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#4120 標津(別海町)の叔父貴:8年ぶりの再会 Nov. 9, 2019 [21. 北方領土]

 標津町と別海町の境のあたりに住む(尾岱沼)の叔父貴のところまで、車を運転していってきた。先月、T叔父貴の嫁さんが亡くなったのを昨日知ったからだ。初めて叔父貴の家を訪れた。

 8年前に根室まで来てくれた。癌に効くからと「猿の腰掛」を砕いたものを袋に入れて持ってきてくれた。T叔父貴は巳年(1929年)生まれで90歳になる。うちのオヤジが1921年酉年生まれだから、8歳年下になる。1924年生まれのお袋の実弟、5歳下。1923年9月1日の関東大震災が起きている。

 叔父貴は終戦の年に16歳、択捉島にいた。3年間ロスケ軍政下で生活して日本に戻ってきた。ピストルで脅されたりしたが、実際に発砲することはなかったという。日本人の青年男子は漁労に従事していた。択捉島での漁は、戦後のソ連の食糧増産のために重要だったらしく、かなりきつかったようだ。

 日本へ戻ってきてから、団塊世代のわたしが幼稚園児のころ数か月間あるいは1年間くらい、根室に来て一緒に暮らしたことがあるので、T叔父貴はわたしには親戚というよりも家族の感情が強い。昭和23年にソ連から引き揚げてきたときには19歳、両親はすでになくなっていたから、苦労したのだろうと思う。
 択捉島蘂取村の前浜の漁場の権利は叔父貴名義になっている。長女であるおふくろは、結婚しなかった妹の老後と死後を心配して、弟にその管理を委ねた。叔父と同じ漢字の名前の叔母は叔父貴が供養している。義務と権利は一体というのが母の考え。
 満州で戦死した兄が生きていれば、長兄が相続しただろう。戦前の択捉島は根室の漁師の3倍の漁がある「宝島」である。北方領土が戦後50年くらいで戻ってきてたら、T叔父貴の暮らしはまったく違ったものだっただろう。

 家に上がって、挨拶をし、線香をあげて、それから8年ぶりの再会を喜んだ。とっくに車の運転をしなくなったので、根室に出てくることもない。根室の自衛隊に勤務している息子がいる。息子に会うのは2度目である。11時から三七日の法要をやっていたのだが、胃と胆嚢の全摘・リンパ節切除・大腸一部切除しているので、わたしは午前中は体調が悪く車での移動は11時すぎないと無理、道の駅「おだいとう」で珈琲を飲みサンドイッチを食べて、午後1時過ぎに標津についた。ちょうど法事で集まっていた人たちの最後の一人が帰るところで、見送りに表に出てきていた。

