SSブログ

#3043 コミュニケーション能力とは何か(3):理系と文系のコミュニケーション May 16, 2014 [A.6 仕事]

<更新情報>
 □5/16 8:30 NECシステム開発シリーズの専門書等について追記
 □5/16 23:00 HP-41CX、HP-48GX、HP-35Sの画像とコメント追加
 □5/17 0:00 追記及び文章校正作業 対象「余談-1」


 企業内でのコミュニケーションでむずかしいものの一つに、理系と文系職種間のコミュニケーションがある。わたしの体験が普遍性をもつかどうかは、お読みになった皆さんが判断すればいい。

 1979年9月にAは軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社に中途採用された。経理のスキルがあったので「経理担当取締役付き」のスタッフ採用。

 二代目社長のSさんは自分が旗を振る財務委員会の下に次の6つの委員会を設けた。
 ①長期経営計画委員会
 ②資金投資計画委員会
 ③収益見通し分析委員会
 ④為替対策委員会
 ⑤利益重点営業委員会
 ⑥電算化推進委員会

 各委員会は、役員全員と部長が一人、課長が東京営業所長と女性の業務課長の2名、そして中途入社したばかりの社員のAで構成されていた。このうち⑤の利益重点委員会を除いた5委員会の実務がAに任された。簿記1級はもっていたが、大学院で理論経済学(マルクス経済学)を学んだことを承知で、これだけの仕事を任せてくれた2代目社長、大きな賭けだったのだろう。40歳代半ばで、経営者としては自力での財務体質の変革と経営改善に限界を感じていたようだ。負荷の大きな仕事をいきなり任されたので、わたしは自分の能力を大きく飛躍させるチャンスをいただいたのである。どんな会社を選んだとしても、これだけの仕事を任せてくれるオーナ社長は日本で彼一人だったと確信している。二代目社長の放った矢は見事に的を射たのである。会社の財政状態と経営成績はその後3年間で劇的に変わった。
 委員会は全部所期の目的を果たして、2年後に解散した、次の段階は企画を実行に移すことだった。
(業務単位で独立に開発したシステムを統合してしまうことも大きな課題となった。そのために会社は1983年に電算室を新設し、わたしを管理部から統合システム開発要員として電算室への異動を命じた。たった一人の新設部署だった。さらに大きな経営改善をするために統合システムの開発が必要だったのである。)
 利益重点委員会はE藤東京営業所長が実務を担当した。円定価システム開発だったので、そちらも手伝った。受注時の為替レートと仕入レートと決済レートが異なるために、為替変動の影響を受け、円安になると為替差損を出し赤字転落、円高になると為替差益で利益が増えるという経営構造の会社だった。だから、まじめな努力が実を結ばない、ばくちをやっているような経営状態だったのである。
 為替変動から会社の業績を切り離すための円定価システムであると同時に、営業マンが見積書を提出するために時間の半分を割き、営業活動時間が少ないことを改善するという目的もあった。円定価表を元にして見積書が簡単に作成されるようになった。それまでは営業マンが納期やその間の為替変動を考慮してそれぞれ勝手な為替レートを使って見積もり計算をしていた。E藤東京営業所長はそこに目をつけていたのである。営業事務改善がやれる営業課長はめったにいない。営業でも実力ダントツのナンバーワン、某メーカから10年間50億円の受注を狙って獲得するような凄腕の持ち主だった。徹底して考え抜く姿勢は数年勤務していた京セラの稲盛さんの薫陶かもしれない。

 この会社の営業は一人の高専出身者を除いて、全員が理系の大卒である。販売した機器の修理と新規商品の開発を担う技術部門がある。技術部門の責任者はN臣課長で営業部門に出色のE藤課長がいた。わたしが一緒に仕事をした中では、このE藤さんの右に出る営業マンはいない。気があった。

 Aは当初1年間は経理部長付きのスタッフだったが、1年後には新設された管理部所属となり、さらに1983年には新設の電算室へ異動、統合システム開発を任された。

 収益見通し分析委員会の仕事はAが一人で担当。5年間のB/S、P/Lをベースに5つのデメンション、25項目の指標を使った当時最先端のレーダチャートモデルをつくった。このレーダチャートは目標設定用に使えるものであり、もちろん結果についても検証可能なツールであった。5群の目標偏差値を設定し、その結果(到達度)を同じゲージの25のレーダチャート指標にブレイクダウンした偏差値で確認できる優れものである。経営管理ツールとしては最強だった。1979年に開発したものだが、これに匹敵するツールを開発して経営管理をしている会社は日本にはいまだにないだろう。

<3プログラミング言語の習得>
 モデル構築には科学技術計算用のプログラマブル計算機HP67とHP97(HP67にプリンタの機能の付いたもの)を使ったので、逆ポーランド方式のプログラミングを覚えた。レーダチャートは線形回帰分析を多用し、25指標は尺度が標準偏差で調整され、25指標を5群に分けて群単位で偏差値評価のできるモデルだった。HP-67は、電卓で計算しているAを見かねて入社、1ヶ月目に社長が買ってくれた。Aは1週間後にはプログラミングをマスターして使いこなしていた。この製品には400ページを超える英文のマニュアルが2冊ついていた。1週間で使いこなしたのを確認した社長は11月の米国出張の「お土産に」プリンタ付きのHP-97を買ってきてくれた。ある朝、机の上にHP-97がおいてあるので、秘書に訊くと「社長がAさんにとおっしゃっていました」、うれしかった。入力データやブログラムをプリントしてチェックできる。作業効率はさらに上がった。
 中途入社翌年の1980年には三菱製のオフコンの言語、COOLを習得した。ダイレクトアドレッシングの原始的な言語で、3桁の数字ブロック4つでコマンドとオペランドが構成されていた。このコンピュータも、三日間の講習会へ行かせてもらい、自分でプログラミングするようになった。その後、コンパイラー系のマシンを導入し、1981年にはコンパイラー言語のPROGRESSⅡという言語をマスターした。

