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事業仕分け:高校2校体制のコスト対効果 #811 Nov.26, 2009 [57. 塾長の教育論]

事業仕分け:高校2校体制のコスト対効果 #811 Nov.26, 2009

 11月25日付、北海道新聞朝刊22面に、高校統廃合に関して、小中高の保護者の50%が反対であるとのアンケート結果が出ていた。
 気持ちはわかる。2校のほうが生徒にとっても、地域にとってもいいに決まっているが、このアンケートには2校体制維持のコストが明記されていなかったようである。2校体制を維持するためにはそのコストがいくらかかっても良いわけではあるまい。

 そこで費用対効果を考えてみたい。極端な例をひとつ挙げて、問題点を鮮明にしておきたい。経済学ではそういう例を挙げて説明をすることがある、問題の本質を明らかにするのに便利な方法だからだ。

 数年前に厚岸の中学校の先生たちが、吹雪の日に側溝に落ちた同僚の車を押しているところにタンクローリーが突っ込み、3人死亡という痛ましい事故があった。その学校は教職員が13名で生徒数が13名という僻地校とテレビニュースや新聞報道があった。生徒と教職員の人数が同じ、おまけに13人だという「不吉な」数字で記憶している人もいるかもしれない。
 この学校の教職員の平均給与を700万円とし、建物の減価償却費や諸経費に3000万円かかったとして、年額1.21億円の維持費となる。生徒数13名で割れば、一人当たり930万円の教育費である。おどろくなかれ、3年間で生徒一人2800万円。
 このように郡部校は生徒一人当たりの教育費が市街化地域の学校に比べると10倍・20倍もかかっている場合がある。基本的な疑問はこうである。道路事情は50年前に比べれば格段によくなったのに、道路事情が悪かった時代にのままに学校を分散配置しておく必要があるのだろうか。
 どこまで許容するのかについては、かかっている費用を明らかにしてきちんと議論すべきである。

 さて、根室の高校2校に話しを戻そう。教職員の平均給与を700万円、建物の減価償却費と諸経費として1億円かかるものと仮定する。根室高校は生徒数600人、根室西高校は300人である。教職員数をそれぞれ30人、20人とすると総費用は根室高校が3.1億円、根室西高校が2.4億円である。生徒一人当たりそれぞれ51万円、80万円かかっていることになる。卒業するまで3年間でそれぞれ153万円と240万円である。

 中学校の数学の学力テスト結果をみると、30点未満が40%を占めており、多い学校では50%いる。この層の生徒は、心を入れ替え労苦を厭わず勉強に励むようになる少数の例外を除き、高校数学の授業についていけないだろう。英語についても同様である。学校側はやる気力のない生徒たちを前にして授業レベルを落とさざるをえない。私は授業レベルを落とす必要はないと思う。必要ならやる気のある生徒は放課後補習をして救ってやればいいと思う。己の学食が低いにも関わらず、差し伸べられて救いの手すら振り切り、補習に参加しないような生徒は容赦なく切って棄てればいい。
 社会人になったら世の中は厳しい。高校中退すれば多くの会社が履歴書すら受け取ってくれないから、そういう現実を中学校や高校で生徒にしっかり説明して、どうするのか、どういう人生を選ぶのか教師は生徒に迫るべきである。
 中学校までは教育は国民の権利であると同時に義務である。論理的には国民としての義務を放棄した者は国民としての権利をも放棄することになる。権利と義務は表裏の関係にある。

 一番古い中学校が一番荒れていて、例外的な年度はあるが概ね他校に比べて平均点が低い。残念ながらわが母校である。毎日のように体育館裏で何人も授業をサボってタバコをすっている。どなって生徒を追い掛け回すごく小数の先生はいるが、多くはあきらめている。生徒に注意しても、親を呼びつけて注意しても、こどもがすでに親の言うことすら聞かないのだから、効果がない。家庭で躾がされていない生徒が増えている。生徒に問題があるというのは、躾のできない親に問題があるということでもある。学力テスト時のアンケート結果から見ても、家庭学習習慣のない子供たちが他地域に比べてびっくりするほど多い。根室は他地域に比べて子供を躾のできない親が多いようにみえる。子供の学力が全道14支庁で一番低いというのは、実は子供を躾けられない親たちの問題でもあるのだ。
 授業をサボる生徒がどの学校も増えている。一番学力テストの点数が低かった中学校ですら、授業中に騒がしくて先生の声が聞こえないという。先生が制止してもおしゃべりをやめない生徒が覆いと言うことだ。市街化地域No.1校ですら荒れ始めている。
 授業を一定期間サボるともう授業内容が理解できなくなり、勉強に興味も失せる。そうした生徒たちの中から授業をサボる者が次々に出てくる。勉強に興味をなくしているから、せっかく高校に進学しても、1学年につき20人も退学していく。もったいない話だ。

 勉強に興味をなくした中学生たちは、まとめて別の教室で個別指導するしかない。授業をサボっていないけど学力の足りない生徒には放課後補習をすべきだ。同じ新聞の全道版には、道教委が学力向上策として放課後の補習をようやく言い出したことが載っている。学校が、先生たちがそこまでは努力すべきだ。そうしなければ、根室の生徒の学力を上げられない。根室の子供たちの学力が全道14支庁管内で最低であるとの汚名は早く返上したい。

 さて、費用対効果からひとつの問題を提起できる。
 一人当たり年額80万円、卒業するまで生徒一人当たり320万円もの税金を、勉強するキモチのない生徒に投入するような財政的な余裕が国にあるのだろうかと言うことである。
 教育はタダではない、膨大な税金が投入されている。その上で、根室に高校が2校必要かどうかを改めて小中高校生をもつ親たちに問うて欲しい。
 学校はもっともっと厳しくていい。やる気のない者はどんどん赤点をつけて落とせばいい。高校教育は義務教育ではないから、税金はやる気のある者たちに使えばいいと言う主張も正当性があるだろう。

 費用対効果からもうひとつの問題が提起されるだろう。郡部校の市街化地域の学校への統廃合である。
 生徒一人当たり年間100万円以上もかかるような学校は廃校にして、市街化地域の学校へマイクロバスで集めるべきだろう。もちろんマイクロバスの運行経費は公費負担とする。バス運転手の退職者を募れば、学校を維持する10分の1以下の経費で済むだろう。小中学校の統廃合は急ぐべきだ。

JICAはだれのもの? #810 Nov.24, 2009 [57. 塾長の教育論]

JICAはだれのもの? #810 Nov.24, 2009

 事業仕分けでJICA(国際協力機構*)が槍玉にあがっていた。麹町に引っ越して年間27億円もの家賃を支払っているという。坪単価は47000円だそうだ。

 12年ほど前に日本橋と立川の拠点を新宿に移そうと物件探しを検討したことがある。坪単価は半分ほどで物件はたくさんあった。
 JICAは国際協力のための機関であるから、そこに配られる予算は国際協力に使われるべきもので、事務所経費はできるだけ少ないにこしたことはない。麹町で坪単価45000円は最高クラスの賃料であるが、そういうところを使う必要はないだろう。JICAはJICAの職員のための機構ではない。
 事業仕分け作業で次々と「とんでもない無駄」が掘り出されている。どうしてこういう無駄がいたるところで行われているのか、いろいろな公的な機関や職員の金銭感覚が麻痺しているとしか言いようがない。国の借金残高が今年度末には900兆円を超えそうだというのに、まるで使わないと損だといわんばかりである。
 機構設立の目的を忘れ、JICAのためにJICAが存在している。半額の家賃の物件はすぐにも見つけられるから、早々に引越し、本来の目的を思い出すべきだろう。

