イジメにどのように対処すべきかという假定の話であるが、具体的なシーンを想定して会話を書き連ねてみる。類似の事例があったようだが、事実は見る角度によっていろんな様相を呈するものだから、会話は取材した断片的な事実に基くフィクションであるとお考え戴きたい。
 イジメへの対応を考えるための、ケース・スタディである。
(この程度のイジメはしょっちゅう起きているというのが生徒たちの弁であるから、このケースは特別なものでなくごくありふれたものであるようだ。あとで中学校のもっともっとシビアなイジメの実例を二つ挙げる。小学校でこういう状態を放置したり対応を誤ると、中学校ではエスカレートしてイジメは身体への暴力となることがある。先生が「弱い者イジメは卑怯な行いで、人として恥ずべき行為」だと繰り返し生徒に伝えるべきだ。)

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 五年生の生徒Aの机の上に「死ね」と書かれたノートの切れ端が置いてあった。なが~いお説教が終わりに先生は27人の生徒の一人一人に問う。

T:これはイジメです、イジメはよくないことです、みんなで改心しましょう。B君あなたは改心しますか?
B:・・・改心します
T:C君は改心しますか?
C:・・・はい
T:D君はどうですか?
  D君は犯人が誰かは知っている。しかし告げ口になるので言わないと決めていた。先生の言うことはなんだかおかしいなと思ったが、このまま返事をしないとお説教が終わりそうもないのでしかたなく、
D:・・・はい
 先生はこうして生徒全員に問いかけていった。みんな「はい」と返事した。でもD君は納得がいかない、何かおかしい感じがするのである。
 先生はイジメをした人にも人権があると説明した。

T:それではみなさんノートを全部出してください。

 先生は全員のノートを一つ一つ調べ始めた・・・
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 わたしが五年生だったら、こう反論するだろう。
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T:ebisu君、改心しますか?
E:先生「改心」って、心を改めるって書くんですよね?
T:そうだよ
E:わたしが「死ね」と書いてA君の机に置いたわけではありませんから、改心できません。「死ね」と書いて置いた人が心を改めるのが改心ではないのですか?やっていない人はどうやって改心するのですか?辞書で意味を確認しませんか?
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 『大辞林』より
改心:いままでのことを反省し、心を改め正すこと 「非行少年を改心させる」
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 ものごとがごちゃごちゃになりだしたと感じたら、原理原則に還るのがよい。この場合は「改心」という言葉の意味を確かめることである。そこを確認するところからはじめたら問題のたてかたの誤りにすぐに気がつけるだろう。
 おわかりのように、27人の生徒の中で改心すべきは「死ね」とノートの切れ端に書いた少年だけである。全員が「改心」するというのは言葉の意味すらわかっていない頓珍漢な話で、そんな屁理屈で長説教をしてしまう先生がいる。根室の小学校に限ったことではなく、全道の小学校ではごくふつうのことなのかもしれない。説教は短いほど効果が大きいもの、そうしたこともお分かりになっていない。
 先生もボキャブラリーが貧困だが、五年生の生徒たちもボキャ貧、笑えない現実がある。日本人全体がボキャ貧になりつつある象徴的な出来事のようにみえる。
 平均点で測定した生徒の学力が低いということは、教えている先生たちの学力が低いか、授業技術が悪いか、トコトン教え着ると言う覚悟がないかのいずれか、あるいは全部が原因ということができるだろう。だから、学力の低い地域の教育委員会や学校、教員は学力テストデータの公表に反対する。手抜き仕事や仕事の能力が低いことが白日の下に曝されてしまう。そんなことは先生たちの「教師道」の問題であり、自分たちで解決すべき問題だ。プロなら、このままでよいと思うわけがない。

 気になるところはいくつかあって、大きなものだけ挙げると、理不尽な事を言われてもそれに唯々諾々と従う無気力なところがその代表例だ。恣意的な市政運営に市議を含めてほとんどの大人たちが異論を述べないのとそっくりである。語彙力不足の根室の子どもたちはじつは大人の鏡ではないのか?子どもたちの日本語語彙力や基礎学力がしっかりしなければ、30年後も根室市政はいまのようなありさまになる。いやもっとひどいことになりそうだ。教育こそは町づくりの基(もとい)である

