数学の問題文をどう読みどのように対処するかという点で面白い問題だったので、昨日生徒から質問のあった問題を紹介する。
 一昨日の、ダーレンシャンの小説の一段落を取り上げた鋭い切り口の質問に続いて、今日は他の生徒から数学の質問、塾の先生は毎日が新鮮な刺激に満ちている。

<問題77>
 A, B, C, D, E, F, G, H の8文字をでたらめに横1列に並べるとき、AはBより左に、BはCより左にある確率を求めよ。

 類似問題を一度解いたことがあれば、簡単に答えが出るだろう。初見の場合にどう対処するかという視点で解説してみたい。異なる8文字の並び方は、

  8!=8*7*6*5*4*3*2*1

 8!を計算してはいけない、まったくの無駄、事象Aを求めたら、約分の可能性を予測しておきたい。だから8!=40,320なんて計算をして時間をロスしてはいけない。分子も計算しなければいけなくなり、掛け算と約分に時間を奪われる間抜けなことになる。
 しかし、数字のセンスのよい者は、5!=120、6!=720くらいまでは覚えている。だから、

  8!=8*7*6! ⇒ ≒60*700≒42000

 こういう概数計算をして、どれくらいの数になるのか押さえているものだ。暗算でつねに概数計算していたら、筆算でのケアレスミスを減少できる。
 予算数百億円規模の会社や自治体だって、つねに3桁でシミュレーションしていれば十分である。億円単位での概算計算で経営管理はできる。細分化された部・課数はせいぜい100~300程度、百万円単位で部門コントロールはできる。
 概算計算で当たりをつけて仕事を進めるというのは、社会人になってからこそ威力を発揮する技である。高校生にそういうことを言ってもピンとこないだろうが、教えるほうはそういうことに配慮すべきだ。センスは一日にして成るものではなく、日々磨き続けてこそ、ずっと後になってから光り輝く
 大企業の経営管理も高校数学も、概数計算で当たりをつけるという技は同じ、ここにも同型性がある。だから、高校生のときにそうした技を磨かなかった者が、社会人になって概数計算で当たりをつけて経営管理をするということは、非常に稀なことになる。逆に、ちゃんと当たりをつけて問題を解いていた者は社会人になって会社を任されても大丈夫だ。経営管理に必要な技の一つがちゃんと身についている。

 確率の問題は、[事象A/全事象] で求められるから、あとは事象Aをどのように求めるかだ。
  <手順1> 問題を必要な部分に分割する (デカルト『方法序説』「科学の方法」「その2」より)

 昇順に並べると、次のようになる。

 ABCXXXXX
 ....
  XXXXXABC

 最初と最後を書いただけで数千行になることは予想がつくから、昇順列挙が無理なことはすぐにわかる。そういう時は、昇順列挙という発想をきれいさっぱり棄ててしまうこと。こだわりが頭の隅に残っていると、正解への読み方が見えてこなくなるから要注意だ

  <手順2> 見えた方法でやれるかやれないかの判断を瞬時にする
  <手順3> ダメと判断した方法を完全に棄て、まったく異なる視点で問題を読む

 全然別の視点から問題をもう一度読もう。

 文字列の入る箱を8つ考えてみよう。
  □□□□□□□□

 この8つの箱にABCの入れ方は、8C3通りあり、その各々でA<B<Cの並びは一つだけ。・・・◎
 残り5文字の並び方は、5! だから、

 事象Aの個数=8C3*5!

 よって、確率は、

   (8C3*5!)/8!=(8!/3!)/8!=1/6
  
 順列の問題だったはずなのに、A<B<Cという条件が加わったことで、この問題の重要部分、ABCの配列が組合せに読み替えができる。問題の読み替えは高校数学攻略の要点である。

 「手順3」はわかってはいてもなかなかできないのが現実。最初の視点にこだわり、別な見方ができなくなるのは、頭の使い方が悪いのである。一度視点を固定してある方向から問題文を読んでしまったら、それを消去するのはむずかしい。一つのアイデアに集中するのはたやすいが、それを心の中から一時的に消してしまうことはむずかしい。
 普段から、隘路にぶつかったやり方を頭の中から消すトレーニングをすればいい。そのうちに、脳内にスィッチができる、その瞬間にカチッっと音が鳴るのをイメージしよう。先入見を排除し、虚心に問題文を読み、条件を整理し、別の視点から問題を眺めることができるようになる。

 この問題のポイントは、の部分にある。初見ですんなりこの部分を見抜けた人は数学のセンスがよい。わたしは思い出すのにちょっと時間がかかってしまった、まるで旧式の蛍光灯のようだ。「ようだ」ではなくて、正真正銘のロートル。(笑)

 類似問題を解いたことがあれば圧倒的に有利だから、この手の標準問題は必ずやっておくべきだ。初見だと正解とは違う方向へ道を踏み間違えたら、時間がなくなる。



*デカルト「科学の方法」
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・・・以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた
 第一は、わたしが名称的に真んであると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。
 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった

  デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180

 *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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