マルクスが『資本論第一巻』を出版してから、15年間『資本論第2巻』の出版ができなかった理由については前回#4934で言及しました。ヘーゲル弁証法を適用して資本論を書いてみたが、市場関係を導入したところで、価値と使用価値の二項対立図式では論理展開できなという大問題に漂着しました。
 過剰生産を想定すると、労働価値説が根底から崩れることもわかってしまった。それは『資本論第一巻』が根底から崩壊してしまうことを意味していました。市場関係では、かの剰余価値学説(=搾取理論)が根底から崩れてしまうのです。マルクスは困り果てたでしょう。死ぬまでの15年間の長い沈黙には重大な理由があったのです。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理しても、そうした問題にすら気がつきません。
 現代社会にはデジタル商品が労働価値説では説明のつかない商品として現れています。再生産はコピーするだけでいいから、労働投下量はゼロで、労働価値はないはずなのに、市場で売れています。資本論で公理として現れる最初の概念規定である価値規定「抽象的人間労働」は妄想です。マルクスは市場関係のところで、そのことに気がついたと思います。労働価値ではなくて使用価値が一番普遍的で根本的な概念です。市場関係まで枠を広げて、マルクスは気がついたのです。

 何が間違いだったかというとヘーゲル弁証法です。マルクスはユークリッド『原論』のように公理的演繹体系として体系を記述すればよかった。方法の選択を間違えたのです。
 デカルトも科学の方法については演繹的体系モデル一つしかないことを主張しています。『方法序説』で「科学の方法 四つの規則」で具体的に書いています。数学が苦手だったマルクスはユークリッド『原論』と数学者であり物理学者でもある哲学者のデカルトによって書かれた『方法序説』を読まなかったのでしょうね。まがい物のヘーゲルに安直に手を出して、沈んでしまったのだと思います。

 マルクスは「資本家的生産様式の支配する社会」とは言っていますが、「資本主義」とは言っていません。利潤増大を自己目的とした拡大再生産が「資本家的生産様式」です。

 マルクスが『資本論』で方法的に躓いたことに、『資本論』全巻そして『経済学批判要綱』を読むことでわたしは学部の市倉宏祐教授のゼミで学んでいた時に気がつきました。公理的演繹体系として書き直そうと思ったのと同時に、もっと大きなポイントが別のところにあることにも同時に気がつきました。「資本家的生産様式の支配する社会」ではない社会はどうやって展望できるのかという問題でした。レーニンやその後継者のスターリンもその後の後継者たちの誰も気がついていません。毛沢東も。生産手段の国有化では問題が片付かないという事実だけが残りました。
 もちろん西欧の近代経済学者たちの誰も論及していない問題でした。

 奴隷労働に淵源をもつ工場労働者の「抽象的人間労働」という公理を棄てて、職人仕事を公理に措定したら、別の経済学体系が記述できます。
 それよりも大事なのは、どのような演繹的経済モデルを創り上げるかということ。残念ながら経済学は経験科学ですから、アプリオリに経済モデルを書き上げることは不可能そうですが、ビジョンは書きうる。
 
 先月(2023年2月)労働組合運動家と議論していて、利潤追求を最優先する資本家的生産様式でなければOKであることに気がつきました。到達すべきは一つの経済モデルではなくて、そこには多様性があることに気がつきました。演繹的な体系として記述する必要のないことがわかりました。

 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」

 「浮利を追うな」

 「信用を第一にせよ」

 こうした経営哲学、あるいはビジネス倫理は、利潤追求を最優先することを固く戒めていますから、「資本家的生産様式」とは別のものです。17世紀には日本のビジネス倫理の主流となっていました
 江戸時代に日本人はこうしたビジネス倫理で企業経営をしていました。そこに「資本家的生産様式」ではない、企業経営哲学があります。

 マルクスは生産手段の国営化では資本家的生産様式を乗り越えられぬこと(資本論第一巻の否定)に気がつきました。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』によれば、晩年は協同組合にその活路を見出したようです。協同組合は利益追求が最優先ではない企業体です。それも解の一つですが、経済社会全体を変えるファクターではなさそうです。日本の江戸期の企業経営哲学を知らないのはマルクスだけではありません。知っていた人は日本の外ではいなかったでしょう。

