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#5116 四か月検診 Nov. 17、2023 [38. cancer]

 今日11/17、四か月検診の検査結果を聞きに行ってきました。
 血圧は60-113でした。これでも上も下も10程度高いのです。前回の80-130というのはわたしとしてはこの17年間で最大値でした。
 赤血球とヘモグロビンが基準値下限を少しだけ割っています。一番注意しなければならない血清鉄は78(基準値は50-200㎍/dL)で基準値内です。安定しています。
 血清鉄が安定しているので、7月に三か月検診に行ったときに、四か月ごとでいいと言われました。

 検査結果を見てフェジン静注40mgビタミンB12メチコバール注射液500㎍を打ってもらいました。メチコバールは筋肉注射ですが、不思議と痛くならない。肩への筋肉注射で一度、数日方が上がらないくらい痛みが生じたことがあったので、ちょっと怖い。

 スキルス胃癌で胃の全摘をした患者のみなさん、血圧や血清鉄のデータはどうですか?


<余談:e-book>
 診察まで時間があったのでスマホでe-bookを読みました、夏目漱石の『こころ』です。会計が終わるころには400ページのあたりでした、スマホは便利です。この小説は高校国語の教科書に載っています。当て字が多くて面白い。
 

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#5115 極東の町から秋刀魚がまた届いた Nov. 15, 2023  [86.1 食]

 今日のお昼頃、極東の町から新鮮な秋刀魚が届きました。いくつになってもメンコイ妹からです。

 家の前にちょくちょく来る黒い野良猫を、飼いネコにしました。そのまえに「トラ」と名付けた三毛だったかな、これは姪っ子が車でわたしのところへ来た時に、野良猫がいて、帰るときにドアを開けたらひょいっと車に飛び乗ったのです。それ以来17年目かな、この猫ももう老衰して痩せてきました。クロちゃんは脳障害が出て、2年間スポイトで薬を飲ませていました。数日前に膝の上にのったままやすらかに硬くなっていったそうです。トラちゃんの方もそう長くはなさそうです。人懐っこい猫で、たまに行くと足にまとわりついてイスに飛び乗ってきて、座っている横にきて、ゴロゴロ喉を鳴らします。まだ、おしっこやウンチはちゃんと猫用トイレでしているそうです。それができなくなれば、そう遠くないうちに逝ってしまいます。
 小学生の頃、わが家は誕生日には好きなことをしていいことになっていました。ある時、「近所の野良猫集めて家でご飯食べさせたい」と言いました。小汚い猫を洗ってあげます、もちろん猫は水を嫌がります。十匹近い野良猫がリビングをうろつき、乾くと毛が飛ぶのでオヤジは嫌がってその日はリビングに寄り付きませんでしたね。(笑) 飼っている猫のお産の手伝いも明け方まで手伝うそんな小学生でした。猫好きですね。私は犬好きで、3度飼いました。物置小屋で犬と一緒に寝たこともありました。
 送ってくれた秋刀魚のお陰で、懐かしいことを思い出しました。わたしが子犬を抱っこして、妹がその犬の尻尾をぎゅっとつかんでいる写真がありました。いくつになっても妹は妹。あはは!

 中西水産から発送されていました。秋刀魚もやっているんだ。
 道東の秋刀魚は去年も11月に脂ののった少し大きめのものが水揚げされてました。夏の水温が例年よりも5度も高かったので、鮭は不漁です。秋刀魚もいつもは9月10月がシーズンですが、そのころは1000㎞も離れたところに漁場があり、運んでくるだけで鮮度が落ちてしまいます。
 漁場が近くないと、鮮度のいい秋刀魚は花咲港に陸揚げされません。11月になってから水温が下がり道東沖の近いところに秋刀魚が集まりだすようです。でも量はそんなに多くありません。半月ぐらいですぐに獲れなくなるのでしょう。

