言論統制と著作権について、通行人あらためPlage.Stさん、別の通行人さん、Hirosukeさんがコメント欄にそれぞれのご意見を書き込んでくれた。ブログの読者の皆さんは楽しんでくれただろうか。 
 棚上げしていた部分(著作権とグローバリズム)を以下に書いておく。いろいろ意見がありうるから、コメント欄へ書いてくれたらいい。それを楽しく読んで私も再度考えてみたい。

 日本では著作権は著者の死後50年だが、米国は70年だ。TPPはこういう点も米国流に変更せよと迫るのだろう。
 ではその内容はどうか、日本では学術論文に他の書籍からの引用をする場合は出典を明らかにするだけでお構いナシである。きちんとだれが書いたものかを明瞭にし、誤解のないようになっていればいいのである。ところが、ネット上では出典を明らかにしても著作権を盾にとって引用すら拒否できるようにいつの間にかなってしまっている。著作権法が改正されたからだろう。
 こんな慣行は日本にはなかったし、日本にはなじまない考え方である。国家が10万人も職員のいる機関を作り世界中の情報管理をしている米国流の考え方なのだろうが、私はノーである。日本人の文化や感覚に合わないからだ。だれが書いたものか明記すればやましいところなどない、引用は卑怯な行為でもないから悪い行為だと言う通念は日本人にはなかったどうして日本人が米国流のジャングルの掟の一つとも言える「米国版著作権」を受け入れる必要があるのだろう?

 住友家の家訓に「浮利を追わない」というものがあるが、商道徳として日本では普遍的な価値である。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の"三方よし"も日本人には共通の価値観である。
 こうした、日本人が何百年も育んできた善良な商道徳を棄てて、品の悪い米国流のジャングルの掟にしたがう必要があるのか?質の高い価値観ならまだしも、ゲスのゲス、そんな価値観にあわせる必要がどこにあるのだろうというのが私の根本的な疑問である

 TPPにはISDS条項というのがある。投資紛争解決センターという機関が米国にあり、そこに提訴されたら米国での裁判に応じなければならない。実際にNAFTA(北米貿易協定)に加盟しているカナダやメキシコ政府が米国企業の提訴による巨額の裁判を抱えてしまっており、そういう紛争に日本も巻き込まれることになる。
 よく考えてほしい。日本には裁判権がないのである。治外法権と変わらない状況が生まれるだけではない、これは領事裁判権よりも悪質だ。日本がいま政策的にやっている補助制度が米国企業の意思次第で次々槍玉に上がられ、このセンターへ提訴される可能性がある。米国の弁護士は仕事が急増し、巨額の報酬を手にすることになるだろう。
 こういう裁判社会の米国流のルールに日本が入っていくことはない。米国の土俵で日本が戦うことになるからである。

 TPPは関税自主権と裁判権を放棄することに等しい。明治初期に20年も苦労してこれらの権利を回復したのに、それを忘れて自ら放棄しようとしている。貿易は管理貿易でいいし、それが正しいのである。
 米国は発展途上国に自国のルールを持ち込んで商売がしたくてTPPを言い出している。米国にとって都合のよいルールだからだろう。

 日米の自動車貿易摩擦のことを思い出してほしい。結局、日本の自動車メーカーは米国に進出して工場を作らざるを得なかった。あれがなければ米国で販売される日本車は日本で作られていたはずで大量の雇用が日本から失われた。
 たとえば、米国の工場を廃止して賃金の安い中国やタイやベトナムやインドで生産したとき、米国が受け入れるだろうか?
 米国で生産される車はほとんどなくなり、大量の失業が生まれる。そのような国益に反することができるはずがない。大統領選挙で破れることになるからだ。きちんと仕掛けが用意してあるはずでそれすら見えていない段階でTPP参加を表明するバカがどこにいる。米国の手の内を読み、対抗策を用意できる官僚や政治家がいまいるだろうか?

 日本が為すべき国際貢献は日本のルールを輸出することである。正直で誠実な仕事、信頼に基く商品売買、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の価値観などである。全世界を相手に堂々と日本流のルールの素晴らしさを説き、同じルールへの参加を募ればいい。
 日本が誰か(米国)についていく時代は20世紀で終わった。21世紀は日本が自分の道を正々堂々と歩き、同じ道を歩く者を募る時代である。大局を読み違えてはいけない。

 はなはだ荒っぽいが著作権とTPPについての私見を述べた。


にほんブログ村