<統合システム開発:必要な技術書群の読破>
  この会社にいたのは5年と4ヶ月間だったが、三つのプログラミング言語を習得しただけでなく、システム開発の専門書を数十冊読んで、統合システム開発に利用した。NECから出版されていたシステム開発シリーズ本は5~7冊はあったと思うが全部読んだし、岩波書店からも2度コンピュータシリーズが刊行されたので、それらも全巻そろえて必要な巻には目を通した。統合システムという当時は先端システムの開発だったので、翻訳がまだされていない米国で出版されたソフトウェア工学専門書も読んだ。
 Software Engineering, Martine L. Shooman, McGRAW-HILL, 1983).
  興味に任せて、人工知能関係の専門書、Artificial Inteligence (Elaine Rich、McGRAW-HILL, 1983)を読むと同時に、チョムスキーの構造言語学関係の翻訳のない著作を数冊読み漁った(文法工程指数の高い圧縮された英文を日本語にするときに、チョムスキーの生成変形文法がいまでも役に立っている。生成変形文法は大学院受験の際に板橋区立図書館で勉強するときに書架の中から見つけて、10日くらいかかって1冊読んだのが最初である)。
 大野照男:『変形文法と英文解釈』 千城書房 1972年刊
 Andrew Ranford:Transformational Syntax,  Cambridge Textbooks in Linguistic  1988
 V. J. Cook:Chomsky's Universal Grammar, An Introduction, Blacwell 1988
 Knowledge
 Noam Chomsky: Kowledge of Language Its Nature, Origin, and Use PRAEGER 1986

 システム開発で大事なことはスケジュール管理である。目標期限どおりに本稼動するためには厳格なスケジュールの管理をしなければならない。だからこの分野ではRERTの専門書を読み、その技術を利用した。Program Evaluation and Review Technique の略である、この本は日本で出版されているものを読んだ。strutured codingに関する本もプログラミング以外でも役に立った。実務フローチャートは日能方式と産能大方式の両方をマスターした。たまたま組んだソフトハウスが異なる方式のものを導入していたので、それぞれに合わせた。相手に使う技術を合わせることは、大きな目で見て成長を助ける。だからこういう方面ではこれでなければ嫌だというようなことは決して言わない。
 システム開発はさまざまな技術の集合でその質が決まる。個別のシステム開発関連技術の習得をおろそかにしてはいけないのである。輸入商社の5年間と、臨床検査センターSRLで統合システム開発を担当した最初の1年間は、ずいぶんとシステム関係書物を読んで、それらの技術を片っ端から実務で利用していた。SRLに入社した1984年に統合システム開発を担当して、課長から「必要ないだろう?」の一言で、それまで1年間ほど大手監査法人のシステム担当公認会計士を切った。役に立たぬ素人だったのである。課長は同じ大学出身で3年次で公認会計士に合格したK本さんと同期だったが、よく見抜いていた。Aは両方の専門技術をマスターしていたから、経理もシステムも応援は不要だった。

<仕事では業界トップレベルのSEとお付き合い>
 統合システム開発という仕事に関することだけでも国内で出版されている本では間に合わなかったのである。したがって、外部設計だけでなく、内部設計の知識も実務で使えるくらいあった。3言語のプログラミングを習得していので、内部設計に関する専門書も難なく読めたのである。
 仕事でお付き合いしたSEはオービック、日本電気情報サービス、NCDと3社あったが、それぞれトップレベルのSEとのみ仕事した。オービックのSEもNCDのSEもどちらもほどなく取締役となっている。そういうSEでなければ当時は統合システムを開発することはできなかった。パッケージは存在せず、全部作りこみをしたのである。私の役割は実務フロー設計をすること、外部設計書と外部設計に関わる部分のプログラミング仕様書を書くところまでで、内部設計はそれらの担当SEにお任せした。
 システム開発で期限を守れなかったとか、トラブルがあったことはない。一発で完全な立ち上げになるような仕事の段取りができたからである。テスト仕様書を書きテストデータまで作成したこともある。
 1984年2月初旬に臨床検査会社のSRLへ転職して、統合システムのうち財務及び支払い管理システムを任されたときには、米国で開発された会計情報システムの中身を知りたくて、Accounting Information Systems  Theory and Practice, Fredirick H. Wu, 1984 を読んだ。大判の600ページのこの本は実際の開発業務に役に立った。 

<会社取り扱い製品の専門知識の習得>
 この会社(輸入商社)は海外メーカ五十数社の総代理店契約があったので、毎月さまざまなメーカがエンジニアを派遣し、新商品説明会を開いてくれた。もちろん英語である。マイクロ波計測器、ミリ波計測器、光計測器、時間周波数標準器、質量分析器、液体シンチレーションカウンタなど扱う製品はさまざまだったが、基本的にはどの機器も、ディテクターとデータ処理部とインターフェイスで構成されていたから、データ処理部のコンピュータを中心にデータのやり取りを見ていくだけで、おおよその機能は理解できた。共通パターンがわかってしまえば、理解は速くなるし、相互の特徴を比較できるから理解は深くなる。

<基礎技術の定例勉強会と営業や技術部社員とのお付き合い>
 営業系の社員の95%は理系大卒、そして技術部の社員も全員理系大卒だった。毎月一度東北大学の助教授がマイクロ波計測器についての原理的な講習会を開いていたので、それも参加した。営業と技術の人間のみ、管理部門からの参加はAのみであった。そのうちにデータ処理部や機器制御用コンピュータにかんしてわからないことがあると、Aに訊く営業マンが出だした。
 予算を統括しているのは通常経理部長だが、この会社はAに長期経営計画の策定と年次予算編成を任せた。管理部門の社員は技術的なことはわからないのが普通だから、会社の取り扱い製品を熟知しているAは営業からも技術部員からも飲み会へのお誘いが増えた。仕事の話が通じるのである。技術課長のN臣さんやA木君、1980年ころにマルチチャンネルアナライザーを開発者し後に独立したN中さん。東京営業所長のEさん、大阪営業所長のS藤さんなど、皆さん理系の人だが会社の取扱商品に関する知識が深まるにつれて、コミュニケーションがよくなった。仲間の一人として認めてくれる。これには、技術課長のN臣さんと東京営業所長のE藤がAを自分たちの部署の飲み会に頻繁に引き回してくれたことが大きい。「Aさん、放課後30分時間ある?」E藤さんがそういうときは決まって午前様になった。