 すっかり貴重品となってしまった脂の乗った新鮮な秋刀魚、さっそく焼いて食べましたが、オーブンの受け皿には薄茶色の半透明の脂が5mmほども溜まっていました。秋刀魚はやはり脂ののったものが美味しい。

<余談:ヒレカツ>
 胃のないわたしはほとんど外食できませんので、女房殿は月に2度ほどヒレカツを作ってくれます。今日はヒレカツを揚げる準備万端整ったところへ秋刀魚が届いたので、夜は秋刀魚とヒレカツという豪華版でした。たまにはこういうことがあるとうれしい。でも胃がないので、ヒレカツ2枚と秋刀魚1尾を2回に分けて夕食で食べました。一気には無理で、食べてから1時間してから、また食べました。胃がないから、腸へ直行して消化が始まるので、おなかのすくのも速いのです。
 明日は朝から、残ったカツでカツ丼です。


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#5114 メタルクラウンはプラークがつきやすい Nov.15, 2023 [39. インプラント治療]

 1か月目前に歯茎が腫れたので抗生剤を処方してもらってよくなりました。その後の経過を観察するために今日11/15歯科医院へ行ってきました。ジェット水流の口腔洗浄機を使っているので、歯茎の腫れはありません、色もよくなりました。
 歯科衛生士さんが診てくれて、このメタルクラウンにプラークがついていますと細い金属でプラークをひっかいて取って見せてくれました。ねばりっけのある白っぽいものが金属の棒についてました。メタルクラウンが3つ入っているので、そのどれも同じ状態だとて教えてくれました。

 口腔洗浄機はあまり頻繁に使うと、口腔内の環境を悪くするように感じます。物を食べる都度口腔洗浄機で歯と歯の間に詰まった食べかすを落としていたら、口の中が少し痛くなりました。先に歯間ブラシで隙間を通してからやっていました。日に6回、それと歯磨きが4回でしたね。推測ですが、使い過ぎは口腔内の善玉菌も洗い流してしまうような感じです。

 口腔洗浄機はいま日に2回使っています。
 歯と歯の間に詰まった食べかすをパルス水流で跳ね飛ばすだけで、プラークの除去はできません。プラークはやわらかい歯ブラシでは落ちないようです。固めの歯ブラシか、先がマルク尖がった歯と歯の間をブラッシングする専用のものを使うように勧められました。
 この写真の左から2番目のものがそれです。
DSCN7451s.jpg

 歯間のプラーク除去にはドルツ製の先の尖がった電動歯ブラシがいいのですが、どれが先の尖がった替え歯ブラシがフィットするのかわかりません。お分かりの方がいらしたら、投稿欄で教えてください。⇒調べた結果、ドルツ電動歯ブラシ製品には替えブラシの規格は一つしかありません。だからどれでも合います。

パナソニック 替えブラシ ドルツ ポイント磨きタイプ 2本組×3パック(計6ブラシ) EW0860-W-3p



 口腔洗浄機の使用で歯周病は大幅に改善されます。「電動歯ブラシ+口腔洗浄機」が歯の健康維持の最強の組み合わせです。

 メタルクラウンにはプラークがつきやすいと歯科衛生士の方が言ってました。ネットで調べたら、金属製の義歯にはプラークがつきやすいので、セラミックスがいいと書いている歯科医の方がいました。

<歯科医推奨の製品>11/21追記
 掛かりつけの歯科のドクターおススメはドルツのこのタイプのようです。歯間を先の丸い歯ブラシで磨くタイプ。2万円するのでちょっと高い。
 ハンドルネーム「くまを」さんが、フィリップスの製品を進めてくれました。これも優れモノのようです。歯ブラシの形状がユニークです。替え歯ブラシも手ごろなお値段です。こちらだと1/3くらいの価格で買えます。

