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#3216 諸悪莫作(しょあくまくさ)  Jan. 3, 2016 [資本論と21世紀の経済学(2版)]

<更新情報>
1/4 朝10時半 用語解説を追記
1/5 零時50分 自我と真我について追記
    朝8:50 鳥彙道林和尚と法句経について追記
1/6 朝8時40分 天台天台
智顗
「五時教判」を追記

 正月も3が日が暮れようとしています。いくぶん日が長くなり、日没が4時ころになりました。季節は休むことなくめぐっています。

 前回の弊ブログで耳慣れない「諸悪莫作」という言葉を使いました。数学者の岡潔先生が著作のどこかで使っていた仏教用語です。「衆善奉行」と一緒に解説されていました。『春宵十話』だったかもしれません。
 探してみましたが該当の箇所が見つかりません。『日本のこころ』に諸悪莫作の方だけでています。
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 竜の口(たつのくち)に元の使者を斬ったとき胸の行為も私はやはり大好きである。これについては、人は剛毅果断というであろうが、彼自身にいわせると、すべきことをやってのけたまでだというであろう。理法界の格調の善行というべきであろう。私はまた、篠つく雨を衝いて三千騎、桶狭間を急襲したときに織田信長も大好きならば、単騎敵陣に乗り込んで、竪子(じゅし)ここにあるか、と敵の主将に斬りつけた時の上杉謙信も大好きである。夕立にあった時のように清々しい。これらは事法界の格調の善行というべきであろう。
 子供と無心に遊んだ良寛の生き方も、生涯旅に生き旅を住家とした芭蕉の生き方も私は大好きである。これも無心という気がする。芥川は「芭蕉は糞自棄路を歩いた大山師である」と評している。しかし無心といえば理事無礙の格調であると思う。芥川にはそれがわからなかったのであろうしかし、さす指は間違っていない。
 なぜ私はこれらの善行が大好きかというと、その中には無明の片影もないからである。だから道元禅師は、初めに充分「諸悪莫作(諸悪なすなかれ)」を実行して無明を抑えてしまうことを、とりわけ厳しくいったのである。
  『日本のこころ』83ページ 
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 前後のことを考えずに、ただいまなすべきことをする、無心の行為を岡先生は「善行」と見抜いています。色即是空の空のこころです。それではわかりませんね、自我が消失して真我の状態と言ったらわかるでしょうか、自我が消失すると自分がどうとか他人がどうとかというようなことはこころの片隅にもなくなってしまいます。岡先生はその辺のところをよくお分かりになって書いています。フランス留学から戻ってきて、一時期仏道修行をして真我に目覚めたのです。仏道修行をしたって、めったに真我に目覚める人はいません。言っていることや書いてあることを読めばどういうレベルの境地かわかります。岡先生は真我と言ってますが、他の人はまた違う言葉でそれを表現します。それぞれが自分の言葉で、こころの中に結ばれたイメージを語るので、文字面だけを追う人には違うことを語っているように聞こえてしまいます。見る人が見れば違う言葉が同じものを語っているのがわかるのです。ある種の悟り、そうですね、初歩的な悟りの段階をすませた人にはわかると言えばいいのでしょうか。悟りはおくが深い、奥襖を開けても開けても、次があるようです。一つ一つ開けてみるしかありません。いや、自然に開くのかもしれません。こちらの心境が進むに応じて開かれます。

(仏教は本来、宗教ではなく、哲学です。初期仏教経典群を読めばそのことがよく理解できます。神とか教祖を信じなさいというような要請は一切ありません。世の中の一切を説こうと言って、一切を説いたものです。どこでだれが宗教にしてしまったのでしょう。
ソクラテスの弁論術は相手を追い詰める尖った鋭さを感じますが、初期仏教経典を読むと、お釈迦様の言説に限りなく透明な知性を感じます。)

