だいぶ前に買って途中まで読んでほったらかしにしていたが、最後の30ページほどを読み終わった。6年前に同じ著者の『ガセネッタ&シモネッタ』を読んだ。スキルス胃癌で入院した折に「お父さん、ヒマでしょ、面白いからこの本」と渡され、退屈しのぎに読んでファンになった次第、作者が2ヶ月前に卵巣癌で亡くなったと知っていたら、病気見舞いにもってこれる本ではなかっただろう、天の偶然のいたずら。ファンになった理由は後ほどわかるだろう。
 そういうわけで出遭いは2006年の7月だったから、米原万里は卵巣癌をわずらい一月半ほど前に他界したばかり、わたしよりひとつ年下で50半ばだった。病床にありながら、最後まで連載を二つ続けていた。同時通訳そして作家とその活躍ぶりは人目を引いたに違いない。お父さんが日本共産党の常任委員で仕事の関係で海外へ、9歳から14歳までチェコの首都プラハで暮らした。チェコといえば中学生にはスメタナの"my contry"、別名モルダウが思い浮かぶ筈。

 この本は四つの章からなっている。
第一章 愛の法則
第二章 国際化とグローバリゼーションのあいだ
第三章 理解と誤解のあいだ―通訳の限界と可能性
第四章 通訳と翻訳の違い

 「~のあいだ」という言葉が二章と三章に使われている。interという接頭辞が「あいだ」に相当するが、通訳のinterpreterや国際的のinternational、サッカーやバスケットをやっている人ならinterruptやintervalの語が、大学3年や4年生なら就職の面接interview、運転免許を取ったらinterchangeから高速道路を走ってみたいし、情報処理ならinterfaceなどがある。高校生ならintercourseぐらいは辞書で引いて見たことがあるだろう。学校で使っている"ゆめ単"には出ていない単語?
 中学校や高校で企業で実務研修させてもらうことを「インターシップ」と言ってるがあれはインターンシップinternshipで綴りにnが入っている、間違えないようにしよう。

 第一章ではお得意のシモネッタがでてくるので、米原万里の話しの面白みがよく出ているので紹介したい。「異性を本能的に三分類」というタイトルがつけられている。
「・・・率直に自分の心のほんとうの声を聞いてみると、私はあらゆる男を三種類に分けています。皆さんもたぶん、絶対そうだと思います。
 第一のAのカテゴリー。ぜひ寝てみたい男。第二のBは、まあ、寝てもいいかなってタイプ。そして第三のC、絶対寝たくない男。金をもらっても嫌だ(笑)」22ページ

 「皆さんもたぶん」と言いかけ、「絶対そうだ」と言いなおすあたりが米原万里らしい。頭の中で一人で会話を楽しむ空想癖の強いこどものようだ。次々と頭の中で考えていることが口をついて出てしまう『赤毛のアン』の主人公を髣髴とさせる。
 そして話しはそこで終わらず、らせん状にもう一段用意されている。
「男の人もたぶんそうしていると思いますけれども、女の場合、厳しいんですね。Cがほとんど、私の場合も90%強、圧倒的多数の男とは寝たくないと思っています。おそらく売春婦をしていたら破産します。大赤字ですね。」23ページ
 好きなタイプの異性と寝たいというのは男も女も同じだが、男のほうが守備範囲が広いのかもしれない。それは許されるが女のほうが守備範囲が広すぎると評判が悪くなるのはなぜだろう。

 こういうことを書きながら数ページ後にはわたしたちの常識をひっくり返すような話しを提供している。さすが同時通訳、言葉に関して好奇心の強さを思わせるシモネッタを用意していた。
「『聖書』によると、マリア様は汚らわしいセックスなどせずに、神様から受胎告知というおふれを受けて、キリストをはらんでうんだということになっていますが、あれは実は誤訳だったのをご存じですか?元のヘブライ語では単に「結婚しない女」という意味だったのを、ラテン語に訳すときに「処女」って訳しちゃったのね。」27ページ
 以後、ただのシングルマザーだったマリアが処女でキリストを受胎したと敬虔なキリスト教徒が信じ、世界中に誤訳が広がって真実を知るものは少ない。何人かの好きな男と最高のセックスを楽しんだから、その感動が波長となって身体の奥深くをを振動させ精子と卵子が結合してキリストが生まれたと解釈したほうがずっと人間的で健康的で楽しい。世の中のシングルマザーはすべからくマリアの再来かもしれぬ。今日もあちこちでキリストは生まれている、ただ、神の預言を託されていないだけなのだろう。神が人間に預言を託すたびに世界を揺るがすほどの災いの種がまかれる。預言者が異なるだけで、同じ神を信じる者たちが永遠の戦争をはじめるのだ。

