<更新情報>
 □ 5/10 13:30 追記
 □ 5/10 19:00 追記 Bタイプのコミュニケーション能力の定義
 □ 5/10 21:30 追記及び修正作業
 □ 5/11 8:45 表現緩和等作業および見出し追加、重要な箇所を太字にした。
 □ 5/11 23:00 
 □ 5/13 0:20 数行追記

 根室の今朝の最低気温は4時の4.9度、冷蔵庫の中と一緒だ。庭の桜は咲いたけど、根室はまだ寒い。

 投稿欄へ何度かコメントを寄せてくれたハンドルネームtsuguo-koderaさんのブログをみたら、「複雑性の因果」と題して、3項目をとりあげて論じたものがあった。

「コミュニケーション能力、課題解決能力が高い、国際化時代への対応力はどうしたら身に着けられるのか、です。大学の講義で使う教科書や講座で学べるのは専門知識です。教養科目と言えども、先生はその道の専門家、易しい解説を心がけていても、簡単ではありません。」

 この文は冒頭である。少しわかりづらいのは、前振りがないからだろう、主語が省略されていると言い換えてもいい。「このグローバル時代に企業で勝ち残るためには三つの能力が要求されている。」あるいは「今回のテーマは」と補えば、わかりやすい文章になる。何ヶ月か前に読んだときにも、これと同様の箇所がいくつか見つかったので、印象に残っていた。ビジネス文書としたら問題ありということになるだろう。ビジネス文書の要諦は、複雑な問題であるほど「具体的でわかりやすいこと」、そして「誤解が生じないような配慮のある」こと。

  頭の良い人は自分が頭の中でわかっていることは、他人もわかっていると思い込んでしまうことがあるが、実際にはそうではないからギャップを埋めるために言葉が必要となる。
 あるドクターが自分の子どもから質問を受けて「どうしてこんなに簡単なことがわからないのかわからない、だから教えられない」と言っていた。頭脳明晰な人が苦労せずに自然にわかってしまったことをわからない人に教えるのは案外むずかしいもので、どこが問題なのか問題の所在すら感知できないことがままある。
 koderaさんのブログ記事をいくつか読んでいたら、一日2時間程度の勉強で現役東大卒合格したとどこかに書いてあった。なるほど、ときおり事情がわかりにくい文章が出てくるのはそのせいかと初回にブログ記事を読んだときの疑問が氷解した、頭がよいのが仇になっている。誤解のないように書いておくが、最近アップされたものはそういう記述が減っている、書き慣れてきたのだろう。

