#4989 新型コロナワクチンの正体⑧最終回:緊急事態! Jun. 2, 2023 [35.1 COVID-19]
<最終更新情報>6/4午後10時、<余談-1>全面的に編集し直し
6/5午前10時半<合弁会社社長と...>など追記
6/5午後10:43整理と追記
井上正康大阪市立大教授と原口一博衆議院議員の対談「日本人は誰も知らずに死んでいる」YouTubeの8回目の書き起こしです。
原口さんは3回目の新型コロナワクチン接種後に悪性リンパ腫と血栓症を発症して現在治療中です。原口さんがシミアン・ウィルス40(SV40)のDNAがワクチンに混入されているという情報を知り、自分の体の中にもSV40のDNAが組み込まれてしまっているのではないかと危惧を抱いています。近々、SV40の検査をしてもらうと述べています。原口さんは、なぜワクチンにSV40が混入しているのか理由が知りたいので、井上先生に質問を重ねています。
前回の弊ブログ#4988で、ワクチンの製造過程を8段階並べて、それと関連させながら、井上先生が何をおっしゃっているのか、コメントを付けました。わたしの理解では、井上先生は、大腸菌に入れたプラスミドDNAはSA40であると、示唆しているように聞こえます。SA40の染色体DNAではなくて、プラスミドDNAの方ですが、これを使ったとすれば、製造上のメリットが何かあったはずです。大腸菌のプラスミドを使っていればこんな問題はなかったはずですから。井上先生が断言していないのは、ゲノム分析の「プロ中のプロ」の査読審査中の論文がなければ、そのあたりのことを研究者としては軽々に発信できないからではないかと考えました。行間からはそのように読めるのですが、ピント外れでないことを祈ります。
さて、どうなのか、最終回も皆さんと又一緒に考えたいと思います。
--------------------------------------------------------------
<原口:僕もこの病気になってたいへんです。だから、、ちょっというと僕みたいな、そのリンパ腫の人の癌細胞を、僕みたいに調べればいいんじゃないか?>
わたしは先生(原口さん)がね、いま抱えておられる病気で、プラスミドのSV40コーティングの痕跡がなくてほしいなと思っています。
<原口:あったら...(ここで絶句)、来週これでサヨナラッていうか、また我慢できるかなって思うかどっちかですよ>
だから、例えば、今回のワクチンに蛇毒が入っているとか、寄生虫が入っているとか、いろんなフェイクニュースがたくさんあります。そういう意味ではこのプラスミドのSV40がコンタミ(contamination:汚染、不純物)しているというニュースをフェイクニュースとして、ワクチンに反対している人たちの信用を失墜させる迎撃ミサイルでもある可能性があります。そういう可能性も含めて情報発信しようと思います。
<原口:罠かも知れない?>
罠でわたしの信用が失墜することぐらいは(罠でなくて真実だったとしたときの国民の被害の巨大さに比べたら)大したことではありません。
<原口:先生の信用ではなくて、さっきの(ゲノム解析の)プロ中のプロの方の(信用が失墜)...>
ガセネタであってくれたらありがたいです。しかしながら、万が一、これが本当なら、これはもう8割が打っている日本で、しかも子どもにまでどんどん(年齢を)下げているでしょう。これは取り返しのつかないことになるので、これはもう自分の信用が壊れてもやらないといけない緊急事態です。政府は万難を排して、火中の栗を拾うことが、わたしは政権のミッション(至高の使命)だと思います[42:50]。
<原口:そういう意味では僕はたまたま国会議員で、しかもこうやって公表して、バカなのか知らんけど、3回打ったわけですよ。しかもそれが全部ファイザーで、神様の思し召しって云やあ、思し召しだし、(SV40が)入っていなければラッキーだけど、入っていたら、神様が試練を与えてくださったということですね>
そういう意味では、先生(原口さん)はね、先生方が国会議員になられたことに意義が、今以上に意義がある時代はないと思います[43:22]。
<原口:(そう)ですね、そんなためになったわけじゃないんですけど、核廃絶のために(国会議員に)なったんですけど。でも、ほんとうに今日はどうもありがとうございました>
ご無事にサバイバルされることを祈ります。
<原口:それでは皆さんこれで失礼します。皆さんこれ拡散してください。YouTubeだからバン(ban禁止、削除)される可能性が極めて高いけど、ニコニコ動画にもアップしておきたいと思います。(井上正康)先生どうもありがとうございました。>
--------------------------------------------------------------
<ebisuコメント>
ワクチン接種後にリンパ腫になって人は、SV40ウィルス抗原検査あるいは抗体検査を受けたらいいという原口さんの提案は具体的でいいですね。
井上先生、研究者として査読中の論文は取り上げないという方針を貫かれていましたが、今回だけはそれが真であった場合に、あまりに国民への被害が大きいのであえて、踏み込んで発言しています。自分の研究者生命よりも、そうすることに価値があると感じたからです。ありがたいですね、こういう研究者が京大の福島教授(薬害の講座を担当)をはじめとして日本に何人もいます。臨床医の先生たちの中にも、最近増えている白血病や、癌、梅毒、帯状疱疹(ヘルペスウィルス)などの増加に、新型コロナワクチン接種と関係があるのではないかと、疑念を抱く人が増えています。いままでにまったくない病態が起きているので驚き、何が起きつつあるのか不安な気持ちになっているのでしょう。
前回取り上げた、健康な女子中学生が、3度目のワクチン接種の45時間後に死亡。徳島県警が不審に思って、司法解剖を徳島医大へ依頼しました。肺や肝臓などの主要臓器にに炎症があったそうです。急性肺炎と劇症肝炎を同時に起こして死亡した可能性があります。そんな症例なんて解剖を担当したドクターはいままで見たことがなかったのでしょう。医師や国は原因を曖昧にしておかないで、「ワクチン接種のリスクや副反応については、原因を追究して情報を出すべきだ」と、怒りを込めて発信しています。
最後のところで、原口さんは拡散を希望しています。YouTubeはこの手のワクチン接種副作用を取り上げたものが、つぎつぎに消されているようなので、書き起こしておけば、なくならない。とても大事な情報だと感じたので、8回にわたって、書きおこしをアップしました。
わからないところを色々調べましたので、わたしにはとっても勉強になりました。いい材料をくれたFB友のM川さんに感謝申し上げます。
6/5午前10時半<合弁会社社長と...>など追記
6/5午後10:43整理と追記
井上正康大阪市立大教授と原口一博衆議院議員の対談「日本人は誰も知らずに死んでいる」YouTubeの8回目の書き起こしです。
原口さんは3回目の新型コロナワクチン接種後に悪性リンパ腫と血栓症を発症して現在治療中です。原口さんがシミアン・ウィルス40(SV40)のDNAがワクチンに混入されているという情報を知り、自分の体の中にもSV40のDNAが組み込まれてしまっているのではないかと危惧を抱いています。近々、SV40の検査をしてもらうと述べています。原口さんは、なぜワクチンにSV40が混入しているのか理由が知りたいので、井上先生に質問を重ねています。
前回の弊ブログ#4988で、ワクチンの製造過程を8段階並べて、それと関連させながら、井上先生が何をおっしゃっているのか、コメントを付けました。わたしの理解では、井上先生は、大腸菌に入れたプラスミドDNAはSA40であると、示唆しているように聞こえます。SA40の染色体DNAではなくて、プラスミドDNAの方ですが、これを使ったとすれば、製造上のメリットが何かあったはずです。大腸菌のプラスミドを使っていればこんな問題はなかったはずですから。井上先生が断言していないのは、ゲノム分析の「プロ中のプロ」の査読審査中の論文がなければ、そのあたりのことを研究者としては軽々に発信できないからではないかと考えました。行間からはそのように読めるのですが、ピント外れでないことを祈ります。
さて、どうなのか、最終回も皆さんと又一緒に考えたいと思います。
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<原口:僕もこの病気になってたいへんです。だから、、ちょっというと僕みたいな、そのリンパ腫の人の癌細胞を、僕みたいに調べればいいんじゃないか?>
わたしは先生(原口さん)がね、いま抱えておられる病気で、プラスミドのSV40コーティングの痕跡がなくてほしいなと思っています。
<原口:あったら...(ここで絶句)、来週これでサヨナラッていうか、また我慢できるかなって思うかどっちかですよ>
だから、例えば、今回のワクチンに蛇毒が入っているとか、寄生虫が入っているとか、いろんなフェイクニュースがたくさんあります。そういう意味ではこのプラスミドのSV40がコンタミ(contamination:汚染、不純物)しているというニュースをフェイクニュースとして、ワクチンに反対している人たちの信用を失墜させる迎撃ミサイルでもある可能性があります。そういう可能性も含めて情報発信しようと思います。
<原口:罠かも知れない?>
罠でわたしの信用が失墜することぐらいは(罠でなくて真実だったとしたときの国民の被害の巨大さに比べたら)大したことではありません。
<原口:先生の信用ではなくて、さっきの(ゲノム解析の)プロ中のプロの方の(信用が失墜)...>
ガセネタであってくれたらありがたいです。しかしながら、万が一、これが本当なら、これはもう8割が打っている日本で、しかも子どもにまでどんどん(年齢を)下げているでしょう。これは取り返しのつかないことになるので、これはもう自分の信用が壊れてもやらないといけない緊急事態です。政府は万難を排して、火中の栗を拾うことが、わたしは政権のミッション(至高の使命)だと思います[42:50]。
<原口:そういう意味では僕はたまたま国会議員で、しかもこうやって公表して、バカなのか知らんけど、3回打ったわけですよ。しかもそれが全部ファイザーで、神様の思し召しって云やあ、思し召しだし、(SV40が)入っていなければラッキーだけど、入っていたら、神様が試練を与えてくださったということですね>
そういう意味では、先生(原口さん)はね、先生方が国会議員になられたことに意義が、今以上に意義がある時代はないと思います[43:22]。
<原口:(そう)ですね、そんなためになったわけじゃないんですけど、核廃絶のために(国会議員に)なったんですけど。でも、ほんとうに今日はどうもありがとうございました>
ご無事にサバイバルされることを祈ります。
<原口:それでは皆さんこれで失礼します。皆さんこれ拡散してください。YouTubeだからバン(ban禁止、削除)される可能性が極めて高いけど、ニコニコ動画にもアップしておきたいと思います。(井上正康)先生どうもありがとうございました。>
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<ebisuコメント>
ワクチン接種後にリンパ腫になって人は、SV40ウィルス抗原検査あるいは抗体検査を受けたらいいという原口さんの提案は具体的でいいですね。
井上先生、研究者として査読中の論文は取り上げないという方針を貫かれていましたが、今回だけはそれが真であった場合に、あまりに国民への被害が大きいのであえて、踏み込んで発言しています。自分の研究者生命よりも、そうすることに価値があると感じたからです。ありがたいですね、こういう研究者が京大の福島教授(薬害の講座を担当)をはじめとして日本に何人もいます。臨床医の先生たちの中にも、最近増えている白血病や、癌、梅毒、帯状疱疹(ヘルペスウィルス)などの増加に、新型コロナワクチン接種と関係があるのではないかと、疑念を抱く人が増えています。いままでにまったくない病態が起きているので驚き、何が起きつつあるのか不安な気持ちになっているのでしょう。
前回取り上げた、健康な女子中学生が、3度目のワクチン接種の45時間後に死亡。徳島県警が不審に思って、司法解剖を徳島医大へ依頼しました。肺や肝臓などの主要臓器にに炎症があったそうです。急性肺炎と劇症肝炎を同時に起こして死亡した可能性があります。そんな症例なんて解剖を担当したドクターはいままで見たことがなかったのでしょう。医師や国は原因を曖昧にしておかないで、「ワクチン接種のリスクや副反応については、原因を追究して情報を出すべきだ」と、怒りを込めて発信しています。
最後のところで、原口さんは拡散を希望しています。YouTubeはこの手のワクチン接種副作用を取り上げたものが、つぎつぎに消されているようなので、書き起こしておけば、なくならない。とても大事な情報だと感じたので、8回にわたって、書きおこしをアップしました。
わからないところを色々調べましたので、わたしにはとっても勉強になりました。いい材料をくれたFB友のM川さんに感謝申し上げます。
<余談-1:好奇心と縁>
最後に、新型ワクチン副作用への好奇心と縁について書かせてください。
昔、最大手の臨床検査センターで16年間(1984.2~1999.9)仕事していたことがあり、そのときの仕事との関係で好奇心が働きました。従来の治験基準GCPではこのようなワクチンが許可されることはあり得ないことでした。
SRLでの最後の仕事は帝人との臨床治験合弁会社の経営でした。前臨床から臨床試験まで検査とデータ管理を事業の核にしている企業でした。発足当時から合弁会社は、臨床治験検査事業分野では日本でナンバーワンの企業でしたから、世界中の製薬メーカがお客様でした。ファイザー社もその中の一つです。
ファイザーの免疫抑制剤であるシクロスポリンの導入は八王子ラボで検査機器の購入担当と検査試薬の価格交渉、購買在庫管理システムのメンテナンスをしていた時(1987年頃)に導入された検査でした。ちょっと、縁があったのかもしれません。
細胞免疫部でリンパ球の表面マーカー検査をしてました。DECのミニコンで検査サブシステムを開発してリンパ球の表面マーカー検査機械とつなぎました。ミニコンを検査サブシステムに使ったのは初めてのケースでした。HLAのタイピングも細胞性免疫部で検査していましたね、このころから免疫系に興味がありました。ラボの図書室には、欧米の科学雑誌や医学系の学会誌が25種類くらい定期購読されていたので、暇を見つけては読んでいました。だから、仕事のシステム化とは標準化は大好きでした。8時間かかった仕事が3時間で済むようになると、プロジェクト仕事をいくつでも引き受けられるし、図書室で勤務時間中に本を読めました。本社経理部からラボへ異動して4年目には、図書室担当の社員はわたしの隣の席で仕事してました。本はいくらでも買えます。入社して2年間、全社の予算管理の統括業務をしていたので、わたしの後任や経理担当役員に電話一本で、予算増額ができました。わたしが提案して実行した試薬のコストダウンは3年間で50億円を超えていました。だから、お金を使うことも自由でした。恣意的な使い方はしません、その点の信用がありました。あるとき、免疫電気泳動を担当している臨床化学部の人が、二次元電気泳動の機器が出たのだが、予算で認めてもらえなかったとぼやくので、もう一回申請したらいい、検査管理部の担当と本社経理部には話しておくからと伝えました。2000万円ですが、買いましたよ。ウィルス検査課には傾向顕微鏡が十数台ありましたが、ツァイス(350万円)が1/3でした。後はニコン(250万円)とオリンパス(200万円)でした。オリンパスで購入協議書が上がってきたので、ツアィス製品を買ってあげるから書き直してきてと課長に伝えました。そのあと、ラボ見学があって検査課はショールームでもあるので、傾向顕微鏡を使っているウィルス2課だったかな、全部ツァイスにするよ、いまあるのは検査管理部へ行って、欲しい部署に引き取ってもらえばいいと伝えました。全部ツァイスが並ぶと壮観です。学術開発本部へ異動して海外製薬メーカーのラボ見学対応の傍ら、ラボ見学担当者3人が間に合わないときは大学の先生をわたしがツアーにご案内。ツァイス製品が十数台並んでいるのを見て、「ほしいけど買ってもらえない、SRLさん技術が高いから、いい顕微鏡使ってますね」って仰った。検査している人たちもうれしい。本社の方へは、350万でも、法人税と法人住民税が40%くらいだから、利益を上げて税金払うことを考えたら、350万円でも実質210万円だと説明して納得してもらいました。仕事が面白かった。
電子天秤がほとんどの部署で使われていましたが、メーカーがバラバラで、操作がちがいます。部署移動すると電子天秤のマニュアル200頁もあるのを読まなければならない。生産性が悪くなるので、メトラー社の電子天秤に統一しました。ドイツのメーカーで世界ナンバーワン。直接電話を入れて、わたしが購買担当でいる間はメトラーの電子天秤を標準機とするので、価格を下げてもらいたいと希望価格を言って、飲んでもらいました。
本社の人間は、ラボで何が重要なのか知らないのです。モノやコトを見て判断できません。当時でもやっている検査項目は3000以上でしたから、いまでは4000を超えているでしょうね。それらを機器と検査方法のおおよそを知るだけでも、八王子ラボにいても、知っている人は数人でしょう。まして、年に一回ラボに来るか来ないかの本社管理部門の人間がそんなことを知っているはずがありません。会社の商品群を知らないというのは恥ずかしいことなのですがね。はじめっから無理だと思い込んでいます。システムと、理化学機器と、臨床検査と、医学の専門知識が必要ですからなかなかたいへんなことは事実です。機会を自ら作って一生懸命に学んで10年以上かかると思います。文系理系の別は関係がありません、仕事ですから。
<ルーチン検査部門での商品開発がSRLの技術力の高さを支えていた>
ルーチン検査部門で新規検査の導入検討をたくさんやることが、商品開発力をアップする大事な要素なのです。研究部や特殊検査部の商品開発力はたかが知れています。二つ返事で、そういうルーチン検査担当の人たちの希望を聞いて、実際に調整がやれるバックグラウンドを持っていました。前にも後にも、もちろん、わたしだけでした。産業用エレクトロニクス輸入商社での学びは、SRLに転職してから絶大な威力を持ちました。ラボの、係長や課長とのコミュニケーションがスムースにいって、人的なネットワークが急激に広がりました。知らない部門はない、どの検査部、検査課にも仕事で要件があるときは直接入っていけるのは特権でした。ラボに居て、検査を担当していても、他の検査課には立ち入れません。
好奇心の強い社員には好い会社でしたね。
<帝人とSRLの合弁会社の経営を担当することになった経緯>
帝人とSRLの臨床治験の合弁会社の経営を担当したのは1996年11月-99年9月でした。SRLのKon社長の指示事項は明確でした。次の四項目を3年でやることでした。これも好奇心、面白そうでしたので、暗礁に乗り上げているプロジェクトに初参加するために、本社のあるフロアに降りたところで、Konさんと出くわしました。そこで3分ほどの立ち話で指示事項を聞いたのです。(笑)
指示事項は
①合弁会社を新聞発表の期限までに立ち上げること
②赤字部門の合弁事業だったので赤字を解消すること
③帝人の臨床検査子会社を吸収合併すること
④帝人から合弁会社の株式を引き取り、資本提携を解消して100%子会社化すること
⑤これら4つの課題を3年でやり遂げること
経営の全権を委任してもらわないと不可能な仕事なので、その旨伝え、その場で了解してもらいました。大事なことは最初に明確にしておくのがいい。
<帝人の臨床検査子会社を買収しようと考えたの1988年>
思い出しました。1988年に英国企業のIRSが開発した染色体画像解析装置を3台導入したことがあります。ニコンの子会社のニレコとマジスキャンを使って染色体画像解析装置を共同開発していましたが、1検体の処理に1時間でしたので、目標値の8には届きそうもなく、中止を検査管理部に通告しました。その直後に染色体検査課長Isiさんが虎の門病院にIRSの染色体画像解析装置が導入されたという情報をキャッチ、検査管理部のOgaさんと染色体検査課のIsiさんとYokさんの4人でサンプルをもっていって調べさせてもらったら、目標値を軽々クリア。輸入元へ2台買うので、もう1台をバックアップ用にラボに設置するように交渉、その代わり、N電子輸入販売の営業マンSasさんにBMLへ売りに行って「SRLさんで開発中のものを取りやめて、スペックを確認してから購入してもらった」そう話していい「必要なら見学もさせてやる、値引き交渉には一切応じるな」、こちらのシナリオ通りに運びました。「お礼がしたくて、セントアンドリュースでゴルフ接待の社内承認が得られたので、行きましょう」って誘われましたが、もちろん断りました。がっかりしてましたね、Sasさんゴルフが大好きだったのです。IRSはエジンバラにありました。そのときに、帝人羽村ラボと仙台の臨床検査センターから引き合いがあったと言ってたのです。ああ、経営が苦しくて、売上拡大をしたいために、染色体画像解析装置を導入するんだなと、ピンときました。ラーメン屋が売上が不振なので寿司をメニューに入れるようなもので、経営は悪化することになります。染色体画像解析の分野はSRLのシェアーが80%でしたから、他のラボがいくら力を入れても売上が確保できないことを知っていました。いずれ、時が来たら、買収してみようとそのときに思ったのです。5年後に、東北の検査センターから経営分析の要請が来て、わたしが担当しました。帝人の臨床検査子会社は8年後でした。運命ですね、どちらもわたしが担当することになっていました。
<東北のCC社資本提携の経緯>
19e78年に産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で仕事していた時に、経営改善のために開発した経営分析モデル、5ディメンション、25ゲージのレーダーチャートと業績の総合偏差値評価システムへデータを入れて経営分析をしてました。予算管理もこのレーダチャートそして総合偏差値と連動していました。計画未達の部分が何なのか、5分野25本のレーダチャートに分けて追跡調査が可能です。
売上推計は5年のデータからの線形回帰に、財務分析の結果で味付け。1988年に予想した通りの経営状況だったので、先方の社長との交渉はスムーズにやれました。Tka社長は推計値がほとんど一緒なのでどうやったのかと、質問しました。経験智でみたらだいたいわかりますと告げたら、営業所別に5年間のデータでEXCELで線形回帰してました。わたしの画面を見せながら、「最小二乗法で...」「ああ、わかります、線形回帰したのですね」と告げたら、「え!」という表情してました。わたしはEXCELなんてものが世の中に現れる前から、1978年から、HP67とHP97を使って、経営分析のために線形回帰分析を多用してました。経理マンでそんなことがやれるのは当時はほとんどいなかったでしょう。