 戦時中は秘密部隊の落下傘部隊員だったオヤジが60歳ころに標津までサイクリングで行ったついでに叔父貴の家を訪れた話や、標津が本店の蕎麦屋福住でそばを食べて、「うまいそばだ」と褒めた話、根室のヤクザの親分だったT嶋さんとオヤジの話など、たわいもないことを小一時間ほど話した。自分の目で見たT嶋さんとオヤジの話を叔父貴が教えてくれた。昭和28年ころのことだろう。
 親分のT嶋さんは、幹部5人にしかオヤジのやっているビリヤード店への出入りを許可しなかった。親分のしつけがきびしいのか皆さん言葉使いはよろしいしとっても行儀がよかった。あるとき幹部でない組員が親分へ連絡事項があって店に来たことがある。「ここは、〇〇さんの店、お前たちは出入りはならぬ」とぴしゃっと云い渡した。店番していて自分の耳で聞いておやっとおもった、堅気のオヤジをまるで兄貴分扱いするようなT嶋さんの態度がふだんから不思議だった。お袋に話しかけるときに「姉さん」というのも。
 理由はずっと後で、オヤジの通夜の席で旭川のN叔父から聞いて知った。戦後まもなく、富良野で映画館でヤクザ屋さん5人ばかりに因縁つけられ、「顔を貸せ」と囲まれてトイレに連れ込まれたことがあり、数分後にそこへN叔父がいくと5人とも倒れていたそうだ。落下傘部隊員は正規兵3人を相手にして互角に戦えるほど厳しい訓練を経ている。オヤジは終戦数か月前の「加藤隼戦闘隊」という戦時宣伝映画の降下訓練シーンの撮影で、最終降下役、すぐ前の隊員が降下気迫を失いためらったので、押し出しながら飛び出したら、主導索に腕をひっかけて右腕複雑骨折、終戦まで別府温泉や青森の温泉で療養。その後遺症で戦後数年間は右腕がほとんど上がらなかったのである。昭和22年にお袋とお見合いしたときに、上がらない腕で箸をもって、顔を箸に近づけて食事していたオヤジを見て、傷ついた兵隊さんの妻になろうと思ったのだそうだ。満州で戦死した兄のことが頭をかすめたのだろう。オヤジは軍隊に入る前に町内対抗の自転車選手だっただけでなくボクシングもやっていたから、左腕一本、ジャブで片付けたのだろうか、おそるべし、落下傘部隊生き残り。それ以降、富良野のヤクザは道路ですれ違うとオヤジをよけて歩いていたと、N叔父が大笑いしながら話してくれた。オヤジは兵隊時代のことを面白おかしく聞かせるのが得意だったが、N叔父から聞いたような話は聞いたことがなかった。旭川のN叔父は、「同じことだろうよ」とほほ笑んだ。Nさん、技術が優秀なので運輸大臣賞をくれるというのに、断るような頑固な畳職人だった。
 それで、オヤジが決して続きを言わなかった話の合点がいった。戦後の食糧難で富良野で野菜や穀物コメの買い付けをして根室へ運んで売っていたことがある。そのときに、T嶋さんは鼻っ柱の強い若頭だった。緑町に松乃湯という銭湯があって、そこで目と目が合って、「表へ出ろ」、応じて外へ出た。話はそこまで、あとは決して語らなかった。二人には愉しい思い出だったのかもしれない。T嶋さん素直なのである、以来、オヤジは兄貴分扱いだったというわけ、オヤジはなんとなく迷惑そうだった。でもチンピラが店に出入りしないのはありがたかった。(笑)

