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#4740 叔父貴の思い出:択捉島蘂取村からの引き揚げ者 April 16, 2022 [21. 北方領土]

 叔父貴(おじき)が亡くなったので午前中に線香をあげてきた。叔父貴は母親の弟、択捉島からの引揚者である。生年は昭和7年頃だから、ソ連が侵攻した来た時には13歳だ。そのときに満州では長兄が侵攻してきたソ連軍と戦って22歳で亡くなっている。昭和22年の9月に樺太経由で引き揚げてきたときは15歳。ソ連占領下で漁労に駆り立てられ、結構しんどい思いをしたようだ。敗戦で強制労働に従わざるを得なかった者たちのソ連観は甘いものではなかっただろう。わたしの母親は7人兄弟姉妹の長女。叔父貴は6番目。

 わたしが幼稚園か小学校へ入ったころに半年ほど我が家へ来て食住を共にしていたので記憶がある。昭和20年代の終わりころだっただろう。戦後の10年間ほどはみんな生活し食べていくのがたいへんだった。オヤジが戦後根室で下駄屋を開業していたので、お袋の兄弟たちや従姉妹・従弟が入れ替わり来ては数か月間一緒に暮らしてにぎやかだった。千歳の叔母が一番明るい性格で、まだ幼い娘を連れて来ると、毎日笑い声が絶えなかった。千歳の従姉妹は小さい頃はとってもメンコかった。

 叔父貴の息子のNはわたしとはちょうど一回り離れている。わたしが根室高校を卒業するころに6歳だったし、住んでいたのが別海町尾岱沼で離れていたので、あったことがなかった。尋ねてみたら妹の結婚式の時に一度会ったことがあったようだ。叔父貴に連れられて根室に来たのだろう。まさか、仕事でずっと根室に住むようになるなんて、そのときには考えたこともなかっただろう。
 叔父貴は一度だけ択捉島へ行っている。前浜の川には昔と変わらぬほど鮭がびっしり俎上していたという。満州で侵攻してきたソ連軍と戦って戦死しすることになる長兄が、川に竹竿を突き立てたら遡上してくるシャケで竿が倒れなかったとお袋が言っていた。その川を見て叔父貴はどんな思いを抱いただろうか?
 叔父貴からはいろいろ聞きたいことがあったが、根室の老健施設に入所したときにはコロナが流行っていたので、面会できず、コロナが収まってからゆっくり話したいと思っていた矢先に亡くなってしまった。叔父貴は「誰も会いに来ない」と不審がっていたらしい。コロナは3年目に入った、介護・老人施設の入所者たちの内、いったい何人の人が親族と談笑することもできずに亡くなったのだろう。しかたがないことではあるが、割り切れない思いが残った。

 叔父貴の息子には一人娘がいる。ひょっとして霊感が強くないかと尋ねてみたら、驚いた顔をした。高校の修学旅行で沖縄に行ったときに、ある場所には近づくこともできず、戻ってきたという。
 やはりそうか、理由を従弟に説明した。母方のばあさんは霊感の強い人で、娘たちも半分はそうした資質を受け継いでいる。女系の孫にもそうした資質の強いものが多い。未来が見えてしまう、人が死ぬと場所が離れていてもわかる、亡くなった人が来るのだ。自分の意思に関わらず見えるときにはそうしたものが見えてしまうので厄介なのだ。亡くなった人が来るのは怖いことはない。お別れの挨拶に来るようなものだからね。厄介なのはよくない未来、見たくない未来が見えてしまうことがあることだ。幸福な未来ならいいが、人は必ず死ぬ、その死ぬ時期が数か月前から見えてしまうのは不幸以外の何物でもない。悲しみがずっと続く、そしてそれは必ず見た通りに起きる。生きている身の回りの者に関わることでも空間を超えて見えてしまうことがある、どうしようもない。
 遺伝子の関係から考えると、叔父貴は霊感の強かった母親由来のX染色体と父親由来のY染色体を受け継いでいる。その息子は母親由来のX染色体と母親由来のY染色体を受け継いでいる。だから、択捉島のばあさんのX染色体は叔父貴の息子に受け継がれた。その娘は父親のX染色体と母親由来のY染色体のXYだから、択捉島のばあさんのX染色体が受け継がれている。どうも、この性別を左右するX染色体に時間や空間を超越できる霊感に関わる遺伝子が載っているようだ。わたしも同じような手順で択捉のばあさんのX染色体を受け継いでいるが、男の場合は強く発現しないように見える。余計なことで悩まずともすむのでありがたい。遺伝子の仕組みから考えるとわたしの娘や孫には伝わっている。娘は大丈夫だった、孫には強く発現しないことを願う。