<東大紛争(1969)の影響:盟友k藤>
 わたしは1984年2月に、軍事用及び産業用エレクトロニクス輸入商社から国内最大手の臨床検査センターに転職したが、同じ時期に上場準備要員として採用された2歳年下のK.Hさんがいた。彼は学園紛争で東大の入試が中止になったとき(1969年)の受験生だった。koderaさんが東大大学院生だったときのことだ。全共闘(山本義孝議長・東大大学院理論物理学専攻)による東大安田講堂占拠があって幼馴染のFが立て篭もっていて逮捕されたと噂に聞いた。私のいた大学でも約50人の退学処分を発表した。その中にゼミの先輩の名前もあった。市倉宏祐先生(哲学)の一般教養ゼミ(『資本論』と『経済学批判要綱』をテクストに使用)の同期には赤軍派のメンバーS藤もいた、「動乱」の時代だった。
 東大入試の中止が1月にアナウンスされ、Kはしかたなく中大法学部(当時はダントツで司法試験合格者最多)に入学した。家庭の事情で浪人できなかったと語っていた。会社を辞めて独立して事業を軌道に乗せると2年後に40歳代で胸部癌を患い、4ヶ月ほどで亡くなった。奥さんは東大理三の才女、某海外有名メーカの化粧品部門の開発部長をしていた。Kとはよく二人で新宿で飲んだ。独立すると言って会社を辞めて1年後くらいに取締役を頼まれ、経営コンサルタントの仕事を一本手伝ってあげた。会社に役員を引き受けたことを報告したら、無報酬で土日の取締役会出席でも兼務は不可と人事部から通知があった。会社を辞めて独立した人間を土日にサポートするだけの話、非常勤取締役にすぎぬ、仕事にはなんら差し支えは出ない、それでもダメだと意地の悪い裁定だった。2~3年のことだから、応援してやってもいいではないかと言ったが、聞き入れられなかった。
 業界ナンバーワン会社では会社の看板を背負ってできる仕事の範囲が広いから、わたしに辞めるつもりはなかった。大学病院を束ねていくつかの疾患分野の臨床診断支援システムをつくることや、さまざまな産学協同研究、臨床病理学会との臨床検査項目コード標準化プロジェクト(日本標準コードになった、市立根室病院の院内システムもこの検査項目コードを利用している)、製薬メーカとの検査用機器の共同開発、検査試薬の共同開発などがやれるし実際にいくつかやった。
 その後、Kから副社長をやってくれと言われて断ると、事業をまるごとわたしに譲りたいので社長をやってくれと申し出があった。「取締役では不足で断ったのではない真意を誤解しないでくれ、まだSRLでやりたい仕事があるからだ」と具体的な理由を挙げて丁重に断った。
 当初は企業健診のコンサルタント会社だったが、次第に健診機関の経営改善に関するコンサルが増えていった、そちらの方面の仕事はわたしのテリトリー。彼がやれるのは企業健診のコンサル営業であり、健診機関の経営改善に関しては専門知識も実務経験もなかった。どうしてあの時に気がつけなかったのだろう。顧客から持ち込まれた案件を一つやって見せたら、頭のよいKのことだからコピーできるだろうと安直に考えていた。逆だったのだろう。とてもできないと悟ったのだ。過去5年分の財務データに基づく財務及び経営分析、長期経営計画や具体的な業務改善の立案、損益のシミュレーション、単年度予算、資金収支計算書、銀行との折衝のしかた、先端の理論と実務経験を数年間積まないと、とてもお金をいただけるような仕事はできない。事業経営の壁に行き当たったから、コンサルの応援を私に依頼したのだ。事業の方向が変わってしまっていたから、応援要請してわたしの仕事のやり方を観察していたのだ。福島県郡山市の会社へ役員出向が決まれば、土日のKさんの会社の手伝いも不可能。景気のよさそうな話をしていたから順調だとばかり思っていたが、わたしの思い込みだった。冷静に事態を眺めたら、ほんとうのことが理解できたはず、愚かだった。
 社長就任を断ったのが3月ころ、そのあと4月にKさんは社員数人に営業権を有償で分割譲渡した。万事窮す、立ち行かなくなっての営業権譲渡だったのだ。あのときはそういう風に考えなかったから、ずいぶんあっさりそして優雅に会社経営から手を引いて、営業権の売却で得た資金で10年くらいぶらぶらするのだろうくらいに考えていたが、状況を改めて考えると見事な撤退作戦だった。撤退をやり遂げて5月の発病。電話の声がすこしかすれたようでおかしいので、訊くと「微熱が続いている」という返事。嫌な予感がして、「大きな病院ですぐに検査してもらえ、癌の疑いがあるかもしれない、もしそうならKの年齢では命に関わる」そう伝えた。ちょうど福島県郡山市の臨床検査会社と経営分析資料を携えた資本提携交渉が終わり、役員出向が決まったときだった。「末期だったら入院しないで自宅で治療しろ」とまで薦めた。それからしばらくして暑中見舞いのはがきが届いた、「余命3ヶ月、本人いたって痛みなし」と1行だけ書いてあった。勘というのは怖いものである。
 担当医を説得しての自宅療養、通院による抗癌剤と放射線治療を選択した。もう手術ができない状態だった。横浜済生会病院で末期癌患者では初めて通院治療例となった。
 暑中見舞いのはがきを受け取り、横浜「港みらい」高層マンションにすぐに見舞いに駆けつけた。3度あいつを見舞った。放射線治療で髪の毛がなくなって真夏に毛糸の帽子をかぶっていた。45分ほど昔話をすると「疲れたから15分間ベッドに横になってくる、すぐ起きてくるからまだ帰らないでくれ」と、奥さんが帰ってくるまで寝たり起きたりを繰り返した、次から次と昔話が出た。「あの時本当はどうだったんだ?」、そう訊くこともあった。室内の冷房で頭が寒いと言った。将棋が強かったあいつは3番所望した、最後の将棋になることがわかっていたが、病気のあいつを相手に手を抜けなかった。いつもどおり手を抜かずに相手した。三番目を投了したときにあいつは、「負けました」とくったくのない笑いを浮かべた。いつもはわざとらしく目をむいて顔を紅潮させ悔しがるのだが、あの時だけは晴れ晴れとした笑顔だった。
 いいやつだった。転職するときのリクルートのSPI試験で偏差値68、ちょっと自慢していた。初めて会ったときに、SPI試験結果表(幅1cmほどの紙の切れ端)をわたしに見せてくれた。「ほう、高いね」と応えたら、自分のを見せたからebisuさんのも見せろとダダをこねた。おいおいそんな約束していないぞと断ると、自分のを見せたんだから、ebisuさんのも見せろとしつこい。辟易したので見せたら「え!」と絶句。上場準備で5名中途採用されていたので、自分の偏差値が一番高いと確信していたようだ。5人の中には一ツ橋大が2人いた。しばらく間があって、「あの年に東大入試があれば、オレは東大卒業だった」、そう言った。それ以来、一目おかれた。あんな偏差値は仕事の能力とはほとんど相関関係がないのだが、頭脳の柔軟性だけは判断できる。年齢が上がるにしたがって柔軟性がなくなり、偏差値は落ちるのが通常だがまれに柔軟性が落ちない者がいるのである。いろんな仕事にチャレンジして専門分野をいくつも持つ者はいつまでも頭が固くならない。偏差値に弱いKは頭が上がらなくなった。何かあるたびに酒を飲もうと誘われた。ちょっと子どもっぽいところのある人物だった。
 入社当初の配属は彼は人事部付き、私は経理部所属、席も近いのでお互いの仕事ぶりも気性もよくわかった。転職時の彼の年齢は33歳、わたしは35歳。1984年2月に出遭い、1993年11月に逝った。平成5年9月に癌で逝ったオヤジの49日に奥さんから「先ほど亡くなりました、今朝ハイヤーを呼んでくれといい、肩を貸して病院へ行くとモルヒネを打ってもらって数時間、苦しまずにそのまま逝きました」と電話をもらった。葬儀には出られなかったので、オヤジの49日の法要を片付けてから駆けつけ、線香を上げさせてもらった。「苦しむ必要はないから、痛みがひどくなったらモルヒネを使って楽に逝かせてもらえ」と癌が判明してから伝えてあった。最後の時間を在宅での療養、そしてモルヒネを使って苦しまずにいくこと、全部わたしの勧めたとおりにやってのけた。奥さんの理解と協力があったからだろう。
 享年43歳。合掌。

