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#5143 黒澤明監督「生きる」 Jan. 8, 2024 [A8. つれづれなるままに…]

 NHKBS放送で標記の映画を見た。「生きる」は1952年に公開されたモノクロ映画である。
 主演は市民課長渡辺勘治役で志村喬、彼はこの映画の2年後に「七人の侍」でも島田勘兵衛役で主演している。

 体調が悪く病院で診察を受けると、胃潰瘍と主治医はいうが、じつは胃癌に罹っている。本人は診察前に隣に座って順番を待っていた別の患者から、胃癌の症状を具体的に一つ一つ聞かされ、自分が胃癌であることを知ることになる。主治医は胃潰瘍だからといって好きなものを食べたらいいという。患者が帰った後で、診察室では主治医が別の医師と看護師へ、余命半年が自分だったらどうするかと問う。
 癌は治療の方法がなかったので、告知しない時代の話である。告知するようになったのは2000年代に入ってからだろう。平成2年に義父が大腸癌に罹り3か月で亡くなった。そして翌年3月にオヤジが大腸癌を手術、2年後に外科医の予告通りに全身転移で亡くなったが、どちらのケースも癌は告知していない。でも、本人は知っていた。転移して肝臓が板のように固くなってしまっていたから隠しようがない。

 地方公務員の渡辺は、30年間市役所勤務をしてきたが、何をしたのか覚えていない。覚えていないほど、どうでもいい仕事を毎日毎日やってきた。市民課が新設され、そこへ雨が降ると水が溜まってしまう土地を公園にしてもらいたいと、その周辺のカミさんたち10人ほどが押し掛けるが、公園課、上下水道課などさまざまな部署をたらいまわしにされて、一向に埒が明かない。
 渡辺勘治は、「生きる」意味を探し始める。たらいまわしになっていた公園建設を生きている間に何とかしようと、そこに生きがいを見つけた。関係各課に何度も何度も頭を下げて通い続けて、縦割りの役所仕事の調整役を果たしていく。
 いきなり場面が変わり、渡辺勘治の葬式の場面に変わる。そこからが面白い。
 志村喬が映画の中で最後に歌う「ゴンドラの歌」はしみじみとした響きをもっていた。命の灯が消えていく感じが伝わってきた。歌は心情や情緒を伝えるもの。
 「いのちみじいかし 恋せよ乙女 紅き唇褪せぬ間に 熱き血潮の消えぬ間に 明日の月日はないものを♪...」

 印象的だったのは市役所の若い女事務員役の小田切みきの演技だ。左卜全も人情味あふれる役柄で市民課の一職員として出ていた。それぞれの役の俳優の演技は、役柄の生きざまがにじみ出ているようで個性的だった。

 わたしも2007年にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、ほぼ命はないものと覚悟を決めて入院したので、身につまされるところがあった。
 「先生、お腹におできができたので、手術のために1か月入院します。恥ずかしいのでくれぐれも噂を広めないようにお願いします」
 そう言ったら、中学生の女子が数人笑って応じてくれた。
 「先生、内緒にしとくから」
 明るい笑い声に救われた思いがしました、思い残すことないなって。
 あれは6月、中間テストの数日前のことでした。

 機会があったらたくさんの人に見てほしい映画です。

<余談-1:志村喬の演技と藤田光一郎さん>
 この映画での志村喬の演技は、モノを言わないところ、「間の圧力」の凄みが画面に滲み出てしまうところにその特徴がある。他の人にはまねのできない演技だ、だからそこに惚れて黒澤明監督は「七人の侍」でも志村喬を主役に抜擢している。
 1日たって思い出したのがSRL創業社長の藤田光一郎さんの交渉術だ。記憶にある限りで2度重要な社外交渉の場にお供した。野村証券の子会社であるJAFCOと東北の会社の件で交渉事が持ち上がり、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社を訪問した折のことを思い出した。藤田さんは言葉が少ない。ボツっと言って間があく。その間に空気がグーンと張りつめていくのが隣に座っているわたしに伝わってきた。そしてまたボツっと話して間があくのだ。JAFCOの役員焦っていました。志村喬の演技にそっくりでしたね。東証1部に現役社長で2社(製薬会社富士レビオと臨床検査会社SRL)上場した日本では初めての人というのが、JAFCOの評価でした。

 交渉に行く2時間前に、東北の資本提携企業へ出向していたわたしが、立川本社ビルで藤田さんとミーティングをしたのが、浜松町へ出かける2時間前でした。その2週間ほど前に黒字化案を説明に藤田さんと副社長の谷口さんに作成してあった資料を携えて説明に行きました。資本提携をやめ、子会社化することで染色体分野の検査を分担することで売上高経常利益率が15~20%になる経営改革案でしたので、SRLの子会社ではナンバーワンの業績になる予定でした。それに対する藤田さんの返事はノーでした。電話での報告、文書でも毎月報告書を送っていましたが、「聞いていない」と副社長を口裏を合わせていました。東北の会社の資本関係を調べて大株主一人一人の背景も伝えてありました。子会社化(社長持ち株の譲渡)と社長交代も東北の会社の社長Tさんの了解をもらっていました。そこはそのまま実行されています。
 藤田さんは大株主数名が気に入らなかったのだと思います、引きずりたくなかった。それで、ノーという結論に至ったのでしょう。
 本社社長室ではなくて、オープンスペースのイスが四つのテーブルで話そうというので、そこで藤田さんと1時間話していました。本社社員全員から丸見えでした。なんてことはない話でしたね。喧嘩腰で交渉すると言って聞きません。ジャフコのバックには東邦銀行がいて、そこの役員とつながっており、情報は筒抜けになるので、穏やかに相手の言い分を聞き、あとは藤田さんの思う通りにやってくださいとお願いしたのですが、聞けないというのです。そんな話は5分間だけ、後はJAFCOへ出かけるのに電車に乗る時間まで暇つぶしの雑談でした。あとで、「何話していたんだ?」と元上司から聞かれました。「大事な話は5分だけ、後は雑談です」と告げると首をかしげてました。藤田さんが社員とオープンスペースで1時間も話すことなんて一度もなかったからです。
 新宿から山手線で、浜松町駅で降り、長い通路を歩いている途中で、「ebisuさんの言う通りにやりますか?」と突然の提案、「そうしてください」と返事しました。それで始まった交渉でした。交渉の「間の取り方」を教えたかったのでしょうね。見事な演技でした。役者の道に入っても、藤田さんはただものではないと思いましたね。
 交渉が終わって、JAFCOの部長さんが「お車はどちらへ?正面玄関に回すように手配しますので」そう言われて、「電車できました」、「え、SRLさんセキュリティはどうなっているのです?東証1部へ2社上場した社長ですよ」と驚いていました。藤田さん、社長専用車をもたない人でした。ある時、A専務(後に参議院議員)が羽田に藤田さんをハイヤーで出迎えに行きました。何か緊急の要件があったのでしょう。藤田さん「社員が社用車を運転して検体を集めているのに、わたしはハイヤーには乗りません」と怒って電車で新宿(当時)NSビルの本社へ戻ったことがありました。そういう人なのです。
 それから数年後、野村証券の役員をしていた中学・高校同期の伊藤がJAFCOの社長に就任していました。同窓会名簿には住所欄が空欄になっていました。セキュリティ上明らかにできないと同期の誰かが言ってましたね。
 野村証券は不祥事で3度役員が総入れ替えになったので、団塊世代は得しましたね。課長クラスが役員に何人もなれました。野村証券の先輩たちはお気の毒様、役員になった途端に不祥事で全員総とっかえでしたから、運も大事です。(笑)



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