 択捉島の墓に眠っているばあさんは霊感が強いので成田山新勝寺で修行をしないかとお坊さんに勧められたことがあったと母が言っていた。叔母の一人が生まれ育った択捉島蘂取村で「イタコ」のようなことをして、子どもの頃に人の相談にのっていた。その叔母が父親が病気で死ぬ1か月前から泣いている。なぜ泣いているのか訊いたら、もうすぐ二人とも死んでしまうと言うのだ。病気の父親はともかく元気にぴんぴんしている母親も亡くなると泣いているので、母は誰にも言うなと妹に固く口止めした。父親が亡くなって、一週間後に元気だった母親が突然死んだ。このように徳子叔母は見たくもない未来が見えてしまう。人が死んだときもわかる。何度も何度も見ている。
 わたしの姉が霊感が強い。話がたくさんあるので端折ろう。とにかく見たくないものが空間を超えて見えてしまうことがある。
 お転婆で気の強かった妹は、小学生の頃、裏庭でつながっていた喫茶店「凡(ボン)」の奥さんがNTTの前でトラックに二度跳ねられて即死したことがあった。しょげてたっけ。その夕方のこと、家の玄関に入ろうとしたら、叔母さんが裏庭の方に立っていた。「よくなったの?」と声をかけようとしたとたんに、死んだことを思い出した。真っ青な顔で戻ってきて、それからしばらくは夕方は外に出なくなった。あとで確認したら、事故にあったときに着ていた血の付いた服が物干し竿にかかっていた。子どものいなかったそのおばさんは妹を特別にかわいがっていた。お鍋の底に張り付いたお焦げでお菓子を作って食べさせてくれたりしていた。昭和30年頃は、まだみんな貧乏でひもじかった。でも、世の中は戦時中の閉塞感から解き放たれて未来が明るかった。
 わたしが高校1年生の時(1964年東京オリンピックの年)に、同級生で同じ柔道部だったN西が釧路の病院から退院してきて、鳴海公園のあたりですれ違った。腎臓が悪くて釧路の病院に入院していたはず、「よくなったのか?」「うん」、そう言葉を交わした。その数日後の夕方のことだった。わが家は1階が居酒屋「酒悦」とビリヤード店をやっていたので、リビングは2階だった。窓の外を白い大きなものがゴオーッと音を立てて飛んでいったので、あわてて窓を開けた。窓は波状のガラス板と透明なガラス窓の二重窓で外がはっきりとは見えないが、白い大きなものが音を立てて飛んでいったのははっきりわかった。窓を開けて確認したがなんにもない。叔母に「見た?」と聞いてみたら、見たという、気味悪がられるので言わなかったと。「え、誰かが死んだ?」、叔母はうなづいている。翌日だったか、N西の葬儀折込が入った。ちょうどその時間に亡くなっていた。N西君はいまなら人工透析があるから死なずにすんだのだろう。治療の方法がなくて退院したのだと後でわかった。

 従弟の娘は根室の中学校を出てから、札幌の高校へ進学した。成績がよかったのは知っていた。3年間学年トップだったそうだが、それでも札幌旭丘高校へは不合格、第一高校へ進学したと従弟が言っていた。大学は特待生で授業料免除だったそうだ。親孝行な娘は数年前に卒業して東京住まい。

 叔父貴には、ソ連占領後の生活や引き揚げてきたときの事情、根室へ来た前後のことなど、聞きたいことがいくつかあった。母方の一番年下の妹がわたしと10歳しか離れていないので、叔母というより「姉・弟」の感覚に近い。名前を付けて「〇〇お姉さん」と呼んでいた。「叔母さん」と呼んだことがなかった。叔父貴は17歳離れているが気持ちの上での「距離」は近かった。