 世の中にはさまざまなタイプの人がいるから楽しい、そして時に悲しい。


< コミュニケーション能力 事例-1 :F川君とM野君>
 大学院のときに専任講師をしていた渋谷の進学塾でもS木君という東大出がいた。ガタイがでかくて声が大きく、愛想のよい本部室長だった。もう一人、治験検査事業の合弁会社で一緒に仕事をした東大出がいる。東大理三⇒大学院出の応用生物統計専門家のM野君だ。彼には帝人とSRLの治験事業の合弁会社でデータ管理とデータ解析の仕事を担当してもらった。営業部門担当常務はO部さん(千葉大薬学部(北大よりも少し上))、データ管理、システム部門、総務・人事・経理担当役員が私だった。仕事のできる者たちが集まっていたから、赤字部門の別会社化でもどうってことはなかった、黒字化は3年の期限内に余裕を残して実現できる、黒字化どころか利益率では本社を軽く上回ることになるだろうと予想していた。しかし何をどうするということは考えていなかった。いつものことだが、現場で考えればどこをどのようにいじくれば、利益がどっさりでてくるかがわかるのである。
 M野君は八王子ラボにいたときには金沢大学出の応用生物統計の上司のF川君と折り合いが悪かった。馬の合わないというのはよくある話で、どちらも不幸だ。上司のF君は切れ者の応用生物統計専門家だった。顧客であるドクターの学会発表でも、データやその統計処理に問題があると遠慮なく意見を言う。一度某有名大学医学部のドクターの発表データを学会席上で批判してトラブルを起こした。後始末に創業社長のFさんが平謝りをしたという噂が社内に流れたことがある。F川君の意見は正当なものだったが、相手は重要顧客、言い方や言う場所というものがある、不器用な技術者の彼はそういう配慮ができない。とにかく技術的なことでは妥協がないのである。だから、一緒に仕事をするときは全幅の信頼がおける。仕事の品質は抜群によい。
 まさかM野君とあとで一緒に仕事をするとは夢にも思わなかったころ(わたしが八王子ラボにいたときに)、M野君はなぜダメなんだと酒を飲みながらF川に訊いたことがあった。「センスがないものは鍛えたってダメ、ebisuさんやわたしはセンスがあるが彼にはない」と断言、「鍛えればものになる」という私の意見に議論は平行線だった。東大理三⇒東大大学院応用生物統計のM野君を歯牙にもかけなかったF川、なかなかのもの。いまF川と議論したらわたしは何というだろう?

