今朝7時の気温が11.9度だった。5/10の10.8度に続いて2度目の暖かさに誘われるように庭の千島桜が咲いた、花は白っぽい。
 昨日、最東端根室の標本木が咲いて、開花宣言が出され、仲良く最北端の稚内も開花宣言をした。

 庭の紫つつじは今週月曜日頃から咲き始め、数えるのが面倒なくらいで、もう50輪は超えただろう。

 庭の真ん中あたりにお袋が植えたアッツ島の櫻はまだピンク色の固い蕾のままである。お袋の兄は満州国境警備隊にいて、侵攻してきたソ連軍と戦い戦死して、荒野にぽつんと立つ木の根方に埋められている。遺骨はいまもそこにある。
 アッツ島守備隊の玉砕はお袋にとっては他人事ではなかった。玉砕した日本兵にも戦って戦死した米国兵にも、親や兄弟姉妹たちがいたのである。庭のアッツ島の櫻はそういう戦死した「兵隊さん」への追悼の意味がある、お袋が大事に、大事に育てていた。
 根室から北東へ1500km、1943年米軍11,000名が上陸して、2650名の日本軍守備隊と激戦があった。生き残った日本兵は傷病兵十数名のみ。あまりに激しい抵抗に驚き、米軍の侵攻はアッツ島でとまった。
 アッツ島での日本兵の玉砕の戦いがなければ、日本は当時のフィリピンのように白人の植民地になっていただろう。
 大本営に見放された守備隊の生き残りは、弾薬すらなくなり爆弾を身体につけて日本刀を振りかざして敵司令部近くまで迫って玉砕したのである。アッツ島は現在、米国領。北方領土返還運動団体で「アッツ島を返せ」という者は一人もいない。

 アッツ島の櫻はなぜか咲くのが遅い、咲かない年もある。濃いピンク色の小さな花びらが風に揺れるのはまだ2~3週間ほど先。たくさんの日本兵の血が流れた島に育った桜だから、濃い色なのだろうか。
 あの玉砕がなければ、北海道に住むわれわれにも沖縄の人々と同じ運命だっただろう。北海道民はアッツ島の日本軍玉砕を忘れてはならない。
 大本営の作戦本部は、守備していた部隊に玉砕を命じている。米も弾薬ももったいなかった、敗残兵に渡す米なしというのが東京作戦司令部の方針だった。

「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」

『戦史叢書21 北東方面陸軍作戦(1)アッツの玉砕』 p.421



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