<更新情報>
 □5/16 8:30 NECシステム開発シリーズの専門書等について追記
 □5/16 23:00 HP-41CX、HP-48GX、HP-35Sの画像とコメント追加
 □5/17 0:00 追記及び文章校正作業 対象「余談-1」

 企業内でのコミュニケーションでむずかしいものの一つに、理系と文系職種間のコミュニケーションがある。わたしの体験が普遍性をもつかどうかは、お読みになった皆さんが判断すればいい。

 1979年9月にAは軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社に中途採用された。経理のスキルがあったので「経理担当取締役付き」のスタッフ採用。

 二代目社長のSさんは自分が旗を振る財務委員会の下に次の6つの委員会を設けた。
 ①長期経営計画委員会
 ②資金投資計画委員会
 ③収益見通し分析委員会
 ④為替対策委員会
 ⑤利益重点営業委員会
 ⑥電算化推進委員会

 各委員会は、役員全員と部長が一人、課長が東京営業所長と女性の業務課長の2名、そして中途入社したばかりの社員のAで構成されていた。このうち⑤の利益重点委員会を除いた5委員会の実務がAに任された。簿記1級はもっていたが、大学院で理論経済学(マルクス経済学)を学んだことを承知で、これだけの仕事を任せてくれた2代目社長、大きな賭けだったのだろう。40歳代半ばで、経営者としては自力での財務体質の変革と経営改善に限界を感じていたようだ。負荷の大きな仕事をいきなり任されたので、わたしは自分の能力を大きく飛躍させるチャンスをいただいたのである。どんな会社を選んだとしても、これだけの仕事を任せてくれるオーナ社長は日本で彼一人だったと確信している。二代目社長の放った矢は見事に的を射たのである。会社の財政状態と経営成績はその後3年間で劇的に変わった。
 委員会は全部所期の目的を果たして、2年後に解散した、次の段階は企画を実行に移すことだった。
(業務単位で独立に開発したシステムを統合してしまうことも大きな課題となった。そのために会社は1983年に電算室を新設し、わたしを管理部から統合システム開発要員として電算室への異動を命じた。たった一人の新設部署だった。さらに大きな経営改善をするために統合システムの開発が必要だったのである。)
 利益重点委員会はE藤東京営業所長が実務を担当した。円定価システム開発だったので、そちらも手伝った。受注時の為替レートと仕入レートと決済レートが異なるために、為替変動の影響を受け、円安になると為替差損を出し赤字転落、円高になると為替差益で利益が増えるという経営構造の会社だった。だから、まじめな努力が実を結ばない、ばくちをやっているような経営状態だったのである。
 為替変動から会社の業績を切り離すための円定価システムであると同時に、営業マンが見積書を提出するために時間の半分を割き、営業活動時間が少ないことを改善するという目的もあった。円定価表を元にして見積書が簡単に作成されるようになった。それまでは営業マンが納期やその間の為替変動を考慮してそれぞれ勝手な為替レートを使って見積もり計算をしていた。E藤東京営業所長はそこに目をつけていたのである。営業事務改善がやれる営業課長はめったにいない。営業でも実力ダントツのナンバーワン、某メーカから10年間50億円の受注を狙って獲得するような凄腕の持ち主だった。徹底して考え抜く姿勢は数年勤務していた京セラの稲盛さんの薫陶かもしれない。

 この会社の営業は一人の高専出身者を除いて、全員が理系の大卒である。販売した機器の修理と新規商品の開発を担う技術部門がある。技術部門の責任者はN臣課長で営業部門に出色のE藤課長がいた。わたしが一緒に仕事をした中では、このE藤さんの右に出る営業マンはいない。気があった。

 Aは当初1年間は経理部長付きのスタッフだったが、1年後には新設された管理部所属となり、さらに1983年には新設の電算室へ異動、統合システム開発を任された。

 収益見通し分析委員会の仕事はAが一人で担当。5年間のB/S、P/Lをベースに5つのデメンション、25項目の指標を使った当時最先端のレーダチャートモデルをつくった。このレーダチャートは目標設定用に使えるものであり、もちろん結果についても検証可能なツールであった。5群の目標偏差値を設定し、その結果(到達度)を同じゲージの25のレーダチャート指標にブレイクダウンした偏差値で確認できる優れものである。経営管理ツールとしては最強だった。1979年に開発したものだが、これに匹敵するツールを開発して経営管理をしている会社は日本にはいまだにないだろう。