 さて、市内の市街化地域の3中学校の期末テストが1週間延期になった。新型インフルエンザがまだ下火にならず、3校とも学年閉鎖が相次いでいるためらしい。
 学校閉鎖が各校1週間あった。さらに学年閉鎖が相次いでいるから、2週間休みになった学年が半分以上だろう。しかし、冬休みの短縮は3日間であるらしい。終わりが3日延びるだけではなく、あるいは冬休みが始まるのが早まるのかもしれない。
 予定通り冬休みにしてほしいという父兄からの要望も強いと聞く。根室の中学校は英語や数学の進み方が遅い。3年生が4月に2年生の確率の章を勉強しているなどというケースがあるし、3年生が数学の教科書の最後の方をやれなくて、「あとは自分でやれ」などということすらある。遣り残してしまうと翌年の学力テストの平均点が下がる。学力テストの平均点が全道14支庁中、最低であるのは授業速度が遅いことにも関連している。年間授業計画をたてているはずだが、実際は消化しきれない。各校の校長は担当の先生たちの授業計画の進捗状況をどのような頻度でチェックしているのだろうか?基本を忠実にやっていればこのような状態はない筈である。
 40%の生徒が百点満点で30点以下しか取れないのだから、これらの生徒が自力で習っていない教科書の単元を消化できるわけもない。根室の子供たちの学力を上げるためには、1年で教えるべきことは1年ですべて教える、2年生で学ぶべきことは2年生のときにすべて教える、3年で学ぶべきことは3年次にすべて教える、つまり仕事をきちんとすることだ。そして、前の学年までに学びきれていないことは次の学年に持ち越さずに、当年度できっちり補習をして学ばせることだ。
 仕事をきちんとやり遂げるというのは、まことに大変なことである。いい仕事をするために努力を惜しまない人のことをその道のプロという。

 学校は誰のためにある?


*JICA
 
http://www.jica.go.jp/

中1は方程式の文章問題攻略が第一関門 #801 Nov. 13, 2009 [57. 塾長の教育論]

中1は方程式の文章問題攻略が第一関門 #801
  柏陵中学の1年生を除き、中学生の学力テストが終わったので、数学について2学期のポイントを確認しておきたい。

 3年生は2次方程式の文章問題と2次関数まで、2年生は1次関数の応用問題まで、1年生は方程式の文章問題までが出題範囲だった。

 1学期は学年を通じて計算問題のみが出題範囲だからテストの平均点が(相対的に)高く出るが、2学期は文章問題が半分以上出題されるので、平均点が下がり、文章問題や証明問題の出来・不出来が点数を左右する。
 塾側から見ると、文章問題の教え方の巧拙が生徒の成績に直接影響するから気が抜けない。
 
 3年生の2次方程式の応用問題は1年生の1次方程式の文章問題の発展系だから、1年生のときに文章問題の攻略法をマスターしておくことが大切だということになる。
 文章問題は、書かれていることを論理的に理解しなければ式が出てこない。ニムオロ塾では文章問題攻略法を4パターンに分解している。基本は3つであり、4つ目はこれら3つの攻略法の組合せだ。
 生徒は内包量に関する問題に手こずる。3番目のパターンの使い方をマスターすれば実は簡単なのだ。
 「距離・時間・速度に関する問題」と「食塩・食塩水・濃度」に関する問題は、じつは同じ問題である。一見して異なって見えるものがまったく同じ仕組みで誰にでも解けてしまう。距離と食塩、時間と食塩水、速度と濃度はじつは同じものなのである。
 こういう内包量の問題を参考書や問題集の解答だけで理解でき、独力で文章問題を軽々と解けるようになる生徒は学年に一人いるかどうかである。それほど少ない。図解しながら3つの基本パターンに分けて説明すると生徒は問題文の意味が正確に理解できる。

 この辺りは数学の先生の指導力の差が表れるところだ。生徒のほうから見れば中1の方程式の文章問題を突破することが中学数学攻略の第一関門だろう。方程式の文章問題が解けなくて困っている生徒は塾で勉強するのもひとつの方法だ。

 2年生の1次関数も重要だ。高校数学は2次関数3次関数、分数関数、三角関数、指数関数、対数関数、微分、積分と関数のオンパレードである。その基礎となるのが中2で習う1次関数であるから、その重要性がわかる。

 高校入試の数学は大問で5題出題されるが、「大問の1」のみが計算問題で、「大問の2から5」までが文章問題となっている。だから、問題文の「題意」を正確に理解するトレーニングが必要だ。
 「題意」の理解は高校入試よりも大学入試の数学でその重要性が増す。だから、中学生の1年から問題文を精確に理解したり、出題意図の理解に重点を置いたトレーニングを積み重ねておくべきだろう。
 この問題文の題意は何か、出題意図は何か、そして使う公式は何か、こういうことがきちんと理解できれば、問題は解けるようにできている。

 さて、期末テストまであと2週間だから、返却されたテストで間違ったところをしっかり復習しておこう。解き方がわからなかったら、学校の先生か塾の先生に質問して完璧に解けるようにしておくべし。2学期の成績がほとんどそのまま3学期の成績となり、内申点を決める。
 2学期は正念場だ、しっかり勉強しよう。

「画一的」といわれる教育が目指す画一的ならざるもの #764 Oct.19, 2009 [57. 塾長の教育論]


  日本の教育は画一的だといわれるが、ほんとうなのだろうか?日本人の教育に対する考え方は欧米より広い。日本人の価値観では教育の場は学校に限らないからだ。

 江戸期は私塾が3万あったといわれている。主として町人や下級武士が通って勉強した。論語の素読が広く行われた。意味がわかる必要はない、ひたすら読み続けると、意味は自然にわかるようになる。さらに意味を意識して素読すれば意味の理解は無限に深まっていく。私塾では躾もきびしい。各藩には藩校があったが、ここで学べるのはエリート武士の子弟だから、私塾が江戸期の教育の主流であった。

 どのような仕事も職人が担っていたが、その教育はどうだったのだろう。たとえば、宮大工は棟梁へ弟子入りする。仕事が終わるとひたすら鉋の刃を研ぎ続ける。しまいには砥石に鉋の刃が吸い付くようになる。斜めになって刃のところが砥石にくっついてしまうのである。飽くことなく鉋を研ぎ続けて身体で覚える。先輩職人や棟梁の技を「見て盗む」のである。
 職人の修行の仕方は料理人も宮大工も船大工も浄瑠璃の人形作りも、仏壇職人も、三味線職人も、琴を作る職人も、江戸指物師、彫師も刷り師も皆似たようなものだろう。
 教えてもらうのではなく「見て盗む」ことが要求される。考えない者、同じ作業を繰り返しやることに飽きる者はその道の名人にはなれない。渾身の力」で鉋を研ぐ。刃物の切れ味の良し悪しが仕事の出来を左右する。鉋をかけた柱に指一本あてて撫でただけで技倆がわかるものだとある棟梁がいっていた。知っている職人の現場へ行って、こっそり後ろ手を組み指の腹で柱を撫でる。これ見よがしに触ってはいけない。それが礼儀だ。撫でた途端に「あっ、腕が上がった」とわかるのだという。

 職人は単調な作業を繰り返すことで深みに到達する。実はそれが一番の近道なのだ。深みに達してから、その職人の技が自由をえる。基本がしっかりしていなければ、頭の中に描いた物をつくり上げることはできない。単調な基礎トレーニングを我慢できない者はよい職人にはなれない。師の技を「盗む」ことのできないものは所詮は師の技を超えることができない。だから手取り足取り教えることはない。そのような教え方をしたら、弟子がダメになる。

 優秀な生徒、辛抱強い生徒に出遭ったときに、教えすぎたらダメにしてしまうから、一歩手前で止めておく、そういう微妙な間合いが楽しい。疑問を育て、独力で考えることから学べることは大きい。先生がそれを邪魔してはならぬ。そうした観点からは、教育の原点は教えられるものと教える者との対話にあると言える

 英語はHirosukeさんが音読重視のやり方を提唱している。意味、キモチ、形に注目して英語を身体にしみこませていく。「渾身の力」で音読することが近道であると自らの体験を通して教えてくれている。

 数学も同じだ。四則演算、小数の乗除算や分数計算は計算の基礎である。この基礎トレーニングをしっかりしない者が高校数学の二次関数や積分計算をしっかりやれるわけがない。証明問題は三段論法や背理法や帰納法(ドミノ倒し)、これら3つのパターンを紙に何度も書いて学ぶ他ない。型が身につけば自在に証明問題が解けるようになる。
 だから数学においても単調な基礎トレーニングは「渾身の力」を込めてある時期やり通す必要がある。これを辛抱できない生徒は数学が苦手となる。

