千島列島最北端のパラムシル島から東北東1100kmのベーリング海にアッツ島がある。いまは米国領となっているが、かつては日本の領土だった。
 1943年5月12日から17日間、アッツ島上陸作戦を敢行した米軍と2665名のアッツ島守備隊が激戦、山崎司令官を含め2638名の将兵が玉砕して果てた。最後の突撃では山崎司令官が陣頭指揮していたことが両軍で確認されている。捕虜は27名、日本軍の生存率1%、米軍(11,000名)の損害(戦死600、戦傷1200)も大きかった。米軍の数も多かったが、砲撃の精度に大きな差があった。
 降伏勧告を拒否して傷ついた300名の将兵が最後の突撃を行い米軍の陣地を次々に撃破して米軍第七師団本部間近まで迫り、散った。
 本土に残した親・兄弟姉妹・子ども・友人、ふるさとのために戦った。重傷者は自決をしたという。先に戦死した者たちの戦いぶりや自決した重傷者の無念さを考えたら、傷つき残った300名に降伏という選択肢はない。「靖國で会おう」と言いつつ最後の戦いに臨んだのだろう。

 ただ負けたのでは米軍が北海道への上陸作戦を立てる。とことん戦い潔く死んでいけば北からの米軍侵攻を防ぐことができる。2638名の将兵の玉砕がなければ、米軍は北からの侵攻作戦を立案・実行しただろう。日本の兵隊は圧倒的な兵力差があっても、物量で凌駕しても死を恐れず戦うことを実戦で思い知ったのである。
 アッツ島の玉砕がなければ北海道が米軍との戦場になった可能性がある。
 
 そのアッツ島の桜が6月1日から4日間の暖かさに誘われたか、満開になった。こんなに花をたくさんつけたのははじめてだ、
 オヤジが金刀比羅神社のお祭りの折に夜店で買ってきたと記憶する。択捉育ちのお袋が「アッツ島の桜」といって大事大事にに育てていた。アッツ島で日本軍が玉砕したことを一度だけお袋が話してくれた。北の桜だから背丈が低く、成長が遅い。20年を越している筈だが、人の背丈ほどしかなく、根本からたくさん枝分かれしている。

 一段目の花弁の数が8~10くらい、2段目の方はもっと数が多い。少し濃い色合いのピンクの花びらが散り始めた。

 せっかくたくさん花をつけたのに、散る桜がなんだかもの悲しい。
 



にほんブログ村