父方の祖母は西尾という姓である。小学生低学年のころ、祖母が1年ほど根室にいたことがあった。子どものころは駕籠に乗って「下に~、下に~」とお供がついて外出する身分だったなんて話をしていたから、孫たちにとっては時代劇の話を聞くようで面白かった。お前たちは平民とは違う、士族の孫だとニコニコしながら何度か言った。「世が世ならお手打ち物じゃ」なんて台詞が似合った。背筋を伸ばして正座し煙管にタバコを詰めておいしそうに吸っては、吸殻をパシッと捨てる、そういう姿の似合った人だった。西尾は700石(石高は800と聞いたような気もするがどうでもよい)の侍だと聞いていた、それなりの身分の侍であったはずだが、孫たちを楽しませたくて創作だったかもしれない、祖母の話を確かめるすべがなかった。
 釧路に鳥取神社があることは以前から知っていた。鳥取藩の士族移住と神社にはどこかでつながりのあることは感じていた、おそらく祖母の一族関係の資料があるのではないかと、根室から釧路空港にいく国道沿いの鳥取神社の前を通るたびに気になっていた。

 偶然というのはあとからみると必然のごとくであり、見えない糸に導かれるように突然に鳥取神社訪問が実現した。
 「釧路の教育を考える会」へ参加を誘ってくれたM木さんが同じ町内に住んでおり、鳥取神社の木下宮司を紹介してくれるというのである、まだ今月のことだ。一も二もなく飛びついた。11月15日にシンポジウムの打ち上げで酒を飲んでいたら、「ebisuさん、鳥取神社の木下宮司にアポをとるから」と言い出しケイタイで連絡してくれた、翌朝(16日)9時が都合がいいというので伺った。

 宮司の説明では、鳥取神社の祭神は大国主命、出雲神社の神様である。鳥取と島根は隣同士だから、出雲文化圏に入る、なるほどと思った。鳥取の移住士族とこの神社の設立はやはり関係があった、移住士族が鳥取神社創建に関与していたのである。
 鳥取藩は4男があとを継ぎ、5男が水戸徳川家へ養子に出されて最後の将軍慶喜となった縁で徳川家ゆかりのものもいくつか伝わっている。
(ウィキペディアで徳川慶喜を引くと、その出自は9代藩主徳川斉昭の7男、母は正室吉子女王(有栖川宮)と書いてあった。わたしがなにか聞き違いの部分があったのかもしれないが、鳥取藩と水戸家は縁戚関係にあることは事実であるー 2016年5月2日追記)
 その中の一つに家康の槍があった。刃の部分は760年の時の経過を感じさせない、まるでステンレスのように光っており、錆が一つもない、材料の玉鋼が上質のもので純度が高いのだろう、1250年の鎌倉時代の作。刃物は鎌倉期のものが最高とされている。槍の根元に銘が入っており、角度を変えて眺めると読み取れそうだ。ここはさすがに歳月の重みが浮き出ていた。
 伊勢神宮の刀鍛冶国俊の銘のある1620年作の日本刀が一振りあった、波紋が美しい。乾いたタオルを当てて手に持たせてくれた。本来なら半紙を口に挟んで息がかからぬようにして見なければいけない、息を殺して見つめた。刀身だけだが、素振り用に使っている八角形の木刀(1000g)よりもすこし軽く感じた、これなら振れる。柄(つか)をイメージして刀を袈裟懸けに振り下ろし、相手の身体に当ててから刀身を引きながら身体を沈める、"斬"、この刀とっても切れそうだ。
 水戸藩九代藩主であった徳川斉昭の隷書体の書も見せていただいた。徳川斉昭の隷書は日本一と言われている。じつに端正な字である。一行十文字、20行ほどの書。本当に筆で書いたのかと驚いた。隷書体フォント文字をデザイナーが起こしてつくったような文字が、きれいに並んで端座(背筋を伸ばして正座)して、じっとこちらを見つめてくるようだった。写真を撮らなかったので紹介できない。あんまりきれいで写真を撮るのを忘れてしまった。
 良寛の屏風も2幅見せていただいた。法華経を書いたものだが、道元にあこがれて、道元が京都を離れて永平寺を修行の場としたように、良寛は新潟山奥深く小さな庵で独居した。その良寛が般若心経ではなく法華経を書いたところが面白い。お酒でも飲みながら書体を変えてさらさらと書いたような雰囲気の字だった。落款はないが、戯れに書いたものに落款を押すほど無粋ではないところがいかにも良寛。一葉ごとに左下に小さく「良寛」の字が見える。
 写真をご覧あれ。