そのあと、本社内のシステム部門を見せてくれるというので案内されたときに、開発中のパソコンのマルチコントローラーがあって、「ひっくり返してみていいですか?」と了解をとって、ボードをひっくり返したらプリント基板でした。「マッピングしてない、プリント基板ということは、これ商品開発ですね」と言ったらぎょっとした顔してました。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マイクロ波計測器のマルチコントローラを開発してましたので、担当しているエンジニアのNonさんと仲が良かったので、息抜きにそばにいって雑談しながら観察してました。プロトタイプの段階から量産まで原価計算もしてました。最初はマッピング(電線で回路をハンダ付け)でプロトタイプを2回つくり、そのあと量産するためにプリント基板に変えます。金型つくるのに200万円くらいかかるんです。だから、ボードの裏側を見させてもらって確認したかったのです。マルチコントローラーを100以上製造するつもりがあるから金型を作ってプリント基板にします。社長室に戻って、理由を話して開発中止を勧告しました。ラボの基幹システム開発用だということは、その場でわかりました。アッセンブラでの開発は技術が古すぎ、メンテができません。使っているパソコンも沖電気の低スペックのもので画面に罫線も引けません。SRL千葉ラボ(SMS)でこの東北の会社の基幹システムを導入していたのを、生産性が悪いのでIBMのAS400(とう1台別のマシン何だったかな)を導入して新システムを開発、生産性を2-3倍にしたのはその前年1992年のことでした。子会社の開発案件ですので、親会社の稟議書は関係会社管理部でわたしが起案していました。パソコンのマルチコントローラーというは発想はいいのですが、そんなものを使わなくてもAS400の方がずっと使い勝手がよかった。Tak社長は「できのよいパソコン小僧」でした。パソコンを中心にしてしか考えられない。汎用大型機やミニコンや汎用小型機の世界を知りませんでした。半端な知識で臨床検査会社の基幹システムや検査システム開発は無理なのです。その程度の知識と経験では、商品化できるほどのレベルのパッケージは開発できません。東北では一番システムのことを理解していた臨床検査会社の社長であったことは事実でした。狭い世界で自惚れが出てしまっていました。社長ですから、だれも止められません。彼の前に異星人が現れたようなものでしたね。焦ってましたが、素直に言うことを聞いてくれました。あの決断は社長として本物だと思いました。事業化できない商品開発だと、わたしの短い説明で了解したのです。
大事なのは、腹の中に「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」をしっかり叩き込んで交渉に当たることでした。ただの経理屋だと思って(笑)社長室で話していましたが、戻ってきて再度話し始めたときには、得体のしれないとんでもない奴が来たという表情と言葉になっていました。合併を繰り返しても社長であり続けたのですから、海千山千の人物でしたが、少年のような心ももっていました。素直だったんです。彼の周りにシステム関係でいいブレインがいたら、判断が違っていたでしょう。東北では市場が小さくて、会社の規模も小さいので無理でしたね。首都圏に出てくる選択肢があったはずです。戦力をチェックした結果やれなかったのでしょうね。システム部門が脆弱でした。12年くらい時代遅れで、技術力の高い人材を投入しなければ、商品開発は不可能。赤字が続いていましたから、そんな余裕はありません。本業の臨床検査業にもっと真剣に取り組むべきでした。生産性を上げて、高収益にする道があったはずでした。あたらパソコンに詳しいために、趣味と仕事が一緒くたになってしまっていました。とっても面白い人物でした。親会社の了解があれば、このまま転籍してもいいかなと思ってました。福島県郡山市、第二の古里にしたいくらい、いいところでした。
同じ建物内の営業所に血球計算機がありました。コールターでした。性能はいいのですがシェアーが低いのでメンテナンスに問題があります。疑問に思ったので質問しました。「なぜコールターなんですか?メンテナンスに問題がありませんか?東亜医用電子のものの方がいいのでは?」ときいたら、彼の趣味でしたね。臨床検査技師ですから、血球計算機のことはよくご存じです、性能がいい方がいい、そんな判断でした。経営判断の基準を垣間見た思いがしました。趣味と仕事がわけられません。趣味の分野が重なると、シビアな経営判断ができなくなります。ご本人はそのことに気づいていません。首都圏で起業していたらきっと違った展開になっていた、惜しい人材だと思いました。
財務諸表を整理してみたら検査試薬のコスト低かったので、「試薬の仕入については何か特別なルートをお持ちですね?」と尋ねました。一般検査会社の検査試薬代は特殊検査会社の半分以下の比率にはなるのですが、それを割り引いても低かった。SRLの子会社で一般検査ラボが3つあったので、1992年に分析して試薬原価比率を知っていました。その会社の会長Kanさんの息子が業界3本指に入る福神という問屋に勤務していて、彼を通じて仕入れていましたから、特別価格でした。数字を見ただけで経理屋にどうしてそんなことがわかるんだと不、そのときも思議そうな顔してました。赤字続きでつぶれかかっているけど、この会社と社員のみなさん、何とかしてやりたいなとこちらも素直に思ったのです。
<SRLへ入社当初の仕事:検査試薬のコストカット50億円>
SRLへ1984年2月1に入社しました。予算編成・管理もわたしの仕事だったので、大きい費目からカットできるものを選択して、目標値を設定しました。複写費が1億円を超えていたので、ゼロックスに統一、ゼロックス本社とコンタクトして、3割カットで一括取引を提案、これは総務課のMur係長が引き受けてくれました。試薬コストが高いので、20%カットを提案して、総務部購買課長が無理だというので、専務のYagさんが「プロジェクトをつくるから、お前がやれ」、Yagさんは富士銀行からの出向役員でした。海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格し、陸士へ。戦後は東大へ入り直して学歴を書き替え、お利巧な方でした。しかし、臨床検査会社の経営はさっぱりわからないので、丸ごと社員へ投げてお任せだったんです。購買課長はそれまで薬品問屋相手に交渉していました。マージンが20%くらいしかないから、なるほど無理です。取引金額が大きいので製薬メーカ直接交渉へ切り換えました。取引額が大きいので向こうは役員が来ます。こちらも管理系の常務に同席してもらいますが、交渉は当時平社員のわたし。購買課長と手分けして仕事しました。年間80億円くらい買っていましたので、予定通り20%カットしました。Yag専務味を占めて、翌年もまたやれと言われて、(上場準備用の経営情報システム開発が1年間で終わったので)、1か月間のプロジェクト終了と同時に八王子ラボ購買課へ異動してます。3年間の交渉でで50億円以上、コストカットしてます。取引していた薬品問屋にはメーカー側で今まで通りの利益率を保証するように念押しして、その通りになっているのか薬品問屋の営業に確認させてました。
富士レビオの元経理部長Togさんが常勤監査役でSRLに来ていましたが、久しぶりにラボのバスで出くわして、「ebisuさんいまどこにいるの?」「購買課です」「そうか、購買部長か」「いえ、平社員です」って言ったら、絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、上場準備で会計システム回りを要件を満たすものに作り替えるのがたいへんな仕事だと知ってました。ましてや、臨床検査業では初の東証2部上場でしたから、他に例がない。わたしが8か月でそれを完璧にやり遂げたのを見ていました。そして試薬のコストカットをやったことも。だから、驚いていたんです。じつは入社して1年後に、上場準備で採用された10人ほどの社員の中でわたしが一番早く課長に推薦されました。しかし仕事の内容を知らない人事部が蹴ったのです。上場準備要員としては一番最後の入社だったので、早すぎるという奇妙な理由でした。
<取締役学術開発本部長のスカウト>
たまたま通りかかったIsig取締役学術開発本部長にスカウトされて2年半仕事した購買課から1989年12月に異動し、製薬メーカとの検査試薬の共同開発や沖縄米軍向け出生前診断検査の新規導入のためのシステム開発、慶応大学病院との産学共同研究のプロジェクトマネジャー、海外製薬メーカーからのラボ見学要請があればわたしがツアーガイドしていました。
暇だったので、仕事時間中にチョムスキーの『Knowledge of Language』を読んでいました。たまたまIsigさんが席の横を通りかかって、「何読んでいるんだ?」といって本を手に取ってみました。「ふーん」と言って、それから数分後に内線電話が鳴り、「俺のところで仕事しないか?」、辞令は翌日だったかな、強引でしたね。人事に強い人でした。すぐに課長職にしてくれました。周りとバランスが取れませんから。もう2年いたら、副本部長に据えるつもりだったかもしれません、そういう使い方でした。Isigさん、半年ぐらいしてから、「数年後にはお前に使われているかもしれないな」って言いましたね。いえね、廊下を歩いているときに背筋をピンと伸ばしてゆっくりですから偉そうだったからでしょう。マネジメントの仕方を隣の席でよく見てました。すぐに開発部のメーカとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを使って標準化しました。それまで、みなさんばらばら、何がどこまで進んでいるのか会議で報告してもらっても、判然としません。PERTチャートで標準化してしまえば、「いまこのチャートのどこ?」って質問したらいいのです。Ishigさん、喜んでました。
<日本標準・臨床検査項目コードの制定と産学協同プロジェクト>
ああ、1986年に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いたのですが、予備調査で創業社長の藤田さんにOKをもらいました。とりあえず200億円の予算。総合企画室で引き取ったのですが、及び腰で「モニターするだけ」。システム開発部のKri課長が、BMLが新ラボを建設するので、検査項目コードの業界標準を作りたいと、大手六社に呼びかけている、というので、2回目の会議に同行しました。検査業界だけでは病院に使ってもらえないので、臨床病理学会の項目コード検討委員会と産学共同プロジェクトにしようと発言し、次の会議の時に検討委員会の委員長の櫻林郁之助教授(自治医大・SRL顧問)を連れてくることにしました。櫻林先生からは、個人的に手伝ってくれと言われていたので、ちょうどいい機会だと思いました。臨床科学部の免疫電気泳動の研究者だったので、臨床化学部長のKaw部長に先生へ連絡を入れてもらいました。それで、毎月1回大手六社持ち回りで作業をしました。システム部門が自社のコードと検査項目にリストを持ち寄り、学術部門から人を出すということになりました。わたしは3回くらい出席したかな。Kaw部長はそのご学術情報部長になっています。わたしと同じ学術開発本部で仕事してました。彼女に誘われて1991年にもう一回だけ参加してます。その年に、臨床検査項目コードの日本標準がこの産学共同プロジェクトで完成し、臨床病理学会から公表されて、全国の病院のシステムで使われています。コード管理事務局はSRLがやっています。
日本の病院やクリニックは、検査項目コードに関しては同じものを使用しています。例外はありません。2年に一回、保険点数が改定されるので、SRLのコード管理事務局があたらしいリストをネットにアップして、一斉に全国の病院システムがデータをとりに来て、更新しています。
「臨床診断システム開発と事業化案」は10個のプロジェクトに分解して、PERTチャートを作成していました。その中の一つが、臨床検査項目コードの標準化プロジェクトでした。いまだに世界中で日本だけでしょう。世界標準ができるとすれば、日本の標準コードがベースになります。
NTTデータ通信事業部と3回ほどミーティングしましたが、画像データも扱うので、コンピュータの速度と通信速度が要求仕様を満たすには30年以上かかるというので、断念してます。カルテの標準化プロジェクトも含まれていました。SRLのシステム部長、あのときに、日本標準コードを作ることに反対でした。その下で仕事していたKur課長が「いいほっとこう」と一緒に動いてくれました。SRLって面白い会社でしたね。わたしはその会議に初めて出たときには、購買課の平社員でした。各社のメンバーと名刺交換してます。だれも「なぜ購買課の人が来てるの?」なんて言いませんでした。産学協同プロジェクトにして、日本標準コードを作るんだという提案に素直に従ってくれました。BMLのシステム部長さんの呼びかけでスタートしたんです。なかなか大胆な人でしたね、そして直。肩書でみてません、提案の中身で判断してくれてました。彼はすぐに取締役になっています。大手六社の全面バックアップによる産学協同プロジェクトのお膳立てができたので櫻林先生喜んでました。
こういうインフラ整備が大事なのです。厚労省にはできない仕事でした。
<関係会社管理部への異動と仕事の内容>
そして15か月後の91年4月に、できたばかりの関係会社管理部へ異動、子会社・関係会社の経営分析と業績評価を25ゲージのレーダーチャートを利用した総合偏差値で行っています。外部企業の経営相談も受けてました。営業が要請を受けてきたいくつかのラボの経営分析、3年間ほどの損益シミュレーションと買収交渉が仕事になりました。93年3月に東北の臨床検査会社を訪問したときに、経営改善を目的にした経営分析の説明と資本提携交渉に来ているわたしに、社長のTakさんはそんなバックグラウンドがあるなんて想像もしてません。わたしをただの経理屋だと思ってましたからわけが分からなくなっていました。
1億円の出資交渉をまとめ、6/1に出向してひと月ぐらいして、一緒にお酒を飲んだ時に、「底が見えない」とTakさん正直に言いましたね。SRLとの交渉事は全部私の役割でした。金沢のラボの買収交渉と時期が重なったのですが、創業社長の藤田さんから好きな方を選べと言われて、仕事がむずかしい東北の会社を選択しました。藤田さんから直接指示を受けて動いていたました。特命案件だったのです。Takさん、システムに関しては臨床検査センターでは自分が一番だと勘違いしていました。一緒に営業系の部長Kimが常務取締役で出向していますが、Takさん、「お前の会社どうなっているんだ、職位が逆だ」そう言ってました。(笑)
創業社長の藤田さんと3年の約束で役員出向、その期間のうちに黒字にしろとだけ指示を受けました。実際には15か月で実行可能な黒字化案、売上高経常利益率20%の経営改革案をつくって、その説明に藤田さんに文書で報告してから、SRL本社に呼ばれて、社長と副社長Yagさんの二人へ最終確認、その途端に実行中止、出向解除でした。藤田さんの本音が読めていなかったわたしがバカでしたね。(笑)
<CC社黒字化案:大株主とSRL子会社化の調整>
子会社のSML(千葉ラボ)実際に生産性アップを目的とした基幹システム開発で、生産性を2倍にアップして黒字転換したのを2年前に見たはずなのに、東北の臨床検査子会社を黒字にできっこないと思っていたのです。同じ方法では面白くないので、まったく別な方向から具体案をつくりました。ターゲットは染色体検査でした。八王子ラボの生産力への人的制限を解消できる案でした。コストの調査もしました、東北のラボの方が安くて生産性が高い。SRLグループ全体で、染色体検査の処理能力を1.5倍にするつもりでした。使用している染色体画像解析装置は同じものでした。リンパ球の培養液の濃度だけが違っていました。両方の会社に大きな利益が出るように調整が済んでいました。SRLの染色体課長Isiさんにも資料を送って確認してました。この計画を実行に移すと売上高経常利益率が15-20%になります。SRLが一番いい時で12%でした。それを上回る。こういうシミュレーションは間違わないのです。子会社の千葉ラボのSMAの稟議書を起案したときにも損益シミュレーションを添付してありました。それよりも実際の利益は多かった。だからわたしが経営改革案をデザインして損益シミュレーションしたら、そこにかかれてある利益は最低保証なのです。株式の過半数を譲渡して子会社化に東北の会社のTakさんはOKだしてました。大株主との調整にはわたしも呼ばれてやりました。ことの経緯は全部文書で報告していましたし、大きいことは電話でも了解をとっていました。わたしは、SRLへ入社した時から、発信文書には管理番号(所属部署記号と連番)と発信日を明記していたので、一連の書類はすぐにピックアップできるようになっていました。SRL勤務の16年間で8cmのファイルが8冊あります。全部自分の発信文書です。企業小説を書くつもりで、その材料にと考えてました。ファイルの9割は昨年11月の引っ越しのときに処分したので、小説は書きませんけど(笑)
そこまでまとめたのに、実行許可の打ち合わせのはずが、藤田さんからストップ指示が出て、数日で出向解除辞令が出されました。
素早い対応でした。藤田さんと副社長のYagさん、慌てたのでしょうね。わたしが職を辞して、東北の会社に転職するかもしれないと危ぶんだようです。基幹システムをつくり替えるだけで、生産性を2倍にしてSRLの支援がなくても黒字化は簡単でしたから。東北の会社のTak社長の信頼が厚かったので、心配されてもしょうがない状況でした。でも、わたしに転職するつもりはまったくありませんでした。東北に反SRLで強力な会社ができたら、SRLは戦略上、ちょっと厄介なことになります。生産性の高いラボで首都圏に進出されたら、SRL東京ラボの売上にも影響しかねません。
<SRL本社管理部門へ異動、子会社への転出、有能な若手の退職>
それで、管理会計課長と社長室、購買部の兼務辞令が発令されました。わたしにとっては、眠っててもできる、魅力のない仕事でした。人を育てることが仕事でした。3人ほどシステム屋になれそうな有望な若い経理マンがいました。半年ほどで本社勤務に嫌気がさして、子会社へ出向調整を強引にやりました。購買部の方はシステムの更新時期が来ていたので、それまで富士通の汎用大型機を使っていたのを、クライアントサーバーシステムに置き換える仕様書をかいて渡してありました。他の人には数人で1年かかる仕事でも、わたしにとっては1週間ほどの仕事です。最初の購買在庫管理システムは三人の担当者がシステムの専門知識がないので、外部設計の半分はわたしが手伝っていました。だから、簡単でした。NCDの宇田さんに渡せばあとは彼がどうにでもしてくれます。8年間ほどメンテナンスをしていて、スキルを飛躍的に挙げていました。SRLのシステム部は経営情報系のシステム構築にまったくタッチしたことがありません。Kon社長、わたしが半年購買部を兼務していた間に仕事を一週間で終わらせていたなんてご存じなかったでしょう。システム部長のSimさんは、本社ビルで何かのパーティがあったときに、そばに来て、「あの時は大変失礼しました、何も知らなかったものですから」とシステム部員の非礼を詫びていました。購買の機器担当そして学術開発本部スタッフでラボ見学のご案内にするときに、少し話しただけでしたから、わたしのバックグラウンドを知ったからでしょう。
沖縄米軍からの依頼で、出生前診断検査導入要請が1989年にありました。学術営業の佐藤君の担当でしたが、システム部へ相談したら、基幹システムでは対応が不可能という返事でした。学術開発本部でニューヨークから資料を取り寄せた東さん(お姉さんの方)が、取り寄せた論文を向かいのわたしの机にポンと投げてよこして、「章夫を助けてあげて、あなたならできるでしょ」って言いました。異動して2か月目くらいだった。英文資料を読んだらシステム部が断って理由がすぐにわかりました。人種、体重、妊娠週令などが基幹検査受付システムには入力できないのです。それで、沖縄営業所で必要事項を入力させて、八王子ラボから検査結果のファイルを送信してもらい、ファイルの結行処理をして検査報告書を沖縄営業所でプリントアウトできるように、システム仕様書を書いて、システム部へC言語の扱えるプログラマーを一人一か月間貸してもらうように調整しました。プログラム仕様書をC言語のプログラマーの上野君へ渡してプログラミングしてもらいました。それで、学術開発本部長とわたしと、学術営業の佐藤君、システム部の上野君の4人で、沖縄米軍司令官に説明に行きました。大歓迎でしたね。女性兵士が妊娠すると、法律で出生前診断検査を受けなければならない法律がありました。それまで違法状態でした。大変喜んで、三沢基地の司令官に検査はSRLに出すように命令。BMLさん突然取引がキャンセルになって驚いたでしょう。システム部が不可能と断った仕事を、わたしの方でデザインして1週間で仕様書を書き、沖縄営業所と調整して、システムの完成まで1か月でした。そんなことも、システム部長のSimさん、後で知ったでしょう。購買部へ派遣されていた、システム部員とっても無礼でした。富士通が書いてきた仕様書を一瞥して、お話にならないので、クライアントサーバーシステムに作り替える仕様書を渡したのです。数か月間かかって富士通につくらせた仕様書、没にしました。富士通最大の汎用大型機を基幹システムで使っていたので、それを使う構想でした。いま動いている購買在庫管理システムについてはまったく知識がなかった。突然購買部兼務課長になった私を素人だと勘違いしてました。憮然とした表情で、口を利かなくなりましたから。
システム技術を伝授できそうな頭脳の柔軟な管理会計課の若手3人の内、わたしが子会社へ出ていなくなったら、2人が会社を辞めてます。システムスキルのある管理職がいません。コンピュータで会計処理していない企業はないのに、管理職でシステム知識のある人材が1994年に私が経理部へ復帰するまでいませんでした。業界初の経営統合システムを開発して保有していましたが、あれはわたしがデザインし外部設計書を書いたものでした。経理部の人事は十数年間腐ってました。Kon社長はそのあたりの事情もご存じなかった。経理部に所属したことのある社員たちはみなさんよく知っていましたよ。そういう情報源へKonさんはアクセスできません。仕方のないことですが、ある意味裸の王様だった。わかっていたとしても、人材不足で困っただけでしょうね。職位で選べば悩まずにすみましたが、そのせいであきれ果てた有能な社員が次々に退職することになるのは防ぎようがありません。結局は、SRLの体力を大きくそいでしまいました。やめた一人は、エイベックスの国際経理課長に、もう一人はベンチャー企業への転職で、40歳くらいで経理担当役員になってました。有能な社員は少なくなかった。その多くが人事のいい加減さを自分の目で見てさっさと見切りをつけたのです。
<企業価値の評価は専門スキルが必要>