 小学生低学年のころから、空きになると石炭ストーブの焚き付けにざっぱを鉈(なた)で叩き折ってたくさん積んでおくが、わたしはそれを素手でやっていた。手刀や拳骨で叩き折るのである。生渇きの木が混じっているので、撓(しな)って折れないことがある、そういう生木を繰り返し叩くと次第に折れるタイミングがわかってくる。気を入れて本気で高速で叩けば百発百中だということがわかり、そういう叩き方を身体が覚えてしまった。何千本も手刀や拳で叩くから、手刀は次第に固くなり、拳の骨密度も大きくなりパンチが重くなる。重い鉞(まさかり)を全力でふっていたからか、両腕がよく発達して人より10㎝ほど長い。(笑) 空手をやっている人は拳にタコができるが、小学生低学年から繰り返していると、拳ダコができない。だが、破壊力は拳ダコのある者よりもおそらく大きい。当時は廃材もふんだんにあり、五寸角の角材も混じっていた、いま五寸角の柱を使っている家はほとんどないだろう。長柄の大きな鉞でも一発では折れてくれない。振り上げて体を後ろにしならせて背後の土に鉞の鉄部がついたら、ゆっくり振り上げて、振り下ろす瞬間にギュッと握りしめながら、渾身の力で叩く。十数回繰り返すと叩き折れる。四寸角の柱ならもっと楽だ、三寸角の角材なら、2-3発で叩き折れる、まれに一撃で折れることがあった。五寸角についた鉞の刃のあとをみると、どれくらい正確に狙い通りにあたったかが確認できる。渾身の力で一か所を狙って打ち下ろして、1㎝の幅に収めるのは、よほど腰が安定して、振り下ろし方が一つの型にまでならないとできない。住宅用柱に使われているのは現在では三寸角である。正確に振り下ろして、当たる瞬間に握りしめて渾身の力で叩きつける。ぼきっと折れるとスカッとする。
 家の裏庭でそんなことを繰り返して遊んでいると、オヤジはそばを通り過ぎても何も言わない。毎年廃材の角材や焚き付け用のザッパをたくさん預けて、好きにさせてくれた。中学3年生になると、オヤジに頼んで砂とセメントを買ってもらい、混ぜてコンクリートを練って、鉄パイプの両側に太い針金を巻き付けてコンクリートで固めた。40-50㎏くらいのお手製のバーベルの出来上がりである。左官職人がモルタルの壁を塗るときにやっているのを見ていたから、やってみたくなったのだ。真似してやってみたつもりでも、数か月で壊れた。(笑)
 ビリヤード店にはベンチがある、それの片側を箱の上に載せて傾斜をつくり、高い方にベルトを撒いて両足をひっかけて、腹筋する。20セット5回を日に何度か繰り返したら、次第に腰が痛くなり、逆療法とばかりにさらに回数を増やすと、二階の居間へ階段を這って上がることになってしまい、腰が痛くて、病院へ行った。医者が腰を触って、「なにをやったんだ?」と訊く。説明すると、やりすぎで炎症を起こしているから、しばらく休めと叱られた。中学生や高校生のときにはずいぶん無茶をした。30度ほど傾斜をつけてシットアップすると20回が60回くらいの負荷になる。朝早く起きて5セット繰り返す、気が向くと時間をおいてまた繰り返していた。
 鉞で背筋が、シットアップで腹筋が、ザッパ割で手刀と拳が鍛えられた。見かけとは裏腹に血の気が多かった。お袋が亡くなる数年前に「お前が高校生のときに、T嶋が「息子に何かあったら言ってくれ」そう言ったことがあった」と教えてくれた。T嶋さんはわたしに一度もビリヤードをやろうと言ったことがないし、一度もゲームしていない。常連客でゲームをしなかったのはT嶋さん一人しか記憶にない。表面(おもてづら)とは違って、わたしに血の気が多いことを見抜いていたのかもしれぬ。
 高校卒業してまもなく東京・新宿で、ヒロシとムサシの三人でパンチボールを叩いた。腰のひねりを加えて一撃すると180㎏の数字が出た。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いた。腕に覚えのある二人は150-160㎏、かなりのパンチ力だった。
 180㎏はプロのボクサーの強打者並み、そして拳は空手家と同等の破壊力なら凶器そのもの。踏み込んで叩いたら、3割くらいは衝撃力が増すだろう。中指のところが他より突き出ているから、その1㎝くらいのところへ破壊力が集中する。顔面ならどこを叩いても骨が砕ける。歯を折るだけではすまない。側頭部にまともに当たれば頭がい骨骨折、脳挫傷で即死だろう。一番硬い額を叩いても同じことだ。加減した叩き方はできないから、素手で人を叩いたことはない。殺人罪で一生を棒にふるようなことはできぬ。
 中三の冬に仲の良かった友人のK池と何かのはずみで喧嘩になったことがある。どちらからともなく外に出ろと雪が50㎝ほど積もった校庭へ、そして取っ組み合いの喧嘩をした。身長は互角、肉付きのよい奴だったから重くて投げ飛ばすのがたいへん、大けがさせたくないから素手ではなぐらない。10分もお互いに雪の中に投げ飛ばし合っていたら息が上がってへとへと、勝負がつかない。雪の中へ何度投げたり投げられたりしても、ダメージはない。そのうちに廊下の窓を開けて3クラスの数十人がワイワイ言いながらみているのでばかばかしくなり、二人とも雪の中で大の字になり大笑いして仲直り、愉しい喧嘩だった。K池、中学校を卒業してから一度もあっていない、転勤族の子どもで性格のよい奴だった、どうしてるかな。先生たちは生徒同士の喧嘩に干渉しない。光洋中学は1学年10クラス550人。


 話を元に戻そう、標津の叔父貴の息子に年齢を聞いたら、ちょうど一回り下、同じ丑年生まれだった。中学生の時に一度だけ標津を訪れたことがある。そのころ、T田さんが標津駅前で親戚が床屋を営んでいた。少し離れたところに母の叔母の家があり、漁師をやっていた。羽振りがよかった。家には馬が一頭いた。標津町には親戚が数軒ある。そのときに、叔父貴の家までは行かなかった。少し離れていて不便だったからだ。今日、初めて訪れた。

 叔父貴は帰路の運転を心配して、早く帰れとせかす。夕方になると鹿がでるから車の運転が危ないと心配するのである。来る途中に3度草叢(くさむら)にいる鹿を見た。根室市内も鹿が多いので、衝突事故がたまに起きている。時速80㎞なら車は全損だし、ケガもする。70㎞でも突然林の中から飛び出してくる鹿はよけきれないので危ない。だからと言って、よけきれる時速40キロで走る車はいない。軽トラを運転しているお年寄りが時速100㎞超で追い抜いて行った。ずっと飛ばして、見る間に小さくなっていく。道路わきに林のあるところはいつ鹿が飛び出してくるかわからないから要注意だ。角が半分獲れた雄が一頭いた。