 すごいものがいくつもあるが、次の世代に伝えていくのが現在の宮司の役割、なかなか大変だが、代々そうして受け継がれてきた貴重な品々。

 さまざまな「お宝」を見せていただいた後に、鳥取藩士移住関係の文物を集めた部屋に案内された。明治17年(41戸)と18年(64戸)の2度、士族の集団移住があった。これには事情があった。鳥取県が島根県に吸収合併されたのである。明治9年から14年までの5年間、は鳥取県には県庁がなかった。鳥取県庁の職員の大半は士族だったようだが、集団失業したのである。城下は寂れ、食い詰めて一時期は城下町に餓死者すら出る有様だったという。何割かの士族が城下を離れなければ町の窮状は救えないという想いがあったのだろう。14万石の松江藩(島根県)に38万石の大藩である鳥取池田藩が吸収された失業した士族に不穏な動きもあった。明治政府は5年でまた鳥取県を分離した。分離の後、3年で士族を移住させなければならなかったのは、県庁が元の規模には戻らなかったのではないか。不平士族の不穏な動きを封じるために新政府は鳥取藩士の移住を斡旋したように思える。城下で餓死者が出て、町がさびれてしまえば、県庁が再興されても新政府の政策への怨みは残っただろう。
 士族移住法ができて、根室の県令が鳥取県の士族の集団移住を受け入れた。移住先は現在の釧路の西側である。一番西側から数えて3軒目くらいが西尾の入植地だったようだ。
 入植当時に掘っ立て小屋と鍬2丁が支給された。その掘っ立て小屋の写真と支給された鍬の実物が展示されている。
 釧路の北教組の社会科の先生のグループが作成した郷土史資料「釧路川のあゆみ」が展示されていた。手にとって中をみていいというので、見せてもらった。最後のページに入植時の地図があり、西の方から鳥取町まで割り当てられた土地に入植者の名前が入っていた。北教組の社会科グループの先生たち、いい仕事もしている。

【北教組社会化グループによる郷土史研究】



 鳥取町と釧路町が対等合併して旧釧路町が出来上がる。当時の人口はどちらも1万数千人、いまでは人口では旧鳥取町が10万人だから、少し多い。合併のときに賛成したのは鳥取神社の宮司だった。合併すれば町が発展するとの信念でただ一人、賛成に回ったという。なかなか剛毅な人であったようだ。
 祖母は鳥取町から釧路町の繁盛している旅館へ嫁に来たのである。

 700石の鳥取藩士のお屋敷に育った祖母は釧路に着いて掘っ立て小屋を見たときにどういう感慨を抱いただろう。それまでは広いお屋敷で暮らしていたのである。祖母がまだ子どもで、長旅で釧路に着いて広大な根釧原野なかにぽつんと建っているこの掘っ立て小屋を見たときに何を感じたかが頭の中をめり、胸に迫る。子どもの祖母の目でわたしも当時の湿原に建つ掘っ立て小屋を見つめていた。
 本州から来た農業指導員は水稲栽培を薦めた。集団で田植えをやった写真が残っている。もちろん、泥炭地の釧路湿原で稲が実をつけるはずもない。農業経験のない士族たちはそんなこともやってみないとわからなかったのだろう。士族の商法どころの話ではない、根釧台地での「士族の農業」は大失敗に終わった。
 入植3年後には川が氾濫して作物はまったく取れなくなった。寒くてひもじかったにちがいないが、それを愚痴ることは士族の誇りが許さなかっただろう。しかし自然は過酷なだけではない、豊かな恵みももたらしてくれた、川に上ってくる鮭やシシャモという豊かな水産資源もあったのである。
 移住した士族たちは、生活に困り家財道具を売り払い困窮の度合いを強めたのではなかったか。あのような掘っ立て小屋では釧路の冬はたいへんだ。凍死者や餓死者が出なかったことが不思議だ。移住士族の連帯は強かったようだが、生活の困窮はどうにもならなかったにちがいない。
 掘っ立て小屋の写真をネットでも見つけた。「移住者の家屋」が次のURLのページの中ほどにある。あの小屋で一冬過ごせといわれたら、無事に春を迎えられるだろうか?

