SSブログ

#5230 日本の農業政策:フランスと比較 May 8, 2024 [5.2 好奇心]

 今朝(5/8)4時からのNHKラジオを聞いていたら、核戦争があれば、2億人以上死に、その内の1/3は日本人だと、農水省の元分析官が解説していました。ウクライナ戦争やガザへのイスラエル侵略で核弾頭が使われる可能性がありますから、荒唐無稽な話でもないのです。

 理由は二つありました。一つはカロリーベースの食糧自給率が38%しかないこと、二つ目は輸入原油の94.1%を占めている中東からの原油が入ってこなくなることで日本の物流網がストップしてしまうことでした。

 ネットで検索してみたら、解説者は鈴木宜弘氏でした。東京大学大学院農業生命研究科教授だそうです。
 フランスが農業大国であり、主要な食糧輸出国であることは夙(つと)に知られていますが、その農業政策についてわたしは知らないことだらけでした。
 フランスには農業の補助金に「所得補償制度」があります。農家の所得の40~50%が公的な助成金で贖(あがな)われています。だから、農業に従事している人口も多いのです。米国は公的な助成が40%です。自給率を高く維持することで食糧面での安全保障を強化しています。
 日本は公的な助成は10%程度だそうです。農業従事者はほとんどが高齢者ですから、後20~30年もしたら、現状の3割いるでしょうかね。自給率10%なんてことになりかねません。円安が続いたり、気候温暖化で世界中で干ばつや水害が頻発するようなことになったら、食糧の絶対量が不足し輸入価格は跳ね上がります。農業大国が自国民の食糧を優先して確保するために、輸出禁止措置をとることもありうるでしょう。
 食糧安全保障はとっても大事です。

 日本の酪農の現状はどうなっているでしょう?たとえば、人の数より牛の数の方が多いと言われている北海道別海町は大規模酪農で有名な町ですが、円安で輸入飼料が値上がりし経営難の牧場が増えています。大規模化は機械化を伴なうので投資額も大きいのです。乳価は上がらず、このままでは離農が増えます。子どもに農業を継がせない牧場主が増えます。

「全中は基幹的農業従事者数を農林業センサスをもとに推計した。それによると2020年の136万人が2030年には83万人となり、2050年には36万人へと30年間で100万人減(▲7割)となる見通しだ。
 一方、農地面積について国交省「国土の長期展望」によって推計したところ、2020年の437万haが2050年には304万haへと減少(▲3割)する見通しとなった。」
基幹的農業従事者 2050年36万人 100万人減 農地集約 喫緊の課題 全中が中長期見通し推計|JAcom 農業協同組合新聞

 農家に所得補償をしなければ、日本の農業は後30年で7割の農業の担い手を失うでしょう。食糧自給率はさらに激減します。
 日本という国の安全上も、食糧自給率を50%以上に回復しておかないと、いつ何が起こるかわかりません。何かがあってからでは遅いのです。いま、農業政策を変えて、農業を営む人たちへ公的な助成を増やしてほしいと思います。
 人口減少は好材料かもしれません。空き地が増えて人口が減少すれば、必要な食料の絶対量が少なくなりと同時に、自宅から近いところに小規模な耕作地を増やすことができそうです。月~木曜日まではサラリーマン、金・土・日は趣味の家庭菜園づくりなんて、楽しそうです。中東から原油が途絶えても芋や野菜を栽培していたらしばらくは食いつないで、命をつなげます。

 お金は無尽蔵にはありません。何かを削らないといけない。国会ではそういう議論もしてほしいと思います。国の安全は武器を増やすことだけでは不可能です。もちろん侵略されたら、戦えるだけの武器は必要ですがね。

 鈴木宜弘氏の主張が掲載されているサイトを見つけましたので、こちらをご覧ください。日本の農業政策と現状の問題点を皆さんと共有したいと思います。
*聞いてびっくり! 各国は独自の助成制度で「農業保護」


にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0) 

#5229 不満や疑心暗鬼の社員のある社員の扱い:マネジメント May 7, 2024 [A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯]

 前回ブログ#5228の続編を書きます。
 1997~1999年の話なのですが、類似のマネジメントに関わる問題はいつでもあるでしょうから、参考になれば幸いです。

 5/5の飲み会のメンバーの一人であるK.Yさんは証券会社から転職してきた営業マンでした。SRLでは治験事業は比較的若い事業で、マイナーな扱いを受けていたと本人が語っていますが、その通りでした。わたしが1984年2月にSRLへ転職して、2つの新規事業に健康関連事業と臨床治験事業が立ち上がったばかりで、それぞれの部長と実務のわかる人と予算折衝をしたことを覚えています。予算は申請の満額を認めました。3年間は赤字でよいと判断してました。でも、赤字からのスタートですから、肩身が狭い。黒字になればそんなことはなかったのでしょうが、いつまでたっても治験事業は黒字化できませんでした。帝人との治験合弁会社が設立された1997年1月の時点でも、大きな赤字の事業でした。だから、K.Yさんの言うことは正鵠を射てます。不満を解消するには黒字事業にしなければならないのですが、K.Yさんにはどこを受け持ってもらおうかと考えていました。

