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#5054 ロシア軍と旧日本軍の類似点:トカマクへ第76空挺師団の配置 Sep. 9、2023 [8. 時事評論]

<最終更新情報>9/9日朝8:30 プーチン暗殺作戦の可能性を追記

 サポリージャ州トカマク周辺へロシア軍は第76空挺師団を展開している。

 第76空挺師団というのは自衛隊なら習志野にある第一空挺団にあたる精鋭部隊である。
 ウクライナへロシアが進行したときに、この部隊がキーウの空港を急襲してゼレンスキーを捕縛しようとして大失敗した。多数の死傷者を出して撤退している。だから、現在の第76空挺師団は他の空挺師団からか4割くらいは補充された部隊構成だろう。

 帝国陸軍の空挺団は「高千穂降下部隊」と言われた秘密部隊だった。九州宮崎県で訓練に明け暮れることが多かった。昼は片目を眼帯で覆って、真っ暗闇の夜に眼帯を外して忍者まがいの訓練までした。「空の神兵さん」と言われて、正規兵3人を同時に相手にできるほどの、精鋭・最強部隊だった。降下データがないのに、体重80㎏で30㎏の装備をつけて無事に降りられるかと、人体実験のような訓練までしていた。度胸の据わった精鋭でなければとても訓練についていけない。

 日本軍の形成が悪くなり、制空権を奪われ、輸送機が足りなくなると、高千穂降下部隊は本来の機能が果たせなくなった。パレンバンだったか、どこか南の島の空港を急襲して三日間戦うも、支援がなくて全滅。落下傘で降りてしまえば、歩兵である。いくら強くても後続支援がなければ数日しか持ちこたえられない。次第に囲まれて、全滅したというのが実情である。
 終戦間近になると、運ぶ飛行機がないので、南方の前線に兵士の士気の鼓舞のために輸送船で運ばれていった。残る者は宮崎の港から船を見送ることになる。一緒に命懸けの訓練に明け暮れた戦友が言う。
 「靖国で会おう!」
 行先は秘密だからどこへ行くかはわからないが、南方のどこかである。複雑骨折した右手は上がらないので、左手で敬礼して見送った。そういう経緯(いきさつ)で高千穂降下部隊はほとんど生き残りがいなかった。降下訓練時の事故で負傷した者が生き残った。
 「あいつたちは、結婚もせず、子供も残さず征った。俺は幸せだ、結婚もしたし子どももいる。」
 生き残りの空の神兵さんから直接聞いた。
 癌が再発して全身転移で亡くなる前年の3月に靖国神社を初めて訪れている。それまで何度も東京へ来ても、靖国神社へ行きたいと言ったことはなかった。平成4年のことだったので癌の告知はしていなかったが、死期が近いことを感じていたのだと思う。

 ロシア軍の第76空挺師団はキーウの空港急襲作戦に失敗した後、ウクライナ各地を転戦している。そして師団丸ごと展開しているわけではないことがその威力を削いでいる。空挺部隊は攻撃部隊である、その中でも急襲戦に絶大な威力を発揮する部隊だ。消耗戦である防衛線では士気の高さと訓練の練度は違っても歩兵とかわらない。
 訓練も降下訓練が主体で、そのあとの急襲作戦遂行がほとんど。急襲作戦専用の専門職部隊だから、防衛戦の訓練なんてしない。
 今トカマク周辺に分断配置されている第76空挺師団は、防衛戦を担う部隊である。空挺団の本来の機能とはまったく異なる。戦車の操縦訓練なんてこともしていないから機動部隊にもなりえない、ただの歩兵だ。
 虎の子の精鋭部隊の第76空挺師団を、サポリージャ州トカマクの防衛に投入しているという状況は、なにやら敗戦が近づいていた日本軍が精鋭部隊の高千穂降下部隊員を船で南方の前線に送り込んだ状況に酷似している。
 ロシア軍はまるっきり余裕がないということ。