<輸入商社向けパッケージシステム開発でのオービックSEからのお誘い>
 オービックのSEとも専門用語で話が通じる。S沢さんは後にオービックの取締役になった。S沢さんから輸入専門商社をやめてから1ヶ月目くらいに、取引先の輸入商社にわたしが開発したシステムが20セットほど販売可能だから、パッケージにしないかとお誘いを受けた。開発した統合システムは受注時の換算レートと仕入れ時の換算レートをある数式で連動させて、それに為替予約を組み込むことで、為替変動から会社の業績を切り離すことに成功し、毎期2000万円ほどの為替差益が出るような仕組みのものだったのである。売上高粗利益率(SMR)は2年間で28%から38%に10ポイントも拡大した。40億円の売上規模で利益が4億円も増えてしまった。最終的には43%ほどの粗利益を組み込むことができる優れものだった。出た利益は社員と株主と内部留保に三等分することを提案し、オーナ社長の了解をもらい、取締役会で決定して社員にアナウンスした。ボーナスが安定すると同時に、うんと増えたから、家が買えると社員が喜んでいた。社内の活気がまるで違った。円定価システムで営業事務量が数分の一になったので、売上も増大したのである。
 S沢さんからのせっかくのお誘いではあったが、職を辞して1ヶ月で新宿西口にあるニッセイビルの22階、SRL本社に転職していたので、お断りした。同じ業界に関わる仕事はしたくなかった。
(他にもS部長から、帝人のエレクトロニクス子会社へ就職紹介があったし、日商岩井出身の総務部長からも紹介があったが、リクルート社を通してすぐに再就職先を見つけたので、ありがたいが丁重にお断りした。二つとも課長ポストを用意してくれていた。ある件でオーナー社長と意見が衝突して、とづぜんの辞職に何人かの人が心配してくれたのである。)

<異分野コミュニケーションの土台はたしかな基礎学力>
 こうしてみると、異分野の人々との仕事のコミュニケーションは相手の専門分野を理解する能力をもっていてはじめて成り立つものだということがわかる。専門用語での会話が成り立つと、実に短時間で誤解のないコミュニケーションが成り立つ。極端な例を挙げると、3日掛かることが15分ですんでしまう。
 相手の専門分野を理解できる基礎的学力が仕事上でのコミュニケーションには欠かせない。

 SEの上にKEという職種があるが、異分野の相手と一緒に仕事をして1年間もすると、相手と同等の専門知識を身につけている人のことをいう。知識エンジニア。
      Knowledge Engineer

 近い存在であったとはいえるが、わたしがKEであるとは言わない。ここで大事なことは、相手の専門分野について専門用語の基礎的知識があるだけでも異分野コミュニケーションは実にスムーズに行くという事実である。その程度のことならAにも可能だったというわけ。

<余談-1>
 マイクロ波計測器に関する知識は、臨床検査会社で購買課機器担当になったときや学術開発本部スタッフとしてラボ見学担当になったときに絶大な力を発揮した。臨床検査に使われている理化学分析器の基本的な構成はマイクロ波計測器と一緒だったのである。臨床検査に使われる理化学機器は制御系やデータ処理部に使われるコンピュータの性能が10年以上も遅れていた。特に機器制御とインターフェイスが致命的に遅れていた。さまざまな検査機器の大きな違いはディテクターの周波数が異なるだけ。RI、490nmの蛍光、赤外線、原子吸光、ガスクロとさまざまだった。
 RIの統計的なデータ管理システムも資料に目を通して、現場で確認しただけで理解できた。ほとんどがすでに知っていたのである。学術開発本部のI神取締役がAに海外のからのお客様のラボ見学を担当させると言ったときに、ラボ見学を担当していた学術情報部の担当者三人が反対した。3000項目もある臨床検査の関する適確な説明を、3年前には全社予算の統括をやり、1年前まで購買課機器担当だった男にできるわけがないというのが理由だった。I神取締役は、一度Aを三人のラボ見学に同行させた後、次に三人がA同行してAのラボ見学案内の様子をモニターして結論を出すことを提案した。
 いきなりお客様を連れての2時間のラボ見学案内をAがやったあと、I神取締役は担当3人に聞いた、「それでどうだ、やれないか?」、「いいえ、大丈夫です」と答えたようだ。I神取締役は笑っていた。この人は理系のドクターで、青山学院理工学部で有機化学を教えていたことがある。そもそもAを学術開発本部に引き抜いたのはAが仕事時間中に暇をもてあまして、チョムスキーのKnowledge of Languageを読んでいたのを目撃したからで、彼が管理していた図書室にも頻繁に出入りして、海外の医学雑誌を読み漁っていたのを目にしていたからである。
 ラボ見学案内担当の3人の内の一人は営業出身で、慣れるまでずいぶん苦労したようだから、自分を基準に考えたのだろう。最初の内は営業からなんどもクレームが入っていたのを知っていた。
 Aは用意されたマニュアルに一通り目を通して、そこにはない説明をベテランの三人を同行してさまざまな検査部門でやってのけたのである。結石分析の前処理ロボットはラボ管理部のO形君(室蘭工大)と検査部門の担当者の仕事だったが、購買課で業者との調整をしていたのはAだったし、フィルタ方式の液体シンチレーションカウンタの世界初導入は、AがメーカのファルマシアLKBから特別なコネで引っ張ったものだった。RI部の真っ白いデザインのよいガンマーカウンターもAがファルマシアLKBにSRL仕様での市販を促したものだった。栄研化学のLX3000は開発最終段階の製品のインスタレーションテストをSRLでやり、半年間の独占使用を認めさせたものだが、これは栄研化学の上場準備作業に対する協力御礼として、営業マンを通じて栄研化学の取締役が配慮してくれたものだった。いままでだれにも言ってない。
 LX3000のインスタレーションチェックはデータの再現性が悪くて途中で暗礁に乗り上げた。現場からは使い物にならぬという声が上がっていた。両方から事情を聞いて、解決案を具体的に指示してことを収めた。時間周波数標準機の知識が役に立った。時間周波数標準機は水晶、ルビジウム、水素メーザなどがある。火(電源)を入れて1ヶ月ほど暖めないと規定の性能が出ない。ようするに暖めておけばいいだけのこと、必要な箇所の電源を切らないように回路を変えてもらった。そうして問題を回避しながら、再現性が悪い真の原因を取り除く時間稼ぎをしたのである。役に立たぬ勉強はないものだ。原因を取り除いてLX3000は市販にこぎつけた。SRLでデータの比較チェックをしなければ、市場に出てからクレームの嵐となっただろう。栄研化学にとっても上場間際の大事な時期だったから、大型の新製品が完全な形で市場の出せたのはうれしいことだった。こういう仕事を通じてあちこちに人脈が広がるのである。
 検査項目を度忘れしたが、細胞性免疫のリンパ球の解析装置と検査サブシステム開発も現場とメーカの間に入って見ていて、検査手順や機器の機能や監査サブシステムとのデータのインターフェイス仕様を熟知していた。
 染色体画像解析装置も処理がなぜ速いのか機器の構成をラボ管理部の担当者と共に英国メーカの技術者に質問して確認していたから説明は簡単だった。検査の処理手順についてもそのときに調べて熟知していた。
 問題が起きる都度、各検査部門に出入りして自分の目で確認し、調整していたので、どの検査部門に行っても歓迎された。必要な機器も世界最高性能のものを調べて予算をとってあげた。入社当初に全社予算編成の統括責任者をやったから、経理取締役に一言電話しておけばなんでも通してくれた。会社にとって将来必ず利益になるからである。廊下を歩いていると、検査現場から「あれがAさんだ」とまで言われた(ラボと本社のつなぎの役は果たせた。それまで本社部門とラボはなんとなく気分的に対立があった)。
 大学病院関係者のラボ見学対応をした後に応接室で雑談すると、「ところでAさんはどの検査部門でお仕事していたのですか?」と質問されるようになっていた。「上場準備のための統合システム開発」と予算編成と管理がこの会社でのわたしの元々の仕事です。入社当初は全社予算の統括責任者をやっていました、SRLの大蔵大臣でした」と告げると「え!検査部門の人ではないのですか」と言われる始末。「やりたいのですが、会社はわたしに一度も検査をやらせてくれません、そのうちにやる機会があればうれしいですね」と何度か話したがついに検査を担当する機会はなかった。

