#2224へ市立根室病院で起きた医療事故訴訟関係投稿が続いたのでというわけではないが、今回は医療関係のニュースの論評である。

 出生前診断に関するニュースが3月10日の北海道新聞一面に載った。初産の高齢出産は胎児に異常が出る場合が増えるから、妊娠初期に胎児に異常があるかないかを診断する検査である。
 23年前に日本国内ではじまった。ebisuは国内最大手の臨床検査センターで出生前診断の仕事に関わった。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/447743.html
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*「新出生前診断、4月開始へ 日本産婦人科学会が指針策定」
日本産科婦人科学会(日産婦)は9日、妊婦の血液で胎児のダウン症など3種類の染色体異常を高い精度で調べる新しい出生前診断「母体血胎児染色体検査」の実施指針を理事会で決定した。日本医学会に設置した施設の認定・登録機関で審査を今月中にも終え、4月から検査を開始できる見通しという。
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  私が出生前診断にかかわったのは国内最大手の臨床検査センターに勤務していた1990年春のことである。ひとつの「特殊な事情を抱える検査」が社会に認知定着し第2世代の検査が始まるのに23年の月日が必要だったのは驚きである。

 私は1989年12月に大手臨床検査センターの購買課から学術開発本部へ異動になり、数ヶ月したころに向かいに座っている米国で二十数年間仕事をしたことのある女史から「相談」を受けた。ニューヨーク州から取り寄せた資料のコピーを渡されて彼女の状況説明を聴いた。仕事をもってきたのは学術営業のS君((現)栄養医学研究所長)で、K大学医学部が大手臨床検査センター3社に出生前診断に関する資料の取り寄せを要望したというのである。もちろん、妊婦のデータをとり学術論文にするためだろうから、専用の検査が国内でできなければならない。新しい検査項目導入の話しでもあった。
 沖縄米軍からも似たような依頼が来ていた。米軍は法的規制があって女の兵士については、出生前診断をすることになっていたので、検査受け入れ体制をつくってほしいということだった。SRLは1988年に世界で一番厳しい米国臨床検査品質管理基準のCAPライセンスを取得していたから、白羽の矢が立ったのだろう。これはこれで3000検査項目の標準作業手順書を英文で作る作業だったから、たいへんな仕事だった。14ヶ月学術開発本部にいたが、本部内の精度保証部はこの作業手順書の電子ファイル化をした。手順書の更新が頻繁でたいへんだったからである。

 S君はシステム部に話しをもって行ったようだが、女史に「断られたでしょう?」と訊くと、できない理由をいくつも並べたようだった。出生前診断に必要な妊娠週令や体重、人種などの項目が基幹システムの入力項目にないから不可能であるという回答を予想したらその通りだった。できない言い訳は誰にでもできるが、それを言ってしまったらお仕舞いで、誰もやったことのない仕事をするチャンスを自ら棄ててしまうことになる。せっかくのチャンスをもったいない。

 私はニューヨークから取り寄せた資料のコピーを見て、載っている表のデータをHP-41Cに入力して回帰分析してみた。使用したのは統計の汎用ソフト二次関数のカーブフィティングである。算式が確認できたので残差の計算も手計算してみた。相関係数は自動出力されるのでそれもチェックした。これで計算の仕組みは理解できたし、回帰曲線の算式や精度も確認した。ここまでが一日である。
 話しを聴きながら資料にざっと眼を通したら、対応システムが頭の中で組み上がった。女史には「たぶん問題ないと思います、私のほうからシステム本部には話しを通します、この仕事は学術開発本部として引き受けるのでS君にはそう伝えてください」。本部長I取締役の了解をもらわないといけないが、なんてことはない、わたしとその女史の右となりがI本部長席だからやり取りは全部聞こえている。「やっていいですね」「やれ!」で報告・承認完了。仕事上の信頼関係があると話しは簡単になる。社内書類上は営業本部学術営業部の依頼を受けて八王子ラボ学術開発本部がこの案件を仕切るということになった。

 私は沖縄営業所のパソコンで処理するシステムを考えていた。基幹業務システムに入力されない項目は沖縄営業所のパソコンに入れておく、そして検査結果が返ってきたら、沖縄営業所で結果ファイルと必要なデータファイルの結合処理を行い、出生前診断のアルゴリズムに乗せる。uE3(エストリオール)とhCGとAFPの3項目のデータで計算すればいいだけ。この程度のシステムならパソコンで充分である。その当時はパソコンを業務で使うという感覚はなかった。まだ性能が脆弱だったからである。

