北方領土である択捉島蘂取村の元と翁民の山本忠平さんが、ロシア軍のウクライナ侵攻を77年前の択捉島へのロシア軍の侵攻を重ねて、心を痛めている。
 墓参やビザなし交流が途絶えるのを心配する人は多い。しかし、もう6か月が経とうというのに、北方領土返還運動関係者で、ロシアのウクライナ侵攻を批判する人をほとんど見なかったが、3月にウクライナへのロシア軍の侵攻で77年前を思い出して共感を寄せる人がいました。ちょっとうれしい。
 北方領土返還運動関係者にこうした共感が広がってくれたらと淡い期待を抱いています。

 日本人の美質の一つに「惻隠の情」というものがあります。大数学者の岡潔先生によれば、それが日本人の心の中心にある情緒であるらしい。
*惻隠:かわいそうに思うこと、あわれむこと

 以下は3月に掲載された神戸新聞記事です。

*「理不尽な選択迫られた」 75年前、北方領土追われた男性 ウクライナに重ねる思い|総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp
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神戸市中央区の山本忠平さん(87)は択捉島の蘂取村(しべとろむら)出身だ。「千島歯舞諸島居住者連盟」の語り部として戦前の島での暮らしやソ連軍占領下の状況とともに、故郷を追われた思いを語ってきた。
「着の身着のままの私たちは、引き揚げ者という名の難民でした」。国民学校1年生のとき、戦争が始まった。終戦直前の1945年7月には北海道根室市に買い出しに行っていた山本さんの父親が空襲で亡くなった。
島には米軍が現れないまま終戦。「武装解除し、現場にとどまり、指示を待て」。そんな命令を最後に、国や軍隊からの連絡は途絶えた。しばらくして択捉島にやってきたのはソ連軍だった。
通信は遮断され、海を渡ろうとした人は射殺された。財産は奪われ、行動の自由も言論の自由もなくなった。労働者として強制的に移動させられてきたロシア人やソ連軍の軍人らとの共同生活が始まった。
2年後の47年夏ごろ、島に残りたければ、ソ連の国籍を取るように言われた。村の人々は全員、拒否した。「理不尽な選択を迫られ、追い出された」。ほとんどの荷物を置いたまま家族で船に乗せられ、函館の収容所へ。助け合って生きてきた村の人々はばらばらになった。

和平へロシア人に期待も


山本さんは母親の出身地、秋田県に身を寄せ、高校卒業後に神戸の会社に就職した。故郷に墓参りに行けるようになったのは、43年が過ぎた1990年からだ。それから約30年、山本さんは、島に移り住んだロシア人との交流を積み重ねながら地道に返還を訴えてきた。そこにロシアのウクライナ侵攻が始まった。
平和の祭典である五輪閉幕直後の侵攻に、心臓が止まりそうなほどショックを受けた」と山本さん。ウクライナから着の身着のままで避難する人々と自身の経験を重ねる。


欧米と歩調を合わせてロシアに制裁を科す日本に対し、ロシアは平和条約締結交渉の中断だけでなく、元島民の自由訪問やビザなし交流さえ停止すると表明した。


山本さんは「30年間交流を続けてきたロシア人に悪い人はいない。プーチン大統領一人のために、息の長い交流が消えてしまうのは悲しく、残念」とする。


一方で、ロシア国内では弾圧の中でも反対の声を上げ続ける若者らの姿に、「世代が変わり、ロシアでも市民の声が届くようになれば、解決への道が開けるのではないか」と期待も見い出す「ウクライナの人たちは私たちより苦しい思いをしている。一日でも早く砲撃がやんでほしい」と願った。


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 山本忠平さんは『セルツェ こころ 遥かなる択捉を抱いて』の著者である山本昭平氏の弟です。




セルツェ――心 遥かなる択捉を抱いて



  • 作者: 理江, 不破

  • 出版社/メーカー: 東洋書店新社

  • 発売日: 2018/10/25

  • メディア: 単行本





<余談:山本さんの祖父とその弟>

 山本昭平氏と山本忠平氏の祖父の弟は、北海道開発庁長官であった黒田清隆の副官山本忠令です。
 あるとき、お爺さんは根室町長と交渉事があって根室町役場を訪れたが、とても無礼な扱いを受けて、席を立って札幌行きの汽車に乗りました。そうして、札幌から戻り根室駅に着くと、町長以下町役場の幹部が並んで出迎えたそうです。札幌から根室町役場に電報が打たれたようです。当時の根室町長は選挙ではなくて、北海道開拓庁長官の任命によって決まりましたから、根室町長はさぞかし肝を冷やしたことでしょう。(笑)
 蘂取村の村長はI氏になりましたが、任命された後で、お爺さんのところへ挨拶に来ていたそうだ。お爺さんに蘂取村の村長を決める実質的な権限があったからでしょう。中央集権ですから、町長や村長は、北海道開拓庁には頭が上がりませんでした。いまも、市役所の職員は道庁の職員に頭が上がらず、道庁の職員は本省の職員に頭が上がらない。百年たってもかわりゃしません。

<余談:ソ連に対する思いの違い>
 山本家は択捉島蘂取村で商店を営んでいました。択捉の漁民は北海道の漁民の3倍ほどの漁があったから、裕福でした。だから、商店もとても繁盛したのでしょう。戦時中でも砂糖はあったし、高島屋や三越から着物も取り寄せて着れるぐらい裕福だったそうです。本州からの出稼ぎ猟師は、根室の3倍稼げたと言ってました。水産資源が豊富で、魚やカニが濃かったので。
 山本家の二人の兄弟は商店の息子だましたから、漁の経験はありません。漁師の息子たちはソ連軍が入ってくると、強制労働に駆り立てられました。ソ連共産党中央から指示された食糧生産のノルマがあるのでかなり厳しいものだったようです。わたしの叔父貴もそうした漁労に従事した一人ですから、とうぜん、ソ連に対する思いは別のものがありました。ソ連支配下でどのような生活であったかは、ひとそれぞれでした。漁業従事者がきつい思いをしたようです。
 漁獲量が大きかったので、ソ連共産党は北方領土に注目したでしょう。それはいまも変わりません。戦争でもしない限り、彼らが北方領土を手放すはずもありません。



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