*http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino200903tottori.htm

 境内に関係者が建立した移住記念碑があるが、その中に西尾良貞という名があった。西尾姓は一つだけだから、これが祖母の父親。

 祖母が嫁入りにもってきたのは金象嵌のある短刀である。短刀は東京の親戚がもっていったそうで写真だけが残っている。
 西尾良貞という人は娘を苦労から救いたかったようで、祖母の姉か妹かわからぬが、もう一人の娘を京都のお寺さんへ嫁がせている。祖母は釧路で旅館業をやっているカネ吉伊勢旅館へ嫁いだ。「カネ吉」というのは屋号で、「北の勝」の屋号「カネカ」とカネの部分が同じである。「司」という字から一と口を取り払い、「吉」の字を入れると「カネ吉」、カタカナの「カ」を入れると碓井さんの「カネカ」になる。
 カネ吉伊勢旅館は明治10年代に旅館業をはじめたようでずいぶん繁盛していたようだ。2階屋の旅館の絵が「北海立志図録」に載っている。
 『釧路歴史散歩(上)』(釧路新書9)126ページにある。
 次のURLの「相次ぐ開店」の条にも旅館名が上がっている。旅館は旧鳥取町の方ではなく、旧釧路町米町界隈にあったのではないか。
http://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-sanpo/3-4-1.html


 重兵衛⇒寛三⇒オヤジ

 重兵衛が亡くなったあと、寛三は飲む・打つ・買うの三拍子、財産すべてを蕩尽し、最後は長屋で亡くなっている、その使いっぷりはアッパレとしか言いようがない。
 京都へ嫁いだ良貞のもう一人の娘が、「あんなにお金があったのによく使い切ったね」とあきれていたという。言い伝えでは明治末期で50万円の財産があった、現在の貨幣価値は当時の1万倍ほどだろうから、約50億円の財産だったのだろう。3万円を投じて鉱山も所有していたというが、それがどこなのか、単独経営だったのか共同経営だったのかもいまとなってはまったくわからない。
 西尾良貞は娘をお金の苦労のない家へ嫁がせたのだろうが、それは長くは続かなかった。北の大地に移住してきた祖母は、移住時の苦労を思えば、嫁いだ後に夫が莫大な財産を使い果たしても心が折れることはなかったのだろう。一度辛酸をなめた人間は折れてしまうか強くなるのどちらかだ。士族の娘としての誇りをときどき思い出し、孫たちに伝えてくれた。オヤジは三男だったが、いろいろあって根室に1年間ほどいたときの祖母はいつもニコニコして、孫たちを眺めながら煙管で煙草を吸っていた。東京山の手の品のよい標準語が使え、お作法がしっかりしていたお袋との関係はよかったから、祖母は穏やかな顔をしていた。

