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#3157 日本語読み・書きトレーニング(4):「書き」の「守・破・離」」 Oct. 15, 2015  [47. 語彙力と「読み・書き・そろばん」]

〈 「書き」のトレーニング方法いろいろ 〉
 「書き」についてはどのようなトレーニングをやればよいのかについて、定説がない。要するに美しい文章をたくさん読んだ者の中から、美しい文章が書けるようになる者が出る。あるいは諸学の論理的な文章をたくさん読んだ者が論理的な文章が書けるようになる、そんなところが関の山というのが現状だろう。
 道のないところに道をつけようというのだから、なにか目印になるものがほしい。だから、シリーズ4回目各論「書き」がテーマ、思いつく文章書きのトレーニング法を並べて、「守・破・離」の「守」とは何なのか検討してみたい。皆さんもこの小さな冒険にお付き合いいただきたい。

1.視写(見てそのまま写す)
2.ディクテーション(先生が読んだ文を生徒が書き取る)
3.本を選び、一文ずつ数回音読してから、一文全部を書く
4.自由作文

 視写もディクテーションも国語の授業でやる先生はほとんどいないだろう、ましてや3番目を授業で生徒にやらせようという先生は稀有だ。読み・書き能力伸張には有力な武器なのだが、3番目を授業で指導しようすると、先生の出番がほとんどない。座って暇をもてあますことが嫌いな律儀な先生には我慢できない授業となる。スキルス胃癌を患い、術後に体力を失ってから、そういう授業もありだということに、わたしはようやく気がついた。致命的な癌を患い胃を失っても、なお得をすることがある、世の中はうまくできている。(微笑)

 どのようなお稽古事でも、お手本をそのまま真似るということが、初歩的な段階では要求される。欧陽旬、顔真卿、虞世南の古典といわれる名筆の主を一人選び、何度も何度も臨書して、書法を身につけていく。
 書道では楷書のお手本を見ながら、それを真似るが、うまくいかないから、筆の運び方、力の抜き方等について、先生から指導がある。ピアノの練習も、練習曲を繰り返し弾くことから実技指導がはじめられる。段階に応じて、練習曲の難易度が上がっていく。ひたすら先生を真似るのである。
 柔道では受身の練習から始まる。もちろん、受身には基本の形があり、それを繰り返し反復練習する。じきに投げられたら無意識に身体が反応して受身が取れるようになる、それから投げの技のトレーニングに入る。剣道は数種類の基本形の素振りを反復練習する。千日の稽古でなんとか様になる、万日の素振りでひとつの境地がみえてくる。他の武道だって似たようなものだろう。
 大工修行は鉋(かんな)研ぎから始まる。毎日毎日鉋を研ぐことで、切れ味のよい刃物がどういうものか砥石に訊くのである。刃物に両手を添えて、ひたすら砥石の上を均一の力で往復させる。慣れてくれば、刃が砥石に吸い付いてしまう。そして刃に指先を当てただけでどれくらいの切れ味に仕上がっているかわかるようになる。材料を削って、今度は木材に訊くのである。向こうが透けて見えるような鉋屑がひらひら舞うようになると、削られた柱の肌が鏡面のように反射する。
 こうしたアナロジー(analogy 類推)が問題の整理に役に立つ。すべからくlearningには、基本の型があり、ひたすら反復トレーニングすることで、技を磨く。守・破・離の守の段階である。文章作成技術の育成も同じことだろう。

 そこから、名文の「視写」というトレーニングが「書き」の基本であることがわかる。ひたすらお手本を真似る。よい本を選び、1冊丸ごと「視写」してみたらいい。小説家を志す高校生には『平家物語』の音読と視写を薦めたい。ああ、ここでは主として小中学生向けの「書き」を取り上げることになっていた、ちょっと脱線しそうになった。

 ディクテーションは外国語を学ぶときによく用いられる方法だが、小中学校の先生たちは授業で日本語のディクテーションをやってみたらいい。生徒が読まれた文をどのように理解したかが、書かれた漢字を見れば一目瞭然だ

