<追記情報>
7日12時半 パリ講和会議での人種差別撤廃案提出について追記

 西欧経済学の根底には、労働=苦役という概念が潜んでおり、それが公理公準となってアダム・スミスの『諸国民の富』やディビッド・リカードの『経済学及び課税の原理』、カール・マルクス『資本論』が体系ができていることはすでに論じた。
 こうした西欧の経済学に対して、日本的な職人仕事観を経済学の公理に措定した新しい経済学についても弊ブログカテゴリー「資本論と21世紀の経済学」で詳論した。

 渡部昇一氏が『日本、そして日本人の夢と矜持』(2010年、イーストプレス社刊)の中で西欧の労働観と日本人の労働観を対置して論じ、日本人の労働観がこれからの世界にとって重要なメッセージとなると書いている。日本がなすべきことはそうした労働観に基づく経済学を構築し、そういう経済社会を日本が実現して世界に向けて発信することである。やって見せるのが一番いい。彼は宗教が労働観の違いを生んでいると主張しているが、まさにその通りだ。

 彼の著作から長い引用をしようと思う。思わぬところから、職人仕事観に基づく経済学の援軍が現れた。渡部氏は日本的職人仕事観を公理とする経済学の成立を知らない。
 弊ブログのカテゴリー『資本論と21世紀の経済学』の該当箇所も比較して読んでいただけたら幸いである。

『日本、そして日本人の夢と矜持』p.309-314
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 西洋人にとって労働とは罰

 さて、日本人がメッセージとして後世に伝えるべき第三の日本文化の精神として、勤労に対する考え方、すなわち「日本人の労働観」が挙げられるだろう。
 私はかねてから、それぞれの民族が勤労に対して持っている概念は、多くの場合、その民族の歴史的イメージ、すなわち「刷込み」と大いに関係があるのではないか、という仮説を抱いてきた。
 そして、その刷込みの出発点になったのは、多くの場合、その宗教の経典の中で描かれた「極楽」あるいは「楽園」の描写であると、私は見ている。
 たとえば、旧約聖書を共通の経典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教の中において描かれているのは、パラダイス、すなわち楽園であり、労働なき世界であった。
 ここにはアダムとイブなる男女がいるが、彼らは仕事はしていない。いつも快適な気温に保たれた世界であるから切るものもいらないし、食べるものは樹から果物を穫ればよい。
 しかし彼らは禁断の木の実(知恵の実)を食べて髪の怒りに触れ、楽園を追放されてしまう。その罰として、男は額に汗して労働することを命じられた。また、女は男に服従し、子どもを産むことを命じられた。
 この旧約聖書を読んだ信者たちが、労働に対してどのようなイメージを持つであろうか。答えは分かりきっている。
 すなわち、労働は罰であり、苦痛であり、彼らにとってほんとうの幸福とは楽園で遊ぶことなのである。
 仏教においても「極楽」のイメージははすの花の上に静座している姿である。お寺の庭の池みたいなところが、極楽なのだ。
 極楽を求めた平安朝の人が、宇治に平等院を建てたのは、極楽のイメージに浸るためであった。そのイメージは、美しい静寂であった。

 "エデンの園"への挑戦

 だが、信仰心が厚く、神を畏れる敬虔なこころが明確な時期には、旧約聖書の文化圏の人たちにしても労働は当然のことと、それを真正面から受け取って熱心に働いた。女も、結婚式で男に服従を誓い、子を産むことを女の務めと考えた。
 ことにプロテスタントにおいては、仲立ち役の教会を廃止して、神の視線が信者ひとりひとりに注がれるとしたため、神の怒りにふれ、地獄に落ちぬよう、彼らは一生懸命に働いたのである。
 そして、このプロテストタントたちの勤勉さがヨーロッパに資本主義を成立させたのは、よく知られているようにマックス・ウェーバー(ドイツの社会学者)が『プロティスタンティズムと資本主義の精神』で指摘したとおりである。
 だが、このような敬虔な信仰心は、なかなか続くものではない。
 神を畏れる心が減っていくとともに、人間に課せられた罰など、なるべくなら受けたくないという気持ちが強くなってくるのは当然の流れだであろう。結局、男はなるべく楽をして、働かない方向へ流れ、また、女性のほうも男に服従するのはいやだ、子どもも産みたくないという方向に流れていったわけである。
 そして、自分にとって都合のいいイメージだけが残った。つまり、人間の理想はパラダイスにあるのだから、できるかぎり仕事もせずに男女が戯れているような生活が正しい、という考えの出現である。
 この考え方をもっともストレートに表現したのが、いわゆるヌーディスト・クラブであろう。
 男も女もアダムとイブのように裸になり、仕事もしないで、果物を食べる―この、いかにも旧約聖書的なイメージは、いくら日本人にアメリカ崇拝の気分があったとしても、まったく受け容れられなかったが、エデンの園の刷込みのない日本人にとって、これは当然の話である。


