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#3267 書く能力に飛躍的があった時期 Apr. 6, 2016 [47. 語彙力と「読み・書き・そろばん」]

  書く能力をアップするために、インプット(読書)の重要性を強調してきましたが、大事なことを忘れていたのを今朝思い出しました。

 時間的順序としては、トレーニングの順序はインプット⇒アウトプットで間違いがないのですが、何もなしに書けるようになるわけではありません。自分なりの文章トレーニング期間が高校時代にありました。

<インプット:読み>
 小学校4年生のときから北海道新聞の「卓上四季」というコラムと「社説」を(当時の道新はルビが振ってあったので)国語辞書を引きながら読み始めたことは何度も書きました。興味がわいて1面の政治経済欄もすぐに読むようになりました。小学校6年生のときに「リア王」を読んだ記憶があります。職員室へ呼ばれて、何かのお説教のはずでしたが、どういうわけか叱られず、担任の鶴木先生がハードカバーの本を貸してくれました。面白かった。光洋中学校図書室にあったSF小説は全部読みました。『海底二万里』が印象に残っています。SF以外には『白鯨』やパールバックの『大地』もこの頃に読みました。少年マガジンと少年サンデーが中1のときに発刊されました。それから十数年間切れ目なしに読み続けました。漫画の本も含めて中学の3年間は「濫読」の季節でした。

<アウトプット:書き>
 高校生になって1年が過ぎたときに、春休みの2週間で工業簿記の問題集を1冊やりました。1年分授業の予習でしたが、やってみたら拍子抜け、毎日10時間前後やって終わる分量でした。普通科の生徒が高1の終わりの春休みの2週間で数Ⅱの参考書を読み、独力で問題集を1冊解くようなものです。高校生という季節は生涯で一番集中力が高くなるときなのでしょう。
 そのあとすぐに中央経済社から『公認会計士2次試験講座』が出版されました。科目が現在と違っています。簿記論、会計学、原価計算、監査論、経営学、経済学、商法の7科目でした。順次出版されたので、届くたびに片っ端から読みました。春休みの「2週間の修行」が独力で専門書にトライする自信を与えてくれました、それで「めくら蛇に怖じず」です。
 まもなく会計学の答案練習をし始めました。これはきつくて楽しかった。設問に対してどのような答案を書けばいいのか、最初のうちは皆目見当がつきませんから、まずは模範答案を丸写ししました、いわゆる「視写」です。
 とりあえず、何も見ないで模範答案が書けるようになります。そのままではやった問題しかできませんので、どのように書けばいいのかという視点で模範答案を眺め、要点を箇条書きに、論理を図にしてみました。その箇条書きや論理フロー図を参考にして文章を書くトレーニングをしました。すると答案を書く作業が簡単になりました、これが利きました。1年間そういうトレーニングを重ねるうちに初見の問題でもなんとか答案を書けるようになりました。
 高校国語の記述式問題でいくらトレーニングしても、公認会計士二次試験の答案を書くレベルには到達できないでしょう。書くスキルはあの時期のトレーニングで飛躍できたのだろうと思います。

<±0>
 そのころ夏目漱石の『坊ちゃん』も読んだのですが、源氏鶏太『三等重役』との違いがわからず、漱石からは遠ざかりました。漱石だけでなく日本文学から遠ざかったのです、浅はかでした。その代わり、書くトレーニングを積めましたからプラス・マイナス・ゼロです。有限の時間の中でなにもかもやることはできないもの、高校時代に『資本論』やヘーゲルの著作を読みましたから、あれはあれでよかった。
 後から考えると天が配慮してなにもかも最高のタイミングで並べてくれていたような気がします。