 「外回りが終わると、ebisuさんの席の横に置いてある丸テーブルへ来て、よく話していたな」とS.Tが言いました。治験事業がマイナーな扱いを受けていることに不満があったから、まずはその内容を具体的に聴いてました。本来なら上司の営業部長で常務取締役のO部さんへ云うべきなのですが、好き嫌いのはっきりした奴でしたから、経営管理部長のわたしのところに来ます。わたしのことが気に入っているからではなくて、O部さんに話しても埒が明かなかったからでしょう。Oさんは元は開発部長をしていました。治験事業にはあまり興味がなさげに見えました。会社の人事で希望とは関係なく担当させられたのだと思います。社内では開発部長の方が上ですから。

 あるとき、K.Yが体調が悪いので外回りはきついので八王子ラボの検体保管のハンドリング業務へ異動させてほしいと希望を言ってきました。O部さんと話して認めました。やらなければならない仕事があったので、彼に任せてみようと思ったからです。治験の検体は臨床治験が終わっても何年も保管しなければなりません。何かあった場合はその患者の当該検体を出庫して、検査をしなければならないからです。これは在庫管理なので、コンピュータシステムで在庫管理をしたことのない人にはハードルの高い開発でした。それまでは、どの冷凍庫のどの棚へ保管してあるか、担当者の記憶でやってました。じつに手間がかかり危うい。はやくそのような状態を脱したかったので、K.Yさんの異動希望はわたしにとっては渡りに舟でした。生真面目さと頑固さは何度も何度も話し合ってよくわかっていました。人が成長するには具体的な課題や仕事が必要です。
 要点は、マイナス80度の保管なので、超低温で長期保管に耐える材質の検体保管容器を選ぶこと。バーコード管理を導入するので、その検体保管容器の霜をこそげ落としてもバーコードリーダで読めること。冷凍庫番号、保管棚番号、保管ラック番号、検体のバーコード、製薬メーカーコード、治験管理番号で管理するような「検体保管管理システム」開発をK.Yに任せました。これが開発導入できたら、差別化と検体検索の精度と生産性向上、一石三鳥になります。実際の容器でのテストがたいへんそうな課題でした。
 K.Yは会社の現状に不満のある人でしたが、それは見返してやりたい、治験事業をSRLの根幹事業である特殊検査と同等のものと認めさせたいという心から出た不満でした。難易度が高くて、責任ある仕事を担わせたらどんなふうに化けるのか見てみたいと期待しました。
 一昨日の飲み会のときに「検体保管システムはその後うまくいったか?」と訊いたら、2000万円以下で完成したと聞いて、うれしかった。成長してました。部長になったそうです。テストはたいへんだったと言ってましたね。
 k.Yはまじめで几帳面なので、ストレスをため込んでしまうことがあります。当時から心房細動症状があり、2度カテーテル・アブレーション手術をしたとのこと。あるとき異動してきた上司とウマが合わずストレスが大きくなって退職したそうです。いまは別の仕事をしています。身体に気を付けて仕事をしてほしいと願っています。

 帝人の臨床検査子会社からの出向者で優秀な営業課長がいました。仮にAさんとしておきます。仕事はよくできました。臨床検査技師の学校を卒業してSRLに応募したけど落とされたと、恨みを持っていました。自分の学力や仕事の能力に自負があったからです。実家がなにか事業をしているのでいざとなれば戻れるとも言ってました。合弁会社の中でSRL出身者と帝人ラボの出身者はそれぞれ出向ですから、それぞれの会社の給与体系で人件費の返戻をしてました。課長で1:2の年収の開きがありました。同じ合弁会社で仕事しているのに年収がそんなに違うのでは面白くないのは当然です。だから、そのあたりのことを自由にやりたくてSRLの100%子会社化を急ぎました。