<余談-1:航空自衛隊と落下傘部隊>
 従弟のNは航空自衛隊員である。ウチのオヤジが落下傘部隊員だったことを知っていたかな?千歳の叔父貴も自衛隊員だったが、オヤジが落下傘部隊員だと知って大喜びしていた。根室方面に仕事があってくると必ず寄って、酒を飲みながら楽しそうに話をしていた。オヤジが通信兵や落下傘部隊のときの話をおもしろおかしくするので、よく笑っていた。
 中1だったか、小学校高学年だったのか、千歳に遊びに行ったら、戦闘機に搭乗できるように計らってくれたことがあった、あれはF-104。
 戦後、自衛隊が発足し、落下傘部隊の生き残りはほとんどいなかったので、教官として誘いがあったことがあったが、オヤジは断った。一緒に命懸けの訓練に明け暮れた戦友が全員死んでいるので、そういう気持ちにはなれなかったのだろう。制空権を奪われ、飛行機にも乗れず、「空の神兵」たちは戦意を鼓舞するための道具として船で南方へ派遣されて、死んでいる。空から真っ白い落下傘で降り立ち、戦って死にたかっただろう。落下傘で降りて、飛行場を占拠して、3日間戦って全滅した部隊が一つだけあったようだ。援軍や補給のない戦いだったが、悔いはなかっただろう。一度だけその本を読んだっきり、二度と開かなかった。戦時宣伝映画の「加藤隼戦闘隊」撮影時の降下訓練の事故で右腕複雑骨折、左手で敬礼して戦友たちが船に乗るのを宮崎県の港で見送っている。「靖国で会おう」と言い残して一人も帰ることがなかった。
 中国で通信兵として従軍していた時に「命の要らない者集まれ」と募集があったのだそうだ、それに応募した。部隊には長男は一人もいなかったと言っていた。家を継ぐ長男は落下傘部隊には入れなかった、それほど訓練が危険だったからだ。データもないので、降下訓練は人体実験を兼ねることがあった。たとえば、「30kgのフル装備で、体重80kgならこのパラシュートで無事に降りれるか?」というように。指名されたら返事にノーはないのが軍隊である。なるほど「命の要らない者集まれ」と募集要領の通りだったわけだ。忍者まがいの訓練だったから、落下傘部隊員は正規兵を3人相手に戦えた。宮崎の新田原で一般道を走って訓練中に人がいると上官が「前転!」と号令をかけるのだそうだ。舗装のしていない道路には石っころもあるから痛い。面白がって何度もやらせる。「天皇陛下の兵卒」と言いながら、天皇陛下からお預かりしたその大事な兵卒を実に粗末に扱う上官がいたそうだ。
 いまでも落下傘部隊はエリート部隊のようだ。名称は変わって空挺団という。戦時中は落下傘部隊員は親や兄弟にも秘密だった。神話になぞらえて「高千穂項か部隊」と言ったそうだ。宇佐神宮で部隊が撮った公式記録写真が残っている。おどろおどろしい空模様の写真である。秘密部隊だったので、戦後に戦犯に問われるという噂が流れて、写真のほとんどを焼却している。捨てきれなかった数枚が残った。機関銃を構えた写真は、まるで映画の一シーン。銃はピカピカに黒光りしており、穏やかな目をしていない、鷹のような鋭い目つきだ。

<余談-2:根室の中学校の学年トップクラス>
 ついでだから書いておこうと思う。昨年、従弟の娘と同じ中学校の女生徒が、12月からニムオロ塾に来て3か月間勉強し札幌旭丘高校に合格している。ブラスバンド部と勉強、「文武両道」のガッツのある生徒だった。定期演奏会が終わってから12月1日に入塾してきた。学力テストの点数を見たら、このままでは希望の高校へは合格できない、しかしやる気があったので、もしかすると届くかもと予感させた。目標は3か月間で英数で25点以上のアップ。毎日来ていいぞと伝えたが、時間がもったいないからと、歩いてこない。親が仕事が終わり車で送ってくれるまで、家で勉強していた。必ず車で送り迎え、そして指示した通りに勉強しぬいた。1月下旬になって、それまで毎回いくつかしていた数学の質問がなくなった。難問も自力で解けるほど仕上がっている手ごたえを感じ、合格を確信した。そのころには英語の長文にも慣れてきて点数が上がっていた。
 合格してから「コスパの好い塾だ」と言っていたようだ。3か月で英数で30点アップして合格したのだから、その通りだろう、これには笑ってしまった。たまたまコスパがよかったのは彼女が指示通りに勉強したから、普通の生徒にはとても無理でした。1年生の時から来ていたら、ダントツトップで3年間走り抜け、違った進学先になっただろう。あんな女の子が同級生に居たら、ガッツの点で男はかなわない。旭丘高校の制服が大好きだと言っていた。ブラスバンドと勉強の文武両道で充実した高校生活のようだ。(笑)
 お兄さんが高3で受験だったので、兄妹同時の大学・高校同時受験。彼女は3年生と時の学年トップは3回くらいだったかな。学校の学力テストは標準問題、旭丘の入試は裁量問題、難易度の高い問題での30点アップだった。各科目ごとの点数を書いたメモをもってきて、誇らしげな顔をして報告してくれた。「やったよ!」という顔をしていた、達成感があったのだろう。お兄さんの方は北海学園大学法学部に進学した。
 五科目合計点は現在は500点満点だが、昨年までは300点満点、各科目の国の満点は60点であった。