<まとめ>
 自分の過去の経験を思い出してみて、高校時代の公認会計士二次試験問題集の答案練習が書く能力を飛躍的にアップさせてくれた山登りであったことに気がつきました。高校2年生にとっては大きな負荷でした。koderaさんにビリヤードだけではないだろうと言われたことが頭のどこかに引っかかっていました。脳が勝手にサーチして見つけてくれたようです。いままで気がつかずにごめんなさい。
 箇条書きにした文章は頭の中に入れてしまい、数分の暇を見つけては頭の中の引き出しから出して眺めます。これなら数十問は簡単に引き出しにしまえます。箇条書きの部分を思い出せば、トレーニングを積んだので、あとは何とか文章になります。

 中高生のみなさんの参考になるのかどうかわかりませんが、わたしの経験を開示しました。やってみようと思う人が一人でもいたら、幸甚です。(笑)


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<余談-1:母に感謝>
 母は、仕事の合間を見つけては毎月「婦人公論」や「中央公論」をとって読んでいました。「ほしい本があったら言いなさい」と言われていましたが、言うとどんな本でも買ってくれるので、無駄遣いにならないように子供心に思いました。当時の日本、そして根室はそんなに経済的に楽ではなかったのです。小学6年生の頃は「自家用車」が家一軒分の価格でした。一般家庭で「自家用車」をもつなんて考えられません、そういう時代でした。大学進学は高3の秋まで考えたことすらありませんでした。店を手伝っていたし、経済的に無理だと割り切っていました。大手都市銀行に就職して、独力で公認会計士の試験を受けるつもりでした。
 価格が高かったのですが、公認会計士になることは中学のときに決めたので、中央経済社から出版が始まった『公認会計士二次試験講座』に飛びついたのです。もちろん、お袋は二つ返事で購入を承知してくれました。
 家業のビリヤードの手伝いをしていたので、自分のお小遣いでも買えたのですが、本は「別枠」でした。高卒の新入社員がもらう給料の半分くらいを高校時代の3年間は小遣いとして使っていました。小遣いが余るので大人が行くところ(?)にもたまにですが出入りしていました、高校生のみなさんには内緒の話です、教育上よろしくありません。(笑)

<余談-2>
 答案練習で要点の「箇条書き」、そして論理の流れを図にしていましたが、いま考えるとあれはシステム技術の基本でした。文章を箇条書きにして階層構造に整理してみる。そして論理の流れを大まかにつかみフロー図におとしていました。KJ法やビジネスデザイン法、システムフロー図の素朴なものです。そういう過程を高校時代に経ていたので、会社で経営企画や経営分析そして予算管理が仕事だったのに、システム開発の専門書を読むことに抵抗感がなかったわけです。基礎は高校時代にできていました。
 80年代前半にシステム開発専門書を30冊ほど読みました。面白くなるととまらない、好奇心の赴くままに大きな本屋へ行って専門書を手に取り、選べばいいのです。輸入商社の本社は日本橋人形町交差点近くのビルにありましたから、日本橋丸善書店が歩いて10分ほどの距離でした。SRLの本社は入社当時は西新宿のNSビルでしたから、紀伊国屋本店まで歩いて10分ほどでした。