 ついでだから話しがすこし脱線することをご容赦いただきたい。1~2年前に臨床化学部のある課がパソコンのネットワークシステムを作ろうとして失敗し、50台段ボール箱に入ったまま廃棄処分処理をした。指示をしたのはもちろんebisu。購買課で機器担当だったからメーカとの共同開発品の管理はもとより、ラボ内の固定資産も全国の営業所の固定資産も全部私の管理に任されていた。ラボにはラボ管理部という部署があり、そこに機器担当者がいた。その上で管理していたのが組織上本社総務部購買課の機器担当ebisuである。異動前に全社予算を統括していたから「大物」の機器担当だっただろう。パソコン50台くらいは、「耐用年数(2年)がすぎるまでそのままにしておき、後は廃棄処分を出すように」、これでだれも瑕がつかない。たかが600万円程度の損失で現場の開発意欲を削いではいけないし、失敗を認めなければ発展もない。固定資産管理者の役割は失敗を大きな経済損失にしないこと。あまり好い加減な企画で走ろうとしたら金額が大きければストップさせる。職位が上の者の失敗は咎めるべきだが、若い者の失敗は人財育成費用と考えるべきである。
 初めて実地棚卸しを本社管理会計課員として担当した当時、ラボ副所長がかかわった案件で数千万円の機器開発が失敗に終わった残骸を複数見つけた。それも全部処理してあげた、その代わり、以後副所長案件の開発は禁止と現場に念を押した。開発案件ではラボ内で誰も言うことを聞かなくなっただろう。どうせ損失を出すなら、先のない副所長ではなく若い係長クラスの試行錯誤を認めてやりたかった。
 就職斡旋期間のリクルート社の紹介で1984年2月に上場準備中のSRL社へ中途採用された。上場要件である会計システムを8ヶ月で本稼動させ次の年には管理会計課で私は全社予算を統括していたから、いわゆる絵に描いたような「本社エリート」。上場要件で固定資産の棚卸しが必要だったので、自分で全部棚卸ししてチェックした。ラボだけで3日かかった。購買課の機器担当のFさんとラボ管理部の機器担当Hさんが協力してくれた。実地棚卸しと同時に不良資産を一気に処分した。経理部長へその旨通告するだけでよかった。固定資産管理を引き継ぐときに経理部長には自分で実地棚卸しをするから、過去の経緯は不問にして、不良資産の処分を一気にやる旨の了解を取ってのことだった。松山商業高校出身、富士銀行からの転籍組みのIさんはなかなか話のわかる人で全部任せてくれた。会社上場が錦の御旗だからこそそういうことが可能だったのだろうと思う。私は中途入社して1年の平社員、売上規模は300億円、従業員数は2000人、面白いでしょ民間会社って。自分に権限がなくても、権限をもった人の了解があれば大概の仕事はできるものです。要は仕事の仕方次第、だからできない言い訳をするヒマがあったら、どうしたらできるのかを考え続けること、道は必ずある。
 臨床化学部のある課のネットワークシステムはパソコンに双方向のインターフェイスがないので無理だった。わかっていたけど失敗させてみた。そうしないともっと大掛かりなことをして会社に損害を与え居られなくなる、それは人材喪失。この係長は数年後に課長になった。うれしかったね、人材を失わずにすんだ。この当時はパソコンを少し使えるようになった「マニア」がこういうことをやりたがったが、制御系のデータ処理用コンピュータのことを知らない者たちばかりだった。知識が不足していると百回やれば百回失敗する。わかって適度な失敗を若いときに経験させるためには会社の「ゆとり=高収益」が必要なんです。
 私は前職(軍事及び産業用エレクトロニクスの輸入専門商社)でいろんなタイプのマイクロ波計測器や時間周波数標準機、質量分析器や液体シンチレーションカウンター見ていたし、毎月開かれる技術系の社内講習会や海外の取引先から技術者が来て開く新製品説明会のほとんどに出席していたから、その仕組みや制御系データ処理用コンピュータの性能に詳しかった。臨床検査機器のインターフェィスはとても遅れていた。当時のマイクロ波計測器ではGP-IBが標準仕様だったが、パソコンはシリアルインターフェイスだった。これでは使えぬ。インターフェイスだけでなくCPU性能も業務使用を考えると貧弱で信頼性に欠けていた。NTサーバが出るまでは一台3000万円もするミニコンでなければやれない仕事だった。