 さて、ここからが本論である。
 第76空挺師団はゼレンスキー大統領の捕獲作戦に失敗し大きな損害を被っている。師団長は自分の虎の子の精鋭部隊員を多数死なせた。そのあと、プーチンとショイグの指示で北部から南部、東部へと次々に転戦して消耗戦を続けている。相当な辛抱だろう、歯ぎしりしていると思う。これは空挺師団の本来の作戦、用兵の在り方ではないからだ。空挺団員たちは不満を口にしなくても、このところの無意味な用兵にうんざりしている。
 師団長がプーチン殺害を命じたら、空挺団員は迷わず命令を実行するだろう。ふだんから空挺団は死ぬ覚悟をもって作戦任務を遂行している。急襲作戦こそが空挺部隊本来の戦い方だ。徐々に消耗していく防衛戦なんていうのは性に合わぬし、用兵の理屈にも違(たが)う。
 空挺師団長は42歳である。プーチンの居所が判明し、それが影武者ではなく本物だと確信できる瞬間が訪れたら、チャンスである。自分から居所を探るようなことをしたら察知されるから、じっとそういうときが訪れるのを待っている。自らの身は滅びようともプーチンを暗殺してウクライナ戦争をやめさせるるだけでいい。それくらいの覚悟と短時間での作戦立案と実行力は第76空挺師団長とその部下たちにはあるだろう。
 姑息なことばかりやってきたFSB出身のプーチンにはまっとうな軍人の心の揺らぎは読めない。

①落下傘部隊降下訓練写真
 落下傘部隊の写真は相当枚数があったそうだ。戦後GHQが落下戦部隊員を戦犯にするといううわさが飛んで、数枚を残して焼却したと聞いている。燃やせなかった数枚である。
 朝鮮か中国へ移動していた時に「命の要らないもの集まれ!」という募集広告があったのだそうだ。通信兵だったが「どうせ散るならパッと散りましょ」と応募、それが落下傘部隊だった。落下傘部隊にいることは親兄弟にも秘密。家を継がなきゃならない長男は一人もいなかった、それほど訓練も危険だったということ。釧路の丸三鶴屋デパートに戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」が上映されたときに、オヤジの写真が大きく貼りだされたので、家族の知るところとなった。その折の、降下訓練事故で右手複雑骨折、療養している間に終戦となり、生き残った。
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②重機関銃
 黒光りしている。武器の手入れはうるさかった。
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②「八紘一宇の塔」の写真
 この前で何度か野営訓練をしたと聞いている。
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④降下訓練機だろうか?
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⑤フロートがついているから水上機のように見える
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⑥オヤジの十代の時の写真(昭和10年頃?)
 足の筋肉がしっかりついている。60歳を過ぎてから、釧路・根室間の自転車レースで30代のトップと団子になってゴールしていた。還暦過ぎてから一輪車の教本を取り寄せて、一輪車乗りになった。バランス感覚が降下訓練で空中に飛び出した時になんとなく似たものがあると言っていた。
 子供のころ旭川で育ったから、スタルヒンと雪合戦したことがあると言っていた。雪を手でつかみ両手で一回で押しつぶして投げてくるのだが、結構痛かったと笑っていた。愉しかったのだろう。突然いなくなったとも言っていた。甲子園出場間近に旧制中学をやめて巨人軍への入団したのだが、さまざまなうわさが流れた。北海道に優勝旗をもって帰ってきたかもしれぬ。