 「けいようしはめいしをしゅうしょくする」

 こういう文を読み上げたとしよう。形容詞と名詞は書ける生徒が2/3を超えるだろうが、「しゅうしょく」が案外むずかしい。理由は簡単である、同音異義語があるからだ。ワープロの漢字変換機能には、「就職」「修飾」「秋色」「愁色」「襲職」の5つがリストされていた。文章の意味理解ができないと適切な漢字を頭に思い浮かべることはできないのである。すでに社会人となっている中2の生徒が二人とも一番目の「就職」の字を書いたことがあった。「修飾」という熟語を習っていないというのである。黒板に書いてもこの熟語の意味がわからないと言った、生徒二人は漢和辞典を引いたことがなかったのである。中1で国文法を少しやるから、国語の授業中に先生が説明したはず、ところが騒ぐ生徒が3人もいたら、先生の話がところどころ聞き取れなくなり、話の文脈が理解できない。それで「聞いていない」という発言になる。「聞こえなかった」のだろう。
 授業で生徒たちに耳慣れない漢字熟語を使うと、生徒の頭の中で、知っている見当違いの漢字に置き換えたり、外来語のようにカタカナになってしまえば、意味の理解はできない。語彙力の不足している生徒たちには五教科全部でそういうことがおきている。先生の発話を頭の中で正しい漢字に置き換えられなければ、発話の意味が理解できない、それほど語彙知識は決定的な重みをもっている。
 知らない語彙が耳に入ってきたときに、人間の頭は自分の引き出しに入っている漢字を無理やり充てようとする。もちろん「形容詞は名詞を就職する」と書いた生徒は、意味がチンプンカンプンなはずだが、そのことにすら気がつかない。文脈追いをしていないからで、ちゃんと聴き取れましたという顔で澄ましている。語彙数の少ない日常会話には不自由しないから、自分たちは人の話が理解できると勘違いしている。
 さらに突っ込んで分析すると、その生徒二人は「形容詞は名詞を」という句と「しゅうしょく」するという句の意味を関連付けて判断していないことがわかる。書いたものがどういう意味かを問うと頓珍漢な答えが返ってくるだけ。
 「書き」においても、前後の単語との意味の連携(コロケーション)が読み取れなければいけないということ。同音異義語を文脈に沿って、ちゃんと書き分けられる生徒の脳の働きは、そうではない生徒に比べてその性能に大きな差が生じている。大人の会話ができるようにならなければ、大人が使うあるいは文章語として出てくる語彙を知らなければ、中学校では授業の理解に支障がでてくることがわかる。
 文脈を追い、的確な語彙に漢字変換してそのつど正しい意味理解をしている生徒と、語彙が貧弱で正しい漢字変換をしていない生徒では、脳の働きに大きな差ができてしまうのである。これはわたしの「仮説」ではなくて、「観察された事実」である。

 次に取り上げる方法は「逆輸入」というとよくわかる。外国語を学ぶときの「音読⇒書き取り」連携トレーニングを日本語でやってみようというのである。ハンドルネーム「後志のおじさん」が数ヶ月前にコメント欄で教えてくれた。2週間試してみたが、やりかたは普遍的で効果は絶大。
 オリジナルは、「30回音読、10回書き」である。日本語だから、3回読み1回書く、これを数セットやれば十分だ。慣れたらスパンを大きくとり、「文章二つの連続音読⇒書き」をやればよい。文章を一つあるいは二つ頭に入れて、それを書き下すというのは、一時記憶トレーニングとしても優れている。1文章全体を1時記憶として保持できなければ、文の意味判断が不可能となり、単語を適切な漢字に変換できないことは明らか。2文を1時記憶できなければ、文と文のつながりを判断できない。数学の文章題の場合なら、1文目の条件を1時記憶保持できなければ、2文目を読んでいるときにその前提条件あるいは関連が脱落することになるから、立式が不可能になる。さっと読んでわかるようになるには、1段落の文くらいは1時記憶として保持できなければならない。
 幸田露伴の『五重塔』だけは、テクストに使わないほうがいい。最初の文が500字ほどもあり、2番目の文は千字を超える、一時記憶域がオーバフローしてしまい、とても覚えきれない。(笑)何が書いてあったか、記憶に残るほど鮮烈かつ秀逸な表現が、記憶に残っていれば十分だろう。
 「音読⇒一人ディクテーション」作業を繰り返すことで、一時(temporary)記憶域に文章を放り込み、それを読みながら書くことに慣れていくのである。temporaryの意味は、数秒~数十秒間の記憶保持である。1文あるいは2文を読み終えるまで、あるいはそれらを書き写すまで、記憶を一時的に保持することを指す。
 「先読み」のところでやったように、書きのトレーニングでも脳内では並列処理がなされる。読み・書きトレーニングをこのような方法で繰り返しやることで、脳の機能が格段にアップしてしまう。

