機械化は人の手でやるのはきつい作業から行われる例が多い。昭和30年代初めころに水産会社の罐詰工場の現場監督を数年間していたオヤジに聞いた話はほとんど忘れたが、サンマを水流で自動選別した話は記憶にある。全作業行程中一番きつい箇所だったようで、そこでの作業は数日で交代させるようにしていた。
 きついところを同じ人にずっと担当させてはいけない、みんなで分かち合うべきだ。そういう心が共通にあるのが日本人の特性だ。だからそういうことを言い表す美しい日本語がある。憐憫の情とか惻隠の情という。

 ある日、サンマの選別作業をやるように指示した男工さんが、具合がよくないので他への配置を希望した。現場監督は「わかった」と軽い作業の箇所での仕事に変えてやる。翌日、またきつい作業への配置を指示したが、「今日も具合が悪いので…」というので、「わかった」とまた別の作業場所を指示。翌々日、またきついところで作業するように指示、すると
「具合が悪いので…」
「?、一昨日も、昨日も具合悪かったな、3日連続だ、どこか悪いといけない、休んでいいから病院行って診てもらってこい」
と休みを取らせた。
 さらに翌日、様子を聞く。
「どうだ、具合がよくなったんなら、サンマの選別作業をやってもらうが…」
「はい、やります」

 仮病は最初からお見通し、中にはずるい奴がいるからちゃんと対応しないと不公平になる。日給月給だから休めば稼ぎにならない。嘘をつきとおせば、自分が不利益になるだけ。次第にずるい奴がズルをしなくなる。要するに躾けの問題。男工さんには威勢のいい者が多いから、現場監督には人間の「貫目」が要求される。
 この現場監督は元落下傘部隊員、正規兵3人を同時に相手にできる忍者まがいの訓練を潜(くぐ)り抜けたツワモノ。戦後まもなく映画館で富良野でやくざ5人に絡まれ、「顔貸せ」と囲まれてトイレへ誘(いざな)われた。数分後に行くと全員床に転がっていたという。以後、富良野のやくざは通りですれ違うとオヤジを避けて歩いたとは旭川に住んでいる10歳ほど離れた甥っ子がオヤジの通夜の席での思い出話。戦後富良野で野菜を仕入れ各地で売って歩いたことがあるそうだ。
 根室のヤクザのTさんがオヤジを兄貴分のような扱いをしていたので、どういう関係なのか聞いたことがあった。
 戦後まもなくみんな闇物資の売買で糊口をしのいでいた時期がある。そういう時代に根室に来て、銭湯(松の湯)で目が合い、「顔を貸せ」と表へ出た。そのときはTさん、若頭で威勢がよかったそうだ。笑ってそこまで話して終わり。そのあとのことは息子にも語ったことがない。通夜の席でその話を聞いて、旭川の叔父貴がニヤッと笑って富良野の出来事を語った。
 中学生のころ店番をしていた時に、Tさんは「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りしちゃなんねえ」と使いっ走りに言いつけたのを覚えている。出入りを認めていたのは幹部の3人だけ。子ども心に不思議だった。おふくろのことを「姉さん」と呼んでいた。
 終戦数か月前の降下訓練事故(右腕複雑骨折)の後遺症でお見合いの食事をしたときに右腕が上がらなかったとはおふくろの弁だから、富良野の件は元落下傘部隊員でなければにわかには信じられぬ話。落下傘部隊の時の写真が数枚残っている。たくさんあったらしいが、戦後秘密部隊の落下傘部隊員は戦犯に問われるとうわさが飛んだので、大半を燃やしたそうだ。それでも全部は処分しなかった、いやできなかったのだろう。戦友たちは一人も生き残っていない、ケガをしたオヤジだけが生き残りになった。九州宮崎県の港から、戦友たちが戦地に赴くのを、左手で敬礼して見送った。どこへ行くかは秘密だからどういう死に方をしたのか知らなかった。戦後、10年くらいたってから、陸自に勤務していた千歳の義弟が、2冊本を送ってきた。オヤジの部隊が南方でどういう死にざまだったのか詳細に書かれていた。1冊は『高千穂降下部隊』もう1冊は『沖縄の空にかける墓標 帰らぬ空挺部隊』である。この本には戦死した空挺部隊員の名簿が載っている。一度読んだっきり、二度と読まなかった。「空の神兵さん」と崇められ、「靖国で会おう」そう言い残し戦友たちは船に乗った。空挺部隊員で危険な降下訓練を欠かさなかったのだから、飛行機から落下傘で降りて戦死した者は幸いだった。多くは南方の士気高揚のために船で戦地へ送られ戦死している。無念だっただろう、大腸癌を患って手術をした後、桜の花の咲いているときに、靖国人神社へおふくろと最後の参拝に行った。あのときは高幡不動駅でオヤジとおふくろを見送った。おふくろの兄も満州で突然侵攻してきたソ連軍と戦って戦死している。靖国神社への参拝は二人だけにしてやりたかった。
 Tさんも、幹部3人も、オヤジも、みんな故人になってしまってずいぶんたつから書ける話だ。