 珠算も「渾身の力」で、単調なトレーニングをすることが腕を上げる秘訣だ。10分とか2分とか時間を区切って集中力を上げる。珠算で培った集中力は他の勉強にも応用できる。英語の単語なら100を30分で暗記できるようになる。社会も暗記科目だ、こういう記憶で点数がとれる科目は集中力を上げることが武器になる。

 意外なようだが、小学生の時代に名作と言われる日本文学の作品をひたすら音読し、書き写すことはたいへんな効果がある。小学校や中学時代にそうしたことをひたすらやり通し、後に著名な小説家になった人は少なくない。『坊ちゃん』『夢十夜』『走れメロス』『平家物語』『断腸亭日乗』でも、なんでもいい、自分の気に入った作品をひたすら音読し、書き写してみればいい。一年やれば書く文章が目に見えて違ってくる。二年やれば・・・、三年やった人は作家になるかもしれない。

 フィンランドの少人数、個別的な教育がもてはやされている。しかし、私たちは日本人である。伝統的な日本の教育は画一的と批判されがちだが、じつに奥の深い教育的配慮に基づいてできあがっている。型を身につけるためにある時期我慢を強いるのが日本の教育の根底にある。それは学校教育に限らない。すべての職業の修業(=教育)に共通だ。
 表面だけ欧米を真似てもだめだ。日本の教育のいいところをしっかり残しつつ、外国に学ぶべきところがあれば学ぶべきいうのが私の主張である。日本文化は奥が深い、教育も然りである。日本人の日本人たる所以、そこを変えるのは慎重であってよい。

 ソムリエもワインと食の職人だ。イタリアにも型の文化はあるのだろう。ある時期は決まった型のトレーニングがあったのではないのかと想像する。ワインを飲みながら聞いてみたいものだ。"極東のノムリエ"さんのコメントに触発されて、こんなことを考えた。

 ***お知らせ***
 根室高校演劇部の公演がある。
  日時:10月21日(水)18:00から
  場所:根室市総合文化会館 小ホール
  演目:第1部 「パジャマ」
      第2部 「文学探訪~夢十夜より第一夜」
           「文学探訪~永訣の朝」(宮沢賢治)


珠算と東大合格 第45回根室珠算大会 #760 Oct.16, 2009 [57. 塾長の教育論]

 団塊世代の根室人は五十数年前にある根室高校生が東大に現役合格した話しを聞いたことがあるだろう。いままでに現役東大合格は二人しかいない、そのうちの一人だ。

 10月12日、小中学生がそろばんの腕を競う「第45回根室珠算選手権」(根室商工会議所、根室珠算振興会主催)珠算大会があった。標津、別海、根室の小中学生32名がその技を競った。

 46年も前、高校1年の冬のことだった。分塾を担当していた2学年上のS先輩が中央大学文学部へ進学するので、T先生に頼まれて汐見町の分塾をしばらく担当することになった。翌年の夏に全国珠算連盟の道東地区の集まりにも連れて行ってもらった。車で砂利道(当時)の国道を走った。十勝川温泉に入った記憶があるので、開催地は帯広だったのだろう。
 生徒会の仕事と珠算塾の仕事と家の商売の手伝いと、楽しくも忙しい高校生活だった。

 45年前根室ではじめての珠算大会は「珠算は男子一生の仕事」と仰っていたT珠算塾のT先生の企画だった。最初の大会は小中高生が参加した。
 その当時は商工会議所珠算能力検定1級(全珠連の段位だとせいぜい3~4段だからたいしたことはない)合格者は根室高校で私一人だったので、全道大会のときだけ珠算部にも関わっていた。根室高校の珠算(科目は計算実務)担当の先生が担任でもあった。根室の珠算塾3つと根室高校、そして商工会議所の共同開催だった筈だ。「根室珠算振興会」はそのときにできた。根高珠算部として関わったのか、個人で関わったのかさっぱり記憶にない。
 初回の大会は参加者が100名以上いた。会場になったのは根高校舎入り口の横にあった別建物、柔道・剣道場である。柔道部と剣道部が一緒に使っていた建物である。会場は参加者でびっしりだった。そういえば「選手宣誓」もやった記憶がある。珠算の大会で選手宣誓?とちょっと疑問に感じたが、流れでそうなってしまい引き受けた。初回大会の暗算の優勝は運よく私がもらった。なんだか自作自演のお芝居をやっているようでこそばゆかった。
 読み上げ算は何人かの先生とともに私も読み上げる側だったから競技には参加していない。高校生だったが、大会の主催者側だったから参加できたのは暗算のみだった。

 わたしたちの学年が高校を卒業してから、5年後に根室の珠算の水準は格段に上がり、10年後くらいには全道トップレベルにまでなった。デキの悪かったわたしたちが卒業したから水準が上がったのだろう。私が高校生のときに小学生だったTとKが4段5段と続けざまに腕を上げていった。一人が突破すれば、それに続く者が堰を切ったかのように何人も現れる。10段位も出た。
 競争は大切だそして最初に記録を塗り替えるものが偉い一人が道を拓けば何人もが団子状になってその後に続く。

 当時は小学生のときにほとんどの子供が珠算塾に通っていた。おおよそ三分の二くらいの生徒が珠算塾へ通った経験があるだろう。あれから45年、珠算塾に通わせる親が少ないのが残念だ。塾を開いて8年間、珠算を習ったことのある生徒はたった二人しかいなかった。そして基礎計算力の弱い子供たちが何倍にも増えた。中1年生の40%が分数の加減算、小数の乗除算が満足にできない。
 そして高校数学こそたしかな基礎計算能力がものをいう。

【ある実例⇒そろばん1級合格と現役東大合格】
 数年前の正月のことである。T先生のところへ行った。昔話が弾むうちに、「あいつはすごかったな、あいつが一番だった」そうおっしゃった。根室へ転向して来たある男子高校生がそろばんを習いに来た。私よりも10年ほど先輩ではなかっただろうか。「たった1年間で商工会議所珠算能力検定1級に合格した、それが最短だった」とおっしゃった。先生は異常な集中力を思い出したのだろう、感慨深げに「すごい奴だった」、そうおっしゃった。
 当時は学習塾はない、札幌から根室高校へ転向してきてよほど暇だったのだろうか、高校生で珠算を始める人は珍しい。その後、道内14支庁のあるところの支庁長になったとその消息を教えてくれた。

 その転校生の名前は知っていた。根室高校から初めて東大に合格した人だったからだ。その人がそろばんをはじめてわずか一年間で商工会議所1級をパスしたなんて話はほとんどの人が知らないだろう。器が違っていた。例外中の例外だろう。すごい奴は何をやらせてもすごい結果を残すものだ。
 縁とは不思議なものだ。大学時代の一年先輩が大学院へ進学後、数ヶ月にわたって個人的に経済学の原書講読トレーニングをしてくれたことがある。今はある大学の先生をしている。その先輩の歳の離れたお姉さんが、珠算全国一になったことがあると聞いた。

 わたしは3桁の暗算が可能だが、この能力は長期経営企画や予算管理に役に立った。数百億円規模の売上の会社でも、上から3桁の数字だけでコントロール可能だからだ。1000分の一の精度で計算値がだせるから、計算精度は十分だ。いつでも頭の中で数字を入れ替えて予算全体をシミュレーションできた。暇なときにしょっちゅう思いついたことを数字に変換して、頭の中でシミュレーションできる。こうした遊びは面白いものだ。どこかが予定と異なってくれば、全体にどのような影響が出るか(利益にいくら影響するのか)がすぐに見当がつき、いくつか用意してある手が打てる。だから手遅れになることはないし、いつも10年、20年先を読みながら、現実の数値を使って1年先や3年先のシミュレーションで遊ぶことができる。頭の中でシミュレーションを繰り返して、遊びながら10年先や20年先を見据えた最善手が見つかってしまう。仕事はこうして遊びになった。だから仕事は楽しい。赤字も楽しい。黒字にできない赤字はない。売上高経常利益率は智慧の絞り方次第で10~20%にできる。
 根室高校生徒会の予算も、会社や市、国の財政ですらも3桁の精度で十分だ。3桁の精度という場所から見ればどれも同じだ。

