとのこと、担当役員として挨拶に行って、無償での全面支援を約束しました。1年後にはうまく動いてました。なぜそんなことをしたかというと、病院のニーズが知りたかったからです。製薬メーカ向けの治験データ管理システムとはニーズが違うので、仕様が異なります。絶好の勉強の機会だったのです。それに製薬メーカ向けに比べて、病院向けの治験だーた管理システム市場は数十倍の規模ですから、データ管理業務だけで、合弁会社の社員にSRL以上の給料を支払ってやれます。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の中にはその企業で仕事する社員や準社員も入っています。
合弁会社を立ち上げて2年目には治験の管理基準のGLPが改正されて、治験売上が激減しています。データ管理業務にシフトしていなかったら、アウトだったでしょう。
メインバンクは管理部門の担当がわたしだったので、帝人側のメインバンクである三和銀行にしてます。SRLはみずほ銀行で、西新宿支店(支店長は取締役)。両方の銀行へ決算報告をしていました。経理担当のSを伴なっていってました。資金管理実務は大事ですから、銀行交渉を経験してもらおうとの算段でした。2年目の決算に三和銀行本店へ出向きました。応接室に通されて、決算報告をすると三和銀行の営業部長は「親会社の保証なしでいくらでも貸付します、前回の決算報告の時に聞いた収益りあげていどだった見通しを上回っています、来年も予算以上の利益をだすでしょうから」、そう言ってくれました。「無制限ということはないでしょう、ほんとうに親会社の担保もなしでよろしいのですか?」と訊くと、「わたしの決裁で10億円まではOKです」。ありがたかった。運転資金が年間売り上げの1/12、つまり月平均売上程度だったので、インパクトローンで金利1%で1億円お付き合いで借入しました。相棒のSにやり方を指示して体験してもらいました。
SRLの近藤社長から指示された四つの課題は全部3年以内にクリアしています。
帝人の臨床検査会社買収交渉をする寸前のことでした、帝人のI常務から、帝人の臨床検査会社を治験合弁会社の子会社にして、両方の企業の社長をしてもらいたいと申し入れがありました。SRLの近藤社長にはその旨伝えましたが、SRLの社内ルール(職能等級制度)上、次長職は子会社の社長職にはなれないのです。そして有力子会社社長はSRL本体の役員ポストでもありました。近藤さんは役員の中では社歴が一番若いので、無理を通すことはできないとわかっていました。帝人の臨床検査子会社を黒字にする具体案はありましたが、わたしが経営するのでなければ無理、近藤さんにはリストラしかないと告げました。帝人本社が社員の就職斡旋をしていましたが、かわいそうでしたね。救う方法があった。7年までに実証済みでした。
近藤さんにお約束した4項目は期限内に全部クリアしたので、16年間勤務したSRLを退職して、老人医療で新規事業をやるために、首都圏のある特例許可老人病院を療養型病床へ建て替え・転換する仕事を引き受けました。300ベッド弱の病院から、常務理事で来ないかと、半年以上前からお誘いがありました。
SRLでは実にいろんな仕事を担当させてもらった愉しい16年間でした。
<エビソード:帝人との縁>
産業用エレクトロニクス輸入商社関商事(上場時にはセキテクノトロンへ社名変更、三代目社長になって2010年頃業績不振で他者へ吸収合併されて上場廃止)で統合システム開発を単独で開発していた時に、オーナー社長の関周さんが重大な約束違反をしました。電算化推進委員会メンバーの総意で、やめてもらうように交渉し、社長がOK出していましたが、破られました。それで12月初旬に辞表を書きました。1月いっぱい引継ぎをしましたが、1日だけお休みをもらいリクルート社で就職の斡旋のためのSPI試験と面接を受けました。7ランクの最高ランクの結果でした。「5年たったら再就職のつもりがなくても、また来てください、偏差値が上がっていますから」、そんなお誘いを面接官から受けました。提示されたファイルには優良会社が並んでいました。興味を引いたのは半導体製造会社のフェアチャイルドジャパン、経理課長で850万円、プレジデント社と臨床検査センターのSRLの3社でした。SRLが給料が一番安かったのですが、5年間の決算書を見て成長性の高い、そして高収益企業だったので、SRLに決めました。上場準備中というところも魅力でした。
関商事をやめて1週間ほどで、総務部長が日商岩井の子会社で課長職で斡旋できるがどうかという電話をもらいました。日商岩井を退職して関商事へ再就職した方でした。営業部長からも電話をもらい、同期が帝人エレトロニクスにいるので課長職で紹介できると申し入れがありました。退職した翌週からSRLで仕事していたので、丁重にお断りしました。「そうだろうな」って、仰ってました。2週間後にオービックのSEのS澤さんから電話をいただきました。「うちの取引先の輸入商社が20社ほどあるので、一緒に仕事をしませんか?」というお誘いでした。輸入商社向けの為替差損の発生を回避できる経営統合システムは需要があったのです。SRLは当時西新宿のNSビル22階に本社がありました。「超高層ビル」は当時は少なかったので、一度そいうところで仕事したかったのもSRLを選んだ理由かもしれません。オービックさんは西新宿の三井ビルに本社がありました。そこから電話をいただいたのです。「もう近くで仕事してます」とお断りしました。もっと早く連絡いただいていたら、超高層ビルで仕事のできるオービックへ転職していたかもしれません。S澤さんはほどなく取締役になっています。開発担当取締役、優秀なSEでした。彼からずいぶんとスキルを盗ませてもらいました。専門書を読んでいただけではスキルは身につかないのです。良質の仕事をこなすことで、そして自分よりもスキルの高い人と一緒に仕事することで、技術のコピーが可能になります。S澤さんのつぎにお付き合いしたのは、日本電気情報サービスのSEのT島さんでした。関商事社長の関周さんが、コンピュータを三菱電機から日本電気の汎用小型機に変えるにあたり、トップクラスのSE派遣を条件にしてくれました。お陰で、この二人のいいとこどりが可能になりました。
財務会計分野、原価計算を含む管理会計分野、システム開発分野、外国為替、マイクロ波計測器、臨床検査などの業務知識と経験と積んだので、経営情報システム開発に関しては、国内トップクラスのSEよりもすこしスキルが上になっていました。さまざまな専門分野の知識と実務経験からたしかな実務設計ができることがわたしの強みでした。システム化すると実務がまったく違ったものになります。そうでないと意味がありません。従来の実務をそのままコンピュータに載せるなんて愚の骨頂です。実務のほとんどが消滅し、生産性が数倍にならなければシステム化の意味がありません。
SRLに入社してからは1年半の間、NCDさんのSE3人と一緒に仕事してました。彼らもその分野では国内トプレベルでした。M山さん(すぐに取締役に就任)、T本さん(独立起業)、N口さん(女性:結婚退職)の三人。N口さんの後任のSE(女性)も優秀でした。彼女の下でメンテナンス部隊を取りまとめていたU田さんもいいSEになっています。優秀な人たちと大きな仕事をすれば、スキルは伸びます。だから、これから伸びる人たちとも一緒にお仕事して恩返し。
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2023-01-05 22:02
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