 件(くだん)の現場監督、暇ができると、そのきつい作業を何とかできないか、ちょっと手伝っては1時間でも飽かずに作業を見ている。こうしているとそのうちにアイデアが浮かぶ。潜在意識下で脳が勝手に問題解決の道を探索するようになるから、アイディアが短期間で浮かぶ。
 他の工場ではどうやっているのか聞いたら、現場監督や工場長がその作業をやって見せ、こうやってやるんだと作業を言いつけるだけ。工程改善の発想がない。たたき上げだから、作業は慣れており10分ぐらいやって見せるだけ。そんな工場長や現場監督の工場には次第に人が集まらなくなるのは理の当然。笑って話していた。
 人が集まらなくなるのは、必ずどこかに無理があり、工夫・改善の余地がある。そこが見えない者を工場長や現場監督にしてはいけない。だがいつの時代も、どの組織でも、有能な管理職は少ないし、その資質を見抜ける社長も少ない。
 人が集まらなくなるのは、女工さんの宿舎の問題だけではない、一事が万事、そういう工場には人の使い方にも問題があった。きつくてつらい作業が何年たっても改善されない、作業の割り当ても不公平、そういう発想を本社も工場長ももっていないというところに、本質的な問題、人材の質の問題が隠れている。

 SRL八王子ラボできつい作業で作業量が一番多かったものはRI部の検体の分注作業だった。血液や尿を検査項目ごとに分注(小分け)する。ピペットで吸いこみ、それを別の複数の試験管へ吐き出す。それを一日中やるのだから、たまったものではない。一日だけならいいが、毎日そういう作業だけをやる。腱鞘炎は起きるし、仕事は楽しくない。その部署だけ離職率が跳ね上がる。わたしが入社する4年前の1980年ころだったのではないかと思うが、自動分注機を業務部とRI部が業者と共同で開発した。それが10×10ラックの分注システムだった。日本の臨床検査会社はこの10×10(100本)ラックが標準仕様になっている。SRLの社内仕様が日本標準仕様になってしまった。
 しかしこれはあまり具合がよろしくない。分注機に搭載するノズルは10の約数の1、2、5、10の4タイプしか許容できない。12×9ラックなら、1、2、3、4、6,12と6タイプのノズル搭載が可能である。国際規格はそうなった。あとから開発された臨床検査用マイクロプレートも96穴が国際標準品である。
 自動分注機開発業者側の担当営業はアドバンティック東洋という会社を辞めて独立起業した。PSSという会社名だったと記憶する。店頭公開してずいぶん立派な会社になった。社長のT島さん、当時から稀に見るやり手だった。2度居酒屋で出会ったことがあった。目ざとく見つけると、その店で一番良いお酒をコップで1杯回してよこす。2度ともありがたくいただいた。(笑)

 整数の約数に関する知識が当時の業務部にあったら、ラックは12×9本が社内基準となり、期せずして国際標準と同一となっただろう。中高時代に数学の勉強をちゃんとしていても、気が付かぬことはある。
 整数の約数の数や素数に関する知識はどこで必要になるかわからない、ほかの科目もだ、やれるときに思いっきり深いところまで理解しておこう。

 最初に挙げた、水流を利用したサンマの自動選別は、カットした後の話だったか前だったか覚えていない。あと、高圧・高熱滅菌窯の話を覚えている。円柱を横倒しにした形が標準だったが、これだと罐詰はいくらも入らないので、最盛期に高圧・高熱滅菌窯の処理能力がボトルネックとなっていた。そこで角形のものを特注で作らせた。予定通りに処理量が倍くらいに上がったと喜んでいた。オヤジと機械担当の男工さんたちは毎日工場内を歩き回り、身体を使って作業をしてみて工夫の余地はないか考え、アイデアを出し合っていた。とっても楽しそうだった。

