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#2274 オヤジと靖国神社 Apr. 26, 2013 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 オヤジは落下傘部隊員だった。親兄弟にも所属を明かせない秘密部隊である。戦後すぐに落下傘部隊員が戦犯に問われるという噂が流れ数枚の写真を残して部隊関係の写真を焼いた。貴重な写真が数枚残っている。

 神話になぞらえて、「空の神兵さん」「高千穂降下部隊」などと呼ばれた。訓練基地は九州宮崎県だった。訓練で東京・千葉はもとより土浦まで何度か飛んでいる。当時の輸送機は時速180~200km、新幹線より遅い速度である。500mくらいの高度から眺める日本の風景は美しかったと述懐していた。

 戦争宣伝用の映画「加藤隼戦闘隊」を撮ったときの降下訓練で主導索に腕を引っ掛けて右腕複雑骨折、なんとか着地できて命拾いをした。
 戦友たちを九州で見送っている。行き先は秘密だから訊いても戦友たちは答えるはずがないし、訊きもしない。ギブスをした上がらぬ腕を包帯でつったまま、左手で敬礼して機影や船が見えなくなるまで佇んでいたのだろう。

「靖国で会おう」

 戦後ずいぶんたってから、本を読んで自分の部隊が散り散りに南方へ送られ玉砕していることを知る。「空の神兵」たちは現地部隊の戦意高揚に利用され、死んでいった。後続部隊のないまま3日間だけ飛行場を占拠して散っていった者たち、落下傘部隊でありながら制空権を失い飛行機にすら乗れずにジャングルを転戦して死んでいった者たち。

 あれは大腸癌の手術をした後だっただろうか、その前だっただろうか、オヤジが何度目か、最後に東京へ遊びに来たときにこう言った。

「靖国へいってくる」

 あのときはついていくと言えなかった。息子であっても立ち入れない領域がある。

 最初の手術から2年後の再手術は「アケトジ」だった。癌は全身に転移していて、手の施しようがなかった。肝臓をお腹の上から触ると板のように硬かった。2ヶ月後に体調が少しよくなり、散歩してくると言った。すこし時間をおいてから自転車に乗って近所を走ったら、総合文化会館のところで帽子のつばをちょいと手で上げて空を見ている男がいた。しぐさが親父に似ていたので近づいたら、親父だった。こんなところまで歩いてきているとは思わなかった。

「戦友たちは結婚もしなかった、子どもも残さなかった、俺は幸せだ、結婚もしたし、子どももいる」

 まるで戦友たちができなかったことを数十年かけて自分が替わってやりとげたかのような言い方だった。事実そうだったのだろう、心の奥底にそういう気持ちがずっとあったのだ。わたしはオヤジとオフクロが夫婦喧嘩をしている姿を一度も見たことがない。あたりまえのように思っていたが、結婚してみてできないことだとわかった。

 安倍総理大臣の発言、そして靖国にかかわる行事への天皇出席要請問題で靖国神社がまた話題になっている。靖国神社がテレビの画面に映るとき、「遊就館」という附属の施設が紹介されることがあるが、あれはまことに似つかわしくない施設のように私には思える。靖国神社は霊鎮(たましずめ)の静謐な場所であってほしい。

 オヤジが亡くなった翌年の春のことだったと記憶するが、勤務している会社の営業本部が市ケ谷にあった。あの時は関係会社管理部に所属していたが、桜がきれいなので昼休みに見にいこうということになって数人と出かけた。
 一礼して神社の鳥居をくぐった途端にドーンと胸に迫るものがあった。話しを聞いていただけの私ですら湧きあがる感情を抑えるのが苦しいくらいだから、オヤジは一人できてどんなに心を揺り動かされただろう。しばらく佇んで、歩くことすらできなかったのではないだろうか。
 靖国の話しは聞けなかった。どのような心情だったのかは聞く必要もなかった。

 オヤジがなくなった後、靖国神社から寄付の礼状とともに金製の杯が贈られて来た。癌は告知していなかったが二度目の手術が効のないものであったことは分かっていたようだ。
 術後半年間だったが、なんどか酒を一緒に飲むことができた。創業百周年に北の勝がだした大吟醸酒「北龍」3本の最後の一本があった。数年冷暗所に寝かしていたから熟成してうまい酒だった。オヤジと飲んだ最後の酒となった。

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Hirosuke

戦艦【大和】乗組員の孫として、
また【元・TEPCO関係者】として、
さらに【被災者】として。

僕も知り得る限りを尽くして、
物語を書き続けます。

by Hirosuke (2013-04-26 23:25) 

ebisu

Hirosukeさん、おはようございます。

戦時中の話しを直接話しを聞いた者として、そうした話しのいくつかを書き残す義務があるような気がしています。

結婚もせず、子供も作らず散っていった者たちの中には、ふるさとに住む両親や幼馴染や長じてからの友人達ややさしくしてくれた親戚の人々やらふさとの風土や日本の文化、いろんな人や物を守るために散っていった名もなき兵たちがたくさんいました。
アジアは帝国主義の狩場と化し、世界は白人支配の下、有色人種の国々は植民地化されあえいでいました。

