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#2350 28度炎天下の中学校体育祭と48年前の暑い夏の思い出  July 8, 2013 [85.サイクリング]

  ずっと雨が降り続いていたが、昨日から晴れで今日は特別暑かった。東京は35度もあったようだが根室も合同庁舎前の温度表示板が3時少し前に28度だった。7月初旬に28度というのはメッタにないことだろう。

【中学校の体育祭】
 今日はA中学校とB中学校の体育祭だった。あの夏と同じ28度の晴天、風は少しあった。目の前になるA中学校グラウンドで応援団風のマス演技をみてから、B中学校へロードバイクに乗って出かけた。
 名物競技の「足並みそろえて」を1年から3年生まで全部見た。双眼鏡でみたがひとりだけ見つけられない生徒がいた。3年女子は2組が勝った。男子は1組だったかな?

【牧の内サイクリング】
 そこまで見てから、牧の内の「サイクリングコース」へ回った、2時40分頃。26km走った。

 <今週の走行距離>
 ロードバイク 26km (累計1504km)
 MTB 4km (累計719km)

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ーーーなが~い余談ーーー
【48年前の暑い日の不幸な事故】
 28度の気温で思い出すのは1965年の7月のこと、あの根室高校の体育祭最終日の約千人の全校マラソン大会での出来事。
 男は20km、女は10kmだった。グラウンドからスタートし坂を下がって、トモシリの1kmの長い坂をあえぎながら上る。ゴルフ場の前を通り過ぎ、牧の内のT字路を左折。ここが男子と反対方向に走った女子の折り返し地点になっている。当時の牧の内は舗装がなされていない道だった。ところどころ道の両側に低い木が生えていて、風がまったくない場所があり、空からは陽が容赦なく照りつけていた。わたしは途中の牧場で友人達を誘っておいしい井戸水を数回、2リットル近くも飲み、胃は水でだぶだぶ、「暑くてやってられない、水飲むぞ」、そして2時間の制限時間を15分も遅れてしまった。クラス対抗でマラソンの配点が大きかった。「時間外」は減点となるので、死にそうなくらい暑くて熱中症になっても走り続けた者たちがいた。いまだから熱中症なんて書くが、当時はそういう言葉すらなかった。
 当時は走れなくなるから水は飲むなというのが常識だったし、先生たちもそのように指導していた。だから言いつけを素直に守って走りきった女子がゴール寸前でバタバタ倒れてしまった。十数人倒れ意識不明になり、市立根室病院へ救急車で運ばれた。1学年下でぴかぴかの新入生だったわが女房殿も10番以内で走っていてゴールが見えた途端に意識がなくなった。熱中症であやうく死ぬところだった。
 結局、一人が意識が戻らず亡くなってしまった、かわいそうだった。事故だっただろうが判断に甘さもあったし、指導理論も間違っていた。後からはそんなことは言えても、あの暑い日にマラソンを中止しようとか、水を飲んでいいぞと言った人はいなかった。
 根室では例年見ないほどの炎天下にマラソン大会を「強行」した責任を問われたのか、痩身の校長は翌年転任、あらたに体育系の太っ腹のN校長が赴任してきた。根室高校の校歌変更はこういうタイミングのときになされた。校歌の変更は作詞家と作曲家へ仕事の依頼がなされたはずだからN校長が転任してくる前に決まっていたことだっただろうが、なんとなくあの「新校歌」と強引なN校長が好きになれなかったのは、暗い記憶があったからだろう。