 少々乱暴な仮説かも知れぬが、1~3までを文書作成の「守」とすると、その過程を通り過ぎたら、日記を書いても、テーマを決めて作文しても、見違えるほどさまになった文章が書けるだろう。この段階を迎えたら、何を書いてもよい。守・破・離の破のステージがまっている。


*守破離について(ウィキペディアより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E7%A0%B4%E9%9B%A2
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守破離(しゅはり)は、日本での茶道武道芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。

まずは師匠に言われたこと、を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身とについてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

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*#2853 『釧路市学力保障条例の研究(1)』東大大学院教育行政学論叢 Oct. 29, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-10-29


*#3154 日本語読み・書きトレーニング(1) Oct. 11, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-11-1

 #3155 日本語読み・書きトレーニング(2):総論 「読み」と「書き」 Oct. 12, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

 #3156 日本語読み・書きトレーニング(3):先読みの技 Oct. 14, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-14

 #3157 日本語読み・書きトレーニング(4):「書き」の「守・破・離」」 Oct. 15, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-14-1

 #3158 日本語読み・書きトレーニング(5):数学と「読み」のスキル Oct. 16, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-15

 #3159 日本語読み・書きトレーニング(6):数学と「読み」のスキル-2 Oct. 19, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-10-19

 #3195 家庭学習習慣の躾は小学1・2年生のうちにやるべし Dec. 4, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-12-04

  #3196 四段階ある作文指導工程  Dec. 6. 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-12-05


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後志のおじさん

子供の発達段階から考えると、「読み、書き」の前に「聞き」があるのでは?(当然「言い」もあるだろうけれど。)

子供は、言葉を覚え始めると、「word 」を口にしていきますが

次のステップが「二語文」「三語文」です。
「明日、保育所、休み。」とか、
「ヒロシ(自分の名前)ケーキ食べる。」など。

この段階までで、親がスマホ人間ならば、子供は発話の意欲を失って低学力確定。また、親がまだるっこしいからと、途中で聞くのを止めるのも同じ結果になります。

さて、次のステップが、「聞く力」を養うのですが、「二語文」「三語文」を

「明日は、保育所は、休みです。」
「ヒロシは、ケーキを、食べる。(食べたい?)」

助詞、助動詞、用言の活用語尾(つまりひらがなの部分)を意識させ、使えるようにさせるためには?

親が、日頃から正しく文節末尾を口にし、子供の間違いを言い直させること。文節末尾のひらがなが、日本語の文構造を決めることを意識させること。

この意識がなければ、文を読むことはおろか、日本語の文を、文として聞き取ることすらできません。

(実は、この点についても、英語習得との共通点があるのですが、また別途posting致します。)


by 後志のおじさん (2015-10-14 22:15) 

ebisu

後志のおじさん

「聞き」の段階、たしかにありますね。
1歳9ヶ月の孫は、絵本を見ながら父親が「きりん」というと、「きりん」と片言で返してくるようになりました。「くつ」とか身の回りのものも、それぞれの名詞を、親から聞きながら憶えていきます。
次の段階が、助詞の混じった会話ですね。
親の発話が日本語としてちゃんとしていなければ、こどもはちゃんとした日本語を覚えることができない。親の話し方がとても重要な役割を果たしています。家庭で乱暴な言葉遣いを親がしてはいけません。品のよい話し方を心がけよ、ということになるのでしょう。
幼児期になるほど、親の接し方、話し方が問題になります。

