ロシアのメドベージェフ首相がインフラ整備が着々と進んでいる択捉島を訪問した。
 2012年の国後島訪問のときにもそうだったが、テレビ局は北方領土返還運動団体の関係者にインタビュー。昔に比べると顔がすこしまるくなった岩田さんが出ていた、お元気そうで何より。
 23日の北海道新聞2面の取材記事でも千島・歯舞居住者連盟根室支部の岩田宏一さん(86歳)が、「国はわれわれの古里だとしっかり認識して、領土交渉を進めてほしい」と応えている。そして同連盟理事長の元羅臼町長脇紀美氏も「日ロ両国間の信頼関係を著しく損なうもので、到底容認できない」というのみで、どちらも具体的な対抗措置の提案すらない腑抜けのようなコメント。毎度のことだが、判で押したような内容のないインタビューにいささかあきれる。
 元島民3世の若い人たちが年寄りたちのこの不甲斐ないコメントをみてどう思っただろう?

 北方領土返還運動諸団体に日本政府の外交政策への批判がないことがわたしには理解できない。対抗措置として1年間のビザなし交流停止要求すらできない。一方の当事者の一員だから、日本政府丸抱えで日ロ双方で利権化しているビザなし交流停止すら言い出せない、だから足元を見られる。損得勘定をいれて北方領土返還運動をやれば、隙だらけになるのは当たり前。国後島を二度訪問、その反応が相変わらずの紋切り型だから、ロシアは安心してエスカレート、メドベージェフ首相の択捉島訪問をやった。千島・歯舞居住者連盟のコメントはロシア側の読み通り。
 国後島訪問のときに、MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体をやって見せて外交圧力をかけろぐらいの具体的な要求をしていれば択捉島訪問はなかっただろう。
 日本が核保有国である現実をロシア・中国・米国に突きつけたらいい。そうすればかれらも目を覚まして考えを変えるだろう。まずは自分たちが変わらなければならない。

 ヨーロッパではドイツが台頭してきている、EUはドイツ帝国だと思ってよい*。いずれドイツとロシアが衝突するがロシアに勝ち目はない。ロシアが生き延びるためにはユーラシア大陸の東端の島国である日本と手を結ぶのが最善である、他に選択肢があるだろうか?穏やかにロシア大統領プーチンに訊いてみたらいい。
 四島一括返還をやり日本と友好関係を結ぶことは、対ドイツ(EU)戦略上ロシアの国益にかなう、そう教えてやればいい。
 EUを媒介にしてドイツは版図を広げた。そう遠くない将来、米国を追い抜くことになるから、米国との衝突も避けられない。EUの支配権を握ったドイツは人口でも経済力でも米国をはるかにしのぐことになる。ドイツは英米とは異質の価値観をもつ国である。ドイツを押さえるはずの装置だったEUがいつの間にか大ドイツ帝国になってしまうとはだれが予想しえただろう。
*エマニュエル・トッド著『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』文春文庫2015年5月刊

 話を戻そう、いまのうちに知っていることを書き残しておきたい。岩田宏一さん(昭和4年生まれ)は団塊世代が小学生のころは根室市立花咲小学校の先生だった。わたしの母親も択捉島蕊取村出身で、岩田さんより4歳年上。根室では近所に住んでいたこともあり、わたしも知っている。7年前に亡くなったおきゃんな千歳の叔母が同じくらいの歳で小さいころは遊び仲間だった、五十数年前に叔母が笑いながら楽しそうに話していたのを思い出す。
 検索してみたら、北方領土対策協会の「北方領土広報動画」に岩田宏一さんの証言動画が載っていた、ぜひ見てもらいたい。
*http://www.hoppou.go.jp/nettv/experience/ex_douto_iwt/

 岩田さんはお父さんが蕊取村の村役場の職員で村長になったとビデオの中で語っている。語られていないことを補足しておきたい。当時の村長は任命制であるから、その人事は北海道開拓庁が決める。蕊取村には山本さんというたいへんな有力者がいた。
 そこのおじいさんが根室町長となにか交渉ごとがあり、あるとき船に乗って蕊取村から根室まで来たが、横柄な扱いにカチンと来てそのまま汽車に乗って札幌へ行った。
 兄弟の山本忠令が黒田清隆の副官だった。兵庫県の人らしいが、薩摩の黒田が副官にしたぐらいだから相当の切れ者だったのだろう、黒田清隆とどういう関係があったのかは不明だがとにかく副官だった。昔の道新記事に山本忠令の特集記事が載っていて、お袋が切り抜いて保管しており、25年ほど前に読んだ記憶がある。
 山本さんのおじいさんが札幌から汽車に乗って根室へ戻ると、町長や助役が数人居並んで出迎えたという。町長宛に開拓庁から電報が届いていたようだ。