 叔父貴はまだ元気なようす、百歳まで生きてくれたらありがたい。母方のほうは叔父と叔母とそれぞれ一人ずつしか残っていない。83歳の叔母は叔母というよりも歳の離れた姉という感情が強い。中高生のころは呼び名も「〇〇お姉さん」と呼んでいた。
 母の兄は満州でソ連軍と戦って戦死、長女だった母は平成23年に亡くなった。叔母たち3人はお袋よりも先に逝った。オヤジのほうの兄弟姉妹も全員亡くなっている。昨年は釧路の従兄が一人逝った。

 帰路、道の駅「おだいとう」に寄ってソフトクリームを食べた。人の数よりも牛の数が多い別海町だから、そこの牛乳を原料に造られているソフトクリームはとってもおいしい。¥350、お値段以上の味、コーンも特別なものを使っている。おススメの一品です。

 叔父貴に久しぶりに会って、昔話をちょっとしたのでこころがうきうきしている。

<余談:理不尽>
 8年前にT叔父にあったときに、「墓参りに行きたい」と言っていた。1週間おいて続けて亡くなった父親と母親の墓があるが、一度も墓参に行っていない。年が明けてから千島歯舞居住者連盟の事務局のある千島会館へ電話して、電話口に出た方に訊いてみたら、今年の分はもう締め切ったとつれない返事。「叔父は島民1世で引揚者、なんとかなりませんか?」と畳みかけても、「無理です」、様々な全国組織に割り当てられていて、根室への割り当てはあまりないのだそうだ。
 T叔父は島民1世で、かつ引揚者でもある。20回30回といっている人も少なくない。高齢であることから、体力がもたないのでとっくにあきらめている。あきらめも癒しの一つだろう。
 わたしもスキルス胃癌になる前は、墓参りをしてみたい気があったが、いまはない、とても体力がもたぬ。病気を患い体力が失われて行けないのだから、私自身が墓参できぬことに理不尽さは感じない。
 母は生前、(択捉)島には複雑な思いがあると言っていた。墓参には一度も行っていない。前浜で川に遡上してくる鮭で竹竿が立つと魚の密度の濃さを表現していた。魚群が密で川に立てた竹竿が倒れないのだそうだ。長兄が川に入って鮭を両手で掬って川岸へ何匹も跳ね上げる、そして腹を裂いて筋子をとる。「樽に一杯とっても食べきれないから、その辺にしたら?」と声がかかる。戦前の話だから冷蔵庫はなかった。そういう話をするときに、母には情景が見えているようだった。辛く悲しかったことばかりではない、いいときもあった、懐かしい思いはあったのだろう。
 漁が豊富なだけに、漁業権をめぐって、島には島の事情があった。一回りしか離れていない末っ子の叔母からそんな話を数年前に聞いた。財産が人を不幸のどん底に叩き落すことがある。しかしそれで生まれてくる命もあるのだから、禍福はあざなえる縄の如し。運命は受容するしかないのである。恨みつらみは人を不幸にするだけ、そこを乗り越えたら幸福が待っている。
 オヤジは「戦友たちはみんな戦死した、俺は幸せだ、戦友たちは結婚もせず、子どもも残さず、靖国で会おうといって出撃して戻らなかった」。大腸癌の手術をした後に、東京へ来て、靖国神社へお袋と一緒にいった。お袋は満州でソ連軍と戦って戦死した兄を弔うつもりだっただろう。そのときに、オヤジは万里の長城へ行ってみたいと言った。戦時中朝鮮や中国にいたことがあったからだろう。医者には無理だととめられていた。翌年再発して手術したが、「開け閉じ」。5か月後に全身転移で亡くなった。死んでもいいから万里の長城への旅行、行かしてやりたかった。
 大学のゼミの指導教官である市倉宏祐教授(哲学)は元特攻隊の生き残りである。オヤジと同じ1921年生まれだ。市倉先生が遺した『特攻の記録 縁路面に座って』は弊ブログに同名のカテゴリーがあって、そこに全文を貼り付けてある。遺稿の編集委員伊吹克己専修大学教授の好意で電子ファイルの原稿を送ってもらった。クリックすれば読めるので、哲学者による唯一の特攻の記録をたくさんの人に読んでもらいたい。


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