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#3585 double loop 走行 Aug. 19, 2012 [85.サイクリング]

  double loop とは無限大のマークのこと、「無限ループ」と呼んだほうがわかりやすいかな。
  半径1.6mの円をふたつ、20cm離して車庫前に青色チョークで線を引き、それをなぞってゆっくり走行する。
  35分間走って2590m、平均分速74mだから、歩く速度だ。ゆっくり回ると分速60m、速く廻ると分速90m。円を一周右回りしたら20cm離れた円を左回り、それが交互に無限に続く。20回くらい廻って慣れるとラインを外さなくなった。自転車を傾けるのと重心移動がスムーズになった。そしてブレーキングとペダルリングの連絡が良くなっていくのがわかる、ようするに慣れだ。一定の速度でペダリングできるようになったらしい。

  どらくらいハンドル操作に影響しているかたしかめたくてロードバイクで一般道を走ってみた。ペダリングが一定になると路肩の幅16㎝の白線を100m走っても300m走っても外さなくなった、これには感激。以前は10mほど前を見てまっすぐに走ってもラインを頻繁に外していた。無限ループ走行はハンドリングを安定する効果が高い。

  自転車を最初に買ってもらったのは小学4年生、ピカピカの新車がうれしかった。あのころは自転車はまだ贅沢品だったようだ。同じクラス60人で新品の自転車に乗っている生徒は一人もいなかった。中学1年生の時には大人用の自転車を買ってもらった。家の前の歩道で手放しで走って遊んでいたら、オヤジが「向きを反対にして乗れるか?やってみろ」という。後ろ向きに乗るとサドルには座れない、立ち漕ぎでハンドルは後ろ手で握る、なんとも不思議な感覚だった。何度かトライしたがとても漕げない、後ろ向きになったとたんに身体のバランスがとれないのである。腕のほうに体重をかけすぎたからだということは、オヤジの乗り方を見てすぐにわかった。
「できないよ、バランスが保てない、こんなことやれっこない」
 「どれ、貸してみろ」
 そういうとオヤジはひょいと後ろ向きに乗ると後ろ手でハンドルをつかみするする走り出した。何にも不自然さがない。あれにはまいった。体のバランス感覚がまったく違う。オヤジあのとき42歳。
  オヤジは60歳になると教本を取り寄せて一輪車に乗り始めた。ビリヤード場の中で本を見ながら基本パターンを練習するとすぐに乗れるようになった。全くの独学・独習である。小学生に教えていたら、体協の資格が必要だとどなたからか言われて、試験を受けた。学校の授業でもないのに無資格で教えてはいけないのだそうである。筆記試験があったので居酒屋と焼肉の店の常連だった高校の運動部担当の先生たちが協力してくれたようだ。体協の資格を取得してから大手を振って教えた。根室の子どもたちを指導したのは五・六年のことだっただろう。直径1.2mほどの大きな一輪車にも乗っていた。NHKが二度取材して放送していたので録画ビデオが残っている。一つは「北海道最高齢の一輪車乗り」だったかな、あやしい。根室で40歳代で一輪車に乗れる人たちは、オヤジに習った人だろう。市街化地域の3小学校にそれぞれ十台くらいずつミヤタ製の一輪車を寄付していた。道具がなければ教えられないから。平成3年69歳の大腸癌の手術の後は一輪車には乗らなくなった。自転車には乗っていた。12時ころにビリヤードの店を閉めて、オヤジがタイヤの太い重いほうの自転車に乗り、わたしはタイヤの細いロードバイクに乗って警察の坂を上がって光洋町の自宅へ帰る、上り坂で速度を上げてみたが、ぴったりついてきた。あれがオヤジとタンデムした最後だった。術後1年くらいでビリヤード店を閉めた。60歳で一輪車乗りにトライして、平成5年に72歳で亡くなった。手術の後で戦地だった中国へ行って万里の長城を一輪車に乗って走りたいと言い出したことがあったが、ドクターからとても無理と言われてとめた。会社を一週間休んで一輪車を担ぎ一緒についていってやればよかった。