 経営改革のためにいくつかのコンピュータシステム開発(産業用エレクトロニクスの輸入商社で)を単独で担当できた(1980~82年)ので、仕事を通じてスキルアップが可能でした。本を読んだだけではダメなのです、仕事をしなければスキルアップは望めません。そのときに一緒に仕事をしたのが三菱電気系列のシステム会社オービックの芹沢さんです。その後取締役になりました。
 軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入商社では、最後の半年間は個別に開発したいくつかのシステムを統合システムにする仕事を担当しました。そのときのSEはNEC情報システムの高島さんで、NECは大口の顧客でしたから、関周社長が三菱電機のオブコンをやめて、NECの汎用小型機導入を決めたときに、統合システムを開発するのでナンバーワンSE派遣を条件にしてくれました。高島さんにはいままでの業務デザインを一新するために、それまでとはまったく異なる実務設計と外部設計書の作成を要求されました。おかげで日本能率協会方式の実務フロー図を描くことに慣れました。輸入実務、納期管理、受注残高管理、為替決済管理、円定価表作成システム(為替レート移動平均値で3ヶ月に一度更新)、売上利益管理、予算管理、財務会計を統合する画期的なシステムでした。当時の日本では最先端の内容の輸入商社向けシステムでした。汎用パッケージ化が可能でしたから、輸入商社を辞めて2ヶ月ほどしてから、オービックの芹沢さんから、(輸入商社の)取引先が20社ほどあるので、「輸入商社向けパッケージ」開発をしないかとお誘いがありました。84年の4月頃でした。魅力的なお誘いでしたが、まだ使ったことのない汎用大型機での統合システム開発をスタートさせたばかりだったので、せっかくの申し入れでしたが辞退しました。きっと面白い仕事になったでしょう。
 統合システムの前段階の複数の独立システムは、全体で売上経常利益率を十数パーセントアップできる革新的な利益管理システムだったのです。実際に粗利益率が20%アップ、売上高経常利益率が十数パーセントになりました。為替予約と連動して為替リスクを回避できる仕組みを考案していましたから、日米間の金利差でつねに為替差益が売上高の1%程度でるようになりました。この仕組みは20年間有効でした。それまでは為替変動で業績のアップダウンを繰り返していました。利益を大幅にアップして完全にコントロール可能になりましたから、店頭公開条件クリアです。
 この会社には遠藤さんという優秀な営業課長がいました。この人が利益アップと営業事務省力化のための「円定価表システム開発」のキーマンでした。システム化によって営業事務が9割がたなくなってしまったのです。精度は飛躍的に上がってしまいました。わたしはこの人以上の営業マンを知りません。京セラの黎明期の頃、稲盛イズムの洗礼をうけた人です。この人を通じて京セラの創業者稲盛和夫がすごい人だと感じていました。気があって二人で朝までよく酒を飲みました。午前中はなんどかトイレへ行って胃の中の物を吐いて、すました顔で仕事をするのが「粋」でした。日本橋芳町の「芳梅」という名前のお店だったかな、狭い小路を入ったところにありますが、お昼定食のお粥が美味しかった。永井荷風が昔あの界隈に住んでいました。
 輸入商社で辞表を提出した12月初旬には、後先のことを考えていませんでした。あることでオーナ社長の関周さんと意見が対立していることがわかり、信頼関係がなくなったと判断して辞職を即座に決めました、武者修行したかったのでしょう。若気の至りです。「後は任せておけ」と天の声が聞こえましたから迷いはありませんでした。そういうときはその時点での利害得失を考えてはいけないのです、天が与えてくれた転職のきっかけを逃してはならないのです。天の命じるままに執着を去れ倍胃だけのことです。引継ぎのため1月末までかかりましたが、無理でした。引継ぎを受けるものに必要なスキルが一つしかないのですから。これで統合システム開発がぐちゃぐちゃになるかと思うと悲しかった。それまで作成した資料を引き継ぎ、説明をしました。引継ぎ業務をしながら正月開けにリクルート社の転職斡旋の試験(SPI偏差値72)と面接を経て1984年2月1日から臨床検査最大手SRLに上場準備要員として働き始めました。この会社を選んだのは過去5年間売上高成長率が毎年20%以上で、売上高経常利益率が毎期12%を超えていたことと、新宿西口の超高層ビルの22階と23階に本社があったからです。一度超高層ビルのオフィスで働いてみたいと、35歳になるのにずいぶんミーハーな動機でした。
 運のよいことにSRLは東証Ⅱ部上場のために、東証の審査要件をクリアするために統合システムの開発を始めたところでした。統合システムは8つのサブシステムから構成されていました。わたしの担当は財務・支払い管理システムと固定資産管理システムそして他のシステム(販売会計システム、購買在庫管理システム、原価計算システム、予算管理システム、業務システム)とのインターフェイス開発でした。産能大方式の事務フローチャートで実務設計をすることと外部設計がUSER部門のわたしの分担、NCD社のSE3人が内部設計を担当。実務フローの設計と入出力帳票の外部設計仕様書(プログラム仕様書レベル)を書くのに2ヶ月、並行ランを2ヶ月、それらを含めてキックオフから8ヶ月で本稼動。ノートラブルで走り出しました。必要なスキルがあれば短期間で完全な本稼動が可能です。当時は全部作りこみですから、アプリケーション・パッケージ開発のような仕事でした。
 各システムとのインターフェイス設計は売上債権管理の実務や原価計算実務そして原価計算理論を知らなければやれない仕事です。一番たいへんだったのが固定資産管理システムとのインターフェイス仕様でした。上場要件をクリアするために、それまでとはまったく違う実務設計をしています。部門別減価償却費の予算設定が投資計画を組み込むことで可能になりました。予算減価償却費の精度が飛躍的に上がり、予算・実績差異が1/10ほどになったのです。実地棚卸しも問題があったので、本社と八王子ラボの固定資産を全部自分で立ち会ってチェックしました。登録固定資産名リストし、分類記号をつけて名称を整理したのです。現物を見たことのない経理課員が固定資産台帳にインプットするので、同じものが「インキューベータ、孵卵機、孵卵器、恒温槽、フランキ、腐乱機」というばらばらな名称になっていました。一週間かけて現物を全部チェックし、分類記号を振って整理したので、たとえばマイナス80度の冷凍庫がラボ内のどの部署に何台あるのかわかるようになりました。電子天秤もそうでした、さまざまなメーカの製品を現場の要望で購入していたので、リストを出力して、当時世界最高の製品であったメトラー社の電子天秤に順次交換していきました。検査要員が部署を移っても同じメーカーの電子天秤なら、マニュアルを読む必要がないからです。メトラーと直接交渉して、「ラボ内には電子天秤が○○台あるから、順次御社に切り換えるので値段を△△円にしてくれませんか」、向こうは納得で、ずいぶん安く買いました。国産品と変わらない値段だった。ラボ内の部署も品質のよいものを買ってもらえるから喜びます。島津製作所の電子天秤の購入申請をした検査部門の課長のところへ行ってはなしをします。「ebisuさん、ほんとうにメトラーの電子天秤を買ってくれるのですか?」、「検査管理部と話ができていますから大丈夫です」。ウィルス部の蛍光顕微鏡も世界最高性能のカールツァイス社製品に変えました。ラボはラボ見学が年間数百件ありショールームでもあるので、安物の検査機器を使っていたのではいけないのです。業界ナンバーワンのラボには世界の最高性能の機器が揃っていて当然です。SRLはそうした一流の製品をそろえられるだけの利益を出していました。
 固定資産の購入を担当する直前まで2年間全社予算編成の統括担当者でしたから、ラボ内の予算管理部門(検査管理部)もわたしの意見には異を唱えません、喜んで協力してくれました。わたしの提案だと言えば、本社の経理部門が文句を言うはずがないのですから。経理部長からも経理担当役員からもラボ内の予算に関してはわたしに判断が任されていました。ギクシャクしていた本社とラボとの融和剤の役割がありました。