 協同組合形式は現代でも生きていますが、ごく一部にとどまっています。企業形態から分類すると、ほとんどの民間企業体は株式会社形態をとっています。資本家的生産様式を支えているのは株式会社形態です。そこを何とかしないといけないというところまではわかりました。では、それに代わりうる制度は何かと問われたら、答えに窮します。
 社員持ち株会の持ち株割合を増やすとか、配当制限を法律で行うとか、そうした弥縫策ではやれそうもありません。問題の核心は株式会社制度をどうするかというところにあるようです。

<余談-1:コマツの製造と品質管理技術の中国企業への移転>
 中国の製造業がうまくいっているのは、建設機械メーカーのコマツの貢献が大きいとわたしは思っています。工場での品質管理、行程改善、職人魂をコマツは無償で教えました。中国企業の製造現場の品質管理やモノの作り方があまりにひどかったからです。いいものを製造する喜びを知らない、かわいそうだと憐憫の情がわいたのが動機です。なんとかしてやろうと無償協力を申し出ました。その製造と品質管理、工程改善の方式がそ中国全土の製造工場へ広がり、中国の製造業の品質改善に大きく貢献しています。
 日本人の職人仕事って、意外なパワーがあるようです。これを職人仕事の教育システムとビジネス倫理とセットで発展途上国に無償で輸出したらいい。質の高い自国生産品が増えるので、先進国からの輸入を大幅に減らせます。工業製品の貿易量が縮小するので、利益の追求にまい進するグローバリズムの息の根が止められるかもしれません。
 工場労働者は、日本では様々な職種の職人です。ホワイトカラーも、インテリもそれぞれの分野でそうです。職人は自分の伎倆をつねに磨き、仕事は最善を尽くします。ロシアにそうしたことを教えた日本企業はなかった。
 この件に関してはNHKが優れた特別番組を放送したことがあった。

<余談-2:マルクスが見落としたもの>
 資本主義であろうと共産主義であろうと、経済社会を支えているのは企業活動です。企業活動にはそこで働く人がいます。マネジメントをする人が必ずいますが、マルクスの資本論には「経営」という視点がすっぽり抜け落ちています。『共産党宣言』も経営という視点がありません。これが盲点になって、その後の社会主義国家の貧困化を招来してしまったとわたしは見ています。
 市場経済では、経営者の能力が低く、そこで働く人たちの仕事の製品改良意欲が低ければ、品質も低くなるし、価格も低くなるのはモノの道理です。したがって、そういう企業で働く人たちの年収は低くならざるを得ません。同じ労働量を投下しても、使用価値が違うので価格に差が出ます。その結果、そこで働く人たちの年収にも差が出ます。
 マネジメントが優れていて、品質の高い製品を生産する企業の製品は高く売れるのはあたりまえです。そこで働く人たちの年収も高いものになります。
 低い年収の人たちは「資本家に搾取されている」のでしょうか?そうではありません、低品質に見合った低価格を受け取り、品質に見合った低い年収を得ています。

 マルクスはもう一つ見落としています。職人仕事です。ドイツにはマイスター制度があります。マイスターの社会的評価は高い、大学教授と同等かそれ以上だそうです。日本にはさまざまな分野で名工がいますが、その伎倆に対する社会的地位はそれほど高くありません。江戸時代の方が名工の伎倆に対する評価が高かったかもしれませんね。報酬の多寡にはあまり関心がないのが日本の名工たちです。材料を選び抜き、道具の手入れを怠りません。いい道具でなければ、いい仕事ができないことを熟知しているからです
 そういう雰囲気は、現代の工場労働者や製造業の現場で働く職人たちに受け継がれています新幹線の清掃作業は実にすばらしい。職人仕事の極みの一つがそこにあります。
 職人仕事は『資本論』の視野の外ですから、職人仕事を中心に据えた経済社会は利潤追求を至上命題とする「資本家的生産様式」とは別な経済社会ということになるでしょう。


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