 この後はなぜか話題が『源氏物語』へ飛び、もてる男が女漁りをする話しが世界各地でベストセラーになるが、女が男漁りをする話しはそうはならないことを『好色一代男』と『好色一代女』を例にとり「証明」してみせる。そこから話しはさらに遺伝子へと飛ぶ。
 米原の頭の中ではどういうふうに神経ネットワークがつながっているのだろう。あちこちでスパークして、その光の点滅の一つ一つが連鎖する段落をつむいでいく。

 この章の男の役割と寿命についての米原万里流の結論を披露して閉じられている。52ページにシモネッタがあるから本文を読んでもらいたい。男の存在価値とそれがなくなると寿命が尽きる、それはなにか?男が男である所以だ。第四期(人生の終章)を迎えた時期こそが「私ももう第四期なんですけれども、男との関係性から解放されて、次の世代をつくるという人類の使命から解放されて自由になったとき、人として非常に楽しく生きるべきなのではないか、それが使命でもあるのではないかとさえ思っています。」53ページ
 そしてそのように生き、連載を二本書き続けたまま五十半ばで人生の幕を閉じたのである。思った通りに生き、思い通りに死ぬ、どこか歌人の西行や旅に生き旅に死んだ芭蕉を髣髴とさせる。

 第2章は同時通訳という仕事のカラクリを説明してくれている。国際会議での「リレー通訳」の話しが68ページに載っている。
 通訳は「音を訳すのではなく意味を訳す」ので外来語や擬音語が通訳泣かせ、カタカナ英語を連発されると、頭の中で意味への変換が追いつかなくなりアウトになる。「ラブホテル」をいう外来語を選んで日本語の融通無碍さに言及するのだが、単語の選び方にシモネッタの真骨頂がでている。ラブホテルの中国語訳が面白い、日本人が見てもそのまま意味が了解できる。ケッサクだ、「情人旅館」。
「外来語が音だけで入り込める日本語は、それだけ門戸が広くなっている。悪い意味でも、いい意味でも、開かれた構造を持っているということになります。」71ページ

 このあと日本語に刷り込まれた中国文明、漢字の分析がなされる。
「音読みは本来、日本語にはなかった音です。・・・意味をきちんと翻訳せずに、意味を解釈せずに音のまま入れるという習慣をすでにあのとき、日本語はつくってしまったのです。ですから、いま、カタカナ語が入ってくると眉をひそめるけれども、実はもうずっと前に、そういう道が開かれていたということになります。」72ページ

 なるほどそういうことだったのかと肯いてしまう。言語学者の誰かが似たようなことを言っていたような気もするが濫読の人だった彼女の頭の中からはそうした知識が溢れ、こぼれて出てくるのだろう。シモネッタを交えながら書いているから笑い転げながら読める。学術的な内容をシモネッタを交えながら饒舌に語る。

 第三章はグローバリゼーションをとりあげている。ebisuは日本独自の商道徳を輸出するために鎖国すべきだと経済学ノートのカテゴリーで何度か書いている。畳屋さんを例にとり具体論を付け足す予定だ。日本文化を大きな目で眺めると海外の文化を全面的に受け入れるときと閉じているときを交互に繰り返しているのだが、米原万里もそういう目で日本の文化を眺めている。
「日本の歴史を見ていると、日本の文化は貝みたいに閉じる時期と、全開して何でも取り入れる時期とが、交互に来るのです。」(75ページ)
「・・・開国したり鎖国したりすることができるのは、日本が海に囲まれているからで・・・」(76ページ)
「・・・文化はお互いに影響しあいながら発達していくのですが、それが常に影響しあっている国と、日本のように開国してふわっと入れて、後は鎖国して消化して、というやり方と、いろいろあると思うのです。日本は自分のものが大体でき上がった頃に開国するという具合でした。」(77ページ)

 表現が彼女らしい、とくに「ふわっと」という辺りが。
 開国のタイミングが「自分というものが大体でき上がった頃に」来るとしたら、鎖国のタイミングはいつなのだろうと、米原がどう考えるか話してみたかった。もちろん、この本には言及がないのだが、ebisuの目にははそういう時期をいま日本が迎えているように映っている。おそらくそれは日本の伝統的な文化がそれまで取り入れた海外の文化を消化し尽くし、独自の発展を遂げる時期なのだ。浮世絵がヨーロッパの絵画に大きな影響を与えたように、鎖国による日本の伝統文化への回帰は欧米資本主義を根底から覆すほどの何かを生み出し、世界に影響を与えるものになるのだろうと感じている。もっと具体的に言えば、スミス、リカード、マルクスを超える経済学が日本で生まれるのだろう。それは奴隷や工場労働者の労働に基く経済学徒は真っ向から対立し、日本の伝統的な商道徳や職人仕事観を基礎においた経済学となるだろう。