 「北方領土広報動画」の中に、孫にあたる山本昭平さんと山本忠平さんの証言ビデオもある。岩田さんのお父さんが村長に決まったときに、すぐに山本のおじいさんのところへ挨拶に来た。「おかげさまで・・・」と腰を低くしてお礼を述べていた、そういう時代だった。
 岩田さんはたぶんこういう事情を知らないだろう。しかし、16歳のときに終戦だから、お父さんの姿を日常見て学ぶことが多かっただろうと推察する。子どもは親の背中をみて育つものだ。エスタブリッシュメントとお付き合いをしておくことはなにかと都合がいいことは事実である。だが、全部がそれでうまく収まるわけではない、教師としては思わぬ落とし穴があった。ある部分と親密になろうとすると他の部分とは疎遠になるのは自然な流れで、子どもたちの動物的な勘は微妙な匂いをちゃんとかぎ分けてしまっていた。人生はなんと複雑なことよ、禍福はあざなう縄の如し。

 わたしは母から話は聞いていたが、山本昭平さんにも弟の忠平さんにもお会いしたことがないので、山本昭平さんの証言動画も気になって見た。
 これも動画では語られていないことだが、昭平さんは、択捉島から旧制旭川中学(現北海道立旭川東高校)へ進学した。ずいぶん成績がよかったそうで、送られてきた成績表を見てお母さんがひどく喜んだという、学年5番以内に入っていたようだ。昭平さんは医者になるつもりで旧制旭川中学へ進学したのである。ソ連侵攻がなければ昭平さんは根室で開業医をしていただろう。
 根室空襲があったときに昭平さんは根室でお父さんと待ち合わせて、船で択捉島に帰省するところだった。1945年7月14日、船は根室港を出てすぐにグラマンの機銃掃射と魚雷攻撃を受けて沈没した。船倉のお父さんのいた辺りに魚雷が飛び込んできて爆発した。昭平さんと妹は沈んで行く船の甲板に上り海に飛び込み、油まみれになりながら助かった。港を出てすぐだったことが幸いした、沖合いだったら助からなかった。根室の7月の海水温は12~14度くらいだから、30分も海の中にいたら体温低下で体が麻痺して動かなくなり、おぼれるしかない。
 翌15日、根室は大規模な空襲に見舞われた。市街地を取り囲むように焼夷弾が落とされ、その後中心に爆弾が落とされた。市街地の住宅の8割、2300戸が焼け、死者数は300~500人。すぐに市街地の外側に逃げたお袋は助かった、ホロムシリまで逃げた、何も持ち出せなかった。翌日戻って、黒焦げの死体をリヤカーに乗せて海に流すのを手伝った。小学生のころに弥生町の浜の小石交じりの砂浜で遊んでいると、白い手の甲の骨がそこここにあったのを覚えている。そのころは大きな骨はなかった。たぶん、とりきれなかった小さな骨が砂と小石に混ざってあったのだろう。根室空襲の話をお袋から聞くまで、砂に混じっていた真っ白い小さな骨が不思議でならなかった。空襲で焼死や爆死し、海に流した人たちの骨だった。
*ウィキペディア「根室空襲」は「根室市街地 焼失倒壊家屋2,457戸、死者369人」となっている。

 「北の勝」で有名な造り酒屋の碓氷勝三郎商店は、空襲の際に備蓄していた酒造米を炊き出しに使った。そのおにぎりで空腹を癒した根室町民が少なくなかっただろう。当然のことだが、この年の酒の仕込みに影響した。「北の勝」はそういう運営方針の個人商店なのである、だから根室で長く愛され続けている。
 その後の船で昭平さんは択捉島に渡った。長男として父親の最後も母親に報告し、どうするか相談しなければならない。択捉島はソ連の支配下に入り、2年間日本に戻ることができなかった、その結果、医者になる夢は費えた。日本へ引き揚げ後は父亡き後、一家の総領息子として食べるために必死で、進学どころではなくなったのである。天を仰ぐようにして、あの2年間で人生が変わってしまったとだけ述懐している。
 ジャパンタイムズが昭平さんのインタビュー記事を載せたことがある。わたしはニムオロ塾の時事英語でその記事を使ったことがある。樺太の収容所送りのとき、択捉島の港から住民が乗船すると、飼っていた犬たちが岸壁をうろうろして落ち着かない。船が岸を離れると、犬たちが遠吠えする、そんな最中(さなか)に一頭が飛び込んだ。すると次々に他の犬たちが飛び込む。機関士はたまらず船の速度を上げる、犬は船を追い続け疲れて波間に沈んでいく、誰かがこらえきれずに大声で泣くと、みな我慢できずに泣き始める。発動機の音と泣き声が択捉島のトッカリ岬にこだました。昭平さんが何十年たっても忘れることのできない光景だ。「これが戦争に負けた敗戦国の国民なんだと痛切に感じました」と動画の最後のところで語っている。

 漁業の蕊取村の商家であった山本家は東京山の手の上品な標準語で会話していたユニークな家で、お作法・躾の厳しい家だった。わたしは言葉の他にある理由があって東京で一時は高級官僚だった可能性を考えていたが、そうではないようだ。