 ネットで検索してみました。唐代の詩人・白居易(776-846年)が鳥彙道林(ちょうかどうりん)和尚に「仏教の大意とはつまるところ何なのか」と問いかけたとき、和尚が「諸悪莫作・衆善奉行」と答えたという故事によります。
 「諸」はもろもろのという意味ですから、「諸悪」はさまざまの悪です。
 「莫」を『字統』で引くと、
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莫 バク・ボ: 金文には否定詞として、「来王せざる莫(ナ)し」のように用いる。否定詞としての用法は、「麻+非」(ビ)・末(ばつ)・無・亡などと声が通ずることによる仮借である。莫逆は心のたがうことのない友人、莫大は最大の意。
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  莫逆は意味がよくわかりますが、莫大は莫が大の否定なら、「大きくない」を意味するので、別の用法のような気がします。「大」の否定は2方向考えられますから、「大きくない」は「小さい」と「並みの大ではなくとてつもなく大きい」という後者の意味であると考えれば納得がいきます。たぶんそうなのでしょう。

 諸悪莫作はあらゆる悪いことをしないということですが、そんなあたりまえのことほどやるのは困難です。悪いことはなんによらず一時ですが楽しいもの、それをしないでちょっと我慢するのですから、苦痛を伴います。悪いことをすれば、悪いことが帰ってくる、そしてよいことをすれば善いことがめぐってくる、悪因悪果、善因善果。
 鳥彙道林和尚はセットで4つの句を白居易に告げます。

 諸悪莫作(ショアクマクサ)
 衆善奉行(シュゼンブギョウ)
 自浄其意(ジジョウゴイ)
 是諸仏教(ゼショブッキョウ)

 意味は単純明快。
 ありとある悪を作さず
 ありとある善きことは

 身をもって行い
 おのれのこころをきよめん
 これ諸仏のみ教えなり

 解説しているサイトがありますので、URLを書いておきます、興味のある人はお読みください。
*「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」 
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syoaku.htm

  もちろん、白居易は鳥彙道林和尚にすかさず反論します、「そんなことは子どもでも知っている」と。このやりとりとっても楽しいでしょう?あなたも似たような反論をするのではないでしょうか?もちろんわたしだって、「お言葉ですが、・・・」とやります。その後にこそ、この話の急所があります。ぎゃふんと言わされるのです。鳥彙道林和尚は反論を予測していたのかどうかはわかりません。何人もの人が同じ反論をしたのかもしれないし、白居易が初めて問うたのかもしれません。後者だとしたら、世にすごい人物はいるものです。

 じつは、白居易よりも1200年も前のお釈迦様の説法の中に諸悪莫作・衆善奉行の教えがあります。初期仏教経典である法句経(ダンマ・パダ)です。鳥彙道林和尚は南伝の仏教である法句経を知っていたのでしょうか?
 鳩摩羅什が弟子たちを使って多くの仏典の漢訳をしたのが5世紀で、弟子の慧観が教相判釈をしたのはその後、天台智顗が五時教判をしたのが6世紀後半ですから、鳥彙道林和尚のころには初期仏教経典群のアーガマ(=阿含経)は程度の低いものと評価が確定していました。現代では仏教経典の書誌学的な研究が進み、これらの教相半釈が誤りであったことが明らかになっています。事実はまったく逆でして、とても頭のよい中国のお坊さんたち三人がもっともお釈迦様の説法に近い経典群をレベルの低いものだと判断してしまったのです。どんなに頭がよくても、悟りが開けていない眼で判断すると、一生懸命仕事をしていても、それとは関わりなく、判断を間違えるのです。悟りの眼とは俗世間のノイズや自我を排除した眼です。
 大乗仏教全盛の当の時代にレベルの低い教えだと評価が定まり棄てられた漢訳法句経を、鳥彙道林和尚はちゃんと読んでご存知だったようですから、木の上で座禅三昧をして暮らしていたこの和尚やはり只者ではありません。流行に惑わされることなく、お経の真贋を見抜ける眼力をもっていたということです。悟りの境地に達していたことがわかります。
 どんなにたくさん勉強しても、どれほど偉いお坊様でも、自我が落とせていなければ、曇りガラスを通して物事を見ているようなものですから、ほんとうのところがなんにもわからないのです。
 一心に学問をしていたら初歩的悟りの段階を通過することがあるのかもしれませんが、俗世間でノイズにまみれていたら、いくら一生懸命に学問をしても、そういう段階を通過できない者がほとんどです。
 大数学者の岡潔先生はどういうわけかそのあたりに気がついておられて、本格的な数学研究に没入する前に、まるで準備運動でもするかのように仏道修行をして、芭蕉研究にいそしみます。こころの芯にある情緒の在り様が学問にとっても大事なことを知っておられた。すごい人です、だから、わたしはそのあたりの事情が見える『春宵十話』を若い皆さんにおススメします。