 子会社化して、SRL以上の年収を保障してやりたくて、赤字を黒字に、さらに社員の平均給与を700万円以上にするつもりで経営戦略を策定し、着実に実行に移していました。しかし、合弁契約を解消してSRLの100%子会社にすることはSRL近藤社長とわたしの約束事項でマル秘でしたから、伝えることはできません。データ管理事業へのシフトで黒字化が可能になったので、帝人本社との交渉は順調に進めていました。
 合弁解消後数年でSRLの年収は越えられます。心の持ちようが変わってくれたらいいな、恨みの心が雲散霧消したらいいな、そう願っていました。けれどもそれは本人の心の中の問題です。結局、やめてしまったそうです。家業を継いで立派にやっているのでしょう。SRLの100%子会社になったことで、給料が上がっても、業績が悪くてが吸収合併された側の企業の出身者だから、実力を評価してもらえない不安は消えなかったのかもしれませんね。出身母体で評価に差をつけるなんてことはわたしはしませんが、誰が上司となってSRLから来るのかは誰にもわかりません。疑心暗鬼になったのでしょう。
 恨みの心や疑心暗鬼をいつまでも引きずっていたら、仕事や人間関係がうまくいかなくなります。胸襟を開き懐に飛び込むしかありません。心の持ちようは実に大きい。Aさんの顛末を聞いて、やはりどうしようもなかったのかと、残念な気がしました。
 帝人臨床検査子会社からもう一人の営業課長Bさんは、わたしが辞めてまもなく帝人の金融子会社へ転職しました。穏やかで人望もあり使いやすい人でしたから期待していました。彼も給与合弁会社には好い印象がありませんでした。当初からSRL主導で経営が動いていたことと、給与格差が大きなストレスになっていました。本音を聞きたくて何度か話していましたから、心の奥に反発心のあることは承知していました。仕事と好き嫌いは別です、反発心があってもSRL100%子会社にした後はメインプレーヤーでやれると期待していた課長でした。わたしは営業部門を彼に任せるつもりでいました。人柄、仕事の能力を2年間も観察していれば、だれに責任の重い仕事を担わせたらいいのかはたいがいわかります。Bさんはそれほど期待が大きかったのです。新任の社長を見て希望を失ったと思います。責任の半分はわたしにありました。もう3か月早く学術開発本部長だったI神さんへ話を持って行っていたら、彼は社長を引き受けてくれたはずです。そうしたら、わたしも転職はしませんでした。I神さんへの責任がありますから、引き続き経営管理担当取締役としてマネジメントを担ったでしょう。先にSRL近藤社長の了解をもらって、IついでI神さんへ話を持って行こうとしたときに、彼が辞職してしまったのです。他には治験会社の社長にふさわしい人材がいませんでした。SRLにいた16年間で、5部署と関係会社3社を渡り歩いてましたからSRL社内の主だった人材の能力を知悉していました。
 1999年のことでしたから、同じレベルの給料なら同業種でも異業種でも転職可能でした。思う存分にやれないなら、いる理由がなくなりました。四課題が3年で全部片付いてきりが好かったので、進路を変えました。300ベッドの老人病院を核に、老健施設や介護センター、グループホームなどを配置し、シームレスな老人医療と介護事業のプロトタイプを首都圏で作って、うまくいったら全国展開するつもりでした。
 元々、50歳前後で儲け仕事からは手を洗って、社会貢献を考えていたので、後数年間だけでしたから最後のチャンス、迷いはありませんでした。

 臨床治験の合弁会社の経営を任されて、経営改革して年収が2倍以上になったときの吸収合併された側の社員の笑顔が見たかっただけ。その時を夢見てワクワクしながら仕事してました。それはそれで楽しかったのです。
 治験検査事業からデータ管理事業へ、そしてCRO事業へ本格参入して、給料をアップしても利益が出せる企業へと成長したと聞いて、胸をなでおろしました。しっかり人が育っていました。


にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0) 

#5228 楽しい飲み会:CROへの事業シフト Mar. 5, 2024 [A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯]

 臨床治験の合弁会社(帝人とSRLの合弁)の立ち上げから3年間一緒に仕事した仲間と、飲み会がありました。
 S.T、K.K、K.Y、Kさんとわたしで5人。某所で午後1時半から飲み始め、気がついたら8時になってお開きです。
 H野さんとN崎さんがすでに故人、一人は病気で、もうひとりも健康がすぐれず悩んでいたので、心が痛い。

 1996年11月に突然、親会社SRL近藤社長から、暗礁に乗り上げた合弁会社立ち上げプロジェクトを軌道に乗せろと指示アリ。特命案件である四課題(新聞公表通りの日にスタート新会社スタート、赤字事業の黒字化、合弁解消と資本引き取り交渉、帝人臨床検査子会社の吸収合併)を背負ってのスタートでした。自由にやらせてもらわないとクリアできないと判断したので、経営の全権委任を条件に3年間の期限付きで仕事を引き受けたのです。期限の2か月前に課題を全部クリアして、かねてからお誘いのあった企業へ転職してます。帝人本社のI川常務からは、経営のセンスを買われて帝人の臨床検査子会社を合弁会社の子会社にするから、兼務で両方の社長をやってもらいたいと提案がありましたが、親会社SRL社長の近藤さんは人事上の制約でそれは飲めないとの返事でした。
 SRLの完全子会社化して転籍の際には親会社を超えるような年収を保障してやろうとおもって仕事してましたが、後から来た人で思いがけない人がそれを実現してくれたことがわかりました。志を継いでくれる人は予想もしなかったところから現れてくれました。
  合弁会社立ち上げ(1997年1月)当初は臨床治験検査の受託企業でしたが、帝人臨床検査会社とSRLへ外注という形になるので、利幅が薄くて、黒字化ができないということが会社がスタートして2か月目ぐらいに経営分析した結果判明。それで頭を空っぽにして、どうすればいいのか数日考えてました。利幅の大きいデータ管理事業分野の実務内容をベテランのWからヒアリングして、某製薬メーカ向けのデータ管理システムがパッケージをつくる場合のプロトタイプになりうることを確認しました。黒字化するために汎用パッケージシステムを開発して第一段階は製薬メーカーに、第2段階は病院へ販売するすることに経営戦略の柱を決めて、最新のラックマウント・サーバーを購入し、システム担当の若手の技術者K.Kと応用生物統計の専門家のMaとベテランのデータ管理業務管理担当者であるMiへ相談すると、彼らが協同して仕事を担当してくれました。 

