仮定法について、コメント欄で三人の方と議論してきた。その議論の経緯は弊ブログ本欄へアップして紹介した。#2343、#2344、#2345にある。
 三人寄れば文殊の智慧で、わたしは文殊菩薩の化身とおぼしきお三方との議論で、いくつか気がついたことがある。
 三人のうちの一人、「後志のおじさん」はドイツ接続法を根拠に仮定法という得体の知れない深海魚を俎上にのせ包丁を入れて見せてくれた。手には和包丁(反実仮想の助動詞'まし')が握られている。学問をやるにはある種のセンスである直感とものごとを広い視野からみる幅の広い教養が必要なのだが、そういうものを兼ね備えている稀な人のようだ。Hirosukeさんは独自な視点から英語を眺めることのできる人、「カタチ・イミ・キモチ」の三次元座標に棲んでおり、どんな問題もその三次元座標空間に位置づけて解説してみせる、なかなか刺激的。合格先生は「釧路の教育を考える会」の重要メンバーで、物事の冷静な分析にかけては会でナンバーワンの力量の持主である。この三人の文殊様の分身の横に座って仮定法について教えを請うebisuは幸せこの上なし。

 仮定法についてはかねがねヘンだという漠然とした思いがあったが、突き詰めて考えたことはない。ハンドルネーム「後志のおじさん」が鋭い問題提起をしてくれたので、そこを皮切りにいくつか「証拠(=文献)」を挙げながら検討してみたい。
 第一ステップは用語解説とクラーク博士のあの有名な一句が假定法であるや否やの検討。

 ①conjunctive(接続法)
 conは接頭辞で「共に」をあらわすラテン語です。junctiveはjunctionの派生語でしょう。高速道路のジャンクション、「接続」という意味をもっています。tiveは形容詞語尾ですが、この例のように名詞のことがあります。あえて日本語にしたら、「~的な(もの・こと)」という意味でしょう。形容詞のほうを参考事例にあげて起きます。
 sense(感覚)⇒sensitive(敏感に反応する、敏感な)
 compare(比較)⇒comparative(比較による)
 conserve(保存する)⇒consetvative(保守的な)

 conjunctionという単語からは二つの文が接続されているイメージがわきます。一方だけが文として顕在化しても、他方の文が脳裏に浮かび上がる。両方が姿を現す場合も、片方だけが姿を現す場合もアリ。

 ドイツ語の接続法は型がきっちり決まっている。詳しくはこちらをご覧戴きたいのだが、絶版になっている。
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 関口存男著『関口 新ドイツ語大講座<上>』
  「第26講 接続法の形」: 第一式接続法 第二式接続法
  「第27講 接続法の用法(1) 間接話法」
  「第28講 接続法の用法(2) 要求話法」
  「第29講 接続法の用法(3) 約束話法」

 関口存男著『ドイツ接続法の詳細』
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 関口存男はドイツ語文法の巨人であるが、フランス語や英語にも堪能である。短い期間、アテネフランセでフランス語も教えたことがあると書いてあったのは『ドイツ語講話』だったか他の本だったか、寄る歳並みには勝てず、記憶が混線しつつあるので、あてにはならない。
 「後志のおじさん」がドイツ語大講座で勉強したとどこかに書いていた。
 団塊世代のわたしが二十代のころに、まだ東京の書店においてあった関口存男先生の本を数冊買いあさり、本棚を飾っている数冊のうちの2冊。
 『~大講座』は上・中・下の三冊。Eさんがやはり『~大講座』を何度も読み返したという。暗記するほど勉強したというのはEさんだったか、「後志のおじさん」だったか、両方だったか、はて、最近のことなのにもうあやしい。このお二人に比べるとドイツ語に入れ込めなかったわたくしの不勉強がはずかしい。
 三好助三郎著『独英比較文法』も役に立ったとメールで知らせてくれたのは間違いなくEさんであると思い出してホット胸をなでるebisu、ボケてはいないぞ。同じ本がわたしの書棚にもある、独英両方一時に勉強できる、しかも比較しながら、一石二鳥を絵に書いたような本。


 ②subjunctive(「仮定法」と辞書には書いてあるが・・・)
 subは「副」「亜型」を表します。地下鉄はsubwayでした。地上の道に対して地下の道(地下鉄)は副次的なものです。ドイツ語のconjunctiveに比べて型が崩れていることを意識したのでしょう、ちょっと遠慮した感じのあるsubjunctive、「亜型接続法」とでも訳せばよかったのでしょう。仮定法という日本語を充ててしまいました(『ジーニアス4版』には「仮定法」となっています)。
 仮定は気持ちが悪いので假定と書きますが、假定は「もし~なら、...だ」というのが日本語の感覚です。しかしsubjunctiveにそういう意味はありません。
 日本語で「假定法」と命名されて独り歩きすることになったようです。あなたも「假定」という漢字からイメージに浮かぶのは「もし~ならば、...だ」でしょう?これが素直な日本人の感覚です。ところがSubjunctiveを三つに分解して一つ一つ見ていっても、「假定」という意味はどこにもありません。名前にはそれなりの意味があります、あなたのお名前がそうであるように。