 出生前診断検査のMoM値の検査(検査項目はE3(エストリール)、HCG、AFPの三項目)を沖縄米軍から依頼され、文献を取り寄せてHP社製の科学技術計算用のプログラマブル計算機で、線形回帰して計算式を算出し、システム仕様書を書き上げてパソコンで処理できるシステムを作り、沖縄米軍に説明に行った。母体血で胎児の染色体異常がスクリーニングできるのである。1年後に異常値の出た2事例が、羊水染色体検査(確認検査)で異常と確認されたと報告を聞いた。沖縄米軍の評価は高かった。女の兵士が妊娠すると、出生前検査が法律で義務付けられていた。
 そのころ日本人のMoM値標準値を算出したいというK大産婦人科の要望が営業を通じて上がってきていた。わたしは学術開発本部で取締役I神さんの直属のスタッフで、学術営業からシステムができないと回答したと本部内の女性スタッフから聞いていた。やれない理由は聞かずともわかっていた。取り寄せた英文文献を読んで、いくつかの項目が入力できないことを知っていた。妊婦の体重、人種、妊娠週齢の3項目が業務受付システムでは入力できないのである。それでパソコンでシステムを作り、受付時にこれらの3項目と識別コードを沖縄営業所で入力しておいて、ラボからの検査結果データをオンラインで取り込みファイルの結合処理をすませ、計算式に必要な変数を入れてMoM値を計算して結果報告書を営業所でプリントアウトした。I神取締役と学術営業のS藤君と、担当プログラマーU野君と4人で沖縄へ、あいにくと6月、梅雨空の出張だった。
 K大医学部産婦人科からの依頼も学術開発本部でわたしがコーディネートした。製薬メーカに事情を話してデータ利用を認める替わりに、検査試薬を無償提供させる交渉もした。合計で3000万円を超える検査とデータ解析をただで請け負った。品質と業績のよい会社はこういう協力がいくらでもできる。当時は開発部の仕事である検査試薬の共同開発も担当していたので、製薬メーカのDPCさんとは検査試薬の共同開発をやっていたし、もう一つのメーカF社は購買課のときに当初は値下げ交渉に応じなかった。日本の商慣習を説明し、品質がよいのだからディスカウントすれば、売上は1.5倍にはなるしシェアーを高められると説得して値下げに応じてもらった。日本法人の社長は翌年売上が増えて本社へご栄転。日本(SRL)仕様でのγカウンターの開発にも応じてくれた。LKB事業部のフィルタ方式の液体シンチレーションカウンターは世界初導入だった。そういう経緯があったから産学協同研究に全面協力を即答してくれた。学術研究協力だから検査も無償、稟議書はすんなり通った。わたしは営業部門とラボの検査部門、システム部門の管理職を集めて仕事の重要性を説明し、それぞれに仕事を割り振った。ついでだからやったことのない検体のハンドリング(受け入れ処理)も数回経験した。本当は検査現場にはいって検査を少し体験してみたかった。理屈は文献を読めばわかるが、体験してわかることが必ずある。
 数年かけて3000人の妊婦のデータを解析して日本人の基準値ができあがった、もちろん学会発表はK大産婦人科である。その基準値はデファクトスタンダードになった。
 検査と多変量解析がすめば民間検査センターの出る幕は終わりである。多変量解析は研究部のF君に担当してもらった。K大医学部とは過去のイキサツがあるが、「ebisuさんの依頼だから」と二つ返事でOKしてくれた。しっかりプロの仕事をしてくれたから、学会発表もスムーズ。後に業界3位の財閥系検査センターが基準値をつくろうと画策したが、すでにK大医学部産婦人科のデータがあり、それが日本のデファクトスタンダードであるとたしなめられて、企画はボツになったと聞いた。
 ついでだから言うが、MoM値の標準値は人種で差があり、黒人が白人よりも十数%高いのだが、日本人の標準値は白人よりも3割ほど高かった。国際的にも学術的な価値の高い研究となった。1990年ころの産学協同研究である。現在は第2世代の出生前診断検査がなされている。
 それにしても、日本人の基準値が白人と黒人の間ではなく、黒人よりさらに高いというのは、いったいどうなっているのだろう?誰もが日本人の基準値は白と黒の間に来ると想定していた、理由はわかっていない。
 それから数年して、治験検査事業のデータ解析にM野君が欲しいので、本社社長に頼んだら、すぐに了承して人事異動をしてくれた。もちろんF君に否やはない。「ebisuさん、よろしく頼む」と快諾。
 M野君に具体的な目標と段取りを説明したら1年で成果を出してくれた。指示と段取りを間違えなければ仕事はびっくりするほどよくできるのである。そういう人間は目標と具体的な段取りを上司が示せなければ宝の持ち腐れとなる。それどころか自信喪失で精神障害を起こしかねない。挫折の経験がない者は弱い。
 顧客ごとの仕様でつくっていたシステムを汎用パッケージ化したのである。データ処理の受託コストは大幅に下がっただけでない。武田製薬向けに作ったものをパッケージ化したから、システムの信頼性も高かった。M野君とシステムのW辺、K野の二人と、データ管理のM宅君のお陰で、狙い通りデータ管理事業の売上が急進すると同時に受託量が増えた。利益が3億円ほど増え、黒字転換してしまった。年間1億円ほど赤字を出していた事業を2年で黒字に転換できた。赤字企業を黒字に変えるのはそんなにむずかしいことではない。