日本があの戦争を起こさなければアジアの国々の独立はもっともっともっと遅かったでしょう。

戦争を経験した者から直接聞いた話しの一端を次の世代に語り継ぐことが私流の「霊鎮」、せめてその真似事ぐらいにはなるように感じます。

>戦艦【大和】乗組員の孫として、
>また【元・TEPCO関係者】として、
>さらに【被災者】として。

>僕も知り得る限りを尽くして、
>物語を書き続けます。

書くことや読むことで散っていった者たちの思いを自分の身体の中に流してみる、そうすることで調べを奏でる琴線が私たちの心の中にしっかりある。
清々しい音をたてながら共鳴の輪が広がってほしい、ささやかな願いです。
by ebisu (2013-04-27 08:41) 

まみ

こんばんは、お久しぶりです。

私の年齢で戦争のことを興味深く思ってる人はそうそういませんね。私は右寄りと勘違いされますけど、勿論そんなことはないんですが。今の人は右左分けたがりますね。

両親が今月東京に行くことになりまして、父が改めて靖国に行きたいと申し出たので、微力ながらパンフレットやホームページの記載事項を改めて拝見しました。父も70を過ぎて、行ける機会を考えたのだと思います。私も戦中派の父に育てられたので、子供の時から戦争の展覧会などに連れていかれていました。昔はイオンや図書館などで毎年開かれて居たものですが、会員の方がお年を召されたせいか、最近はなくなりましたね。当時、私は父の受け売りですが、どこそこに防空壕があって、誰々さんが亡くなって…と知っていたので、周りからは少々気味悪がられていましたが…。

今は全く戦争中のことなど、考えると言うか、空想ですら分からないようですね。今の戦争はなるべく民間人に被害が及ばないように…と言う配慮がなされてますが、あの戦争は女子供関係なく民間人(あの戦争でどこまでが民間人かは線引きは難しいでしょうが)が犠牲になった空襲が多かったですし。祖父母世代でも戦争の知らない世代になってしまっては語り継いでいくのもままならない気がします。

遊就館、私は好きですが、あれは神社とは別物ですね。ついでに作ってしまったような気がします。ただ、展示してあるもの(花嫁人形など)は是非、若い方達には見てほしいと思います。

私の祖父は東京から逃げて(騙されては居ましたが)来た人でした。日中戦争には召集されて、中国に行っていました。なまじ戦争を知っている人間ですから、召集する前に捨てて来たのかもしれません。若い時はそんな祖父を恥じていました(そう思うことが右寄りとなのかもしれまんが)。しかし、家庭を持ってからは、家族を守るため、騙されてまで北海道へ入植した祖父を思うと、それも生きる知恵だったのかもしれません。現に祖父の家は東京大空襲のど真ん中に有りましたから、誰一人生きてはいなかった可能性もあります。

私はまだ戦争体験者が多かったので、自分の中では語れますが、自分が体験したことではないので、そこに重みはありません。多楽島出身で島を追われた祖母を持ち、もう片方の祖父は戦争から逃げ、そういう血筋が戦争に興味を持つのが必然だったのかもしれません。

もう戦地に行かれて存命の方は高齢ですね。また、思い出したくなくて語らずにいらっしゃる方も多いですね。でも、この薄っぺらくなってしまった日本には戦時を体験した方達の意見は大切なのかもしれません。もう手遅れかもしれませんが、あの戦争は何が原因で初めて、何が原因で敗戦したのか、を先勝国目線ではなく、当事者として授業で教える義務があったのかもしれません。小学校は記憶になく、中学校もたった1時間で戦争の始まりから戦後まで、高校じゃそこまで行き着かない日本史…

じゃないと、靖国の存在意義は分からないと思います。ただの神社にお詣りしたくらいで何を騒いでいるんだろう?くらいだと思います。

長々と書いてしまい、申し訳ありません。
by まみ (2013-05-02 22:32) 

ebisu

まみさん、こんばんわ。

貴重なコメントありがとうございます。
お祖父さんが日中戦争で召集されたのですか。
お祖母さんが多楽島の引揚者。

まみさんもわたしも戦後に生まれ戦争の体験はありません。
私たちは親や祖父母が戦争を体験し、直接話しを聞いています。
私たちがしなければならないことは、直接聞いた話しを何らかの記録に残したり、次の世代に伝えることかもしれませんね。

わたしは東京に35年間もいたのですが、靖国神社には一度しかいってないんです。
桜の見事な時期にいって、花びらが舞う中に足を踏み入れ、胸が詰まる思いをしました。
メッタに足を踏み入れてはいけないところという気がします。
いつかもう一度だけ行くつもりです。

by ebisu (2013-05-03 00:30) 

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