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#3371 ビザなし交流:ロシア語でのコミュニケーション July 21, 2016 [21. 北方領土]

 NHK総合テレビ「くらし解説」(朝10時)の番組を見ていたら、北方領土返還運動関係者が二人出ていた。
 そのうちの一人、ご婦人のほうが、ビザなし訪問で択捉島へ行ったときのことを語った。「地図を指差してロシア語で「ここに住んでいました」というと、ロシア人がたくさん集まってきて耳を傾けてくれました」、片言でもロシア語でコミュニケーションができると心も通う。北方領土返還団体はこういう配慮や努力をいままでしたこなかった、いい変化だ。
 ただ、「島を返せ」では一歩も前に進まない。いくつになっても学ぶ心を失ってはいけないのだということを教えてくれている。

 国内最大手の臨床検査センターに勤務して、学術開発本部スタッフとして2年間ほど仕事をしていたときの主たる担当は5つ。①開発部のメンバーの一人として製薬メーカと検査試薬の共同開発案件2件と各担当者の進捗状況管理の標準化、②仕事の3割カットを目的とする全社プロジェクトの学術開発本部担当、③沖縄米軍からの依頼の母体血による出生前検査(MoM値)の開発、④慶応大学病院との日本標準値MoM値研究プロジェクト(米国で実施されている方法の調査と沖縄米軍向けに開発したMoM値システムの説明及び関連検査部門と多変量解析グループへの仕事の割り振り調整、妊娠週令16-22週の妊婦の母体血を集め数年にわたる測定と多変量解析研究がスタート)、⑤学術情報部の仕事のラボ見学対応のうち、海外からの見学希望者対応。
 あるときドイツの製薬メーカ5人のラボ見学があった。原稿を書いて暗記して、ドイツ語で挨拶したらたいへん喜んでもらえた。挨拶に用意してあっただけだから、矢継ぎ早にドイツ語で質問が出たのには閉口した。経済学研究の都合上ドイツ語文献は読んだが、ドイツ語会話の経験はない、やらぬことはできぬものだ。
 韓国人検査技術者6名のラボ見学希望対応には、韓国語が堪能な免疫血清部のH山部長に事情を話してツアーに同行してもらった。彼が応接室へ入ってきて韓国語でしゃべりだしたら、その場の雰囲気ががらりと変わった。それまで中央線に乗って車窓から眺めた日本の住宅環境の悪さを散々言っていたのだが、否定的な発言がぴたっとなくなった。「アンニョンハシムニカ」に続く朝鮮語での対応に韓国からの6人の検査技術者たちの表情が緩んだのである。友好的な2時間半のラボツアーとなった。

 標津在住の男性(引揚者)がロシア語でカチューシャを歌ったら、打ち解けることができたと言っていた。いままで恨んでいたが、いま島に住んでいるロシア人が悪いわけではない、自分たちと同じだと気がついたという。この「同じ」という感覚が大事なのだろう。島に住んでいるロシア人もビザなし交流で来た日本人が「同じ」であることに気がつく。以心伝心である、二十年以上かけてようやく本当の意味でのビザなし交流が始まった。

 ご婦人の方は「語り部おばさん」の一人のSSさんだが、この1年間ほどロシア語の勉強をしていたようだ。団塊世代のわたしより一回り上なのに、60歳代後半にみえる、気が若いのだろう。(笑)
 昨年、「トシ、ビザなし訪問で一緒に択捉島へ行こう」と誘われたが、2~3日間の船旅は胃のない身にこたえる、回復するのに一月近くかかるので、「残念だけど行けそうにない」と伝えた。

