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#1487 子供の遊びと遊ぶ場所:昔と今 Apr. 24, 2011 [85.サイクリング]

 ロードレーサーのチューブラータイヤに空気を入れた。空気圧の単位はBARやPSIがあるが、体重を考えて低めの6BARで試してみたが、体重が63㌔だからこれぐらいで十分である。7バールにすると路面の振動がきつく感じる。ノサップ岬まで遠乗りするときは路面のがたつきがきつくても抵抗を減らすために7バールがいい。
 雨が上がったので、ロードレーサーとMTBとを乗り比べながら周辺を散策した。先週少し走ったときは気温4度で寒かったが、今日は7度くらい、ロードレーサーで風を切るとまだ頬が冷たいがこれなら遠出しても大丈夫だろう。季節は動いている。

 裏通りを走っていたら中学生が20人ほど集まってカンケリ遊びをしていた。自転車で通り過ぎるときに、「あ、みつけた」と塀の脇に隠れていた生徒に言うと「シー、言わないで・・・」としゃがんで隠れている。
 昔は小学生がやっていた。じゃんけんで鬼を決めてカンを蹴る。鬼が拾って所定の位置におくまでに隠れる。見つけられたらアウトだが、鬼がカンにタッチするよりも早くカンをければ逃げられる。本気で走るので結構いい運動になる。家の裏でもよくやって遊んだ。5人以上いればこの遊びだ。裏通りだから、道路の真ん中にカンを置いて蹴っていた。昔は裏通りは子供の遊び場だった。
 人数が多いときはドッジボールもよくやった。団塊世代が小学生のころは日が落ちるまで外で遊ぶのが普通だったから、体力はあった。だれもが遊びのときは本気で走ったから基礎体力はいまの子達よりもずっとあっただろう。小学生に体育系のブカツなんぞ必要なかった。近所の子供たちが集まって毎日遊んだ。
 カンケリ、ケンパ、パッチ、けん玉、ビー玉、釘刺し、バドミントン、野球、弁天島まで水泳、釣り、冬はスキー、スケート、自作のソリでソリ滑り、流氷乗り・・・
 花咲小学校のグランドに造られたスケートリンクには放課後になると数百人が滑っていた。なにしろ1学年6クラス360人いたのだから、いまは住宅街となっている裏山もスキーやソリを滑る子供たちでごった返していた。街中(マチナカ)の緑町でも緩い坂で幅5センチ長さ30センチぐらいの竹スキーで遊んだ。踏み固められた雪の歩道はところどころ凍りついていて普通のスキーよりバランスをとるのがずっとむずかしいのである。

 市立根室病院の下側には「古川の池」というのがあった。真ん中に仕切りの柵があった。木の杭に板が貼り付けてあって横に細い丸太が打ちつけてあったから、池の真ん中までいけた。ゲンゴロウやトン魚がたくさんいた。大きなカラス貝も棲息していた。池の横には小川が流れ現在の根室公園やポスフールの下を通り海に注いでいた。
 花咲小学校の校庭脇に「底なし沼」があった、当時の小学生は地球の裏側、ブラジルまで続いていると噂していた。地球の反対側のブラジルにもやはり底なし沼があってそことつながっているというたわいもない話だった。実際にはブラジルとウルグワイの沖合い辺りに位置するのだろうから沼の向こうは海ということになる。こんなことを半ば信じていたのだ。
 この沼には大きなカラス貝がたくさん棲息していたが、だれも獲って食べる人はいなかった。
 オンネットの砂浜は砂の四分の一ぐらいがアサリかと思えるほどたくさんアサリが獲れた。
 