 わたしは小学校4年生のときに辞書を引いて北海道新聞の社説を読み始めたから、五年生でこういうことを先生に問われたら、言葉の意味を確認し、使い方が間違っていますよと主張したのではないだろうか。物心がついたころから、「なぜ、どうして?」としつこく大人に質問するので、回りの大人たちが辟易していたとは亡くなった母の弁。生来、理屈っぽいところがあったのだろう。三つ子の魂百までもの言葉通りに、わたしの性癖になってしまったようだ。(笑)

 この事例ではあと二つまずいことがあるように思える。
 一つはイジメをした少年にも人権があるという話だ。犯罪者にもそれなりの人権がある、たとえば弁護人をつけてもらうことがそうだろう。しかし、犯罪人ではない者と同じ人権が認められているわけではないから、そうした話しを付け加えることも必要だ。
 弱い者イジメは人間としてしてはならぬことだから、そういうことをした生徒には人権はない、人でないことをすれば「人でなし」となるから、人でない者に人権が十全に認められるであろうはずがないと説明すべきではないのか?
 法律に書かれた罪を犯せば、大人なら刑務所にいれられる。著しく人権を制限されて刑期を終えるまで刑務所を出られない。してはいけないことをした者には人権が制限されるのはあたりまえの社会のルールである。この先生は法律の勉強をしたことがないのだろうか?ほとんど社会常識のレベルだと思う。

 もう一つは、生徒全員にノートを提出させて、一つ一つ調べたことだ。置いてあったノートの切れ端と、破いた形跡のあるノートをつき合わせたら犯人は特定できるだろうが、学校の教師の役割は物的証拠をつかみ犯人を見つけることだろうか?イジメで被害者が自殺するようなことがあれば、犯人探しは警察に任せたらいい。
 そのように警察まがいのことをしなくても犯人は簡単にわかるものだ。何人かの生徒たちは誰がやったか知っている、ただ告げ口になるから言わないだけの話だ。何かの折に、こっそり聞いてみたらわかる。D君の返答に少し間があったことに気がつくことができたら、誰もいないところでこんなふうに訊くことができる。
 「D君、やったのが誰か知っているだろう?口外しないからだれがやったのか教えてくれないか、次のイジメを防ぐことができるかもしれない。先生もいいクラスにしたいんだ、君もキモチは同じだろう?」

 イジメにはどのように対応すればいいのだろう。むずかしくないのである、生徒全員の前で次のように言い放てばいい。
「イジメは卑怯なことで人として恥ずべき行為だ、あとで本人に謝るか、先生のところへ来たらいい。またやったら許さないぞ。」
 生徒があとでこっそり来て、「自分がやりました」と言ったら、「バカヤロー、二度とやるなよ」と穏やかな声で一言いって、笑って見せたらいい。そして普段から、「弱い者イジメは卑怯な振る舞いで、卑怯者は人間のクズだ」と繰り返し言えばいい。何度も何度も言うべきだ。

 先生たちの日本語語彙力やコミュニケーション能力が心配だ。「改心」の意味すらきちんと理解していないか、論理的な思考力がないのかどちらかだろう、先生たちの日本語語彙の貧困ぶりと論理的思考力のなさがうかがわれる。イジメは卑怯な行いで、人間のくずだと言い放つ気概のなさや、イジイジと犯人探しをする陰湿さも気になる。「弱い者イジメは卑怯な行いで、人としてやってはいけないことだ」となぜ言い放てない?ebisuには生徒全員を前にして怒りを込めて言い放てばよいだけの話にみえる。
 生徒も先生も幼児化している。読書量の減少と、読む本のレベルが幼児化していることが原因の一つに挙げられるのではないか?