 色々調べた結果と私個人の使用感では、電動歯ブラシの使用は2分を目安にしたほうがよさそうです。45度でそれ以上やると、歯周ポケットを傷めます。4分で数日やってみたら、痛みが出るようになりましたので、参考にしてください。何事もやり過ぎはよくありません。(笑)
 

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#5113 公理を変えて『資本論』を演繹体系として書き直すことは可能か? Nov. 13,2023 [A2. マルクスと数学]

 高校2年生の時から数えると58年間『資本論』研究に断続的に費やしてきたことになります。大学に残って研究を続けてもマルクスを超えることはおそらくできない、民間企業で仕事してマルクスの労働観が正しいかどうかも確かめたかったのです。
 小学生になる前から、家業のビリヤード場が遊び場で、中高と6年間は毎日店番を数時間していたので、さまざまな職種の常連客とコミュニケーションに恵まれました。歯科医の先生3人、青年実業家、タクシー会社の社長、ヤクザの親分、大工さん、印刷会社の熟練工、お菓子の商店主、喫茶店のマスター、ラーメン屋さん、漁業関係者、公務員、銀行員、信金職員、魚屋さん、肉屋さん、高校の先生、男子一生の仕事と言っていた珠算塾の先生、家具職人、...、さまざまな職種の常連客がいました。
 そこからみてもどうもマルクスの労働観(労働は苦役である)は日本人の仕事観とは違っている感じがしていたのです。その違和感の正体を突き止めるために、業種の異なる民間企業5社を選んで仕事して、じっくり日本の企業をマネジメントの視点から観察しました。仕事が面白くてドツボにはまってしまい28年があっという間に過ぎましたが、そのうち3社は株式上場を果たしています。その経験を通していくつか分かったことがあります。
 マルクスに欠けていたのは労働とマネジメントの経験智でした。大英図書館と頭の中で考えていただけで、21世紀の今から見るとまるで専門家の「資本家的生産様式」の分析とは思えないような内容です。晩年にマルクスは『資本論第1巻』の体系構成方法の誤りに気がついてしまったのです。その結果、『資本論第1巻』を出版してから死ぬまでの17年間、続巻を出せずに沈黙したまま亡くなりました。
 マルクスには複式簿記の知識がありませんでした。資本主義経済の企業では複式簿記と株式会社制度は会計帳簿の記帳法と企業形態のスタンダードですが、複式簿記の専門知識がないことも致命的でした、理由は後で(稿を改め)詳しく書きますが、そのせいで生産過程で商品の価値が決まると思い込んでしまいました。商品の価値が決まるのは市場です、生産過程で決まるのは製造コストにすぎないのです。複式簿記の知識と原価計算論の知識や経験があれば間違えるはずのないことです。
 1867年という『資本論第一巻』初版出版年を考えると、経済学者に複式簿記理論の知識や実務経験のないことも、株式会社でマネジメントの仕事をした経験のないことも、学問の体系構成法に関する数学の知識のないことも、数学が不得意なマルクスには仕方のないことだったのでしょう。
 世界初の株式会社は17世紀「オランダ東インド会社(Dutch East India Company)です。

 日本初の株式会社は『資本論第一巻初版』が出版された2年後、1869年の丸善でした。英国だって株式会社形態はまだ黎明期でした。個人経営や共同出資経営が支配的な企業形態だったからこそ、「資本家対労働者」という2項対立構図があたりまえだったのです。所有と経営が分離するのは株式会社形態が普及してからのことで、1910年以降のことです。だから資本論の失敗の半分以上は、時代のせいであり、マルクスの責任ではないとわたしは思います。早すぎたのです。

 21世紀のわたしたちには、発展段階の異なる資本主義を見ています。そして努力次第でマルクスが手にできなかった複式簿記という武器を容易に手に入れられます。しかし、いまでも経済学者で複式簿記理論を熟知している人は殆どいないのが実態でしょう。だから、マルクスがどこで何を間違えたのかが理解できないでいます。とはいえ、ユークリッド『原論』とデカルト『方法序説』「科学の方法四つの規則」を読まなかったのはマルクスの責任に帰していい。流行だったヘーゲル弁証法かぶれも同じです。視野狭窄に陥っていました。