<学習スタイルの切り替え:ブレイキン>
 ブレイキン(ダンスバトル)の投稿が弊ブログ「#4737ピアニスト岩井のぞみ」にあったので、投稿欄でコメントしました。ノサップの小学生(いま中1)が北海道で1位、全国で12位だったとNHKの番組が特集していました。とっても上手でした。ダンスの練習場を作り、お父さんに習っていました。わたしはブレイキンについては何も知りませんが、テレビでトレーニングの様子を見ていて基礎トレーニングの不足を感じました。そうしたら、途中でプロのコーチの指導のシーンが流れ、基礎トレーニングメニューを提案し、それを繰り返すことを指示したので、なるほど同じことを感じたのかと思った次第。柔道にたとえると、乱取りばかりしていて型の稽古を疎かにしている感じを受けました。これではもう限界、基礎からやり直さぬと技術が伸びない。実はもう一つ、一流になるためにはクリアしなければならない重要なことがあったと思いますが、プロのコーチは短時間でのレッスンを頼まれただけですから、言及を避けたのでしょう。
 勉強もスポーツも根室は一流のプロの指導者がいません。我流でやっていては全国大会では通用しないのです。勉強も同じです。
 ブレイキンをやったこともないし、専門知識もないわたしに何でこんなことがわかるのか、ビリヤードで複数の一流のプロの指導を受けたことがあるからです。そして小学生の頃、道東ではナンバーワンの腕前でした。釧路で数人の大人相手にゲームして10連勝したことがありました。オヤジが用事があって私を釧路のビリヤード店に置いたまま数時間席を外したからです。強くて持ち点アップを要求されて、それでもなおつき切る。大人が驚いていました。でも門前の小僧が習わぬ経を読むのと同じで、我流でしてね、一時はビリヤードのプロになろうと思いました。しかし、わたしの場合にはとても日本一なんてそのままでは無理。昭和天皇のビリヤードコーチの吉岡先生に、「プロになりたい」と言ったら、「勉強した方がいい」と言われ、しょげかえりました。当時はビリヤードのプロで飯が食べられる人は一人もいなかったのです。そこまで知りませんでした。東京へ行ってからわかりました。ブレイキンはプロで食べていけます。時代が違う。ブレイキンやっているノサップの子どもによく似たところがありましたね。(笑)