 染色体画像解析装置は、1986年ころにニコンの子会社のニレコ社と自社開発を試み失敗している。レンズにこだわったので行き止まりになった。CCDカメラの採用がそのあとの処理を簡単にしてくれるのだが、日本の光学メーカはレンズにこだわった。優秀なレンズを持っていたら、それを使いたくなるのは当然である。画像取り込み後、マジスキャンという当時画像解析では最高性能のミニコンを使ってみたが、1画像の取り込みとそのあとの処理に1時間もかかった。これでは使えない。
 細胞を処理して培養するのに72時間だったかな、そして顕微鏡写真を撮った後、写真に写っている染色体を一つ一つ切り取り大きさの順に並べて糊で張り付ける。一日中切って糊で張るだけの仕事はつらいから、こういう作業を機械化しようとするのは自然な流れだ。ディスプレイ上でプログラムで自動的に並び変えればいいだけ、英国の会社がいいものを開発してくれた。日本では虎の門病院が最初に購入したから、性能を確認するために見学させてもらった。こちらの開発目標は1時間に5検体処理だったが、もって行ったサンプルを25分で5検体処理できたのですぐに導入を決めた。こちらの開発目標値をはるかに上回っていた。本社の管理部門はこういう製品購入の適否の判断ができないので、わたしがラボでOKを出せば、そのまま稟議が通る。予算外でも所定の手続きに則り、稟議申請するだけでOK。5000万円の画像解析装置を一気に3台購入した。わたしが八王子ラボに異動してから、こういう案件は処理がスムーズになった。なにしろ副社長のY口さんが黙って承認してくれた。検査管理部には、本社内の根回しはわたしのほうでしておくから、現場から稟議申請させてOKだと伝えればよかった。検査と機械に詳しいわたしがOK出せば、本社管理部門が反対する理由はなかった。具体的な案件で技術的なあるいは会社の将来にとっての重要性判断でわたしと議論ができるものなどいなかった。そしてわたしは、常に公平に、客観的に、ということを心掛けて判断していた。一人で年間20~40億円以上も試薬や機器の購入にかかわっていたが、取引業者と癒着したことはなかった。
 日本電子輸入販売担当営業のSさんに、業界2位の会社へ「SRLで導入した」と言っていいから売り込んでみたらと示唆した。値段は1円も引かなくていいよ、強気で商売してみな、必ず買うからと伝えたら、その通りになった。Sさん、喜んで社内了解を取り付け、英国でゴルフに誘ってくれた。例の有名なコースである、セントアンドリュースだったかな。ゴルフの趣味はないのでと断ると、残念そうな顔をしていた。彼が行きたかったのである、わたしはエサ。落胆ぶりを見て、気の毒だった。付き合ってあげたらよかった。


 数日前に尿管結石でひどく苦しい思いをしたが、結石の分析は事前処理に手間がかかる。どういう処理かというと、「石」をハンマーでたたいて砕き、穴の開いた五円玉状の金属板の中心に結晶状に固める。そのあとはケースに並べれば、赤外分光光度計で分析となる。来る日も来る日も、小型ハンマーで「石」を叩き、金属板の穴に詰めて結晶状に固める作業を想像してもらいたい。つらいよ、新入社員に1年間そんなことをやらせたら、半数は1年でやめてしまうだろう。それは分注作業や染色体検査の染色体写真の切り貼り・並び替え・台紙に糊付け作業と同じで、非人間的な作業だ。
 精工舎のアームロボットを導入して機械化を提案したのは検査管理部のO形君、わたしは当時はラボ全体の機器購入担当で彼と、現場の係長と一緒にやった。ブレードの開発に手間取ったが、業者の技術屋さんの腕がよくてなんとかものにできた。20タイプも試作して、比較検討して理想的な形状を見つけていった。困難な機械化に情熱を燃やす技術屋さんは、この開発が終わって1年くらいに脳出血で倒れた。1989年ころのことだ。もっと一緒に仕事がしたかった、とても残念だった。

 60年前の根室の水産加工場だって、38年前の東京八王子のラボだって、働いている人たちの心意気は同じ。子供と一緒、工夫をしてそれが大きな成果につながることが楽しいのである。それまできつい作業を担当していた人たちの顔に喜びの表情が生まれる。

<結論>
 さて、人がつらいと思う単純労働は、機械作業に置き換わったというのが過去60年。これからは複雑労働、高度な労働あるいは知的な仕事がAI搭載の機械にとってかわるだろう。その進化速度は指数関数的だから、それによって引き起こされる変化は人智では測りえない
 AIを神として崇拝する社会を選択するか、道具として利用する社会を選択するかは、われわれの手にゆだねられている。
 ヨーロッパの労働観の下ではAIは人類を滅亡に導く、救いがあるとすれば、職人仕事観をベースにした経済社会への転換、それは貨幣崇拝を捨て欲望の抑制を実現した経済社会。原理的なことはすでに「資本論と21世紀の経済学」で明らかにした。再来年あたりに、コンパクトな第3版を書く。
 経済学の第一公理を労働=苦役から職人仕事に書き換えるのは、いままでの経済学が根底からひっくり返るようなとんでもなく重要なことなのだが、残念ながら、それが理解できる経済学者がまだ一人も出てこない。ノーベル経済学賞をもらってもクズはクズ、公理を書き換えた者もそれを理解できた者もまだ一人もいないのである


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不易流行:蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こそ「不易」の本質であるということ。…『大辞林』より
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