 ところで、わたしのテーマは二つに分かれています。資本主義経済の分析と新しい経済社会のデザインです。公理を変えて資本主義経済を演繹的に記述するのはマルクスと同じ程度の分量の原稿を書かなければならないと漠然と思っていました。もうそんなことをしている時間的余裕はないので、新しい経済社会のデザインについて研究方向を絞ろうとしていました。

 昨日から、脳を分散モードにして、A4のコピー用紙に資本主義経済の分析をメモしながら、公理を変えて演繹的に記述がどの程度の手間でできるのか整理していました。今朝になって、あらかた整理がついたので、これから作業に入るつもりです。
 どうやら『資本論』全3巻の分量の1/10以下で、コンパクトに記述できそうです。資本主義経済分析の演繹的な記述はあたらしい経済社会デザインにつながります。

 研究ノートとして書き溜めたら、整理して体系的な叙述をしてみたいと思います。研究ノートが書き終われば、そういう作業が必要かどうかがわかるでしょう。
 

#5088『資本論』の論理と背理法:労働価値説の破綻を証明 Oct. 17, 2023


<余談:株式会社制度に言及した最初の経済学者>

 A. Smithは『諸国民の富』(1776年)の中で、合資会社の間接有限責任社員に言及しているようです。現在の会社法の株式会社に近いものと言えそう。
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●リスクの大きい直接無限社員ではなく、過度のリスクを背負わず、資産を増やせる可能性のある合資会社の間接有限責任社員になりたい人が多い
●そのような投資家が多数いるため、最終的に多額の資本を調達できること
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 『諸国民の富』で該当箇所を探してみましたが、見つけられませんでした。

#5117 公理を変えて資本論を演繹体系として書き直す① Nov. 18, 2023



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#5112 同期の桜・ムサシの訃報 Nov. 12, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 高校同期のヒロコから昨日電話が入っていたので、電話してみた。昨日、根室会があり、そこでムサシが11/3に亡くなったと聞いて連絡してくれたのだ。
 同じクラス3Gの3人、ヒロシとムサシとトシ(ebisu)が東京へ出てきた。根室高校最後の総番長のヒロシとは一緒に上京したから、同じ飛行機便で東京へ降り立った。全日空のスカイメイト、料金は半額6800円だった。1967年当時は中標津空港がない。ムサシは拓大へ進学した。ムサシも総番グループ、三人の副番長のうちの一人だったが、ボンボンで気の優しい奴だった。
 東京へ出てきて、わたしは新宿や池袋の盛り場を遊びまわっていた。夏になるとムサシから一通の葉書が来た。ホームシックにかかって寂しいので会おうと。そういうやつだった。
 二人でヒロシの高円寺のアパートに泊まって酒を飲んだ。数回そんなことがあった。
 二十数年前だったかな、一度、有楽町で偶然にすれ違った。声をかけたら照れくさそうだった。奥さんを亡くしてから数年たっており、女性と一緒でほほえましかった。

 ヒロコはクラスは違うが仲の良い友人の一人である。生徒会で一緒だった。ヒロコは初台の「男子禁制」のアパートに住んでいた。なぜかそこは根室人が数人まとまっていた。新宿駅から歩いても20分ほどの距離だったから、新宿で遊んだついでに何度か行ったことがあった。鍵をかけていないので、本でも読んで暇をつぶして1時間も待っても戻らないとあきらめて新宿へ戻る。男女の気遣いをしなくていい気さくな友人である。
 同じアパートにヒロシも来ていたことを、30年もたってから知った。彼の奥さんになる人が同じアパートにいたのである。だから、時々行っていたとヒロシ。大笑いした。ヒロシは歌舞伎役者のよう顔立ちで野球部、ずいぶんもてていたが、晩熟(おくて)だった。