 システム本部へ学術開発本部から要請書を出しC言語のプログラマーを一月間借りた。システム本部へは相談は一度もナシ。具体的なやり方を指示しだけ。
 システム仕様書はアルゴリズムを含めてプログラム仕様書レベルのものを書いてプログラマーのU君へ渡した。1ヶ月ほどでシステムが出来上がり、沖縄米軍へ学術開発本部長のIさん、学術営業のS君、プログラマーのU君と一緒に説明に行った。6月の3日間の沖縄出張だった。沖縄米軍からはたいへん感謝された。三沢にある米軍はそれまで入り込めなかったのだが、この案件を手掛けたお陰で取引が開けた。
 1年ほどしてから3件異常値が出たが3件とも染色体検査で陽性が出たと聞いた。S君とほっとした。私たちは気が小さいから、やって結果を見ないと安心できない。そのときの返事、
「おお、予定通りだな!しかし、ちょっとできすぎだ」
 検査精度から考えると、次のケースあたりで擬陽性が出そうだった。確定診断の染色体検査があるから心配要らぬが、それにしても羊水穿刺はできるかぎり少なくしたかった。日本の羊水穿刺技術は諸外国に比べて失敗例が半分以下ではないか?あの当時で「標準値」で200件に1件の割合だったと記憶する。S君と私はそういうことを気にしていた。

 K大学病院産婦人科からの要請は沖縄米軍の結果を引っさげていったから話はスムーズに進んだ。MoM値(出生前診断検査)は人種で基準値に違いがあることが米国の研究で分かっていた。黒人は白人よりも10%高い。日本人の基準値はどうなのかという学術上の興味がわくではないか。
 私の役割は学術上の検査だから検査料金を無料にし、K大学から送られてくる検体を検査部門に回すことだった。製薬メーカ2社の営業担当へ連絡してK大分の3項目の検査試薬をただにするように交渉した。結果データは製薬メーカ側で使ってよいという条件を提示した。数年にわたって検査試薬をただにするにはそれなりの大義名分が社内稟議を通すためには必要なのである。現実の仕事をスムーズに運ぶためにはこういう細かいところが大切。
 製薬メーカはダイナボットもファルマシアジャパンもDPCも検査試薬の価格交渉の当事者だった元購買課の私が窓口ではノーとは言えない、購買部長になるかも知れぬのだから。ファルマシアは日本市場の特殊性を説明して、価格を20~30%値引きさせた。マルチアレルゲンで世界市場で当時はあの会社にしかない検査試薬があった。「日本の商慣行どおりにディスカウントすれば売上は1.5倍は行くだろう、だから下げろ」とシビアな交渉だった。ファルマシアはそれを飲んだ。売上は2倍くらいに膨らんだ。日本法人社長はずいぶん偉くなって「ご栄転」した。ファルマシアLKBの製造するγカウンターもSRL仕様が実質日本標準だから開発してカタログに載せるように要求するとすぐに対応してくれた。真っ白い、デザイン性のよい製品となった。SRLは全部ファルマシアLKB製品へ切り換えた。わたしは、RI部にファルマシア製品を買えと強要したことは一度もない。見た目がよかったし、その前にいれた濾紙フィルターを使った革新的な液体シンチレーションカウンターで現場がこの会社の製品の独自性と開発力の高さを認めていたからだ。これは購買課時代の仕事だった。
 購買課から学術開発本部へ異動して、こんな産学協同研究仕事を仕切るなんてことは後にも先にも前例がないから何者かと気味が悪かっただろう。
 どんな会社だって本社で予算を統括した人間が購買課で検査試薬の価格交渉と機器担当をやり、その後学術開発本部で検査試薬の共同開発や大学医学部と共同研究のコーデネィタを担当するなんてことはありえないのである。マルチを可能にしたのは基礎学力の高さと考え抜く力。