 塾で教えていて感じることだが、根室の中学3年生の20%は小学4年生以下の日本語語彙しか持ち合わせていない。B中学校の生徒に急激な語彙力低下が起きたのはわずかこの3年ほどの間のことだ。少年団活動や生活習慣を含めて小学校での過ごし方に問題の根がある。それは親力の低下の問題でもあるようだ。日本語語彙力が劣化しているのは小・中学生だけではない、この事例でわかったのは、先生たちすら基本的な日本語語彙力があやしい、それがいまの小学校の現実の姿である
 先生の半数以上がこんなレベルではないだろうか、そういう先生たちの授業を根室管内の小学生が毎日受けているとしたら、全国一斉学力テストで、都道府県別偏差値で根室管内の生徒が37だということも納得がいく。偏差値37は成績下位9.7%である。

*#2484 ⑨全道14支庁管内別・科目別・偏差値表(小・中対比)  Nov. 8, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-11-08-4
 
 そういう中で英語が小学校で必修化されるという。先生すら日本語語彙力不足できちんとしたことを伝えられなくなっている状況なのに、英語を必修科目にして日本語がますます軽視されてしまう。
 こんなに語彙力が弱体化しているのでは、言語を通じたコミュニケーション一つを取り上げても学校がイジメに対処できるわけがない。語彙力不足と日本語運用能力の不足から、まるで説得力のない頓珍漢な長説教が現場で行われている。いじめに適切に対処できる教員は10%いるのだろうか、心もとない。新聞やテレビ報道でも、イジメ問題に適切に対処できた例は見たことも聞いたこともない。
 ニムオロ塾でも、過去に2例、深刻なイジメの相談があった。ダンベルを投げつける生徒がいたのである。避けたが大腿部へあたった。頭を直撃したら命がない。学校側とも話しをしたようだが、まったくムダだった。命の危険を冒してまで通学する必要はないから、希望通り毎日塾へ来ていいと伝えたら、しばらく学校を休んだ。学校は動かざるをえなくなる。
 もうひとつは1年ほどあとからわかった。「先生、俺毎日のように塾へ来ていたことがあったでしょう、学校へ行くと毎日殴られていたんだ、それで学校へ行くの嫌になって休んで塾へ毎日来てたんだ」そう告白した。入塾直前の定期テストで数学が50点前後、英語は十点台の生徒だったが、半年ほどでどちらもクラス一番の得点が取れるようになっていた。急激に成績がよくなったこともイジメの一因であったかもしれない。細い身体の背丈の小さな生徒だった。それ以来、「先生、毎日来ていいかな?」と生徒が言うときは気をつけて観察するようになった。

 文科省は足元を見たらいい。小学校へ英語の導入は狂気の沙汰で、いましなければならないのは先生と児童・生徒への日本語教育の強化と日本的価値観(弱い者イジメは卑怯な振る舞い、卑怯は人間のくず)や日本的情緒の刷り込みである。幸い日本には世界に稀に見る古典文学の宝庫があり、その作品の一つ一つに日本的価値観や日本的情緒が色濃く織り込まれているから、英語の時間を良質の日本語テクストの音読トレーニングに充てるべきだ。
 文学作品ではないが、イジメには3ヶ月ほどみんなで毎週「会津什の掟」の朗誦をすればいい。小学生ならすぐに暗唱してしまう。恥ずかしくて弱い者イジメができなくなるだろう。

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*【会津什の掟】
http://www.nisshinkan.jp/about/juu

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

 (七番目の条は外していいだろう。昔はそういうものだったということは覚えておこう。)
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 先生たちも学力や日本語語彙力が千差万別のようで、もちろん素晴らしい人もいる。元北海道中学校長会副会長の松実氏の卓越したご意見を紹介したい。
(新聞記事をクリックすると別画面に拡大して展開できます。)

 釧路新聞「巷論」から(ブログ「情熱空間」より)
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7112837.html
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2014年02月20日

小学校の英語教育構想(釧路新聞「巷論」のすばらしいご意見)

正鵠を射るとは、まさしくこうしたことですね。補足説明など何もございません。少し前(2014.02.11)と今日(2014.02.20)の釧路新聞、巷論(こうろん)から。英語教育の専門家、松実寛さんによる、前倒しが予定されているところの小学校英語教育へのご意見です。

理路整然。すばらしいですね。おみごととしか言いようがありません。さて、思うこと。こうした、「地域の宝」「知恵袋」といった方にこそ、この地の教育行政のブレーンとか教育委員とかになっていただくべきではないでしょうか。三部作(?)、畏敬の念を抱きながら拝読させていただきました。ありがとうございます。

というわけで、こちらもどうぞ。

●小学校英語教育必修化は「羅針盤なき船出」(釧路新聞「巷論」から)
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7077962.html




































































































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