【校則改正と総番制度の廃止】
 そのころの根室高校は校則改正の「ミニ学生運動時代」の様相を呈していた。学生運動のあるセクトに属していた先生が「時事問題研究会」をつくって何名かの生徒に影響力をもち始めていた。T先生と数名の先輩や同級生十数人で長節湖でキャンプしたことがあったが、生徒会顧問でもあったT先生、元気だろうか?
 その一方である政党の専従が3年生の総番グループにオルグをかけるという世にも珍しい状況が現出していた。そのときの専従は数年前に市議を退職した。
 根室高校は生徒会という「表看板」の自主管理組織と総番制度という「裏看板」の自主管理組織があった。一人の人物が両方に属するということはなかった。
 3年生の総番グループとの揉め事があったこと、そして2年生に総番制度を引き継ぐ人材のいなかったことなど、たまたまいくつかのことが重なり、数十年続いていた伝統の総番制度を時代の勢いで廃止したのだが、当然反対の者たちがいた。この件では局外者であった友人のAが重要な役割を果たした。たまたま必要な人が数人そろってしまったとしか言い様がないが、わたしはその偶然に「天の意志」を感じた。
 わたしたちが2年生のときに、3年生と2年生の7対13の決闘事件があり、北海道新聞に載ってしまった。全員一週間の停学あるいは自宅謹慎を喰らったのではなかっただろうか。自宅謹慎だから寂しかろうと、処分組みの一人である羅臼出身の友人の下宿で、テスト前だというのに毎晩11時頃まで花札をして遊んだのを覚えている。1年から卒業までずっと同じクラスだった。テストの成績はいつもどおりだった。授業の後の数分間、瞑想しながら黒板に書かれた事柄を画像として記憶するだけだったから、毎晩11時まで花札をして遊んでいても成績に影響はなかったのである。「ほんとうに勉強しないであの成績なんだ」と花札をして遊んだあいつが驚いていた。毎日家業のビリヤード店を手伝っていたから夏休みや冬休み、春休み以外はまとめて勉強する時間などなかったのである。画像による記憶は、ビリヤードの勉強法を応用した苦肉の策だった。

 長い歴史をもつ総番制度を自ら潰すことに逡巡はあったに違いない、それでも諸般の事情を冷静に判断して廃止を曲げなかった総番長のあいつが偉かった。地元から見ると「外資系企業」の取締役根室支店長、勉強はあまりしなかったが人望があつかった、あいつも大事な友人の一人である。高校卒業した3月下旬になって、東京の代々木ゼミに行こうと急に誘われて驚いたが、一もニもなく快諾、東京では時折酒を飲んだ。同じクラスで副番だったMと三人のこともあった。高円寺は懐かしい。
(高校2年生から始めた公認会計士2次試験の受験勉強、わたしは地元金融機関に勤めて2次試験を受験するつもりだった。大学進学を決めたのは3年生の秋だ。
 高校受験時は独学で公認会計士の資格を取るつもりでいたから、根室高校は商業科を選択した。中学の担任の先生がモウレツに反対して親を呼び出し、普通科への進学を勧めてくれたが、わたしはガンとして意志を変えなかった。「この子は大学へ進学する子だ」とY先生は母親に話したそうだ、結果はその通りになったから、Y先生には頭が上がらなかった。よく見ていてくれたのだと思う。高校生のときに温根元小学校に夫のY先生と赴任された。仲間十数人を誘ってトサブへキャンプに行った帰りに寄ったら喜んでくれた。Y先生はわたしがふるさとに35年ぶりに戻って私塾を開いたこともたいへん喜んでくれた。そして4年後に心臓にペースメーカーを入れて数か月後に亡くなった。
 副担任のH先生は私が癌を発病した頃、やはり癌になり、薬の治療をやめて自然にまかせていた。そして3年ほど前に亡くなった。学校を卒業してすぐに副担任だったから5つか7つぐらいしか歳がはなれていない。同じ癌仲間、パン屋のヤママンでよく遭うことがあった。遭うたびに笑顔で「がんばろうね」と言ってくれた、「先生もね」、その都度笑顔で応じた。)