 ここでも、理化学分析器やデータ処理用コンピュータやインターフェイスに関する専門知識があることが、お客様とのコミュニケーションでも、検査現場とのコミュニケーションでも、学術開発本部内での学術情報部のラボ見学担当との間のコミュニケーションでも役に立ったのである。それらの専門知識も本をただせば、基礎学力の高さがものを言っている。どんな分野の専門書も英語と数学がある程度できれば独力で読破し、ただちに仕事で使うことができる。専門書に書いてないことが起きても、全部自前で処理できるのである。場数を踏む、経験を積むというのは大事なことだ。たいがいのことにはたじろがぬ自己が練りあがってしまう。

<余談ー2>
 軍事用・産業用エレクトロニクス輸入専門商社(セキテクノトロン)の初代は三井合同で働いていた。財閥解体に関与して最後に自分もやめて、独立した。スタンフォード大学卒であり、HP社創業者のヒューレットとパッカードの二人と同じクラスだった。その縁で日本総代理店をやることになった。横河電機とHP社の合弁会社YHPには参加せずに独立の道を歩む。二代目がわたしが仕えた社長である。慶応大学大学院経済学研究科卒、英語に堪能で品のよい人だった。その後店頭公開を果たしている。三代目はわたしが職を辞したときに一浪した後東大生だった。
 セキテクノトロンは2010年にコーンズドットウェル社の完全子会社となり、2012年に吸収合併されて消滅。業績が悪化して店頭上場廃止目前での子会社化と吸収合併だったようだから、社員は気の毒だ。この会社は2回チャンスがあったが、二つとも見送ってしまった。社長は有能な社員を使える器がないといけない。
 

---------------------------------------------

*HP-67
 実に使いやすい科学技術用プログラマブル計算機だった。シンガポール製品で信頼性が高かった。中国製品に変わってから品質が比較にならぬほど劣化した。グラフィックス機能のあるHP48GXは1年ほどで壊れたし、現在使っているHP35sもテンキーのうち「0」が強く押さないとはいらない。1990年ころ、米国から取り寄せたデータからMoM値の計算式をカーブフイッティングするのに使ったHP-41cxは1984年に経理部所属で統合システム開発をしていたときに買ったものだが、これは健在である。ROMメモリー(HP-67とHP-97は1cm×8cmほどの薄型プラスチック磁気カードにプログラムやデータを保存できた)の統計パックを含めて5万円を超えていた。これは現在も元気に動いているから、シンガポール製品だろう。
 値段は高くてけっこうだから、高機能の製品はシンガポールや日本で製造してもらいたい。

1979年の国内販売価格はHP-67が11万円、HP-97が22万円だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/HP-67/-97
Hp 67 powered.jpg


*HP-97画像
http://www.keesvandersanden.nl/calculators/hp97.php

この製品が一番使いやすかった。データとプログラムは左上のスロットからプラスチック製の磁気カードを差し込んでロードしたり、ストアする。キーが大きいのでブラインドタッチでデータ入力ができたから、作業時間を短縮できた。入力データは感熱プリンターで打ち出して、チェックできる。入社2ヶ月で二代目社長のSさんが米国出張のお土産だといってわたしにくれた。当時22万円。おかげで統計処理作業が短時間で済むようになり、時間が空いたので為替差損を回避する仕組みや為替予約をどういうタイミングでいくらやれば、実際の決済をカバーできるのか、そういう研究をする時間的余裕ができた。オフコンのプログラミング習得や、システム開発関連の専門書も近くの日本橋丸善まで出かけて、よさそうな本を片っ端から読んだ。管理会計関係の洋書は社長がやはり「お土産」として買ってきてくれた。500ページを超えるような先端の良書だった。本気でわたしに会社の経営改善をやらせるつもりだった。


<HP-41cx>
この製品はシンガポール製で、1984年に購入していまだに故障知らず、優良品である。メモリーは磁気カードから、ROMになった。ROM容量が大きいので統計パッケージはROM1個に収まる。統計パック込みで5万円くらいした。これはSRL経理部で会社の経費で購入してもらった。MoM値のカーブフィッティングに威力を発揮した。


<HP-49GX>
 この機種から中国製品、1990年ころ自分で買ったがすぐに故障した。4万円程度だった。
Hewlett-Packard 48GX Scientific Graphing Calculator.jpg
<HP-35s>
 10000円ほどで買える。表示が2ラインになっているので使いやすい。4段のスタックは慣れれば1ラインしか表示されなくても頭の中では見えているからなんの不都合もないが、初めて使う人にはこのほうが親切だ。2008年ころに購入したものだが、中国製だからゼロキーの調子がよくない。強く押さないと入力できないことがよくある。最初の3機種でこういうトラブルはまったくなかった。
Hp35s Calculator.jpg

<おまけ情報>
 HP社製の電卓は科学技術用計算機からダウンサイジングしたものだから日本製に比べて性能がいい。入力した数値を200ラインほど記憶しているから、入力データのチェックがディスプレイ上でできる。たとえば、簿記の検定試験で試算表の合計が合わないときは、ボタンを押して一つずつ入力データを呼び出して確認できる。もちろん、間違えたラインを消去して、正しいデータを再入力できるから、商業科の高校生は使ってみたら良い。値段は国産電卓製品と変わらない。
 ただ、キーが大きくて、サイズに難がある。日本の電卓と同じくらいのサイズの製品を出してもらいたい。HP-97のテンキーくらいの大きさが良い。

-------------------------------------------------


*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10

 #3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2>  May 12, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 


nice!(0)  コメント(16)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 16

後志のおじさん

communication 能力とは、


自己を知り、

相手を知ろうとし、

互いの隙間を埋めようとする


3つの姿勢がとれること。



この3点につきるのでは?