 'COLLINS COUBILD Advanced Learner's English Dictionary'より
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 Subjunctive
   In English, a clause expressing a wish or suggetion can be put in the subjunctive, or in the subjunctive mood, by using the baseform of a verb or 'were'.
   Examples are 'He asked that they be removed' and 'I wish I were somewhere else'.
   These strucdtures are formal.

 英語においては、願望や提案を表現する節は亜型接続法に分類され、動詞の基本形または'were'を用いる

*mood:《言語学》(叙)法◆述べることに対する話者の心的態度を表す動詞(句)の形で、英語には事実を表す直説法(indicative mood)、命令を表す命令法(imperative mood)、起こりそうもないことを表す仮定法(subjunctive mood)の3種類がある。(ウィキペディアより)
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 面白いものを見つけました、小西甚一著『国文法のちかみち』(洛陽社、1959年初版、2,007年改訂41版)の中に、反実仮想の助動詞の「ましかば...まし」の項目のタイトルが「[へ]仮想(subjunctive mood)」219ページとなっていました。
 「假定法」ではなく「仮想」という日本語を充てています。反実仮想の助動詞「ましかば...まし」はsubjunctiveそのもの、3回目で引用してみたいと思います。(10月12日追記)
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 典型的な事例を最初に挙げます(コメント欄で「後志のおじさん」と議論しました)。
 札幌農学校のクラーク博士は8ヶ月赴任して別れを告げる時に馬上から次のように言いました。
 (1)Boys, be ambitious.(少年よ大志を抱け)
  (2)Boys be ambitios.(少年よ野心的であれ)

  わたしはこの文を見て、クラーク博士が馬上からマジメで勤勉な若い学生に向かって、「勤勉なだけではダメだ、世俗的な栄誉、地位や経済的成功を求めよ、それが神の意思にかなっているのだから、学生達よ野心的であれ」そう言っているシーンが脳裏に浮かびました。そのせいでBoysの後ろについているカンマを見落としました。鋭い「後志のおじさんは」そこを見逃してくれませんでしたね。「カンマがあるよ、命令文だよ」とやんわり指摘してくれました、もっと優しい言葉でね。クラーク博士はそんなに尊大で偉そうな人柄だったのかなと気になり、ネットで検索。
 どのような別れのシーンであったかはウィキペディアに載っています。馬上から一言例の台詞を吐いて、さっと走り去ったのです。クラーク博士、超ーかっこいいね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF#.E5.B0.91.E5.B9.B4.E3.82.88.E3.80.81.E5.A4.A7.E5.BF.97.E3.82.92.E6.8A.B1.E3.81.91

 ところが文献に残っている文にはカンマがつけられています、誰がつけたのか、もちろん、感動を持って惜別の辞を聴き、書きとめた人でしょう。(1)にはカンマが挿入されており、書きとめた人の主観と解釈が入っています。命令文と理解したのでしょう。書きとめた人に接続法の知識があったかどうか不明です。
 カンマなしでも立派な英文です。(2)は典型的な接続法subjunctive(亜型接続法)の文で、動詞が基本形になっています。高校英文法の範囲ではこれは「仮定法」に入るのでしょうか、後で検討してみたいと思います。
 普通の高校英文法参考書はどうも説明の方向が逆になっているようです。ifClauseから説明をはじめて、亜型接続法本来の用法を例外扱いしています、あとで詳しい説明をすることになりますから、しばしお待ちください。

 実際、この文の後にambitiousとはどういうことかという説明が続きますが、これは書きとめた人の創作でしょう。クラーク博士はピューリタンでしたから、お金を儲けることや立身出世を追い求めることは、神の意にかなうことなのですが、そうしたことを否定した言葉が続いています。ですから、後の文を創作した人は二重に間違えているとわたしは考えます。あの当時ですから、無理もないことと思います。「反実仮想の助動詞」という国文法での言い方70年ほど後のことになります。でも、間違いでしょう。それがebisuの理解。ですが、命令文にも読めるという点は否定しません。
 おそらく読み手の心の状態に関わることなのでしょう。二様に読める、そのことがうれしい。

“Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”