 一回りしか歳が離れていない叔母はなんとなく気安く半分姉のような気がする。話し方が長女である母に似たところがある。母は択捉島蕊取村の漁師の娘だった。爺さんの話では、「択捉は宝島」、前浜での漁で根室の3倍の漁獲量があったそうだ。前浜の漁業権は長男が満州で戦死したから、次男の名義になっている。
 択捉島蕊取村では神戸の商家の末裔の山本家が東京山の手の品のよい標準語を話していた。母は事情があって山本家に預けられ、言葉と行儀作法を躾けられたから、品のよい東京山の手の標準語を完全に操れた。わたしが根室に戻ってきてから、市役所に用事があってお袋が電話するときに聞いていたら、全国コンクールで上位入賞できるような見事な話し方だった。オリンパスの宇津木台研究所が全国コンクールで何度か優勝している。勤務していた八王子ラボのすぐ隣だったので、用事があって電話して訪問したことがある。重要取引先でもあったから、こちらの要望にはすぐに応じてもらえた。臨床診断システム事業化を検討したときに、出たばかりの光カードを個人カルテ媒体として使えないか、相談に乗ってもらったことがあった。オリンパス宇津木台研究所は普段の電話の受け答えもすばらしかった。母の電話のかけ方はそういうレベルであった。根室に居たときにはなんとも思わなかったが、東京で35年間暮らして、その値打ちのすごさに気がついた。礼儀作法も言葉と同レベル、結婚するときに女房の実家へ結納をもって行ったときの挨拶が見事だった。まるで映画の一シーンを見ているような所作と口上だった。その母も自分の子どもの躾けには厳しかったが失敗している。他人が躾けたほうがいいのである。
 行儀作法と言葉の躾けは子どもの生涯の財産や武器となるから、子どもにはちゃんとした言葉遣いで話そう。行儀作法も小学生の低学年の内にちゃんと躾けたほうがいいよ。正式の場や公式の場に出たときに物怖じしないで品よく振舞えたらすばらしい。
 山本家の当主の兄弟が黒田清隆の副官をしていた山本忠令である。道内では絶大な権力があった。山本家の当主が根室町長に蕊取村の代表として頼みごとがあって面会にきたときにけんもほろろに扱われて町長に面会できず、むかっ腹を立てそのまま汽車に乗って札幌まで行った。札幌から戻って根室駅に着くと、本庁からの電報にあわてた町長と幹部職員が居並んで出迎えたという。当時の町長は任命制だから、副官のご機嫌を損ねたら首が飛ぶ。蕊取村の村長も山本の爺さんが推薦状を書いて決めていた。


< 余談:高低差40mの桂木の浜までサイクリング >
 MTBで桂木の浜まで下りてみた。標高差40mの下り坂で速度は43km/hまで上がるが、下りきったところでアスファルト道路は90度に右折するので、速度を落とさなくてはならない。MTBはディスクブレーキだから、サドルからお尻を後ろ側にタイヤすれすれまで落とせば、急ブレーキでも大丈夫だ。ブレーキングのトレーニングにはいい坂だ。往復7.2km、平地走行でのmax速度は38.4km/hだった。
 下まで降りたら、潮の香りがしてきた。沖に浮かぶ島が二つはっきり見える。小川が海へと流れ込むところへ白いシートで包まれた土の堤防ができていた。天気がよいので4kmほど離れた友尻の浜までよく見える。

 桂木浜の潮の香りはなぜか小学校の遠足を思い出させる。なんどか遠足で桂木の浜まで歩いてきておにぎりを食べた。
 小学生の低学年のときに、ゆで卵の殻がむけずに石へぶつけてぐちゃぐちゃにしてもって帰ってきたことがある。ゆで卵の殻はいつも親が剥いてくれていたから、やったことがなかったのである。過保護の典型だった。サンマも両親のいずれかが骨を外してくれたから自分でやれなかった。
 これではいけないと自覚し練習したから、6年生のころには卵の殻剥きが得意になっていた。(笑)
 ZAPPERさんが、ときどき魚を食べ終わった皿の写真をFBにアップすることがあり、それを見るたびに上手だなと感心する。白い骨だけが皿に載っている。


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