帝人の臨床検査子会社(羽村ラボ)は1996年に、Konさんが社長に就任して初めての大型案件がスタートから暗礁に乗り上げて、四条件での担当命令、経営状態が過去10年間は悪いのは1988年にわかっていたので、帝人本社が困り抜いているだろうから、四条件すべてを飲んでもらうのは、こちらの交渉の仕方と合弁会社経営の仕方次第だと、判断したのです。だから、即決で、「経営の全権を委任してくれたら引き受けます」、「わかった」それだけでしたね。最初から絶対やれるという自信があったのです。帝人本社の役員の心理を読み切っていました。合弁解消、資本引き取り、帝人羽村ラボの買収交渉したときに、買収価格が問題になりましたが、経営分析モデルで買収価格を算出し、それを理由に帝人本社に安い価格を提示し、これが国際基準だと説明して飲んでもらいました。帝人は事業が商社化していたので、そういう説明が社内に通りやすいのです。どうやって計算したらいいのか帝人側には専門知識がありませんでしたが、説明したら理解する能力はありました。SRLの関連事業部がでてきて勝手に事を勧めようとしたので、ストップをかけてます。評価の仕方に関する専門知識がないのに仕事しようとするのが一番危ない。
米国の出生前診断会社の買収交渉のときにベルトハイムシュローダーの専門家がはじいた企業価値とほど同じ評価額だったので、検証済みでした。帝人のIsi常務、合弁会社は決って経営がうまくいかない、いままで帝人側で引き取ってきたが、合弁相手に資本引き取りを提案されたのは初めてだと、笑ってこちらの提案を飲んでもらいました。安井さんが社長になって、赤字の臨床検査子会社の再建は、Mat専務とIsi常務の担当だった、お二人の立場は危うかったのです。帝人臨床検査子会社が売却ができて、彼らはホッとしてました。1988年に経営状況と帝人本社の意図を読んだ通りでした。わたしにとっては1988年、帝人が染色体がぞ解析装置をっ購入したという情報をつかんだ時が、帝人臨床検査子会社買収のスタートでしたから11年間の仕事でした。運命が巡ってくるまで他の仕事を次々にこなして8年間待ちました。
<人材不足が引き起こして緊急事態、そして非常手段>
話を元へ戻します。帝人の臨床検査子会社とSRLのメンバーの合弁会社立ち上げプロジェクトに、1996年11月に初参加して、すぐに呼ばれたわけがわかりました。1月立ち上げなのに、11月になっても販売会計システムは発生基準で売上計上することだけ決まっていただけでした。システムについては手もついていません(外部設計書を数日で書き上げて、帝人の臨床検査子会社へ渡してます)、本社をく置場所が狭すぎて、分離ラボはすぐ近くに確保しなくっちゃいけないし、持ち込む治験関係のデータファイルの量が申告よりもずっと多いらしいことが帝人側の臨床検査子会社から伝わってきて、再調査をこちら側でする必要が出てきていました。帝人側の保管資料の量がSRLに比べて異常に少ないので、こちらの人間立会いの下に保管資料の再確認をしたら、2倍のスペースが必要なことが判明、仕切り直したら間に合いません。常務で出向するOkaさんもわたしの指示で動いてもらうという変則体制でスタートでした。一緒によくやってくれました。いい相棒でしたね。
誰かの下で調整しながらやるのではできっこありません。方法は任せてもらいました。3年で四つの課題がクリアする具体的な戦略計画をだれも描くことができませんし、ましてやそれを3年でやれなんて無茶な話です。Konさんは仕事の権限と職位と責任の関係をご存じだったはずですが、他に駒がなかった、わたしの起用は非常手段でした。社長になってはじめての上場企業との大型案件でしたから、失敗するわけにいかなかったのだろうと思います。医師であるKonさんには社内の人材の能力に関する情報へアクセスのできるネットワークがありませんでした。そしてマネジメントのプロが側近として必要でした。社長室にはいませんでしたね。プライドだけ高くて、全員に専門能力ナシ。総合企画室が社長室の前身ですが、中身はちっとも変わりませんでした。臨床検査会社なのに、世界一の自動化ラボである、八王子ラボを見に来たことさえない。だから、本社と八王子ラボは対立していました。「本社はラボのことわかっていない」「ラボは本社の都合を理解していない」、ようするに相互不信が続いていました。
<合弁会社社長と経営政策でしばしば衝突>
帝人本社から臨床検査子会社へ部長職のHorさんが社長職で派遣されていました。一ツ橋大出身、本社エリートの本流にいる人でした。合弁会社も兼務で社長職をやってもらいました。赤字会社を黒字化するには経費を削ればいいと考えていました。「売上-費用=利益」って、大学の簿記の講義でならったのでしょうから、染色体画像解析装置を入れても売上がほとんど増えなかった、前臨床(動物試験)ラボを作ってもほとんど売上が増えません。だから、費用を削るしかない、そう思い込んでいました。信じられないでしょう?でも実際そうでした。扱い兼ねました。経営判断に関しては、SRL社長のKonさんから、全権委任を受けているので、社長がHorさんであっても、合弁会社の重要な経営政策については、わたしと相談、合意が必要ですとはっきり申し上げてありました。役員でもありません、ただの管理担当部長職がです。
羽村のラボと日本橋の合弁会社本社を行ったり来たり、激務だったでしょう。
合弁会社の方も経費を削ることばかり考えます。治験資料の保管で帝人側の申告に大きな誤差があったので、急遽ビルのオーナと話をして、地下のスペースを借りることに決めました。検体のハンドリングは「(検体)分離ラボ」扱いですから、同じスペースでは規制を通りませんので、隣のビルの一室を借りました。離れていたら仕事に支障が出ます。全部賃貸料が発生します。無理やりそれでスタートしましたが、仕事を見ていると製薬メーカーから問い合わせがあるたびに地下へ行って資料探しをしています。同じフロアに資料が保管していないと業務効率が著しく落ちます。それで、立川へデータ管理チームを移しました。同じフロアに移動式の書架を設置しました。わたしも日本橋から立川へ移ってそちらで仕事。業務打ち合わせの会議を頻繁にしますので会議室を用意して、大きなテーブルを設置してます。最初から、広いスペースを確保していれば、こんな無駄なことは必要ありませんでした。保管資料の分量調査がでたらめだったこと、分離ラボが必要であることを知らなかったことなど、事業内容の無理解が表面化してました。
日本橋本社へは週に1度いって仕事をしてました。Horさんからクレームが出ました。日本橋に居てもらわないと仕事にならないというのです。営業担当常務のOkaさんが日本橋常駐ですから彼に仕切ってもらえばいいと伝えましたが、困るというのです。
パッケージシステムを開発するときにも、5000万円の投資に反対でした。「では、Watさんから提案のあった古いシステムの更新に8000万円かけますか?」と尋ねると、「それはこまる」との返事。具体案が出てきません。
とにかく経費を削って黒字化するというのです。帝人本社を説得できないからですが、そちらはIsi常務にわたしの方で説明してありますから、取締役会で報告するだけでいいようになっていました。
大阪営業所が帝人の建物の中に間借りしていました。資料の保管スペースが狭いという報告を受けていたので、現地調査をしました。なるほど業務に支障がありましたので、その場で帝人とスペース拡張交渉をしました。当然、賃借料が増えます。Horさん、反対でした。それでは業務が回りません。データ管理事業を軌道に乗せれば、賃借料の増加分は軽くおつりが来ます。そういう発想ができませんでした。マネジメントに向かない方でした。
パッケージ開発が済んで、それを売り込むまでは赤字が続くので、1年間は運転資金が足りなくなります。帝人は三和銀行本店がメインバンク、SRLは富士銀新宿西口本店でした。新宿西口支店は重要支店ですから支店長は富士銀行取締役です。決算報告を両方にしています。2度目の報告に行ったときに、対応した三和本店営業部長は、「前にいただいた損益シミュレーションよりも結果がいい、ebisuさん、今期もシミュレーションよりもいい結果出すでしょう、資金融資いくらでもします、親会社の保証は要りません」「え、いくらでもといっても、限度があるでしょう?あなたの決裁権限範囲内だといくらまででしょうか?」「そうですね、10億円までならわたしの権限で貸付できます、それ以上は上の決済が必要ですが、大丈夫です」と言っていただきました。これで、運転資金の枯渇の心配がなくなりました。黒字化すれば、資金に余裕が出ます。それまであと1年でした。せっかくですから、金利の安いインパクトローンで1億円借入しました。通常の金利は2-3%でしたが、赤字会社なのでインパクトローンを利用することで金利を安くしてもらいました。1%でした。輸入商社にいたので、インパクトローンなんて借入のしかたを知っていました。いい経験になるので経理業務を任せていたSakさんに電話をかけてやってもらいました。借入前に、取締役会へ報告はしました。SRLのKon社長へは毎月業務報告書を文書でやってましたから、帝人本社のIsi常務が出席する取締役会で報告すればいいだけでした。堀本さんはそういう実務を知らないので、報告のみ。資金手当てに関してはわたしにお任せでした。SRL関連事業部からは事前に取締役会で協議していない、勝手にやっているとクレームがありましたが、SRLにそういう規程はあっても合弁会社にはありません。小さな会社にそんな規程をつくることに精力を割いている暇なんてありません。黒字化してからでいいというのがわたしの判断。子会社に親会社の規定をそのまま持ち込んで、自縄自縛になっている例を関係会社管理部で仕事していた2年間でいくつも見ました。コンパクトにしないといけないのですが、諸規程類を作り直すのは手間のかかることなのです。Konさんの特命で動いていたので、Konさんへの報告だけちゃんとしていればOKでした。帝人は本社のIsi常務が、取締役会に出席したときに報告すればでいいのです。やりたきゃ、取締役会メンバーで勝手にすりゃいい。わたしの職務権限外です。2年目には取締役会メンバーになってました。そのまま2年目もやらせるのは気の毒だと思ったのでしょう。(笑)
Horさん、思うようにいかないのと、羽村ラボと合弁会社日本橋本社と立川のデータ管理業務拠点を行ったり来たりで精神的に参っていたようです。あるとき、立川に打ち合わせがしたいといってこられました。経理業務を任せていたSakさんにはいろんな経験を積んでもらいたくて、銀行に同行したり、システム回りの仕事をやらせたりしてました。このときも、Horさんとの打ち合わせに立ち会わせました。Horさん、突然切れました。大きな声で叱責を始めたのです。一息大きく吐いてから、「わたしは合弁会社の経営についてはSRL側の代表です。あなたは帝人側の代表、対等の関係ですから、一般社員にするような横柄な態度でのミーティングに応じるつもりはありません」、そう告げました。Sakさんが慌てて、Horさんをなだめてました。少ししたら落ち着いたようで、正気に戻って「すまなかった」と謝罪しました。心労が重なっていたのでしょう。この前後からすこしノイローゼ気味の様子が診て取れました。大阪営業所長を羽村ラボの社長室に呼びつけて、大声で怒鳴っていたという噂が伝わってきていました。まずいなと思いました。社員に被害が出ました。そのあたりで、帝人のIsi常務が薬学博士のKoyさんを橋渡し役として派遣してくれたのです。状況をつかんでいました。おそらく大阪の方から帝人本社にある件が伝わったのだと思います。帝人本社もHorさんの精神状態を知ってました。だから、資本提携解消の話や羽村ラボの吸収合併の話は一切Horさんの耳に入れずに、Koyさんを通じて交渉してました、誠実で正直な人でした。帝人には好い人材がいると思いました。1988年から帝人の臨床検査会社がどういう経営状況にあるかは薄々知っていましたと、こちらも染色体画像解析装置を導入したときに情報をつかんでいたことを正直に話してます。帝人の臨床検査事業は維持が無理なことを具体的に説明しました。Horさんにこれ以上負担をかけたら壊れかねません。水面下での交渉事は表に出さなければならない時期が来ます。話がまとまったところでHorさんの耳に帝人側から入れました。Isi常務は話し合いがまとまって両方の会社でパーティをした席上で、わたしのところへ来て、「Horさんを本社に戻してそれなりに処遇するので了解してもらいたい」そう言ってました。心労がたたっていたので、「そうしてください」と返事しました。Isi常務、情のわかる方でした。そのときに帝人侮れないなと思いました。SRLのKon社長は、帰り道歩きながら、一部上場の老舗企業と互角に渡り合って、最初の目標通りに事を運んだと喜んでました。
帝人本社としては70点だったでしょう。ほんとうは治験検査ラボを残したかったのです。医薬事業が柱の一つになっていましたから。30点の減点理由はそういうことです。
CC社で子会社化するのに、会社再建のためと先方の社長に株の譲渡を納得してもらい、大株主2名とそのほか2名の比較的量の多い株主との交渉が、結果から見るといいトレーニングになっていました。場数を踏むことでスキルが上がります。愉しかった。老舗の一流の上場企業でも、交渉事の運び方は似ているところがあります。もちろん違いも。高度なスキルを背景にしないと説得できないシーンがありました。買収価格の算定です。帝人の社内稟議が通るような、エビデンスを用意しました。ベルトハイムシュローダーが1990年頃にやっていたような企業の買収価格算定方法なら、Isi常務は社内稟議を通せます。大したことではありませんが、細かいところにも意を砕く必要がありました。お互いの利害損得が直接ぶつかるシーンですから、客観的な国際基準での算定方式が必要でした。
<GCPが改正された>
治験の実施基準にGood Clinical Practiceがあります。合弁会社立ち上げの翌年だったか、大幅に改正されました。もちろん、厳しい方向へです。その影響を受けて、製薬メーカーの臨床治験がピタッととまってしまったのです。一斉に様子見をしていました。あれには驚きました。製薬メーカー向け臨床治験データ管理用のパッケージシステムを開発していなければ、大幅に赤字を増やすところだったのです。パッケージ開発という先手を打っていたので、赤字を増やさずにすみました。パッケージ開発は、収益構造上、検査では黒字化できないので、利益率の高い事業分野を増やすために取り組んだのですが、それができたとたんに、GCPが改定されたので、偶然に「先手」を打ったことになったのです。あの会社はついていました。わたしも。
GCPが大幅に改正され、新基準が公表され、新規の治験がしばらく止まったとき、合弁会社の社長のHorさんの心労は、極限に達したでしょう。 社長業というのはそれほど精神的圧力が高いのです。
<検体保管コストの問題:検体保管事業>
1年半ほどたたときのことでしたか、SRL業務管理子会社のNog社長から、八王子ラボで治験検体を保管しているスペースの費用負担をしてもらいたいと申し入れがありました。突然の申し入れなので、理由がわからず確認しました。八王子で合弁会社の人間が、検体のハンドリングをしていることは知っていました。わたしは、その部分はSRLへ支払っている検査コストに含まれていると思っていました。勘違いでしたね。会社立ち上げの時に行ってほしかった。新会社の存立にかかわる重大問題でした。場所代、そして―80度の冷凍庫15台、ハンドリング専門の人員数名の人件費を負担しなければならない。検査料金には含めていいものではありません。治験以外でそんな保管はありませんでした。治験のGLP(品質管理基準)で検体の保管が義務付けられていました。副作用があったら、10年でも遡って、保管している検体を使用して検査し、原因究明しないといけないのです。
Nogさんの言うことはもっともだったので、負担を受け入れました。そして、実務をチェックしデータ管理チームと狭義、営業マンたちに保管料金を別途徴収しなければならないことを説明しました。70%で受けて、SRLへ45%支払えば25%しか合弁会社の取り分がありません。その中から検体保管事業のコストを賄えるはずがありませんでした。合宿演習を実施したときに稚拙な案が、営業マン数人に間から出されました。なぜ考えが足りないのか、何を考えないといけないのか説明してます。
①-80度で20年耐えられる保管容器を探す
②紙のラベルは冷凍すると接着剤が凍結乾燥によってはがれるので別のやり方を考える
③検体保管の仕方の検討:実務設計
④検体保管システムの開発
マニュアルでは検体探しに、保管した人の記憶に頼るしかない。どの冷凍庫のどの段の、どのラックに該当の検体があるのか、見つけなければなりません。マニュアルで、人の記憶頼りでは、品質保証ができないのでお金が取れません。検体保管管理システム開発が必要でした。ここをうまくやれば、他の企業ではやっていない部分ですから、治験データ管理パッケージシステムとともに営業の武器の一つになります。ピンチはチャンスです、しかし技術的な難易度が高い仕事でした。
-80度だと蛋白質の変性が小さいので、温度の記録計がついたものを購入していました。購買課で機器担当をしていた時に十数台買っています。
保管容器の問題は扱っているメーカが2社テルモともう一社ありましたので、そちらへわたしが問い合わせました。保管効率が問題ですから、平たい底のものが要件でした。専用ラックも必要です。これは特注になりそうでした。②は容器へ印刷しかありませんが霜がつくので読み取りにはそれを削らなければならないので、こすっても消えないくらいしか利した印刷が必要でした。目視できる数字とバーコードあるいはQRコードを採用するつもりでした。問題は、どこにどの検体があるのかがはっきりしていなければなりません。10年前のファイザーのシクロスポリンの治験検査の検体をピックアップしてほしいとファイザーから要請があったら、もれなくピックアップできなくてはならないのです。これはコンピュータシステムで管理しないといけません。通常の在庫管理よりもずっと難しい。手でのハンドリングを営業マン数名が考えて提案してくれたのですが、考えが足りないことを説明したら、1か月ぐらい後で、だいぶ現実的な案が出てきました。考えさせると若手の社員は成長します。とりあえずいままでのやり方を続けるしかありませんが、コンピュータシステムでのハンドリングをして、しっかりした品質保証体制を確立して、検体保管事業を確立する方向で社内をまとめました。顧客ニーズを熟知している営業マンの中から一人を抜いて検体保管業務に従事してもらい、実務デザインをしてから、システム構築をするつもりでした。それまでは検体保管事業に関する料金負担をメーカに要求できません。データ管理事業が粗利益率が高いので、それでカバーする方針を決めました。検体保管コストをいままでの収益構造で負担したら、赤字からの脱出は不可能でした。SRL業務管理会社のNogさんのいうことはまっとうなことだったので、慌てました。SRL側が検査料金に含めて負担してくれるものだと思っていたのです。検体保管のハンドリングをしていた社員数名を合弁会社へ出向してもらいました。Katさんという営業マンにハンドリングチームリーダーを担ってもらいました。わたしが辞めるまで、まだ実務デザインができていなかったので、どうなったか、心配でした。システム開発案件としては難易度の高いものだったからです。難易度の高い課題を乗り越えれば、その仕事を担う社員が成長します。彼の下で働く準社員とすったもんだしていましたが期待はしていました。人も管理しなけりゃいけません。気持ちよく働いてもらいつつ、ルールはしっかり守ってもらうというのは、マネジメントそのもの。相手の言い分を聞き、自分がどうしてほしいのか具体的に説明して、理解と納得をしてもらう。課長にするにはそういうことができるようになってもらいたかった。SRLから出向した管理職には無理でした。いままでの業務をやるのが精いっぱい。それでよかったのです、いままでは。そのままでは新会社へ転籍したあとで、同じ給料を保障できません。なんとしても最低でもSRL並の給料、願わくばそれ以上を実現したかった。だから要求も具体的できつかった。一人一人性格が違うし、担っている業務も、背負う課題も違うので、同じ対処というわけにはいきません。「個別指導」しかありませんでした。治験分野の仕事では彼らの方が先輩です。しかし、同じやり方では利益が出ません。一緒に考え、やってみるしかありません。データ管理チームは、当初は置業担当常務のOkaさんの管理でしたが、パッケージ開発を契機に、わたしの方へ移しています。データ管理チームの方からの希望が出たし、システムがらみの案件が二つ出てきたので、わたしの参加に組み込まないと管理できません。Okaさん、二つ返事で了解でした。検体保管チームもわたしが管理することになりました。夜、作業を一緒にしてみました。何か気配がします。音がしたり、気配がすることがよくあるのだそうです。臨床治験の患者さんはなくなっているケースが多いですから。検体は冷凍庫の中で生き続けています。血液のタンパク質は冷凍して眠っているだけで活性を失っていません。だから、引っ張るのです。一度お坊さんにお清めをお願したそうです「うわー!、無理!」と言ったと聞きました。だから、夜間のハンドリングは複数名でやってもらってました。一人がトイレに行っている間が何となく不安...わたしは鈍感なので感じませんでした。「気のせいじゃないの?」「ebisuさん、一人で夜間体験してみます?」「怪談話聞いちゃったからとっても怖くてできません」。
検体保管は大事な仕事なのです。毎日毎日検体保管業務をやってくれている数名の社員と準社員に感謝です。わたしがやっているマネジメントもそういう必要な仕事の一つにすぎません。データ管理チームの仕事も治験検査受託事業を支える屋台骨の一つでした。それぞれ担っている仕事が違うのみ。
わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように
地面を速くは走れない
わたしは体をゆすっても
きれいな音は出ないけど
あのなる鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ
鈴と、小鳥と、それからわたし
みんな違ってそれでいい。
この金子みすゞの詩は、SRL社長のKonさんが好きな詩(うた)だった。ときどき、少年のような表情見せる人でした。育ちがいいんだなって思いました。
<外部との調整仕事の実際>
関係会社管理部で仕事していた時に、九州の子会社JMLから電話が入りました。4月からある検査項目の検査方法をSRLに合わせたいのだが、3月20過ぎに話をしたために、RI検査部に断られたので間に合わないなんとかならないかと連絡がありました。「15分したらもう一度こちらへ電話してください、調整します」と伝えて、RI部の課長に電話を入れました、検体の数を言って、期限を伝えました。すぐにOKでした。ラボで仕事していたので、旧知に課長でした。予算なければ何とかするよ、30万円くらいかかるだろう」「大丈夫です、こちらでなんとかします」、それで15分後にJMLから電話が入りました。「話はつけたから、〇〇課長宛てに検体を送ってください」「お金はどうなります?」「こちらで負担するから大丈夫です、それも話をつけてあります」。どうしてそんなことが15分でできるんですかって不思議がってました。顔見て一緒に仕事したことのある人間の頼みは断りずらいものです。自分の裁量で何とかなるならしてやろうって気になります。ファルマシアLKBにSRL仕様の100本ラックでガンマカウンターをつくってほしいと頼んだことがありました。1台入れたら、真っ白でデザインがよかった。それまではアロカ社のガンマカウンターでしたが、LKBはデザインがとてもいいので、全部LKB社製に変わっていました。その課長が担当でした。LKBは100本ラックのガンマカウンターを日本向けカタログに載せてずいぶん売ったでしょう。「SRLさんは全部LKB製のガンマカウンターに切り換えました」と言えば、ずいぶん売れますから。ファルマシアLKBは液体シンチレーションカウンターもバイアルではなくて紙フィルター方式のものを開発して、SRLが世界で初導入。96チャンネルだから、生産性が96倍、そして天井まで積み上げられていたバイアルが要らなくなったので、地震を心配していた検査担当者が喜んでました。検査室が広くなりましたね。