 統合システム開発は簿記論、会計学、管理会計学、原価計算論、統計学、そしてコンピュータ・システム開発やプログラミングに関する専門知識、さまざまな分野の臨床検査に関する知識なしにはできない仕事ですが、SRLに転職した時点で臨床検査を除くすべての専門技術をもっていました。ラボの機器を3年間担当できたのは臨床検査業務の実際を理解するために必須の仕事でした。白衣を着てどの部門の現場にも入り込めます。機器購入の相談はなるべく現場でしました。問題があればすぐに現場に行き、話しを聞き、具体的な対応をしました。学術開発本部にいたときには、開発部のメンバーと一緒に検査試薬の開発、そして学術情報部のラボ見学対応のうち海外メーカ向けのラボ見学対応(2時間のラボ見学案内)をしていました。ツアーを終わってお茶を飲んでいるときに、「ebisuさんはどの検査部門の出身ですか?」と訊かれることが何度かありました。「2年前は全社の予算編成の統括をしていました、理論経済学が専門で経済学修士です」と自己紹介すると、「え、・・・検査部門のご出身ではないのですか?検査部門の方だと思って説明を聞いていました」。メーカと共同開発して検査機器も10種類くらいはありましたから、説明が具体的で丁寧なんです。開発過程で生じた問題点や試行錯誤も興味があるドクターには説明していました。