日本語の怪しい中学生が増えています。高校生の中にも2割ほどいるでしょうね。
その子達が親になったときに、子どもの教育に大きな支障がでそうです。

名詞や動詞だけの一語文⇒二語・三語文⇒
>助詞、助動詞、用言の活用語尾(つまりひらがなの部分)を意識させ、使えるようにさせる

このシェーマからは絵本の読み聞かせも、日本語習得に重要な役割を果たしていることがわかります。

いま、本論で扱っているのは、小中高生の言語能力の育成ですが、一区切りついたら幼児期の言語能力育成についての議論をしてみますか。
コメント欄に、どんどん書き込んでもらえば、どこかでまとめて扱います。
by ebisu (2015-10-14 23:21) 

tsuguo-kodera

 素晴らしい!!!!!!!
 たぶん一部は違っていたでしょうが、昔の私と息子の勉強法に良くあてはまるプロセスが書いてあると思いました。
 でもいい加減な私は管理人さんのこの丁寧なプロセスをはしょって、一部のみを使って国語の力を付けたような気がしています。生きる力もです。そして今がある。
 さてそこで、私は棺桶に入る前にこの関連の新しいテーマに挑戦するかですが、時間が足りません。残念ですが、私の本のリライトの仕事で南無阿弥陀仏になるでしょう。やはりもう余裕がありません。悲しいかな若い時なら、です。
 管理人さんのこの教えをアホな学校の先生に分からせるテーマを担当する若い人を見つけないといけないのでは。または阿保をだましてやらせるか。使わない道具は無駄になります。残念ですが、私の知る限り無理かもしれません。阿保しかいませんよ、特に長と付く人は。
by tsuguo-kodera (2015-10-15 04:50) 

ebisu

koderaさん

おはようございます。koderaさんの励ましがうれしくてまたアップしました。
「!」を7つもつけていただきありがとうございます。

4回のシリーズのうち、贔屓目に見ても、わたしのオリジナルの意見は4割以下でしょう。ZAPPERさんや、後志のおじさんのサジェッションが大きな役割を果たしてくれています。
もちろん、koderaさんも。
「1次記憶域」を今回から「1時記憶域」と書き改めたのも、小寺さんの指摘があったからです、考え直しました。

そもそもこの小論シリーズを書こうと思い立ったのは、「釧路の教育を考える会」の今年度の「提言」の骨子をどのようなものにするかということで、作成を担当しているIさんと基礎学力=「読み・書き・計算」について、往復20回のメールをML機能を使って小グループに公開の形で議論をしたことが契機になっています。
意見の違うIさんの存在がなければ書いていません。
メールでの個々の問題の議論では、大局を見失ってしまいます。それで、自分の考えをまとめる必要を感じました。

>でもいい加減な私は管理人さんのこの丁寧なプロセスをはしょって、一部のみを使って国語の力を付けたような気がしています。生きる力もです。そして今がある。

わたしも手順どおりに全部やるということは考えていません、そのまま全部やったら重たい。(笑)
頭のよい方はあちこち端折ってかまわないのです。想定しうる「標準プロセス」を描いただけのことですから、それ以上でも以下でもない、ぴったりそれだけ。

私自身はまったく別の方法で基礎学力を磨きました。家業のビリヤードを小学生のときから手伝っていましたので、イメージ記憶という非常に強力な方法が自然に身につきました。先生が黒板に書いたことを、そのままページをめくるように、3ヶ月程度は自在に記憶域から引き出せることに中学2年生のころに気がつきました。授業の後の10分間の休憩時間に黒板に描かれたことを思い出すだけでよかった。1~2分で復習完了です。うちに帰ってから、ボーっとしているときに好きな科目の授業を数分間思い出すだけで、3ヶ月記憶保持できたのです。だけどそれは普遍性をもちません。特殊な環境の中で生まれた特殊な学習法だからです。