 治験の品質管理基準であるGCP基準の大幅変更があり2年目は製薬メーカーの治験がピタッと止まりましたが、数か月のことだと判断してました。会社の中はざわついてましたね、SRL100%子会社化することは話してませんでしたが、いずれ転籍になることは伝えてありましたので、みんな会社の行く末が心配だったのです。心配してもどうにもならぬことは、心配しないで好いのです。ただ目の前の仕事をしっかりやってくれたらいいだけ。経営の舵取りだけはわたしに任せとけ!(笑)
 製薬メーカーは一つの治験に数百億の資金を投下して新薬開発をしなければ、業績が悪化するので、いつまでもとめていられないと判断し、着々と仕事は進めました。1984年2月1日にSRLに転職して2年目、経営情報システム開発が終り予算管理を担当していた時に、検査試薬のコストカットを提唱して、製薬メーカ各社の役員や営業部長クラスとお付き合いがあったし、学術開発本部にいた1年半(1989年から1990年まで)は検査試薬の開発業務を製薬メーカー2社とやっていたので、製薬メーカー側の経営事情はよく知っていました。新基準で様子見して止まっていた治験は予想通り数か月で動き出しました。あのときはほんとうにホッとしました。

 わたしが1999年9月に辞めたあと、SRLからは治験にはまった関係のない人が数年間社長になっています。SRL近藤社長、人選に苦労したんでしょうね。ゴルフの大好きな人でした。元は営業部長で直前は購買部の部長をしていて接待ゴルフ三昧で噂の絶えない人でしたが、やはり同じことをやってしまった。変われないのです。出向していたある部長が定年間近になって「ふざけるな!」と激怒、社長のゴルフ人事の仕方やマネジメントの仕方を批判して退職したそうです。わたしのよく知っているA沼さんでした。直情タイプの人の好い人でした。幸いだったのは住友金属からCROに詳しい人が来たこと。SRL近藤社長の配慮だったのだと思います。SRL人事部にはわたしの知る限り、そういう人事のできる人はいませんでしたね。住金の臨床検査ラボには住金からの出向者で学力レベルの高い人が何人かいたのです。大手六社と臨床病理学会が産学共同プロジェクトで臨床検査項目コード検討会をスタートさせたときに、各社持ち回りで会議をしてますが、その折に名刺交換した住金ラボの次長さんは住友金属からの出向者で、じつに品のよい、頭の切れそうな人でしたので、強く印象に残っています。お公家さんタイプ、SRLには一人もいませんでしたねああいうタイプは、こちらな野武士でしたから。一人だけ一ツ橋大卒で能を趣味にして、人間国宝が居並んだ能楽堂の舞台で主演した人、「てらさん」がいました。日本生命からの出向役員で常務でした。検査試薬の価格交渉のときに、先方は役員が来てましたから、平社員のわたしだけではあまりにも失礼、釣り合わせるために、ご一緒していただきました。もちろん、「てらさん」にはご挨拶をしてもらうだけ、実際の交渉はわたしがしてます。能の呼吸で挨拶されてましたのが、印象に残っています。終了した後で「あれでよかったか?」、「いい呼吸でした」と褒めました、貫禄があって本当によかったのです。とってもユニークな人でした。相当お金持ちそして古い家柄ののお坊ちゃまだったと思います。トータル16億円を目標にした検査試薬のコストカットプロジェクトでした。3回やりました。初回は経理部予算管理の責任者として、2回目と3回目は購買課検査機器担当者なのですが、そもそもこのプロジェクトはわたしの発案だったので、それぞれメーカーごとに資料を積み上げて、個別にディスカウントの目標を決めて、購買課長と試薬担当者数名に割り振っていました。購買課長はさぞやりにくかったでしょう。毎週、新宿本社へ用事をつくって、あるクラブ通い、ツケは製薬メーカー持ち、その内に購買課内のある人が創業社長の藤田さんへ告発のお手紙を出して発覚しました。わたしはその時は学術開発本部へ異動して仕事してました。わたしも内部告発者ではないかと疑われましたので、「そういう事実は知ってはいましたが、わたしではありませんよ、その文書にわたしのサインがないでしょ?」、上司のI神学術開発本部担当取締役に文書のコピーを見せられましたから、そう告げました。彼に直接スカウトされたあとで、「仕事上のトラブルがあって、購買課長からスポイルされていた」ことは話してありましたので、「ひょっとして」そう思ったのでしょうね。「ebisuとは話をするな」なんて業務命令をやってました。男子社員は「すまない、課長にそういわれているんで...」、女子の古い社員は怒ってました。10年死んでいるつもりでした。検査機器の共同開発や機器購入が仕事だったので、そちらは何の支障もありません。購買管理スステムのメンテナンスや新機能追加も一人でやってますので、仕事に支障はないのです。課長は検査機器のことはほとんど知らないので業務指示も当初からありませんでしたから。前担当者の1.5倍くらいの仕事をしていても5時間ぐらいで終わりますから、暇を持て余して図書室でSCIENCEやNATUREそして20誌ほど定期購読していた英文の医学専門雑を読み放題でした。自席でチョムスキーの"Knowledge of languag"を読んでいたら、学術開発本部長が横を通りかかって、「何読んでいるんだ、ちょっと見せろ」と本を採り上げて確認し、すぐに社内電話がありました。「俺のところで仕事しないか?」と。二つ返事でOKすると、三日としないうちに異動辞令が出たのです。後任も決まっていないうちに異動しました。といってもすぐ近くの階段を上がれば学術開発本部です。通りに面していて眺めはよかった。購買課長が新宿のクラブで製薬メーカーのツケで毎週酒を飲んでいると内部告発があったときにI神さんはわたしの性格がまだわかっていませんでした。そんな小さなことでは動かないのです。内部告発者が誰かはすぐに見当がつきましたが誰にも言いません。ワープロの印字でしたから、すぐにだれがやったのかわかりました。1989年当時はワープロを使っているのは珍しい事でした。もちろん私は自分のものをもって高速タッチタイピングで仕事してました。あの当時はタッチタイピングができるだけで、新入社員に褒められましたね。
 あまりにひどいので見かねた末の善意の「内部告発者」であり「犯人」ではないのですから、犯人捜しはしないが好い。告発された彼は業界2位のBML社へ転職しました。給料は3割くらいは減ったでしょうね。SRLはダントツ業界ナンバーワンの給料の会社でしたから。通勤は遠くとても不便でした。いつ何があるかわからぬものです。好い加減なところでやめておけばよかったのに...。告発した人もしばらくして退社してます。嫌気がさしたのだと思います。絵を描くのが好きな人でした。日本人のメンタルかな、そのまま仕事してていいのに。購買課は年間100億円前後のものを買いますから、よほど自分を律することができる人でないと、数年癒着が始まります。だからどんなに長くても5年以上は担当させてはいけません。
 ある時ラボで違法な処理をしていたことがありました。内容は書けません。事実を知っている現場の担当者が創業社長の藤田光一郎さん宛に実名で内部告発、告発と同時に退職しています。藤田光一郎さん、その時に危機感を感じてラボに社長室を設置、毎週金曜日はラボで仕事してました。私の席の背中の壁が社長室のパーティションでした。そのときに担当部長のK地さんを呼びつけて大きな声で叱りました。演技でした。大きな声は一度だけ、それっきり一度も聞いたことがありません。穏やかで謙虚な人でした。毎週、開発部メンバーと本部長とわたしの7人だったかな1、5分ほどミーティングしてました。1989年12月から90年4月までの頃の話です。