  *国家戦略室だけはシミュレーションに4桁の精度が要求される。さて、30年50年先を大雑把に考えながら来年度予算を4桁で自在にシミュレーションできる人材が見つけられるだろうか。そういう人材がいれば、驚天動地の5ヵ年計画を発表するだろう。国家財政破綻の前倒し政策である。民主党はそれを実行するのに総選挙をして国民に信を問わざるをえなくなるだろう。そのときは大臣になった者たちがいろいろと屁理屈をつけて官僚とともに「抵抗勢力」となる。大きな戦いだからこそ、国民に信を問わねばやりとおせない。

 3桁の精度で企画・管理することで、30年先のことを考えながら、システムを含む会社の現実の仕組みを変えて赤字会社や赤字部門を売上高経常利益率10~20%の黒字に変えてきた。もちろん一人でやってきたわけではない。社内の数名の有能な者たちとともにビジョンを共有しつつ成し遂げた仕事である。
 暗算能力だけで経営企画や管理ができるわけではないが、必要条件の一つだったとは言えるだろう。
 私は、経営企画や経営管理をいう仕事に携わる可能性のある人たちに、3桁暗算能力の威力を伝えたい。経営管理上たいへんな武器になる。経営に対する大局観が養える。だから、学力レベルの高い人たちに1年間だけ趣味でそろばんをやることを勧めたい
 
 小学生低学年の生徒にも基礎計算能力を強固なものにするために1年間そろばんを習うことを勧めたい。根室にはすぐれた先生が何人かいるが、現役で教えられる残り時間は少ない。子供が少なくなったことと、そろばんを習わせる親が減ったために珠算塾を担う次の世代が育っていない。しかし、高校時代に全道トップレベルで華々しい活躍をした人たちの何人かが根室に残っているかもしれない。次の世代を担えるのは彼女たちにをおいていないだろう。根室に珠算塾がなくなったときには根室市が彼女たちを何らかの形で応援して欲しい。小学校で希望者を集めて珠算補習をする時代が来て欲しい。

 珠算は時間を測ってトレーニングする。乗除算はそれぞれ20題で各10分間、見取り算と伝票算はそれぞれ10題で10分間、暗算は10題2分間である(全道大会はこれを半分の制限時間で競う)。そろばんで集中力を上げた生徒は、英語の単語100なら30分で暗記できるだろう。他の勉強へ応用が利くのである。
 珠算のトレーニングは集中力を圧倒的に上げる効果がある陰山先生の「百枡計算」が盛んになっているが、珠算のトレーニングの方が何倍も集中力を上げる効果がある。珠算は日本の伝統芸のひとつである

【世界一の日本人の暗算能力を育んだのはそろばん】
 もし、暗算オリンピックがあったとしたら、金銀銅はもとより、百位まで日本人が独占するだろう。日本人は暗算能力に関してそれほど圧倒的な強さを持っている
 日本人の数学の学力を上げるために、基礎計算能力を圧倒的に強化するそろばん教育が見直されて欲しいと願う

英語教育論:数学者藤原正彦『国家の品格より抜粋 #753 Oct. 8, 2009 [57. 塾長の教育論]


 過去ブログ#569の再アップである。小平邦彦の教育論を数回前のブログに再アップしたので、バランスを考えて藤原正彦の教育論も載せておく。

英語教育論:数学者藤原正彦『国家の品格』より抜粋

 「美しい情緒が重要な三番目の理由は、情緒が真の国際人を育てるということです。「国際人」と言うと、すぐに、「英語」となるのですが、英語と国際人に直接の関係はない。ここで言う国際人とは、世界に出て、人間として敬意を表されるような人のことです。…アメリカやイギリスで、国際人といえる人がどのくらいいるかと言えば、1割に満たない。せいぜい数%です。英語がいくらできても、国際人どころか、お話にならないような連中が半分くらいです。小学校でどれだけ英語を教えたところで国際人になれるわけではないということです。」 『国家の品格』143頁、新潮新書、2005年11月

 「日本人の英語下手の理由
 そもそも小学校で英語を2,3時間勉強しても、何の足しにもなりませんきちんとした教師の下、週に十時間も勉強すれば少しは上達しますが、そんなことをしたら英語より遙に重要な国語や算数がおろそかになります。そのような教育を中高でも続ければ英語の実力がアメリカ人の5割、日本語の実力が日本人の5割という人間になります。このような人間は、アメリカでも日本でも使い物になりません
 少なくとも一つの言語で十割の力がないと、人間としてまともな思考ができません。言語と思考はほとんど同じものだからです。日本の公立小学校は一人前の日本人を作る教育機関ですから、英語はダメなのです。
 日本人が英語下手なのは、小学校から教えないからでも、中高の英語教師のせいでもありません。主な理由は二つあり、一つは英語と日本語があまりに異なることです。アメリカ人にとって、日本語とアラビア語は最も難しい外国語とされています。日本人にとって英語が難しいわけです。もう一つは、日本に住む日本人は、日常生活で英語をなんら必要としないからです。母国語だけですむというのは植民地にならなかったことの証で、むしろ名誉なことです。TOEFLのテストで日本がアジアでビリ、というのは先人の努力に感謝すべき、誇るべきことなのです。」 同書144、145頁

 「外国語は関係ない
 真の国際人には外国語は関係ない。たとえば明治初年の頃、多くの日本人が海外に留学しました。彼らのほとんどが下級武士の息子でした。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心と、皆下級武士の息子です。
 彼らの多くは欧米に出向いていって、賞賛を受けて帰ってくる。・・・多くは肝心の英語さえままならなかったはずです。だけど尊敬されて帰ってきた
 彼らの身につけていたものは何か。まず日本の古典をきちんと読んでいた。それから漢籍、すなわり漢文をよく読んでいた。そして武士道精神をしっかり身に付けていた。この三つで尊敬されて帰って来たのです。美しい情緒と形で武装していたわけです。
 いま海外に百万人近い日本人が住んでいますが、その中のどれぐらいの人が尊敬されているでしょうか。羨望はされていても尊敬されている人は非常に少ないのではないでしょうか。
 国際社会というのはオーケストラみたいなものです。…ヴァイオリンはヴァイオリンのようになって初めて価値がある。日本人は日本人のように思い、考え、行動して初めて国際社会での場で価値を持つ。ガーナ人はガーナ人のように思い、考え、行動して初めて価値があるということです。」 同書145~147頁

 「外国語よりも読書を
 私がことあるごとに「外国語にかまけるな」「若いときこそ名作を読め」と言っているのは、私自身の取り返しのつかない過去への悔恨もあるからです。小中学校では古典的名作をだいぶ読みましたが、大学、大学院、若手研究者の時代には数学に没頭していたからほとんど読めず、名作に戻ったのは三十代後半からです。無論、大量に読む時間的余裕はなかったし、若者特有の感性もかなり失っています。若いときに感動の涙と共に読むのがなんと言っても理想です情緒や形を育てる主力は読書なのです。
 社会に出てからは、すぐに読むべき本が多すぎて、名作にはなかなか手が伸びない。心理的余裕もない。名作は学生時代に読まないと一生読めないと考えたほうがよい。なのに渡しは、余暇を外国語などにうつつを抜かして、その機会を失ってしまったのです。
 英語ばかりでなく、中学、高校とドイツ語、ポルトガル語にまで手を出したのです。恥ずかしいことに、外国語オタクだったのです。高校時代に買った『チボー家の人々』全5巻、大学時代に買った『戦争と平和』、谷崎潤一郎訳の『源氏物語』全十巻は今も本棚を飾っており、目にするたびに「まだ読まないね」と私を見下します。
 もちろん語学だって出来ないよりは出来た方がはるかによい。しかし、読書によって培われる情緒や形や教養はそれとは比較にならぬほど大事なのです

