林望現代語訳の『謹訳 源氏物語九』を読み終わった。寝床で格調高い訳に誘われゆっくり流れる時間を感じながら読み、内容を思い出しながら眠りにつく、贅沢なひと時。

 第九巻では光源氏の正妻女三宮と柏木の不倫の子である薫が浮舟に出会う経緯が描かれている。光源氏はとうになくなり、生霊にたたられて亡くなった最初の正妻葵宮との子である夕霧、光源氏の後の正妻である女三宮と柏木の不倫の子の薫、そして今上帝の息子の匂宮が登場する。
 匂宮は光源氏の父帝の妾である藤壺を目の敵にした弘徽殿女御の血筋である。父帝である桐壺帝は息子の光源氏と藤壺の不倫の事実を知っていても何も言わなかった。桐壺帝は光源氏と藤壺の不倫の子を自分の子として育てた。後の冷泉帝である。女三宮に不倫されて薫を自分の子として育てることになった光源氏、因果はめぐる糸車。自らの出自を知った冷泉帝は早く朱雀院へ譲位する。桐壺帝と弘徽殿女御の息子が朱雀院で、その息子が今上帝、そしてその息子が匂宮。桐壺帝から見ると匂宮は曾孫である。血はつながっていないが薫は桐壺帝の孫にあたる。

 薫は一度言い寄り添臥した中君を匂宮に「差上げる」のだが、すぐに後悔しはじめる。匂宮と結婚した中君はその後薫にしつこく言い寄られて辟易している。そういう困っているところへ薫が思いをかけていた(亡くなった姉である)大君に生き写しの腹違いの妹の消息を知り、源氏の関心をそちらへ向けようとする。匂宮は左大臣夕霧の娘、六の君を正妻に向かえ、このところそちらへ行っていることが多くなる。中君にもかげりが見え始める。

 薫は不倫の子だから光源氏の血を引いておらず恋の駆け引きが実にへたくそだ。なにくれとなく細やかな配慮はできても強引さが足りぬ。今上帝の息子である匂宮は放蕩なタイプの男で恋の駆け引きに強引なところがあり、いい女だと思ったら見境なく手をつける。年頃の女に通う男がいるのはあたりまえのことだから、受け入れる女のほうもおおらかなもので、いい女のところには何人もの男たちが競うように通うことになる。それを咎めるようなヤボはこの時代にはない。もっとも、両親は変な虫がつかぬように用心はするが、もともといい虫がつくように、きれいな字を書き気の利いた歌が詠めるように育てるのだから無理な話である。年頃になった娘が恋愛に関しては親の思い通りにならぬのは昔も今も同じ。
 優柔不断の薫と放蕩タイプの匂宮、この二人が中君そして浮舟と二人の女性をめぐって二つの三角関係がもつれていく。

 千年前もいまも色恋にかけては変らぬ、平安時代の貴族の恋愛物語だが千年前の物語とは思えぬほど男女の心の動きはいまに共通するものがある。
 好きだと思ったらすぐ口説きセックスというのが平安時代の男と女のありよう。好きだという感情とセックスはほぼイコールというのがあの時代の男と女の暗黙のルール、おおらかなものだ。着物というのがそういうことをしやすいようにできている。ショーツ、パンスト、ズボンのいまとはまるっきり事情が違う。したくなったら着物の前を広げるだけでよい。性風俗は着ている物とも関係があるのだろうか。
 現代人は西洋文明の洗礼を受けた明治から数えて150年たち、セックス文化が先祖がえりしつつあるのかも知れぬ。平安期の貴族が女を見初めるとすぐに言い寄り、関係して、以後の生活の面倒を見るのは、(不特定多数を相手にするところを除けば)平たく言えば援助交際に似ていなくもない。召使の女房たちは主人に望まれればセックスに応じるのは当たり前のことで、そうしたことを歓び楽しんでいる。しかしそれは恋愛のうちには入らないようにみえる。たんなる「お情け頂戴」、妾も正妻も夫が召使と関係することにやきもちを焼くシーンはない。そういう関係はあっても、主人は召使に執着しないからだろう。妾は召使の女房たちに自分の地位を脅かされる心配がない。