 伯母(長女)がいつのことだかわからないが、祖母について鳥取県の西尾(本家?)へ行ったことがある。大きな門構えのお屋敷で婆さんの話(駕籠に乗って「したにー♪したにー♪」)は本当だったと、伯母が述懐していとオヤジから聞いたことがある。
 祖母の兄弟の一人は天皇のお召し列車の機関士である。オヤジが自分の所属した落下傘部隊の訓練基地だったところを回りたくて、母と一緒に九州へ団体旅行したときに、旧国鉄関係者がいて、話の中に「お召し列車の機関士の西尾さん」がでてきたという。その人によれば、「西尾さんの関係であなたの姓は聞いたことがない、西尾さんの親戚は釧路に一つあると聞いている、S口さんだ」、「それは姉の嫁ぎ先」と告げると、納得したという。「北海道の旧国鉄幹部で西尾さんの息のかかっていない人はいない」とはその方の言であるが、ちょっと大げさ、高度な運転技術が要求されるから、それなりの敬意が払われていたのだろう。天皇のお召し列車の機関士は3代に渡って身元調査をされるというが、旧士族西尾家の出自なら問題なしだっただろう。
 オヤジが通信兵で部隊が満州にいたときに、落下傘部隊の募集があった。募集要項には「命のいらないもの集まれ」と書いてあったそうだ、どうせ散るならパッと散りましょと応募した。3男で運動神経抜群だったから合格した。還暦になってから教本を見ながら一輪車を独習し、指導員の資格まで取得した。バランスのとり方が落下傘で降下のときに感覚が似ているのだそうだ。NHKテレビが3度取材している。
 落下傘部隊は家を継ぐので長男がはじかれた、それほど危ない部隊ということ。加藤隼戦闘隊という戦時宣伝映画の上映が釧路であったときに、釧路出身のオヤジの大きな写真が丸三鶴屋デパートに掲げられ、兄弟姉妹の知るところとなった。落下傘部隊は秘密部隊で、親兄弟にも所属を話してはならなかったという。この映画を撮影したときの降下でしんがりだったオヤジは、前の隊員が一瞬躊躇したので押しながら自分も飛び出したが、主導索に右腕を引っ掛けてしまい、複雑骨折、右手がだらんと垂れ下がったままだったから、バランスが取れるはずもなく生きて降りられたのが不思議だった。九州宮崎で左手で敬礼して部隊を見送った、行き先は軍規で聞けない。戦友はみな死に、オヤジだけが生き残った。千歳の自衛隊に勤務する義理の弟が落下傘部隊の本を2冊オヤジに贈ってきた。それには、落下傘部隊員が飛ぶ飛行機もなく、前線の戦意高揚のために「空の神兵」が散り散りに船で前線へ派遣されて、あるいは敵の飛行場へ降りて占拠するた、支援がないまま囲まれて戦死したさまが書かれていた。「みんな死んだ、結婚もせず子どももつくらず逝った、だから...」、自分はみんなの分も幸せな家庭を持ちたいと思ったのだろう。オヤジとお袋が喧嘩したのを見たことがない。
 根室のO医院の大先生に大腸癌の疑いありとの診断をつけてもらって、釧路市立病院で手術、執刀医の予告どおり2年後に再発して2度目の癌の手術、退院して根室へ戻ってきた。天気のよい日に久しぶりに散歩すると外出した。総合文化会館のところで帽子をかぶって背筋を伸ばし空を見上げている年寄りがいるので、誰かと思ったらオヤジだった。わたしは自転車に乗ってぶらついていた。なんともいえない姿だった。空を見上げて、「もうすぐだ、靖国で会おう」と言っているように感じて、すぐには声をかけられなかった。2度目の手術は全身転移で手の施しようがなく「アケトジ」だった。5月の連休に数日帰省して見舞い、9月12日に亡くなった、選挙のあった日だった。

 祖父の親であり旅館業をしていた重兵衛がどうやって蓄財したのかはわからない。重兵衛のご先祖は船が難破して釧路に最初に流れ着いた3人の和人の一人だという言い伝えが残っている。時代背景から考えると、アイヌとの交易で蓄財したと考えるのが妥当だろう。ずいぶんと儲けたようだ。それが何にも残っていないことが救いだ。
 元々の墓は釧路で最初の石の墓で、函館から墓石を運んだ。50年ほど前に風化して銘が読めなくなったので建て替えている。お寺は曹洞宗。

 巨額の財産があったって、使い尽くすのは簡単、子どもたちはゼロからやり直せばいい。あたら財産があると子どもたちに争いが起きる。家族仲良く過ごすためには、老後を自立してやっていけるだけあれば十分で、相続財産はないほうがよい。祖母が北の大地に着いたあとの数年間の苦労を塑像したら、どんなことでもたいした困難ではない。その想いをわたしも子どもや孫に伝えたい。

 資料を見せていただいたあとで、木下宮司とお話しているときに、移住してきたときの祖母の心の在り様や、最初の冬を越すのは命がけだっただろうという思いが突然にわきあがってきて、涙が流れた。歳をとると涙腺が緩んでくる。
 よくぞ釧路に移住してきてくれました、祖母たちが移住してこなければわたしはないわけで、北の大地に来てくれた祖母の一族に心の底からありがとうと言いたい。移住を受け入れてくれ、掘っ立て小屋と鍬2丁を支給してくれた当時の根室の県令にも感謝。根釧台地での農業に成功した移住士族は一人もいなかったが、みな生活が困窮する中を餓死せずになんとか生き延びた。

 父方のルーツがわかったことで、どうして根室生まれ根室育ちのわたしが、教育問題で釧路の人々と一緒に活動しているのかその理由がわかったような気がします。
 きっとご先祖様のお導きです。釧路と根室のためにやれることがあれば、まだしばらくのあいだ微力を尽くしたいと思います。
 木下宮司、三木さん、ありがとう。
 

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