#4121 社会人になってからの仕事のルーツは高校時代にあり Nov. 11, 2019 [90.根高 こもごも]
1964⇒1966
<序論>
昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。
(昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチはスリークッション世界チャンピオンの小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチは町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)
<序論>
昭和23年と24年早生まれの団塊世代が根室高校へ入学時、男子は丸刈りという校則があった。わたしは一度も丸刈りにしたことはなかったが、しかたなく中3の冬休みに丸坊主頭にした。冬休みが開けると、坊主頭の同級生が増えていた。当時は一学年普通科4クラス200人、商業科3クラス150人、合計350人だった。根室高校はもともと商業高校で、戦後しばらくの間は釧路湖陵よりもレベルが高かったと「釧路の教育を考える会」の角田会長から聞いた。会長の角田さんは北大卒で元釧路市教育長、生粋の釧路っ子である。
北国賛歌を飯田三郎氏と一緒に作詞した田塚源太郎氏は国後島の大漁師の息子で根室商業、職業は歯科医だったから、根室商業から大学歯学部へ進学。根室印刷の会長である考古学者の北構保男先生は国学院大学文学博士、大正6年生まれで、お二人は根室商業同期生。年齢は下だったはずですが、歯科医の福井先生(先代)がご近所でした。昭和30年代のことですが、根室新聞に福井先生が書かれた時代小説と現代小説が数年間連載されてました。歯科医をやられている息子さんは目元がそっくりです。平成3年だった、たまたま帰省してビリヤード店の店番をしながら、ゲームしていた時に、来店されて、「トシボー」と声をかけてくれました。その時には癌の末期でお痩せになって顔の色が茶色になっていました。肝臓がやられているなとすぐにわかりました、それから数か月でお亡くなりになっています。品のよい、いい先生でした。田塚先生も福井先生もビリヤード店の常連客でしたから、小学校へ上がる前から可愛がってもらいました。背が届かないので「ちょっと失礼します」といって台の上に上がって撞きます。ほんとうはルール違反ですが、子どもだったから面白がって相手してくれました。北構先生は1軒おいて道路を渡ったところが根室印刷でしたから、オヤジと出遭うと道路上で大きな声で立ち話をする人です。気取らない、ざっくばらんなインテリ、そういう大人が身近にいたことはとっても幸せなことでした。
(昭和天皇のビリヤードコーチだった札幌の吉岡先生も毎年ラシャの交換作業をしに根室へ来ていました。来ると、旅館に泊まらずに家に泊まってくれてました。とっても品のよい白髪のお爺さんでした。使う言葉が違うんです。札幌でデートしているときに突然「トシボー」と呼ばれて誰だろうとみると、吉岡先生。ライオンズクラブで献血運動をしていました。ああ、彼女とデートだなとニコニコしながら、「献血していきなさい」「はい」、びっくりでした。彼女にまってもらって献血しました。献血手帳をもらって、それから西新宿駅前で数回献血しました。それが所沢のおじさんが日大駿河台病院で手術するときに役に立ちました。平成天皇のビリヤードコーチはスリークッション世界チャンピオンの小林先生、新大久保駅前でビリヤード店をやっていました。小林先生にも習っています。毎年常連会の忘年会で小林先生と一緒にお酒を飲んでビリヤード談義してました。小林先生が試合でしか使わないチョークを一箱いただいたことがあります。ダイヤモンドが混ざっているかのようにキラキラしています。橋ギリギリの撞点でもミスショットがありません。一度練習で使っていたら、先生慌てて、「ebisuさん、それわたしは大会でしか使っていない…」、それ以来常連会の大会と高田馬場ビックボックスで行われるアマとプロ混在の大会でだけ使いました。小林先生、メーカーがつぶれてしまって手持ちの貴重な在庫を一箱常連会の年に一度の大会にわたしにくれるために供出してくれたのです。わたしがドローショットのときに、厳しい撞点を打ち抜くのをちゃんと見てくれていたんです。12個のうち8個くらい残っているはず。東京の家を探せばどこかにしまってあります。世界最高品質、プロ垂涎のチョークですが、もう使う機会がありません。世界大会に出場できる腕前の人にあげたい。令和天皇のビリヤードコーチは町田正さん、アーティステックビリヤード世界2位、ボークラインゲームを3ゲームだけお願いしたことがあります。ボークラインゲームの全日本チャンピオンですから、もちろん、情けないほど相手になりませんよ。(笑)かれのお父さんが八王子でビリヤード店をしていましたが、そちらで教えていただきました。半円形にタップを削る技術はお父さんに教えてもらいました。お父さんはプロのコーチですが、「ebisuさん、あなたはコーチ料要らないから毎日来なさい」と言われました。筋がいいと褒められたのです。仕事が忙しくてたまにしかいけませんでした。町田先生と小林先生に教えていただいたことは、ノート50ページほどにまとめてあります。セミプロの技術書ですからこういうレベルの解説書は市販のものはありません。誤解を生じるから書かないと小林先生はおっしゃってました。一知半解でああだこうだという人が必ず出てくるのだそうです。八王子の町田先生のところには鉄製のキューがありました。町田正さんはそのキューで毎日素振りしていたんです。わたしがみた中では一番キュー切れがよかった。シルクハットというテーブルの端から端まで使うダイナミックなL字マッセはそういう道具で練習した成果でしょう。ショットに「切れ」がないとできない技です。ショットの「切れ」は天性のもの、そしてそれを磨きに磨いて初めて世界に通用する。「切れ」の好い者は上手になります。根室では西井さんという人が最高でした。全日本のアマチュアチャンピオンにはなれたと思います。全日本チャンピオンの小柴さんが常連会で一緒でした。何度か試合してますが、彼のキュー切れも素晴らしいものがありましたが、西井さんの方が上です。昔の写真を見てそうわかります。構えがいいのです。構えを見ただけで腕のほどはわかります。西井さんはebisuよりも一回りほど年長でした。家庭が裕福でしたから高校時代からビリヤードをやってました。
3代の天皇のビリヤードコーチ、吉岡先生・小林先生・町田正先生に教えてもらったのは日本で私だけです。根室から東京へ出て行ったときに、東京の有名なビリヤード店を回ってみようと思っていましたがこんな形になるとは夢にも思いませんでした。小林先生には三つ玉の常連会で特に親しくしていただきました。根室っ子には一度は東京に出てみろと言いたい。世界は広い!)