 北洋銀行前の本町の坂を下ると、石造りの突堤が50メートルほど突き出ており、右側にボート小屋があった。弥生町の浜にも経営が別の貸しボートがあった。夏になると二十数隻の貸しボートが湾内を自由に動き回っていた。弁天島まで十数分オールを漕げば誰でも行ける。弁天島の岸辺にはウニがたくさん棲息しており、獲って石で割って食べた。塩水で洗ってじゅるっとオレンジ色の身を口に入れて食べたあの味を知ったらミョウバンで処理したウニなどまずくて食べられない。昔の子供たちはそうして本物の味を覚えた。
 石の突堤のところは浅瀬になっており子供たちの遊び場だった。角の取れた丸い50~100センチくらいいの石をたくさん集めてできていたから、ツブがびっしりついていた。このツブをえさに魚を釣ることもあった。陸側から見てこの石の突堤の左側は埋め立てられており、缶詰工場があった。日本合同缶詰の第1工場と第2工場ではなかっただろうか。この岸壁には秋になると釣り人が2百人ほども並んで釣りをしていた。チカが数千匹も泳いでいる。釣り針は2つあるいは3つつけられ、投げ入れて浮きをみているとぴくんぴくんと動いたかと思うとガクンと沈む、上げるとチカが2匹も3匹も釣れている。2時間もあれば百匹、2百匹と釣れたものだ。
 湾内はいまほど埋め立てられておらず、花咲小学校の下の浜は自然の渚になっていたから、海の浄化作用も大きく、油臭いなんてことはなかった。

 自転車を乗り換えて周辺を十数キロ散策しながら昔の遊びと遊び場を思い出した。気がつけば子供たちの遊び場がほとんど無くなっていることに気がつく。ラムサール条約の春国岱を抱えていながら、街中の子供たちの遊び場がほとんど無くなっているのはどうしたことだろう?
 町の衰退を加速させたのは根室の市政が戦後65年に渡って経済だけを考えて、その時々の有力者たちの個人的利益を中心に恣意的に運営されてきたからではないのか?経済を優先し続けて結果として経済的衰退を招く。なかなかむずかしいもので人間の意図したところとは反対側へ現実が転んでしまう。
 次の世代に残すべきものがあったはずだ。もうすこし考えて市政を運営すべきであった。「底なし沼」も、古川の池も、そして本町から千島町の海岸線もすべて埋め立てられ、いまはない。遊び場を失った子供たちの体力は著しく落ち、同時に学力も著しく低下してしまった。
 「よく学びよく遊べ」は真実だったのだろう、外で遊ぶほうがおろそかになったら学力も低下した。学力もだがコミュニケーション能力の低下は社会人になったときのことを考えると社会生活に必要な能力のひとつが育っていないまま大人になることを意味している。外でみんなと遊ばない子供が増えたから、話しができない、話しを聞いても理解できないコミュニケーション障害を抱える子供が増えている。こうして社会的な適応能力に問題を抱える大人を増やしている。
 子供たちは外でみんなと遊ぶことでいろいろな能力を育てていたのだ。このようにして活力を失った町の衰退は覆うべくもない。
 もうひとつは志や倫理や理性そして自己抑制の問題である。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方善し」は案外難しい。何が難しいかと言うと、時に自分の利益を棄てなければならないか、ぼろ儲けできるチャンスに儲けを適度に抑えなければならないこともあるからだ。
 自分の損得を度外視して視点を変えて町を運営しなければならないが、孤立を恐れずに動くことのできる市議はいるだろうか?
 特定の個人や団体や企業のために市政が恣意的に運営され続けたら根室の町の人口はどんどん小さくなる。問題を先送りし、先のことを考えずに市政を運営すればツケは必ず回ってきて町の活性を奪う。いままでは活力を削がれただけで幸いなことに致命傷にならなかった。近い将来のことは分からぬが、市立病院建て替えをきっかけに危険水域に入ったことは確かだろう。5万人近くいた人口もいまは3万人を割って、十年後には2.5万人となり中標津町と人口が逆転する。
 サイズの小さな町、小さくなった水産資源に見合うように縮小均衡した町、それは案外いいものかもしれぬ。ふるさと根室の現実を見るとサイズが小さくなるのはしかたがないといまは思わざるをえない。この町に自浄作用はいまだにないから市民は現実を受け止めるしかない。誰のせいでもない、この長期の停滞は町の運営に無関心な私たちが創りだしてきたもの。ふるさとの町のこれからの運命を決めるのもここに住む私たちだ。
 次の世代を担うしっかりした子供たちを私は何人か育てておきたい。私塾は楽しい、未来への希望を育むことができるからだろう。


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