いろいろ並べましたが、つまみ食いで十分、それなりに効果が出ます。私自身、「後志のおじさん」の「30回音読、10回書き」を2週間忠実に実行してみて、その効果の絶大さを確認しています。それ以後、英文を見たときの感覚が違ってしまっています。高校生の要求で、ダーレン・シャンの英文の小説を一緒に読み始めましたが、書き手の言いたいことが、単語や文章を通してイメージとして明確に伝わってきます。今までなかった現象です。英語で書かれたテクストを読んだのは、数冊を除いていくつかの分野の専門書群、英字新聞、医学・科学雑誌でしたから、小説の解説はわたしにとっては新鮮です。おやおや、脱線しそうですから、元へ戻します。

このシリーズ、もう1回は書かなければならないようです。算数・数学の文章題と「読み」のスキルの問題は釧路と根室の子供たちだけの問題ではありません。スマホ・パソコン・オンラインゲームが普及し、どんどん高機能になって、子供たちを夢中にさせ、読書時間を奪い続けています。
全国学力テストの国語B問題と算数・数学B問題は、全国的に子供たちの読書時間が減少して読みの力が衰えることで、正答率平均自体がこの10年間で低下しつつあるのだろうと推測します。

まだ時間と気力があるので、そこにメスを入れておきたい。歩けるところまで歩いて、はいさようなら。

明日があるのかないのやら、考えたってわからないことはわからないままでいいと思うようになりました。いまは歩けています、ときどきロードバイクで疾走したりも。秋風が冷たくなりました、今朝の根室の最低気温は7.6度。どんどん寒くなります。(笑)

by ebisu (2015-10-15 08:59) 

後志のおじさん

言語習得を、幼児の発達段階を例に述べておりますが、二つの点で小中高の学習指導に於て見過ごせないことだと思います。

一つに、小学校入学時点で、家庭の意識の違いにより「一語文」の発話しかできない子供から、助詞、助動詞、用言の活用まで使いこなせる子供まで、
学習年数にして3、4年分の差がある子供たちが等しく1年生として入学してくるという、
指導対象のばらつきの問題です。


二つめは、先にも述べた通り、言語修得には日本語も英語も方法に違いはないことです。
だから、英語と絡めて書いていきます。

今の学校英語教育は、欠陥だらけで使える英語を身に付けられるかどうかは本人の努力次第です。
私のたどった道筋を振り返ってみると、子供の日本語修得のプロセスと共通点が多い。

また、posting致します。



by 後志のおじさん (2015-10-15 09:09) 

ebisu

後志のおじさん

おはようございます。
幼児期の言語習得はそこだけで孤立したものではなく、そこをどのようにすごすかで、小学校へ入学してくる時点で、それまでに習得された言語能力に大きな差が生じてしまっている、そういう事実がないがしろにされてきたという独自の視点はなるほどあらためて聴いてみて、至極当然の論と受け止めました。。

わたしは視点の斬新さが好きです。みんな見ていたはずなのに、そしてきわめて重大な事実なのに誰も気がつかない。
そこで終わらないところが、コメント欄に花を咲かせるわたしたちの会話のよいところ。ええ、ほめちゃいました。もちろん他の方々も含めての話です、数が多いほどほめがいがあります。(爆笑)

「指導対象のばらつきの問題」があることは、小学校の国語指導の前提、小学校の先生はなかなかたいへんです。じっさいには99%の先生が教え切れていないのでしょう。

小学校入学時点、6歳ですでに3~4歳分の開きができてしまう。ではその後はどうなるのかというと、たぶん格差は広がるということになるのでしょう。どういう展開がなされるのか楽しみです。こういう作業はひとりでやると見落としがぱらぱらでますから、複数でやるのがよい。

ところで前にやった英語談義シリーズ、仮定法だけではありませんでしたが、ずいぶんたくさんの読者に読まれています。テーマ別で3種類くらいはあったと思いますが、それぞれ3000アクセスを超えています。英語に関心のある人が多いようです。

さて、日本語のほうへの関心はどうなりますか、それはそれ、坦々とやりましょう。
キックオフです。
by ebisu (2015-10-15 11:20) 

ZAPPER

我が家は子どもが三人ですが、下に行くほどに言葉の習得が早くなるという現象に、私自身が驚いています。一番、対話に時間を割いたのは上の子のはずでしたが(笑)。やはり、下になるほどに「日本語のシャワー」を浴びる度合いが高まってくるからなのでしょうね。