 日本語は膠着語に属するのだが、これは親戚の少ない言語系統であり、そうした日本語の特殊性を同時通訳という仕事との関わりからも論じている。
「あり意味では非常におめでたい議論が出てくる、これも日本人の特徴です。こういうおめでたさ、つまり、自分の言語とか文化を簡単に軽んじるというか、あまり重要視しない、こういう能天気な気持ちでいられるというのは、ある意味では、天然の国境にずっと囲まれていた気楽さからくるものだと思います。」(84ページ)

 チェコで暮らした5年間に少女がみた世界の現実体験から来る結論なのだろう。日本人が案外見落としている宗教についても常識的な理解を覆す事実に言及している。
「アラブとユダヤというのは激しく対立しています。パレスチナではもう絶え間なく殺し合いをしています。でも、ほんとうはアラブ語とヘブライ語はほとんど同じなんです。同じ言葉の別な方言と言ってもいいくらいによく似ています。大体東京言葉と関西弁ぐらいの違いしかない、そのぐらい近いのです。それから、アラブの人たちが信奉しているイスラム教徒ユダヤ人が信奉しているユダヤ教、これは同じ『聖書』が聖典なんです。『旧約聖書』が共通の聖典です。」(85ページ)
「というわけで、実態はすごく似たもの同士なのに、あれだけ強烈に、自分の民族、自分の言語、宗教をかたくなに守ろうとする意識というのは、やはり国土が不安定な分、それだけ強くなるのです。心の中の国境が強くなる、だから、ある意味では、心の中の国境が強いというのはあまり幸せな状況ではないかもしれないです。日本人は、天然の国境がずっとありつづけたから、言語とか文化に対して、非常に気楽に考えられる、幸せな民族なのかもしれません。」(85、 86ページ)

(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じで預言者が異なるだけということは井沢元彦が『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』(徳間書店)の中で言及している。宗教や風土を理解することは日本が海外に出て行くときにしっかり学び、分析しておかなければならないことなのである。自動車メーカーの鈴木がインドに進出してから20年が過ぎ、インドでナンバーワンのシェアーを獲得したが、最近工場で暴動がおき、いまだに5%程度の生産量しか回復していない。カーストへの無理解が一因だろう。工場を支えていた下層のカーストの人々を大量に解雇してしまった。上層のカースト(=管理職)だけでは工場は動かないが、かといって下層のカーストを管理職にすると、上位に属するカー外の人々はその下で働くのを嫌がるのだろう。問題が一気に噴出した感がある。さて、ここからが勝負だ。現実をよく観察して、現場で対処法を考え出すしかない。)

 チェコで少女時代を5年間過ごした間に、米原は講談社の世界少年少女文学全集50巻を繰り返し20回ほども読んだという。その米原が自国の文化は言語であり文学であると言い切って、繰り返し出てくる英語を公用語にすべきだという議論がおろかな世迷言であることを第三章と第四章で喝破してみせている。これは同時に小学校で英語を教えることの馬鹿さ加減も批判していると読むべきだ。この季節には日本語語彙を拡張するのが正しい教育のあり方だろう。

「(海に囲まれていることが)ただ、幸せだけに終わらないのです、始末が悪いことがあります。それは何かというと、英語のような国際語を公用語にすることが―公用語というのは日本の国語にするということです―国際化だと思い込んでしまう人がときどき出てくる。これもやはり他の国では考えられないことです。国際化だと思い込んでいるけれども、一種の錯覚です。英語を公用語にして、世界に出ていこうとするのは、オランダだけを通して世界を認識しようとした、オランダ語だけを通して世界の最も進んだものを取り入れようとした、鎖国時代とあまり変わらないわけです。」(86ページ)
「・・・これを日本語にあてはめて考えると、もしわれわれが日本語を棄ててしまうと、その蓄えられた文化というのを読むことができ、解釈することができるのは、一握りの学者だけになってしまうということです。蓄えられた文化を棄てることになります。」(87ページ)