 話が何度も脱線していますが、そういうわけで、住金からCRO業務に関心の強い人が異動してきて、当初の事業戦略や構想を受け継いでくれたようで、話を聴いていてありがたかった。必要な人材は不要な人材と抱き合わせで回ってくるものです。数年じっと待たなければいけないこともあるんです。
 SRLは基本は職能等級で人事をやっていました。社員のそれぞれがどんな実績を上げいるのかには関心があまりないのです。わからないといった方がいい。それまでの経験や必要なスキルの有無とはまったく関係なしに人事をやることが多かったのです。とくに営業系は戦略構想のできない役員や仕事のできない部長職がごろごろしていました。関係会社管理部が社内公募でスタートしたときに、SRLグループ企業の経営分析と他の臨床検査会社の経営分析と買収交渉を担当してました。営業本部に関係会社管理部があったので、1年間営業本部内の人材をじっくり観察できたのです。転職当初経理部の同僚社員が営業から出金伝票が回ってくると、「●●総業、〇〇興業などの領収証はトルコです」なんて怒っていました。女好きな営業部長、ゴルフ好きな営業部長、お酒の好きな人はお酒と、それぞれ自分の趣味に合わせて接待していました。経理部長は富士銀行からの転籍でしたから、何も言えません。だから、上場準備にかこつけて経理規定を整備して、それを盾にしてその手の交際費を禁止してしまいました。1985年ころです。それからはずいぶんよくなりました。しかしその時代に営業をやって実績を上げて営業部長になった人たちはかなり危うい。中身のない役員ほど威張ります。3人いた営業系役員は次々に入れ替わっていきました。役員が大きな仕事を任されて失敗したら、再任しなけりゃいいのですから、簡単です。営業に限らず、あとがないから、保守的になって何もしないのが多かった。営業戦略なんて頭の片隅にもありません。そんな話を営業の役員や部長クラスから一度も聞いたことがありませんでした。いまはさすがに違うでしょう。しかし、業界2位だったBMLに売上で負けています。SRLの6割ぐらいしかありませんでした。営業戦略の違いが出たと判断してよいでしょう。大型自動化ラボを1986年ごろに計画し、一般検査から特殊検査市場にターゲットを定めて、コツコツラボの品質レベルをアップしてきました。SRLは一般検査市場へ拡大すべきでしたが、一般検査を担当する子会社は八王子ラボで仕事していた人たちが出向してやるから、「重厚長大」で生産性がとても低かったのです。千葉ラボが唯一2倍の生産性を誇っていました(1992年に新システム稼働)が、それを数年後にSRL東京ラボに吸収合併してしまいました。SRL東京ラボの社長のM輪さんが千葉ラボ(社名はSMS)の社長を兼務していたからです。あれはもったいないことをしました。あのシステムを他の一般検査子会社へコピーするだけでよかった。低コストラボを武器にBMLの首都圏のユーザーの半分くらいはゲット出来ました。そういう経営戦略がまったく描けないのがSR営業部門の弱点でした。もちろん、現場で一緒に汗をかいたことのない、頭でっかちの総合企画室(後に社長室)のメンバーも一緒でした。ラボでどんなレベルの仕事がなされているのかも知らないのですから。具体的な経営戦略が描けるはずもありませんし、営業戦略がないことにすら気がつきませんでした。総合企画室担当役員の仕事のレベルが低すぎました。そして長かった。