わたしが根室高校を受験した年は、団塊世代の入試は普通科がほぼ定員通り、商業科は2倍を超えていた。市内全部の中3が1000人ほどいたから、根室高校への進学率はざっと1/3。当時は私立の根室明照高校があった。校舎は大徳寺境内に併設されていた。中学を卒業して就職する生徒も少なくなかった。
1.<生徒会・会計は財務大臣>
入学する前から、丸刈り坊主頭の校則があったから、高校へ入学したら、変えてやろうと思っていた。思っていただけで、具体的な算段があったわけではない。
高校1年の終わりごろに、生徒会会計に指名された。指名されて初めて生徒会会計を云う仕事があることを知った。その当時の生徒会会計は、選挙ではなくて指名制で、各部の部長との予算折衝と予算編成、帳簿の記入と決算業務が会計に任されていたから、簿記がよくできる生徒が指名されたようだ。権限は絶大だった。1年先輩の仲野さんがわたしを指名してくれた。それまで仲野さんとは話をした記憶がない。どうしてわたしを指名してくれたのか理由がわからない。妹さんとは小学生のときに同級生だった。会計の仕事は国でいうと財務大臣のようなもの。仲野さんは、わたしが2年生の時に各クラブ部長との予算折衝を一人でやらせてくれた。任せたからには口を出さなかった、好い先輩に巡り合っている。大学も一緒だった。副会長の古御堂さんと二人で「おんちゃ」とわたしのことを親しみを込めて呼んでいた。優秀な先輩二人ががっちりバックアップしてくれたから、思う存分仕事ができた。どこかかわいげのある後輩だったのかも?
生徒会・会計の経験が社会人になってから仕事で生きた。28歳で中途採用してもらった産業用エレクトロニクスの輸入専門商社では9月に入社1週間後にプロジェクトを5つ任され、すぐに予算編成と予算管理、資金管理などの仕事を担当させてもらった。35歳(1984年)に転職した従業員規模が3000人のSRLでも、2か月後には統合システム開発を任されただけでなく、予算編成と予算管理を任された。当時の予算規模は300億円。根室高校生徒会会計の経験が生きた。やり方は一緒である。ソニーの経営に関与してみたかった。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)
2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。
3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学法学部出身で学生運動したことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒して軽くブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)
4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。
5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない。
1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?
6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、高橋先生は勉強家で努力家、そして信念の人だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。
(ソニーがはじめて中途採用の全国募集をしたことがあった。事務部門は150人の応募、3次面接の2人まで残った。10時からの面接なのに、理由も言わずお昼過ぎまで待たされた、「お腹すいちゃった」といったらびっくりされた。ソニーはこんな会社になったのかと、こっちが驚いた。採ってはもらえなかった、二人まで絞り込んだのに規格外のわたしを採れないなら、ソニーの未来は危ういとその時に思った。
高校1年のとき(1964年)に3万円くらいの、オープンリールのソニーのテープレコーダーを使ったのが最初だった。新製品が出る都度、買い求めて使った、ソニーのつくるものに愛着があったのだが、中途採用の全国募集をしたころには何かが変わり始めたと感じていた。「ICZ-R260TV」が昨年買ったソニー製品である。同じ製品でも5割高くていいから、日本の工場で生産した堅牢な製品も並行して販売してもらいたい。製品番号の末尾に「J」マークをつけたらどうか。モノづくりのソニー、もうそういう会社ではないのかもしれない)
2.<丸刈り坊主頭の校則改正の動機と経緯>
2年生になって秋に修学旅行が予定されていたから、その3か月前までに校則改正をしようと、会長の関さんと副会長の古御堂さん(後に室蘭税務所長)、端谷さん(後にヤクルト釧路支店長?)へ持ちかけたら、かれらはもう修学旅行がすんでしまっているので、「ebisu、おまえがやれ」ということになった。社会人になって会社に勤務してからもそういうことがよく起きた。何か改革を提案すると、「おまえがやってみろ」とその仕事に必要な権限を委譲してくれることがよくあった。そういうことは高校生徒会から始まっていた。わたしの場合は、根室高校生徒会活動が人間形成や、仕事のやり方を学び、経験するのに役に立った。
校長や生徒会顧問は校則改正をしたくない、生徒会顧問は3人いたような気がする。彼らが弱いのは保護者である。保護者が校則改正を望むなら、学校側としては仕方がない、面子(めんつ)の問題がなくなる。そこで生徒と保護者にアンケートをとることにした。髪の毛は体の一部で、それを規制するというのは基本的人権に抵触するのではないかという一文を入れたアンケート原案を作り、生徒会役員みんなでチェックして、ガリを切って輪転機で印刷し、全校生徒に配布した。狙い通りの結果が出た。アンケートは質問の仕方や答えの選択肢の書き方次第で、ある程度誘導できる。
結果を集計して、全校集会を開き、満場一致で、修学旅行3か月前に校則改正をした。スケジュール通りに事を運んだ。修学旅行は、東京・京都・大阪・奈良、11泊12日、スケジュール通り、3か月でなんとか髪が伸びて都会を歩き回れた。いま、根高の修学旅行は大阪・京都・広島で4泊5日だそうだ。先週2年生が修学旅行、土曜日に戻ってきた。今日は休みだろう。
3.<生徒会・会長選挙の経緯と生徒会運営>