 検体の受付は数回やってすぐにルーチン部門へ回してお役ごめん、これで検体受付業務の実際が体験できた、やってみたかった。営業所で準社員がやっているルーチンワークだったが、一月ぐらいやってみたかった。もちろんやらせてもらえるわけがないがチャンスがめぐってきたというわけ。
 一番問題だったのはK大産婦人科医とある医学会でデータ解釈上の議論をしてしまった研究部のF君がデータ解析の責任者だということかもしれぬ。トラブル後、創業社長が「いきすぎがありました」と謝罪にいったと聞いていたから、K大医学部産婦人科医局内部で当社の評判はあまりよくなかったはず。F君にしても学術上当然の論だったから折れるはずがない。腕に自身のある技術者とは扱いにくいものなのである。ところが、F君に資料を渡して説明すると、「ebisuさんの要請だから・・・」と気持ちよく引き受けてくれた。社内で彼のやる多変量解析のことがわかる人間はそうはいなかったから、得をした。前職でもそうだったが技術部の人間とはすぐ友だちになれた。技術端の専門的な話のわかる経営管理専門家は珍しいからかも知れぬ。こういうことがある2年も前にF君から誘われて二人だけで酒を飲んだことがあった。彼は2歳くらい年下だったから、兄貴分と認めてなついてくれた。お互い技術屋同士だから相手のレベルは仕事や相手の作った資料を見ればすぐに了解できたのである。面白い話しを彼から聞いたがブログには書けぬ。仕事の関係ができるとはそのときにはどちらも思っていなかったはず。何が役に立つか分からぬものだ、仕事は人と人の信頼関係で半ば解決がついているもの。だからふだんの仕事の仕方と、生き方そのものが問われる。

 一度だけS君に付き合ってK大産婦人科医局を訪れたがずいぶん待たされたような気がする。製薬メーカと検査試薬の価格交渉を年に一度やるが、相手が営業担当であろうと、日本法人社長であろうとこちらは待たせることも待たされることもなかったから、営業はたいへんだと感じた。メインバンクの新宿西口支店長は取締役だったが、それも同じ。メインバンクは副社長と経理部長を送り込んでいたが遠慮は一切なし。会社は高収益で実質無借金経営だった。増資をしなくても内部留保で必要な自己資本蓄積の可能な会社だった。
 担当ドクターに挨拶だけして、検査料はダダ、代わりに製薬メーカのデータ利用を認めることなど、前提条件と実際の段取りをざっと説明しただけだったはずだが記憶にない。あるいはそのあたりをS君が説明してわたしはこのプロジェクトのコーディネータとして同席したのかもしれない。検体を受け取ってから多変量解析まではSRLでやり、結果の発表はK大医学部産婦人科の役割という取り決めだった、大事なことは口約束のみ、文書にはしない。日本流の仕事の進め方を守った。
 その帰り、信濃駅前に美味しいカレー屋さんで食事した記憶だけが鮮明に残っている。夏になると1ヶ月ほど休んで本場のカレーを食べ歩いているという店主、小さな店だが流行っていた。あれは何月だったのだろう?その後独立して栄養医学研究所を創業したS君は覚えているだろうか?

 数年かけて日本人の妊婦3000人のデータを多変量解析した結果、白人に比べて基準値30%高いことが分かった。それが事実上の日本標準になっている。不思議なものだ、産婦人科学会でデータの取り扱いについて激論を交わした当事者が手を組んで仕事をすることになり、数年にわたるデータ収集と多変量解析でMoM値の日本標準値が決定され、学術的な意義の高い研究に結実している。
 ebisuはこういう人と人とをネットワークする仕事が好きである。異質の分野の有能なエキスパートが協力したら大きな仕事ができる。コーディネータに要求される資質は基礎学力の高さである。クロスオーバーする複数の専門分野を理解する基礎学力があればいい。
 臨床病理学会と臨床検査大手6社の臨床検査項目コード検討会のコーディネートはまったく別の狙い(日本全国の主要な大学病院をネットワークでつなぐ臨床診断支援システム)があってついでにやった仕事だったが、いま日本中の病院で使われている(もちろん市立根室病院もこの臨床病理学会の検査項目コードがシステム内部で使われている)。この件では自治医大の櫻林郁乃介教授にお世話になった。当時の臨床病理学会項目コード委員会の委員長だった。産学協同でやりうる仕事はたくさんある。

 K大とトリプルマーカであるMoM*値の日本標準値検討共同作業にはわたしは入り口のところでコーディネータとしてこの仕事に関わっただけである。当時の検査よりも格段に精度の高い検査が開発されたことを喜びたい。

*「妊娠中期母体血清α-fetoproteinおよびhuman chorionic gonadotropinのMoM値の算出における妊娠週数, 母体体重, 母体年齢の影響について」(1994-07-01 社団法人日本産科婦人科学会)
http://sc.chat-shuffle.net/paper/uid:110002109039
(この論文では1964例、期間は1990年10月から1993年3月までとなっているが、その後も症例数の蓄積が行われた。)
*MoM値参考資料:日本産婦人科学会
http://www.jsog.or.jp/PDF/58/5809-197.pdf