 仏教では貪・瞋・痴(トン・ジン・チ)の三毒は滅尽すべきものです。三毒は、貪欲・瞋恚・愚痴をあらわします。欲をむさぼること、人をうらやむこと、愚痴をこぼすこと、そういう心の働きを滅尽することが諸悪莫作と考えてもよいのでしょう。
 世俗の中に住まいしている限りは、そういうノイズ(悪)を避けることができません。だから、お釈迦様は世間を棄て、出家せよと説かれるのです。自分の子どもが親を棄てて出家すると言い出したら、とめない親はほとんどいないでしょうから、仏教は普遍的真理を説く哲学であると同時に、じつに反社会的な内容を含んでいます。
 ダンマとはダルマ(dhamma)のことで、通常は「法」と訳します、パダは「言葉」とか「句」といういみです。法ではわかりにくいですね、言い換えるとダンマはあらゆる時代を超えた「普遍的真理」という意味です。ほんとうはもっと意味の広い語彙なんです。「法則」「あるべき姿」「守るべき信条」「生き方の教え」などを含みます。仏教学者の中村元氏はダンマ・パダを「真理の言葉」と訳しています。
 中村元先生の訳の『真理の言葉・感興の言葉』(岩波文庫)から、「ダンマ=普遍的真理」を述べた9つの「パダ=句」を紹介します。

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159:他人に教えるとおりに、自分でも行え―。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。

161:自分がつくり、自分から生じ、自分から起こった悪が智慧悪しき人を打ちくだく。―金剛石が宝石を打ちくだくように。

165:善からぬこと、己のためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、じつにきわめてなし難い。

167:みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

166:たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

183:すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである

186:たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である

187:天上の快楽さえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子はもう質の消滅を楽しむ。

190:さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。―すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。
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 No.183の注に「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」とあります。仏教学者の中村元氏は『原始仏典Ⅰ釈尊の生涯』p.18で「かれ(ゴータマ・ブッダ)の説いた現実の実践の原理は、一言で言えば、道徳的に悪い行為を行わないで、生活を清めることです」と書いています。

 人間が際限のない欲望に身を任せて、便利さや快楽を追い求めても、それが満たされることは永遠にないことを、お釈迦様は弟子たちに繰り返し説いておられます。No.186 を読むと、お釈迦様は2500年も前に、まるでグローバリズムが地球を覆いつつあるいまをご覧になっていたようです。解決策も述べております。それは八聖道の実践による無明の滅尽です。無明を滅尽すればドミノ倒しにすべてが倒れていきます。もちろん「○○がほしい」という際限のない欲望も滅尽されます。と、わかったようなことを書いてしまいましたが、わからないことだらけです。たとえば、4番目に出てくる名色は認識対象の実在物やこころの世界を現しますが、それと10番目の縁起である有はどのように違うのか、微妙なところがあります。執着を縁にして現れる実在物をいうのかもしれません。4番目の名色は識を縁にして生じる外的存在ですから、名色と有は違うものなのです。

 無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死・愁・悲・苦・憂・悩・・・かくのごときがすべての苦の集積のよりて起こるところである