2年生の時に生徒会回線の選挙があった。副会長の古御堂さん(商業科)と端谷さん(普通科)から、二人が応援演説するから、会長選挙に立候補しろと話があった。そのつもりで生徒会顧問へ立候補を伝えたら、生徒会会計だから駄目だという。会計業務は後輩に任せることができるし、わたしも任されてやり通した。両方やることだって別段の無理はなかった。なぜだと問うと、口ごもる、どうやら校長が反対しているようす。総番長のヒロシとは息があっていたし共産党のグループとも友人関係でつながっていた。丸刈り坊主頭の校則改正をやったことも警戒を生んだ。民青の矢臼別キャンプにも1年生の夏休みに参加していた。先ごろ市議を引退した共産党の下〇さんだったかな、当時は専従だったからよく知っていた。社会主義は1960年代は流行りだったから、上級生たちのよく見知った顔が出入りしていた。そのなかに上級生の総番グループが混ざっていたのは意外だった。わたしは同級生のA野と一緒に出入りしていた。卒業してからあいつはいつのころからかずっと共産党員である。頑固なところがあるが根はまっすぐだから、組織内では縁の下の力持ち、下〇さんとはまるで性格が違っている。根室高校にはこのころ時事問題研究会があり、中央大学法学部出身で学生運動したことのある谷口先生が顧問だった。セクトは革マル派だったはず。普通科の十人くらいが影響を受けていた。そのうちの一人が幼稚園の幼馴染のF岡だった。東大安田講堂で立てこもって逮捕されたと噂に聞いた。もう一人有力メンバーにT部がいた。生徒会副会長だったかな、女傑だった。上智大学へ進学した。根室高校には3派存在したことになる。もう一つの勢力は総番グループである。
生徒会長立候補の件では生徒会顧問の先生が間に挟まって困っている様子だったので退いた。強引に立候補してもよかったが、顧問の先生が理由が言えずに困った顔をしたので、立候補はとりやめた。古御堂さんと端谷さんには「会計やっているので会長立候補はダメと言われた」とだけ話した。代わりに、友人のH瀬に副会長に立候補させるので、応援演説をお願いした。話をした生徒会顧問の先生はどなただったか覚えていない。同じクラスのK尻や旧知の普通科のT岡が中央執行委員に立候補してくれたから、生徒会はわたしの意思で動かせた。ポストにこだわる必要がなかった。幸いに生徒会長には中学生の時に隣のクラスだったオサムが立候補した。中3のときに一人で褌を占めて、鉄砲や蹲踞してすり足の稽古するようなストイックなやつだった。夏に一度黙々と鉄砲に励むオサムに声をかけたことがあった。身長180㎝、ガタイよくてたった一人の相撲部員、面白い奴だと認めていた。かれはしばしば生徒会顧問と生徒会役員たちの板挟みになった。もめごとは嫌いな質(たち)なのである。人っ子がよくて辛抱強い。あいつが買ってもらったばかりの16段変速のロードバイクを乗ってきて、生徒会室の窓の下に置いていた。あの時代に速度計までついたロードバイクは誰も持っていなかった、ずいぶん高かっただろう。オサムににちょっと貸せと言って、根室高校から現在セブンイレブンのある角まで走ってみた。オサムは180㎝ほどあったが、サドルはそのままで大丈夫だった。買ってもらったばかりのあんな高級車だれにも貸さないよ、だけどそこがあいつの性格のいいところ。すぐに鍵を渡して貸してくれた。前をダンプカーが走っていたので、追いつけるか目一杯漕いだら時速70㎞にアナログメータが近づいたとたんに、赤い光が目に入った。ダンプが右折するのでブレーキランプがついたのだと気がつき、間に合わないので身体を右側に倒して軽くブレーキを掛けながらセンターラインを越えて曲がった。あの速度でよく曲がりきれたものだ。いまならとてもできぬ。オサムが買ってもらったばかりのロードバイクを危うくオシャカにするところだった。対向車線を車が走ってきたら即死だっただろう。赤い光が目に入った瞬間、命が爆発するように燃え上がった。危ない遊びほどぞくぞくする。あの瞬間に脳内麻薬のドーパミンがどっと出たのだろう、痺(しび)れるような最高の瞬間、いきなりレッドゾーン突入。緩い下りになっているが、いまあそこをいくら速く走ろうとしても時速50㎞がせいぜいだ。交差点に近くなったらしっかり速度を落とす。危ないから。すっかりビビりになった。(笑)
4.<生徒管理強化での衝突:名札問題の経緯>
3年になって、名札問題がもちあがる。校長あるいは生徒会顧問の一人だったK林先生の発案で、生徒全員に名札をつけさせるというのだ。大義名分は「生徒数が多いので、顔と名前が一致しない」ということだった。1学年350名だから全員で1050名、顔と名前が一致するのはわずかだっただろう。先生も百人近い人数だったのではないか。習ったことのない先生が半数以上いた。だから、生徒会顧問に「生徒のほうも先生の顔と名前が一致しない、先生たちも当然名札付けるんでしょうね」と念を押した。数人の先生たちにもそう伝えた。先生たちにも管理されるのを嫌う人が多い。職員会議でもめて、校長と生徒会顧問が発案した名札は流れた。
前年には丸刈り坊主頭の校則を廃止したばかりで、大きな流れに逆行するものだった。カチンときていたのである。端(はな)から新任の校長と発案者である生徒会顧問と戦争するつもりでいた。獲得目標を明確にして、戦略と戦術を練り、やるときはとことんやる。
万が一職員会議で可決されたら、名札を付けることは生徒の服装を規制するものだから、校則追加制定に該当し、校則の追加は生徒集会での賛否を問うのが定められた手続きだった。それを盾に生徒集会を開いて真正面から廃案にするつもりだった。味方になってくれる先生が数人いたので、職員会議の段階で廃案にできた。もめごとはわたしも小さい方がいい。
5.<酷暑のマラソン大会と熱中症による女子死亡>
酷暑28度の体育最終日、生徒全員参加のマラソンでゴールしてから、熱中症で十人以上が倒れた。男子20㎞、女子10㎞だった。コースは日影がほとんどない、数年に一度の気温、カンカン照りだった。当時は水を飲んではいけないというのが常識だったから、水をまったく飲まずに走り通した真面目な生徒が、ゴールしてから熱中症で意識不明となった。10名ほどが倒れた、救急車で運ばれたがそのうちの一人が亡くなってしまった。責任を取らされる形で、物腰の穏やかな校長が更迭されて、体育会系の太ったN村校長が赴任してきて、生徒管理を強めようとした。やるべきことは生徒管理の強化ではなく、判断ミスが起きないように体制を整備することと、マラソンでは水分補給をしっかりやるように指導することだったはず。それを、体育祭最終日のマラソン大会廃止にすり替えた。これでは教育的配慮などありはしない。
1964年、わたしたちが高校1年生の秋に東京オリンピックが行われ、アベベが優勝し、円谷幸吉が銅メダル、マラソン熱で国中がわいていた。その翌年のことだった。あれが根高最後のマラソンとなってしまった。経緯を知っている先生は根室高校にいない、このブログを読み事情が分かっただろう、スポーツ大会最終日のマラソンを復活したらどうか?