楽しく読んでいます。どうやら同じ時期に私が若輩者として新宿西口にいたみたいです。
スバルビルの加藤登紀子の息のかかったロシア料理店とか、上に上がっても西口大ガードの手前の一画まではテリトリーが重なっていたみたいですね。




by 後志のおじさん (2015-05-16 22:51) 

ebisu

後志のおじさん

なかなかまとめ方がいいですね。

>communication 能力とは、
>自己を知り、
>相手を知ろうとし、
>互いの隙間を埋めようとする
>3つの姿勢がとれること。
>この3点につきるのでは?

そうだと思います。自分のほうから溝を埋めようと踏み込めば良い。
学校の先生の中に、「数学なんて役に立たない」と生徒に広言する方がいますが、その人は数学が役に立たないような仕事をしてきただけです。
基礎学力に関係のあることはどれも仕事に役に立ちます。基礎学力の高さと異分野への好奇心の強さに応じて、仕事の守備範囲が決まってしまうのでしょう。

>楽しく読んでいます。どうやら同じ時期に私が若輩者として新宿西口にいたみたいです。

楽しんでくれてありがとうございます。英語の学習の重要性もたくさんの人に理解してもらいたいです。日本語後威力と数学と英語の両方のスキルの三つが揃うと、大きな問題に片をつけるとっても強力な武器になります。

ところで新宿西口はいつころのことですか。わたしは79年9月から84年1月まで日本橋人形町、84年、85年の2年間SRLの本社のあった新宿西口のニッセイビル22階で仕事、昼も夜も新宿の街を西・東の両方を徘徊(?)していました。その後八王子ラボ、市ケ谷の営業本部、日本橋本町、立川(SRL本社)と遍歴(?)、横浜に2年ほど、そして銀座4丁目と2丁目。都会の空気を満喫しました。
by ebisu (2015-05-16 23:32) 

amanda

懐かしい機械の写真を見せていただきました。
新宿西口は当時私もよく通っていました。もっとも、まだ小学生で、自分がコンピューター関係の仕事に就くことなど思いもせず・・・。プログラミング電卓は父が使っていました、適当にキーを押してイタズラしてはコラっとおこられて。
HP-97を見て、4つ下の弟が低学年で大人に交じってたった一人、プログラミング講座に参加し、新聞や科学雑誌に載ったことを思い出しました。
彼は結局自分の思うとおりに進み、今はN社でSEです。あとはお嫁さんさえ見つかれば、完璧なんですが(笑)
by amanda (2015-05-19 09:38) 

ebisu

amandaさん

お父さんがHP-97を使っていたのですか。SRLでは私のほかには研究部の人がたった一人だけ使っていました。相当変わっているという評判でした。学術開発本部で仕事をしていたときに、「ebisuさんも研究部のxxと同じ電卓をつかっているんだ」といわれて、ドキッとしました。

あなたは私の娘よりも数個年上のようです。娘はちっとも興味を示さなかった。(笑)
理系の大学へ進学はしましたが・・・理由が振るっています。
「お父さんが文系だから」
どういう意味だったのかいまだにわかりません。

プログラミング講習会に低学年で出席した弟さんはN社のSEですか。C&Cの会社なら、N情報サービスのトップレベルのT島さんというSEと仕事したことがあります。
S社長はコンピュータを他社製品にするときには必ずその会社のトップレベルのSEを担当させることという条件を付けてくれました。おかげでM社系、N社系、独立ベンダーとトップレベルのSEたちの「技術を盗む」ことができました。
幸せ者です。S社長に感謝。

弟さん、お嫁さんが見つかると良いですね。
by ebisu (2015-05-19 10:27) 

tsuguo-kodera

 お二人のコメントに割り込んですみません。つまらない戯言です。勘弁してください。
 私は昭和25年ごろから昭和45年まで西口に時々行っていました。もっと前から一家で行っていたのでしょうが、覚えていません。
 近くに大学院の先生の自宅もありました。大学の同級生の友人宅、薬局も地下鉄の出たところにありました。ラブホテルとタクシー会社の後とり息子は小中高の仲良しでした。今は鬼界の人です。
 西口はしょんべん横町と言われていた時代です。本当に臭かったです。でも私には、子供の時からの遊び場の一つでもありました。
 西口の雑踏の中で食事をすると、裸の自分が町に溶け込んで無となるような印象がありました。自分を消したいときの場所になりました。
 私は自我が強すぎる人間だったのか、西口の屋台のラーメンや飲み屋は憂さの捨て所でもあったのでしょう。
 ちなみに私はF社で新卒以来10年我慢して、つい我慢できず、退職し、我慢しない男に逆になったようです。今はなにもかもない、裸ですので気が楽です。
by tsuguo-kodera (2015-05-19 11:58) 

ebisu

どうぞどうぞ、割り込み大歓迎です。(笑)

西口しょんべん横町にわたしがはじめて足を踏み入れたのは、東京で暮らし始めた18歳のとき、昭和42年。
たしかに、小便臭かった。あの臭いと空気を思い出しました。

根室の梅ヶ枝町三丁目にも似たような横町がありました。両サイドが小規模な飲み屋、その真ん中にトイレがあって、酔っ払いが小便するので臭いこと。でも、その通りのお店の子どもたちも遊び友達でした。小さな空き地や横丁には子どもたちの遊ぶ声が夕方まで響いていました。
「うるさい!」なんて怒鳴る大人はいませんでしたね。子どもは元気でうるさいのが当たり前、おおらかな時代でした。
by ebisu (2015-05-19 12:57) 

amanda

ebisuさんの娘さんの数個上・・・そうなんですね。ebisuさんは父と同じくらい・・・私はたぶん父の影響で自然と理系になったのだと思います。父はもうおりませんので、今更ながらこんな風にもっと話をしていたらななんて考えてしまいます。お話しできて嬉しいです。