<3プログラミング言語の習得>
 モデル構築には科学技術計算用のプログラマブル計算機HP67とHP97(HP67にプリンタの機能の付いたもの)を使ったので、逆ポーランド方式のプログラミングを覚えた。レーダチャートは線形回帰分析を多用し、25指標は尺度が標準偏差で調整され、25指標を5群に分けて群単位で偏差値評価のできるモデルだった。HP-67は、電卓で計算しているAを見かねて入社、1ヶ月目に社長が買ってくれた。Aは1週間後にはプログラミングをマスターして使いこなしていた。この製品には400ページを超える英文のマニュアルが2冊ついていた。1週間で使いこなしたのを確認した社長は11月の米国出張の「お土産に」プリンタ付きのHP-97を買ってきてくれた。ある朝、机の上にHP-97がおいてあるので、秘書に訊くと「社長がAさんにとおっしゃっていました」、うれしかった。入力データやブログラムをプリントしてチェックできる。作業効率はさらに上がった。
 中途入社翌年の1980年には三菱製のオフコンの言語、COOLを習得した。ダイレクトアドレッシングの原始的な言語で、3桁の数字ブロック4つでコマンドとオペランドが構成されていた。このコンピュータも、三日間の講習会へ行かせてもらい、自分でプログラミングするようになった。その後、コンパイラー系のマシンを導入し、1981年にはコンパイラー言語のPROGRESSⅡという言語をマスターした。

<統合システム開発:必要な技術書群の読破>
  この会社にいたのは5年と4ヶ月間だったが、三つのプログラミング言語を習得しただけでなく、システム開発の専門書を数十冊読んで、統合システム開発に利用した。NECから出版されていたシステム開発シリーズ本は5~7冊はあったと思うが全部読んだし、岩波書店からも2度コンピュータシリーズが刊行されたので、それらも全巻そろえて必要な巻には目を通した。統合システムという当時は先端システムの開発だったので、翻訳がまだされていない米国で出版されたソフトウェア工学専門書も読んだ。
 Software Engineering, Martine L. Shooman, McGRAW-HILL, 1983).
  興味に任せて、人工知能関係の専門書、Artificial Inteligence (Elaine Rich、McGRAW-HILL, 1983)を読むと同時に、チョムスキーの構造言語学関係の翻訳のない著作を数冊読み漁った(文法工程指数の高い圧縮された英文を日本語にするときに、チョムスキーの生成変形文法がいまでも役に立っている。生成変形文法は大学院受験の際に板橋区立図書館で勉強するときに書架の中から見つけて、10日くらいかかって1冊読んだのが最初である)。
 大野照男:『変形文法と英文解釈』 千城書房 1972年刊
 Andrew Ranford:Transformational Syntax,  Cambridge Textbooks in Linguistic  1988
 V. J. Cook:Chomsky's Universal Grammar, An Introduction, Blacwell 1988
 Knowledge
 Noam Chomsky: Kowledge of Language Its Nature, Origin, and Use PRAEGER 1986

 システム開発で大事なことはスケジュール管理である。目標期限どおりに本稼動するためには厳格なスケジュールの管理をしなければならない。だからこの分野ではRERTの専門書を読み、その技術を利用した。Program Evaluation and Review Technique の略である、この本は日本で出版されているものを読んだ。strutured codingに関する本もプログラミング以外でも役に立った。実務フローチャートは日能方式と産能大方式の両方をマスターした。たまたま組んだソフトハウスが異なる方式のものを導入していたので、それぞれに合わせた。相手に使う技術を合わせることは、大きな目で見て成長を助ける。だからこういう方面ではこれでなければ嫌だというようなことは決して言わない。
 システム開発はさまざまな技術の集合でその質が決まる。個別のシステム開発関連技術の習得をおろそかにしてはいけないのである。輸入商社の5年間と、臨床検査センターSRLで統合システム開発を担当した最初の1年間は、ずいぶんとシステム関係書物を読んで、それらの技術を片っ端から実務で利用していた。SRLに入社した1984年に統合システム開発を担当して、課長から「必要ないだろう?」の一言で、それまで1年間ほど大手監査法人のシステム担当公認会計士を切った。役に立たぬ素人だったのである。課長は同じ大学出身で3年次で公認会計士に合格したK本さんと同期だったが、よく見抜いていた。Aは両方の専門技術をマスターしていたから、経理もシステムも応援は不要だった。