 すでに明治期の著作を高校生や大学生が読めなくなってきているという事実を考えあわせるると、日本語能力が世代が替わるごとにはっきり退化しているのを認めざるをえない。中学生の成績下位層のなかには小学4年生程度の語彙しか理解できない生徒が増えている。もちろん数学の文章題も国語の点数も英語の点数も低い。日本語の語彙力が小さいと日常会話程度のことしか理解できなくなる。たとえば、竹島問題を社会科の先生が説明してもなかなか理解できない。ほとんど本を読まないから、日常会話レベルの語彙力(700語程度?)で、語彙力の発達が止まってしまっている。日常会話レベルを超えた語彙が出てくると途端に話しが理解できなくなる。
  小学校で読ませる日本語のテクストの量が少なすぎるから、他の科目の授業時間数を削って国語と算数の授業時間数を増やすべきだ。たとえば、素読の時間を他の科目を削っても週に2時間くらい古典の素読の授業時間を設けるといい、意味なんかわかってもわからなくてもいい、とにかく大量に読ませることだ。。国際人をつくりたいのなら、「読み・書き・ソロバン」の読みの部分、名作を選び日本語テクストの音読トレーニングがもっともっと強化すべきだ。

 このあと米原は真の国際化は英語以外の文化も知ることの重要性を説くき、世界にはさまざまな文化がありそれは言語と密接に結びついており、英語を通して理解できるのは英語に翻訳された分だけであり、重要なものは他にもたくさんあることに言い及ぶ。
「世界にいま1500から6000くらいの言語があります」(94ページ)
世界は広く、さまざまな文化が共存しているから、ロシア語通訳であった米原は英語偏重の危険性に警鐘を鳴らしている。

 同時通訳をやっていると批判精神と複眼思考が身につくという。日本語と外国語を通してものごとを見たり考えたりするからだろう。できれば外国語は第二外国語もやったほうがいいと勧めている。そのほうが英語を客観的に眺められるというのだが、なるほどその通りだと思う。ここでも米原流のシモネッタで自説を展開する。
「この一辺倒(英語だけ)というのは、男女関係と同じで「なになに君、命」とか思って一途に惚れ込んでいると、大体ふられるでしょう?英語を身につけるときも、英語命で一つだけやっていると、大体うまくいかないんです。あまりうまくならないんです。もう一つ外国語を勉強していたほうが、いいのです。英語もできないのにもう一つ?と思うでしょうが、そうではないのです。もう一つ学んでいたほうが、遠回りのようで、早道なのです。そのほうがよくできます。」(101ページ)

 話しは同時通訳の過程分析へと及ぶ。こんなふうに図解している。

 概念①⇒コードA①⇒表現⇒メッセージ⇒認知⇒解読⇒概念②

 「メッセージ」までが発信者で、「認知」以下が受信者である。同時通訳は発信者が頭の中に浮かべた概念(イメージ)を受信者の頭の中に再構成することである。ここから、意味をつかまえて自分の語彙でその意味を表現するという同時通訳の技が述べられる。単語一つ一つにこだわったら、同時通訳不能になる。同時通訳と翻訳はまったく別のものというのが第四章のテーマである。
 ロシア語で発信された話しを、日本語で表現するには、日本語語彙の豊かさが勝負だ。米原は小中学生の時代になかなかすさまじい濫読の時期を経験している。それは必要に迫られたものだった。

 同時通訳は勤勉で、人並みなずれた読書力と学力がなければ務まらぬ。
毎回専門分野が違うから、そのたびにその専門分野の勉強をしていかなくてはなりません。皆いちばんおいしいところだけ見て、なりたいなぁと思うんですね。でもまあ、私はなりたい人がたくさんいればいいと思います。そのほうが、やはり切磋琢磨して優秀な人が出てきますから。」(164ページ)
 少女時代にチェコでロシア語が伸びた時期(三ヶ月の夏休み)の出来事を書いているが、それは本文を読んでもらいたい。

 日常会話はだいたい700語あれば一通りコミュニケーションが不足なくできるものだから、バイリンガルだからといって同時通訳ができるわけではないことをはっきり述べている。通訳には膨大な語彙が必要とされるから、日常会話程度の語彙(ごい)ではなんともならないのである。
「・・・ですから、バイリンガルの帰国子女が同時通訳できるかと言うと、ほとんどの人はできません。それは七百語くらいですませてきたからです。ところが会議ではもう少し抽象的な話しとか学問の話になるので、通訳には膨大な量の語彙も必要ですし、文の形も微妙で複雑なものが必要になります。そういうものを身につけなくては、お金をもらう通訳はできるはずがないですね。」(168ページ)