 どの会社だって会社の取り扱い商品を熟知していないと、たとえば銀行から借入をする際にも困りますから、経理部門の人間だって自社の商品知識が必要なんです。たとえば、「どの検査分野が今後伸びるのですか?」、「どのような新商品がでるのですか?それで売上や利益にどれだけ貢献するのですか?」、そういう質問に的確に答えなければなりません。そして結果が出なければ信頼が維持できません。原価計算システムだって、商品知識(=3000の検査項目)がなければ項目別原価が使えるものになりません。原価計算システムは利益管理志向のものに作り変えるつもりでいましたが、その時期に子会社管理部門にいて、会社買収や出資交渉を担当したり、資本参加した会社に出向してたので、担当する機会がありませんでした。既存の原価計算理論を超えた戦略志向のシミュレーション機能を有するユニークなシステム構想をもっていました。
 1000人の社員がいてもそういうマルチの専門知識と実務経験をもった人材は社内にはそうはいません。

 SRLの財務会計・支払いシステムを担当してくれたSEの村山さんもNCD社の取締役になっています。彼ら三人のSEはどの人も業界内でトップレベルのSEだったのです。
 優秀な外部SEと3度仕事をできたのは幸せでした。スキルが上がったのは優秀な彼らと一緒に仕事をして、彼らの仕事を観察したからです。一緒に仕事すれば、およそ半年後には同じレベルの仕事ができるようになります。そういうレベルの仕事人をSEに対置してKEと言った時代があります。Knowledge Engineerの略です。

 「余談-2」で何が言いたかったのがわからなくなるほど冗長になってしまったので、結論を書いておきます。
 「読み・書き・そろばん(計算)」、これら三つの基礎的学力は中学校と高校時代のすごし方・勉強の仕方で決まるということです。本の濫読期を経過することで「読み」のスキルを磨き、高校時代に公認会計士二次試験科目の答案練習で文章作成力を磨けば、社会人となってからは「鬼に金棒」です。公認会計士二次試験の受験勉強する高校生なんてめったにいないでしょうから、日本の古典文学を読み漁って文章力を磨くという方法もあります。中高生の皆さんはぜひ自分の道を見つけてください。