6.<反抗期と友人H:こどもだったな(笑)>
高校生での日商珠算1級は根室高校から初めて東大に現役合格を果たした横田さんが受験勉強真っ盛りの高3のとき、そして私が2年生で始めて、根室高校では二人目の合格者だった。横田さんはわたしよりも10個くらい先輩、横田市長の長男だった。道庁へ就職して、上川支庁長で退職している。根室高校長が、「東大を受験しようなんて身の程知らずがいる」なんて生徒集会で発言したという、笑える。きっと自分を基準に考えたのだろう。
1級合格には生徒集会で校長から直々に合格証書が渡されるが、名前を呼ばれても、出て行かなかった。ちょっとざわついた。N村校長から受け取るのは嫌だったから前に出て行かなかった。あとで、担任から教室で受け取った。担任は何も言わなかったが、校長から何か言われたはずだ。
珠算の全道大会は日商珠算能力検定試験1級の問題を半分の時間でやるので、それに比べるとどうってことのないスキルで、全道大会ではそれが最低レベル、しかし鍛錬を要するのは事実だ。珠算部ではないのに毎年珠算部顧問=担任の冨岡先生に頼まれて大会へ参加していた。いやT岡先生がわたしに直接頼んだことはないし、珠算部長のNさんからも頼まれたことはなかった。先輩の仲野さんがわたしに、「来週、全道大会行くからな」と告げると、わたしに拒否権はない、「はい!」と返事をする。1週間だけ練習に参加して、当然の顔で札幌会場へみんなと行っていた。それが愉しいのである。男は仲野先輩とわたしだけ、美人も複数いた。(笑)年に一度の懇親会のようなもの。大会出場はおまけだった。珠算部長は柏陵中学校出身のNさんだった。わたしはどういうわけか、光洋中学校の珠算部長だった。毎週、一日だけ後輩たちの指導をしていた。「計算実務」の「応用計算」種目はわたしだけ参加、複利計算や年金現価の計算や開平(平方根を求める)、開立(立方根を求める)、定率法減価償却など、50パタンぐらいも暗記してしまえば、簡単である。ただ、1問30秒で10ケタほど計算しなかればならないので、とっても忙しい。開平九九や開立九九なんていうのがあった。高橋先生から教えてもらったような気がする。よくあんな計算知っていたなといま思う、高橋先生は勉強家で努力家、そして信念の人だった。根室高校の先生でそういう指導のできる先生はいなかった。後に、全道大会の作問委員をやられていた。
ところで全道大会の応用計算では次のような形式の問題が出される。出題レベルは計算実務検定1級の問題、制限時間は半分。
「100万円を年率5%の複利で預けると、10年後にはいくらになるか。円未満は四捨五入すること」
数学的には簡単である。式は[1,000,000×(1+0.05)^10]、これを30秒で計算すればいい。当時は8桁の電卓が4万円もした時代である。高卒の初任給2か月分では買えなかった、算盤が計算道具として重要だったのである。女子はこういう計算が苦手だった。計算式を数学的に理解してしまえば、あとは簡単、単なるパターン計算になる。大学受験数学も同じで、そのパターンがおよそ10倍の500パターンある。頭のいい生徒はこれを200以下に集約できる。なるべく脳のメモリーを余計なことに使わないほうがいいのである。肝心な時につかえるエリアが狭くなってしまうからだ。
年が明けて、2年生の2月に日経協の簿記1級に二人合格した。生徒集会で合格証をもらうのは点数の高い方だから、わたしの名前が呼ばれた。この時は担任の顔を2度も潰してはいけないので、前に出てすなおに受け取った。 もう一人の合格者は後に21歳で税理士試験に合格することになるH瀬である。歯舞中学出身のあいつはよくできた。生徒会副会長にわたしが引っぱりだした男だ、ふさわしいのはあいつしかいなかった。ほんとうは会長職を頼みたかったが、会長立候補の話をもって行っても返事はノーだっただろう。名前が知られていなかった。資格を取ってからほどなく有楽町で税理士事務所を開いている、見込んだ通りの男だった。高校時代は簿記では定期試験でも検定試験でも結果を見ると一度もトップを譲ったことがない。あいつは昆布漁師の息子で、昆布干しの作業の手伝いがあったし、わたしは家業のビリヤード店の店番を毎日していた。どちらも家業を大事にしていた。好い奴と1年生の時に同じクラスになった。2年からは別々のクラスだった。1年の時に同じクラスでなかったら、あいつの気心を知らないから、2年の生徒会選挙に引っ張り出さなかっただろう。先輩の副会長2人に応援演説をしてもらうのだから、それなりの人選の責任がわたしにはあった。
7.<産学共同事業:市民珠算大会>
珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した。
第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。
いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。
慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい。
ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
8.<根高ラグビー部創設の経緯>
高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。
9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)
根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね。
10.<根室明照高校生徒会との交流>
根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。
11.<記憶に残る根高の先生たち>
担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。
7.<産学共同事業:市民珠算大会>
珠算に関していうと、わたしが卒業した年に、小学6か中1の生徒が二人全珠連検定試験五段に合格した。駒沢さんと多田さんという名前を記憶している。五段は日商珠算検定を半分の時間で合格するよりもレベルがずっと高い。高橋珠算塾の生徒である。そのご、高橋珠算塾では十段位もでたと聞く。高橋尚美先生の「男子一生の仕事」という情熱の賜物だろう。元々釧路の方だ。20歳くらいで根室で本町大岩米穀店の隣の2階で珠算塾を開いた。根室発の珠算塾だった。小学生の四人に一人は通っていた。花咲街道を挟んで根室信金本店の向かい側。家が近かったので、高橋先生とはビリヤードもよくやった。そちらはわたしが先生だった。(笑) 根室に知人友人を創るには、ビリヤードはなかなかいい手段だったかもしれない。そういう目的でマージャンもよくやっておられ、付き合いの広い人だった。