<仕事では業界トップレベルのSEとお付き合い>
 統合システム開発という仕事に関することだけでも国内で出版されている本では間に合わなかったのである。したがって、外部設計だけでなく、内部設計の知識も実務で使えるくらいあった。3言語のプログラミングを習得していので、内部設計に関する専門書も難なく読めたのである。
 仕事でお付き合いしたSEはオービック、日本電気情報サービス、NCDと3社あったが、それぞれトップレベルのSEとのみ仕事した。オービックのSEもNCDのSEもどちらもほどなく取締役となっている。そういうSEでなければ当時は統合システムを開発することはできなかった。パッケージは存在せず、全部作りこみをしたのである。私の役割は実務フロー設計をすること、外部設計書と外部設計に関わる部分のプログラミング仕様書を書くところまでで、内部設計はそれらの担当SEにお任せした。
 システム開発で期限を守れなかったとか、トラブルがあったことはない。一発で完全な立ち上げになるような仕事の段取りができたからである。テスト仕様書を書きテストデータまで作成したこともある。
 1984年2月初旬に臨床検査会社のSRLへ転職して、統合システムのうち財務及び支払い管理システムを任されたときには、米国で開発された会計情報システムの中身を知りたくて、Accounting Information Systems  Theory and Practice, Fredirick H. Wu, 1984 を読んだ。大判の600ページのこの本は実際の開発業務に役に立った。 

<会社取り扱い製品の専門知識の習得>
 この会社(輸入商社)は海外メーカ五十数社の総代理店契約があったので、毎月さまざまなメーカがエンジニアを派遣し、新商品説明会を開いてくれた。もちろん英語である。マイクロ波計測器、ミリ波計測器、光計測器、時間周波数標準器、質量分析器、液体シンチレーションカウンタなど扱う製品はさまざまだったが、基本的にはどの機器も、ディテクターとデータ処理部とインターフェイスで構成されていたから、データ処理部のコンピュータを中心にデータのやり取りを見ていくだけで、おおよその機能は理解できた。共通パターンがわかってしまえば、理解は速くなるし、相互の特徴を比較できるから理解は深くなる。

<基礎技術の定例勉強会と営業や技術部社員とのお付き合い>
 営業系の社員の95%は理系大卒、そして技術部の社員も全員理系大卒だった。毎月一度東北大学の助教授がマイクロ波計測器についての原理的な講習会を開いていたので、それも参加した。営業と技術の人間のみ、管理部門からの参加はAのみであった。そのうちにデータ処理部や機器制御用コンピュータにかんしてわからないことがあると、Aに訊く営業マンが出だした。
 予算を統括しているのは通常経理部長だが、この会社はAに長期経営計画の策定と年次予算編成を任せた。管理部門の社員は技術的なことはわからないのが普通だから、会社の取り扱い製品を熟知しているAは営業からも技術部員からも飲み会へのお誘いが増えた。仕事の話が通じるのである。技術課長のN臣さんやA木君、1980年ころにマルチチャンネルアナライザーを開発者し後に独立したN中さん。東京営業所長のEさん、大阪営業所長のS藤さんなど、皆さん理系の人だが会社の取扱商品に関する知識が深まるにつれて、コミュニケーションがよくなった。仲間の一人として認めてくれる。これには、技術課長のN臣さんと東京営業所長のE藤がAを自分たちの部署の飲み会に頻繁に引き回してくれたことが大きい。「Aさん、放課後30分時間ある?」E藤さんがそういうときは決まって午前様になった。