検査機器のことが理解できて、日本の特殊な事情を欧米のメーカーに的確に伝えられたら、日本市場向けの性能やデザインの良い製品を開発してくれます。国内でも同じです。
栄研化学のLX9000という酵素系の自動分析器の開発がそうでした。ある件で貸しができたので、開発部長が開発中の機器の情報をくれました。大型の自動分析器だったので、臨床化学部でインスタレーションテストを提案。市場に出す前に数か月テストしました。再現性が悪くてトラブルになりましたが、間に入って調整しています。とりあえずの解決案を提示して実行してもらいました。やっている間に根本的な解決法を考えてもらいました。市場に出した時にはトラブルなし。あれ、インスタレーションテストやらないで販売したらたいへんなことになっていましたね。一度そういう関係ができると、開発情報は教えてくれるし、検査試薬の値引き交渉も楽なのです。winーwinですから。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」でお付き合いしていました。
<帝人本社サイドの切羽詰まった事情>
帝人のIsi常務も非常勤役員で毎月取締役会に出席していました。戦略策定もデータ管理事業へのシフトによる黒字化案の策定やその説明も、わたしから取締役会へ説明していました。帝人のIsi常務はヘンな会社だとは思っていたでしょう。合弁会社を経営しているのは帝人本社から出向していた社長ではなく、SRL側の常務のOkaさんでもなく、管理部門担当部長のわたしでしたから。でも、Isi常務は肩書で人を見ていませんでした。最初から最後まで仕事に関しては信用してくれました。質問の仕方は率直でした。正面からはっきり手短にお答えしたらいいだけ。言葉のキャッチボールは少なくていい。ありがたかったのと同時に帝人本社では部長クラスのHorさんと、こんなにも仕事の能力に差があることに驚きました、どちらも一橋大です。よく考えたら、当たり前のことでした。一橋大でも仕事の能力が優れているのは百人に数人です。特にマネジメント能力に秀でる者は少ないだけのことでした。
SRL側から常勤役員が常務で一人、非常勤役員は二人、営業担当役員Tumさんとラボ担当役員のHirさん。帝人はIsi常務が非常勤役員で毎月の取締役会に出席してました。97年に帝人本社社長に就任した安居祥策さん(京大経済学部)からせっつかれていたのでしょう。
<CC社への役員出向は変則の処遇、機能不全の人事制度>
創業社長の藤田さんの特命で東北の会社への出資交渉をまとめて、役員出向したとき(1993-94の15か月間)も変則でしたね。先方の社長Takさんの要請で取締役経営企画室長での出向でした。SRLの内規では課長職は子会社や関係会社の役員にはなれないのですが、創業社長案件だったので人事部で問題にもなりませんでした。藤田さんには毎月文書で報告を出していましたが、ときどき電話を入れるように指示があります。営業所へ出向いて、営業所の電話を使って話してました。黒字化案をまとめて出向会社の社長の了解を取り付けて文書で報告、次いで実行に移すために最終確認に本社へ出向いたら、藤田さんと副社長のYagさん、二人とも「聞いてない」と仰った。理由がすぐにわかりました。黒字の幅が大きすぎました。有力子会社社長はSRL本社役員兼務が慣例でした。東北の会社の社長をSRL本社役員に据えるのはリスクが大きすぎたのです。「わたしの勇み足のようですね、わかりました」と言ったら、お二人は顔を見合わせましたね。「聞いていない」というのはお芝居のようでしたから、わたしのほうもお付き合いしたのです。(笑)わたしが文書で事前に報告済み、約束が違うと反論すると思って用意していたんです。しませんよ。説明されなくても二人の様子で事情は瞬時に了解できましたから。(笑)
黒字化案実行を拒否されて、東北の会社では仕事はもうありませんから、すぐに出向解除事例が出されました、速かった。3年のお約束がたった15か月でした。それでSRL本社経理部管理会計課長職、社長室兼務、購買部兼務の3部署兼務辞令が発令されたのです。こんな異常な辞令は後にも先にもありません。わたしの代わりに4名の出向者を出しました。社長はTkaさんからSRL営業担当常務Nodさんへ変更。この交渉はわたしがやってます。1年後に資本提携を解消、持ち株を他の臨床検査センターへ譲渡して撤退しました。戻る場所のなくなった営業担当常務はそのまま退職してます。腹の中では撤退を決めていたのですから、営業担当常務を外したかったのでしょう、藤田さんのところへは3日に一通の割合で内部告発がありましたから。ようするに藤田さんのシナリオ通り、出向者の4名には迷惑だったでしょう。苦い経験です。東北の会社の社員のみなさんがたいへんな思いをしました。
<何が何でも最優先でやりたかったこと>
合弁会社を経営していて、一番困ったことは給与格差でした。ほぼ1:2でした。こんなに差が大きいとは知りませんでした。机を並べて仕事しているのにもらう給料が出身母体でこんなに違っています。課長職でも1:2でした。どちらの社員もいずれ転籍になりますので、帝人の臨床検査子会社の社員はSRL並の給料がもらえると期待してますし、SRLの社員は転籍で給料が下がることを心配してました。黒字化しただけでは高い給料は保証できませんので、SRLを上回る給料を全員に支払ってやりたくて、事業の柱を治験検査から治験検査のデータ管理事業へシフトしました。治験検査ではマージンが20-25%しかありません。だから、治験検査からデータ管理事業へと大きく方向転換が経営の主要な課題になりました。1年間で手を打ちました。ラックマウントのNTサーバーで治験データ管理用の汎用パッケージを開発しました。こちらの利益率は70%ほどもあったので、製薬メーカー向けが終われば、大学病院向けや大病院向けのパッケージを開発すれば、10年間は高収益会社を維持できます。SRLよりも高い給料を支払ってやれます。それが目標でした。
<新規事業分野の開拓:治験データ管理パッケージシステムの開発>
東大応用生物統計のMakとシステム担当のKajが、データ管理実務を熟知しているベテランのWatやMiyと協力してよくやってくれました。必要な道具がなにかは知っていましたので、統計ソフトのSASとラックマウントの強力なサーバーをすぐに購入してやりました。ラックマウントのサーバーは治験原始資料をコピー機でデジタル化して、暗号をかけて原本補完するシステムを載せるためでもありました。帝人のIsi常務には説明してあったのでOKですが、事情を知らないSRL関連事業部からクレームが出ました。過大投資だし、取締役会の承認をとっていないという理由でした。たった5000万円でした。わたしは、取締役会の正式メンバーでもなかったし、Kon社長にも文書で報告したあったし、帝人本社のIsi常務の了解ももらっていました。取締役会規程や権限規程は立ち上げ当初はありません。赤字を黒字にするのが最優先事項でした。Kon社長の特命案件だったので、毎月ちゃんと文書で報告は入れてありましたが、関連事業部には連絡していません。第一、そんな部署はわたしが出向したときにはありませんでしたから、存在も知らなかった。突然、Hahさんからメールをもらって、びっくりでした。実は、今まで使っていた三菱のオフコンの更新要求を撥ねつけました。ベテランのWatからの要求でした。ラインプリンター2題だけで2000万円、総額8000万円でしたから、それをラックマウントのサーバーシステムに切り換えて投資額を3000万円カットしたのですが、事情をなんにも知らない。後からわかったのですが、組織上のわたしの位置づけは、関連事業部からの出向になっていました。だから、賞与の査定はこの部署がしていました。Hirさんが取締役関連事業部長だったかな。そんな位置づけになっていることは、Hirさんから一言も、聞いていませんでした。Konさんもそのあたりは無頓着でした。たぶん、Konさんの方からHirさんへは一度は処遇のことで話がいったはずです。取締役にするのに次長職へ昇格させなければなりませんでしたから。帝人本社は人事のおかしい会社だと思っていたでしょう。
<帝人Isi常務の配慮:調整役の派遣、交渉の経緯>
2を余して四つの課題をクリアしました。ついてました。帝人本社のIsi常務がパイプ役に薬学博士のKoyさんを臨床検査子会社に調整役として配置してくれました。臨床検査子会社と合弁会社の社長のHorさんには心労が重なって無理だったので、極秘にKoyさんと調整しました。こういう時は正直に誠実にやるのが大原則です。ちゃんと意が通じてました。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」、なのです。自分だけがよけりゃいいなんてみじんも考えちゃいけません。以心伝心でつたわります。
Koyさんが、しっかり間を取り持ってくれました。利益率の低い治験検査から治験データ管理事業へとシフトすることで短期間で黒字化したので、帝人本社のIsi常務から、帝人の臨床検査子会社経営も兼務であなたに社長をやってもらいたいと、提案がありました。Isi常務、合弁解消した後、当然にわたしが社長をやると思っていました。実質的に社長の仕事をしていたのはわたしでした。だから、帝人の臨床検査子会社を合弁会社の子会社にして兼務社長で両方の経営を頼むと、そういうことでした。帝人本社は赤字がずっと続いている臨床検査子会社をどう立て直したらいいのか困っていました。2年半にわたって、Isi常務はわたしの経営の仕方を観察していたのです。Konさんの指示は吸収合併でしたから、齟齬があります。SRL社長のKonさんには帝人のIsi常務の提案を伝えましたが、次長職が、帝人子会社の社長を兼務することは不可能でした。SRL本社役員でないといけないようになっていたのです。有力子会社の社長職は本社役員兼務が慣例でしたから、社員契約を切って本社役員にすればよかっただけ。不自由なものですね。子会社のSRL東京ラボと統合して、社員を救ってあげたかった。結局当初の計画通りに、買収することになりました。帝人本社は医薬事業にも力を入れていたので、できれば臨床検査子会社を残したかったのです。でも、経営できる人材がいなかった。他社の人間でも、合弁会社の子会社にしてでも、この事業分野を残したかったようです。医薬品事業はそれほど大切でした。
帝人のラボを視察して事前にチェックしています。治験検査に特化したラボでした。あれでは採算に乗せられっこありません。治験検査に特化した帝人のラボと特殊検査に特化したSRLとはほぼ同時期のスタートでした。それが40年余りで売上比で1:20の差がついてしまった。一橋大の本社エリートがかわるがわる子会社社長をやっても事業を採算に乗せられなかった。事業分野を見極めるセンスを持った方が歴代社長に1人もいなかったことを示しています。わたしが、数時間ラボを見学させてもらっただけで赤字の理由が理解できました、赤字になるのが当然の事業分野でした。難関大学出身者で受験勉強を一生懸命にやり続けた人を社長にしてはいけないようです。事業分野を見分けたり、マネジメントを首尾よくやるのは、受験勉強とはまったくかかわりがありません。マネジメントに優れている人は、大学へ入る前に、それ相応の経験を積んでいます。大学卒業してからでは手遅れだと思います。学び方も、答えがある問題を解くのに慣れてしまったらアウトです。仕事は答えが一つではないし、ストライクゾーンに入っていればいいだけ、そしてだれも答えを知らない問題を考え続けることができるスタミナ、それがマネジメントを支えます。
ラボを見学して、それぞれの部門の責任者にどれぐらいの業務量があるのか確認して歩けば、どの部門がどれくらい赤字なのか、コストのほうは見たらわかりますから、整理の仕方を考えました。治験ラボとしてはSRLが採用している精度管理基準、米国CAPライセンスを取得できませんから、生き残れない。SRLで検査しているものを帝人の羽村ラボに移管することは不可能でした。製薬メーカからクレームが入ります。品質管理基準に大きな差があるのですから。
<帝人臨床検査子会社社長の大きな勘違いと帝人本社の対応>
帝人の羽村ラボの社長Horさんは、合弁会社の社長でもありました。合弁企業が設立されたら、SRL受託検査分が帝人臨床検査会社に移管できると、帝人本社のMat専務とIsi常務に説明していました。それで黒字化できると。事業の性質がまるっきりわかっていませんでした。帝人本社の役員のお二人もHorさんから説明を聞いて、とんでもない勘違いをしていることに気がつきませんでした。
そうはならなかったので立ち上げて4か月後くらいに、事情聴取のために帝人本社に呼ばれました。わけがわからなかったのだと思います。Hor社長から同行してほしいと申し入れがありました。会議室に入ると緊張して震えてました。Hor社長の説明を一通り聞いていてもわからないというので、わたしの方で用意していたチャートを使って理由を説明したら納得いただけました。SRL検査分の移管は精度管理基準が異なるし、技術力にも差があるので、製薬メーカーからクレームになるので不可能と説明しました。SRLが取得しているのは世界一厳しい品質管理基準の米国臨床検査学会のCAPライセンスです。これをクリアするのは5年はかかるでしょう。とても間に合いません。包み隠さず正直に誠実にやればいいのです。治験検査事業のことをご存じなかったから、事情を知ったら素直でしたね。「どうしたらいい?」と訊かれて、新会社の方は、治験検査は利益率が20%くらいしかでないので、治験データ管理システムのパッケージを1年以内につくってデータ管理事業を柱に据えで、収益の改善を図ります、それで3年以内に黒字化できます」と言ったら、「初めて納得がいった、餅は餅屋に...か」、これが帝人本社役員お二人の返事でした。臨床検査子会社の方は見学もしていないので、見ないとわかりません位のことは言ったかもしれません。帝人には臨床検査子会社の経営は無理だと悟ったようでした。あとは、子会社の処分だけ。このころ帝人社長になった安居さんから、臨床検査子会社をどうするのか二人の役員はせっつかれていました。安居さんは京大経済学部、専務と常務は一橋大、なかなかむずかしい。帝人本社エリートの半分ぐらいが一ツ橋だったかも。人の好さげな早稲田商学部の財務部次長さんが肩身の狭い感じでした。帝人本社を訪問するのは愉しかった。
<SRL東京ラボの売上倍増戦略と帝人羽村ラボの要員の吸収>
SRL東京ラボはラボ建物が老朽化していたので、新ラボをつくれば、生産性がアップし業務量は2-3倍になりますから、帝人羽村ラボの人員は吸収可能でした。じつは1993年頃、子会社の千葉ラボの生産性アップを目的にしたシステム導入に関係会社管理部スタッフとしてはわたしが担当したので、そのシステムをコピーするだけでよかった。生産性を2倍にアップすれば、抑制していた売上増の足かせがなくなり、収益は劇的に改善できます。両方の会社に都合のいい案でしたが、ラボ移転が絡む大きな構想になるので、SRL東京ラボにいたわたしでないと、調整不可能でした。SRL東京ラボへ出向中の1年半は、社長のMinさんの参謀でした。彼は93年当時は兼務で千葉ラボの社長でもありました。
合弁会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げたときに、わたしはSRL東京ラボで、社長のMinさんとラボ移転の相談をしている最中でした。広い土地を見つけて、SRL八王子ラボと同じ敷地で、巨大な自動化ラボ構想を具体化するところでした。親会社のKonさんからの指示だったので、SRL東京ラボ社長のMinさん、「俺にはノーと言えない」、うなだれてました。わたしはさっとあきらめました。これも運命ですから受け入れました。こんなことはよくあることでした。(笑)
<ラボ移転とあらたな構想での自動化ラボ>
1984年にSRLへ転職して、経営情報系システム開発と予算編成と管理業務を担当しながら、固定資産管理の実務をデザインしなおし、固定資産管理システムを投資・固定資産管理システム開発をしました。そのときに職権を利用した八王子ラボの全部署の固定資産を丸ごとチェックしてます。そのときに、臨床検査機械で双方向バスであるGPIBを標準装備したものが一つもないことに驚きました。それで購買課へ異動した後、機械メーカーと仕事をしつつ、SRLへの納品の検査機器は双方向バスを標準装備にしてもらうことを条件にしようと考えてました。いつでも実行できるように、メーカーの担当者とコネをつくることに励みました。SRL「御用達」の自動分注機メーカーのPSSさん、田島社長が別の会社の営業マンの時代からの取引でした。結石の前処理用のアームロボットシステムの開発を担当してくれた小さなメーカ、みんな大事な取引先でした。八王子ラボを移転するときは米国進出するときは全面的に協力をお願いしなくっちゃいけません。必要なら資金も出す必要がありました。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」で仕事してました。
前職の、産業用エレクトロニクス輸入商社は、欧米50社の総代理店でした。スタートはHP社の日本総代理店。創業社長がスタンフォード大卒でヒューレットとパッカードの二人と同期だったからです。その会社には毎月のように欧米の企業から新製品の販促のために昨日の説明にエンジニアがきました。入社してから、退職するまで、全部参加してました。オシロクォーツ社の時間周波数標準機、ウィルトロンのマイクロ波計測器、WJ社の軍事用エレクトロニクス製品群、液体シンチレーションカウンター、フィニガンマット社の質量分析器...さまざまな産業用・軍事用エレクトロニクス製品を扱っていました。毎月、東北大の助教授がきて、理系の営業マンと技術部員対象に、測定原理の講義をしてくれていました。6年間ずっと参加していたので、いつのまにか「門前の小僧習わぬ経を読む」ことになってました。マイクロ波計測器は双方向バスのGPIBが標準装備されていました。SRLに入社した時点で、経理部での採用でしたが、社員の中ではわたしが一番、検査機器に詳しかったでしょう。購買課へ異動して、一人で機器担当を一手に引き受けることになるのは当然のことでした。そういう運命にあったのだと思います。
SRLのラボ移転は2017年頃実現してます、20年遅れました。たぶん、双方向バスは標準装備にはなっていないでしょう。いまはUSBもイーサネットもWiHi、Bluetoothなどいろいろありますね。根室高校から旭川医大へ現役合格した生徒はもう3年生ですが、大学で使った血球計算機のインターフェイスがBluetoothだと教えてくれました。進歩してますね。コンピュータと機械は、大好きでした。仕事で関われるなんてこんな幸せはありません。
<困難な時を支えてくれたスタッフたちとその後>
経理業務を任せたSak、システムを任せたKaj、この二人がたいへんな時に、愚痴をこぼさず懸命にわたしを支えてくれました。ありがたかった。立川移転のとき、問題が起きて、二人で配線してくしてくれました。お陰で移転初日からコンピュータが使えました。ほんとうに苦労かけた。応用生物統計のMak、データ業務管理のMiy、古株のWatとKat、転籍時にはSRL以上の給料をみんなに保障したくて、よく頑張ってくれました。
四課題をクリアしたので、そのあとの体制を考え、合弁会社Oka常務と相談して、わたしの前の上司の学術開発本部長のIsig取締役を新会社の社長に据えることに決め、SRLのKon社長へ打診、OKをもらいました。来週Isigさんへ電話して引き受けてもらおうとしたら、彼、辞表出して辞めちゃった。Kon社長とは多少そりが合わないのはなんとなく感じてました。ある事情があってやめています。Isigさんは青山学院大学で有機化学を教えたことのある人です。治験検査とデータ管理会社のお得意様は製薬メーカです。学術開発本部スタッフの時にⅣ型コラーゲン検査薬と膵癌マーカー検査薬の共同開発を担当させてもらいましたが、名刺交換した人の半分以上は学位保持者でした。SRLで医者以外で博士の学位保持者はほとんどいません。だから、製薬メーカーがお客様の新会社社長には、Isigさんが適任でした。他に適任な人はいませんでした。にこにこして座っていて、好きなことしてくれたらよかった。学術開発本部でしていたようにマネジメントはわたしが担当します、好奇心の赴くままに好きなことしてもらうつもりでした。SRLにとっては大事な人材の一人でした。
引き受けた仕事が終わって、合弁解消後の役員人事はわたしの手を離れました。新会社転籍する社員たちの処遇をSRL以上にするという目標は、もう達成できません。
上司でソリがあったのは学術開発本部長のIsigさんとSRL東京ラボ社長のMinさんの二人だけ。何度も無能な上司の下で仕事してきましたが、もう御免でした。徒労感でおぼれそうでした。帝人のIsi常務が仕事を認めてくれましたので、それで満足でした。Kon社長から指示された仕事が終わったので、辞表を書きました。無能な人が職位だけで社長になることは予想がつきました。何度もそういう事例をみてきました。
やめたあと、最悪の人が社長になったことを知りました。まさかでしたね。Konさん、任せる人材がいなくて人選に窮したのでしょうね。社内に部長クラスの仕事の能力を判断できる情報源がなかったのだと思います。前部署では仕事ができす、職権利用して接待ゴルフに毎週出かけている、その部署の人間が文句言ってました。わたしは新社長の人事を聞いて、新会社の常務のOkaさんがあいそつかして1年くらいでやめるだろうと思いました。そのほかにも数人、嫌気がさして辞めることは眼に見えてました。穏やかで有能な帝人側の営業課長が帝人ファイナンスへ引っ張られて辞めました。Okaさん、予想通りにやめました。彼は千葉大学薬学部出身でした。Konさん、何も知らずに新会社に腐った林檎を放り込んだことになりました。SRL社長のKonさんは部長クラスがそれぞれどんな仕事をしてきたのか、あるいはしてこなかったのかについて、ほとんど情報をお持ちではありませんでした。社歴が浅かったからです。SRLは営業系に人材がほんとうにいないのです。理由が二つあります。営業しなくても「取引したい」と電話がかかってくるのを待っていればよかったのです。検査技術がダントツに高かったので、1985年まで営業活動なんて必要なかったのです。都立病院のドクターに30万円の背広のお仕立券をプレゼントして、東京地検特捜部の捜査を受けて、売上高の伸びが2年間ストップしました。そこから営業しなければ売上拡大できない状況が生まれたのです。「どうしたらいいかわからない、営業なんてことやったことがないから」と20代の営業担当社員が嘆いてました。入社したころ(1984年)、既婚の女性がいたら、「亭主を連れてきていい」、採用面接で「車の免許持っていますか?」「もっています」「明日から営業マンとして雇います」、そんな採用されたなんて社員がいました。売上が毎年20~30%も伸びて、業務量の増に人員採用が追い付かなかったので、こんな採用してました。業界ダントツナンバーワンの給料でした。新卒で入社して、12月の賞与がお父さんより多いなんて話がざらにありました。一部上場してからは20人の採用に1万人の応募、そんな会社になってしまいました。