みなさんのコメントを読んでいると、親につれられて歩いた新宿西口の雑多な風景を思い出します。

父は建築士でした。相当変わってもいたと思います。(^^)
電卓や和文タイプライター、コピー機、PCに至るまで何でもすぐ使ってみたくなるらしく、事務所内は製図台以外は機械で埋まっていいてまるでどこかの会社の実験室のようでした。
十数年後、F社に入社して実験室に入った時に妙になじんでしまったのは、そのせいかもしれません。
コンピュータ関係ということでしたら、もしかしてkoderaさんは、会社の大先輩でしょうか。地元の大先輩かもしれません。なんだか懐かしくてノスタルジーな気分になりました。
by amanda (2015-05-20 09:48) 

tsuguo-kodera

 私は蒲田のシスラボができた年に入社しました。中原部長、中村課長代理でした。
 2年で中原工場に移り、周辺の岩井麟三部長、田中課長代理の時でした。
 周辺機開発課でいろいろな周辺装置とシステムの開発を目の当たりにして、私はレーザーシステムの実験を主に担当しました。
 富士通が小型機とオフコンを始めた時、岩井事業部長と一緒に小型機事業部に移り、小型機の方式設計を担当しました。
 FFFプロジェクトの日本語処理のチーフを担当し、山本事業部長など工場の重鎮たちに報告会を開催しました。IBM互換機路線をやめようと言う論旨でした。
 でも不可解な取締役会の決定があり、岩井さんは富士通アメリカの社長として飛ばされてしまいました。アメリカに行くか、退社するかの選択から、転社を選び就活を始めました。そしていい加減に決心し、一番潰れそうなシャープへ転社しました。今頃潰れそうですね。(笑)
 川崎工場の高専で教えていたこともありました。富士通がインターネット教育を始めた時、中村洋四郎様に依頼され、ネットビジネスの講師も担当しました。やはり先生の方が性に合っていたのかもしれません。(笑)
by tsuguo-kodera (2015-05-20 20:28) 

後志のおじさん

85年に、米国勤務から戻って西口の三角ビルで「仕事?」してましたね。

FACOM9450なんて、当時のハード水準からしたらよくできてました。

EPO- Calcなんて、exelそのものだし、
私は、ACE が好きでしたね。

色んな処理が、自在にできた。


NHKドキュメント、「プロジェクトX」にでていた方なのですね。こでらさん、って。

米国子会社社長となった親方は、羽田空港で倒れたように描かれていましたが………



by 後志のおじさん (2015-05-20 22:55) 

tsuguo-kodera

 多分、それは東工大出身の池田さんの話ですね。素晴らしい人でした。私も憧れていました。その人が罵倒した人が富士通で一番出世したのかもしれません。テレビに出たのはそのような人たちでしょう。きっと。
 彼が倒れなかったら、倒れたのは富士通の玄関だったと言われていましたが、アムダールの開発の祖語について池田さんが直接アメリカに誤りに行く旅の玄関だったはずです。徹夜で怒っていたので血圧が異常になったのかも。もし彼がその時倒れなかったら、タラレバですが日本のコンピュータや情報市場は今とは違った世界になっていたでしょう。いくらでも仮定のパスを話せます。
 私が一番頭にきたのは、オアシスの開発責任者だった本体の方式設定だった人、後にniftyの社長をしたのではないでしょうか。彼もテレビに出たのかも。でもそのような人はたくさんいました。
 彼も我々若手の提案をパクったと私が考えてしまいました。凄い勲章をもらった山本某の手下は皆さん出世したのです。
 山本某は富士通のすべての成功を自分の手柄にして、つい最近まで影の実力者で力をはっきしていました。富士通には影の社史と表の社史があると中村様から教えていただきました。中村さんは営業に近い立場で、池田さんの成功を支えていた人でしょう。
 若気の至りか、私は辞表をたたきつけ、シャープへ転社し、オアシス対抗機の商品企画を担当しました。普通のキーボードによるローマ字かな漢字変換の書院です、書院はかな漢字変換、ローマ字変換の独自の方式が特徴でした。
 書院はワープロ市場を席巻し、オアシスのかな漢字変換は市場から消えました。私も東京へ帰ろうと思い、窓際族を志望したのです。
 今もシャープの携帯やスマホは評判が良いようです。一部ノウハウが生かされているのかもしれません。私は東京で今まで中村様や大学の依頼で非常勤講師を始め、窓際族で液晶ビジネスで遊んでいました。
 10年ほど前になりますが、北海道のIT関係の学会の先生から依頼され、液晶ビジネスに関する講演会講師をしたことがありました。
 液晶はすたれないと言うことは当たったようですが、これほどシャープが酷い状況になるとは考えていませんでした。携帯電話が市場トップになり、多岐工場が携帯の液晶生産で追いつかない状況になっていたからです。
 なお、岩井さんは富士通アメリカの社長をした後、富士通の副社長で戻り、苦労して筋無力症になったのかも。歩けない岩井さんを見るのがつらかったです。二度ほど関係会社の社長の時に遊びに行きました。
 私の責任もあったと反省しました。口に出して謝ったら、いや、良かったよ、お前が好きにできていたら何でも良いと言われてしまったのです。
 これ以上の話は涙なくして語れません。もっと大変なご不幸も私の騒動で岩井さんの私生活にも発生したのかもと思っているからです。
 富士通もシャープも、私が良く知っている真の実力者の歴史は表舞台から消えたように感じています。いつの時代も、日本の歴史も世界の歴史もそうなのだろうと私は今は考えています。
 そんなわけで、陽明学に基づく子供の無料教育に凝り始めたのです。バドミントンのできる小型の体育館があれば、その一端をお見せできますが、遊びのようなものです。
 小樽の小学校の体育館でも使えて、小学生が数人でも来れるなら、お見せできるかもしれません。
 でも、部活の顧問の先生は嫌うでしょう。何も資格がない奴がするなんてとんでもないと思うのも道理です。
 長くなり失礼しました。

by tsuguo-kodera (2015-05-21 06:47) 

ebisu

IBM互換機アムダール社は80年代から富士通と業務提携していたのですね。97年に富士通の完全子会社となったとウィキペディアに載っていました。

OASISは福島県郡山市の臨床検査会社と資本提携をまとめて出向した前後、90-93年にフルに使っていました。93年に社内ランが整備されて文書作成はパソコンの仕事になりました。OASISは書体がきれいだった。koderaさんはOASISのローマ字・カナ漢字変換開発に関係していたのですか。

