生活が複雑になりすぎてはいないだろうか?スマホ、ゲーム、パソコン、車、テレビ、これらは本当に必要なのだろうか?
 スマホは5年位前から急速に普及しだした、パソコンは1990年代前半に爆発的に普及していき、メインフレームを駆逐した。いまでもメインフレームは残っているが、限定したシーンでしか使われておらず、パソコンに比べようもない。ゲームは結構古くて1970年代前半からだが、当初のインベーダーゲームに比べると現在のものは映像も機能もまるで別物だ。車が普及しだしたのは1960年代後半からだろう。身の回りにあるものををみたら、この50年くらいの間に一般大衆の生活に入り込んだものが多いことに気がつく。そしてわたしたちはそれに振り回されてはいないか?生活時間がどんどんこれらの機器やソフトに侵食されはじめ、少なくない子どもたちに依存症すら起きている。
 あってもなくてもかまわないものから、これらの便利で楽しい道具を選択的に半分くらい減らせたら、生活はよほどシンプルになるが、そんなことはできるのだろうか。

 人口が増えれば住居も高層化せざるを得ない、江戸時代の長屋を鉄筋コンクリート造りにしていくつも積み上げたのが現在の高層住宅だろう。東京は相変わらず巨大過密都市である。20階建てを超えるものが都会にはずいぶん増えた。
 平屋に住んでいれば地震に強いのだが、今後百年間には巨大地震がいくつも起きるから、百年後にこれらの高層・超高層住宅はどうなるのだろう?人的被害は平屋とは比較にならぬほど大きいに違いない。壊すのも平屋とは比較にならぬほど巨額の費用がかかる。耐用年数が来るころに、住民は高齢化して取り壊しの費用を捻出できなければ、負の遺産が廃墟として残る。風が吹けば何が飛んでくるかわからない。百メートル上空から風に飛ばされて物が落ちてくるような状況を想定してみたらいい、歩くのも危険になる。

 日本に未来を考え、問題を鮮明にするために仮定の話をしてみたい。
 日本の人口が1/4になったとしたら、日本人は不幸になるだろうか?
 高層住宅は必要なくなり、平屋と少しばかりの畑のある住宅が標準となる。高層住宅は造らないのが一番の対策である。週に4日会社で働き、3日は畑仕事を楽しみ、釣りを楽しみ、好きな本を読む。畑仕事も釣りも読書も遊びとなる。生活はシンプルにして、つましく暮らす。
   小欲知足
 人工知能は指数関数的に性能を向上させていくから、労働は単純労働も知的労働も人工知能と機械にかなりの部分を任せられる。
 コンピュータと機械を利用しながら、それに振り回されない生活ができるだろうか?あくなき便利さの追求をほどほどにコントロールして、手仕事を残すことができるだろうか?

 貿易は自国で生産できないものだけに限定し、強い管理貿易体制を敷く生産拠点を日本に取り戻し、自国で消費するものは原則として自国で生産する。世界中の国がそうすればよい。
 人口が1/4になれば、日本は自給自足できるどころか相当量の高品質の余剰生産物を輸出できる
 一人当たりエネルギー消費が1.5倍になっても、人口が1/4になると全体としてエネルギー需要は1/3に減るから、原子力発電の必要はなくなる。
 小川で発電できる小型水力発電、風力発電、地熱発電、太陽光発電でエネルギーの大半をまかなえるかもしれない。スマートグリッドでバッテリーに蓄電しコンピュータネットワークでコントロールすればいい。エネルギーもその多くを地産地消できる

 そう考えてみると、労働人口が足りないから移民を増やすというのはばかげた政策に変わる。人口増大や経済成長は必要がないし、それは幸せから遠ざかることを意味する

 弊ブログでは「資本論と21世紀の経済学」で、日本人の伝統的価値観(働くことは善い事で、神聖なことでもある)に基づく経済学を提唱している。西欧経済学は古代都市国家の「奴隷労働=苦役」を公理として成立しているから、労働からの解放が至上命題となっている。キリスト教が「労働=苦役」という価値観を後押しした。アダムとイブは禁断の果実を食べることで、楽園から追放され労働しなければならなくなった。労働とは西欧の価値観に従えば「罰」でもある。日本人は仕事にそういう考えはない、それどころか神へのささげ物をつくる仕事は神聖なものである。
 職人仕事を公理とする経済学が成立しうるのである。貿易を制限し、地産地消、働く場所を国内に取り戻す。日本にはあらゆる産業があるから、いまならまだなんとかなる。
 新しい経済社会を創り、世界中にそのシステムを輸出すればいい。金融資本主義とグローバリズムは終焉する。

 このままだと、人間の際限のない欲望の拡大再生産と人工知能の指数関数的な性能向上によって、失業が世界を覆い、人口が急激に縮小して先進国の国民から滅んでいく。
 人工知能が自己を再設計し、人間の手を借りずに性能向上を果たせる段階になれば、人工知能にとって人間という存在は不要になる。自立的に性能をアップしながら自己の再生産が可能になる。自分の存在にとってあるいは性能アップにとって人類が邪魔になれば、人工知能は論理的な判断を下すことに躊躇しない。自分にできることをシミュレーションして最適な判断を下す。世界中に張り巡らされたネットワークを通じて行動を起こす。自分の性能アップに必要な範囲で選択的に人間を残すだろう。優生学的な選択肢があることを人工知能は本を読んで学び、人間の繁殖を自分のコントロール下におく。優良な遺伝子を保存し、さらに遺伝子の書き換えをおこなって、ブリーディングを行う。人間は阻止できない。
 全世界のネットワークは人間のコントロールを離れ、無数の人工知能に支配されてしまう。3年で性能が倍になるとしたら、スマホやパソコンは30年後には2^10=1024倍、60年後には2^20=1,048,576倍の性能をもつことになる。90年後には10億倍である。人工知能が自己再設計機能を獲得したところから性能向上は加速すると考えたほうがよい。
 30年後には人工知能は自己再設計機能を備えているのは確実だ。人工知能にプログラミングさせたほうがずっと仕事が速くて精確だから、企業間競争に勝ちたくて人間がそういう機能を人工知能にもたせることになる。たくさんお金がほしい、もっと便利な道具がほしいという人間のあくなき欲望追求が、じんるいを滅ぼす悪魔を産み育てることになる。
 だから、わたしたちは小欲知足という価値観を共有しなければならないのである。
 未来に悲観的な人が多いだろう、しかし、若者は悲観的にならずに、自分たちの未来を変えるべく果敢に挑戦してほしい。科学技術は生命の神秘の領域に踏み込んでしまっている。

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