 「男子丸坊主頭」の校則改正や総番制度廃止は一連の動きだった。知っている者は当事者と関係者のごく小数、面白い時代だった。
 断っておくがただのワルでは総番になれなかった。三人いた副番もだ。三人の内二人は大学進学。一人は50前後で某有名企業の取締役東京支社長だった。同じ大学へ進学したこともあって、東京支社長になってから同窓会の後銀座で二人だけで飲んだ。楽しく子供の話をしたような気がする。
 5つ上の総番は野球部のキャプテンだった。そこまではヤクザ屋さんがやる「仁義」のきり方まで伝承されていた。「お控えなすって、さっそくお控えくださってありがとうござんす、手前生国発しますところ・・・」、台詞を間違えたら殺されても文句は言えぬと完璧に憶えていた、歴代の総番はずいぶん練習したのだろう。こんな台詞はヤクザ屋さんと揉め事が合ったときにしか要らないだろうから、長い歴史のなかにはそういうトラブルがあったということだろう。高校生になったときに、5つ先輩のご当人が目の前でやって見せてくれた。折りたたまれた古い紙切れに書き付けられたその口上書をもらったような気もするが、どこかに消えた。あの仁義を聞いたのは私が最後だったかも知れぬ。その人がっ高下駄を履いて先頭を歩き、後ろに目つきの鋭い者が7~8名ほどつきしたがって歩いていたのを中学生の頃に何度か見ている。ほんとうはとっても気の優しい人だったが、子分を従えて歩いているときは偉そうだったな。外部と何か揉め事があった場合には、小さなトラブル(喧嘩)なら副番が出る、大きなトラブルなら総番が根高を背負って立つのが暗黙のルールだった。子分を従えるにはそれ相応の覚悟が必要で、総番としての権限と責任は裏腹の関係にあった。後輩達に歴史の重みに耐えうる人材がいなくなったことはことにかかわった数人に共通の認識だった。その崩れをみごとに見せてくれたのが1学年上の総番グループだった。そのまま続けたら、もっと始末に終えぬことになるから、廃止した。最後まで意志を貫き通した、じつに辛抱力のある男だった。根高野球部は野球は強くなかったが、総番制度の伝統を守る上では重要な役割を果たしていた。
 男子校根室商業の伝統を受け継いだ根室高校は、団塊世代が高校生だったあのころまではバンカラだったといえるだろう。
 一番違いを感じるのは、損得勘定を抜きにしてまっすぐに生きることの大切さが軽視されているようにみえることと辛抱力が小さくなったこと。

 「敢為和協」が根室高校の校訓である。


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【月のウサギ-2】
 #2349でとりあげた『月のウサギ』の話しは『今昔物語』に出ている。本棚を探したら文庫本がありあらためて読み返してみた。『月のウサギ』は巻五第十三話にある。ここに出てくるのはウサギとキツネとサルの三匹でカワウソが出てこない。
 もうひとつ大きな違いがある。ウサギが焼け死んでしまうのである。『仏典童話』の訳者はパーリー語の原典に忠実に訳したのだろうか、それとも子供たちに聞かせるために結末を穏やかなものに書き改めたのだろうか。真偽のほどは定かではない。
 読者からのクレーム殺到で残酷なお話しの結末を、第4版から子供向きのソフトなものに書き改めたグリム童話を髣髴とさせる。

「そのときに、帝釈天、もとの形に復して、この兎の火に入りたる形を月の中に移して、あまねく一切の衆生に見しめむがために、月の中に籠め給ひつ。しかあれば、月の面に雲のようなる物の有るは、この兎の火に焼けたる煙なり。また、月の中に兎の有るといふは、この兎の形なり。よろづの人、月を見むごとにこの兎のこと思ひ出(い)づべし。」角川ソフィア文庫39ページ

*#2349 七夕の朝の朗読 「月とウサギ」(仏典童話より) July 7, 2013  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-07-07
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今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

今昔物語集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2002/03
  • メディア: 文庫


 岩波文庫の『今昔物語』は訳がついていない。しかし、脚注があるので大人にはこちらのほうを薦めたい。原文はむずかしくないので、脚注で確認しながら十分楽しめる。

今昔物語集 全4冊セット (岩波文庫)

今昔物語集 全4冊セット (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/07/09
  • メディア: 文庫

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