わたしは高校2年の時に、中大文学部へ進学した澤山先輩のあと、半年ほどピンチヒッターで汐見町の教室を任された。金曜日だけ曙町の本塾で教える高橋先生と交代して本塾のほうで教えた。高橋先生は「男子一生の仕事」と言い切るほど、熱が入っていたから、指導していると、次第に声が大きくなってしまう。塾生たちはビビッて手が思うように動かない。わたしがいく金曜日はほっとしていた。あの当時高卒の給料が1.5-1.8万円ほどだったが、夕方3時間ほどで8000円いただいていた。ビリヤードの店番もあったので、毎月高卒のサラリーマンの給料くらいお小遣いがあった。高度経済成長のいい時代だった。
珠算部顧問と高橋先生の仲が悪いという噂があった。珠算部顧問の冨岡先生が「卒業生に塾を開かせて潰してやる」なんて噂がまことしやかにささやかれていた。ところが、担任の冨岡先生から高橋先生の悪口は一度も聞いたことがなかったし、高橋先生も冨岡先生の悪口を言われたことがない。冨岡先生は珠算部顧問で、計算実務を教えていたが、算盤の扱いは素人、苦手だったと思う。計算実もの授業では教壇の前に大きな算盤を載せて、計算の実演をしなければならないのだが、算盤の後ろ側から珠を操作するのは厄介で、時々計算が合わない。わたしは数秒で計算を済ませてしまっているから、冨岡先生の珠の動きを見ている。どこで間違えたかわかってしまう。計算結果が合わないといらいらしている。そんなときに視線が合ったことがあった。カッとなって冨岡先生、チョークをわたしに投げつけたことがあった。大人げないのでよけもせずに胸のところへ当たって落ちた。計算実務の授業が苦痛だったのだろう。わたしが計算実務1級の問題を半分の時間でやることはご存じだったから、バカにしていると思ったのだ。わたしは代わりにやってあげてもいいと思っていつも見ていたのだが、珠算部顧問のメンツもある。いい思い出だ。
(簿記の白方先生は出張で工業簿記の授業ができないときには、わたしに問題プリントを人数分預けて出張していた、「出張でいないから次の時間これみんなにやらせておいて」、クラスのみんなもそれで誰も文句言わない。授業の説明を一番後ろの席で聞いていて、ややこしいところの説明が終わると、わたしのほうを見る、頷くと次に進む、首を横に振るともう一度説明をした。わたしは、2年生になる前に、工業簿記1級の問題集を1週間でやり終えていたから、工業簿記の授業は復習だった。何も言わなくても白方先生はわたしがそれくらいの勉強をしていることをご存じだった。だから、2年生の時に神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。そのときには公認会計士二次試験の受験勉強を始めており、金融機関へ就職するつもりだったから大学進学に興味がなかった。)
高橋先生は日商珠算検定1級の満点合格になんども挑戦するほどの名手。根室明照高校で珠算を教えていたことがあったらしい。根室高校と根室明照高校、それぞれで珠算の指導に当たっていたから、対抗心はあっただろう。両方の先生のそばにいたのにはわたしだけ、仲が悪いわけではなかった、たんに、疎遠だっただけ。話したことすらなかったはず。
高橋先生から、あるとき珠算の市民大会を根室高校で開催したいと相談を受けた。わたしが根回しするのがよさそうだから、根室高校側はわたしから珠算部顧問の冨岡先生に話して柔道・剣道道場を会場とすることや準備の段取りを決めた。珠算部員でもないのに、毎年、全道大会に出て貸しがあったから、冨岡先生すぐに動いてまとめてくれた。根室商工会議所主催で、根室高校珠算部顧問と高橋珠算塾が手を組んだ仕事になった。商工会議所の巻き込みは珠算塾側の高橋先生と板野先生が担当したのだろう。こうして根室初の産学共同事業が実現した。
第一回目はわたしが選手宣誓をやった。高橋先生が「選手宣誓」の原稿をもってきて、やれと指示。わたしは「ノー」とは言えないから、選手としては暗算部門だけ出場、あとは主催者側に回った。だから、初回の暗算部門の優勝者はebisuである。読み上げ算は6-10桁を高速で読み上げなければならず、やったことのない根室高校の先生たちには無理だったので、別の珠算塾の板野国雄先生と高橋珠算塾の高橋尚美先生、そして根室高校珠算部幽霊部員のわたしの3人でやった。珠算部長のN村さんは、高橋珠算塾にはいなかったから、板野先生の所へ通ったのだろう。もうひとつ安達さんのやっている珠算塾があった。妹のみどりさんが、根高珠算部で1年後輩だった。運指の綺麗な人が安達さんと同じ学年の後輩にいたが、名前が思い出せない、板倉さんといったかな。
商工会議所主催の市民珠算大会はわたしが根室に戻ってきてから何度か開かれていた。珠算人口が激減したのでおそらくもうやってないだろう。今年、釧路高専へ進学したM君が澤山先輩の珠算塾で小6のときに3段合格したと言っていた。野球部だったから、中学校では無理、ボールを投げると指が震えて、運指に差し支える。どちらかをえらばなければならないが、大好きな野球を選んだ。かれは野球が好きで、武修館から優れたコーチが来ていた別海高校へ進学するつもりだった。めずらしく文武両道だったから釧路高専への進学を勧めた。大学へ進学への道が残る。豊橋と長岡にある技術科学大学は国立だが、全国の国立高専から優秀な学生を3年次編入で受け入れている。釧路高専で上位1/3の成績なら、進学できる。さらにそのうちの上位1/3なら、大学院へも進学できる。あとは自分の努力次第と言って送り出した。還暦高専生の高木さんが同期生である。高木さんは元釧路市学校教育部長である。ユニークな人だ。かれこれ8年間ほどお付き合いがある。
根室の珠算人口が激減した。その一方で四則計算(加減乗除算)が満足にできない中1が増えた。分数や小数の計算ができない中1の生徒が3割はいる。小学生低学年で2年間ぐらい習わせたら、四則計算のできない生徒はほとんどいなくなる。毎日15分、1年間やらせるだけでもずいぶん効果がある。根室には五段以上の高段位を取得している女性が十数人残っているはず。もったいない、そういう人たちを講師にして小学校で教えたらいい。梅ヶ枝町2丁目の生徒S君のお母さんが五段位だった。S君は数年前に根室鉱区を卒業している。他の地域では五段位取得者はなかなかいないよ。根室には表に出てこないがこうした人材がいる、人財といった方がいい。根室市の宝だ。根室市教委はそういう人を掘り起こして使ったらいい。
いま、全国の病院で使われている臨床検査項目コードは日本臨床検査医学会が公表して臨床検査最大手のSRL内にある事務局からインターネットで配信されているが、これは大手臨床検査会社と日本臨床病理学会(当時)臨床検査項目コード検討委員会が5年ほどかけて産学協同の作業部会での検討をへて制定されたものだ。事実上の日本標準臨床検査項目コードである。これは、1985年の「臨床診断支援システム開発事業」構想がベースになっている。臨床検査項目コードを統一することで診断支援システムが稼働可能になる。入社した翌年この構想を書いて、創業社長の藤田さんから予算200億円の承認をもらった。臨床病理学会臨床検査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之助教授を引っ張り出して、大手六社との共同プロジェクトに参加してもらった。櫻林先生には入社後案歳ぐらいで項目コード検討委員会を手伝ってほしいと個人的に頼まれていた。創業社長の藤田さんにに言って手伝いができるように総合企画部への異動を働きかけるのでいいかと相談があった。SRLはもともと臨床病理学会長の河合教授の発案で、藤田さんが始めた事業である。だから、その一番弟子でSRL顧問の櫻林先生の依頼なら、藤田社長は二つ返事でわたしの異動を人事部へ命令しただろう。その時は統合システム開発と予算編成を抱えていたので、お断りした。だが、どこかでお手伝いするつもりだった。「臨床診断支援システム開発・事業化案」がきっかけになって大手六社を巻き込んで実現した。大義名分がなければ、こういう大きな仕事はできないものだ。