 根室会に来ていないので、連絡が行っていないのではと気遣ってヒロコが電話してくれた。ヒロコの亭主も数年前に亡くなっている。団塊世代はそういう時期に入ったということだ。来年、東京の同期会を開く予定なので、決まれば連絡をくれるそうだ。ありがたい。行けるかどうかはそのときの体調次第だ。

 まだしばらく東京の空気を吸っているつもりだが、元気そうに見えても、突然体調を崩すということがある。会いたい人には、機会を逃さずいまのうちに会っておいたほうがいいのだろう。
 高校時代の友人は付き合いの長いのが多い。会うと不思議とあの時代のこころに戻れるから不思議だ。

 1月にヒロシが亡くなって、ムサシが逝った。向こうは賑やかそうだ。何年かしたら、また三人で楽しい酒が飲めるかもしれない。
 ムサシの冥福を祈る。

<余談:3回英語授業を潰した>
 1年生の時の沢井先生は中高6年間で最高でした。音読は低音ですばらしい。説明も理論的でした。文型中心の授業をしてくれました。北大卒の先生で、根室高校の後は釧路国立高専の教授になったそうです。高2と3年次はH先生に変わりました。やる気のない手抜きの授業になぜか無性に腹が立ちました。
 あるとき、授業中に席を立って廊下へ出ていき、体育館へいって体育の授業で使っていないことを確かめ、バスケットボールをもって教室に戻り、「体育館空いている、バスケットしようぜ」と声を掛けると、バスケット部のムサシと総番長のヒロシが「おう!」とひと声、ムサシはニコニコしてついてきます。
 3回目には、H先生が校長からお咎めがあったようで、気の毒で3度だけにしました。
「授業中に体育館で遊ばせている先生がいる」
 職員会議でそう叱責があったようで、他の先生から聞きました。担任の冨岡先生だったかな。私がやったことは当然ご存じですが、お咎めなし。理由なくそんなことをする生徒ではないとよくわかってくれていました。

