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#2951 『資本論』と経済学(14) : 「マルクスの労働観と日本人の仕事観」 Jan. 31, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


Ⅱ.マルクスの労働観と日本人の仕事観

 労働価値説は工場労働者や奴隷労働をその淵源にもつ概念で、労働は本来楽しくないものというのが西欧経済学の共通了解事項となっている。そういう伝統的な価値観を背景にしてマルクスは「労働は苦役である」という前提で資本論を書いている。その根拠を労働者が生産手段から疎外されているということに求めており、労働がきついということではない。生産手段が共有されれば労働は苦役でなくなる、それがマルクスの理想の社会、共産主義社会である。人間社会を維持するためには誰かが労働しなければならないことは自明であるから、共産主義は人間を労働そのものからの解放するのではない。それにしても、生産手段が共有されたら労働が苦役でなくなるとは、マルクスはどういう感覚の持ち主だったのだろう。自分で「労働」をした経験のない経済学者はこういう大きな間違いを簡単に犯すものだとしたら、それはマルクス一人に限らない問題を孕んでいる。
 人類が労働から解放されるのは、人間がやっている仕事すべてを人工知能搭載人型ロボットが代替するときである。それは生産過程から人間が放逐されるときであり、人類滅亡のときに他ならない。性能が悪く、旧型である人間は物質の生産に不要の存在となる。不要な存在を、利便性を追求する合理的なシステムのアドミニストレータたる人工知能が許容するはずもない。

 
18世紀、原始蓄積過程の英国の労働の現実は実際には過酷なものだった。幼児労働がインドで問題になっているが、当時の英国の現実でもあった。
 
古代都市国家アテネやスパルタの時代を経てローマ帝国の時代から労働は奴隷や農奴がするものという考えが根底にある。
 
それゆえ、苦役である労働からの解放を願うのは自然なことに思える。共産主義社会になったとたんに、労働は苦役ではなくなるという牧歌的な空想的共産主義とても言えるものが、マルクスとエンゲルス共著の『共産党宣言』だったのだろう。
 マルクスが言うように、共産主義社会になったら労働は苦役ではなくなったのだろうか?現実はそうではなかった。親切にも旧ソ連や中国が壮大な社会実験をやって見事に証明してくれている。生産手段の共有によって疎外された労働が消滅し、労働者がハッピーになるなんてことは現実にはなかったのである。
 
労働者はできるだけサボタージュしようとする、マルクスの理屈では労働強度を低下させることが労働者が得をする唯一の手段であるからだ。一生懸命にやるのはばかばかしいという考えが共産主義や社会主義を標榜する国に蔓延したのは、そもそもマルクスの『資本論』にその原因がある。

 
わたしはマルクスの労働観に違和感があって、東京で企業規模と業種を変えて転職を繰り返した。紳士服の製造卸業、軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社、国内最大手の臨床検査会社、療養型病床の病院経営および建て替え、外食産業店頭公開、その都度業種を変えて転職してみた。ヴィジョンをもって仕事していたから、生産手段をもたずとも仕事が苦役だなんて思ったことも感じたこともない。マルクスは実際に働いたことがないからわからなかったのだろう。日本臨床病理検査項目コードの制定やMoM値(出生前診断検査)に関する産学協同など、いくつか時代の先端で仕事もできたし、その都度充足感を味わった。もちろん夢破れて失望感を味わったこともある。仕事はドキドキハラハラするものであり、自己実現や自己表現の手段であった。ただ夢中になってやっているだけ、縄文人が縄文土器を製作しているときの心の状態と変わらない。夢中になってやり、業種を変え部署を変えて働いたことで、経営分析スキル、長期経営計画・予算編成・予算管理技術、システム開発技術、経営スキルなどが、こなした仕事の数だけ磨かれていった。

20歳代や30歳代で仕事を任されて実務経験をした者としない者では、実務能力に大きな差がつくのは当然のことだろう。民主党がだめだったのは松下政経塾で30歳代を過ごし、責任ある立場で仕事をする機会をもてなかった者たちが幹部に多かったからではないのか。)(教育労働者を含む)

 「労働者(?)」の皆さんが基本的に仕事が楽しくない、仕事がきつくなることを嫌がるのは西欧流の労働観にこころが汚染されているからで、北教組の先生たちが少人数学級や労働強度の際限のない緩和を主張することにも「労働(=苦役)観」という本源的な理由がちゃんとある、しかし、ご本人たちは自覚していない。
 
労働が苦役であるという彼らの労働観が働く意欲を蝕んでいる。教員は工場労働者に非ず、インテリである。わたしは「教育の職人」と呼びたい。

(江戸後期には私塾が3万もあったそうで、教育の職人がたくさんいた。だが、松下村塾の吉田松陰や緒方洪庵の適塾塾頭であった福沢諭吉は教育の職人を呼ぶだけではかなりはみ出す部分がある、別格扱いでいいだろう。こんな人物を教師のスタンダードにされたら、比較されるほうはたまったものではない。)

 日本には日本人の伝統的な考え方に基く経済学がありうる
。目の前の現実を見れば日本人ならだれにでもわかることが学者にはさっぱりわからない。日本人にとって仕事は誇りであり楽しいものであり、人生の不可欠な重要部分をなしている
 かように欧米の「労働観」と日本人の「仕事観」はまったく異なっている、異なっているどころか対極にあるというのがわたしの経済学の基本的なスタンス。



*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2948 『資本論』と経済学(12) : 「経済学の体系構成法の原理は四つ」 Jan. 29, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30


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