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tsuguo-kodera

 まだざっとしか読んでいませんが、凄い経歴の持ち主であることは十分に分かります。
 KJ法は私が越えたかった発想法、お名前は川喜田博士と言ったのかもう定かではありませんが、手法は今でも使えます。だからGEの手法を取り入れkoderaの発想法に至りました。
 NECは小型機のトップ、FM-VとSYSTEM80はそのキラーマシンとして企画して、ドキュメント処理と4D思想の宣伝で勝てたと言えるでしょう。
 三菱系列もオフコンは得意、その販社、三菱事務機に毎週通いついに扱っていただきました。
 SRLはUNIXの日本の開拓者だったところでしょうか。トップの方と何度も面談し、富士通もMの互換路線を捨ててUNIXに行こうと取締役会、有名な富士通山本某に提案し了承されました。皆さん知っていました。
 しかし、麟三さんの案を取締役会が否決してしまったのです。そして私は辞表を専務にたたきつけました。若気の至りでした。
 シャープに移ってUNIXシリーズを開発しようとしたのですが、見事に失敗。70億円損をさせてしまいました。でもそのおかげでやらされた、書院、FAX、電子タイプライター、PBXなどなど、全部今の携帯電話に技術が生かされました。私の担当時代だけで、ワープロ書院だけで十分に70億円の損害は取り戻せました。
 この間富士通のOASYSだけを狙い撃ち、新聞社からも駆逐して見事仇討ちができました。江戸仇を奈良で打ったわけ。
 目標を達成して、体調もあり、窓際族を志望して東京に戻れました。そこから窓際族の傍ら教育の道に迷い込み、定年前の10年は女子大で、10年はかの高校で非常勤していたのです。
 日本能率協会、産業能率大学など何度も通いました。自分の再就職先探しを兼ねて。でも良い返事はありませんでした。ドクターを持って居なかったからです。日本能率協会と機械振興協会はとても良くしてくれました。お蔭で本も数冊書けました。
 そう言えば、ソフトバンクも本では大変お世話になりました。孫さんが居なかったら私のような作文下手では本を出版できません。最高の編集長を付けてくれて数冊出版でき、実績になりました。
 なお、このような経験から導き出された簡便な思考法がkoderaの創造性開発法です。極めて簡単に、要約しすぎかもしれませんが、100ページほどにまとめたわけです。アホの高校の先生と生徒のために。
 でも私がやるなら学童が一番容易ですしそれしかしたくありません。一所懸命にやってきた高校は本だけにしました。阿保らしいので。(笑)
by tsuguo-kodera (2016-04-07 07:25) 

ebisu

koderaさんは、ドクターの学位をとっていれば人生がずいぶん違ったでしょう。理系の大学院は枠が大きいから何の問題もなかったはずです。たぶん魅力を感じなかったのでしょう。

でもしっかり仕事しましたね。
富士通のOASISは3年間ほど使いましたが、シャープの書院は使ったことがありません。書院もずいぶん売れましたから、ファンも多かったはずです。
わたしはOASISの次はワープロ専用機ではなくパソコン・ソフトWORDでした。ワープロ専用機の時代はパソコンの性能が急激に上がりWORDが普及し、90年代初めに終わりましたね。
パソコンがようやく仕事で使えるようなレベルに進化しました。

1980年代はまるでおもちゃでしたが、わたしはそれにだまされました。2年で2倍にCPUの性能もROMやRAMの容量もアップしていたのですから、指数関数的に眺めて「質的な変化=仕事で使える」を予想すべきでした。でも、20年もそういう指数関数的な性能アップが続くとは考えられませんでした。

江戸の敵を長崎で、首尾よくいってよかったですね。新製品開発の影に人材ありです。

KI法は東京工業大学の川喜多二郎先生の発明ですね。カードにして並べるところがユニークでした。グループの組み換えが簡単にできます。

koderaさんが、自分の経験を基にして開発したのが創造性開発のKT法ですね。
KJ法と並んでKT法が、必要な人に使われたら嬉しいですね。

SRLのシステム部は1983年にUNIXの導入に失敗しています、早すぎました。DECというミニコン専門メーカの製品を2台業務システムに導入しましたが、稼動しませんでした。
練馬のラボにだれも使えずに放置されていました。84年にSRLに入社して、統合システム開発を担当したときに、暇はいくらでも作れるので、DECのミニコンを使わせてほしいと経理担当役員に申し出ましたが、聞き入れてもらえませんでした。
64ビットだったか、32ビットマシンだったか忘れましたが、1台4000万円ほどしました。
オフコンと小型汎用機しかいじったことがなかったので、ミニコンの性能がどれほどのものか、自分でプログラミングして使ってみたかったのです。
SRLは84年当時は富士通で一番高性能の汎用大型機を導入しました。導入がうまくいかずに全社で応援体制をとり、3ヶ月ほどすったもんだしていました。統合会計情報システムも同じ機種の別のマシンを使いました。
(COBOLでコーディングしたソフトは1年後にEASYTRIEVEで書き換えました。簡易言語で短時間で効率のよい開発ができますが、コンパイル後の処理速度が速いのです。驚きでした)