 2年次の化学の先生もいい加減な授業でした。2度質問をしましたが答えられず、あきれて自分で勉強することに決めました。わたしたちが卒業してから別海町へ転任し、あまり授業がずさんだったために首になったといううわさを聞きましたが、公務員ですから首にはなってないでしょう。そういう噂がたつほどの先生だったということ。この先生のときには授業妨害してません。教える能力のない先生もいていいと思っていましたから。でも、やる気のないのは許せませんでした。
 いい先生もいました。授業がうまかったのは簿記の白方功先生(北見北斗高校出身、バッキーシラカタの愛称で呼ばれていました)、政治経済の柏原栄先生、英語の沢井先生、生徒に慕われたのは担任に冨岡良夫先生とバスケットボール部顧問の野沢先生。担任は「ドンタ」野沢先生は「ショッちゃん」の愛称で呼ばれていました。
 新任で二年間だけの付き合いで授業を持ってもらったことはありませんでしたが、ラグビー部を創設時に顧問を引き受けてくれた明大ラグビー部出身の村田先生、お願いしたので部員集めと1年後の部への昇格はわたしの方で手配しました。発足1年間は「同好会」という規定が規約にありました。同好会の部への昇格は、活動実績を見て生徒会の判断でできたので、お約束できました。指導がいいからすぐに強豪校のひとつになりました。予算の配分は、当時は生徒会会計が部長と副部長を生徒会室に読んで単独で決めていたので自由にやれました。予算は生徒会会計の専権事項でしたから、権限が大きかった。もちろん公平性には意を砕きました。
 予算と帳簿の記帳と決算業務が生徒会会計の仕事でしたから、毎年仕事のできる生徒を選んでいました。指名権は生徒会会計にありましたから、先輩の指名があれば否やなナシでした。拒否権ないのです。生徒会選挙の時に、先輩の副会長が2名、次期生徒会長に立候補しろとこれも「命令」でしたから、その旨生徒会顧問へ告げると、校長が反対、表向きは「生徒会会計をしているので、立候補はダメ」、でもそんな規程はありませんから無視してよかったのですが、生徒会顧問が困った顔をされたので、同じクラスだったH勢に副会長への立候補を依頼、副会長の先輩二人に事情を告げて、H勢の応援演説をお願いしました。お二人とも快諾してくれました。副会長の先輩二人がなぜわたしを会長候補に推したのかは理由がありました。1年の終わりころ会計に指名されて、まもなく、丸刈り坊主頭の校則改正を副会長と会計の先輩に相談したら、「おまえがやれ」と言われて、11月の修学旅行に間に合うようにスケジュールを引いて、作戦を練り、2年生になったばかりの四月に保護者へ丸刈り校則の改正を目的としたアンケートを実施しました。髪型は基本的人権の一部だと誘導するようになっていましたので、保護者の方はOKです。校長が弱いのはPTAですから、PTAを味方につけたら、勝負は勝ったようなものでした。あとは集計結果をまとめて、校則改正の規約に則って全校生徒集会を開催して賛否を問いました。それで校則改正ができたのです。修学旅行の3か月前でした。髪を伸ばして東京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行を楽しみました。その経緯を見ていた副会長二人が、「会長に立候補しろ、応援演説は俺たち二人がやる」そう言ってくれたのです。そして校長の反対。
  そういうわけで会長は中学の時、隣のクラスにいたオサムが立候補となりました。あいつは、一人褌を締め、たんたんと「鉄砲」をしていました。たった一人の相撲部、でも性格が温厚な大柄な男でした。
 オサムは漁師の親方の次男坊、あるとき(1967年)16段変速のサイクリング車に乗ってきました。生徒会室の窓の外に置いてました。ピカピカの新車で。
「オサム、自転車ちょっと貸せ、前の道路を走ってみたい」
「いいよ」
と二つ返事でした。貸したくなかったと思います。(笑)
 アナログのスピードメーターがついていました。
 根室高校前からセブンイレブン方向は緩い下りです。そこを全速力で走ってみました。ダンプカーが前にいました。スピードメーターに目を落としたら、あと少しで時速70㎞です。その瞬間に赤い光が目に入りました。ブレーキランプでした。T字路ですからダンプはブレーキをかけて右に曲がります。あ、と思った瞬間におもいきり右側に自転車を倒して、センターラインを越えて反対車線に出ていました。ブレーキをかけたらタイヤの細いロードバイクですから、タイヤがロックしたまま滑ってそのままではダンプの車体の下に入り込んで、命はありません。どーどバイク用のヘルメットをかぶっていてもアウトだったでしょう。そんなものはあの時代にありません、たまたま対向車線には車がいませんでした。生きるか死ぬかの一瞬の判断、後からドキドキです。あの瞬間は「生きてる!」って実感がわいたのです。危ないことほどドキドキワクワクなのです。流氷に乗って遊ぶのと一緒でした。
 オサムが買ってもらったばかりの新車のサイクリング車をあやうくお釈迦にするところでした。あいつ、大事にしているのわかっていましたからね。強引に「貸せ!」って言いました。あの時に死ななくてよかった。優しい奴だから、オサムのこころに傷がついたでしょう。
 ムサシは牧場主の長男、どちらもボンボンで人柄のいい仲間でした。