 「識⇒名色」という図式は普通ではありません。識るというのは識別の識であって、AとBとを別のものとして認識する認識作用のこと。識(別)が先にあって認識対象の実在や心的な事物は後というのが、お釈迦様の説明です。つまりわたしたちが識別するという作用があって、それに対応する実在世界がある。識がなければ、名色(外的実在や心的な世界)もないというのです。認識対象の名色がなければ、それを受容する感覚器官である六処もなくなります。六処がなければそれに触れるものもありません。感覚器官を刺激するものが一つもなくなれば、それによって生ずる歓びも執着もなくなります。
 わたしはいまだにこの12の階梯が具体的なイメージとして実を結んでおりません。言葉がむずかしいからでしょう。願わくばもう一度、お釈迦様にいまこの世界でわたしども衆生に直接わかりやすいご教示をいただきたい。

 お釈迦様は八正道という具体的な道を示しています。初期仏教経典の『阿含経』で繰り返し繰り返し、八正道を説かれます。
 八正道は八聖道とも書きます。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定を日々心がけて生活することが八正道です。お釈迦様は出家しないと無理だと仰っていますが、在家でやれる範囲でやるというのもあってよいのではないでしょうか。わたしは俗世間をこよなく愛していますから、執着を感じます。厳しく脱世間=出家を説いたお釈迦様のサンガは影も形もありません。残念ながら現在の日本の仏教宗派にお釈迦様の言うとおりの意味での「出家」は存在していないといわざるをえないのです。道元の開いた永平寺にすらなさそうです。良寛の偉さが身にしみます。
 にこっとお釈迦様が微笑まれたような気がしませんか?

 <用語説明>
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名色:精神的な存在と物質的な存在。認識の対象となるものの総称(『大辞林』より)
六処: 眼・耳・鼻・舌・身・意
愛: 渇愛(TANHÂ) 消しても消しても出てきます、喜びが伴います、そして満足に至ることがありません。だから、失うことが苦となります。砂漠を歩いている人が水をほしくなる状況、そして渇いた喉(のど)を水が数滴潤す瞬間を想像してください。「もっとください!」、そうなるでしょう?
取: upādāna 「他のものに執着することで,煩悩の別名とされることもある」(コトバンクより)
有:(う) bhava 存在。存在物。事物。実在。⇔無・空
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*パーリ語仏教用語辞典
http://www.j-theravada.net/pali/index.html

 
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#2784 百年後のコンピュータの性能と人類への脅威 Aug. 22, 2014 ">


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http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305649185-1

 
  #3097 資本論と21世紀の経済学(改訂第2版) <目次>  Aug. 2, 2015

 #3121 既成経済理論での経済政策論議の限界 Sep. 1, 2015  

  #3148 日本の安全保障と経済学  Oct. 1, 2015  

  #3162 絵空事の介護離職ゼロ:健全な保守主義はどこへ? Oct, 24, 2015    

  #3213 グローバリズムを生物多様性の世界からながめる(Aさんの問い) Dec.28, 2015 

  #3216 諸悪莫作(しょあくまくさ)  Jan. 3, 2016

 #3217 日本の商道徳と原始仏教経典 

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 前回ブログ#3215のコメント欄からアップ
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-12-31
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おはようございます。

再度通してお読みいただきありがとうございます。
不足に気がつくたびに書き足し、申し訳ございません。

「諸悪の根源」は経済システムにあるようには見えますが、それは移ろい行く仮の姿です。
人間の欲望をコントロールするしか手段はないように感じます。

お釈迦様が僧伽集団(サンガ)に貪欲(とんよく)、瞋恚、愚痴の三毒の滅尽を繰り返し説かれたのは、それらが諸悪の根源であることがわかっていたからではないでしょうか。まずは諸悪莫作(しょあくまくさ)、悪いことはしないということ。
サンガを超えて、日本人全体で貪欲の滅尽をやらなければならない時代に入ったのでしょう。
そういう意味でも、21世紀は教育がぐーんと重みを増していることは事実です。

ふるさとへ戻ってきて、私塾という形で教育に関わったのは、毎年入社してくる優秀な新入社員たちを見ていて気がついたことがあったからです。
企業はさまざまな社員教育をしますが、20歳を過ぎてしまえばすでに芯が出来上がっていて、著しく修正困難なのです。