 この検査は生命倫理と関わりがあるので、検査が陽性に出た後のフォローがむずかしいから、小児科医と産婦人科医のほかにこのどちらかが臨床遺伝医の資格をもつことを条件としている。
 ところがこういう条件を満たせる病院は都会にしかない。北海道では北大病院がとりあえずやるようだ。高齢出産が増えているから、この検査に対する社会的なニーズは大きいのにこれでは実質的に検査を禁止するような懸念がある。理屈としては分かるのだが、現実はかなり無理がある。
 北海道なら北大病院と各地域の中核病院が連携してできることもあるのではないだろうか。改善を望みたい。
 
*産経ニュース「出生前診断・・・」
http://sankei.jp.msn.com/science/news/130309/scn13030922440000-n1.htm?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

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【中高生諸君へ】
 勉強が大事だ。数学も英語も大事だ、一番大事なのは母国語である日本語だ。小学校の時代に日本語語彙の仕込みの時期がある、ここが基礎だ、そこを国語辞書と漢和辞書を使ってしっかりクリアできた者は中学や高校で一時期読書三昧を過ごす。この時期に日本語語彙は穏やかに拡張していく。後は読む本のレベルに応じて日本語語彙が拡張できるだろう。

 勉強なんて対して役に立たぬと言う先生たちが小数だがいるが、それは間違いだ。どんな勉強も役に立たぬものはない。特定分野の専門知識と技能をもち、数学と英語の両方ができたら仕事の守備範囲は飛躍的に広がるものだ、そういうことを実例で知ってほしい。
 基礎学力が高ければたいていの専門書は読みこなせるし、医学やマイクロ波計測器やコンピュータシステム関係の講演会を聴いても理解できるものだ。

 昨日、東京での仕事の話しを少ししたら、「僕は先生の過去のこと知らないから・・・」と話しをまるで信用しない、架空の話しをしているように受け取っていた。「塾先生」という職業にある種の固定観念があるようだ。大学卒業して地元で塾を開業・・・、あのね世の中は広い、塾先生にもいろんな変り種はいるのだよ、大学院で学び時代の先端の東京で二十数年間働いて、50歳になってから古里にもどって私塾を開業する、わたしはそういう変り種の中の一人。
(私は教え方では「釧路の教育を考える会」の"合格先生"ことIさんにはとてもかなわない、分析力もどうやらずっと上手(うわて)に見える、異色の人材だ。現職教頭のMさんも他人には真似のできない決断のできる侍であり、異色の一つに数えられる。社会保険労務士と塾経営者の二足の草鞋を履く"ブルトーザ"のMさんも異色だ、この馬力の大きさはうらやましい。教育問題を釧路市議会でとりあげ超党派の議員連盟まで立ち上げてしまった月田市議(市議会副議長・議員連盟会長)も全国の公明党市議の中でこんなことをやっている人は二人といないのではないかと思うほどの異色の人材。「釧路の教育を考える会」会長の角田さんは元釧路教育長だが、これだけユニークな人材が集まってしまった会をふんわりと束ねてくれている。穏やかな表情をしながらときおりギラリと目が光るこわい瞬間がある、現職時代にお会いしたかった。釧路市役所次長職も異色のお二人が会の運営をしっかり支えてくれているし、地元経済界も志を同じくする人々が自然に集まっている。このように世の中に異色の人材は案外多く、それが集まると何かが起きる。核燃料みたいなもので数が集まるとどこかで臨界を越えてしまうのだろう。でも放射線は出ないからご安心を、釧路と根室の教育改革のための連鎖反応の起爆剤となるだけである。)

 10代は一生懸命に勉強(自分のため)
 20代30代40代は渾身の力で仕事(日本のため)
 50代からはふるさとのために何かをする(育ててくれた古里への恩返し)
 これが私の生き方。

 大事なのは空よりも高い志

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*#1570  学力と語彙力の関係(1):総論 July 5, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05

 #1572 「学力と語彙力の関係(2): 5科目合計点が高い⇔国語の得点が高い?」
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-07-05-3

 #1573 学力と語彙力の関係(3): 英英辞書と母語の語彙 July 7, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-07-07

  #2103 知的好奇心の効用(2):染色体画像解析装置をめぐって Oct. 21, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-10-20



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