経理部門の人間がミニコンを自由に使わせてほしいと経理担当役員経由でシステム部門に申し出たら、世界中のどの会社でも、答えはノーでしょう。仕方ありませんでした、でももったいない。

SRLが八王子ラボでDECのミニコンを検査サブシステムとして導入したのは90年前後だったと記憶しています。検査機器とのインターフェイスは汎用機でもパソコンでも無理がありました。UNIX系のDECのミニコンは細胞性免疫部のリンパ球表面マーカ検査(フローサイトメトリー法)機器4台に検査サブシステムとして導入されました。これがUNIX系のマシン導入成功例の初発でした。あとは同じもので行けばいいだけですから、これが検査サブシステムの標準になりました。現在どのようなマシンが使われているのか、ラボ見学してみたい気がします。

当時のパソコンの性能では検査サブシステム構築は無理でした。一つエピソードがあります。臨床化学部のある課がパソコン50台をつかって89年に自部署の検査サブシステムを構築しようとしましたが、見事な失敗でした。まだ仕事で使えるほどの性能ではありませんでした。失敗するのはわかっていましたが、パソコンを使い始めた担当者は聞く耳がなく、失敗から学ばせるしかないと判断しました。50台のパソコンは箱に入ったまま2年間保管し、担当者に責任が及ばぬように廃棄処分しました。それくらいの損失はSRLにとってはどうでもよいことでした。おおらかな社風でしたから担当者の授業料になってくれればよかったのです。失敗をあまり問題にすると現場が萎縮してルーチン検査部門から新規開発商品が出てこなくなります。SRLは新規開発商品の半分くらいがルーチン検査部門から出てきます。ルーチン検査担当でも、開発業務をやることができるような仕組みがありました。

パソコンはインターフェイスが片方向ですから検査機器の制御ができません。マイクロ波計測器世界では双方向インターフェイスバスであるGPIB(ユーレットパッカード社ではHPIBと呼んでいました)が1970年代後半から標準装備でしたが、パソコンも検査機器もインターフェイスに関しては著しく遅れていました。

ここまで書いて、あることに気がつきました。
1985年に事業化構想案を書いた臨床診断システムについてです。全国の大学病院や疾患ごとの専門病院をネットワークして、診断手順をコンピュータのアルゴリズムに組み込むものです。
31年経ってクラウドコンピューティングが可能になってもだれも提案しませんね。
ブログ上で仕様を開示しようと思います。
一部、時代に合うように手直しが必要ですが、開示すればどなたかがやるでしょう。
現代医療に革命が起きます。

CAI機能を使えば、各分野の専門医育成がじつに簡単にできるようになるでしょう。
たとえば血液疾患の診断アルゴリズム開示、短期間での病理診断のスキルアップなど。
どこまでひろがるのかわたしにも予測がつきません。

コンピュータも通信速度もすでに臨床診断支援システムの要求仕様を満たしています。

全国の病院で使われている臨床検査項目コードは臨床診断システムの10個の仕事のうちの一つとして構想されました。
SRLシステム開発部課長の栗原さんと、学術情報部長の川尻さん(女性部長)のお二人が全面的にバックアップしてくれました。大手六社の学術部門とシステム部門が集まり、臨床病理学会の臨床監査項目コード検討委員会委員長の櫻林郁之輔教授と産学共同事業としてやったものです。民間で日本標準コードを作っても大学病院では採用しないというのがわたしの判断で、直接自治医大の櫻林教授(当時は助教授)に協力をお願いしました。


by ebisu (2016-04-08 01:24) 

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