慶応大学産婦人科ドクターたちとの出生前診断トリプルマーカ―MoM値も産学共同プロジェクトだった。これもわたしがコーディネータ。3年かけて妊婦の血液を6000検体ほど集めて、日本標準値が制定できた。最近、第2世代のもっと精度のいい検査にかわった。20年間ほど日本標準の基準値だった。
こういう産学協同プロジェクトをコーディネートするのは、こうして書いてみると根室高校時代の市民珠算大会へ遡ることができる。高校時代はいろんなことを経験しておいた方がいい。
ところで、高橋珠算塾の汐見町の教室を任されていた時に、高橋先生は全珠連の全道の集まりにわたしを連れて行ってくれた。釧路までは砂利道だった、会場は帯広。十勝川温泉一泊のおまけがついていた。当時は混浴で、若くて美人でプリンプリンの巨乳の人が入浴してきた、目が点になり鼻血がでそうだった。あれは天からのご褒美だったのだろうか。(笑)
8.<根高ラグビー部創設の経緯>
高校2年生の時に、明大ラグビー部出身の村田先生が新任で赴任してきた。チャンスだと、友人数名にラグビー部立ち上げを相談した。村田先生に部員は集めるから、1年間ラグビー同好会顧問をお願いしたいと申し出ると快く引き受けてくれた。規定で1年間は同好会、様子を見て部へ昇格というのが手順だった。部へ昇格すると部予算が割り当てられる、そこは生徒会計形の一存で決められた。同好会の1年間は予備費から支出したのか記憶にない。明大のメニューでトレーニングしてくれたから、すぐに根室管内の強豪であった中標津高校に勝てるレベルになった。数年前に部員が居なくて廃部になったようだ。
大学でなにか部活をやった先生が赴任してくるようなチャンスがあったら、種目はなんでもいいから、その先生を担いで同好会、そしてクラブを立ち上げたらいい。指導がよければ道内ならすぐに強豪校になれる。
9.<総番制度廃止の経緯:ヒロシ>
もうひとつ、だいじなことがあった。総番制度である。2年生ときに3年生の総番グループと衝突があった。3年生の総番長グループの数人が民青に所属していたはず。総番グループが変質しつつあった。北海道新聞には「13対7の決闘」というようなタイトルが躍っていた。2年生13人3年生7人、全員停学処分である。3年生でケガをしたものが病院へ行って警察の知るところとなった。羅臼出身のニックネーム「やすべ」も退学処分。定期テスト前だったが、退屈だろうと思って、毎日行って花札をして12時ころまで遊んだ。ノートは見せたかな?いや、ほしがらなかったのではなかったかな。あいつのオヤジは根室管内で当時一番税金を納めていたが、下宿生活していたあいつは質素に暮らしていた。オヤジにねだればいくらでもお金は送ってくれただろう。やすべは本当は気弱なボンボンだった。高校卒業して札幌の水産関係の会社に就職、その夏に根室へやってきて、二人だけで酒を飲んだ。それ以来会っていない。2-3年前に癌を患い東京の病院で亡くなったと聞いた。会って昔話をしておきたかった。やすべとは3年間同じクラスだった。1年の時に同じクラスで仲の良かったオンネットの天野がいた。かれも総番グループの一人だった。美容師になって札幌で数か所店を開いて優雅にやっていたようだが、店舗を増やしすぎて一度倒産したと聞いた。高校卒業以来一度もあっていない。書くときりがないからこれくらいにしておく。
2年生の新学期からクラス編成がかわる。商業科はEFGの三クラスだが、一番端のGクラスに問題児が集められる。だからとっても面白いクラスになる。総番長のヒロシとも同じクラスになった、息があった。それ以来、お互いに名前で呼び合う。「ヒロシ」「トシ」である。二人だけで話す機会がよくあった。
かれに総番長に代々伝わて来た仁義の切り方を知ってるかと訊いたことがある、伝わってなかった。根室高校の総番制度は根室商業時代にできたもので、それが数十年にわたって代々伝わっていた。総番長は商業科という不文律があった。2学年上のY山さんは普通科だったが、プロレスラーのようなガタイ、不文律が不満だった。ヒロシと一緒に明治牧場を横断していた時に絡まれたことがあった。わたしたちが3年のときだから、卒業して2年たっていた。何か用事があって高校へ向かう途中だったようだ。
5年先輩の総番長は親戚のお兄さん、野球部のキャプテンでもあった。お祭りのときだけ、なんだか怖い顔をして、後ろに眼付きの鋭い不良を十数人従えて、足駄をはいて街中を闊歩していた。高校1年生の時に、代々伝わっている仁義を切って見せてくれた。ヤクザともめごとがあれば、根室高校を代表して仲裁交渉するのは総番の役目、だから相手の流儀であいさつしなければならない。「お控えなすって、さっそくお控えなすってありがとうさんにござんす。手前生国発しまするところ…」と立て板に水のごとく言いよどんではならない。文句を間違えたら殺されてもしかたがない、そういっていた。小さく折りたたんだ紙に台詞が書いてあり完全に暗記して、実演して見せてくれた。よほど練習したのだろう。腰を落として構えて右手を出し、映画のシーンを見るような見事なものだった。わたしは「まこちゃん」と呼んでいた。その仁義の台詞が総番のヒロシに伝わっていない。先輩の3年生たちも十人くらい知っていたが、伝わっている気配がなかった。総番制度はすでに中身が変質していた。仁義の台詞を小さく折りたたんで後生大事に持っていたところから推測するに、まこちゃんが伝えなかったのかもしれない。時代の変化を敏感に感じていたのだろう。ヒロシには仁義が伝わっていないようではもういいだろう、総番制度は廃止、グループは解散くらいのことは話していた。2年生に総番を継げるような人材のいないことも二人で話していた。
根高総番長には権力と責任が伴っており、いざというときには命懸けの覚悟が必要だったが、残念ながら、わたしたちのころはただのワル集団になりかかっていた。そこへ共産党という色の違ったものが1年生先輩たちを染めつつあった。解体する必要は感じていたし、ヒロシとそういう話をしたこともたしかにあった。土曜日に二人だけで高校から歩いて帰ることがあった。
わたしの記憶はそのあたりまでだが、同級生のA野の説明だと総番長とA野とわたしの三人で廃止を決めたのだそうだ。総番長のヒロシは矢面に立たされたはずだが、あいつは独りで収めてしまった、そういうやつだ、大物。ヒロシは勉強が好きではなかったが、それでも2倍の競争率を潜り抜けたのだから、そこそこ勉強はできた。副番3人のうち2人は大学へ進学している。勉強が好きになれなくても、統率力のあるやつは社会人になったときにそれが武器になる。ヒロシは50代である水産会社の役員になっている。わたしと同じ大学へ進学した副番長の一人であるTはあるテレビ会社の取締役東京支社長だった。総番グループには面白い人材がいたと言っていいだろう。同じクラスでヒロシを支えていたバスケット部のムサシは、しょっちゃんと同じ拓大へ進学した。こいつもいい奴、花咲港のボンボンだった。冨岡先生があるとき「おまえは花咲港駅から自分の地所だけをあるいて帰れる」と言ったことがあった。苦労知らずの人っ子のいい奴だった。でも、奥さんが早く亡くなって苦労した。底抜けに人のいい奴らが周りにたくさんいた。