 この時代の恋愛には作法があって、歌を詠むのがルールである。見初めたら歌を詠んで文を遣わす。通い思いを遂げた夜明けには女の家から自宅へもどり、すぐに後朝の文を書き送るまめさが求められる。それができない男はヤボなのである。
 マメではない男が恋愛対象になりにくいのと同様に、歌の下手な女性は興ざめなつまらぬ人として恋愛対象から外される。だから、男も女もせっせと歌詠みや習字の腕を磨かなければならない。

 時代はだいぶ遡るが、万葉期の額田王はそういう観点から見たら素晴らしい女性だったのだろう。三ヶ国語を自在に操りながら、三通りの言葉でも読める短歌を詠んだ、こんなことのできる教養をもった女は他にはいなかったのだ。群を抜いた教養は男達をとりこにした。そういうわけで天智天皇と天武天皇がそろってほれてしまった。
 教養の深さが恋愛に奥行きを与える。へたくそな字で下手な歌しか詠めないようでは恋愛上手な相手を満足させることができない。
 たとえば、中君に聞かせようと薫が古歌を引いて口ずさむシーンがある。

「恋しさの限りだにある世なりせば年へてものは思わざらまし(もしこの恋しさというものが、限りのある世であったなら、何年か経っての後に、物思いをせずにいられるようになりますものを)・・・」
「とて、かの「恋ひわびぬ音(ね)をだに泣かむ声立てていづれなるらむ音(おと)なしの里(もう恋しさのあまり悲観して声を上げて泣きたい思いです。どこにあるのでしょうか、どんなに声を上げて泣いても音が聞こえないという音無しの里は・・・)という古歌を引き事にして、恋しさを訴える。」148ページ

 古歌を引いても相手が理解できないようではつまらぬことになる。こうした古歌の引用を理解できるだけの教養のある女たちは親が手塩にかけて躾けなければ育てられない。恋愛上手は親の躾でうtくられるのである。教養があるのは正妻や妾だけではない。
 薫が中君のところから退出するのを惜しむ女房が詠める歌。

「折りつれば袖こそ匂へ梅の花ありとここやに鶯の鳴く(香りの高い梅の枝を手折ったので、わが袖もさぞかぐわしく匂うのであろう。それでここに梅の花があると思って、鶯が近々と鳴くわ)とかいう歌みたいに、鶯だって尋ね寄ってきそうな感じがするわぁ・・・・・など、さも迷惑そうにいって可笑しがる若い女房もある」193ページ

 薫の身体から発せられる匂いのかぐわしさに召使の女房たちも発情して始末に困っている様子が歌に詠み込まれていて可笑しい。このように召人の女房たちだって状況に応じて気の利いた歌を詠める、いや、気の利いた歌も読めぬ若い女は女房として召し使ってはもらえないということ。今も昔も世間並み以上の就職口にはしっかりした立ち居振る舞いすなわちシツケと学力が重用されている

 はてさて、平安時代の結婚観に焦点を当てていう読むのも楽しい。正妻の地位はしっかりしており、強力無比と言ってもいいくらいに強い
 正妻の葵宮が年上の妾である六条御息所の生霊にたたられて夕霧を産むときに亡くなる。光源氏は独身となり正妻の座は空いたままとなる。
 そんなときに光源氏が10歳の紫の上を見初めて引き取り自分好みに育てるが、4年たったある夜強引に関係してしまう。それ以来紫の上は光源氏にとって最愛の人となる。しかし光源氏にとっては最愛の妾であるが正妻ではない。正妻はそれなりの身分の女でなければならぬ。身分的な釣り合いが最優先だ。紫の上の母親は召人で身分が低い。
 その後、帝の娘の女三宮が光源氏のところに嫁いでくる。当時の常識的な作法では妾のほうから正妻へ挨拶に出向かなければならない。紫の上は三十代半ばであり、もう二十五年も光源氏と暮らしているが、正妻が来たら自分のほうから挨拶に出向かなくてはならないのである。屈辱だっただろう、もともと身分が違うのだからしかたがない。
 三十半ばというと当時としては女ざかりを過ぎた姥桜、美しかった紫の上も容色の衰えは隠せない。女三宮は20歳前後だから、次第に光源氏は正妻の女三宮の寝所で夜を明かすことが多くなり、紫の上は一人寝の夜が増え心身ともにもんもんとして疲れ果てる。我慢が内にこもり心身を蝕んでいく。源氏物語は高校の教科書にも採録されているが、こんなシーンは授業ではとりあげられない。
 絶世の美男でかぐわしい体臭の光源氏を知ってしまうと他の男のことは考えられなくなる。10歳からそう躾けられてもきた。気持ちの遣りどころがを失い、紫の上はまもなく病に臥す。
 血の巡りをよくする健全なセックスは心身の健康維持に欠かせない。同じ敷地内の別棟に住み、妾であるがゆえに後から来た身分の高い若くて美しい正妻に遠慮せざるをえない紫の上、強く自分の感情を抑え苦しみ、その果てに亡くなるのである。
 惚れた男と暮らし、それを若い正妻にとられてもだえ死ぬのが幸せなのか、そんな世にも美しい男のことはさっさとあきらめ、他の女に目移りしないそこそこの男と暮らすのが幸せなのか、いまも昔も恋愛や結婚に悩みはつきない。
 平安時代の正妻の地位の強さに注目して読むのも一興。