わたしのいたSRL社は84年当時は富士通の国内最大の「汎用大型機」を基幹業務系システムに導入しました。国内初導入ではなかったかな。予想通りOSのバグがでました。当たり前ですね、まだ使われていなかったのですから。多くのユーザが使ってくれてバグがつぶせます。IBMはその点で有利でした。
85年に3メガ・メインメモリーを増設するのに5000万円掛かりました。いまそれの1000倍なら百円しないでしょう。性能と価格比はおおよそ百万分の1になっています。隔世の感がありますね。

富士通とSRLシステム部門についてはいろんなエピソードがあります。


by ebisu (2015-05-21 09:04) 

amanda

私は92年入社、川崎(中原)工場に配属です。
敷地奥の古い建物で、ワークステーションのSCSIデバイスドライバの開発をしていました。その後、サンマイクロのOEM関連開発部署に移り、テストプログラムの開発とシミュレーションを担当していました。同じフロア内に部署がありましたので、IBM互換路線の話もアムダールもかなり身近な話でびっくりです。ほんの下っ端で、上でどんな話があり、どう開発方針が決まっているのかなどは、まったく知らずにひたすらプログラミング&英語と格闘していましたが。
なんだか、いろいろなお話があったのですね。

by amanda (2015-05-21 12:18) 

tsuguo-kodera

 オアシスは、私は担当しませんでした。私は富士通の初代オフコン、システム80と言うモデルでした。しばらく富士通の屋台骨を支えていたようです。
 このオフコンに搭載したワープロソフトは私も企画の一部を担当しました。このシステムはベストセラーになりました。プロセッサーも新しい方式の独自開発でした。オブジェクト処理も参考にしていました。
 小型機のグループが参考にしたのは、IBMで言えば、システム38でした。このモデルは進みすぎた方式だったため、ベストセラーと言われていたのですが、後継モデルはありませんでした。パソコンネットワークが最先端のこの市場を開拓することになったのでしょう。
 なお、この時の富士通のマシン、すべてのキーボードディスプレイは端末機から小型機の端末群、大型機のコンソールまで統一し仕様を私がまとめました。私が一番年下でしたが、これもチーフをさせられたからです。
 オアシスは大型機の人たちが始めました。私たち若手のアイデアをとって、自分たちで大型機と端末機の人が始めました。私たちはUNIXに行くべきだと主張したのです。システム7の時代でした。これを端末機から小型機まで全部同じ日本語処理で実現しようと提案したのです。
 小型機から見て、オアシスの特殊なキーボードは整合性が悪く、最初は売れても、失敗すると言ったのです。私などの数名の反対者ははじき出され、本体の方式部長が始めました。UNIXはしばらくお預けになり、Mを続ける決定がされました。ベストセラーだった小型機も儲からなくなったら縮小すると思えました。
 私はシャープに移り、オアシスは参考にせず、アップルのリサやマッキントッシュやxeroxのスターを参考に担当係長に仕様をまとめてもらいました。一番の仮想の競合機はIBM5550でした。オアシスと東芝がトップの時代でした。
 オアシスに勝ったと思ったのは朝日新聞の機種選定の時でした。朝日は赤本を辞書にしてくれたなら、全部署員に切り替えると言ってくれました。辞書を社内開発して、自然言語処理のノウハウがたまりました。
 私もタイプライターやノートPCのようなワープロは興味がなくなり、東京へ転勤になりました。第5世代コンピュータ開発や自然言語処理や汎用辞書の国家プロジェクトを担当しましたが、シャープではあまり重要視される業務ではありません。
 そこで私はグーグルなどより遥かに早く、30年以上前に検索エンジンを開発研究し始めました。このシステムは大学の商談には大変役立ちました。アスキーや上智大学などのネットワーク商談のおまけとして提供されていました。
 その後、各社はワープロから撤退しました。今も電訳機には私が担当したこともあるワープロの辞書が搭載されているのではないでしょうか。携帯電話はその小型バージョンですので、あまり良く分かりません。
 私は富士通でUNIXの開発を提案し、シャープで検索エンジンの開発を提案しました。でも、両方とも、世界初の時は全く商品化できませんでした。できていたら、またタラレバですが、グーグルはなかったかもしれません。
by tsuguo-kodera (2015-05-21 16:15) 

ebisu

富士通のシステム80はIBMシステム38の対抗機ですか。
RDBMSマシンでしたね。これとその後に出されたIBMシステム36はよく覚えています。
産業用エレクトロニクス輸入商社にいたときに、M社製オフコンからの乗り換え候補機の一つとしてチェックしていました。しかし取引先のマシンを入れるということで、N社の汎用小型機に落ち着きました。
RDBMSマシンはユーザ側が扱いやすいので、候補に挙げていました。

92年に千葉ラボ(子会社SMS)の経営建て直しをするためにシステム38の後継機であるAS/400ともう一台別の機種を導入しています。
このころからパソコンの性能が顕著に上がりました。NTサーバーもでてきました。

汎用機から多数のパソコンの並列処理に流れが変わりました。レイドアレイ技術でハードディスクの容量も問題がなくなりました。

koderaさんはシャープでは「書院」の開発に携わり、その後第五世代コンピュータ開発プロジェクトにも関係したのですか。けっこう楽しそうな仕事をしていますね。
検索エンジンの開発はずいぶん早くに目をつけたのですね。
事業化できるかどうかが大事なところで、あまり早いと技術が追いついてきません。数年がんばり続けたら何とかなったのかもしれませんね。
by ebisu (2015-05-21 23:08) 