高校⇒中学⇒小学校⇒・・・

どの辺りから自我ができるのか、向上心が芽生えるのか、成長のどの段階でなにをやればよいのか、自我の滅尽や真我に目覚めさせるのに狂句には何ができるのか、それらのことどもを見定めたいという思いがありました。
生徒を前にしながら、一人ひとりあまりに違うので、いまだによくわかっていません。
もうすぐ2歳になる孫の成長過程を観察するのがいいのかもしれませんが、根室と東京ではそれは不可能です。

このままではたいしたこともできないまま、いずれ時間切れとなるのでしょうが、それでいい。
歩けるところまで歩き、なにがわかり、なにがわからないのかを記録し、発信するところまでが自分の仕事の範囲なのかもしれません。
その先に別の景色が見えるかどうかは天任せ、ただ歩き続けるのみ。

南無阿弥陀仏
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 初期仏教経典群に関する本をいくつか紹介します。どれも自分で目をとした本です。
 これはやさしく解説してあってたいへん読みやすい本です。amazonで探しましたが出てきません。

 『原訳「法句経」 一日一悟』 A・スマナサーラ 佼成出版社
 もう一つ、

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

  • 作者: アルボムッレ・スマナサーラ
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2008/07/02
  • メディア: 新書


 学術的な香りの高いのは中村元先生の訳です。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/01/16
  • メディア: 文庫

 絶版になっているので、中古品をamazonで求めるしかありませんが、ダンマ・パダは出世間を求める厳しい教えであるという視点で解説されています。

ダンマパダの教え―初期仏教の「反社会」主義

ダンマパダの教え―初期仏教の「反社会」主義

  • 作者: 上村 勝彦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1987/04
  • メディア: 単行本


  わたしが読んだのは1979年初版の単行本5巻です。全部で6巻ありますが、最後の巻をもっていません。ちょうど30歳のときに出版されました。文庫本のほうは6冊が3冊に圧縮されているようです。
  当時、神田神保町の信山社で使いやすそうなパーリー語辞典を見たのですが、買おうと思ってしばらくしてから、いってみたらもうありませんでした。よいと思ったら、思ったときに買わないと手に入らないことがあります。何度か手痛い失敗しています。良寛の書を大判の写真製版に閉じこんだ古書もどこかえ行く途中にデパートで開催されていた古書店で見かけたので荷物になるので翌日行ったら、ありませんでした。

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

阿含経典〈3〉中量の経典群/長量の経典群/大いなる死/五百人の結集 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/10
  • メディア: 文庫

原始仏典〈1〉釈尊の生涯 (こころを読む)

原始仏典〈1〉釈尊の生涯 (こころを読む)

  • 作者: 中村 元
  • 出版社/メーカー: 東京書籍
  • 発売日: 1987/10
  • メディア: 単行本



 偉大な数学者である岡潔先生の『春宵十話』は若い人たちに読んでほしい本です。わたしは3度読み通しました。

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)

  • 作者: 岡 潔
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2006/10/12
  • メディア: 文庫

岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))

岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))