 CRO事業に本格参入しても、住友金属出身者はSRLとのパイプ役にはならない、そういうところがメディサーチ(100%子会社化してからの会社名)で仕事していた彼等にはもどかしかったようです。その役割はわたしが担っていましたから。さまざまな部門を渡り歩いたので、八王子ラボと本社と営業部門と学術開発本部と子会社の東京ラボM輪社長、九州の子会社JML社長のK藤さん、そしてSRL近藤社長、副社長のY口さんに太いパイプがありました。仕事してたら自然にそれぞれの部門のトップクラスのスキルを持つ人たちとも良好な人間関係ができあがります。
(SRLは1990年代に住友金属の臨床検査子会社を買収していますので、その流れで住友金属出身者が少数います。わたしの上司だった学術開発部門担当役員のI神さんは、住金の臨床検査子会社のラボ所長だった人です。住金の臨床検査子会社がSRLに買収される数年前に見切りをつけてSRLへ転職した方。青山学院大学で有機化学を教えていたことのある人でした。この人を合弁解消後の社長にしたかった。適任でしたが、話をしに行く1週間前にお辞めになった。近藤社長へは根回しして了解もらってました。メディサーチの常務だったOさんががっかりしてました。治験の会社の社長にはできたら博士の学位を持っている人が望ましいのです。製薬メーカーは学位を持っている人が多いのです。わたしは経済学修士ですから分野違いです。(笑))

 K.Kはシステム部門の副本部長なって、仕事を思いっきりやれたようでした。
 K.Yは課題だった検体保管・管理システムをつくってくれました。マイナス80度での保管ですから、十数台ある冷凍庫の何段目の棚のどのラックに保管されているかがわからなければ、必要な検体を必要なときにスムースに取り出せません。必要な検体を取り出すときに、ラックや専用スピッツのバーコードが読めるかどうかが大きな課題でした。霜がついているのですが霜をとるのに温度を上げるわけにはいかないのです。こそげ落とせば、印刷してあるバーコードが読めなくな可能性があったので、印刷のインクと耐寒性と摩擦によるカスレの確認テストが必要でした。ちゃんとやってくれていました。いい仕事をしてくれました。心のつかえがとれました。K.Yは後に部長になって仕事の責任が重くなりました。そこへ相性の悪い上司がSRLから赴任してきて、ストレスで辞職してます。会社を辞めて派遣社員の仕事をしてから、仕事で習い覚えたデータベースソフトACCESSが使えるので、正社員にしてもらえたそうです。何が役に立つのかわかりません。まじめに仕事して、しっかりスキルを磨いた人はなんとかなります。好い顔していました。
 頼りになる仕事仲間に囲まれていたことを再認識して、幸せな気分です。 

 やめたあと、彼ら/彼女たちのことが気にはなっていました。その後の消息が分かってホッとしたのが八分、やはりそうなったかというのが二分でした。だから悲しいことも聞きました。よいことばかりではありません。