検体の集荷業務は女性の準社員がやっていましたので、営業マンの大半はドクターと接点がなかったのです。取引したいと病院から電話がかかってくると行けばいいだけでした。1984年に入社した当時、経理には風俗店での接待の領収証がよく回ってきてました。「〇〇興行」なんて領収証が回ってくると、「ebisuさん、この営業部長こういう接待ばっかりなんだ」って、怒ってました。経理課長も文句が言えず、経理担当役員は富士銀からの出向者で、ものが言えません。結局、上場準備にかこつけて、経理規程を整備して、接待交際費の使途を制限して、不審なものは経理部が支払い拒否できるようにしました。予算でも接待交際費を大幅に削減しました。予算オーバーは別途申請が必要ですが、接待交際費の予算オーバーを認めなければいいので、自然に消滅していきました。自己負担になりますから。経理規程を整備して業務監査をした途端に開発部長が1億円を超える金額を私的に流用していたことが発覚、依願退職扱いにしてます。そういう時代に、育った営業マンが部長職や営業担当役員には多いのです。
学術営業部長の窪田さんが異色でしたが、毛色が違っていましたから、周りとそりが合わなかったでしょう。ほとんど「死んで」いました。有力なドクターには個人的なコネクションをしっかり築いていました。ドクターには受けがいいのです。後に退職して起業してます。1度目は失敗、2度目がうまくいきました。一部上場企業になったベンチャー企業、ペプチドリームの社長をしているようですね。
本社管理部門にも人材はいませんでしたね。しっかりしていたのは八王子ラボの検査部門だけ。マネジメントのできる人材は検査部門にも少なかった。ずっとラボ部門で生きてきたら、仕方ありません。会社全体を動かすスキルは積んでいませんから。人材育成するためには、若い時から、複数の部門に異動させて、成長したものをピックアップするしかない。経営上の解決困難な問題は、ほとんどが複数の分野が重なり合った領域で起きます。
最後に、新型ワクチン副作用への好奇心と縁について書かせてください。
昔、最大手の臨床検査センターで16年間(1984.2~1999.9)仕事していたことがあり、そのときの仕事との関係で好奇心が働きました。従来の治験基準GCPではこのようなワクチンが許可されることはあり得ないことでした。
SRLでの最後の仕事は帝人との臨床治験合弁会社の経営でした。前臨床から臨床試験まで検査とデータ管理を事業の核にしている企業でした。発足当時から合弁会社は、臨床治験検査事業分野では日本でナンバーワンの企業でしたから、世界中の製薬メーカがお客様でした。ファイザー社もその中の一つです。
ファイザーの免疫抑制剤であるシクロスポリンの導入は八王子ラボで検査機器の購入担当と検査試薬の価格交渉、購買在庫管理システムのメンテナンスをしていた時(1987年頃)に導入された検査でした。ちょっと、縁があったのかもしれません。
細胞免疫部でリンパ球の表面マーカー検査をしてました。DECのミニコンで検査サブシステムを開発してリンパ球の表面マーカー検査機械とつなぎました。ミニコンを検査サブシステムに使ったのは初めてのケースでした。HLAのタイピングも細胞性免疫部で検査していましたね、このころから免疫系に興味がありました。ラボの図書室には、欧米の科学雑誌や医学系の学会誌が25種類くらい定期購読されていたので、暇を見つけては読んでいました。だから、仕事のシステム化とは標準化は大好きでした。8時間かかった仕事が3時間で済むようになると、プロジェクト仕事をいくつでも引き受けられるし、図書室で勤務時間中に本を読めました。本社経理部からラボへ異動して4年目には、図書室担当の社員はわたしの隣の席で仕事してました。本はいくらでも買えます。入社して2年間、全社の予算管理の統括業務をしていたので、わたしの後任や経理担当役員に電話一本で、予算増額ができました。わたしが提案して実行した試薬のコストダウンは3年間で50億円を超えていました。だから、お金を使うことも自由でした。恣意的な使い方はしません、その点の信用がありました。あるとき、免疫電気泳動を担当している臨床化学部の人が、二次元電気泳動の機器が出たのだが、予算で認めてもらえなかったとぼやくので、もう一回申請したらいい、検査管理部の担当と本社経理部には話しておくからと伝えました。2000万円ですが、買いましたよ。ウィルス検査課には傾向顕微鏡が十数台ありましたが、ツァイス(350万円)が1/3でした。後はニコン(250万円)とオリンパス(200万円)でした。オリンパスで購入協議書が上がってきたので、ツアィス製品を買ってあげるから書き直してきてと課長に伝えました。そのあと、ラボ見学があって検査課はショールームでもあるので、傾向顕微鏡を使っているウィルス2課だったかな、全部ツァイスにするよ、いまあるのは検査管理部へ行って、欲しい部署に引き取ってもらえばいいと伝えました。全部ツァイスが並ぶと壮観です。学術開発本部へ異動して海外製薬メーカーのラボ見学対応の傍ら、ラボ見学担当者3人が間に合わないときは大学の先生をわたしがツアーにご案内。ツァイス製品が十数台並んでいるのを見て、「ほしいけど買ってもらえない、SRLさん技術が高いから、いい顕微鏡使ってますね」って仰った。検査している人たちもうれしい。本社の方へは、350万でも、法人税と法人住民税が40%くらいだから、利益を上げて税金払うことを考えたら、350万円でも実質210万円だと説明して納得してもらいました。仕事が面白かった。
電子天秤がほとんどの部署で使われていましたが、メーカーがバラバラで、操作がちがいます。部署移動すると電子天秤のマニュアル200頁もあるのを読まなければならない。生産性が悪くなるので、メトラー社の電子天秤に統一しました。ドイツのメーカーで世界ナンバーワン。直接電話を入れて、わたしが購買担当でいる間はメトラーの電子天秤を標準機とするので、価格を下げてもらいたいと希望価格を言って、飲んでもらいました。
本社の人間は、ラボで何が重要なのか知らないのです。モノやコトを見て判断できません。当時でもやっている検査項目は3000以上でしたから、いまでは4000を超えているでしょうね。それらを機器と検査方法のおおよそを知るだけでも、八王子ラボにいても、知っている人は数人でしょう。まして、年に一回ラボに来るか来ないかの本社管理部門の人間がそんなことを知っているはずがありません。会社の商品群を知らないというのは恥ずかしいことなのですがね。はじめっから無理だと思い込んでいます。システムと、理化学機器と、臨床検査と、医学の専門知識が必要ですからなかなかたいへんなことは事実です。機会を自ら作って一生懸命に学んで10年以上かかると思います。文系理系の別は関係がありません、仕事ですから。
<ルーチン検査部門での商品開発がSRLの技術力の高さを支えていた>
ルーチン検査部門で新規検査の導入検討をたくさんやることが、商品開発力をアップする大事な要素なのです。研究部や特殊検査部の商品開発力はたかが知れています。二つ返事で、そういうルーチン検査担当の人たちの希望を聞いて、実際に調整がやれるバックグラウンドを持っていました。前にも後にも、もちろん、わたしだけでした。産業用エレクトロニクス輸入商社での学びは、SRLに転職してから絶大な威力を持ちました。ラボの、係長や課長とのコミュニケーションがスムースにいって、人的なネットワークが急激に広がりました。知らない部門はない、どの検査部、検査課にも仕事で要件があるときは直接入っていけるのは特権でした。ラボに居て、検査を担当していても、他の検査課には立ち入れません。
好奇心の強い社員には好い会社でしたね。
<帝人とSRLの合弁会社の経営を担当することになった経緯>
帝人とSRLの臨床治験の合弁会社の経営を担当したのは1996年11月-99年9月でした。SRLのKon社長の指示事項は明確でした。次の四項目を3年でやることでした。これも好奇心、面白そうでしたので、暗礁に乗り上げているプロジェクトに初参加するために、本社のあるフロアに降りたところで、Konさんと出くわしました。そこで3分ほどの立ち話で指示事項を聞いたのです。(笑)
指示事項は
①合弁会社を新聞発表の期限までに立ち上げること
②赤字部門の合弁事業だったので赤字を解消すること
③帝人の臨床検査子会社を吸収合併すること
④帝人から合弁会社の株式を引き取り、資本提携を解消して100%子会社化すること
⑤これら4つの課題を3年でやり遂げること
経営の全権を委任してもらわないと不可能な仕事なので、その旨伝え、その場で了解してもらいました。大事なことは最初に明確にしておくのがいい。
<帝人の臨床検査子会社を買収しようと考えたの1988年>
思い出しました。1988年に英国企業のIRSが開発した染色体画像解析装置を3台導入したことがあります。ニコンの子会社のニレコとマジスキャンを使って染色体画像解析装置を共同開発していましたが、1検体の処理に1時間でしたので、目標値の8には届きそうもなく、中止を検査管理部に通告しました。その直後に染色体検査課長Isiさんが虎の門病院にIRSの染色体画像解析装置が導入されたという情報をキャッチ、検査管理部のOgaさんと染色体検査課のIsiさんとYokさんの4人でサンプルをもっていって調べさせてもらったら、目標値を軽々クリア。輸入元へ2台買うので、もう1台をバックアップ用にラボに設置するように交渉、その代わり、N電子輸入販売の営業マンSasさんにBMLへ売りに行って「SRLさんで開発中のものを取りやめて、スペックを確認してから購入してもらった」そう話していい「必要なら見学もさせてやる、値引き交渉には一切応じるな」、こちらのシナリオ通りに運びました。「お礼がしたくて、セントアンドリュースでゴルフ接待の社内承認が得られたので、行きましょう」って誘われましたが、もちろん断りました。がっかりしてましたね、Sasさんゴルフが大好きだったのです。IRSはエジンバラにありました。そのときに、帝人羽村ラボと仙台の臨床検査センターから引き合いがあったと言ってたのです。ああ、経営が苦しくて、売上拡大をしたいために、染色体画像解析装置を導入するんだなと、ピンときました。ラーメン屋が売上が不振なので寿司をメニューに入れるようなもので、経営は悪化することになります。染色体画像解析の分野はSRLのシェアーが80%でしたから、他のラボがいくら力を入れても売上が確保できないことを知っていました。いずれ、時が来たら、買収してみようとそのときに思ったのです。5年後に、東北の検査センターから経営分析の要請が来て、わたしが担当しました。帝人の臨床検査子会社は8年後でした。運命ですね、どちらもわたしが担当することになっていました。
<東北のCC社資本提携の経緯>
19e78年に産業用エレクトロニクスの輸入専門商社で仕事していた時に、経営改善のために開発した経営分析モデル、5ディメンション、25ゲージのレーダーチャートと業績の総合偏差値評価システムへデータを入れて経営分析をしてました。予算管理もこのレーダチャートそして総合偏差値と連動していました。計画未達の部分が何なのか、5分野25本のレーダチャートに分けて追跡調査が可能です。
売上推計は5年のデータからの線形回帰に、財務分析の結果で味付け。1988年に予想した通りの経営状況だったので、先方の社長との交渉はスムーズにやれました。Tka社長は推計値がほとんど一緒なのでどうやったのかと、質問しました。経験智でみたらだいたいわかりますと告げたら、営業所別に5年間のデータでEXCELで線形回帰してました。わたしの画面を見せながら、「最小二乗法で...」「ああ、わかります、線形回帰したのですね」と告げたら、「え!」という表情してました。わたしはEXCELなんてものが世の中に現れる前から、1978年から、HP67とHP97を使って、経営分析のために線形回帰分析を多用してました。経理マンでそんなことがやれるのは当時はほとんどいなかったでしょう。
そのあと、本社内のシステム部門を見せてくれるというので案内されたときに、開発中のパソコンのマルチコントローラーがあって、「ひっくり返してみていいですか?」と了解をとって、ボードをひっくり返したらプリント基板でした。「マッピングしてない、プリント基板ということは、これ商品開発ですね」と言ったらぎょっとした顔してました。産業用エレクトロニクスの輸入商社で、マイクロ波計測器のマルチコントローラを開発してましたので、担当しているエンジニアのNonさんと仲が良かったので、息抜きにそばにいって雑談しながら観察してました。プロトタイプの段階から量産まで原価計算もしてました。最初はマッピング(電線で回路をハンダ付け)でプロトタイプを2回つくり、そのあと量産するためにプリント基板に変えます。金型つくるのに200万円くらいかかるんです。だから、ボードの裏側を見させてもらって確認したかったのです。マルチコントローラーを100以上製造するつもりがあるから金型を作ってプリント基板にします。社長室に戻って、理由を話して開発中止を勧告しました。ラボの基幹システム開発用だということは、その場でわかりました。アッセンブラでの開発は技術が古すぎ、メンテができません。使っているパソコンも沖電気の低スペックのもので画面に罫線も引けません。SRL千葉ラボ(SMS)でこの東北の会社の基幹システムを導入していたのを、生産性が悪いのでIBMのAS400(とう1台別のマシン何だったかな)を導入して新システムを開発、生産性を2-3倍にしたのはその前年1992年のことでした。子会社の開発案件ですので、親会社の稟議書は関係会社管理部でわたしが起案していました。パソコンのマルチコントローラーというは発想はいいのですが、そんなものを使わなくてもAS400の方がずっと使い勝手がよかった。Tak社長は「できのよいパソコン小僧」でした。パソコンを中心にしてしか考えられない。汎用大型機やミニコンや汎用小型機の世界を知りませんでした。半端な知識で臨床検査会社の基幹システムや検査システム開発は無理なのです。その程度の知識と経験では、商品化できるほどのレベルのパッケージは開発できません。東北では一番システムのことを理解していた臨床検査会社の社長であったことは事実でした。狭い世界で自惚れが出てしまっていました。社長ですから、だれも止められません。彼の前に異星人が現れたようなものでしたね。焦ってましたが、素直に言うことを聞いてくれました。あの決断は社長として本物だと思いました。事業化できない商品開発だと、わたしの短い説明で了解したのです。
大事なのは、腹の中に「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」をしっかり叩き込んで交渉に当たることでした。ただの経理屋だと思って(笑)社長室で話していましたが、戻ってきて再度話し始めたときには、得体のしれないとんでもない奴が来たという表情と言葉になっていました。合併を繰り返しても社長であり続けたのですから、海千山千の人物でしたが、少年のような心ももっていました。素直だったんです。彼の周りにシステム関係でいいブレインがいたら、判断が違っていたでしょう。東北では市場が小さくて、会社の規模も小さいので無理でしたね。首都圏に出てくる選択肢があったはずです。戦力をチェックした結果やれなかったのでしょうね。システム部門が脆弱でした。12年くらい時代遅れで、技術力の高い人材を投入しなければ、商品開発は不可能。赤字が続いていましたから、そんな余裕はありません。本業の臨床検査業にもっと真剣に取り組むべきでした。生産性を上げて、高収益にする道があったはずでした。あたらパソコンに詳しいために、趣味と仕事が一緒くたになってしまっていました。とっても面白い人物でした。親会社の了解があれば、このまま転籍してもいいかなと思ってました。福島県郡山市、第二の古里にしたいくらい、いいところでした。
同じ建物内の営業所に血球計算機がありました。コールターでした。性能はいいのですがシェアーが低いのでメンテナンスに問題があります。疑問に思ったので質問しました。「なぜコールターなんですか?メンテナンスに問題がありませんか?東亜医用電子のものの方がいいのでは?」ときいたら、彼の趣味でしたね。臨床検査技師ですから、血球計算機のことはよくご存じです、性能がいい方がいい、そんな判断でした。経営判断の基準を垣間見た思いがしました。趣味と仕事がわけられません。趣味の分野が重なると、シビアな経営判断ができなくなります。ご本人はそのことに気づいていません。首都圏で起業していたらきっと違った展開になっていた、惜しい人材だと思いました。
財務諸表を整理してみたら検査試薬のコスト低かったので、「試薬の仕入については何か特別なルートをお持ちですね?」と尋ねました。一般検査会社の検査試薬代は特殊検査会社の半分以下の比率にはなるのですが、それを割り引いても低かった。SRLの子会社で一般検査ラボが3つあったので、1992年に分析して試薬原価比率を知っていました。その会社の会長Kanさんの息子が業界3本指に入る福神という問屋に勤務していて、彼を通じて仕入れていましたから、特別価格でした。数字を見ただけで経理屋にどうしてそんなことがわかるんだと不、そのときも思議そうな顔してました。赤字続きでつぶれかかっているけど、この会社と社員のみなさん、何とかしてやりたいなとこちらも素直に思ったのです。
<SRLへ入社当初の仕事:検査試薬のコストカット50億円>
SRLへ1984年2月1に入社しました。予算編成・管理もわたしの仕事だったので、大きい費目からカットできるものを選択して、目標値を設定しました。複写費が1億円を超えていたので、ゼロックスに統一、ゼロックス本社とコンタクトして、3割カットで一括取引を提案、これは総務課のMur係長が引き受けてくれました。試薬コストが高いので、20%カットを提案して、総務部購買課長が無理だというので、専務のYagさんが「プロジェクトをつくるから、お前がやれ」、Yagさんは富士銀行からの出向役員でした。海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格し、陸士へ。戦後は東大へ入り直して学歴を書き替え、お利巧な方でした。しかし、臨床検査会社の経営はさっぱりわからないので、丸ごと社員へ投げてお任せだったんです。購買課長はそれまで薬品問屋相手に交渉していました。マージンが20%くらいしかないから、なるほど無理です。取引金額が大きいので製薬メーカ直接交渉へ切り換えました。取引額が大きいので向こうは役員が来ます。こちらも管理系の常務に同席してもらいますが、交渉は当時平社員のわたし。購買課長と手分けして仕事しました。年間80億円くらい買っていましたので、予定通り20%カットしました。Yag専務味を占めて、翌年もまたやれと言われて、(上場準備用の経営情報システム開発が1年間で終わったので)、1か月間のプロジェクト終了と同時に八王子ラボ購買課へ異動してます。3年間の交渉でで50億円以上、コストカットしてます。取引していた薬品問屋にはメーカー側で今まで通りの利益率を保証するように念押しして、その通りになっているのか薬品問屋の営業に確認させてました。
富士レビオの元経理部長Togさんが常勤監査役でSRLに来ていましたが、久しぶりにラボのバスで出くわして、「ebisuさんいまどこにいるの?」「購買課です」「そうか、購買部長か」「いえ、平社員です」って言ったら、絶句してました。富士レビオが上場したときの経理部長ですから、上場準備で会計システム回りを要件を満たすものに作り替えるのがたいへんな仕事だと知ってました。ましてや、臨床検査業では初の東証2部上場でしたから、他に例がない。わたしが8か月でそれを完璧にやり遂げたのを見ていました。そして試薬のコストカットをやったことも。だから、驚いていたんです。じつは入社して1年後に、上場準備で採用された10人ほどの社員の中でわたしが一番早く課長に推薦されました。しかし仕事の内容を知らない人事部が蹴ったのです。上場準備要員としては一番最後の入社だったので、早すぎるという奇妙な理由でした。
<取締役学術開発本部長のスカウト>
たまたま通りかかったIsig取締役学術開発本部長にスカウトされて2年半仕事した購買課から1989年12月に異動し、製薬メーカとの検査試薬の共同開発や沖縄米軍向け出生前診断検査の新規導入のためのシステム開発、慶応大学病院との産学共同研究のプロジェクトマネジャー、海外製薬メーカーからのラボ見学要請があればわたしがツアーガイドしていました。
暇だったので、仕事時間中にチョムスキーの『Knowledge of Language』を読んでいました。たまたまIsigさんが席の横を通りかかって、「何読んでいるんだ?」といって本を手に取ってみました。「ふーん」と言って、それから数分後に内線電話が鳴り、「俺のところで仕事しないか?」、辞令は翌日だったかな、強引でしたね。人事に強い人でした。すぐに課長職にしてくれました。周りとバランスが取れませんから。もう2年いたら、副本部長に据えるつもりだったかもしれません、そういう使い方でした。Isigさん、半年ぐらいしてから、「数年後にはお前に使われているかもしれないな」って言いましたね。いえね、廊下を歩いているときに背筋をピンと伸ばしてゆっくりですから偉そうだったからでしょう。マネジメントの仕方を隣の席でよく見てました。すぐに開発部のメーカとの検査試薬共同開発業務をPERTチャートを使って標準化しました。それまで、みなさんばらばら、何がどこまで進んでいるのか会議で報告してもらっても、判然としません。PERTチャートで標準化してしまえば、「いまこのチャートのどこ?」って質問したらいいのです。Ishigさん、喜んでました。
<日本標準・臨床検査項目コードの制定と産学協同プロジェクト>
ああ、1986年に「臨床診断システム開発と事業化案」を書いたのですが、予備調査で創業社長の藤田さんにOKをもらいました。とりあえず200億円の予算。総合企画室で引き取ったのですが、及び腰で「モニターするだけ」。システム開発部のKri課長が、BMLが新ラボを建設するので、検査項目コードの業界標準を作りたいと、大手六社に呼びかけている、というので、2回目の会議に同行しました。検査業界だけでは病院に使ってもらえないので、臨床病理学会の項目コード検討委員会と産学共同プロジェクトにしようと発言し、次の会議の時に検討委員会の委員長の櫻林郁之助教授(自治医大・SRL顧問)を連れてくることにしました。櫻林先生からは、個人的に手伝ってくれと言われていたので、ちょうどいい機会だと思いました。臨床科学部の免疫電気泳動の研究者だったので、臨床化学部長のKaw部長に先生へ連絡を入れてもらいました。それで、毎月1回大手六社持ち回りで作業をしました。システム部門が自社のコードと検査項目にリストを持ち寄り、学術部門から人を出すということになりました。わたしは3回くらい出席したかな。Kaw部長はそのご学術情報部長になっています。わたしと同じ学術開発本部で仕事してました。彼女に誘われて1991年にもう一回だけ参加してます。その年に、臨床検査項目コードの日本標準がこの産学共同プロジェクトで完成し、臨床病理学会から公表されて、全国の病院のシステムで使われています。コード管理事務局はSRLがやっています。