 オヤジは体協の資格を取って根室の小学生に一輪車を教えていた。あれは、昭和55年ころのこと。教える一輪車がないので、花咲小学校と北斗小学校に一輪車を数十台寄贈して教えていた。親父に一輪車を習った子供が数百人いるだろう。NHKテレビが3度取材してくれた。
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 戦後間もなくのことだが、富良野の映画館でヤクザ5人に絡まれ、便所へ連れ込まれた。一緒に映画に行っていた甥っ子が5分経ってからいくと、全員床に伸びていた。オヤジは加藤隼戦闘隊の映画撮影の降下訓練で右腕複雑骨折で、まだ後遺症があり腕が上がらなかった。左腕一本で5人を倒した。落下傘部隊員恐るべし。そのあとで、富良野のヤクザを道ですれ違うと、オヤジに道を開けたそうだ。根室で昔元気のよい地元のヤクザ若頭に「松の湯」で視線がぶつかって「表に出ろ」と因縁つけられたことがあると話してくれたことがあったが、そのあとのことはオヤジは笑って答えなかった。旭川の畳屋をやっていた6歳違いの甥っ子がオヤジの葬式の席で、笑って富良野の一件を教えてくれた。それで、ご同業ではないのにTさんがオヤジを兄貴分扱いしていた理由がわかった。ビリヤード店には幹部3~4人しかTさんは出入りを許さなかった。お袋のことを「ねえさん」と呼んでいた。みんな故人だからもう書いていいだろう。
 「お前が高校時代だったかね、Tがね、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたとお袋は、亡くなる2年前くらいに昔話のついでに教えてくれた。Tさんはわたしに一度もビリヤードゲームをしようと言ったことがなかった。高校生の時にスナックへ飲みに行っていてチンピラに絡まれたことがあったが、どういうわけか若頭のKさんが偶然店に現れて、助けてくれた。カウンターにいたわたしのところへまっすぐにやってきて、「どうした?」と言って、事情を話すと「わかった!」、そう言って絡んでいたチンピラのところへ行って、小声で話してすぐにその場を収めてくれた。それ以来、高校生の間はスナックへ行くのはよした。もめごとを起こしたら、メンツがあるから大事(おおごと)になる。
 小学生低学年の頃から、素手で焚き付け割りと、5寸角の廃材を大きな鉞で何度もたたいて叩き折っていたから背筋力もパンチ力と同じくらいのパワーが自然についていた。おとなしそうだが、本性はキレかねない危うさを、Tさんちゃんと見抜いていたのかもしれない。高校を卒業するころには腰を回してパンチボールをたたくだけで180kgのパンチ力があった。一歩踏み込んだら250㎏を超ただろう。素手で焚き付けを数千本も叩き折っていたから、拳は空手をしている人よりも固く、素手で人様の顔を叩けば粉砕骨折となる。半渇きの木でも叩き折る感触を拳が知っていたから、手加減できない。
 小学生のとき素手で焚き付けを叩起きっているのを、オヤジは通りかかってみていたが、なんにも言わなかった。しかし、ボクシングは教えてくれなかった。でも、石油ストーブの時代で、焚き付け割りをしたことのない孫には教えていた。(笑)
 わたしにボクシングを教えたら、人を殺しかねないと思ったのではないか。オヤジは十代の頃に、頭に血が上って丁稚奉公していた店の主人に思わず手が出てそのままやめたことがあった。それから数年して見かけたら、歯がぞっくり金歯になっていたと、後味悪いものだと話してくれたことがある。お前のその拳で人を殴るときには刑務所行きを覚悟してやれと忠告されたようなものだった。素手で焚き付けを折るようなタイミングで叩いたら、殺すことになるかもしれない。
 優男(やさおとこ)に見えるから、勘違いされて、いままでに3度ほど絡まれたことがあったが、一度も手を出したことはない。お陰様で警察の厄介には一度もなっていない。スキルス胃癌の手術後は体重が12㎏落ちた、その大半が筋肉だから、いまはへなちょこパンチしか打てない。手術前は8回出来た懸垂は一回もあがらない。フレイルの心配をしなくっちゃいけない年齢だ。
 軍隊では古参兵の上等兵が二等兵を並べて殴ることが頻繁にある。殴られ慣れていないお坊ちゃんは可愛そうだったと言っていた。殴られ方があるそうで、身体を引いてはいけない、引くとますます殴られる。引かなきゃ、普通は2発目は殴れないものだそうだ。
 生意気盛りだったので、バンカラな根室高校へ入学して3か月後くらいに役に立った。総番グループの先輩2人から呼び出しを食らった。オヤジの話を思い出しそのとおりにやったら、2発目はなかった。それ以降先輩たちの呼び出しはなかった。(笑)



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