 「神様ですら働く」と考える日本人の勤労意識

 これに反して、日本では、高天原で神々は労働をしていたのである。
 しかもその労働は、神様だけができるような特殊技能や知的労働ではなく、当時の日本人がやっていたのと同じ仕事であった。
 具体的にイメージしにくい聖書のゴッドと違って、日本の神々はアンスロポモーフィックな(人間の形をしていると表象されるような)ものなのである。日本の神様は、「崇敬される先祖の霊」とでも言ってよいであろう。だから、その崇敬される先祖の姿を具体的に表象しやすいのである。『古事記』を読むと、日本の主神である天照大神が機織小屋を持っていたという記述が書かれている。天照大神は女神であるから、これはじぶんでも機を織っていたと解釈すべきであろう。また、ほかの男神たちも田畑を耕していたことが、ちゃんと書かれている。
 すなわち、太古に刷込まれた日本人のイメージとしては、労働というものは神様もする、というものであった。したがって、労働を卑しいとか労働が罰であるという発想は、日本人の体質には合わないのである。
 このすり込みが今も生き続けていることは、失業や定年で仕事がなくなった状況を、多くの日本人が最も不幸な出来事として感じることに、何よりも象徴されていると思う。
 日本のビジネス社会の中では、窓際族になるということほど同情を集める事態はないが、欧米人たちは「あくせく働かなくて給料がもらえるのだから、そんなにいいことはないではないか」と受け取るのが一般である。
 現代の日本では、労働時間の短縮が叫ばれているが、仕事を嫌悪する気持ちより、仕事を喜ぶ気持ちの方が貴重であるという事実は、いつの時代になっても変わらないことであろう。その意味で、「神様ですら働く」と考える日本人の労働観は、先に述べた自然観や宗教観と並んで、これからの世界にとって重要なメッセージとなると思われるのである
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 日本人が共有する伝統的な仕事観、そして信用第一の商道徳は、幕末以来すでに160年間世界中から褒め称えられ、広がり続けている。
 21世紀に日本がなすべきことは、グローバリズムの片棒を担ぎ、経済格差を大きくすることではなく、貿易を制限して職人仕事観や信用第一の日本的商道徳に基づく経済社会を構築して、開発途上国にそれを伝えることである。あらゆる産業が日本には揃っているから自立型経済圏を構築可能だ。それを世界中に広めたら、人種平等を経済の仕組みから支えることになるだろう。日本は1919年のパリ講和会議の国際連盟委員会で、人種差別撤廃提案を行い、賛成11票、反対5票で過半数を制したが、米国大統領ウィルソンが全会一致でないことを理由に不採択とした。米国は国内問題から、英国はオーストラリアやインドを植民地にしていたから人種差別撤廃提案は都合が悪かった。その後1924年に米国で排日移民法が成立している。
 雨後のたけのこのように自立型経済圏が増殖すれば、量的な経済成長の必要がなくなり、経済格差が縮小し、グローバリズムは消滅する。第2次世界大戦を戦ったことで、敗戦はしたが、その後アジアの各国は独立戦争を戦い抜き、白人帝国の植民地から脱した。
 人口縮小時代に突入した日本はこれからもうひとつ世界史を変える大きな役割を果たすことになる。日本人の夢と矜持がそこにある。21世紀を拓く経済学の理論的基礎はすでに明らかにしたから、以下のURLをクリックしてお読みいただきたい。世界に向けて初めて日本が発信する経済学である。


       3097-2 ↓
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-02-1

6.
<公理系書き換えによる21世紀の経済学の創造> …14 
 ○ 資本論の公理系の析出
 
 ○ 公理系書き換えによる新しい経済学の創出
7. <経済学体系構成原理は四つ> …19           


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日本、そして日本人の「夢」と矜持(ほこり)

  • 作者: 渡部 昇一
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2010/01/15
  • メディア: 単行本