<輸入商社向けパッケージシステム開発でのオービックSEからのお誘い>
 オービックのSEとも専門用語で話が通じる。S沢さんは後にオービックの取締役になった。S沢さんから輸入専門商社をやめてから1ヶ月目くらいに、取引先の輸入商社にわたしが開発したシステムが20セットほど販売可能だから、パッケージにしないかとお誘いを受けた。開発した統合システムは受注時の換算レートと仕入れ時の換算レートをある数式で連動させて、それに為替予約を組み込むことで、為替変動から会社の業績を切り離すことに成功し、毎期2000万円ほどの為替差益が出るような仕組みのものだったのである。売上高粗利益率(SMR)は2年間で28%から38%に10ポイントも拡大した。40億円の売上規模で利益が4億円も増えてしまった。最終的には43%ほどの粗利益を組み込むことができる優れものだった。出た利益は社員と株主と内部留保に三等分することを提案し、オーナ社長の了解をもらい、取締役会で決定して社員にアナウンスした。ボーナスが安定すると同時に、うんと増えたから、家が買えると社員が喜んでいた。社内の活気がまるで違った。円定価システムで営業事務量が数分の一になったので、売上も増大したのである。
 S沢さんからのせっかくのお誘いではあったが、職を辞して1ヶ月で新宿西口にあるニッセイビルの22階、SRL本社に転職していたので、お断りした。同じ業界に関わる仕事はしたくなかった。
(他にもS部長から、帝人のエレクトロニクス子会社へ就職紹介があったし、日商岩井出身の総務部長からも紹介があったが、リクルート社を通してすぐに再就職先を見つけたので、ありがたいが丁重にお断りした。二つとも課長ポストを用意してくれていた。ある件でオーナー社長と意見が衝突して、とづぜんの辞職に何人かの人が心配してくれたのである。)

<異分野コミュニケーションの土台はたしかな基礎学力>
 こうしてみると、異分野の人々との仕事のコミュニケーションは相手の専門分野を理解する能力をもっていてはじめて成り立つものだということがわかる。専門用語での会話が成り立つと、実に短時間で誤解のないコミュニケーションが成り立つ。極端な例を挙げると、3日掛かることが15分ですんでしまう。
 相手の専門分野を理解できる基礎的学力が仕事上でのコミュニケーションには欠かせない。

 SEの上にKEという職種があるが、異分野の相手と一緒に仕事をして1年間もすると、相手と同等の専門知識を身につけている人のことをいう。知識エンジニア。
      Knowledge Engineer

 近い存在であったとはいえるが、わたしがKEであるとは言わない。ここで大事なことは、相手の専門分野について専門用語の基礎的知識があるだけでも異分野コミュニケーションは実にスムーズに行くという事実である。その程度のことならAにも可能だったというわけ。