 オヤジが言うには一輪車の身体のバランス感覚は落下傘で降下するときのものによく似ているのだそうだ。落下傘で降下できないので一輪車は代わりだったのかもしれない。十勝川温泉でホテルをやっている叔父貴が気球が大好きでよく乗っていたから、「おれもグライダーに乗ってみたい」そう言っていた。今は息子さんがやはり気球が好きで乗っているようだ。昨年そのホテルに泊まったら、気球があった。わたしはそのホテルのオーナーとは面識がない。
  戦後自衛隊から落下傘部隊の教官として来てほしいと誘いがあったらしい、オヤジは断った。安定した職が性に合わなかったのか、それとも戦友が一人も生き残っていないので、軍隊にかかわるのが嫌だったのだろうか。今では聞くよしもない。なぜかときどき空を見上げていた。施入たちが落下傘を開き降下してくるのが見えていたのかもしれぬ。「靖国で会おう」といって九州宮崎から落下傘部隊員が船で戦地へ赴いた。輸送機から銃弾の飛び交う中を敵飛行場へ降下し、占拠して死にたかっただろう。命がけの訓練が無駄になる作戦を戦場の現実を知らぬ参謀たちが立てた。「空の神兵」さんたちは、南方の激戦地隊へ戦意高揚だけのために船で輸送されたのである。途中で船が沈むケースもあったというから、まったくの犬死。オヤジは戦後二十年以上たってから、自分の部隊がどういう最後を迎えたか本で知った。千歳の自衛隊に勤務する義理の弟が本『高千穂降下部隊』の出版を知って送ってくれたからだ。一度読んだっきり、二度読むことはなかった。きっと読めなかったのだ。60代の後半になって一度だけ靖国神社へ行った。一緒に行きたいとは言いだせなかった。オヤジとおふくろ二人でだけで行った。わたしは、1年間だけ勤務地が市ヶ谷の営業本部だったことがあり、桜が満開のときに同僚に誘われて昼休みに靖国神社へ花見に行った。鳥居をくぐって少し歩いたら、少しの間動けなくなった。オヤジの部隊の訓練や見送ったときの様子を聞いていたので万感胸に迫るものがあった。
  大学のゼミの指導教官だった市倉宏佑教授(哲学)はゼロ戦のパイロットで教官だった。特攻隊の少年兵を何人も指導訓練した。そのことが大きな心の傷になっていた。大学紛争の時に頑として学生の味方になった。本来学部長や学長になるべき人だったが、世俗的な出世欲がみじんもなかった。卒業してしばらくしてから倫理学会長にはなられたという噂を耳にしてほっとした。業績が大きかったからだろう。市倉先生はオヤジと同じ年齢だった。

  さて、自転車に戻そう。午後二時半ころ曇ってきたのでこれ幸いと「牧ノ内⇒オホーツク海18kmコース」へ出かけた。気温18.4度、南東の風2.8m/s。サイクリングには絶好の日和。
 走り始めて青少年体育センターの先の左側の林でとセミが鳴いた、今年2回目、昨日効用団地横の林で鳴くのを聞いた。50年前はいまよりも寒かったのかセミなんていなかった。オホーツク海沿いに走っていると国後島がちょっとだけ見えた。羅臼の山々はまったく見えない。走っていると黄色い蝶々が前を飛んだ、すぐに黒っぽい蝶々が近づく。
  右折して牧ノ内方面へ戻る道に入ると、道路わきにあるフキは、黄色くなって穴がたくさん開いていたり萎れたりしている。赤と紫を混ぜたような2cmくらいの丸い花がそこここに咲き乱れている。鳥はほとんど啼かない。

<今日の走行距離>
ロードバイク 27km (累計走行距離 3235km)
MTB 2.6km  (累計走行距離 1276km)


<無限ループ>画像を拾いました。
double loop に対する画像結果

        70%       20%      
 
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