 ④人間のスケールを大きくする
 情緒と形が大切な四番目の理由は、美しい情緒や形は「人間としてのスケールを大きくする」と言うことです。
 欧米人のように「論理的にきちんとしていればよい」「筋道が経っていればよい」と言う考えは、今まで述べて来た通り、誤りです。万人の認める公理から出発する数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。論理が非常に重要なのは言うまでもありませんが、それは世界中の人が声高に言っているから、私はわざわざ言いません。しかし、この出発点を選ぶ情緒や形の重要性については、世界中誰一人言っていないようなので、私が声高に言うのです。これは論理と同等、またはそれ以上に重要です。」 同書147~149頁 

 以上が数学者藤原正彦の英語教育論である。小学生に英語を教えている大人たちにこそぜひ読んでもらいたい本である。そうすれば教え方も自ずから変わるだろう。害を最小限にし、副作用を押さえる穏やかなやり方が見つかる。

 抜粋させてもらった『国家の品格』は中学2年生の日本語音読トレーニングに使っている。音読後、三色ボールペンで色分けしながら、重要箇所、そこをたどれば粗筋になる箇所、面白いと思った箇所に線を引いていく。なんてことはない斉藤孝方式である。いいものはどんどん取り入れる柔軟さが教育には必要だ。

 願わくば前のブログに抜粋して紹介したフィールズ賞受賞数学者である小平邦彦の英語教育論とあわせ読まれたい。
 数学研究における情緒の大切さを最初に言ったのは大数学者の岡潔である。かれは繰り返し数学研究における日本的情緒の大切さを『春宵十話』(光文社文庫)で語っている。ただ、それが「出発点」を選ぶ上で重要だとまでは言ってない。

 なお、論理の出発点を選ぶ「情緒や形の重要性」は経済学体系の出発点を選ぶときにたいへん重要である。
 体系の出発点の選択は経済学において決定的な重みをもつ。欧米の経済学(アダム・スミス、リカード、マルクス)は農奴の労働を基礎において工場労働者の労働を考察しているのだが、刀鍛冶や職人仕事を出発点におくとまったく別の経済学が展望できる。欧米経済学の伝統では労働は苦役である。だからマルクスは労働における人間疎外を問題にする。日本の伝統では刀鍛冶の仕事に見るように、苦役ではなく、神聖なものである。常に自己の技術を練磨し、最高の仕事をする。それは人間疎外とは対極的な自己実現の手段でもある。だから、日本人の労働者は仕事の手を抜かない者が多い。それぞれの分野の最高の技術をもつ職人は名人として尊敬される。商人も自分の仕事に正直で、何より信用を一番大事にする。そういう商人が尊敬を受け、200年を超える歴史をもつ会社として永続する。これらは世界中に例を見ない仕事倫理(職人道や商人道)・考え方である。
 こうした労働観・仕事観を出発点に選ぶ経済学は、21世紀資本主義の閉塞状況を打開するものとなるだろう。
 そうした経済学をようやく時代が要請している。新しい経済学を構築する意味が出てきた。数年かけてじっくりと新しい経済学体系を描いてみたいものだ。経済学をやる意味が出て来たように思える。 

*小平邦彦の英語教育論
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-10-04
 2009年5月3日 ebisu-blog#569

部活を毎日6時過ぎまでやらせるタクランケ #750 Oct. 4, 2009 [57. 塾長の教育論]

部活を毎日6時過ぎまでやらせるタクランケ 
                 
#750 Oct. 4, 2009
 6時過ぎまでトレーニングをさせている「部活」がある。毎日のようにそういう練習をしていたら生徒がどうなるか考えたことがあるのだろうか?土日も練習する、そんなにやって勉強はいつするのか考えたことがあるのだろうか?
 どうせ何もしないのだから、長時間部活で縛り付けておいたほうが良いと思っている先生や親もわずかだがいるのは事実だろう。だが、その弊害を考えたことはあるだろうか?

 運動系の部活なら、3時間もハードなトレーニングは大人だって続けられない。つまり、生徒は手を抜くことをおぼえてしまう毎日やる「部活」が「手抜き」のトレーニングの場になってしまう
 手抜きを毎日やることで習慣になり、しまいには性格となる。熱心にみえる部活が、じつは立派な「手抜き人間」を製造してしまう。
 こういう生徒は集中力に欠け、授業も「手抜き」して聞くことをおぼえる。部活だけではすまない、授業態度にも表れてしまう。毎日繰り返すことはいつのまにか根っこから子供を変えてしまう*(1)


(毎週ではなく、ときどき土日に5時間程度のトレーニングは賛成だ。へとへとになるまで、体力の限界までトレーニングする必要はあるだろう。「限界を極める」そして「限界を超える」ことは必要だ。だが、毎週はいけない。勉強も同じで、1日8時間を超えるような勉強を1週間続けると頭の回転がもうれつによくなるのは事実だ。だが、中学生がそれを続けてはいけない。大学生になってからにすべきだ。
 中高生は間口を広げる時期だ。いろいろな分野の本を読め、スポーツも何種類かやってみろ。好奇心の赴くままに教養のベースの幅を広げておくことだ。新聞の1面や社説を読むのもいい。日経新聞の記事を読んでわかるようなら、岩波新書レベルの本ははたいがい理解できるだろう。ジャパンタイムズを精読し、その記事を音読すれば飛躍的に英語の力は上がる。スポーツだけで青春の貴重な時間の大半を潰してしまうのはあまりにももったいない。)

 6時半まで部活をやった子供は家へ帰ると7時近くだ。「お母さん、はらへった」と言い、勉強せずに食事をする。満腹になったら、疲れが出て眠くなる。ここで勉強できる生徒はまれだ。よほど体力があるか、気力・集中力にすぐれた者だ、したがって、滅多にいない。そしてほとんどの中学生が食後はケイタイやゲーム、インターネットで2時間以上遊んでしまう。部活とゲームに集中して心身ともに疲れきった子供は無気力にテレビを見るか、お風呂に入って眠るだけだろう。部活を熱心に励む生徒のほとんどに勉強する時間などありはしない。
 長い時間だらだらとした練習に毎日明け暮れ、あげくに手抜きをおぼえる、アホか。短い時間で他校よりも効果をあげる練習メニューを考え出す努力も教育だ

 「トレーニングは1時間半×週4日だ、もっと効果的な、密度の高いトレーニング法を考えて来い」
 「短い時間で、他校に勝つために、トレーニングのやり方をもっと工夫しろ」
 「まだ足りない、もっと工夫の仕方や集中力の高め方があるだろう?たとえば・・・」
 先生の指導次第で生徒たちは工夫の余地があることを身をもって体験できる。

 民間会社では絶えざる工夫を積み重ねて成果をだしている。そういう習慣は中学生の時期に部活を通じても育むことができる。
 部活を通じて工夫に工夫を積み重ね成果をだす体験をした生徒は、社会人になっても自分の仕事に自ら進んで工夫をする。「できません」と言う前に「ありがとうございます、ぜひやらせてください、やってみます」と言える人間になる。
 上司に言われる前に自分で工夫できる人間になる。「指示待ち人間」ではなく「自発的に工夫できる人間」が部活を通じて育つ
 勉強だって運動だって、集中力と工夫の巧拙が成果を左右する。成果は時間数でだすのではない、集中力と工夫でだすのだ

 部活を6時までやらせている先生は、部活が教育の一環だということを忘れていないか?学校は先ず勉強が第一である。先生の仕事も授業が第一で、部活が第一であってはならないはずだ。優先順位を間違えてはいけない。

 根室の小中学校は部活の時間が異常に長すぎる。それが生徒の生活習慣を壊している。このままでは健全な家庭学習習慣の育成が困難であると思うのは私だけだろうか?