*「リトルダンサー 最東端で踊る」 | NHK



 昭和天皇にビリヤードを教えていた吉岡先生の技術を高校卒業するころでもコピーできませんでした。「アメリカン・セリ」はわたしにとっては魔法のような技術でした。高校を卒業した年に千歳から飛行機に乗るのに、札幌の白馬ビリヤードへ寄りました。オーナーである吉岡先生は一番上手な常連客を呼んで、わたしの相手をさせてくれました。あれは勉強になりましたね。北海道ではアマチュアトップレベルの人でした。半年ぐらいみっちりやったらコピーできるかもと思わせてくれました。セリの技術の基本部分を教えてくれたのです。見ただけで自分で工夫してやれないようでは一流のプロにはなれません。高校時代には勉強がとっても面白くなっていたので、ビリヤードはアマチュアでいいと思いました。東京へ行ってから、有名なビリヤード場をいくつか訪れて、そのうち2か所でプロが教えてくれました。一人は、アーティステック・ビリヤードで世界2位の町田正さんのお父さんでした。八王子のビリヤード店には素振り用の鉄のキュウがありました。正さんはそれを振っていたのです。シルクハットというマッセは。大台をL字がたの軌跡を描くマッセで、世界で町田正さんしかできませキュウの切れがないとできないのです。八王子の町田ビリヤード店にあった鉄製のキュウ―を見た瞬間に町田正さんがどのようなトレーニングを積んだかわかりました。正さんのお父さんはわたしに基礎トレーニングメニューを教えてくれました。キュウ―の切れが少し良かったのと、もっていたキュウが名人作の特別なものだったからです。タップがすごかった。「このタップはもう十年以上見たことがない、世界で最高のタップです、ヤスリを当てさせてもらえないか?」とおずおずと申し出がありました。OKするとゆっくりと丁寧にキュウを転がしながらタップにヤスリをあてて半球状に仕上げました。理由を聞いたらやり方とともに解説してくれました。半球状にすると丸いボールを打突するときに正確につけることとミスショット(滑ってしまう)がすくなくなるのです。拡大してボールを大きな円に、キュウのタップを小さな半球にして図でショットの瞬間の力の伝わり方を確認しました。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生のタップの調整は、半球状の部分が3mmぐらいで5mmの厚さの部分は平べったいのです。小学生のころからタップの調整の仕方は吉岡先生を真似ていましたので、目から鱗が落ちる思いでした。25年ほどでタップの削り方の理論と技術が進化してたのです。もう一人はスリークッション世界チャンピオンに何度も輝いた小林先生です。先生のお店の常連会のメンバーに入れてもらったので、わからないときには図面を描いてもって行って質問をしました。丁寧に教えてくれました。プロの基礎トレーニングメニューを使うと、根室で10年かかる技術進歩が1年で達成できます。ノサップの子どもは我流の癖がついてしまっています。それを取り除くために、基礎トレーニングが必要なのです。プロに言われた基礎トレーニングメニューを坦々とこなせば、1年後には見違えるようになります。体重少し落とした方がいいよ。無茶なトレーニングをし過ぎると腱や関節が壊れます。これから身長が急速に伸びるので要注意なのです。骨が先に伸びるから、腱や筋肉の発達が追い付かない。過負荷がかかって壊れます。

 さて、勉強法ですが、ブレイキンのトレーニングが、普通の子どもと能力が高い子供とトレーニングメニューが違うように、能力に応じたメニューが必要なことは、これまでの話でお分かりいただけるでしょう。
 学年トップクラスの上位3%の生徒は我流での勉強法を棄てて予習方式に切り替えるべきです。難易度の高い問題集のコンパクトな解説を読んで理解できるなら、答えが出るまで解答解説は参照しないこと。試行錯誤が思考なのです。すぐに解答・解説を見てしまうと、思考が育たない。解答を真似て「覚えるだけ」になってしまいます。成績上位3%から外れた生徒は、10分考えて答えが出なければ、解答解説を読んで覚えてしまえばいい。頭の良し悪しは中学生になったらはっきり差が出てしまっています。それぞれの頭の良し悪しに合った勉強法があります。
 偏差値55ぐらいまでの大学なら、答えを覚えてしまう勉強でクリアできますよ。難関大学へそういう勉強法で合格した生徒は、公務員になるのが一番いい。民間会社では半分以上がつぶれてしまいます。考えるトレーニングをしていないから、社会人になったときには答えのない課題に戸惑うばかりです。難関大学出身者で仕事ができないタイプがこれ、受験勉強専用マシンになってしまったのです。それ以外には役に立たない。難関大学出身者でなくても、解答・解説を見て覚えるだけの受験勉強をした人は、社会人になってから、使い物になりません。

 だから中高生の時に、好奇心のままにトコトン勉強したらいい。なかなか解けない問題に何時間も何日も費やしたらいいのです。そういう無駄が社会人になってから百倍になって効いてきます。
 受験勉強がおろそかになって受験に失敗してもいいのですよ。入った大学で上位1%になれます。大学院でも同じことです。民間企業で働くことになったら仕事の能力は上位0.1%です。
 この項はあとで追記して、別建てでアップします。


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