下級生に総番にふさわしい人物がいなかったことも原因の一つだった。ただのワル集団なら伝統の総番制度とは似て非なるモノ。あれでよかった。ヤクザ屋さんともめごとを起こすようなはねっかえりも絶えて久しく、全体に小粒になってしまっていた。ヒロシは男気のあるやつ、酒を飲むとときどきはしゃぐ。(笑)
根室高校生は50年間でずいぶん幼児化してしまった。この数年間、高校生は毎週出されるプリントのたくさんの宿題にあえいでいる。これではまるで小学生ではないか。高校生を見ていると、自主性・自発性が根こそぎになったような感がしている。一部に、自主性が強く自立した生徒を見かけるが、稀だね。
10.<根室明照高校生徒会との交流>
根室高校と私立の明照高校は生徒会も部活も一切交流がなかった。根室明照高校生徒会長の北川さんと話をして、交流をしようということになった。当時もわたしは生徒会会計だったが、両校の調整役ぐらいはできた。決めてきて、生徒会メンバーに話せば、ノーを言う人はいない。そういう経緯で、根室高校生徒会室で一度だけ両校の生徒会メンバーが接触した。とくに何かを決めるわけでもなく、顔合わせくらいなことだった気がする。北川さんは1期だけ根室市議をやったが、前回の選挙では立候補しなかった。
部活の交流は女子バレーの練習試合を組んだ。明照高校のほうが運動神経のよい女子がたくさんいたはずだから、根室高校が負けると予想していた。ところが結果は明照高校の惨敗だった。わけがわからないので、明照高校バレー部にいた妹に、理由を訊いてみた。「お兄ちゃん、トスを上げると天井が高くて眩暈(めまい)がした」と言った。明照高校の体育館は、教室を二つぶち抜いただけで天井が低くてトス上げ練習できないことを後で知った。運動能力の高い生徒たちが気の毒な環境で部活動をしていた。何とかしてやりたかったが、なんともできなかった。
後に、根室明照高校が財政的に行き詰って、道立根室西高校になったのはまことに喜ばしいことだった。道立高校だから、根室高校と同じレベルの体育館が整備できる、それでハンディがなくなっただろう。当時の明照高校女子バレー部の部長はいまは親友の奥さん。当時は全く面識がなかった。それでも知っているメンバーが何人かいた。高校が違えば、中学時代に一緒に遊んでも、遊ぶ機会がなくなるのがふつうだった。
同じ根室の高校だから、年に一度は雑談でいいから集まって話をしようということになったが、3年生のときだったから、交流がその後続いたかどうか承知していない。こういうことは継続することがむずかしい。人が入れ替われば、続かなくなる。どうしたらいいのかわからなかった。
11.<記憶に残る根高の先生たち>
担任の冨岡良夫先生はまず筆頭に挙げるのが礼儀というものだろう。お兄さんが仕事で中国勤務になったので、高齢の両親の面倒を見なければならなくなり、根室高校を50歳くらいで退職して東京都大田区のご自宅へ引っ越された。そのあと、道路工事の仕事やスーパーマーケットの駐輪場の係をやって、みこまれて、自転車売り場の担当になった。東京で同期会がある都度冨岡先生は出席してくれた。あるとき、手をついて、「申し訳なかった、もっとちゃんと授業するべきだった」と謝られた。自転車売り場の主任になってはじめて仕事というものが分かったとおっしゃった。安物の1.2万円くらいの自転車は勧めない、「3年乗り回して、あるときパイプが腐食して坂を下る途中でぽっきり折れたら、どうします?、お値段相応にできているんです」、そう言いながら、3万円以上の頑丈な国産自転車を勧めるのだそうだ。自分のこどもや孫が、安物の自転車に乗って数年後に大けがしたらと思うと、いい加減な販売はできないとおっしゃっていた。頭が下がった。冨岡先生は三年生の進路相談のときに、釧路日銀支店を受けるように奨めてくれた。学校推薦はできるし、生徒会もやっているので、日銀を受けてみろと言われた。都市銀行に就職して、公認会計士の資格を取るつもりだった。「おまえが都市銀行を受けたら、受けたい同級生が落ちることになる」そう言われて、就職しそこなった。だから、わたしの大学進学は「瓢箪から駒」のようなもの、進学するつもりがまったくなかった、時間切れ、成り行きでそうなっただけ。高卒で日銀就職は嫌だった。冨岡先生のニックネームは「どん太」である。癌があちこちに転移して、その都度手術されていたが、数年前になくなった。
白方功先生は北見北斗出身で千葉商科大学出だった。簿記の教え方が優れていた。問題集は日商用のレベルの高いものを使って1年分予習してしまっていても、聴くべき内容があった。兵庫県立神戸商科大学への進学を強く勧めてくれた。受験科目を見て無理と思った。わたしたちが卒業してから、母校の北見北斗に戻って、しばらくしてから学校をやめてビジネスを始めたと噂に聞いた。ワインバーで飲んでいた時に製薬卸の営業の人と隣り合わせたことがある。北見北斗の出身だというので、白方先生知っているかと問うと、習ったという。北見北斗がテレビの取材を受けたときに、東京で放映された番組を見た。そのまんまだった。「バッキーしらかた」のニックネームで呼ばれていた。ずいぶん早く亡くなったようだ。
英語の沢井先生が懐かしい。1年の時に英語を習った。文型中心に授業をしてくれた。すっと頭に入ってきた。定期テストで50問ほど文型問題を出題された。1問だけ間違った、50点以上は二人だけだった。他の生徒たちには、先生の説明が呑み込みにくかったのだろう。低音のいい声で教科書を音読してくれた。卒業して数年後に釧路高専の教授となったときいた。中学生のときに2年半英語を教えてくれたE藤先生は文法的な説明を一切しない人だったから、自分で勉強する癖がついた。中3年の後半になって、一人だけAクラスに編入してもらえた。それまでBクラスだったのである。成績が悪いはずもないのになぜ2年生の時にBクラスにされたのか理由がわからなかった。E藤先生は教科書を3回読み、和訳されたらあとは雑談だけ。変わった教え方だが、2年半はそれがスタンダードだと思っていた。先生によって教え方はまるで違うし、発音もだ。高校2年と3年の時に担当してくれたH先生は、togatherとテゲェアザーと変わった発音だった。1年生の時に発音記号をマスターしていたから、ちょっと気になった。NHK英語講座をソニーのオープンリールテープレコーダに録音して、巻き戻し・再生のために大きなレバーをガチャガチャさせて英語の勉強をしていた。あのレバーは案外丈夫だった。当時はカセットテープレコーダがまだなかった、東京オリンピックの年、1964年のことである。沢井先生は北大出身。中高と4人の英語の先生に習ったが、沢井先生が最高だった。