 学力を上げたかったら市教委は週に2日は部活を禁止し、補習授業に充てるように学校長を指導すべきだろう。半端な措置では根室の学力を上げることはできない。

 部活を5時までとすれば、生徒は家に帰って、食事の前に1時間ほど勉強時間がとれる。親も勉強してから食事するように子供を躾けられる

 ゲームやケイタイ依存から抜けさせるには、長期にわたる「治療」が必要だ。アルコール中毒やパチンコ中毒と同様に心療内科の守備範囲だ、立派な病気として認知すべきだろう
 健全な生活習慣を育むことが「治療」になる。健全な生活習慣を破壊している「過剰な部活」をまずやめることだ。家に帰ってきたら、最優先すべきことは30分あるいは1時間の勉強である。食事も他のこともそのあとだ

 健全な生活習慣が身につけば、言われなくても学習するようになる。健全な学習習慣のついている子供をもつ親は子供に「勉強しなさい」とは決して言わない。言われなくても勉強するからだ。どこで差ができるのか、じつは学校生活を始める小学1~3年生にその鍵がある

 何ごとも最初が肝心だ。そこを手抜きすると取り戻すのに何倍もの努力が必要になる。3年間家で勉強しないとそれが習慣となってしまう。習慣を変えることがたやすくないことは、大人が酒やタバコの習慣をやめるときのことを考えればわかる。ましてや小学校6年間、ゲーム三昧させてしまったら、中学生になってにわかに家で勉強するようになったなどということは、宝くじを当たるのを期待するようなものだ。家庭での学習習慣は親の躾の問題だ。自分の子供が可愛かったら、小学1~3年のときに手を抜いてはならない

 勉強の躾方には工夫がいる。どうやって勉強に興味をもたせるかがわからない人が多いだろうから、わからなかったら聞けばいい。誰にでもできるとってもいいやりかたを教えてあげる。来てもらえばたった30分ほどの説明ですむ。自分の子供が可愛い人は来ればいい。
 わたしは高校時代の友人からこの方法を学んだから、根室の1~2年生を子供にもつ親に教えてあげたい。友人がどのような実績を出したかは個人情報に関わるのでブログでは書けない。

 根室をダメにしているのは、北方領土が還ってこないからではない。根室に住んでいる人間が根室をだめにした。とくに各団体の長をやってきた者たち、権限をもって町を動かしてきた者たちに責任がある。ビジョンをもたす、先を読まずに場当たりの、そして60年間もの長きにわたって自分たちの利害に拘泥しすれば町が衰退するのは当たり前だろう。

 密漁・銃撃事件の湾中漁業組合長、保険金詐欺事件で書類送検された根室漁業組合長、病院赤字を減らす努力をしなかった歴代病院事務長や歴代市長などなど。そして今も居座っている者がいる*(2)。根室の恥だ。
 責任ある立場の者は、出処進退をきれいにするとともに、その職にある間は課題に真正面から取り組み、決して先送りしない決意が必要だ。そういう正義感や責任感溢れる団体の長が少ないということだろう。きちんとした団体長もいるが、恣意的に団体(根室の主要産業である漁業組合、市政)を運営し害毒を垂れ流す者たちが主要部を占めているから町が衰退することになる。

 しかし、責任があるのは彼らのみではないだろう。経済が他地域に比べても相対的に衰退の度合いが激しいのは根室に住むわたしたちにもその責任の一端がある。彼らを選んできたのは私たち根室の住民である。他人が悪いとだけ言っていたのでは根室は変わらない。
 住んでいる自分たちにも問題があると気づけば状況は変わる。小さな町で好い、経済的にも豊で、子供も大人も老人にも住みよい町ならそれで充分だ。そのような町なら実現できる
 根室を変えることは住んでいる人なら誰にでもできる。それにはまず、私たち自身が変わることだ

 学校や家庭が協力して子供たちの生活習慣を正すことが根室の子供たちの学力を底上げすることにつながる。生徒自身そして親も先生も教育委員会も、関係者は皆具体的な行動を起こせ。根室の子供たちの学力を全道ナンバーワンにすることはできる。ねむろっ子、サッポロの子供たちに学力で勝て。同級生とではなく、渾身の力で都会の生徒と勝負しろ。

*(1)2009年9月10日blog#『学力テスト総合Aに見る学力低下の実情』
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-09-16

 2009年9月9日blog#731『根室の中学3年生の家庭学習時間』
 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-09-09

 他に#729、#733にも根室管内の子供たちの学力レベルに関するブログ記事がある。

*(2)20097月1日blog#633
『退け際の美学:根釧漁業保険組合長保険金詐欺容疑で書類送検』
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-07-01

 5月25日ブログ#191『根室漁船保険組合専務、数千万円着服か』
  http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/archive/20080525

 8月15日ブログ#256『根室漁船保険組合専務、数千万円着服のその後』
    http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-08-15
 8月18日ブログ#261『近頃多い横領事件3件にみえる類似パターン』 

 10月10日ブログ#347『根室漁業組合長 虚偽書類で保険金』
  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-10-10-1

 12月3日ブログ#427『漁船保険組合の元専務理事逮捕』
  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-12-03

 1月13日ブログ#486『ある年頭の挨拶から』
  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-01-13

 2月1日#513「漁船組合横領 元専務を追送検
  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-02-01
 
   
*2006年8月16日カニかご漁船銃撃事件(ウィキペディアより)
「帰国後、船長は「越境も密漁もしていない」と、責任逃れの発言をしていたが、その後、根室海上保安庁の捜査に対して、違反操業を認め、2007年3月2日、根室海上保安部は船長ら3人を、北海道海面漁業調整規則違反(区域外操業など)の疑いで釧路地検に書類送検した。」


#749 フィールズ賞受賞数学者小平邦彦と藤原正彦の教育論  Oct. 4, 2009 [57. 塾長の教育論]


 小平邦彦は数学の分野ではその実績の大きさから巨人の一人に数えられるが、数学に興味のある人はそれほど多くはないから、あまりなじみのない名前だろうと思う。優秀な学者は教育論についても自らの体験に基づいたものを書いている。もう一人の巨人、岡潔がそうだし、『国家の品格』の藤原正彦も教育論を書いている。
 根室の生徒の学力が急降下している現実に目を奪われすぎてはならない。わたしたちの周りにある木を見ると同時に、たまには森全体を見渡しておくべきだろう。日曜日には目の前の現象から離れて、原理・原則に戻って物事を考えてみたい。日本の教育の問題点を30年前に小平邦彦が指摘しており、彼の危惧は30年後の今日、現実となっている。
 さて、優秀な数学者は戦後の教育についてどのように考えたのだろう。以下、3月28日のブログに一部加筆して再掲載する。

⇒ ⇒ ⇒

 今日は数学者の教育論を紹介したい。ひとつは小平邦彦が三十余年前に書いた「初等教育論」である。戦後まもなくの頃、プリンストン高等研究所を中心に18年間米国生活のある数学者であり、ノーベル物理学賞の湯川秀樹とも親交があった。
 もう一人は『国家の品格』を書いた藤原正彦であるが、彼も英国ケンブリッジ大学や米国での研究生活経験が十数年あるようだが、小学校では日本語をしっかり勉強すべきだと小平と同様の意見を述べている。少し言い方がきついので、穏やかな小平のほうを紹介する。

子供が言語を修得する能力に優れているうちに国語を十分時間をかけて徹底的に教えておこう」(『怠け数学者の記』小平邦彦著、岩波現代文庫102ページ)

 小学校の時期は、子供たちが言語を修得する時期にあたるので母国語を徹底的に教えておくべきだというのが彼の主張で、戦前の教育はそうなっていたという。言語修得期には母国語をしっかり教えるべきだと言うがなぜだろう?この点は藤原正彦も同じ主張をしている(岡潔は「日本的情緒」が数学的発想の源泉だという。それは日本の古典や日本語で書かれた書籍をたくさん読むことや、日本の風景、芸能、人情に親しむことで育まれる。日本の風土そのものだ)。つまり、小学校で英語を教える必要はないというのが彼らの意見だ。母国語の修得期に英語を教えたら多くの場合、母国語の基礎能力に影響がでる。
  ごく小数の例外があるが、早い時期から英語を学んだ子供たちの国語の成績や数学の成績をよくみればいい。少なからざる数の生徒が国語や数学の成績に影響がはっきりでている。国語や数学の勉強時間を削ってしまうから当たり前のことが起きているだけだが、子供の学力全体への影響が懸念される(根室高校の模試の順位表をみてもその影響が読み取れる。英語の成績がいいのに、国語や数学の成績が振るわないグループが存在する。私の個人的経験では、東京で教えた帰国子女数人にそういう弊害が極端な形で現れていた)。
 小平や藤原によれば、小学生に英語を教える必要はない、子供の言語の発育段階を考慮すると小学生は日本語をしっかり学ぶべき時期だということになる。
 小学生に英語を教えてはいけないし、教える必要はないというのが彼らの意見だが、大きな副作用を覚悟の上でどうしても教えたい場合は、教える側に細心の注意が必要だということだろう。
 小学生時代は毎日のように英語の勉強時間を採って、健全な日本語能力を育むための読書時間や算数の基礎計算トレーニングの時間を減らすことがあってはいけないということだ。日本語の運用能力や数学の基礎能力に後遺症が出てしまう。

