いま、「釧路の教育を考える会」の中でネット上で数人で議論していることを、ブログ「情熱空間」管理人のZAPPERさんが統一的な視点からまとめてくれました。
(ネット上での特定の掲示板あるいはMLを利用した議論は便利がいい、釧路と根室の距離がなくなります。)

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2015年09月30日

学力向上のキモ(途中式と作文と)

途中式を書かせない。
作文を書かせない。


現在、議論を進めているところですが、なぜこの地の子ども達の学力が上がってこないのか、その核心部分と考えられるもの。結局、この二点に集約されるものではないだろうと考えるに至りました。

中学数学。学習指導をしていて痛感するのは、本当に本当にそれはもう驚くほどに途中式を書かないというものです。こうした感じですね。単なる計算問題。ただ黙って問題を見つめたままの生徒。「何しているの?」と問うと、「考えているの…」との返事が。またはこう。途中式を書くのではなく、与式の上か下に(途中計算の)メモを書いて、書くべき途中式は完全に端折っては答えだけを書こうとする。

ですから、多くの場合、まずは途中式をきちんと書くことの指導からになります。しかし、これが実に厄介なんですね。もはや根競べでしょうか、どれだけ言っても書かない。書くように指導をするも、頑なに書こうとしない。しまいにゃむくれる(苦笑)。ええ、なかなか壮絶ですよ。意地でも書こうとしません(笑)から。途中式を書かない。だから間違う。途中式を書かない。だから見直しができない。まさに悪循環。

で、いよいよとなれば「強権発動」です。多くの問題を解かせる。でもしかし案の定、途中式を書かない。結果、当然ながら間違いのオンパレード。目の前ですぐに丸付け。×のラッシュ!解きなおしを命じる。それを繰り返す。そうしてやっと気づくんですね。途中式を書かない。だから間違える。書いたならば間違いはグンと減る。そのことをやっと理解して、書こうとする。文章にすると簡単そうに聞こえますが、これ、敵(笑)は本当に強いですよ。手強いったらありゃしない。

お次は国語です。文章表現が稚拙。それ以前、年齢なりの語彙力が足りていないんです。文章を書かせたなら、まずまともに書けない。文書を読み、その論旨をまとめよといった問題。無理ですね、まずできない。しかし「話し言葉」はそこそこしっかりしているんです。ところが「書き言葉」になった途端、フリーズ。思考停止状態に陥ってしまいます。そうした子、でも設問なりの文章を声に出して読んであげたなら、それでもそこそこは正解できるんですね。つまりこういうことです。「話し言葉」と「書き言葉」がリンクしていない。「話し言葉」ならば理解できる。しかし「書き言葉」だと途端に理解できなくなるということです。ええ、「話し言葉」と「書き言葉」の橋渡しに大きな問題があるということです。

ここは当然ながら「読むこと」と密接な関係にあるわけですが、いかんせん「書くこと」の練習がまるで足りていないわけです。事実、朝読書がこれほどまでに普及していながら、ペーパーテストの得点はまるで上がってこない。ええ、「書くこと」のトレーニングがまるでなされていないわけだから、年齢なりの「文章を読む力」に劣ってしまうということになるんです。アウトプットが非常に手薄。だからインプットを奨励するも効果が出ない。見方を変えたならばそう言えるでしょう。

さて、それらが融合されるとどうなるか。例えば算数・数学の文章題。手も足も出ません。そもそも設問を読めない(正しく読み取れない)ので次の手が打てません。仮に読み取れたとしても、立式にまで至りません。なぜなら、与えられた条件を書き出してみるということをしないわけだから。それはまた、無回答率が跳ね上がることが証明している部分でもあります。

というわけで、小学校に目を向けてみると…。言っちゃ悪いですが、案の定ですね。途中式を書かせていない。そりゃ見直しすらしなくなるでしょう。(事実、検算すらまともにできない子があまりにも多い)具体的には3年生・4年生ですよ。分数の足し算引き算、それに四則計算、括弧を含む計算。そこで途中式を書く指導を徹底し損ねたなら、高い確率で書かない子が誕生してしまうことになります。そして5年生・6年生で軌道修正ができなかったならば、極めて高い確率で前述のような子に仕上がってしまうことになります。

作文指導はなし。あってもおまけ程度。「読む」と「書く」は車の両輪でしょう。読ませて書かせる。だから読む力と書く力の双方が少しずつ養われていく。でも書かせない。書かせないから、目的意識をもって文章を読むことをしなくなる。結果、悲しいかな、そのように調教されてしまっている。ここでしょう、ここ。いや、ここですよここ、問題の核心部分は。

試験問題を解くにあたって、前提となるのは、自らの「解答が確からしい」という実感・確信のはずです。なぜその解答に至ったかという思考。順を追って作業をし、順を追って考えて、そうして解答を導いた。だから「解答が確からしい」という自信を持つに至るものが、その思考のツール自体(途中式を書くこと。文章を書くこと。書く前提で読むこと)が不確かであるならば、そりゃ学力なんて伸びやしないというものでしょう。

読み・書き・計算とはよく言ったものです。いつもebisuさんがご指摘なさっていますが、まさしく重要な順に並んでいます。そしてこのことは沈着冷静にお考えいただきたいですが、「書き」と「計算」が驚くほど疎かになってしまっています。ええ、作文指導と計算過程を書くことが。というわけで結論です。途中式は必ず書かせるよう指導を徹底する。作文指導を強化する。それこそが《キモ》であるということです。

そうしたならば、こうした若者もまた雇用の現場から減ることになるでしょう。文章を書かせるも、まるで要領を得ない。何度言ってもメモをとろうとしない。ええ、実はそこへと直結しているわけですから。書く。書いて思考を可視化する。そのトレーニングが実に手薄だということです。

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