<余談-1>
 マイクロ波計測器に関する知識は、臨床検査会社で購買課機器担当になったときや学術開発本部スタッフとしてラボ見学担当になったときに絶大な力を発揮した。臨床検査に使われている理化学分析器の基本的な構成はマイクロ波計測器と一緒だったのである。臨床検査に使われる理化学機器は制御系やデータ処理部に使われるコンピュータの性能が10年以上も遅れていた。特に機器制御とインターフェイスが致命的に遅れていた。さまざまな検査機器の大きな違いはディテクターの周波数が異なるだけ。RI、490nmの蛍光、赤外線、原子吸光、ガスクロとさまざまだった。
 RIの統計的なデータ管理システムも資料に目を通して、現場で確認しただけで理解できた。ほとんどがすでに知っていたのである。学術開発本部のI神取締役がAに海外のからのお客様のラボ見学を担当させると言ったときに、ラボ見学を担当していた学術情報部の担当者三人が反対した。3000項目もある臨床検査の関する適確な説明を、3年前には全社予算の統括をやり、1年前まで購買課機器担当だった男にできるわけがないというのが理由だった。I神取締役は、一度Aを三人のラボ見学に同行させた後、次に三人がA同行してAのラボ見学案内の様子をモニターして結論を出すことを提案した。
 いきなりお客様を連れての2時間のラボ見学案内をAがやったあと、I神取締役は担当3人に聞いた、「それでどうだ、やれないか?」、「いいえ、大丈夫です」と答えたようだ。I神取締役は笑っていた。この人は理系のドクターで、青山学院理工学部で有機化学を教えていたことがある。そもそもAを学術開発本部に引き抜いたのはAが仕事時間中に暇をもてあまして、チョムスキーのKnowledge of Languageを読んでいたのを目撃したからで、彼が管理していた図書室にも頻繁に出入りして、海外の医学雑誌を読み漁っていたのを目にしていたからである。
 ラボ見学案内担当の3人の内の一人は営業出身で、慣れるまでずいぶん苦労したようだから、自分を基準に考えたのだろう。最初の内は営業からなんどもクレームが入っていたのを知っていた。
 Aは用意されたマニュアルに一通り目を通して、そこにはない説明をベテランの三人を同行してさまざまな検査部門でやってのけたのである。結石分析の前処理ロボットはラボ管理部のO形君(室蘭工大)と検査部門の担当者の仕事だったが、購買課で業者との調整をしていたのはAだったし、フィルタ方式の液体シンチレーションカウンタの世界初導入は、AがメーカのファルマシアLKBから特別なコネで引っ張ったものだった。RI部の真っ白いデザインのよいガンマーカウンターもAがファルマシアLKBにSRL仕様での市販を促したものだった。栄研化学のLX3000は開発最終段階の製品のインスタレーションテストをSRLでやり、半年間の独占使用を認めさせたものだが、これは栄研化学の上場準備作業に対する協力御礼として、営業マンを通じて栄研化学の取締役が配慮してくれたものだった。いままでだれにも言ってない。
 LX3000のインスタレーションチェックはデータの再現性が悪くて途中で暗礁に乗り上げた。現場からは使い物にならぬという声が上がっていた。両方から事情を聞いて、解決案を具体的に指示してことを収めた。時間周波数標準機の知識が役に立った。時間周波数標準機は水晶、ルビジウム、水素メーザなどがある。火(電源)を入れて1ヶ月ほど暖めないと規定の性能が出ない。ようするに暖めておけばいいだけのこと、必要な箇所の電源を切らないように回路を変えてもらった。そうして問題を回避しながら、再現性が悪い真の原因を取り除く時間稼ぎをしたのである。役に立たぬ勉強はないものだ。原因を取り除いてLX3000は市販にこぎつけた。SRLでデータの比較チェックをしなければ、市場に出てからクレームの嵐となっただろう。栄研化学にとっても上場間際の大事な時期だったから、大型の新製品が完全な形で市場の出せたのはうれしいことだった。こういう仕事を通じてあちこちに人脈が広がるのである。
 検査項目を度忘れしたが、細胞性免疫のリンパ球の解析装置と検査サブシステム開発も現場とメーカの間に入って見ていて、検査手順や機器の機能や監査サブシステムとのデータのインターフェイス仕様を熟知していた。
 染色体画像解析装置も処理がなぜ速いのか機器の構成をラボ管理部の担当者と共に英国メーカの技術者に質問して確認していたから説明は簡単だった。検査の処理手順についてもそのときに調べて熟知していた。
 問題が起きる都度、各検査部門に出入りして自分の目で確認し、調整していたので、どの検査部門に行っても歓迎された。必要な機器も世界最高性能のものを調べて予算をとってあげた。入社当初に全社予算編成の統括責任者をやったから、経理取締役に一言電話しておけばなんでも通してくれた。会社にとって将来必ず利益になるからである。廊下を歩いていると、検査現場から「あれがAさんだ」とまで言われた(ラボと本社のつなぎの役は果たせた。それまで本社部門とラボはなんとなく気分的に対立があった)。
 大学病院関係者のラボ見学対応をした後に応接室で雑談すると、「ところでAさんはどの検査部門でお仕事していたのですか?」と質問されるようになっていた。「上場準備のための統合システム開発」と予算編成と管理がこの会社でのわたしの元々の仕事です。入社当初は全社予算の統括責任者をやっていました、SRLの大蔵大臣でした」と告げると「え!検査部門の人ではないのですか」と言われる始末。「やりたいのですが、会社はわたしに一度も検査をやらせてくれません、そのうちにやる機会があればうれしいですね」と何度か話したがついに検査を担当する機会はなかった。

 ここでも、理化学分析器やデータ処理用コンピュータやインターフェイスに関する専門知識があることが、お客様とのコミュニケーションでも、検査現場とのコミュニケーションでも、学術開発本部内での学術情報部のラボ見学担当との間のコミュニケーションでも役に立ったのである。それらの専門知識も本をただせば、基礎学力の高さがものを言っている。どんな分野の専門書も英語と数学がある程度できれば独力で読破し、ただちに仕事で使うことができる。専門書に書いてないことが起きても、全部自前で処理できるのである。場数を踏む、経験を積むというのは大事なことだ。たいがいのことにはたじろがぬ自己が練りあがってしまう。