 文科省は小学校から英語を教えるという。4月から新しい学習指導要領を先行実施する意向のようだ。国語と算数の軽視はここにきわまれりと言っていい。泉下の小平は亡国の教育政策と嘆いている。

昔の小学校では修身、唱歌、体操を除くと、二年までは国語と算数以外は何もなく、図画が3年から、理科が4年から、地理と歴史は5年からであった。そして国語は1年のとき週10時間、2年から4年までは週12時間あった。」

 国語と算数を重視した戦前の教育スタイルが理想だと小平は語っているが、日本人は戦前や戦時中の軍国主義教育の弊害を排除するために、教育の大切な骨格まで破壊してしまった。小平ばかりでなく、藤原正彦も小学低学年で社会科を教える必要はなく、国語と算数の計算トレーニングに集中すべき時期だという。
 「国際人」となるためにも、日本の古典といわれる本をいくつも読んでおく必要があると藤原正彦は言う。彼らの付き合ってきた欧米人は教養のレベルが高い。そういう人たちは母国の伝統文化を理解していない人間を相手にしないという。相手にする価値もない教養のない人間とみなされてしまうのだそうだ

 源氏物語は読まなくても、夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、幸田露伴、永井荷風、泉鏡花、太宰治などの作品群は読んでおくべきだろう。読みやすい古典である『徒然草』が入門書として薦められる。世界最高水準の芸術書である世阿弥『風姿花伝』も大学生頃には読んでおきたい。日本の伝統文化である能の極意書だが、「国際人」の教養書としても欠かすことができないだろう。肉体の発達段階ごとの能のトレーニングの要諦、否、要諦を越えて極意が記されているから至高の教育書や芸術論として読めるし、人生訓や哲学書としても読める。
 小学生には読みやすい宮沢賢治の作品群がいい。健全な倫理観を育むために太宰治『走れメロス』や夏目漱石『坊ちゃん』はいい読み物だ。幸田露伴の『五重塔』は職人仕事を描いていい。中学生には職人仕事がどのようなものかを語る西岡常一『木のいのち木のこころ〈天〉』と、その弟子である小川三夫『木のいのち木のこころ〈地〉』も読ませたい本である。日本人の伝統文化を支える心意気の一端に触れることができる。思春期にこそ読むべきだ。こうした本を足がかりに、自分の進むべき道や職業について考えさせてみたい。
 とにかく、小中学校の時期にたくさん本を読ませるべきだ。それがその後のコヤシとなる。数学も、社会も理科も教科書は日本語で書かれている。だから日本語の読解能力は高いほど他の教科の成績によい影響が出るのはあたりまえのことだろう

 センター試験の委員を3年務めた佐藤恒雄は『佐藤の数学教科書シリーズ』を12冊出しているが、問題文の読解を強調して、高校数学の問題を500弱のパターンに分け、問題ごとにそのテクニックを解説している。センター試験においては問題文の理解が正解へ扉を開ける重要なファクターとなっている。テクニックの解説書特有の欠点もあることは注意しておかねばならないが、それでも「良書」に入れていい。独自の思想で高校数学をまとめ「数学教科書シリーズ」を著したユニークさを買う。

(高校数学全体の展望をえるためには、『数学読本(全6冊)』(松坂和夫著、岩波書店)がいい。様々な定理の解説や証明が丁寧になされているのはこのシリーズのみではないだろうか。数学の好きな高校生に薦めたい。いまなら入手できる。一時、どの巻か手に入らないことがあった。絶版になる前に買っておけ。全巻そろえると2万円に近い。もちろん社会人になっても使える。高校生が正月の小遣いを使って惜しくない本だろう。自分の能力を高める投資は身銭を切って積極的にすべきだ。ゲーム機を買うお金があったら、こういう本を高校生のうちに身銭を切って買う習慣をつけておきたい。そういう子供は必要な知識や思考の源泉である優良な本を自分の目で見て選び、身銭を切って買う大人になるだろう。繰り返しやることは習慣となり、いつか性格の一部を形成し、その人の運命を左右する。)

 小平邦彦は34年前、数学教育に強い疑問を呈している。その問題はいまもって当時のまま放置されている。

数学における技術では基本的なのは計算の技術であって、その基礎となるのが小学校の算数で学ぶ数の計算である。・・・小学校の算数で最も重要なのはこの計算の訓練である」(124ページ)
昔から読み書きそろばん、と言われているように、読み方、書き方、計算の仕方を教えるのが初等教育の基本である。」(同書125ページ)

 小平は初等数学教育での基礎計算トレーニングの重要性を強調している。他の箇所で、集合を小学校や中学校あるいは高校で教える必要はないと言っている。歴史的順序で数学を教えるべきで、論理的順序で教えるべきではないという。ユークリッド幾何学を中学校で十分に教えるべきで、そうすれば学問の体系である公理的構成も自然に理解できる。他の諸学、たとえば経済学の理解に不可欠だ。

 高校数学は2次関数も三角関数も指数関数も対数関数もベクトルも数列も微分積分も、計算力が要求される。基礎計算能力の高い生徒ほどテストの点数が高くなる傾向がある
 意外なようだが高校数学においてこそ基礎計算能力がものをいう。商工会議所珠算検定2級程度の技倆があれば、基礎計算能力において高校数学では圧倒的に有利だろう。受験数学には一定程度以上の計算速度と計算精度が要求されている

 ところが、全国44番目の北海道14支庁管内で最低の学力と公表された根室の中学1年生の40%近くが、小数の乗除算や分数計算が満足にできないそしてこの数年間で中学生の計算能力がさらに落ちている。原因の一つは小学校で基礎計算トレーニングに割いている時間が少ないからだろう

 家庭学習習慣をもたない子供が増えたことも原因の一つだ。根室市教委が全国学力テストと同時に実施されている学習状況に関するアンケート調査の結果を公表(2009年9月)した。その調査によれば、根室の中学三年生の5割はゲームやモバゲに代表されるインターネットの利用に毎日2時間以上も時間を奪われている。部活を6時までやり、二時間「ケイタイ」やパソコンにしがみついていたら勉強する時間がなくなるから学力が低下するのは当然だ。