日本の病院やクリニックは、検査項目コードに関しては同じものを使用しています。例外はありません。2年に一回、保険点数が改定されるので、SRLのコード管理事務局があたらしいリストをネットにアップして、一斉に全国の病院システムがデータをとりに来て、更新しています。
「臨床診断システム開発と事業化案」は10個のプロジェクトに分解して、PERTチャートを作成していました。その中の一つが、臨床検査項目コードの標準化プロジェクトでした。いまだに世界中で日本だけでしょう。世界標準ができるとすれば、日本の標準コードがベースになります。
NTTデータ通信事業部と3回ほどミーティングしましたが、画像データも扱うので、コンピュータの速度と通信速度が要求仕様を満たすには30年以上かかるというので、断念してます。カルテの標準化プロジェクトも含まれていました。SRLのシステム部長、あのときに、日本標準コードを作ることに反対でした。その下で仕事していたKur課長が「いいほっとこう」と一緒に動いてくれました。SRLって面白い会社でしたね。わたしはその会議に初めて出たときには、購買課の平社員でした。各社のメンバーと名刺交換してます。だれも「なぜ購買課の人が来てるの?」なんて言いませんでした。産学協同プロジェクトにして、日本標準コードを作るんだという提案に素直に従ってくれました。BMLのシステム部長さんの呼びかけでスタートしたんです。なかなか大胆な人でしたね、そして直。肩書でみてません、提案の中身で判断してくれてました。彼はすぐに取締役になっています。大手六社の全面バックアップによる産学協同プロジェクトのお膳立てができたので櫻林先生喜んでました。
こういうインフラ整備が大事なのです。厚労省にはできない仕事でした。
<関係会社管理部への異動と仕事の内容>
そして15か月後の91年4月に、できたばかりの関係会社管理部へ異動、子会社・関係会社の経営分析と業績評価を25ゲージのレーダーチャートを利用した総合偏差値で行っています。外部企業の経営相談も受けてました。営業が要請を受けてきたいくつかのラボの経営分析、3年間ほどの損益シミュレーションと買収交渉が仕事になりました。93年3月に東北の臨床検査会社を訪問したときに、経営改善を目的にした経営分析の説明と資本提携交渉に来ているわたしに、社長のTakさんはそんなバックグラウンドがあるなんて想像もしてません。わたしをただの経理屋だと思ってましたからわけが分からなくなっていました。
1億円の出資交渉をまとめ、6/1に出向してひと月ぐらいして、一緒にお酒を飲んだ時に、「底が見えない」とTakさん正直に言いましたね。SRLとの交渉事は全部私の役割でした。金沢のラボの買収交渉と時期が重なったのですが、創業社長の藤田さんから好きな方を選べと言われて、仕事がむずかしい東北の会社を選択しました。藤田さんから直接指示を受けて動いていたました。特命案件だったのです。Takさん、システムに関しては臨床検査センターでは自分が一番だと勘違いしていました。一緒に営業系の部長Kimが常務取締役で出向していますが、Takさん、「お前の会社どうなっているんだ、職位が逆だ」そう言ってました。(笑)
創業社長の藤田さんと3年の約束で役員出向、その期間のうちに黒字にしろとだけ指示を受けました。実際には15か月で実行可能な黒字化案、売上高経常利益率20%の経営改革案をつくって、その説明に藤田さんに文書で報告してから、SRL本社に呼ばれて、社長と副社長Yagさんの二人へ最終確認、その途端に実行中止、出向解除でした。藤田さんの本音が読めていなかったわたしがバカでしたね。(笑)
<CC社黒字化案:大株主とSRL子会社化の調整>
子会社のSML(千葉ラボ)実際に生産性アップを目的とした基幹システム開発で、生産性を2倍にアップして黒字転換したのを2年前に見たはずなのに、東北の臨床検査子会社を黒字にできっこないと思っていたのです。同じ方法では面白くないので、まったく別な方向から具体案をつくりました。ターゲットは染色体検査でした。八王子ラボの生産力への人的制限を解消できる案でした。コストの調査もしました、東北のラボの方が安くて生産性が高い。SRLグループ全体で、染色体検査の処理能力を1.5倍にするつもりでした。使用している染色体画像解析装置は同じものでした。リンパ球の培養液の濃度だけが違っていました。両方の会社に大きな利益が出るように調整が済んでいました。SRLの染色体課長Isiさんにも資料を送って確認してました。この計画を実行に移すと売上高経常利益率が15-20%になります。SRLが一番いい時で12%でした。それを上回る。こういうシミュレーションは間違わないのです。子会社の千葉ラボのSMAの稟議書を起案したときにも損益シミュレーションを添付してありました。それよりも実際の利益は多かった。だからわたしが経営改革案をデザインして損益シミュレーションしたら、そこにかかれてある利益は最低保証なのです。株式の過半数を譲渡して子会社化に東北の会社のTakさんはOKだしてました。大株主との調整にはわたしも呼ばれてやりました。ことの経緯は全部文書で報告していましたし、大きいことは電話でも了解をとっていました。わたしは、SRLへ入社した時から、発信文書には管理番号(所属部署記号と連番)と発信日を明記していたので、一連の書類はすぐにピックアップできるようになっていました。SRL勤務の16年間で8cmのファイルが8冊あります。全部自分の発信文書です。企業小説を書くつもりで、その材料にと考えてました。ファイルの9割は昨年11月の引っ越しのときに処分したので、小説は書きませんけど(笑)
そこまでまとめたのに、実行許可の打ち合わせのはずが、藤田さんからストップ指示が出て、数日で出向解除辞令が出されました。
素早い対応でした。藤田さんと副社長のYagさん、慌てたのでしょうね。わたしが職を辞して、東北の会社に転職するかもしれないと危ぶんだようです。基幹システムをつくり替えるだけで、生産性を2倍にしてSRLの支援がなくても黒字化は簡単でしたから。東北の会社のTak社長の信頼が厚かったので、心配されてもしょうがない状況でした。でも、わたしに転職するつもりはまったくありませんでした。東北に反SRLで強力な会社ができたら、SRLは戦略上、ちょっと厄介なことになります。生産性の高いラボで首都圏に進出されたら、SRL東京ラボの売上にも影響しかねません。
<SRL本社管理部門へ異動、子会社への転出、有能な若手の退職>
それで、管理会計課長と社長室、購買部の兼務辞令が発令されました。わたしにとっては、眠っててもできる、魅力のない仕事でした。人を育てることが仕事でした。3人ほどシステム屋になれそうな有望な若い経理マンがいました。半年ほどで本社勤務に嫌気がさして、子会社へ出向調整を強引にやりました。購買部の方はシステムの更新時期が来ていたので、それまで富士通の汎用大型機を使っていたのを、クライアントサーバーシステムに置き換える仕様書をかいて渡してありました。他の人には数人で1年かかる仕事でも、わたしにとっては1週間ほどの仕事です。最初の購買在庫管理システムは三人の担当者がシステムの専門知識がないので、外部設計の半分はわたしが手伝っていました。だから、簡単でした。NCDの宇田さんに渡せばあとは彼がどうにでもしてくれます。8年間ほどメンテナンスをしていて、スキルを飛躍的に挙げていました。SRLのシステム部は経営情報系のシステム構築にまったくタッチしたことがありません。Kon社長、わたしが半年購買部を兼務していた間に仕事を一週間で終わらせていたなんてご存じなかったでしょう。システム部長のSimさんは、本社ビルで何かのパーティがあったときに、そばに来て、「あの時は大変失礼しました、何も知らなかったものですから」とシステム部員の非礼を詫びていました。購買の機器担当そして学術開発本部スタッフでラボ見学のご案内にするときに、少し話しただけでしたから、わたしのバックグラウンドを知ったからでしょう。
沖縄米軍からの依頼で、出生前診断検査導入要請が1989年にありました。学術営業の佐藤君の担当でしたが、システム部へ相談したら、基幹システムでは対応が不可能という返事でした。学術開発本部でニューヨークから資料を取り寄せた東さん(お姉さんの方)が、取り寄せた論文を向かいのわたしの机にポンと投げてよこして、「章夫を助けてあげて、あなたならできるでしょ」って言いました。異動して2か月目くらいだった。英文資料を読んだらシステム部が断って理由がすぐにわかりました。人種、体重、妊娠週令などが基幹検査受付システムには入力できないのです。それで、沖縄営業所で必要事項を入力させて、八王子ラボから検査結果のファイルを送信してもらい、ファイルの結行処理をして検査報告書を沖縄営業所でプリントアウトできるように、システム仕様書を書いて、システム部へC言語の扱えるプログラマーを一人一か月間貸してもらうように調整しました。プログラム仕様書をC言語のプログラマーの上野君へ渡してプログラミングしてもらいました。それで、学術開発本部長とわたしと、学術営業の佐藤君、システム部の上野君の4人で、沖縄米軍司令官に説明に行きました。大歓迎でしたね。女性兵士が妊娠すると、法律で出生前診断検査を受けなければならない法律がありました。それまで違法状態でした。大変喜んで、三沢基地の司令官に検査はSRLに出すように命令。BMLさん突然取引がキャンセルになって驚いたでしょう。システム部が不可能と断った仕事を、わたしの方でデザインして1週間で仕様書を書き、沖縄営業所と調整して、システムの完成まで1か月でした。そんなことも、システム部長のSimさん、後で知ったでしょう。購買部へ派遣されていた、システム部員とっても無礼でした。富士通が書いてきた仕様書を一瞥して、お話にならないので、クライアントサーバーシステムに作り替える仕様書を渡したのです。数か月間かかって富士通につくらせた仕様書、没にしました。富士通最大の汎用大型機を基幹システムで使っていたので、それを使う構想でした。いま動いている購買在庫管理システムについてはまったく知識がなかった。突然購買部兼務課長になった私を素人だと勘違いしてました。憮然とした表情で、口を利かなくなりましたから。
システム技術を伝授できそうな頭脳の柔軟な管理会計課の若手3人の内、わたしが子会社へ出ていなくなったら、2人が会社を辞めてます。システムスキルのある管理職がいません。コンピュータで会計処理していない企業はないのに、管理職でシステム知識のある人材が1994年に私が経理部へ復帰するまでいませんでした。業界初の経営統合システムを開発して保有していましたが、あれはわたしがデザインし外部設計書を書いたものでした。経理部の人事は十数年間腐ってました。Kon社長はそのあたりの事情もご存じなかった。経理部に所属したことのある社員たちはみなさんよく知っていましたよ。そういう情報源へKonさんはアクセスできません。仕方のないことですが、ある意味裸の王様だった。わかっていたとしても、人材不足で困っただけでしょうね。職位で選べば悩まずにすみましたが、そのせいであきれ果てた有能な社員が次々に退職することになるのは防ぎようがありません。結局は、SRLの体力を大きくそいでしまいました。やめた一人は、エイベックスの国際経理課長に、もう一人はベンチャー企業への転職で、40歳くらいで経理担当役員になってました。有能な社員は少なくなかった。その多くが人事のいい加減さを自分の目で見てさっさと見切りをつけたのです。
<企業価値の評価は専門スキルが必要>
帝人の臨床検査子会社(羽村ラボ)は1996年に、Konさんが社長に就任して初めての大型案件がスタートから暗礁に乗り上げて、四条件での担当命令、経営状態が過去10年間は悪いのは1988年にわかっていたので、帝人本社が困り抜いているだろうから、四条件すべてを飲んでもらうのは、こちらの交渉の仕方と合弁会社経営の仕方次第だと、判断したのです。だから、即決で、「経営の全権を委任してくれたら引き受けます」、「わかった」それだけでしたね。最初から絶対やれるという自信があったのです。帝人本社の役員の心理を読み切っていました。合弁解消、資本引き取り、帝人羽村ラボの買収交渉したときに、買収価格が問題になりましたが、経営分析モデルで買収価格を算出し、それを理由に帝人本社に安い価格を提示し、これが国際基準だと説明して飲んでもらいました。帝人は事業が商社化していたので、そういう説明が社内に通りやすいのです。どうやって計算したらいいのか帝人側には専門知識がありませんでしたが、説明したら理解する能力はありました。SRLの関連事業部がでてきて勝手に事を勧めようとしたので、ストップをかけてます。評価の仕方に関する専門知識がないのに仕事しようとするのが一番危ない。
米国の出生前診断会社の買収交渉のときにベルトハイムシュローダーの専門家がはじいた企業価値とほど同じ評価額だったので、検証済みでした。帝人のIsi常務、合弁会社は決って経営がうまくいかない、いままで帝人側で引き取ってきたが、合弁相手に資本引き取りを提案されたのは初めてだと、笑ってこちらの提案を飲んでもらいました。安井さんが社長になって、赤字の臨床検査子会社の再建は、Mat専務とIsi常務の担当だった、お二人の立場は危うかったのです。帝人臨床検査子会社が売却ができて、彼らはホッとしてました。1988年に経営状況と帝人本社の意図を読んだ通りでした。わたしにとっては1988年、帝人が染色体がぞ解析装置をっ購入したという情報をつかんだ時が、帝人臨床検査子会社買収のスタートでしたから11年間の仕事でした。運命が巡ってくるまで他の仕事を次々にこなして8年間待ちました。
<人材不足が引き起こして緊急事態、そして非常手段>
話を元へ戻します。帝人の臨床検査子会社とSRLのメンバーの合弁会社立ち上げプロジェクトに、1996年11月に初参加して、すぐに呼ばれたわけがわかりました。1月立ち上げなのに、11月になっても販売会計システムは発生基準で売上計上することだけ決まっていただけでした。システムについては手もついていません(外部設計書を数日で書き上げて、帝人の臨床検査子会社へ渡してます)、本社をく置場所が狭すぎて、分離ラボはすぐ近くに確保しなくっちゃいけないし、持ち込む治験関係のデータファイルの量が申告よりもずっと多いらしいことが帝人側の臨床検査子会社から伝わってきて、再調査をこちら側でする必要が出てきていました。帝人側の保管資料の量がSRLに比べて異常に少ないので、こちらの人間立会いの下に保管資料の再確認をしたら、2倍のスペースが必要なことが判明、仕切り直したら間に合いません。常務で出向するOkaさんもわたしの指示で動いてもらうという変則体制でスタートでした。一緒によくやってくれました。いい相棒でしたね。
誰かの下で調整しながらやるのではできっこありません。方法は任せてもらいました。3年で四つの課題がクリアする具体的な戦略計画をだれも描くことができませんし、ましてやそれを3年でやれなんて無茶な話です。Konさんは仕事の権限と職位と責任の関係をご存じだったはずですが、他に駒がなかった、わたしの起用は非常手段でした。社長になってはじめての上場企業との大型案件でしたから、失敗するわけにいかなかったのだろうと思います。医師であるKonさんには社内の人材の能力に関する情報へアクセスのできるネットワークがありませんでした。そしてマネジメントのプロが側近として必要でした。社長室にはいませんでしたね。プライドだけ高くて、全員に専門能力ナシ。総合企画室が社長室の前身ですが、中身はちっとも変わりませんでした。臨床検査会社なのに、世界一の自動化ラボである、八王子ラボを見に来たことさえない。だから、本社と八王子ラボは対立していました。「本社はラボのことわかっていない」「ラボは本社の都合を理解していない」、ようするに相互不信が続いていました。
<合弁会社社長と経営政策でしばしば衝突>
帝人本社から臨床検査子会社へ部長職のHorさんが社長職で派遣されていました。一ツ橋大出身、本社エリートの本流にいる人でした。合弁会社も兼務で社長職をやってもらいました。赤字会社を黒字化するには経費を削ればいいと考えていました。「売上-費用=利益」って、大学の簿記の講義でならったのでしょうから、染色体画像解析装置を入れても売上がほとんど増えなかった、前臨床(動物試験)ラボを作ってもほとんど売上が増えません。だから、費用を削るしかない、そう思い込んでいました。信じられないでしょう?でも実際そうでした。扱い兼ねました。経営判断に関しては、SRL社長のKonさんから、全権委任を受けているので、社長がHorさんであっても、合弁会社の重要な経営政策については、わたしと相談、合意が必要ですとはっきり申し上げてありました。役員でもありません、ただの管理担当部長職がです。
羽村のラボと日本橋の合弁会社本社を行ったり来たり、激務だったでしょう。
合弁会社の方も経費を削ることばかり考えます。治験資料の保管で帝人側の申告に大きな誤差があったので、急遽ビルのオーナと話をして、地下のスペースを借りることに決めました。検体のハンドリングは「(検体)分離ラボ」扱いですから、同じスペースでは規制を通りませんので、隣のビルの一室を借りました。離れていたら仕事に支障が出ます。全部賃貸料が発生します。無理やりそれでスタートしましたが、仕事を見ていると製薬メーカーから問い合わせがあるたびに地下へ行って資料探しをしています。同じフロアに資料が保管していないと業務効率が著しく落ちます。それで、立川へデータ管理チームを移しました。同じフロアに移動式の書架を設置しました。わたしも日本橋から立川へ移ってそちらで仕事。業務打ち合わせの会議を頻繁にしますので会議室を用意して、大きなテーブルを設置してます。最初から、広いスペースを確保していれば、こんな無駄なことは必要ありませんでした。保管資料の分量調査がでたらめだったこと、分離ラボが必要であることを知らなかったことなど、事業内容の無理解が表面化してました。
日本橋本社へは週に1度いって仕事をしてました。Horさんからクレームが出ました。日本橋に居てもらわないと仕事にならないというのです。営業担当常務のOkaさんが日本橋常駐ですから彼に仕切ってもらえばいいと伝えましたが、困るというのです。
パッケージシステムを開発するときにも、5000万円の投資に反対でした。「では、Watさんから提案のあった古いシステムの更新に8000万円かけますか?」と尋ねると、「それはこまる」との返事。具体案が出てきません。
とにかく経費を削って黒字化するというのです。帝人本社を説得できないからですが、そちらはIsi常務にわたしの方で説明してありますから、取締役会で報告するだけでいいようになっていました。
大阪営業所が帝人の建物の中に間借りしていました。資料の保管スペースが狭いという報告を受けていたので、現地調査をしました。なるほど業務に支障がありましたので、その場で帝人とスペース拡張交渉をしました。当然、賃借料が増えます。Horさん、反対でした。それでは業務が回りません。データ管理事業を軌道に乗せれば、賃借料の増加分は軽くおつりが来ます。そういう発想ができませんでした。マネジメントに向かない方でした。
パッケージ開発が済んで、それを売り込むまでは赤字が続くので、1年間は運転資金が足りなくなります。帝人は三和銀行本店がメインバンク、SRLは富士銀新宿西口本店でした。新宿西口支店は重要支店ですから支店長は富士銀行取締役です。決算報告を両方にしています。2度目の報告に行ったときに、対応した三和本店営業部長は、「前にいただいた損益シミュレーションよりも結果がいい、ebisuさん、今期もシミュレーションよりもいい結果出すでしょう、資金融資いくらでもします、親会社の保証は要りません」「え、いくらでもといっても、限度があるでしょう?あなたの決裁権限範囲内だといくらまででしょうか?」「そうですね、10億円までならわたしの権限で貸付できます、それ以上は上の決済が必要ですが、大丈夫です」と言っていただきました。これで、運転資金の枯渇の心配がなくなりました。黒字化すれば、資金に余裕が出ます。それまであと1年でした。せっかくですから、金利の安いインパクトローンで1億円借入しました。通常の金利は2-3%でしたが、赤字会社なのでインパクトローンを利用することで金利を安くしてもらいました。1%でした。輸入商社にいたので、インパクトローンなんて借入のしかたを知っていました。いい経験になるので経理業務を任せていたSakさんに電話をかけてやってもらいました。借入前に、取締役会へ報告はしました。SRLのKon社長へは毎月業務報告書を文書でやってましたから、帝人本社のIsi常務が出席する取締役会で報告すればいいだけでした。堀本さんはそういう実務を知らないので、報告のみ。資金手当てに関してはわたしにお任せでした。SRL関連事業部からは事前に取締役会で協議していない、勝手にやっているとクレームがありましたが、SRLにそういう規程はあっても合弁会社にはありません。小さな会社にそんな規程をつくることに精力を割いている暇なんてありません。黒字化してからでいいというのがわたしの判断。子会社に親会社の規定をそのまま持ち込んで、自縄自縛になっている例を関係会社管理部で仕事していた2年間でいくつも見ました。コンパクトにしないといけないのですが、諸規程類を作り直すのは手間のかかることなのです。Konさんの特命で動いていたので、Konさんへの報告だけちゃんとしていればOKでした。帝人は本社のIsi常務が、取締役会に出席したときに報告すればでいいのです。やりたきゃ、取締役会メンバーで勝手にすりゃいい。わたしの職務権限外です。2年目には取締役会メンバーになってました。そのまま2年目もやらせるのは気の毒だと思ったのでしょう。(笑)
Horさん、思うようにいかないのと、羽村ラボと合弁会社日本橋本社と立川のデータ管理業務拠点を行ったり来たりで精神的に参っていたようです。あるとき、立川に打ち合わせがしたいといってこられました。経理業務を任せていたSakさんにはいろんな経験を積んでもらいたくて、銀行に同行したり、システム回りの仕事をやらせたりしてました。このときも、Horさんとの打ち合わせに立ち会わせました。Horさん、突然切れました。大きな声で叱責を始めたのです。一息大きく吐いてから、「わたしは合弁会社の経営についてはSRL側の代表です。あなたは帝人側の代表、対等の関係ですから、一般社員にするような横柄な態度でのミーティングに応じるつもりはありません」、そう告げました。Sakさんが慌てて、Horさんをなだめてました。少ししたら落ち着いたようで、正気に戻って「すまなかった」と謝罪しました。心労が重なっていたのでしょう。この前後からすこしノイローゼ気味の様子が診て取れました。大阪営業所長を羽村ラボの社長室に呼びつけて、大声で怒鳴っていたという噂が伝わってきていました。まずいなと思いました。社員に被害が出ました。そのあたりで、帝人のIsi常務が薬学博士のKoyさんを橋渡し役として派遣してくれたのです。状況をつかんでいました。おそらく大阪の方から帝人本社にある件が伝わったのだと思います。帝人本社もHorさんの精神状態を知ってました。だから、資本提携解消の話や羽村ラボの吸収合併の話は一切Horさんの耳に入れずに、Koyさんを通じて交渉してました、誠実で正直な人でした。帝人には好い人材がいると思いました。1988年から帝人の臨床検査会社がどういう経営状況にあるかは薄々知っていましたと、こちらも染色体画像解析装置を導入したときに情報をつかんでいたことを正直に話してます。帝人の臨床検査事業は維持が無理なことを具体的に説明しました。Horさんにこれ以上負担をかけたら壊れかねません。水面下での交渉事は表に出さなければならない時期が来ます。話がまとまったところでHorさんの耳に帝人側から入れました。Isi常務は話し合いがまとまって両方の会社でパーティをした席上で、わたしのところへ来て、「Horさんを本社に戻してそれなりに処遇するので了解してもらいたい」そう言ってました。心労がたたっていたので、「そうしてください」と返事しました。Isi常務、情のわかる方でした。そのときに帝人侮れないなと思いました。SRLのKon社長は、帰り道歩きながら、一部上場の老舗企業と互角に渡り合って、最初の目標通りに事を運んだと喜んでました。