今知りたいのは、年齢に応じた「持っている語彙の数」です。実は小学校入学時点で一般に考えられている以上、驚くほどの語彙の格差(あえて格差という言葉を用いますが)があるはずです。そこが明確になれば、議論はより深くなり、大いなる共感を呼ぶことになるはずですから。

さて、どうやって調べたらよいものでしょうか…。
by ZAPPER (2015-10-15 15:47) 

後志のおじさん

先読みのbaseは、文節のリンク先が予測できることです。

日本語では、この働きは、文節末尾のひらがなが負っています。
例えば、東京から、には、別の地名か動詞がつながる。

英語では、つながり先は文中のポジションで決まる。Adv+SV +Adv です。

ところが、日本語では助詞、助動詞活用語尾は通常弱く発音される。英語では、前置詞、冠詞、be 動詞、というポジションマーカーは弱拍になる。大概の人は、音を聞き取っているつもりになっているだけで、実は、文法知識で聴こえていない音を補っているのです!

英文をたくさん覚えるとlistening力が上がったように感じるのはこの効果です。

では、日本語で助詞、助動詞、活用語尾を聞き取れるようにするには?

ひらがながなければ完成した文ではないことを意識させなければならないのですが、本人には自覚がない。

鶏が先か、卵が先か?になってしまいますが、発話の都度誤りを直してやる。たくさんの日本語文を読んでストックをふやすようにしむける。これしかないだろうと思います。

この中で、短文作文をやらせてひらがなの使い方を意識させるのも学校の指導としては大切だろうと思います。


因みに、後志では、ひらがななしの一語文、二語文しかはなせない大人も珍しくありません。








by 後志のおじさん (2015-10-15 18:59) 

ebisu

後志のおじさん

これはとてもむずかしい。

>鶏が先か、卵が先か?になってしまいますが、発話の都度誤りを直してやる。たくさんの日本語文を読んでストックをふやすようにしむける。これしかないだろうと思います。

中学生の1割くらいですが何言っているのかわからない生徒がいます。日本語になっていないのです。
何言っているのかわからないから、自然に人と話さない性格になっています。
もちろん、本も読まない。読んでもとても遅いし、書いてあることがわからない。「てにをは」はしょっちゅう読み間違えるし、漢字も読めないものが続出します。
こういう生徒は、パソコンやゲームは夢中になってやります。動画も熱心に見ています。時間は有り余るほどあるのですが、ぱそこん、ゲーム、動画に費やすだけ。人と話をしたがりません。話を聞くのも日本語がめちゃくちゃですから、かなり疲れます。

小学校6年間をそういう状態ですごしたら、生活習慣病そのもの、体質や性格にまでなっていますのでアウトです。95%は中学校で治りません。
言語のうち「話す」と「聞く」は習得の時期(=旬)があるようで、その時期を逃したら、ほぼアウトです。旬は小学校低学年まででしょうね。
日本語も英語もまったくダメということになります。社会人となったときに、仕事の「報連相」は無理です。単純労働しかできませんが、それも嫌いだといって続かないでしょう。

もちろん、先読みトレーニングも難航します。そういう生徒はいくら言っても家で練習してきません。嫌いだからです。嫌いなことをがまんしてやることができません。好きなことしかしません。
幼児期の親の関わり、関与の仕方が決定的な影響を及ぼしてしまいます。幼児期の「話す」「聞く」についてはもっと注目すべきではないでしょうか。

>因みに、後志では、ひらがななしの一語文、二語文しかはなせない大人も珍しくありません。

結局、こういう大人になってしまうということでしょう。
音読トレーニングをして、文をひとつずつ読み上げて書き写すトレーニングをするしかなさそうです。
by ebisu (2015-10-15 23:44) 

ebisu

ZAPPERさん

おはようございます。

小学生の日常会話でつかわれる語彙数はせいぜい500ぜんごではないでしょうか。
 助詞や助動詞を語彙数に含まるかどうかは案外重要かもしれません。
 助詞や助動詞抜きの言葉を話す子どもと、ちゃんとした日本語を話す子どもとでは、助詞や助動詞の使い方に決定的な違いがあることを、後志のおじさんがすでに書いてくれています。