 四人ともいい仕事してくれました。いろいろあって3人は別の会社へ移って働き、その内の一人は独立起業して少し暇を持て余している様子。「ebisuさんいてくれたら俺たち会社辞めていないよな」と二人が顔を見合わせて笑ってました。申し訳なかった。でも、わたしは3年以上同じ部署にいたことがないのです。大きな問題が持ち上がるとが「ご指名」がかかります。学術開発本部にいたときも、I神本部長は平で異動したのにすぐに課長への昇格申請してくれて開発課長よりも上の扱い、次長待遇してくれました。開発課長のF波さん、人の好い人でした。
 学術開発本部へ異動したころに購買在庫管理システムと原価計算システムの更新時期が来ていたので、Y副社長がわたしを経理部へ戻すようにI神さんへ要求、しかしI神さんは突っぱねました。そういうところは辣腕で肝の据わった人でした。学術開発本部で開発部と学術情報部両方の部門のマネジメントができる人材は当時はわたししかいなかったからです。海外製薬メーカーからのラボ見学が時々あるので、対応できる人がいませんでした。沖縄米軍から出生前診断検査導入要望や慶応大学産婦人科医から出生前診断検査MoM値の日本人基準値をつくる産学共同研究も、プロジェクトマネジャーを担えるのはわたししかいなかったのです。
 望購買課でラボの検査機器の購入や共同開発の担当を2年半してましたが、前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で欧米50社の先端理化学機器の勉強を6年間したからです。毎月のように世界最先端の企業が開発した新商品の説明会が開催されていました。理系の営業マンと技術部門の社員への説明ですが、全部出席して聴いてました。月に一度東北大学助教授が計測器の測定原理の勉強会の講師として来ていたので、それも欠かさず聴いてました。だから「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、自然に理化学機器のさまざまな情報を吸収してました。説明に来るのは大抵は開発担当エンジニアでしたから、英語で説明してくれるからとてもいい勉強会でしたね。ディテクターとコンピュータ処理部とインターフェイスに分けられます。ディテクトする周波数や前処理が異なるだけで、三つの部分の構成は一緒です。臨床検査機器は機械の制御とインターフェイスがとっても遅れていました。片方向のインターフェイスしかなかった。マイクロ波計測器では双方向のインターフェイス、GPIBが標準装備されていたので、ひどく遅れて見えました。機器の購入担当をやっていたので、ラボの全部署に出入りして、スキルの高い検査技師のみなさんや業者のエンジニアのみなさんと個人的なパイプがたくさんできてしまいました。新商品開発でいいアイデアがあれば、関連する機器の購入のための予算措置も請け合えました。数千万円なら予算外でも処理できました。検査試薬のコストカット交渉を製薬メーカーと3年やって、50億円ほど利益を出してますから、副社長と経理担当役員のI本さんは何でも大目に見てくれるのです。購買課へ行く前は全社予算の管理責任者だったからです。わたしが認めた案件は、検査管理部も経理担当役員もフリーパスです。彼等にはラボの仕事も検査機器についても知識はほとんどゼロでしたので、わたしはラボと本社の橋渡し役が期待されていたのです。ラボへ異動した当初は「本社の人間はラボのことをわかっていない」とよく聞きました。わたしは本社管理部門のど真ん中からラボへ異動してましたがその私に云うんです。特殊検査課のY課長が「本社から生意気な奴が来たと思っていた、ごめんなさいね、わたしより一つ歳上だったのね」と数か月後にごめんなさいしてました。(笑) その後はいいお友達でした。ラボ勤務の後は関係会社管理部で、子会社と関係会社の経営分析、依頼のあった他の臨床検査会社の経営分析と経営再建のサポート、買収交渉などを担当し1年半後に資本提携した東北のCC社に経営企画室長で役員出向してます。創業社長の藤田さんの特命案件でしたが、3年の約束のはずが、14か月目に経営改善案とまとめて出向会社の社長の了解をもらい、藤田さんに報告に行くと、中止の指示がありました。15か月で本社へ戻されました。黒字化案があまりにもドラステックで、SRL子会社の中でナンバーワンになる損益シミュレーションが報告書に添付してありました。都合が悪かったのです。ご褒美のつもりだったのか、それともSRL本社で溜まっている案件を片付けてもらいたかったのか、経理部管理会計課長のほかに兼務として社長室と購買部が辞令に書かれていました。3部署兼務なんて異常でした。購買部の仕事はシステムの更新でした。一週間で外部設計をして資料は担当者に渡しました。汎用大型機をやめてクライアントサーバーシステムにしてます。機器とシステム開発でせいぜい4000万円と見積もっていましたが、今回確認したら、1億円以上支払ったようです。経営情報系のシステムがわからないものが担当すると、すぐに開発費用は3倍になってしまいます。これはがっかりのひとつでした。システム部には経営情報系システムのエキスパートは一人も育っていませんでした。業務に関するさまざまな専門知識実務経験が必要な分野なのです。83~86年にかけて作った財務会計及び支払いシステム、固定資産および投資管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システム、販売会計システム開発は外部のベンダーであるNCDさんが担当してくれてましたので、システム部は基幹業務系だけが守備範囲でした。それも84年当時国内最大級の富士通製の汎用大型機を導入して大トラブル、3か月間ほど手作業となり全社から応援部隊を出して乗り切りました。とても経営情報系統合システム開発ができるようなスキルがなかったのです。子会社の東京ラボには使えなかったDECのミニコン2台がそのまま放置されていました。1台3000万円でした。84年に転職して固定資産を全部チェックしたので知っていました。システム部とは名ばかり、優秀なSEが育っていませんでした。
 わたしが担当したのは、財務会計システムと買掛金支払いシステム、そして固定資産管理及び投資管理システムでした。購買在庫管理システムが動かないと買掛金支払いシステムの本稼働ができないので、購買在庫管理システムの外部設計も半分手伝ってあげてます。データに整合性がとれないと困りますから。開発を初めて8か月で本稼働してます。じつにスムースに。システム間インターフェイスは3日間ほどで仕様書と帳票設計をしてます。原価計算理論や購買業務を知らなければ、インターフェイス仕様書は書けないのですから。他にやれる人がいませんでした。

 合弁解消して社名変更したメディサーチに役員のまま残っていても、問題が持ち上がって別の仕事を担当することになったでしょう。そういう会社でしたから、彼等と一緒には仕事を続けられないと思ってました。どの部門でも部長職や役員がやれ、戦略立案とその実行ができる便利な人材でした。仕事が愉しいだけのアホウだったのですよ。

 K.Kは2008年に退職したと言ってました。他の企業のシステム部門でしばらく働き、兼業で不動産投資事業を起業、いまは2年前からそちら一本でやっている様子。
 まだ、あの会社で仕事している経営情報系システム屋のKさん、そのまま無事定年を迎えてほしいと願っています。

 ところで、心房細動の仲間が増えました。一日身体が揺れるほど細動が起きても死なないそうです。電気ショックで止めたと。アブレーション手術を2回やったつわものです。尿管結石の仲間もいました。腎臓に問題を抱えているそうです。胆嚢摘出の仲間もいましたが、彼は胃を提出していませんので、午前中調子が悪いなんてことはないそうです。そりゃそうだ。25年ぶりにあった人が3人、とっても懐かしかった。集まってくれてどうもありがとう。
 彼等は一回り以上若いので、身体に留意してそれぞれの仕事を続けてほしいと思います。

<捕捉:CROとは>

CROは「Contract Research Organization」の略称で、日本語では「開発業務受託機関」と訳される組織です。 医薬品の開発では、安全性や効能を確認する臨床試験の最終段階で人を対象とする治験が行われます。CROの主な業務は治験をサポートすることで、具体的には次のような業務があります。