(子供たちの生活習慣が崩れている。子供や孫をシツケできない両親・じっちゃん・ばあちゃんが増えている。50年前は戦後教育ではあったが、厳しくシツケる家庭が三分の一ほどはあった。いま、子供たちは甘やかされ放題だ。じっちゃんやばあちゃんはお金を持っている。要求されるままに何でも買い与えてしまい、我慢するということを教えない。
 戦後20年ほどは大半の家庭が貧乏だったから、親は子供に我慢をさせた。子供も我慢せざるを得なかった。そういう環境が「我慢のできる」「辛抱のできる」人間を育んだ。
 過剰な商品の氾濫、そして経済的な余裕の期間が続いたことで、大人すら「我慢力」や「辛抱力」を失ってしまった。入ったお金で生活するのではなく、カードで入るはずのお金を先に使ってしまう。収入の予定が狂うことはよくあることだ。お金は入ってから使うものだ、そういう正常な感覚がいまの若い人たちにはなくなっているようだ。
 子供の教育への投資よりも、来週の土日はどこへ何を買い物に行こうとか、どこへ遊びに行こうかと考えてしまう。10年20年先に家族がどうありたいかを考え、想像する力が失われている。過剰な商品に取り囲まれて我慢する力を大人も失ってしまっている。
 我慢のできる子供を育てるのがとても難しい環境の中にいることを自覚しないと、大きな流れに流されてしまう
 子育てをテレビやケイタイやゲーム機やパソコンに任せてはいけない。子供が欲しがるままにすべてを買い与えたら、その子供は確実に我慢や辛抱のできないダメ人間に育ってしまう家庭のシツケが人間の基本を作るのは昔も今も変わらない
 自分の子供を健全に育てたかったら、意識的に我慢させることだ。きびしくシツケるべきだ。シツケは漢字で書くと「躾」、身を美しくすると書く。躾されていないみったくない子供が増えた。これは私たち大人の責任である。
 社会人でもきちんと挨拶できない者がいる。そんな人は社会人として失格だ。教室へ入ってくるときに、「こんにちは」「こんばんわ」、出て行くときに「さようなら」と生徒は快活に挨拶する。挨拶は人間の基本だ、きちんと挨拶をしない生徒は退塾してもらうのが当塾の基本方針だが、今まで挨拶のできない生徒は一人もいなかった。だから、そう悲観したものでもない、毎日することを先ずきちんとすればいいのだ。それを繰り返すこと。勉強も、帰ってきたら他のことを後回しにして30分やってみること、それを毎日繰り返すと習慣となり、当たり前になる。努力せずとも帰ってくると自然に机に向かうようになっている。しまいには、勉強しないと気持ちが悪くなる、何かし忘れた感じがはっきり自覚できるようになる。それでいい。
 あなたの子供は他人の家に、友達の家に遊びに行ったときに、その家の親にきちんと挨拶をしているだろうか?していなければ、明日からさせればいい。そういう細やかなことをおろそかにしないことが躾の要諦だろう。)

 そろばん塾へ子供を通わせる親が激減したことも基礎計算能力の低下に影響しているようだ。日本の伝統文化の一つである珠算を小学校で教えなくなって久しい。基礎計算力は今後も落ち続けるだろう。

 小平邦彦の国語と数学教育への危惧は、残念ながら三十有余年を経て現実となりつつある。わが町だけの問題ではない。

 2009年3月28日 ebisu-blog#559

*5月3日blog#569『英語教育論:藤原正彦『国家の品格』より抜粋』
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2009-05-03-1


電子黒板は必要か? #744 Sep. 30, 2009 [57. 塾長の教育論]

 電子黒板を学校現場に導入するという、自民党政権末期のばらまき暫定予算が問題になっている。すでに導入を決めた地方自治体が補助金予算が打ち切られることで1億円程度の地元負担になってしまうというのだ。なぜやめられないのだろうと疑問がわく。それほど役所の予算は硬直化しているのかと驚く。民間では予算で決めてあっても売上が予定通り行かなければ経費予算のレビューは速やかに行われるのが常だ。

 そもそも1校に1台の導入ではどうやって使うのだろう?パソコンなどを置いてある教室に設置することになるだろう。電子黒板についているキャスターはやわだから、先生が自分の授業に使うために引っ張って歩いたら、壊れるのにそれほど時間がかからない。階段があったら一人で運ぶのは不可能だろう。
 だから、電子黒板は欧米式の学校のように、教科ごとに先生と教室が決まっている方式でないと使えない。クラスと教室が1対1である日本式では先生が移動するので、1校に1台電子黒板を配布すれば、先生が電子黒板を押して歩かざるをえない。そしてほとんどの学校には階段がある。黒板のスケジュール管理も必要になるだろう。一体どうやって使えというのだろう?
(市街化地域の小中6校には階段がある。しかし郡部の小中学校には階段がないし、学年1学級あるいは複学年制だから教室の数も少なく、意欲のある先生がいれば電子黒板を引っ張って歩くだろう)
 現場の事情を考えずに、暫定予算を組み、これ幸いと何でも予算をつけてしまった結果である。企画立案した者たちに「普通の想像力」が欠けているとしか思えない。具体的に物事を考えないとこういうことになる。

 全国で小6が44位、中3が42位、そして全道14支庁で最低となってしまっている根室の子供たちの学力を上げることにもまるで影響がないだろう。根室の子供たちの学力低下は、設備の問題でも1クラス辺りの生徒の人数の問題でもないからだ。児童人口が急減しているので、すでに1クラス30人以下の学級がほとんどだ。「塾長の教育論」で何度も繰り返してきたように原因は他にある。
 お金を使わずともできることはあるし、やるべきこともある。それは学校と家庭双方に言える。学力向上のためには、子供たちにかける大人の側の手間隙や躾けの問題が一番大きいと感じる。子育てや授業に手抜きが多すぎる。どうすれば良いかは何度も論じたので、興味のある人は「塾長の教育論」を閲覧されたい。
 
*電子黒板自体は便利なツールであろう。教科ごとに生徒が教室を移動する方式なら使える。そういう方式で運営できる学校は現場の先生の要求があればそろえればいい。
 既成のソフトに拘束されるという欠点はあるが、使う方が使い方を工夫すればいい。教師の側で自分が使いたい画像をパソコンを使って電子黒板に取り込めるようになっているとなおよい。インターネットで教科ごとに画像ライブラリーをオープンにしてあれば、先生たちが創意工夫できる。
 問題は、教科単位で生徒が移動するようなスタイルに学校運営を変更できるかどうかだ。そういう学校があっていいし、既存のスタイルの学校と学力テストデータを継時的に比べることで、効果のほどを検証して情報を公開すればいい


#739 なるほど、そういう手があったか〔英検2次試験攻略法〕 Spt. 25, 2009 [57. 塾長の教育論]

なるほど、そういう手があったか〔英検2次試験攻略法〕 
                        #739 Spt. 25, 2009
 根室ではまだTOEICが実施されていない。札幌がもう5年以上も前だったか、釧路が昨年だったかな。早く根室高校で実施してもらいたいものだ。企業が求めているのは文部科学省が見限り、補助金をやめた英検ではなく、ビジネス実用英語の能力を測るグローバルスタンダードのTOEICである。管理職への登用資格のひとつにTOEICのスコアを指定する企業も増えた。
 学校学習英語および受験英語に偏った英検2級くらいでは実務上使い物にならないのが民間企業の現実だ。かといって、英検1級は難易度が格段に上がり、合格が難しい。高校生は受験英語が当面の攻略目標だから、英検2級に合格してから大学でTOEICを受験するというのはひとつの選択肢だ。もちろん、そういうものは棄てて、自分の学習動機に忠実に英語にのめりこむ選択肢もある。それは別の機会に採り上げることになるだろう。

 さて、現実に根室では英検しか受験できないので、生徒が準2級や2級の受験を希望する場合がある。困るのは二次試験対策である。「質問で聞き取れなかった場合など自然な流れの中で行われた聞き返しなら減点にならない」と英検のホームページの解説にあるので、その技の有無が合否を分けることがある。
 (英検のホームページのバーチャル2次試験画面「パッセージへの質問」に注意書きがある。http://www.eiken.or.jp/eikentimes/virtual/eiken_2/index.html
 Hirosukeさんが2次試験対策の「裏技」を具体的に提示してくれている。以下、Hirosukeさんのブログからの引用である。

最近教え始めた高校生がうれしい報告をしてくれました。
「英検準2級、合格しました!」

この子、準2級を受けたのはこれで3回目だとか。
過去全部、1次試験で不合格。

今回初めて1次合格。
「2次試験、明日なんです」なんて日に、大慌てで2次対策。
なにぶん、不規則変化動詞もまともに言えない子なので、まっとうな方法は通用しません。

其の一
「わからなければ相手に聞け!」
Excuse me, but how do you pronounce this word?

其の二
「2度目以降は別表現でお願いしろ!」
Excuse me, again. I don't know this word, either. Please tell me.
What did you say? Will you say it again more slowly, please?

其の三
「質問の答えは、本文をそのまま抜き出して読め!」

其の四
「答えにつまったら、英語で言い訳しろ!」
I've got your question, but I don't know what to say. I'm sorry.

はい、これで「なんちