SSブログ

#4258 国際的に見た日本の上場企業の役員のレベル(1) May 29, 2020 [2. マネジメント]

 ルノー、日産、三菱自動車の提携見直し案がルノー会長ジャン・ドミニク・セナール会長から出された。3社とも赤字転落、青息吐息である。共通プラットホームを拡大してコスト削減と同時に製品の信頼性をアップしようというわけだが、開発するリーダー企業とフォロワー企業に分野ごとに分けた。日産社長からも三菱社長からも具体的な提案はなかった。テレビ会議で決まったわけだが、三人のトップの経営の力量の差は一目瞭然である。日産も三菱もトップは経営を立て直せるような人材ではない。

 日本企業の経営者は低学力ばかりという論説が昨日アップされている。
*https://www.msn.com/ja-jp/news/money/日本企業の経営者が低学歴ばかりになってしまった根本的理由/ar-BB14GJ2l?ocid=spartandhp
-----------------------------------------
簡単に言えば、新しい変化に対応するには高学歴の頭脳が必要ということだ。たしかに日本の大手企業の役員や経営者は大卒どまりの人材が多く、大学院の修士号や博士号を持つ人は少ない。世界の経済人とは大きく違う点だ。
ちなみにグローバル企業と言われる日産自動車には外国人の役員も相当数いる。しかし、役員の経歴を見ると、日本人は社長以下、大卒どまりが圧倒的に多い。それに比べて外国人役員は大学院卒が目立つ。技術系だけではなく、文系でも心理学修士や会計学修士、特に多いのはMBA(経営学修士)ホルダーだ。

-----------------------------------------

 セナール会長は1976年にHEC経営大学院を卒業、経営学修士である。HEC経営大学院はフランスのトップの大学であるグランゼコールの中でもトップに位置する世界のCEO輩出ランキングではハーバード大、スタンフォード大に続いて第三位である。グランゼコールに合格すると国家公務員として給料がでる。だから、アルバイトはする必要がなく学生は勉強に専念できる。だから、日本の大卒とは学力がまるで違う
  比較のために並べてみると、日産自動車の内田誠CEOは同志社大学神学部卒業、三菱自動車の益子修三会長は早稲田大学政経学部卒業。大学卒業時点で会社経営に直結する学問の素養はない。
 ハーバードやスタンフォードやHEC経営大学院のようなトップレベルのビジネススクール出身者のグローバル企業の社長たちと日本の上場企業の経営者たちは対等に話ができるだろうか?

 日本企業の役員に大学院卒は珍しい。日産も三菱自動車も同じだろう。勉強のピークは18歳まで、その後シビア―な勉学はしていない者がほとんどで専門領域と言えるものがない。会社が経営の危機にあってもそれを打開する具体的な経営目標やそれを達成する経営戦略が描けず右往左往する。日産と三菱自動車のトップの発言を読んだが、組織を調整維持するだけの能力しかない、セナールが具体的な経営戦略を語ったのとは対照的で、その発言はまるで無能に聞こえた。

 日本にも大学院卒はたくさんいる、しかし、その卒業生たちと企業経営は結びつかない。理系出身者は数が多いがマネジメントできる人材が稀である。コミュニケーション・スキルや、マネジメント・スキルが概して低いい傾向がある。いや、文系だって似たようなものかもしれぬ。本をたくさん読んで語彙が豊かでなければ、理系・文系問わずコミュニケーションスキルが発達しないのはあたりまえか。受験勉強ばかりで、部活や生徒会活動などでリーダとして実績を積み重ねた者は社会人となってからも仕事でリーダシップを発揮する機会に恵まれてしまう。大学院卒は圧倒的に理系が多い、文系の大学院卒は理系に比べたら1/20以下だろう。ほとんどのケースが大学に残るしか就職がないし、残れる枠はさらに数分の一と極端に少ない。文系大学院卒を積極的に採用する上場企業はあまりない。文系大学院での研究経験が企業では役に立たないケースが多いからだ。
 企業運営と関係がある原価計算学はいまだに、コンピュータシステムに専門知識のない学者たちが学会を作って運営している。上場企業で原価計算システムのない会社は一社もないが、大学で原価計算を研究している学者にはコンピュータシステムの専門知識がない。大学で教えていることは実務とかけ離れており役に立たないケースが多いのだ。番場嘉一郎、岡本清と歴代の原価計算トップ研究者は一橋大学出身者で、学会事務局も1990年ころは一ツ橋大学内にあった。会計学者も同じだ。原価計算や会計学はシステムとは切り離せないが、この領域の学者はほとんどいないから、せっかく米国で専門書が出版されても翻訳できる専門家がいないので原書で読まざるをえない。会計学や原価計算学は文系科目だが、コンピュータ・システムは理解科目、高校から路線を分けてしまっている、現実の企業会計や企業原価計算はコンピュータ・システムなのに、それを教えられる学者がいないし、日本の教育制度ではこうした境界領域の専門家が育たない。米国の公認会計士は理系出身者が多いと聞いている。まことにめずらしいことにトーマツ監査法人のSRL担当責任者の公認会計士は京都大学の理系出身者だった。実務は実務、大学は大学、まったく別のことをやっているのが日本、クロスオーバーできる人材がいない。
 このあたりが米国と事情がまるで違う大統領が交代すれば、それまで大統領を支えていたスタッフたちは野に下り、大学や企業へ転職するさまざまな分野の高度な学力を有した専門家たちが大統領を支えている新大統領は企業や大学から自分の好みに合うスタッフを大勢引き連れてホワイトハウスに乗り込む。大統領が交代するたびに、政界と大学の間で大量の人事交流がなされる。
 日本では大学院での研究が企業で仕事するときにほとんど役に立たないという特殊な事情がある。研究内容が現実離れしてレベルが低い。そして古典文学や日本経済史などの専門家が民間企業でその能力を生かして働ける仕事はほとんどない、出版関係だけだろう。本が売れないから優秀な出版人が育たなくなってきている。岩波書店の出す本すら、チェックがいい加減になっている。出版社側の人間が、引用された文献を調べてチェックするという作業すらできない状態になっているのだ。
 まれに、優秀な大学院卒がいたとしても、それを使う課長職や部長職や役員はみな大卒である。使えないのである。

 ある上場企業の創業社長Kさんは臨床検査専門学校卒だった。どういうわけか役員に大卒が一人もいなかった。その創業社長は専門学校時代に同じアパートの向かいの部屋に住んでいた。1970年ころ専門学校を卒業するときに「これからは専門学校卒ではダメだから、大学進学する」と言っていた。彼のところには専門学校の仲間がよく集まっていたから人望はあった。彼は東京理科大の夜間へ進学して中途退学している。数年して起業して会社を急激に大きくして会社を店頭市場に公開した。名前が同じであることに気がついたときにその会社の役員の経歴を見たら、高校時代の仲間や専門学校の友人たちばかりで、大卒が一人もいない、歪な役員構成だったのでちょっとびっくりした。もちろん経営スタイルにも色濃く影響してしまった。大学進学できなかったことがトラウマになったのだろうか。専門学校卒のかれは大卒の人材を会社幹部に雇わなかったようだ。もし彼が有能な大卒や大学院卒を使っていたら、業界2位のBMLは3位だったかもしれない。1991年ころに資本提携して出向した会社の社長と同期、同じ県の出身者でよく知っていたから、社長のT橋さんから「俺とは同郷だからよく知っている、Kに会いに行くか?」と誘われたことがある、そのときは時期ではないと思った、だれもKさんとわたしが学生時代に同じアパートに住んでいて旧知の仲とは知らないから、会うとSRL側に余計な憶測が飛ぶ、立場上会えない事情があった。それでK君が専門学校を卒業してから一度も会っていない。