塾生の中に、両親の方針で小さいときから大人の中に放り込んで鍛えられた者がいます。ちゃんと大人の会話ができます。
やはり、正しい日本語をたくさん聞いていること、そしてその中に混じって言葉のやり取りをすることが「話す・聞く」のコミュニケーション能力を拡張することは間違いのない事実のようです。
わたしも、小学校へ入学する前から、家業のビリヤードを楽しんでいたので、大人の中で育ちました。さぞかしこまっしゃくれた大人の会話のできる子どもだったのだろうと思います。そういう背景もあり、母の勧めで小4からは北海道新聞の卓上四季や社説、一面の政治経済欄を熟読していました。

子どもにとってはちゃんとした日本語を話す大人と会話することが言語能力、なかでも話すと聞くに関してはとても大事なことのようです。

学年による使用語彙数の調査という視点は面白い。文科省が助成金を出して研究を後押しするか、国立教育研究所の調査研究テーマにあげてもらいたいですね。

そうしたことを要求するのも、民間有志の教育団体である「釧路の教育を考える会」や「北海道教育文化研究所」の役割かもしれません。

自覚があろうとなかろうと、わたしたちは知らぬ間にかつてだれもがやらなかった重要な役割を担う場所へと辿り着いてしまっています。

by ebisu (2015-10-16 08:53) 

後志のおじさん

問題解決型学習を学習指導の標準手法にした文部科学省のエリート官僚は、小学校入学前に家庭で、助詞、助動詞、活用語尾まで身に付けていて当然という環境に育った方々だと思います。

問題解決型学習の話し合いなど、言語能力の高さが勝負ですから、均一に高ければ質の高い討論が成立するのでしょうけれど、彼らの育った世界には、一語文しか話せない同級生など「存在しない」も同然ですから。

文部科学省のエリートの作る学習体系には、子供の言語修得を育む能力のない親や、能力はあっても余裕のない親は存在しないのです。

灘だの開成だの麻布、武蔵、桐蔭、筑駒だの。国家公務員上級職の世界では、いい歳になっても「四谷大塚」で何番だったとかが序列を決め、発言を封じる根拠になるそうで。


陸軍幼年学校で何番で、士官学校は何番で、陸軍大学は何番だった。順位の低いものなど相手にする必要はない!と、日本を亡国へと導いた戦前のエリートと同じですな。


家庭環境がどうであろうと、「最低必要な」日本語力を身に付けさせるのが公教育の使命であるのに、家庭環境の違いも看過されており、最低これだけは、という目標も設定されていない。

文部科学省エリートによる亡国教育です。

by 後志のおじさん (2015-10-16 22:47) 

ebisu

後志のおじさん

そうか、日本語力について、最低これだけはという具体的な目標設定が必要なんだ。そこが蔑(ないがし)ろになっているから、劣った家庭環境の中で言語習得の旬の時期を逃した子どもたちが公教育の中で救われずに放置されてしまう。
義務教育を終わったところで、高校入試できれいに選別されています。大学入試でもう一度フィルターを通す。最後のフィルターが国家公務員上級職試験。

田舎の優秀な生徒を都会に集め、都会の優位な家庭環境で育った生徒たちと競わせてエリートを育てるという視点はあっても、田舎で劣った家庭環境の中で育つ子どもたちに、最低限これこれの学力を保障するという視点が現実の文教政策の中には存在していない。

そう考えると、基礎学力保障を旗印にした「釧路の教育を考える会」は明治以来の日本の文教政策に真っ向から筵旗を立てたことになります。

家庭環境がどうあろうと、この日本で生きていくために最低必要な日本語能力や基礎学力を保障するために、これからさらに何をすべきか、そういう視点で考え、行動しなければならないようです。
釧路が日本の文教政策を根底からひっくり返す教育の実験場となりうるということ。

坦々と歩めば、どんなに遠くにあるゴールにも着実に近づくことができます。こうした議論をすることも、目標までの距離を1歩縮めることになるのでしょう。
by ebisu (2015-10-16 23:48) 

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