 2度ばかり通訳になりたいという生徒がお母さんとともに来たことがある。日常会話程度の英語が得意なくらいで通訳はとてもムリ、それよりもいまは本をたくさん読むことと、何か専門分野を身につけることが大事で、英語の語彙は本をたくさん読むことでしか身につかないものと説明したことがあった。小中学校で日本語の本をあまり読まずに英語の勉強ばかりしても高校生や大学生になってから学力も英語も伸びなくなってしまうもの。小中高生の時期は本をたくさん読んで日本語語彙力を育てておき、器を大きくしておくことが何よりも大切なのだろうと思う。

 ある程度の量を読むうちに、辞書を引かずに読むようになる時期が来るものだが、そういう体験を米原万里もしている。これも本文を読んでもらいたい。チェコで夏休みに体験した輪読会の件(くだり)も、一緒に朗誦して悲しいところでともに涙したり、楽しいところでともに笑いあうということを体験し、喜怒哀楽を共にする楽しさを書いている。ロシアの作家の本をたくさん読むようになった動機をシモネッタらしい筆致で次のように記している。
「・・・ちょうど小学四年生の頃って、男女関係の機微とかセックスのこととか、ものすごくしりたくてたまらないけれど、親にも先生にも聞けない。だけど文芸作品にはそれがいっぱい出ている。だから、一生懸命読めたと思うのです。とにかく本を読んでいました。」(170ページ)

「それではなぜ辞書を引かないで読めたのか?と思うと、その理由は、単語の意味というのは前後関係や言葉の構成要素で、自ずと浮き上がってくるからなのです。だから気づかないうちに語彙が増えていくわけです。」(171ページ)

 自分がそのときに興味のある分野の本を読めばいいのである。ebisuの場合は専門の経済学や会計学の専門書が入り口だった。好きで読んだのと、仕事で必要だったことや、78年から80年代の数年間に好奇心でプログラム言語を二つ習得したりコンピュータシステム関係の専門書を片っ端から読み漁った。日本語と英書と両方だった。人工知能関係から言語学関係の本へと興味は広がっていった。翻訳の出るのが遅くて英書で読むものが増えてしまった。専門書は専門用語をある程度知ってしまえば辞書なしでどんどん読めるようになるものだ。あとは数を読めばかってに語彙が増殖してくれる。米原の言葉を借りよう。
「辞書を引かないで読むと、もちろん20%くらいの単語はわからないのです。けれども、物語のなかの重要な粗筋、本流に関係している大事な言葉は何度も出てくるんです。そうすると、前後関係からわかってくるんですね。意味が、たぶんこういう意味だろうとわかっていって、終わった後で辞書を引いて、やっぱり私が思っていた意味と同じだったとなると、なんだか自分は天才じゃないかと元気が出るでしょう?嬉しくなるでしょう?こういう風に自分でみつけた言葉の意味は、絶対に忘れないですね。」(172ページ)
「本を読むのはそれ(抽象的な語彙を増やすこと)が目的ではなくて、あくまでも面白いから読むのです。魅力的な主人公、あるいは、おもしろい話に乗せられて読むわけですけれども、結果的にそれで語彙や文の形が非常に増えていくわけです。」(172ページ)

【攻撃的で立体的な読書】
 米原が通っていたソヴィエト学校では国語の授業と宿題で実作品を大量に読ませたとある。そして司書の先生が生徒の読んだ本の要約を毎回毎回言わせる。読んだことのない人にわかるように話させると言うのである。感想は一切聞かない、要約力の練磨をひたすらやらせたとある
 授業中も朗読させて、読んだ部分の要約を自分の言葉ですぐに言うことを求められるから、それを意識しながら読むことになる。かいつまんで要約を言うトレーニングを徹底的にやらされた。そうするうちに頭の中に粗筋が立体的に組み立てられるようになったという。この部分が一番大事なような気がする。
 「読み・書き・ソロバン(計算)」で最初に挙げられているのは読む力である。読んですぐに要約できるレベルの読書力がつけば学力は飛躍的に上がるだろう文学作品の「梗概(構造と要旨)」を書かせるトレーニングも授業でなされている。これが中学校だというのだから驚きである。日本の高校生の国語授業よりもずっとレベルが高そうである。
 国語のあり方がまるで日本とは違う。たいへん重視されているように感じる。英語の先生ばかりでなく国語の先生たちにも読んでほしい本だ。もちろん、シモネッタのわかる高校生や大学生にも。(笑い)

 今年の5月25日は米原万里さんの7回忌だった、感謝を込めて合掌。


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米原万里の「愛の法則」 (集英社新書 406F)

  • 作者: 米原 万里
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2007/08/17
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ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

  • 作者: 米原 万里
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/06
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