 ebisuはもともとは経理の専門家であると同時に、プログラマブル科学技術用計算機(1979年ころ)を使って財務データや人員データを利用した統計解析作業をして自社の経営分析や長期経営戦略を立案する仕事をしていた、そして83年ころはから統合システム開発を任されたから、統計学に関する基礎的知識と実務経験があった。線形回帰や曲線回帰分析を多用して長期戦略立案をしていた。だから応用生物統計の専門家がSASという専用統計解析ソフトを使ってどのような仕事をしているか概要を聞いただけで理解できた。彼らと専門用語での会話が成り立つのである。
 中途入社半年後に全社予算の統括を一人で任されて大きな権限を手にしていたことは八王子ラボの管理職はよくご存知だ。技術屋は相手が異分野の専門家でも自分のテリトリーの仕事が理解できる者には心を開くのである。わたしがいうBタイプのコミュニケーション能力とは確かな専門知識に裏打ちされたものを指す
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 koderaさんは6月に根室へいらっしゃると投稿欄で予告があった、書いたものだけではわからない、だから人に会うのは楽しみである。
 ブログが縁で根室まで来られた最初に人は釧路のZAPPERさん、その次が栃木県のHirosukeさん、そしてkoderaさんが三人目ということになる。)

<子どもたちのコミュニケーション能力の低下は危機的状況>
 小さな私塾をはじめて12年が過ぎ、子どもたちのコミュニケーション能力の衰えに危機感を感じている。ケイタイがスマホへ新化し、ゲームも40年前のインベーダとは比較にならぬ高精度の画面とソフトでリアルさを実現し、子どもたちから時間を奪い続けている。その中には中毒症状を呈してなかなか抜けられない子どもも増えており、もはや心療内科領域と断ぜざるを得ない子どもが10%以上いる。それらの機器の高度化と反比例するように子どもたちのコミュニケーション能力が急速に低下しつつあることが気がかりだ。弊ブログでなんども具体例を挙げて紹介している。
 小4程度の語彙力しかない中学生は根室ではすでに20%を超えている。学校・学年に細分化すると多い学校・学年では40%に達するところすらある。
 公立中学校で行われている文協学力テストで五科目合計点で400点を越える生徒が12年間で1/4以下になり、平均点が下がり続けている。最近では200点前後の学校・学年が出現し始めた。市街化地域3校ですら、最高と最低を比べたら、五科目合計点の平均値に70点(1科目14点)の差がある。指導教授が一般教養科目の哲学(倫理学?)で同じ商学部で、会計学科と商業学科では毎回10点以上の差があるとおっしゃっていたことを思い出す。あるのは都会と地方の学力格差問題だけではない。同じ地域(根室市街地)間での学校学校間学力格差、同じ学校での学年間の学力格差問題がある。
 コミュニケーション能力をAとBの二つに分割すると、Bの方は「読み・書き・そろばん(計算)」の基礎的学力に依存している

 社会に出て必要なコミュニケーション能力とはなんなのか、数回に分けて具体的に論じるつもりだ。5回ぐらいになるだろうから、順を追ってアップしていく。小寺さんのブログの当該記事を読んで、それぞれお考えいただきたい。自分の考えをハッキリさせておいてから、ebisuの論を読めばいっそう面白さが増すはず。
 どうぞ、下記のURLをクリックしてお読みください。


*「複雑性の因果」
http://blog.goo.ne.jp/tsuguo-kodera/e/f7b2993f3db7c09c68cd3c4b1b00f4e9

 
*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10

 #3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2>  May 12, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11

 #3043 コミュニケーション能力とは何か(3):理系と文系 May 16, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-14




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