帝人本社としては70点だったでしょう。ほんとうは治験検査ラボを残したかったのです。医薬事業が柱の一つになっていましたから。30点の減点理由はそういうことです。
CC社で子会社化するのに、会社再建のためと先方の社長に株の譲渡を納得してもらい、大株主2名とそのほか2名の比較的量の多い株主との交渉が、結果から見るといいトレーニングになっていました。場数を踏むことでスキルが上がります。愉しかった。老舗の一流の上場企業でも、交渉事の運び方は似ているところがあります。もちろん違いも。高度なスキルを背景にしないと説得できないシーンがありました。買収価格の算定です。帝人の社内稟議が通るような、エビデンスを用意しました。ベルトハイムシュローダーが1990年頃にやっていたような企業の買収価格算定方法なら、Isi常務は社内稟議を通せます。大したことではありませんが、細かいところにも意を砕く必要がありました。お互いの利害損得が直接ぶつかるシーンですから、客観的な国際基準での算定方式が必要でした。
<GCPが改正された>
治験の実施基準にGood Clinical Practiceがあります。合弁会社立ち上げの翌年だったか、大幅に改正されました。もちろん、厳しい方向へです。その影響を受けて、製薬メーカーの臨床治験がピタッととまってしまったのです。一斉に様子見をしていました。あれには驚きました。製薬メーカー向け臨床治験データ管理用のパッケージシステムを開発していなければ、大幅に赤字を増やすところだったのです。パッケージ開発という先手を打っていたので、赤字を増やさずにすみました。パッケージ開発は、収益構造上、検査では黒字化できないので、利益率の高い事業分野を増やすために取り組んだのですが、それができたとたんに、GCPが改定されたので、偶然に「先手」を打ったことになったのです。あの会社はついていました。わたしも。
GCPが大幅に改正され、新基準が公表され、新規の治験がしばらく止まったとき、合弁会社の社長のHorさんの心労は、極限に達したでしょう。 社長業というのはそれほど精神的圧力が高いのです。
<検体保管コストの問題:検体保管事業>
1年半ほどたたときのことでしたか、SRL業務管理子会社のNog社長から、八王子ラボで治験検体を保管しているスペースの費用負担をしてもらいたいと申し入れがありました。突然の申し入れなので、理由がわからず確認しました。八王子で合弁会社の人間が、検体のハンドリングをしていることは知っていました。わたしは、その部分はSRLへ支払っている検査コストに含まれていると思っていました。勘違いでしたね。会社立ち上げの時に行ってほしかった。新会社の存立にかかわる重大問題でした。場所代、そして―80度の冷凍庫15台、ハンドリング専門の人員数名の人件費を負担しなければならない。検査料金には含めていいものではありません。治験以外でそんな保管はありませんでした。治験のGLP(品質管理基準)で検体の保管が義務付けられていました。副作用があったら、10年でも遡って、保管している検体を使用して検査し、原因究明しないといけないのです。
Nogさんの言うことはもっともだったので、負担を受け入れました。そして、実務をチェックしデータ管理チームと狭義、営業マンたちに保管料金を別途徴収しなければならないことを説明しました。70%で受けて、SRLへ45%支払えば25%しか合弁会社の取り分がありません。その中から検体保管事業のコストを賄えるはずがありませんでした。合宿演習を実施したときに稚拙な案が、営業マン数人に間から出されました。なぜ考えが足りないのか、何を考えないといけないのか説明してます。
①-80度で20年耐えられる保管容器を探す
②紙のラベルは冷凍すると接着剤が凍結乾燥によってはがれるので別のやり方を考える
③検体保管の仕方の検討:実務設計
④検体保管システムの開発
マニュアルでは検体探しに、保管した人の記憶に頼るしかない。どの冷凍庫のどの段の、どのラックに該当の検体があるのか、見つけなければなりません。マニュアルで、人の記憶頼りでは、品質保証ができないのでお金が取れません。検体保管管理システム開発が必要でした。ここをうまくやれば、他の企業ではやっていない部分ですから、治験データ管理パッケージシステムとともに営業の武器の一つになります。ピンチはチャンスです、しかし技術的な難易度が高い仕事でした。
-80度だと蛋白質の変性が小さいので、温度の記録計がついたものを購入していました。購買課で機器担当をしていた時に十数台買っています。
保管容器の問題は扱っているメーカが2社テルモともう一社ありましたので、そちらへわたしが問い合わせました。保管効率が問題ですから、平たい底のものが要件でした。専用ラックも必要です。これは特注になりそうでした。②は容器へ印刷しかありませんが霜がつくので読み取りにはそれを削らなければならないので、こすっても消えないくらいしか利した印刷が必要でした。目視できる数字とバーコードあるいはQRコードを採用するつもりでした。問題は、どこにどの検体があるのかがはっきりしていなければなりません。10年前のファイザーのシクロスポリンの治験検査の検体をピックアップしてほしいとファイザーから要請があったら、もれなくピックアップできなくてはならないのです。これはコンピュータシステムで管理しないといけません。通常の在庫管理よりもずっと難しい。手でのハンドリングを営業マン数名が考えて提案してくれたのですが、考えが足りないことを説明したら、1か月ぐらい後で、だいぶ現実的な案が出てきました。考えさせると若手の社員は成長します。とりあえずいままでのやり方を続けるしかありませんが、コンピュータシステムでのハンドリングをして、しっかりした品質保証体制を確立して、検体保管事業を確立する方向で社内をまとめました。顧客ニーズを熟知している営業マンの中から一人を抜いて検体保管業務に従事してもらい、実務デザインをしてから、システム構築をするつもりでした。それまでは検体保管事業に関する料金負担をメーカに要求できません。データ管理事業が粗利益率が高いので、それでカバーする方針を決めました。検体保管コストをいままでの収益構造で負担したら、赤字からの脱出は不可能でした。SRL業務管理会社のNogさんのいうことはまっとうなことだったので、慌てました。SRL側が検査料金に含めて負担してくれるものだと思っていたのです。検体保管のハンドリングをしていた社員数名を合弁会社へ出向してもらいました。Katさんという営業マンにハンドリングチームリーダーを担ってもらいました。わたしが辞めるまで、まだ実務デザインができていなかったので、どうなったか、心配でした。システム開発案件としては難易度の高いものだったからです。難易度の高い課題を乗り越えれば、その仕事を担う社員が成長します。彼の下で働く準社員とすったもんだしていましたが期待はしていました。人も管理しなけりゃいけません。気持ちよく働いてもらいつつ、ルールはしっかり守ってもらうというのは、マネジメントそのもの。相手の言い分を聞き、自分がどうしてほしいのか具体的に説明して、理解と納得をしてもらう。課長にするにはそういうことができるようになってもらいたかった。SRLから出向した管理職には無理でした。いままでの業務をやるのが精いっぱい。それでよかったのです、いままでは。そのままでは新会社へ転籍したあとで、同じ給料を保障できません。なんとしても最低でもSRL並の給料、願わくばそれ以上を実現したかった。だから要求も具体的できつかった。一人一人性格が違うし、担っている業務も、背負う課題も違うので、同じ対処というわけにはいきません。「個別指導」しかありませんでした。治験分野の仕事では彼らの方が先輩です。しかし、同じやり方では利益が出ません。一緒に考え、やってみるしかありません。データ管理チームは、当初は置業担当常務のOkaさんの管理でしたが、パッケージ開発を契機に、わたしの方へ移しています。データ管理チームの方からの希望が出たし、システムがらみの案件が二つ出てきたので、わたしの参加に組み込まないと管理できません。Okaさん、二つ返事で了解でした。検体保管チームもわたしが管理することになりました。夜、作業を一緒にしてみました。何か気配がします。音がしたり、気配がすることがよくあるのだそうです。臨床治験の患者さんはなくなっているケースが多いですから。検体は冷凍庫の中で生き続けています。血液のタンパク質は冷凍して眠っているだけで活性を失っていません。だから、引っ張るのです。一度お坊さんにお清めをお願したそうです「うわー!、無理!」と言ったと聞きました。だから、夜間のハンドリングは複数名でやってもらってました。一人がトイレに行っている間が何となく不安...わたしは鈍感なので感じませんでした。「気のせいじゃないの?」「ebisuさん、一人で夜間体験してみます?」「怪談話聞いちゃったからとっても怖くてできません」。
検体保管は大事な仕事なのです。毎日毎日検体保管業務をやってくれている数名の社員と準社員に感謝です。わたしがやっているマネジメントもそういう必要な仕事の一つにすぎません。データ管理チームの仕事も治験検査受託事業を支える屋台骨の一つでした。それぞれ担っている仕事が違うのみ。
わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように
地面を速くは走れない
わたしは体をゆすっても
きれいな音は出ないけど
あのなる鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ
鈴と、小鳥と、それからわたし
みんな違ってそれでいい。
この金子みすゞの詩は、SRL社長のKonさんが好きな詩(うた)だった。ときどき、少年のような表情見せる人でした。育ちがいいんだなって思いました。
<外部との調整仕事の実際>
関係会社管理部で仕事していた時に、九州の子会社JMLから電話が入りました。4月からある検査項目の検査方法をSRLに合わせたいのだが、3月20過ぎに話をしたために、RI検査部に断られたので間に合わないなんとかならないかと連絡がありました。「15分したらもう一度こちらへ電話してください、調整します」と伝えて、RI部の課長に電話を入れました、検体の数を言って、期限を伝えました。すぐにOKでした。ラボで仕事していたので、旧知に課長でした。予算なければ何とかするよ、30万円くらいかかるだろう」「大丈夫です、こちらでなんとかします」、それで15分後にJMLから電話が入りました。「話はつけたから、〇〇課長宛てに検体を送ってください」「お金はどうなります?」「こちらで負担するから大丈夫です、それも話をつけてあります」。どうしてそんなことが15分でできるんですかって不思議がってました。顔見て一緒に仕事したことのある人間の頼みは断りずらいものです。自分の裁量で何とかなるならしてやろうって気になります。ファルマシアLKBにSRL仕様の100本ラックでガンマカウンターをつくってほしいと頼んだことがありました。1台入れたら、真っ白でデザインがよかった。それまではアロカ社のガンマカウンターでしたが、LKBはデザインがとてもいいので、全部LKB社製に変わっていました。その課長が担当でした。LKBは100本ラックのガンマカウンターを日本向けカタログに載せてずいぶん売ったでしょう。「SRLさんは全部LKB製のガンマカウンターに切り換えました」と言えば、ずいぶん売れますから。ファルマシアLKBは液体シンチレーションカウンターもバイアルではなくて紙フィルター方式のものを開発して、SRLが世界で初導入。96チャンネルだから、生産性が96倍、そして天井まで積み上げられていたバイアルが要らなくなったので、地震を心配していた検査担当者が喜んでました。検査室が広くなりましたね。
検査機器のことが理解できて、日本の特殊な事情を欧米のメーカーに的確に伝えられたら、日本市場向けの性能やデザインの良い製品を開発してくれます。国内でも同じです。
栄研化学のLX9000という酵素系の自動分析器の開発がそうでした。ある件で貸しができたので、開発部長が開発中の機器の情報をくれました。大型の自動分析器だったので、臨床化学部でインスタレーションテストを提案。市場に出す前に数か月テストしました。再現性が悪くてトラブルになりましたが、間に入って調整しています。とりあえずの解決案を提示して実行してもらいました。やっている間に根本的な解決法を考えてもらいました。市場に出した時にはトラブルなし。あれ、インスタレーションテストやらないで販売したらたいへんなことになっていましたね。一度そういう関係ができると、開発情報は教えてくれるし、検査試薬の値引き交渉も楽なのです。winーwinですから。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」でお付き合いしていました。
<帝人本社サイドの切羽詰まった事情>
帝人のIsi常務も非常勤役員で毎月取締役会に出席していました。戦略策定もデータ管理事業へのシフトによる黒字化案の策定やその説明も、わたしから取締役会へ説明していました。帝人のIsi常務はヘンな会社だとは思っていたでしょう。合弁会社を経営しているのは帝人本社から出向していた社長ではなく、SRL側の常務のOkaさんでもなく、管理部門担当部長のわたしでしたから。でも、Isi常務は肩書で人を見ていませんでした。最初から最後まで仕事に関しては信用してくれました。質問の仕方は率直でした。正面からはっきり手短にお答えしたらいいだけ。言葉のキャッチボールは少なくていい。ありがたかったのと同時に帝人本社では部長クラスのHorさんと、こんなにも仕事の能力に差があることに驚きました、どちらも一橋大です。よく考えたら、当たり前のことでした。一橋大でも仕事の能力が優れているのは百人に数人です。特にマネジメント能力に秀でる者は少ないだけのことでした。
SRL側から常勤役員が常務で一人、非常勤役員は二人、営業担当役員Tumさんとラボ担当役員のHirさん。帝人はIsi常務が非常勤役員で毎月の取締役会に出席してました。97年に帝人本社社長に就任した安居祥策さん(京大経済学部)からせっつかれていたのでしょう。
<CC社への役員出向は変則の処遇、機能不全の人事制度>
創業社長の藤田さんの特命で東北の会社への出資交渉をまとめて、役員出向したとき(1993-94の15か月間)も変則でしたね。先方の社長Takさんの要請で取締役経営企画室長での出向でした。SRLの内規では課長職は子会社や関係会社の役員にはなれないのですが、創業社長案件だったので人事部で問題にもなりませんでした。藤田さんには毎月文書で報告を出していましたが、ときどき電話を入れるように指示があります。営業所へ出向いて、営業所の電話を使って話してました。黒字化案をまとめて出向会社の社長の了解を取り付けて文書で報告、次いで実行に移すために最終確認に本社へ出向いたら、藤田さんと副社長のYagさん、二人とも「聞いてない」と仰った。理由がすぐにわかりました。黒字の幅が大きすぎました。有力子会社社長はSRL本社役員兼務が慣例でした。東北の会社の社長をSRL本社役員に据えるのはリスクが大きすぎたのです。「わたしの勇み足のようですね、わかりました」と言ったら、お二人は顔を見合わせましたね。「聞いていない」というのはお芝居のようでしたから、わたしのほうもお付き合いしたのです。(笑)わたしが文書で事前に報告済み、約束が違うと反論すると思って用意していたんです。しませんよ。説明されなくても二人の様子で事情は瞬時に了解できましたから。(笑)
黒字化案実行を拒否されて、東北の会社では仕事はもうありませんから、すぐに出向解除事例が出されました、速かった。3年のお約束がたった15か月でした。それでSRL本社経理部管理会計課長職、社長室兼務、購買部兼務の3部署兼務辞令が発令されたのです。こんな異常な辞令は後にも先にもありません。わたしの代わりに4名の出向者を出しました。社長はTkaさんからSRL営業担当常務Nodさんへ変更。この交渉はわたしがやってます。1年後に資本提携を解消、持ち株を他の臨床検査センターへ譲渡して撤退しました。戻る場所のなくなった営業担当常務はそのまま退職してます。腹の中では撤退を決めていたのですから、営業担当常務を外したかったのでしょう、藤田さんのところへは3日に一通の割合で内部告発がありましたから。ようするに藤田さんのシナリオ通り、出向者の4名には迷惑だったでしょう。苦い経験です。東北の会社の社員のみなさんがたいへんな思いをしました。
<何が何でも最優先でやりたかったこと>
合弁会社を経営していて、一番困ったことは給与格差でした。ほぼ1:2でした。こんなに差が大きいとは知りませんでした。机を並べて仕事しているのにもらう給料が出身母体でこんなに違っています。課長職でも1:2でした。どちらの社員もいずれ転籍になりますので、帝人の臨床検査子会社の社員はSRL並の給料がもらえると期待してますし、SRLの社員は転籍で給料が下がることを心配してました。黒字化しただけでは高い給料は保証できませんので、SRLを上回る給料を全員に支払ってやりたくて、事業の柱を治験検査から治験検査のデータ管理事業へシフトしました。治験検査ではマージンが20-25%しかありません。だから、治験検査からデータ管理事業へと大きく方向転換が経営の主要な課題になりました。1年間で手を打ちました。ラックマウントのNTサーバーで治験データ管理用の汎用パッケージを開発しました。こちらの利益率は70%ほどもあったので、製薬メーカー向けが終われば、大学病院向けや大病院向けのパッケージを開発すれば、10年間は高収益会社を維持できます。SRLよりも高い給料を支払ってやれます。それが目標でした。
<新規事業分野の開拓:治験データ管理パッケージシステムの開発>
東大応用生物統計のMakとシステム担当のKajが、データ管理実務を熟知しているベテランのWatやMiyと協力してよくやってくれました。必要な道具がなにかは知っていましたので、統計ソフトのSASとラックマウントの強力なサーバーをすぐに購入してやりました。ラックマウントのサーバーは治験原始資料をコピー機でデジタル化して、暗号をかけて原本補完するシステムを載せるためでもありました。帝人のIsi常務には説明してあったのでOKですが、事情を知らないSRL関連事業部からクレームが出ました。過大投資だし、取締役会の承認をとっていないという理由でした。たった5000万円でした。わたしは、取締役会の正式メンバーでもなかったし、Kon社長にも文書で報告したあったし、帝人本社のIsi常務の了解ももらっていました。取締役会規程や権限規程は立ち上げ当初はありません。赤字を黒字にするのが最優先事項でした。Kon社長の特命案件だったので、毎月ちゃんと文書で報告は入れてありましたが、関連事業部には連絡していません。第一、そんな部署はわたしが出向したときにはありませんでしたから、存在も知らなかった。突然、Hahさんからメールをもらって、びっくりでした。実は、今まで使っていた三菱のオフコンの更新要求を撥ねつけました。ベテランのWatからの要求でした。ラインプリンター2題だけで2000万円、総額8000万円でしたから、それをラックマウントのサーバーシステムに切り換えて投資額を3000万円カットしたのですが、事情をなんにも知らない。後からわかったのですが、組織上のわたしの位置づけは、関連事業部からの出向になっていました。だから、賞与の査定はこの部署がしていました。Hirさんが取締役関連事業部長だったかな。そんな位置づけになっていることは、Hirさんから一言も、聞いていませんでした。Konさんもそのあたりは無頓着でした。たぶん、Konさんの方からHirさんへは一度は処遇のことで話がいったはずです。取締役にするのに次長職へ昇格させなければなりませんでしたから。帝人本社は人事のおかしい会社だと思っていたでしょう。
<帝人Isi常務の配慮:調整役の派遣、交渉の経緯>
2を余して四つの課題をクリアしました。ついてました。帝人本社のIsi常務がパイプ役に薬学博士のKoyさんを臨床検査子会社に調整役として配置してくれました。臨床検査子会社と合弁会社の社長のHorさんには心労が重なって無理だったので、極秘にKoyさんと調整しました。こういう時は正直に誠実にやるのが大原則です。ちゃんと意が通じてました。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」、なのです。自分だけがよけりゃいいなんてみじんも考えちゃいけません。以心伝心でつたわります。
Koyさんが、しっかり間を取り持ってくれました。利益率の低い治験検査から治験データ管理事業へとシフトすることで短期間で黒字化したので、帝人本社のIsi常務から、帝人の臨床検査子会社経営も兼務であなたに社長をやってもらいたいと、提案がありました。Isi常務、合弁解消した後、当然にわたしが社長をやると思っていました。実質的に社長の仕事をしていたのはわたしでした。だから、帝人の臨床検査子会社を合弁会社の子会社にして兼務社長で両方の経営を頼むと、そういうことでした。帝人本社は赤字がずっと続いている臨床検査子会社をどう立て直したらいいのか困っていました。2年半にわたって、Isi常務はわたしの経営の仕方を観察していたのです。Konさんの指示は吸収合併でしたから、齟齬があります。SRL社長のKonさんには帝人のIsi常務の提案を伝えましたが、次長職が、帝人子会社の社長を兼務することは不可能でした。SRL本社役員でないといけないようになっていたのです。有力子会社の社長職は本社役員兼務が慣例でしたから、社員契約を切って本社役員にすればよかっただけ。不自由なものですね。子会社のSRL東京ラボと統合して、社員を救ってあげたかった。結局当初の計画通りに、買収することになりました。帝人本社は医薬事業にも力を入れていたので、できれば臨床検査子会社を残したかったのです。でも、経営できる人材がいなかった。他社の人間でも、合弁会社の子会社にしてでも、この事業分野を残したかったようです。医薬品事業はそれほど大切でした。