tsuguo-kodera

 私が検索エンジンを研究開発していた時、アメリカには2社ほど検索エンジンのベンチャー企業がありました。それぞれ実績のあったソフトウェアの開発会社に買収されました。
 アメリカは数人で会社を興し、1億円以下のお金を集め、新しい商品やサービスに挑戦します。そこでまた資金調達し、開発を続けるか、会社を売ることもできます。成功までに、何度も資金調達したり、会社を売ることも併せて検討しています。
 日本は会社を買う習慣は昔はあまりありませんでした。ベンチャーで成功しても、最後は失敗者になるのが私の時代だったのです。会社を移るのは落第だとみられかねない時代でした。
 私は開発を担当者2名にお願いし、係長1名とともに日本全国の商談に出かけていました。阪大とか上智や女子栄養大など、SUNやパソコンやマック、PBXなどの、ネットワークの大型商談獲得30ほどに貢献できたと思っています。
 でも、日本は研究開発担当した若者は異動するのです。優秀な若者は他の研究組織や販推部門が希望してローテーションしてしまいます。
 日本の会社が研究開発できるのは商品化のゴーサインがトップの会議できまります。隠れ研究はなかなかできません。昔はまだなんとかできましたが、シャープも世知辛い世の中になり、投資対効果を煩く言われ始めました。
 シャープは金プロと言う仕組みがあり、挑戦的な商品に投資をしてくれます。何度か専務に提案し、2名の担当を置いてもらっていたわけです。商品化できると思って社長に提案しに本社を訪れました。✖になったわけです。
 事業部長は日本マイクロソフト社長に転社する決断を密かにしていたのに、緊急プロジェクトの提案を私にさせたのです。社長は私に、直接、お前はキチガイだと言われてしまいました。
 社長はコンピュータを知らないのだから仕方がありません。でも、コンピュータ事業部長だった、商品化をすると言っていた人が転社のために私や若い人を利用していたのは許せませんでした。
 社内で何を言っても、負け犬の遠吠えですので、何も言わず非常勤に専念しました。おかげで教育に定年前の10年も専念できました。そのため、定年後に足かけ10年、他社の人材育成の顧問や学校の非常勤をできました。今は一つの高校になりましたが。
 アメリカは何故できるのかですが、ガレージのような長屋のベンチャー群の建屋が有名大学のそばにあるのが普通です。いろいろな人がベンチャーを買いに来るのです。私も何度か西海岸の大学周辺のそのような長屋に行きました。
 大学や会社の仕組みが違うので、日本では難しかったのです。今はだいぶアメリカに近くなったのかもしれません。
by tsuguo-kodera (2015-05-22 05:09) 

ebisu

ははは、そのころからでしたか。無理解ですね。やってみなはれの精神はまったくナシでは、30年後の現在の惨状は当然かもしれませんね。
30年前に家電の社長に検索エンジン事業化の話をしてもキチガイ扱いとは、当時の社長さんはただのバカですね、視野の狭いこと。koderaさんと違って、受験勉強しすぎて頭が固かったのでしょう。事業家としてはセンスゼロ、そういう人たちが社長の座をバトンリレーしていたら、長期的にはダメになって当然です、シャープさんいまだに方向転換できないのでしょうね。

わたしは85年に主要疾患分野10個程度取り上げて、全国の専門病院と大学病院に参加してもらい、臨床診断支援システムの事業化をしようと稟議書を書きました。創業社長のF田さんは経営会議でとりあげ、即座にOKだしました。要求通り200億円の予算内でやってよし、驚きました。わたしは当時入社1.5年で管理会計課員でした。
臨床診断支援システムは臨床医の診断手順をプログラム化したもので、大学病院で臨床医を育てるためにCAIにもなりうるシステムでした。共同事業のパートナーにもなりうるので、NTTのデータ通信事業部ともミーティングをしましたが、コンピュータの速度と通信回線速度が20年後くらいでないと仕様を満たさないことがわかり断念しました。
失敗を覚悟で10年がんばれば、コンピュータも通信回線も半分の10年で要求仕様を満たすような水準になりました。
仮想のマシンと要求仕様を満たす通信回線を前提に、臨床診断手順のアルゴリズムの検討は十分にやれたはずでした。それすら、やらなかった、いややれなかったのです。最終目標の事業化が現実にならなければ、100億円程度の損を覚悟しなければならない、その覚悟がありませんでした。
先行開発して100億円程度の損を覚悟だったらやれたと10年後に思いました。わたしにはその勇気がなかった。やるからには失敗したくなかったのです。
おろかでした、ときにバカになりきらなければ、世の中をひっくり返すようなアイデアの事業化はできません。

80年前後のころはパソコンはおもちゃで、こんなものがわずか十数年で仕事で使えるような仕様を満たすものに化けるとは思えませんでした。多少、エレクトロニクスを齧っていた人たちは皆私のように考えたのではないでしょうか。ところが米国ではガレージで本気でそういうことを夢見てやりつつある十代の若者がいた。
時間のすべてをつぎ込んでもこの事業化に没頭できれば十分、それで悔いナシという彼らのチャレンジ精神に負けたのです。

検索エンジンと違って、臨床診断支援システムは環境条件が整ったにもかかわらず、まだだれもやろうとしません。どなたかにやってもらいたいです。
SRLが全国の大学病院と取引があり、業界ナンバーワンだったから、そういう事業が射程にとらえられたのだとも思います。
日本は基盤のしっかりした会社の支援をえて事業化できるのですから、米国よりもさらに事業化が容易なはず。

臨床診断支援システムは10個ほどのサブ・プロジェクトに分割してありました。そのサブ・プロジェクトの中の一つに、臨床検査項目コードの標準化がありました。検査項目コードを標準化しないと臨床診断支援システムが全国の病院対象に使えません。カルテの光カード化もサブ・プロジェクトのテーマにありました。これはオリンパスの関係者とあって当時の開発状況やコストを確認しました。光カードにカルテを載せるにはカルテの標準化も必要だったのです。
臨床検査項目コードの標準化だけは果たしました。臨床病理学会と大手6社の共同プロジェクトを立ち上げて、数年かけて臨床病理学会から臨床検査項目コードが公表されました。それが事実上の日本標準となって、いま全国の病院の院内システムはその臨床検査項目コードで動いています。
市立根室病院ももちろんそのコードで院内システムが動いています。保険点数の改定があっても、病院で保険点数を入力しなおす必要がなくなったのです。
それまでは、2年ごとに保険点数改正がなされる都度、全国の病院で、院内システムの検査項目マスターに保険点数入力がなされていました。

バカになりきれない、そこが日本の若者に共通の弱点なのではないでしょうか。会社というバックがありながら、冒険魂をもった者がでてこない、そういう風土を壊さなければなりません。
そういうつもりで、私塾を開いてふるさとの子どもたちを育てています。
by ebisu (2015-05-22 10:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0