 経済力に応じて妾は何人もってもいいが、正妻は一人である。この時代はすでに法律上、正妻の地位がしっかりしていたことが妾である紫の上と正妻の女三宮の関係からうかがえる。
 紫式部は紫の上を物語の中で「対(たい)の方」をいう呼び方をしている。正妻を意識してその住居の「対に住まう方」という意味なのだろう。正妻の存在を強く意識した言葉を選んでいる。光源氏の身分に見合う女が正妻となるのであって、母親の身分が低い紫の上は光源氏の正妻とはなれぬのである。いつかは光源氏が正妻を迎える日が来るのを承知で光源氏を愛し、そして心身ともにぼろぼろに傷ついて亡くなっていく。光源氏の恋愛相手も薫の恋愛相手もみな不幸になる。喜びと悲しみがセットで女たちを襲う。恋愛の歓びが増せば増すほどバランスをとるかのように深手を負うことになる。

 岩波文庫版の『源氏物語』の原文をときどき音読してみる。辞書を引かずにストーリだけを追ってひたすら音読する。名文は音読してこそその真価が味わえるもの。これも古典文学の楽しみ方の一つだろう。

 純情さとませたところがない交ぜになっていた高校生あるいは20歳のころに読んだらどういう感慨をもっただろう。思わせぶりなところは深読みできなかっただろうと想像する。大人の恋愛経験をいくつか積まないとわからないこともある。
 日本には素晴らしい古典がたくさんある。よく読んでみるとエッチ話満載で、古典文学は妄想好きのませた高校生にはおあつらえ向きの教材である。
 二十歳をすぎたら日本古典文学に親しむ時期があっていい。恋愛がテーマのものが多いから、片っ端から読んで、自分の恋愛のレベルを上げたらいい。男はいい女を見つける、女は自分を磨いていい男をみつける。私はとっくに手遅れだが、若いうちに品のある挙措と深い教養を身につけたいものだ。がんばれ若い人たち、たくさんいい恋愛をしたらいい。これも「文武両道」か、なにやらブカツを勉学の関係に似ている。(笑)

 林望訳の『謹訳源氏物語は』次の第十巻が最終回となる。




*#1871 ほんとうはとっても面白い古典文学:源氏物語を読む Mar. 8, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-03-08

 #2027 『謹訳源氏物語六』を読む  July 26, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-07-26

 #2046 『謹訳源氏物語七』を読む
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-09

  #2278 『謹訳源氏物語九』 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-04-29

 #2395 『謹訳源氏物語十』を読む:至玉のひと時 Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-04

  #2396 ヨーロッパと米国の性風俗事情(ジャパンタイムズ記事より) Sep. 4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-05


 



にほんブログ村


謹訳 源氏物語 九

  • 作者: 林望
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2013/02/02
  • メディア: 単行本

源氏物語〈5〉 (岩波文庫)

  • 作者: 紫式部
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1966/04/16
  • メディア: 文庫

源氏物語〈6〉 (岩波文庫)

  • 作者: 紫式部
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1967/11
  • メディア: 文庫