 根室の人間は「お上に」異論を言わない。それは百年前もそうだっただろうし戦時中もそうだった。町長だって「お上(北海道開拓庁)」の関係者を邪険に扱ったただけで、首が飛びそうになるのだから、無理もない。そういう雰囲気がこの土地の風土を形成しているようだ。同じ構造が町の中にもあるようで、経済諸団体はひとつも市政に異議を唱えない。
 北方領土に関する日本の外交政策がいかに効果のないものでも、北方領土返還運動団体が正面から異を唱えることはなかった。地元の経済諸団体も、北方領土返還運動諸団体もそういう点では共通しており、まことに情けない植民地根性を呈するばかりだ。
 正々堂々と北方領土返還の具体策を議論することぐらいできないものだろうか?
 7年前に書いた弊ブログ記事の「#195少し過激な北方領土返還論」をご一読いただきたい。


<余談-1>
 同じURLに柏原栄先生の証言ビデオがある。先生は水晶島出身者である。小学生のときに父親の手伝いをしてエビ獲りをしていたという。「ヨイトマケ、ヨイトマケ」と掛け声をかけながらリズムを合わせてエビ漁をしたと懐かしそうに語っていた。平和で幸せな時間だったのだろう。どういう暮らしをしていたか、子どもたちがどういう遊びをしていたか、そして焼玉エンジンの船の音を掻き消す嵐の夜の脱出劇を語っていた。次第にソ連の監視の目がきつくなり、海が穏やかなときには水晶島を脱出できなかった、それで危険な嵐の夜に一家で逃げたのである。波の高い真っ暗闇の夜の出港は恐ろしいもので命がけの冒険だったに違いない。
 先生は「釘刺し」というらせん状に線を引き陣地を獲る遊びに言及していた。五寸釘一本あれば遊べる。根室の子どもたちは昔やっていた「釘刺し」をしなくなったのは、五寸釘も土の裏庭もなくなったからだろうか。
 柏原先生は団塊世代が中学校へ入学すると、花咲小学校から光洋中学校へ転任されて日本史を担当した。序(つい)で団塊世代が根室高校に入るとはやり光洋中学校を3年間で「卒業」されて根室高校へ赴任して社会科目を担当した。一緒に卒業して同じ学校へ入学する、小学校から高校までずっと一緒だった、そんな先生はお一人だけ、だから団塊世代には「特別」な先生である。わたしは中学2年のときに先生に1年間日本史を教えてもらった。教え方も字も上手な先生で、黒板に書く字が大小混ざってじつにユニークだった。あの当時の光洋中学校は1学年10クラス、550人もいたが、いま根室市内全部の中学校(7校)をあわせても、当時の4割しかいない。

<余談-2>
 引揚者の中にはあの時代のことを、思い出したくもないし語りたくない人たちもいる。親たちから直接聞いて知っていることを記録して残すことも団塊世代の役割。わたしの母親の兄は終戦時に満州で侵攻してきたソ連軍と戦って死んでいる。満州の荒野に一本の木があり、そこから兄の呼ぶ声が聞こえる夢を見たと母親から聞いた。同じ部隊の人が満州から戻ってきたので、夢の話をしたら、顔色が変わった。その通りだった、何にもない荒野に立っている一本の木の根元に遺体を埋めてきたという。漁場があったが、親が死に、兄が兵隊にとられ戦死したので、権利のみが残った。権利は叔父貴の名前で登記されている。当時の択捉は根室の3倍の漁があったのである。蕊取村にはロシア人が住んでおらず、荒れたままになっているらしい。秋になれば竹ざおを川に立てたら俎上する鮭で倒れないほどびっしりになるという。そんな景色を見て、終戦数年前に亡くなった婆さんの墓参りをしてみたかった。



 #2984 物言わぬ北方領土返還運動団体役員 Feb. 21, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-02-20

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*#195「少し過激な北方領土返還論」MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07

 #465「"Japan sent uranium to U.S. in secret"は北方領土返還運動の好機か?」
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-12-30

  #1401「ロシアがフランスから新型軍艦を購入し北方領土へ配備、対抗措置はあるか」
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-1

 #1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06

 #1965 ビザなし交流=通過型観光旅行? June 8, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-08

 #1969 北方領土問題コメント(欄)対話(1): ビザなし交流の虚実  June 11, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-11

 #1973 ビザなし交流in択捉島 住民交流会:もちつもたれつ  June 14, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-14

 #2050 竹島と北方領土 :韓国大統領の竹島上陸にどう対抗する?  Aug. 10, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-10-2

 #2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14

 #2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-16

 #2095 おろかな領土紛争:白人支配終焉のチャンス
  http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-09-28

  #2097 中国や韓国と如何に付き合うべきか
  http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-09-29

 #2301 実録北方領土ビザなし訪問 :同行医師の記録 May 19, 2013 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-05-19

 #2585 北方領土の日: 現実的な四島返還構想 MIRV開発 Feb.7, 2014 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-02-07

 #2656 北方領土返還運動:おかしな「元島民」の定義  Apr. 23, 2014 
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-23

 #2697 ロシアの東と西:北方領土とウクライナ June 3, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-06-03-1


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  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
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