35年ぶりに根室へ戻ってきて、数年たったころ、本町の海岸から双眼鏡で国後島を見ていたら、「ちょっと双眼鏡貸してくれない?」と頼まれ、振り向くと山田先生だった。生徒会顧問をしていたうちの一人だ。習ったことがないが、知っていた。「山田先生ですよね、昭和42年卒で生徒会・会計をやっていたebisuです」というと、家へ来ないかと誘われて、そのままご自宅へ。先生は郷土史研究会顧問を長くされており、それまで研究会がつくった郷土史関係資料をたくさん見せていただいた。山田先生のあの資料は誰かが引き継いだのだろうか?貴重な資料がたくさんあった。根室出身の方ではなかったが、お会いしたときに「根室の土になる」とおっしゃっていた。その言葉に胸が熱くなった。
ラグビーの村田先生はすでに書いた。あと、高校時代には習っていなかったが、中学生の時に日本史を習った柏原栄先生がいる。いまも根室に住んでおり、水晶島出身で北方領土返還運動に携わっている。北方領土返還運動の担い手の一人である岩田先生(一昨年逝去)とは花咲小学校で同僚だったはず。いまも西浜町会長である。黒板に不揃いの大きさで字を書く先生だった。字は一つ一つ丁寧だった。高校のときは倫理社会の先生が用事でいなかったときに、普通科でやった政治経済のテスト問題をもってきてやらせたことがあった。文系と理系のふたつに最後の問題だけ分かれていたが、ちゃんと両方書いた。政治経済は習っていないのだが、北海道新聞の社説と政治経済欄を小4から読み続けていたので、全問正解できただろう。ちゃんと勉強してるよと、メッセージを送ったつもりだった。門閥について柏原先生から質問を受けたことがあったから、2度授業があったのかもしれない。倫理社会の谷口先生が説明した通りに応えたが、間違いであった。辞書に書いてあることと違う説明をした。わざとではなかったが、「谷口先生の説明ではそうでした」と伝えた。柏原先生は光洋中学校教諭時代は歴史を教えてたから、門閥というような歴史に関係する用語の定義には厳格だった。谷口先生は時事問題研究会で幼稚園の幼馴染を煽っていたので、反抗心がメラメラしていたのかもしれない。共産主義を云々するなら、谷口先生には資本論くらい読んでからにしろと思っていた。生一本な幼馴染のFは安田講堂に立てこもって逮捕されることになる。門閥については谷口先生が、「俺そんな説明したか?柏原先生に叱られた」とぼやいていた。谷口先生は中央大学法学部出身、司法試験合格者が一番多い大学だった。当時は東大法学部の次にランクされる難関。校舎が八王子へ移転してからレベルが下がった。SRLの同僚だった加藤が中大法学部だった。大学紛争で東大安田講堂がロックアウト、そのあおりで入試は中止、それで中大法学部へ進学した、家が裕福でなかったから1年間浪人できなかったとは加藤の述懐。奥さんは東大理Ⅲの才女だった。2つ年下の加藤は平成5年11月に43歳で胸部ガンで亡くなった。弊ブログのどこかで書いている。惜しい奴だった。
写真展で柏原先生の桜の写真を見たことがあり、懐かしくて電話した。東京都内では診たことのない場所だったので、訊いてみたら大阪造幣局の桜だった。名前を覚えておられた。姉のことも母親のこともしっかり記憶されていた。すごい記憶力だ。どなたかのお葬式で2度ほどお見かけしたし、2年前の同期会にも出席してくれた、あいかわらずおしゃれ。いつまでもお元気でいてもらいたい。
柏原先生の歴史の授業をきっかけに成績が急激にアップしたので、恩人である。頭の中でビリヤード・ゲームを無限居続けられるが、柏原先生の特徴のある板書は、緑色のラシャの上を走る白い球と一緒であることに気がついた。授業の後で脳内に繰り返し再現できた。それを歴史、数学、理科、英語などの好きな科目に応用したら、特に勉強時間が増えたわけでもないのに突然に成績がアップしたのである。それからは勉強がとっても簡単、楽ちん、愉しいものになった。数分間、脳内に展開するだけで人の数時間分の効果があった。
野沢先生はバスケット部の顧問で、根室出身の先生だった。教えてもらった科目は「商事」、2年生の授業だったが、古い黄ばんだノートをもってきて、おもむろにそれを板書する。お酒が好きな名物先生だった。とっても人気があり、生徒たちはみんな「しょっちゃん」と親しみをこめて呼んでいた。しょっちゃんはわたしが大学を卒業して根室高校に戻ってくることを期待していた。もどってきたら、しょっちゃんの2代目だ。産業用エレクトロニクスの輸入商社へ中途入社したときに、道立高校の採用試験も受けていた。翌年、5月に留萌高校赴任の打診が来た。来週赴任してもらえないかという。入社早々社運を賭けるプロジェクトを社長から5つ任されていたから、放り出すわけにはいかなかったので、お断りした。高校の先生になってもどってきていたら、しょっちゃんと愉しく酒が飲めただろう。それはそれで楽しい人生選択。(笑)
合掌。
根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…
合掌。
根室高校の「時代(1964-1966)の当事者」としていくつか証言を書いた。誰かが書き残しておかなければ消えてしまう。消えていいのだが…
2019-11-10 15:43
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コメント(4)
根室管内は長年陸上長距離選手不毛の地なので、校内マラソン大会再開の機運がないのだろうと推測いたします。
北見市に北見緑陵高校という道立No1の駅伝強豪校で、今年の春に北見緑陵高校から東洋大に入学した選手もいるのですが
by 駒澤大の大八木監督ファン (2020-07-02 21:33)
駒澤大の大八木監督ファン
そうですね、たしかに長距離選手は育っていません。
有力な選手が出る出ないと校内マラソン大会はまた別の話です。
啓雲中学校は毎年納沙布岬まで22㎞ほどの距離を全校生徒が歩いていますが、2割ほどは走ってます。(笑)
53年前だったかな、根室にあった私立明照高校の校内マラソン、女子10㎞で折り返し地点までのタイムが16分でした。
5000mの日本記録が15分くらいですから、相当有望な高校1年生が一人だけいましたね。
羹に懲りてなますを吹いているだけ、再開したらいいんです。
男子20km、女子10㎞、根室の先生たち、再開してください。生徒会からも要望だしたらいい。体育祭は最終日のマラソン大会で盛り上がってました。
by ebisu (2020-07-02 22:00)
高校の校内マラソン大会で男子20km、女子10kmの距離は長すぎだと思います。全国高校駅伝の最長区間が男子10km、女子6kmを参考に距離を決めればよろしいかと。
by フレシアンブルー (2020-07-04 23:00)
フレシアンブルーさん
長すぎですか、54年も前のことですから、駅伝を前提なら男子10㎞、女子6kmですか。
それもいいかも。
今の子どもたちは、外で遊ばないし、体力も落ちているので、ちょうどいい。
でも、数名はハイペースで走り抜けるものがいるでしょうね。クラス対抗だから張り切るやつが必ずいます。
啓雲中学校は毎年納沙布岬までの23㎞を歩いていますが、納沙布岬に帰りのバスが待っていて、第一便が11時半にでるので、ほとんど走りぬいてしまう生徒たちが30人ほどいるようです。朝8時半出発です。
駅伝、数年に一人ぐらい有望な選手がでそうです。
復活してほしいな。
by ebisu (2020-07-04 23:24)