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#4682 夢や胸のざわつき Dec. 30, 2021 [A8. つれづれなるままに…]

 昨日、朝方にはっきりした夢を見た。元塾生の女の子が泣いていた。どうした?と訊くと、「ばあちゃんが」と言っていた。気になったので、メッセンジャーで「正月はばあちゃんへ電話して声聞かせてやれ」って言ったら、「11月に亡くなった」と返信。ああ、やっぱりそうだったのかと。
 中高生の夏休み、じいちゃんとおじさんがやっている羅臼のコンブ漁の番屋にばあちゃんの食事作りの手伝いに行っていた。孫と一緒の2週間ほどはばあちゃんにとっては至福のときだっただろう。自慢の孫だったに違いない。90歳を過ぎていたという。天寿だから、めでたいと言っていい。
 わたしもだんだん順番が近づいている。(笑)

 4年前に1か月以上胸がざわついていた。突然、その理由がわかった。若いあいつがまさか、そんなはずは...。
 沖縄米軍の出生前診断検査導入要請や慶応大学産婦人科との出生前診断トリプルマーカ―MoM値の日本人標準値に関するプロジェクトで一緒に仕事した佐藤章夫が亡くなったと、ある朝確信して、ネットで検索したら、7月に亡くなっていた。
 彼は、SRLを休職して米国で栄養医学の学位を取り、栄養医学研究所を設立、独立している。日本の栄養医学の草分けである。相談があったので会社設立に関り、監査役を2年間引き受けた。
 還暦前に病気で逝った、よくなついて弟のような奴だった。9歳下の秀才、そして早すぎた死。
 合掌。

<2歳年下の同僚、加藤の死>
 SRLでやっていた新規分野の健康事業部門で仕事していた加藤幸寛が、会社を辞めて独立した。大手企業相手に健康管理分野のコンサルティングを事業化したのである。1991年頃だから、在宅での企業は珍しかった。
 ときどき電話が来て新宿や銀座のライオンで飲んだ。経営コンサルティング業務が数件舞い込んで、ひとつだけ手伝ってやった。900万円の仕事がはうまくいった。わたしには1週間の仕事だった。取締役就任を頼まれて、SRL人事に打診したらノーの返事。加藤の要請を断り3月に飲んだ後、5月に電話が来て一緒に仕事していた4人に、会社を分割して営業譲渡したという報告だった。なんだか声の調子がヘンだったので、聞いてみたら、微熱が続いているという。「精密検査したほうがいい、万が一癌だったら加藤は若いからいくらもない」、どうしてあんなことを言ったのかわからない。だが、言葉が自然に口を突いて出てしまった。横浜に住んでいたあいつは、素直に横浜済生会病院で診察を受けた。そして8月に葉書をよこした。「余命3か月、本人いたって痛みナシ」。胸部にがんが見つかり、手遅れだった。自宅療養を勧めたら、医師を説得して、横浜済生会病院ではじめての末期癌患者の自宅療養がスタート。東北の会社へ役員出向中だったが、東京へ戻るたびに、横浜の彼のところへ見舞った。3回しか行けなかった。放射線治療で毛糸の帽子をかぶっていた。将棋が好きな奴で強い、所望されて相手をするが、終わるたびにもう一回と言って、なかなか帰れない。1時間もやると疲れて15分ほどベッドで寝てくる。「起きてくるまで帰らないで」、奥さんが戻るまで帰るなというのだ。放射線治療や抗癌剤は体力を根こそぎ奪うことを、わたしはそれから12年後に自分の体で知ることになる。奥さんが仕事から戻って、ようやく挨拶をして帰った。ある朝、もう駄目なようだと自分でいい、済生会病院へ入院、痛み止めにモルヒネを打ってもらい、翌日眠るように逝った。「苦しむ必要はないから、痛みがあるなら、最後はモルヒネを使ってもらえ」と伝えてあった。奥さんが肩を貸してタクシーに乗り病院へ。2歳年下の加藤は43歳だった。ほんとうに早すぎた。
 奥さんは東大理三卒の才女、世界的に有名な某化粧品メイカーの開発部長をしていた。加藤自身は東大安田講堂騒乱のあった年、東大入試が中止になったので、受験できずに仕方なく滑り止めの中央大学法学部へ入学。「経済的に浪人できる余裕がなかった、本来なら俺は東大法学部卒」と、飲んだ時に2度ほど語ったことがあった。よほど悔しかったのだろう。リクルート社の中途斡旋でSRLへわたしよりも2か月ほど早く来ていた。上場準備要員として雇われた最後の2人で、八王子ラボで研修を一緒に受けた。その折に、リクルートのSPIの偏差値がいくつだったとしつこく聞く。しまいに自分のものを見せて、見せたのだから教えろというので、リクルート社の通知書を見せた。かれは69,わたしは少し上だった。それからときどき二人だけでよく飲んだ。後にSRL社長となる近藤さんに創業社長の藤田さんよりも早く眼をつけて、注目していた。「厚生省になかなか大胆な課長補佐がいる、午前中から新聞かぶって寝ている、SRLならebisuさんのようなもの」、わたしは新聞かぶって寝たことはないぞと笑って応じた。その後、創業社長の藤田光一郎さんがリクルートした。あとで近藤さんにそのことを尋ねたことがある、「加藤がそんなことを言っていたけど本当ですか?」、何と答えてくれたか忘れました。確かに型破りでしたね。慶応大学医学部卒の医系技官でした。
 SRL最後の仕事、帝人との治験合弁会社の設立と経営は近藤俊之社長の特命事項だった。愉しかった、近藤さん、使ってくれてありがとう。あ、そうか、2回一緒に仕事していた。東北の臨床検査会社へ15か月間出向してSRL本社へ戻ったときに、ちょうど社長交代があって、ラインの経営管理課長に購買部と社長室が兼務になっていました。なんで、社長室兼務になっていたのか、聞いたこともありませんでした。東北の会社の件で創業社長の藤田さんが社長室兼務させておけと言ったのかどうか、いや藤田さんは言わない人です。たんに人使いの荒い会社だったのかもね。(笑)

 年の暮れ、こもごも思い出すことがある。

<自分事>
 2006年五月の連休に釧路へ行った。車を運転しながら、丘の上に真っ白い建物が見えた。何だろうと目の好い女房に訊いたら、病院建物だという。「入院するならあの病院がいいな」とつぶやいた。入院したことはそれまで一度もない。口から言葉がこぼれ出ただけ。
 6月6日に、食事がまったく喉を通らなくなった、女房に叱られて、消化器内科医の岡田先生の内視鏡検査を受けた。「胃癌だと思うので内視鏡検査をしてもらいたい」と告げての受診。すぐにやってくれた。診ている途中で「アッ」と小さな声がした。出口をふさぐ巨大胃癌がディスプレイに映っていた。冷たいものが広がる感じがしていたのでスキルスがあるはずだと。
 結局、あの白い病院、釧路医師会病院へ6月23日に入院することになった。旭川医大の系列で復員著の富田先生が、岡田先生の先輩だった。執刀外科医も旭川医大の後藤幹弘先生。皆さんにお世話になりました、お陰でいま生きてます。まさか、「入院するならあの白い建物の病院がいい」といったのが一月後に現実になるとは、わたしも夢にも思っていませんでした。


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