市立図書館で例年恒例の古本市があった。親子読書の会が主催だと思うが、たくさん人が来ていた。百科事典から小説・漫画の本までダンボールに整理されて入れられてずらりと並んでいた。ぐるっと見て回ったら、サリーさんが来ていた。

 太宰治全集があったので、真ん中辺りの第5巻を開いて読んでみたら面白い。題名を見たら『正義と微笑』となっている。『走れメロス』と『女生徒』を生徒と音読しただけで、太宰治の作品はほとんど読んだことがない。二十歳の頃は太宰があまり好きではなかったからだ。値段を聞いたら1冊20円だという。あまり安くて驚いた。神田の古書街や高田馬場の古書店街では考えられない値段だ。それなりの値段を予想していた。
 昭和33年の発行だからこの時代は紙質が悪い。昭和30年代も後半になるとずいぶん紙質がよくなる。1冊1000円なら少し高いかも、500円なら安い、そう思って聞いてみたので、1冊20円にはほんとうに驚き、可哀そうになった。絶句していると「なーんだ、ebisuさん冷やかしですか?」と主催者グループの一人であるKatsuyoDiaryさんが笑っている。エネルギッシュな人だ、今日はとっても忙しいのだろう。「いや、あまり安いもので、なんだか本が可哀そうで・・・言葉が出てきませんでした」、そう答えて、買わせていただいた。いま書棚にある。

 昭和33年出版の太宰治全集(筑摩書房)は正假名遣いで漢字字体も旧字体が使われている。こういう本の方が趣がある。出版物の漢字は制限をなくしたほうがいい。難読の漢字はルビを振ればすむ。現代語訳を出す他は古い出版物を新假名に書き改めて出版するのはやめてもらいたい。著者はなくなっているが、その意思を尊重すべきと思うからだ。文章書きはそれなりに選んで字を充てているのだから、新字に書き改めると意味が違ってしまうこともままありうる*。

 死蔵されてごみになるよりはリサイクルの機会があるのはよいことだ。私の書棚にある本たちは、専門書が半分くらいだろう。おおよそ3000~4000冊ほどある。いつかリサイクルに出されて、他の人が読むことになるのだろう。その日までやさしく扱おう。 

*假説の假は旁が暇と同じで、休暇でも「か」と読むように旁が音を表している。それを「仮」としてしまったら「反」は「たん」という音を表すので、「か」と読む理由がなくなる。こういう書き換えはやめてもらいたいと、誰かが言っていた。井上ひさしだったか、本多勝一だったか、白川静だったかは忘れた。それ以来、「假説」を「仮説」と変換すると気持ちが悪いし、「假名」を「仮名」としておくのも居心地の悪さと感じる。
 たとえば、万葉集をすべての出版社が現代漢字に書き換えて出版してしまったら、われわれ一般庶民は原文テクストに触れられなくなる。オリジナルの漢字を中国語や朝鮮語で読み解いているグループもある。原文テクストの価値は計り知れない。
 わたしの専門は経済学だが、概念について厳密な議論をするときに原文テクストは欠かせない。学術書は言うに及ばず、文学作品も娯楽作品も、原著者の原文テクストにはそれなりの敬意を払ってそのまま出版してほしいと思う。