<余談-2:根室高校総番制度>
 根室高校の総番制度がいつから始まったのかはわかりません。戦前の根室商業高校時代からだろうと思います。5年先輩のSMさんも総番長でした。野球部のキャプテンでもありました。親戚のお兄さんですから、高校1年の時に半年だったか、1年間だったか、事情があって一緒に暮らしていた期間があったので、総番制度について知るところとなりました。ヤクザともめごとがあれば、学校を代表して総番長が話をつけるルールになっていました。なにせ、気の荒い「ヤンシュウ」の多い漁業町ですから、トラブルはあったのです。
 ヤクザともめごとがあったときには、向こうの流儀で「挨拶」をします。「仁義を切る」というアレです。やくざ映画で見たことあるでしょう。SMさん、やって見せてくれました。仁義の台詞が総番長に代々伝わっていました。右手を前に出して、左手を後ろに回して腰を落とし、「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手前生国発しますところ...」とやるわけです。見事な仁義でした。そのときに仁義の台詞を書いた小く折りたたんだ紙をもらいました。机の中に入れたまま数十年がたち机もなくなってしまいました。残しておきたい資料でした。
 あの紙をわたしに渡したということは、総番長の後継者には渡していないということ。ヒロシに確認してみましたが、あいつはそういう引継ぎはなかったと言いました。ヒロシもSMさんと同じ野球部でした。二人に面識はありません。普通科ができても、総番長は商業科から出すのが不文律でした。仁義の台詞はSMさんが時代にそぐわないので、後継の総番長に引き継がなかったのでしょう。根室高校生がヤクザともめごとを起こすなんてことはとっくにありませんでした。親分のTさんも、わたしを少し危ない奴と見ていたようで、「姉さん、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたと、2002年11月に根室に戻ってきてから、当時を思い出して笑って教えてくれました。
 総番長も5代前のSMさんまでは、責任重大だったわけです。ヤクザともめごとがあったら、それを収めるのは、校長でも生徒会の会長でもなく、総番長の役割と責任でした。半端な覚悟ではやれません。いざとなったときに逃げるようでは総番長にはなれません。根室高校の前身の根室商業はそういうバンカラな学校だったのです。
 短歌をよく詠んだ歯科医のT塚先生は、大正6年のお生まれだったかな、根室商業時代に、線路上で両手を広げて蒸気機関車を止めています。どのあたりだったのか、たぶん花咲港へ行った帰りのことではないかと思います。「乗せてくれ」と一言。国鉄の機関手は停車して乗せた、なんて逸話が残っています。根室商業の学生はそんなことをしても大目に見られた時代がありました。いま根室高校の生徒がそんなことをしたら、即逮捕でしょう。

 ところで、T塚先生は軍医で中国の華北で終戦を迎えています。そのときのことを短歌で残しています。弊ブログでも書きました。ああ、検索のために実名を記しておきましょう。田塚源太郎先生です。オシャレで品のよい方でした。ビリヤードの常連客の一人です。先生のために帽子掛けスタンドが置かれていました。いつもソフトハットをかぶって来られました。落下傘部隊のオヤジとは気が合っていました。オヤジは「軍医殿」という態度で接していました。いやいや、一度も「軍医殿」なんて呼ぶことはありませんでしたね、そういう接し方をしていたということですよ。二女のケイコさんが、小中高と同じクラスでした。
 田塚先生は根室印刷の創業者で考古学者・文学博士の北構保男先生と根室商業の同期です。親友だと言ってました。田塚先生が亡くなってから、残された短歌を(田塚先生の)奥さんや娘さんと編集して遺稿集がつくられています。わたしも1冊もっています。田塚先生は国後島の蟹漁の親方が実家、お父さんが早くに亡くなられたようで、お母さんが漁場と漁を仕切っていたそうです。発掘で何度か訪れたことがあるので、北構先生は「大漁師」と形容していました。人を何人か使って、カニ漁は値が張るので、金額が大きいのです。いま、あんな大きなタラバ蟹がとれたら、漁獲高は軽く1億円を超えるでしょう。国後島沖にはそれくらい密に蟹が生息していました。根室商業には5月になってから入学してきたと北構先生がいってました、ずいぶん気があったようです。

 話が転々として申し訳ありません。身近に接して知ったことを書き残しておかないとという思いがどうしても起きます。
 


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