 同じことは根室市役所にも言えそうだ。釧路市役所部長職はほとんどが大卒だが、根室市役所に大卒は少ない。北大卒は一人だけと聞いた。大卒だから学力が高いとは言えないケースもあるが、市役所で大卒が根室市役所ほど少ないところはとっても珍しい部類だろう。2割いるだろうか。高卒や専門学校卒の部長職や課長職が大卒の部下を使えるならいいが、大卒比率があまり上昇しないところを見ると使えないのだろう。それは根室市役所全体の戦力ダウンとなっている。根室支庁で大卒だったのは道庁職員から市長となった横田さんや藤原さんだけだろう。二人とも北大卒。釧路の教育を考える会の会長である角田さんも北大卒で、市役所経済部長職の後で釧路市教育長職を2期務めている。こういう人材がいるから、釧路の教育改革が進められる。釧路市役所の次長や部長職は大卒がほとんどだ。高学力は全体の戦力をアップするために必要なのである。問題山積みなのに崩せる人がいないというのが日本企業や官公庁に共通の悩み。

 ここからは個人的な経験に基づいた意見を書く。
 大学院を卒業して、1978年9月に産業用エレクトロニクスの輸入専門商社関商事(後にセキテクノトロンと社名変更)へ中途入社した。新聞広告を見て2社に応募書類を送った。社長面接を終わり、ファッションブランド森英恵の会社から採用通知が来たので、エレクトロニクスの会社へ断りに行ったら、「いまいるから関周社長にあって行け」と総務経理担当役員のN村さん、会って話をして、翻意してその会社に入社することに決めた。給料の多寡の問題ではなかった、コンピュータ組み込みの世界最先端の計測器類がゴロゴロしているところを見てしまったからだ。こどもがおもちゃを見つけたようなもの。いじってみた方のである。
 関さんは慶応大学大学院卒、経済史の専門家だったと思う。わたしの専門領域は理論経済学だが、マルクス経済学、会社の経営とは何の関係もない。高校は商業科、大学は商学部会計学科で経理関係業務のエキスパート、そういう異色なところが買われたようだった。最初の週に予算編成と予算管理、そして資金繰りを任された。その翌週には、6つのプロジェクトが社内に公示された。そのうちの5つにわたしの名前が載っていた。5つとも実質わたし一人でやることになっていた。プロジェクト・リーダは財務委員会と長期経営計画委員会が関社長、収益見通し分析委員会が一番若手のM本取締役、電算化推進委員会が早稲田理工科出身の営業担当常務、為替対策委員会が上司のN村さんで総務・経理担当取締役だった。役員は全員大卒だった。扱っている製品が軍事製品や欧米50社の世界最先端の産業用エレクトロニクス製品だったから、営業マンは9割が理系の大学出身者。利益重点営業委員会は担当ではなかったが、具体案の作成と実行実務を任されていたE藤東京営業所長がシステム化案件なので手伝ってほしいと申し入れがあり、結局手伝うことになり、入社して1か月後には6つのプロジェクトを背負って走り出した。それまで社内ではだれもチャレンジしたことのない課題を6つのプロジェクトに分けて、中途入社早々のわたしに預けたのだから、関さんも冒険だっただろう。まさか2年で全部やり遂げるとは考えていなかったと思う。為替変動で黒字と赤字を繰り返していた会社が安定して高収益をあげられる会社になった。院卒の社長のもとで仕事したのはこの会社が初めてだった。東大卒の3代目社長が会社を潰した。業績が悪化して2010年ころに他社に吸収合併されて上場廃止したのを知ったときには愕然とした、40代50代で路頭に迷った社員たちが気の毒。
(先代の社長が創業者で、三井合同(財閥持ち株会社)の幹部だった。戦後の財閥解体で社員の首を切り、その後で辞職している。そういう覚悟がなければ社員を切ってはいけないのである。そのごヒューレット・パッカード社の日本総代理店を始めた。彼ら二人と先代社長はスタンフォード大で同期だった。)


 次回は具体例をあげて学卒では手に余るレベルの仕事について論じてみたい。


にほんブログ村



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。