フィンランドの教育がもてはやされたり、日本からさまざまな視察団が訪れ、表面をなでた報告がなされたりしているが、なかなか本質をえぐった分析がないのがもどかしかった。ところが、すぐれた分析が「身内」に見つかった。
 「釧路の教育を考える会」の合格先生は、会の中では分析力随一であるが、フィンランド教育の根っこにある考え方=課程主義を日本の年齢主義と比較しながらその実体をくっきりと浮かび上がらせてみせてくれた。PISAでよく話題になるフィンランド教育に興味のある人は必読です。

 ブログ「情熱空間」より
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7044348.html
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2014年01月14日

フィンランドではなく日本に学べ!

大数学者の岡潔さんが、その著書の中でおっしゃっていて、私も同様に思うことがあります。「戦前の教育から軍国主義的要素を除いたもの。それが最良の義務教育ではないだろうか(論旨)」本当にそう思います。江戸時代の寺子屋を素地に築き上げた日本の義務教育制度は、世界に冠たるものでしょう。

戦後教育の可否はここでは論じませんが、ゆとりをはさんで少しばかり輝きを失ったにせよ、日本の義務教育制度は相変わらず世界一級品です。さて、日本最初の近代的学校制度を定めた学制、その公布は1872年。(その後、教育令へバトンタッチ)同時期のアメリカ、奴隷解放宣言は1863年ですから、いかに日本が進んでいたのかが分かろうというものです。

戦後は、アメリカの教育の模倣が続いて現在に至るわけですが、その中にあっても「読み・書き・計算」の徹底習得に関しては変わらないできましたね。ところが、最近はその部分がおかしいんです。ちゃんと身についていないのに、「さあ、自分で考えなさい」などとやるわけです。ちょっと待った。それ、日本が世界に誇る、子どもの教育なんかじゃありませんよ。公文式は、今では世界48の国や地域に広まっているそうです。世界各地においても「読み・書き・計算」の徹底習得が強く求められていることの現われだと思います。

「読み・書き・計算」の徹底習得に重きが置かれてきたことにより、日本の義務教育には留年の制度(厳密には「現級留置」という制度があるらしい)がなかったのでしょう。さて、フィンランド型の教育を賞賛する方々にお聞きしたいのは、留年をどう考えるかということです。それを導入すると、留年があるわけですから、「子ども達が伸び伸びできる」などとは幻想そのものです。お得意の、「競争へと駆り立てられる」ということになるはずです。

隣の芝生は青く見えるということなのでしょうか。フィンランドの人口は543万人ほどで、日本の5%にも満たないものです。第二次大戦後はソ連の勢力下に置かれ、一方で、自由民主体制を維持し資本主義経済圏に属していた国ですね。現在の地位を築いたのは、ソ連崩壊後に西側陣営に接近し、EUに加盟してユーロを導入したことによるものと言えそうです。

合格先生がフィンランドの教育に詳しいのですが、聞けば聞くほどに、日本にはおよそ馴染まないことが分かってきます。簡単に言うとこうですね。詰め込み教育の最たるもの。子どもにとっては、日本よりはるかに厳しいものでしょう。しかし、教える側の教師は、高度な専門教育を受けたプロフェッショナルであって、社会的地位がとても高い。前者(高度な専門知識)はないけれど、後者(社会的地位)だけは欲しいって、そりゃちょっと虫が良すぎってものじゃありませんかね。

フィンランドが独自の方式をもって子どもの教育にこだわり続けるのは、他でもありません。自国のためですよ。フィンランドに学ぶのではなく、古き良き日本から学ぶべきだろうと思います。ええ、自国のために。

《追記》
「課程主義」を導入したならば、釧路の子ども達のおよそ半数は小学校を卒業できない。本当に、強く強くそれを実感しますね。当該学年の1つ前の学年の級の漢字検定と算数検定。その合否を指標にしても、同様のこと(半数以上は合格できない)になるでしょうね。ひどいんです。ええ、本当にひどいんです。

●「年齢主義」と「課程主義」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/singakukouza/jijimonndai.html#Anchor-10407

《引用開始》
フィンランド式は教師の首を絞めることに

 世界的に見ると、義務教育課程の中心となっている方式は「年齢主義」と「課程主義」という2パターンに分かれます。日本は年齢主義で、特別な事がない限り同一学年は同一年齢ですよね。それに対しフィンランドは「課程主義」の方で、例えば、学校に入っても授業についていけないようなら入学を1年遅らせたり、義務教育内容をきちんと習得していないと判断された場合は、もう1年義務教育課程を増やす、などの方式を採っているんですね。要するに、多少に年齢に違いは生じても、身につける物をきちんと身につけているかどうかで進級を判断するという方式です。

 さて、年齢主義の場合、どのような授業になるかというと、結局は「勉強内容が身についているか身についていないか」に関わらず1年過ぎれば次の学年に進級するわけですから、根本的に「なるだけ多くの子に学習内容を身につけさせるようにしよう」という姿勢で授業が行われます。すなわち「詰め込み式」の授業が主流になるわけです。日本は従来、この形式でした。
 それに対し、課程主義の場合、結局、身につけるか身につけないかは「本人次第」。進級したかったら勉強しろ、と、こうなるわけです。結局、身についていない子は、家で必死になって勉強しなければならない訳で、当然、お父さん・お母さんも子供につきっきりで勉強を教えることになります。すなわち、学校のカリキュラム上は「詰め込み式」になっていないように見えますが、その「詰め込み」は実は家庭で行われているわけです。

 ということは、子供達にしっかり勉強できるようになってもらおうと思うと、結局はどこかで、基本技能や基礎知識を「詰め込まなければならない」ということになります。それが「学校」なのか「家庭」なのかの違いである、という事なんですね。
 ところが、ゆとり時代の日本の状況は学校でも家庭でも「詰め込み」は行われず、結果、子供の学力が下がっていってしまった、という訳です。

 そもそも義務教育課程のシステムが違う訳ですから、義務教育の手法も違っていて当たり前なんです。日本の場合、年齢主義を続けるということであれば、学校できちんと「基礎・基本の習得」を目指した「詰め込み」が行われなければ、子供達の学力はついていきません。そしてもしも「詰め込みは悪」と考え、自ら考えて行動できる子を育てたいというなら、本当に考えて行動出来ているか~該当学年の内容が身についているかどうか、卒業試験を行い、身についていない子は卒業できないというシステムを導入すべきなのです。いわゆる過程主義で行われているシステムを導入すべきなんですね。
 さらに、もしも、この方式が導入されれば、釧路の子供達は、おそらく半数は小学校を卒業できません。そうなると、間違いなく、小学校の教師は何を教えているんだ、と非難にさらされることでしょう。全国的に見ても酷い状況~恥ずかしい状況になることは明白です。すなわち、不毛な研修を続け、おかしな主義・主張にこだわっている教師は、全員、教員として学校にとどまれなくなります。そちらの方が好都合と言えば好都合ですが。

 釧路では、独自の学力テストを行っている訳ですから、その結果を真剣に見て、基礎・基本の習得~ハッキリ言って「詰め込み」をきちんとやりなさい。ここから目を背けても、まともな結果は出ませんよ。
《引用終了》

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