<余談ー2>
 軍事用・産業用エレクトロニクス輸入専門商社(セキテクノトロン)の初代は三井合同で働いていた。財閥解体に関与して最後に自分もやめて、独立した。スタンフォード大学卒であり、HP社創業者のヒューレットとパッカードの二人と同じクラスだった。その縁で日本総代理店をやることになった。横河電機とHP社の合弁会社YHPには参加せずに独立の道を歩む。二代目がわたしが仕えた社長である。慶応大学大学院経済学研究科卒、英語に堪能で品のよい人だった。その後店頭公開を果たしている。三代目はわたしが職を辞したときに一浪した後東大生だった。
 セキテクノトロンは2010年にコーンズドットウェル社の完全子会社となり、2012年に吸収合併されて消滅。業績が悪化して店頭上場廃止目前での子会社化と吸収合併だったようだから、社員は気の毒だ。この会社は2回チャンスがあったが、二つとも見送ってしまった。社長は有能な社員を使える器がないといけない。
 

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*HP-67
 実に使いやすい科学技術用プログラマブル計算機だった。シンガポール製品で信頼性が高かった。中国製品に変わってから品質が比較にならぬほど劣化した。グラフィックス機能のあるHP48GXは1年ほどで壊れたし、現在使っているHP35sもテンキーのうち「0」が強く押さないとはいらない。1990年ころ、米国から取り寄せたデータからMoM値の計算式をカーブフイッティングするのに使ったHP-41cxは1984年に経理部所属で統合システム開発をしていたときに買ったものだが、これは健在である。ROMメモリー(HP-67とHP-97は1cm×8cmほどの薄型プラスチック磁気カードにプログラムやデータを保存できた)の統計パックを含めて5万円を超えていた。これは現在も元気に動いているから、シンガポール製品だろう。
 値段は高くてけっこうだから、高機能の製品はシンガポールや日本で製造してもらいたい。

1979年の国内販売価格はHP-67が11万円、HP-97が22万円だった。
http://en.wikipedia.org/wiki/HP-67/-97



*HP-97画像
http://www.keesvandersanden.nl/calculators/hp97.php

この製品が一番使いやすかった。データとプログラムは左上のスロットからプラスチック製の磁気カードを差し込んでロードしたり、ストアする。キーが大きいのでブラインドタッチでデータ入力ができたから、作業時間を短縮できた。入力データは感熱プリンターで打ち出して、チェックできる。入社2ヶ月で二代目社長のSさんが米国出張のお土産だといってわたしにくれた。当時22万円。おかげで統計処理作業が短時間で済むようになり、時間が空いたので為替差損を回避する仕組みや為替予約をどういうタイミングでいくらやれば、実際の決済をカバーできるのか、そういう研究をする時間的余裕ができた。オフコンのプログラミング習得や、システム開発関連の専門書も近くの日本橋丸善まで出かけて、よさそうな本を片っ端から読んだ。管理会計関係の洋書は社長がやはり「お土産」として買ってきてくれた。500ページを超えるような先端の良書だった。本気でわたしに会社の経営改善をやらせるつもりだった。


<HP-41cx>
この製品はシンガポール製で、1984年に購入していまだに故障知らず、優良品である。メモリーは磁気カードから、ROMになった。ROM容量が大きいので統計パッケージはROM1個に収まる。統計パック込みで5万円くらいした。これはSRL経理部で会社の経費で購入してもらった。MoM値のカーブフィッティングに威力を発揮した。


<HP-49GX>
 この機種から中国製品、1990年ころ自分で買ったがすぐに故障した。4万円程度だった。

<HP-35s>
 10000円ほどで買える。表示が2ラインになっているので使いやすい。4段のスタックは慣れれば1ラインしか表示されなくても頭の中では見えているからなんの不都合もないが、初めて使う人にはこのほうが親切だ。2008年ころに購入したものだが、中国製だからゼロキーの調子がよくない。強く押さないと入力できないことがよくある。最初の3機種でこういうトラブルはまったくなかった。

<おまけ情報>
 HP社製の電卓は科学技術用計算機からダウンサイジングしたものだから日本製に比べて性能がいい。入力した数値を200ラインほど記憶しているから、入力データのチェックがディスプレイ上でできる。たとえば、簿記の検定試験で試算表の合計が合わないときは、ボタンを押して一つずつ入力データを呼び出して確認できる。もちろん、間違えたラインを消去して、正しいデータを再入力できるから、商業科の高校生は使ってみたら良い。値段は国産電卓製品と変わらない。
 ただ、キーが大きくて、サイズに難がある。日本の電卓と同じくらいのサイズの製品を出してもらいたい。HP-97のテンキーくらいの大きさが良い。

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*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10

 #3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2>  May 12, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11



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