帝人のラボを視察して事前にチェックしています。治験検査に特化したラボでした。あれでは採算に乗せられっこありません。治験検査に特化した帝人のラボと特殊検査に特化したSRLとはほぼ同時期のスタートでした。それが40年余りで売上比で1:20の差がついてしまった。一橋大の本社エリートがかわるがわる子会社社長をやっても事業を採算に乗せられなかった。事業分野を見極めるセンスを持った方が歴代社長に1人もいなかったことを示しています。わたしが、数時間ラボを見学させてもらっただけで赤字の理由が理解できました、赤字になるのが当然の事業分野でした。難関大学出身者で受験勉強を一生懸命にやり続けた人を社長にしてはいけないようです。事業分野を見分けたり、マネジメントを首尾よくやるのは、受験勉強とはまったくかかわりがありません。マネジメントに優れている人は、大学へ入る前に、それ相応の経験を積んでいます。大学卒業してからでは手遅れだと思います。学び方も、答えがある問題を解くのに慣れてしまったらアウトです。仕事は答えが一つではないし、ストライクゾーンに入っていればいいだけ、そしてだれも答えを知らない問題を考え続けることができるスタミナ、それがマネジメントを支えます。
ラボを見学して、それぞれの部門の責任者にどれぐらいの業務量があるのか確認して歩けば、どの部門がどれくらい赤字なのか、コストのほうは見たらわかりますから、整理の仕方を考えました。治験ラボとしてはSRLが採用している精度管理基準、米国CAPライセンスを取得できませんから、生き残れない。SRLで検査しているものを帝人の羽村ラボに移管することは不可能でした。製薬メーカからクレームが入ります。品質管理基準に大きな差があるのですから。
<帝人臨床検査子会社社長の大きな勘違いと帝人本社の対応>
帝人の羽村ラボの社長Horさんは、合弁会社の社長でもありました。合弁企業が設立されたら、SRL受託検査分が帝人臨床検査会社に移管できると、帝人本社のMat専務とIsi常務に説明していました。それで黒字化できると。事業の性質がまるっきりわかっていませんでした。帝人本社の役員のお二人もHorさんから説明を聞いて、とんでもない勘違いをしていることに気がつきませんでした。
そうはならなかったので立ち上げて4か月後くらいに、事情聴取のために帝人本社に呼ばれました。わけがわからなかったのだと思います。Hor社長から同行してほしいと申し入れがありました。会議室に入ると緊張して震えてました。Hor社長の説明を一通り聞いていてもわからないというので、わたしの方で用意していたチャートを使って理由を説明したら納得いただけました。SRL検査分の移管は精度管理基準が異なるし、技術力にも差があるので、製薬メーカーからクレームになるので不可能と説明しました。SRLが取得しているのは世界一厳しい品質管理基準の米国臨床検査学会のCAPライセンスです。これをクリアするのは5年はかかるでしょう。とても間に合いません。包み隠さず正直に誠実にやればいいのです。治験検査事業のことをご存じなかったから、事情を知ったら素直でしたね。「どうしたらいい?」と訊かれて、新会社の方は、治験検査は利益率が20%くらいしかでないので、治験データ管理システムのパッケージを1年以内につくってデータ管理事業を柱に据えで、収益の改善を図ります、それで3年以内に黒字化できます」と言ったら、「初めて納得がいった、餅は餅屋に...か」、これが帝人本社役員お二人の返事でした。臨床検査子会社の方は見学もしていないので、見ないとわかりません位のことは言ったかもしれません。帝人には臨床検査子会社の経営は無理だと悟ったようでした。あとは、子会社の処分だけ。このころ帝人社長になった安居さんから、臨床検査子会社をどうするのか二人の役員はせっつかれていました。安居さんは京大経済学部、専務と常務は一橋大、なかなかむずかしい。帝人本社エリートの半分ぐらいが一ツ橋だったかも。人の好さげな早稲田商学部の財務部次長さんが肩身の狭い感じでした。帝人本社を訪問するのは愉しかった。
<SRL東京ラボの売上倍増戦略と帝人羽村ラボの要員の吸収>
SRL東京ラボはラボ建物が老朽化していたので、新ラボをつくれば、生産性がアップし業務量は2-3倍になりますから、帝人羽村ラボの人員は吸収可能でした。じつは1993年頃、子会社の千葉ラボの生産性アップを目的にしたシステム導入に関係会社管理部スタッフとしてはわたしが担当したので、そのシステムをコピーするだけでよかった。生産性を2倍にアップすれば、抑制していた売上増の足かせがなくなり、収益は劇的に改善できます。両方の会社に都合のいい案でしたが、ラボ移転が絡む大きな構想になるので、SRL東京ラボにいたわたしでないと、調整不可能でした。SRL東京ラボへ出向中の1年半は、社長のMinさんの参謀でした。彼は93年当時は兼務で千葉ラボの社長でもありました。
合弁会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げたときに、わたしはSRL東京ラボで、社長のMinさんとラボ移転の相談をしている最中でした。広い土地を見つけて、SRL八王子ラボと同じ敷地で、巨大な自動化ラボ構想を具体化するところでした。親会社のKonさんからの指示だったので、SRL東京ラボ社長のMinさん、「俺にはノーと言えない」、うなだれてました。わたしはさっとあきらめました。これも運命ですから受け入れました。こんなことはよくあることでした。(笑)
<ラボ移転とあらたな構想での自動化ラボ>
1984年にSRLへ転職して、経営情報系システム開発と予算編成と管理業務を担当しながら、固定資産管理の実務をデザインしなおし、固定資産管理システムを投資・固定資産管理システム開発をしました。そのときに職権を利用した八王子ラボの全部署の固定資産を丸ごとチェックしてます。そのときに、臨床検査機械で双方向バスであるGPIBを標準装備したものが一つもないことに驚きました。それで購買課へ異動した後、機械メーカーと仕事をしつつ、SRLへの納品の検査機器は双方向バスを標準装備にしてもらうことを条件にしようと考えてました。いつでも実行できるように、メーカーの担当者とコネをつくることに励みました。SRL「御用達」の自動分注機メーカーのPSSさん、田島社長が別の会社の営業マンの時代からの取引でした。結石の前処理用のアームロボットシステムの開発を担当してくれた小さなメーカ、みんな大事な取引先でした。八王子ラボを移転するときは米国進出するときは全面的に協力をお願いしなくっちゃいけません。必要なら資金も出す必要がありました。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」で仕事してました。
前職の、産業用エレクトロニクス輸入商社は、欧米50社の総代理店でした。スタートはHP社の日本総代理店。創業社長がスタンフォード大卒でヒューレットとパッカードの二人と同期だったからです。その会社には毎月のように欧米の企業から新製品の販促のために昨日の説明にエンジニアがきました。入社してから、退職するまで、全部参加してました。オシロクォーツ社の時間周波数標準機、ウィルトロンのマイクロ波計測器、WJ社の軍事用エレクトロニクス製品群、液体シンチレーションカウンター、フィニガンマット社の質量分析器...さまざまな産業用・軍事用エレクトロニクス製品を扱っていました。毎月、東北大の助教授がきて、理系の営業マンと技術部員対象に、測定原理の講義をしてくれていました。6年間ずっと参加していたので、いつのまにか「門前の小僧習わぬ経を読む」ことになってました。マイクロ波計測器は双方向バスのGPIBが標準装備されていました。SRLに入社した時点で、経理部での採用でしたが、社員の中ではわたしが一番、検査機器に詳しかったでしょう。購買課へ異動して、一人で機器担当を一手に引き受けることになるのは当然のことでした。そういう運命にあったのだと思います。
SRLのラボ移転は2017年頃実現してます、20年遅れました。たぶん、双方向バスは標準装備にはなっていないでしょう。いまはUSBもイーサネットもWiHi、Bluetoothなどいろいろありますね。根室高校から旭川医大へ現役合格した生徒はもう3年生ですが、大学で使った血球計算機のインターフェイスがBluetoothだと教えてくれました。進歩してますね。コンピュータと機械は、大好きでした。仕事で関われるなんてこんな幸せはありません。
<困難な時を支えてくれたスタッフたちとその後>
経理業務を任せたSak、システムを任せたKaj、この二人がたいへんな時に、愚痴をこぼさず懸命にわたしを支えてくれました。ありがたかった。立川移転のとき、問題が起きて、二人で配線してくしてくれました。お陰で移転初日からコンピュータが使えました。ほんとうに苦労かけた。応用生物統計のMak、データ業務管理のMiy、古株のWatとKat、転籍時にはSRL以上の給料をみんなに保障したくて、よく頑張ってくれました。
四課題をクリアしたので、そのあとの体制を考え、合弁会社Oka常務と相談して、わたしの前の上司の学術開発本部長のIsig取締役を新会社の社長に据えることに決め、SRLのKon社長へ打診、OKをもらいました。来週Isigさんへ電話して引き受けてもらおうとしたら、彼、辞表出して辞めちゃった。Kon社長とは多少そりが合わないのはなんとなく感じてました。ある事情があってやめています。Isigさんは青山学院大学で有機化学を教えたことのある人です。治験検査とデータ管理会社のお得意様は製薬メーカです。学術開発本部スタッフの時にⅣ型コラーゲン検査薬と膵癌マーカー検査薬の共同開発を担当させてもらいましたが、名刺交換した人の半分以上は学位保持者でした。SRLで医者以外で博士の学位保持者はほとんどいません。だから、製薬メーカーがお客様の新会社社長には、Isigさんが適任でした。他に適任な人はいませんでした。にこにこして座っていて、好きなことしてくれたらよかった。学術開発本部でしていたようにマネジメントはわたしが担当します、好奇心の赴くままに好きなことしてもらうつもりでした。SRLにとっては大事な人材の一人でした。
引き受けた仕事が終わって、合弁解消後の役員人事はわたしの手を離れました。新会社転籍する社員たちの処遇をSRL以上にするという目標は、もう達成できません。
上司でソリがあったのは学術開発本部長のIsigさんとSRL東京ラボ社長のMinさんの二人だけ。何度も無能な上司の下で仕事してきましたが、もう御免でした。徒労感でおぼれそうでした。帝人のIsi常務が仕事を認めてくれましたので、それで満足でした。Kon社長から指示された仕事が終わったので、辞表を書きました。無能な人が職位だけで社長になることは予想がつきました。何度もそういう事例をみてきました。
やめたあと、最悪の人が社長になったことを知りました。まさかでしたね。Konさん、任せる人材がいなくて人選に窮したのでしょうね。社内に部長クラスの仕事の能力を判断できる情報源がなかったのだと思います。前部署では仕事ができす、職権利用して接待ゴルフに毎週出かけている、その部署の人間が文句言ってました。わたしは新社長の人事を聞いて、新会社の常務のOkaさんがあいそつかして1年くらいでやめるだろうと思いました。そのほかにも数人、嫌気がさして辞めることは眼に見えてました。穏やかで有能な帝人側の営業課長が帝人ファイナンスへ引っ張られて辞めました。Okaさん、予想通りにやめました。彼は千葉大学薬学部出身でした。Konさん、何も知らずに新会社に腐った林檎を放り込んだことになりました。SRL社長のKonさんは部長クラスがそれぞれどんな仕事をしてきたのか、あるいはしてこなかったのかについて、ほとんど情報をお持ちではありませんでした。社歴が浅かったからです。SRLは営業系に人材がほんとうにいないのです。理由が二つあります。営業しなくても「取引したい」と電話がかかってくるのを待っていればよかったのです。検査技術がダントツに高かったので、1985年まで営業活動なんて必要なかったのです。都立病院のドクターに30万円の背広のお仕立券をプレゼントして、東京地検特捜部の捜査を受けて、売上高の伸びが2年間ストップしました。そこから営業しなければ売上拡大できない状況が生まれたのです。「どうしたらいいかわからない、営業なんてことやったことがないから」と20代の営業担当社員が嘆いてました。入社したころ(1984年)、既婚の女性がいたら、「亭主を連れてきていい」、採用面接で「車の免許持っていますか?」「もっています」「明日から営業マンとして雇います」、そんな採用されたなんて社員がいました。売上が毎年20~30%も伸びて、業務量の増に人員採用が追い付かなかったので、こんな採用してました。業界ダントツナンバーワンの給料でした。新卒で入社して、12月の賞与がお父さんより多いなんて話がざらにありました。一部上場してからは20人の採用に1万人の応募、そんな会社になってしまいました。
検体の集荷業務は女性の準社員がやっていましたので、営業マンの大半はドクターと接点がなかったのです。取引したいと病院から電話がかかってくると行けばいいだけでした。1984年に入社した当時、経理には風俗店での接待の領収証がよく回ってきてました。「〇〇興行」なんて領収証が回ってくると、「ebisuさん、この営業部長こういう接待ばっかりなんだ」って、怒ってました。経理課長も文句が言えず、経理担当役員は富士銀からの出向者で、ものが言えません。結局、上場準備にかこつけて、経理規程を整備して、接待交際費の使途を制限して、不審なものは経理部が支払い拒否できるようにしました。予算でも接待交際費を大幅に削減しました。予算オーバーは別途申請が必要ですが、接待交際費の予算オーバーを認めなければいいので、自然に消滅していきました。自己負担になりますから。経理規程を整備して業務監査をした途端に開発部長が1億円を超える金額を私的に流用していたことが発覚、依願退職扱いにしてます。そういう時代に、育った営業マンが部長職や営業担当役員には多いのです。
学術営業部長の窪田さんが異色でしたが、毛色が違っていましたから、周りとそりが合わなかったでしょう。ほとんど「死んで」いました。有力なドクターには個人的なコネクションをしっかり築いていました。ドクターには受けがいいのです。後に退職して起業してます。1度目は失敗、2度目がうまくいきました。一部上場企業になったベンチャー企業、ペプチドリームの社長をしているようですね。
本社管理部門にも人材はいませんでしたね。しっかりしていたのは八王子ラボの検査部門だけ。マネジメントのできる人材は検査部門にも少なかった。ずっとラボ部門で生きてきたら、仕方ありません。会社全体を動かすスキルは積んでいませんから。人材育成するためには、若い時から、複数の部門に異動させて、成長したものをピックアップするしかない。経営上の解決困難な問題は、ほとんどが複数の分野が重なり合った領域で起きます。
<帝人は臨床検査子会社の経営をどうすればよかったのか>
生産性の良い一般検査ラボをつくり、売上を50億円ほど確保すればよかったのです。売上高経常利益率10%の一般検査ラボを首都圏で軌道に乗せるのは、基幹業務システムの組み立て方を知っていたら、それほど難しいことではありません。内部に人員がいなければ、高い給料で引き抜けばいいだけのことです。帝人本社エリートは一橋大卒が半分くらい、そういう基本的な政策転換がどうしてできなかったのか不思議です。正解はないわけで、ストライクゾーンに入ればいいだけ、よく考えたらいくらでも黒字にすることができたはずですが、40年もあっても誰もできなかった。それほど頭が固かった。受験勉強で頭が固くなるとこれほどまでに、マネジメントが稚拙になってしまうようにわたしの目に映りました。
5億円の利益があれば、治験検査ラボ機能を維持することは簡単だったでしょう。帝人の医薬事業があるので、治験検査分野は事業が伸びないのです。検査外注する製薬企業は、競争相手の帝人医薬事業部に情報が漏れることを警戒しますから。
同じことはSRLと富士レビオの関係にも言えますが、富士レビオはSRLの経営にわたしがいた1999年までまったく口出ししませんでした。距離がありました。
7年後に社員の平均給料を2倍に、売上高経常利益率10%、売上100億円の臨床検査事業会社にしてくれと、帝人から依頼があったとしたら、チャレンジしがいのある仕事になったでしょう。そんなに難しい仕事ではありません。
<夢へのチャレンジ>
課題が終わりを告げようとしていた半年前から、300ベッドほどの特例許可老人病院の常務理事に誘われていました。療養型病床適合の病院へ建て替えることが当面の仕事、わたしがしたかったのは、首都圏で療養型病床の病院を核にして、老健施設やナースステーション、介護施設、グループホームなどを周辺に配置し、シームレスな老人介護事業のスタンダードを構築することでした。1か所うまくいけば「金太郎あめ」方式で、10箇所ぐらい全国展開してみようと夢を見ました。夢に終わりました。そういう企業グループはいまだにありません。老人患者と家族のみなさんが苦労されています。
<<SRLにあったもう一つの可能性>>
1.<米国の投資会社からの提案と米国進出のチャンス>
ついでにもう一つエピソードを書き添えます。
帝人とSRLの合弁会社を担当していた時に、親会社・社長のKさんが用事があってそっち方面(合弁会社本社は日本橋本町)に仕事があるので、帰りによると連絡がありました。合弁会社常務のOkaさんと一緒に喫茶店で話をしました。「ミルフィユが好きなのですか、大人が5時過ぎたって言うのに酒なしで...」って、二人でからかったんです。すぐに、居酒屋へ河岸を変えました。
米国の投資機関から、SRLの株にTOBをかけたいので、株を手に入れたあとはKonさんに社長を継続してもらいたいとの申し入れがあったという話を聞きました。SRL創業社長の藤田さんは製薬メーカである富士レビオも創業社長でした。富士レビオは味の素に株を買い占められており、長い目で見たら、味の素はSRLの保有株にものを言わせて、吸収合併を持ち掛けてきたり、経営に介入する可能性がありました。富士レビオの潜在的な支配から脱するいい機会だったのです。近藤さんは、結局断りました。結果論ですが失敗でした。わたしが本社の管理会計課長職で、社長室と購買部を兼務していたときなら、窓口はわたしが担えました。前職の産業用エレクトロニクス輸入商社にいたときから、米国の企業買収や経営分析の専門書を読んで実際の経営改革に使っていたので、海外の投資機関の手の内が読めたのです。1990年頃に、ベルトハイムシュローダーという国際金融機関が出生前診断事業分野のナスダック上場企業を買わないかと持ち掛けてきたことがありました。当時の所属は学術開発本部スタッフでしたが、持ってきた200頁上の買収に関連する財務分析資料を読みこなして、ネゴができる人材が他にはいなかったので、やってきた2人の専門家の説明を聞いて、いくつか質問をして、3日で資料を読みこなして、提案が妥当な金額です(わたしの評価よりも少し安かった。売上高成長率の評価に違いがありました)が、米国では出生前診断検査はドクターを十数人使わなければならないので、マネジメントを担当する人材がSRLにいないことを理由に、断念する稟議書を起案してます。市場の大きい米国へ進出して大型自動ラボを造るつもりでいたのです。売上規模は当時で1000億円程度を予想していました。海外の製薬メーカーからのラボ見学ツアーも担当していたので、臨床検査ラボを子会社に持っている製薬メーカーから、「八王子ラボの設備をまること売ってほしい、いくらなら売れますか」なんて申し入れを受けたこともありました。もちろん断りました。だから、出生前診断検査会社を橋頭保として利用する手段はありました。迷いましたよ。日本円で100億円くらいの案件ですから、「買収すべし」と書いたら、そのまますんなり承認されてしまいます。そんなに高い買い物ではありません。とうぜん、わたしもマネジメント担当として米国勤務になったでしょう。大きな提案をすると、Yagさんが「言い出しっぺのお前が担当しろ」とこうなります。責任だけ重くて割の合わない仕事、何度もやったので「もういたしません」。本音は家族を連れての米国勤務が嫌だったのです。仕事の判断のときには個人的な都合はいれないという原則を忘れてました。どうかしてましたね。
SRL本社には海外の投資機関とハードなネゴができる人材がいませんでした。帝人との合弁会社の経営は他には変われる人がいなかったので、そちらを担当させろとも言えず、見送り。あのときも5年早かったらと、天命を感じました。わたしがSRLをやめてからしばらくして、富士レビオがSRLを吸収して上場廃止の方針を出しました。富士レビオに従順な社長が都合がよかったのでしょう。Konさんがスポイルされました。あれは富士レビオの経営陣の判断ミスだったと思います、勢いを失いました、いまではBML社に売上で追いつかれてしまってます。Konさんは自分の方針があり、はっきりモノをいう人でしたから扱いにくいと思われたのかもしれません、わたしもそうでしたからよくわかります。(笑)
元々は厚生省の医系技官で課長補佐をしていた時に、SRLの創業社長の藤田さんがスカウトした人です。入社は1989年ころだったかな。わたしよりも社歴が5年ほど若い。だからその5年間にわたしがどのような仕事をしたのかまったくご存じなかった。いくつも大きい仕事をこなしたことを知っていたら、合弁会社が岐路に立っていた時に判断が違ったでしょう。SRLではめずらしく合理的な判断のできる人でしたから押し通せたと思います。そういうわけで、しかたのない事情がありました。
Konさんのお陰で、最後の仕事を存分にやれました。感謝です。あの仕事を引き受けてなかったら、定年までSRLで仕事してたかもしれません。部門を問わず、社内転職がいくらでも可能な会社だったので、退屈が1年間続くなんてことはありませんでした。
願わくば、ラボ移転と同時に双方向バスを標準装備した検査機械、圧倒的に世界一のラボを造ってみたかった。その成果を引っ提げて、米国へ進出したかった。古里へ戻って中高生に授業する愉しみと引き替えになりますね。やっぱり、古里に戻る方を選択しましたね。40代前半なら、チャレンジしたでしょう。季節が過ぎてました。
50歳前後で転職しましたが、SRLでいただいていたくらいの給料は、業種を問わず可能でした。産業用エレクトロニクスの輸入商社と、臨床検査会社のSRLで、しっかり仕事させてもらったからです。幸せな時代だった。
人生はある日どこで大きく動くかわかりません。その都度、天が命ずるままです。そんなことも思い出しながら、記事を新型コロナワクチン副作用シリーズを8回アップし終えました。
最後まで読んで下さった皆様に感謝申し上げます。...m(_ _)m
<余談-2:台風2号の消息>
905hPaで超大型だった台風2号は6/2午前9時現在、沖永良部島東120kmにあって、沖縄から外れた太平洋上を北東方向へ進行しています。中心気圧は980hPaですから、風は弱くなりました。間もなく温帯低気圧になりそうです。日本には上陸しませんね。
今朝は遠くにある台風の影響で、雨がまっすぐに降り続いています。一時はかなり強かった。極東の町では雨も雪も横殴りの風を伴なうことが多いので、こんな降り方は20年間で一度もありませんでした。日本は広いですね、雨の降り方にも地域の個性があります。
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2023-06-02 17:57
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