  • 〇臨床試験の準備
  • 〇治験中のデータ収集
  • 〇治験薬投薬後の経過観察
  • 〇収集したデータの分析
  • 〇厚生労働省への承認申請書類の作成 など

 製薬会社から依頼を受けCROは数多くの業務を代行しますが、CROが担当する業務の範囲は、新薬開発の案件ごとに少しずつ異なります。



にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0) 

#5227 大國魂神社の暗闇祭り May 4, 2024 [88.金刀比羅神社のお祭り]

 東京府中市の大國魂神社のお祭りである「暗闇祭り(武蔵の国の国府祭)」が昨日(5/4)から始まりました、4日間続きます。4日間で延べ80万人の人出があります。
 この神社の御祭神は大国主命です。創建は111年五月五日ですからとても古いのです。東京五社のひとつに数えられています。
 神輿の数は8基、それが神社本殿から甲州街道と府中街道の交差点にある御旅所まで渡御します。
 山車の数は22台、旧町名単位のものがほとんどのようです。昭和40年代に東京は新町名に変えているので、町名から歴史と伝統が失われたところが多いのです。こういうものを変えちゃいけませんね。山車にはそれぞれ笛と太鼓や鐘のお囃子グループが載っています。
 府中市の人口は26.3万人です。
 連日JCOMが生中継しています。

 昭和30年代中頃までは、一斉に明かりが消されると、暗闇の中で気の合った男女が手に手をとって境内の闇の中に消えていきましたとさ。(昭和42年に一回りほど年長の府中出身の人に聞いた「昔はよかった」という話です。年ごとの娘を持つ親は、例大祭の日は夜は外出を許さない、娘は行きたがる、なんて笑い話があったそうです。お祭りの中身が半分くらい変わってしまったのです。その代わりに、SNSでマッチングして年がら年中手に手をとってラブホテルなんて習俗が広まりました。離婚が増えたのは事実です。どっちがいいのかわかりませんね。)
 お祭りやお盆はそういうハレ(非日常)の日。例大祭の内は日常とは(ケ)とは別世界でした。
 盆踊りは既婚者も未婚者も踊りの輪の中に入ってゆき、踊りながら気があったもの同士手に手をとって輪の中から抜けていきます。八尾「おわら「風の盆」も昔はそうだったようです、そういう伝統で数十代にわたって洗練されてきたので、踊り方がとても艶っぽい。

*ハレとケ

5/5 追記
 「一之宮太鼓」という神社本社の大太鼓が実況中継されています。直径2mを超える大きなものです。青森のねぶた祭りの大太鼓と同じくらいの大きさです。ねぶた祭りの太鼓は細長いばちで打ちますが、大國魂神社例大祭の大太鼓は、野球のバットのように太いばちで力いっぱい叩いています。20回も叩いたら息が上がるでしょうね。1.5mくらいの太鼓が何台もその後に続いています。今日は太鼓の競演があるようです。
 今日は旧甲州街道から神社まで、馬が駆ける行事が昨夜(5/4)ありました。府中に東京府中競馬場が設置されたのは、このお祭りの行事と関係があるかもしれませんね。
 

にほんブログ村


nice!(0)  コメント(0) 

#5226 外付けkeyboard :キーのサイズ違いに注意!  May 3, 2024 [C1. ながーくだいじに使う]

 ノートパソコンのキーボード2箇所調子がよくないのでELECOM製の外付けキーボードを買っていま試してます。タッチ感が違うので、慣れるのに数日かかりそうです。タッチタイピングしにくい!
 USB接続の製品です。マウスも有線のものを使っています。無線接続のものを一時使ってみましたが、USB接続の方が電池交換が不要だし接続がしっかりしていて使い勝手が好いのです。


 ノートパソコンの二つある「Ctrl」キーの左サイドのものと「Esc」の調子が悪くなって、何度も叩くようなことが起きてました。右側の「Ctrl」キーを使っていました。このブログへ他のサイトの記事を貼り付ける時には「Ctrl」+「v」キーでないと貼り付けられないのです。片側が生きていればOKですから使い続けてましたが、「Esc」キーは一つしかないのでこのキーに故障が出たら新しい外付けキーボードにすればいいだけです。


 1978年からコンピュータを使い始めて46年経ちますが、国産品のキーボードでこんな故障は初めてでした。日本製品の品質も危うくなってきたのかもしれませんね。組み立ては国内工場でもキーボードは中国で生産したものを組み込んでいたのかもしれません。ところでキーボードで国産品はとっくにないのだそうです。
 御多分に漏れずこのELECOM製のキーボードも中国の工場で生産されたものです。日本メーカーでも中国工場で生産するのが普通になっているのでしょう。

 タッチタイピングしにくいので念のためにA~Lキーの距離を測ったら、ノートの方は15.6㎝、外付けのほうは17.0cmでした。キーの感覚が広いんです。距離を測って買ってくるんだった。(笑)
 そういうわけで新しいキーボードでタッチタイピングの練習を兼ねて記事をアップ。
 箱には「静穏」と書いてあります。スペースキーやエンターキーはとくにタッチ感覚がはっきり違います、いい感触です。全体にやわらかい感じがします。慣れたらいいかも。
…だいぶ慣れてきました。えへへへ。
 ノートパソコンのキーボードよりも感触が素敵です。幸中の幸い、早く外付けキーボードにすりゃよかった。



にほんブログ村



nice!(0)  コメント(0)