  • 作者: 岡 潔
  • 出版社/メーカー: 日本図書センター
  • 発売日: 1997/12/25
  • メディア: 単行本





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コメント 2

tsuguo-kodera

 おはようございます。
素晴らしい言葉の紹介をいただきありがとうございます。リンク先にジャンプしていくつか講話を読みました。しかし生浮かびには何もできませんし、できていません。ただただ恥じ入るばかりです。
 諸悪莫作(ショアクマクサ)
 衆善奉行(シュゼンブギョウ)
 自浄其意(ジジョウゴイ)
 是諸仏教(ゼショブッキョウ)
この4行の言葉は理解できても行動の中身が着いていっていません。
 今のまま何もしなければ悪い行いもしない、得意な上手くできることだけしていたら悪いこともしていない確率は高いはず。私がいまして居ることでお金儲けはありえないし、お金は持ち出しの行動ですし。この活動をさらにするつもりでしたが迷いが生まれました。
 仏教の本も読んだこともないし、ただただ若い時に悪戦苦闘し、周囲に怒りをぶつけ、今も周囲は馬鹿ばかりだと諦めて世界を狭くしているだけの老人なのです。後悔が私を少しはましにしただけなのでしょう。
 さてそこで、どうするか。仏教の本を読むか、四書五経の本を読むか、中国の賢人の翻訳本を読むかしなければいけないのでしょうが、私には許された時間はありません。あきらめました。
 結局、石にかじりついても今のし掛けた最後の出版仕事を成功させることを一層努めるべき、としか考えられないのです。しかし、今度も失敗したらまたたくさんの人に悪行をしたことになる。良いことをしたいと思ってするのですが、私の行動の結果は諸悪。情けない男。
 だから私は法然や親鸞、そして弘法大師の巷に伝えられているイメージに憧れて、物まねのように偉大な先人の言葉を口にしているだけなのです。何でもすれば悪になるのが凡人の常なのかも。自分でも良く分かっているのです。
 やはり人は生まれなかった方が幸せであり、物心つかないうちにおさらばするような水子が仏様に近いのかもしれません。でも確率的にゼロなのに生を受けてしまった私や人はどうするか。悪いことをしないほど生きるのは大変な世の中が何時の時代も当たり前。戦争中などいくらでも転がっていた話しでしょう。
 良い言葉を知れば知るほど、早くお呼びがかかってほしいと私は思ってしまいます。母の口癖、早くぽっくり死にたいが私の今の心です。一所懸命に得意なことを人に教え続けるほど他人に悪を及ぼしかねない自分がいます。残念ですがそうなのです。
 五木寛之の書いた親鸞がダブります。また迷いが増えました。でも続けるしかできません。

by tsuguo-kodera (2016-01-04 04:51) 

ebisu

おはようございます。

わたしも仏寺での修行経験がないので、聞きかじり、見かじり(?)程度の浅薄な知識があるだけ。
仏寺での修行はお釈迦様本来の教えからはだいぶ離れています。お経もそうです。やたら難解になっていますが、お釈迦様が衆生に教えを説かれるのに、難解な語彙を駆使したはずがありません。原始仏教経典の中では、わかりやすいたとえをいっぱいいれて、だれにでもわかるような説明をしています。じつにすがすがしい、それがお釈迦様のもともとのお姿ではないでしょうか。中国経由の仏法は難解で胡散臭さがあります。

仏寺での修行がすべてではないので、在家のわたしたちはそれなりでいいのでしょう。

座禅による瞑想や呼吸法のトレーニングは十代のころから自然にやっていました。本を読み我流を修正したのは30代でした。グルはいません。あえていうと、本をお書きになっている人たちです。瞑想はほどほどにしています。意識が身体から離れることがあるので怖いのです。雑念の一種かもしれませんが、意識が離れているときに戻れなかったらとどうしようと考えている自分がいます。対処の仕方がわからないのです。

> 結局、石にかじりついても今のし掛けた最後の出版仕事を成功させることを一層努めるべき、としか考えられないのです。

No.166でお釈迦様もそれでいいと仰っています。

>166:たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

果たすべき仕事や役割は、一人ひとり違います。わたしも自分が果たすべき役割を果たすだけです。ゆっくり歩きます。

「愚と賢」という章が原始経典の『阿含経』にあります。
無明を自覚しない者が愚で、自覚する者が賢です。
お釈迦様は「賢い者は聖なる修行を行じ、まさしく苦を滅することをなす」と説いています聖なる修行をするかしないかは大きな差です。
事物やこころのあるがままを観ることが要点なのでしょう。

仏教用語は一般の語彙とは意味が異なることがあるので、四つの語について説明を追記しました。

数学者の岡潔先生は一時期本格的な仏道修行をしていますので、ときどき著作の中に仏教用語がでてきて困ります。その都度調べるしかありません。(笑)
by ebisu (2016-01-04 11:28) 

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