 ドイツ語やフランス語の知識のない人が、そしてピューリタンについても知識のない人が、言葉を付け足したというのがわたしの推測です。

 ピューリタンとお金儲け(世俗的な仕事)の関係について興味のある人はマックスウェーバーの『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をお読みください、岩波文庫版で出ています。安い、投資効果大です。わたしはずいぶん昔に眼を通したような気がします。学生時代に母校の助教授でこの分野の専門家がいましたが、残念ながら40代で亡くなりました。授業の後で生意気な学生の議論に何度か付き合ってくれました、いい先生でした。田舎、いや僻地根室の小学校でも中学校でも高校でもいい先生数人に教えていただきました。大学でも何人かの先生に親しく教えを請いました。そういうことが積み重なって自分のいまがあります。

 高校の先生たちはこの文を説明するときには、命令文と接続法の二通りの解釈のあることを生徒に説明してもらいたいと思います。で、願わくば、クラーク博士の脳裏にあったのは亜型接続法の文であったと、時空を超えてその場に立ち会った思いで生徒に感動を伝えてほしいのです。もう一度声に出してみてください。
 Boys be ambitious.

 頭がよくて勤勉な生徒達に、まじめに勉強するだけではダメです、もっと「野心的であれ」と檄を飛ばしたのだと考えたい。わたしはこの文を読むたびにそういうシーンが脳裏に浮かびます。1877年5月に発せられたこの言葉は時空を超えていまも道産子に投げかけられています。根室っ子も含めて道産子は素朴なだけでいまもちっとも野心的ではないのです。野心的であることを忘れ、広い大地に住んでいるにも関わらず、オープンマインドを忘れ、心は閉鎖的、136年後に存在している道産子がクラーク博士をがっかりさせたくはないですね。

(クラーク博士は米国に戻り心臓病で8年後の1886年3月9日59歳で亡くなっています。養生大学の企画失敗、作った会社の倒産とあまりよい晩年ではなかったようです。)

 第2回は、'Cobuild English Grammar'のsubjunctiveの説明と英語の問題集'Grammar In Use' を材料に接続法と「仮定法」に線引きを試みますが、はたしてうまくいくのかどうか。わからぬことはめくらヘビにおじずでやってみるのみ。 

*#2423 'IAEA members give grief over leaks' Sep. 28, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-09-29

 #2435 "#2423の一文解説" Oct.4, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-04-1

 #2443 仮定法ってなんだろう?(1):コメント投稿欄での議論 Oct. 10, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-09-1

 #2444 仮定法ってなんだろう?(2):コメント投稿欄での議論 Oct. 10, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-10-1

 #2445 仮定法ってなんだろう?(3):コメント投稿欄での議論 Oct. 10, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-10-2

 #2446 仮定法とは何か(1) : Boys be ambitious. Oct. 11, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-11

 #2447 仮定法とは何か(2): 概念規定と基本型 Oct.13, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-12

 #2449 假定法とは何か(3): Swanの説明 Oct. 14, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-13-1

 #2452 仮定法とは何か(4):国文法学者の見解 Oct. 16, 2013 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-16

 #2453 仮定法とは何か(5) : 国文学者の見解ー2  Oct. 17, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-10-16-1






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【注】(10月13日追記)

北大図書館のオフィシャルサイトより
http://www.lib.hokudai.ac.jp/collections/clark/boys-be-ambitious/
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“Boys, be ambitious!”について

 この数年「Boys be ambitiousに続く言葉について知りたい」という問合わせが多くなった。調べてみると,高校や中学の教科書の中にも次のような言葉をのせたものがあるようである。

 “Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”

 この言葉がこのように広まったのは,昭和39.3.16の朝日新聞「天声人語」欄によるものと思われる。「天声人語」はその出典として稲富栄次郎著「明 治初期教育思想の研究」(昭19)をあげ,さらに次のような訳文を添えている。「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく,また人呼んで名声 という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」

 ここてはクラーク博士の「大志」の内容は,富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。これは“Boys be ambitious in God”として,神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものである。

 しかし,この言葉がクラーク博士のものであることを認めるには,いくつかの無理がありそうである。まず,“Boys, be ambitious!”は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向って馬上から最後に一声のべられたもので(第一期生大島正健博士の著書による),その時 の状況からみてこれは「さようなら」に代る別れの言葉であったと思われる。
次にクラー ク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったことである。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と 責任を有する地位」に到達することをよびかけている。即ち日本が因襲的な身分社会から脱却した現在では,努力によっては国家の有為な人材となることを妨げ るものは何もないことをのべ,学生たちの青年らしい野心(lofty ambition)を期待したのである。このためにとくに勤勉と節制の必要を説いているが,ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタ ンの精神がよくあらわれている。
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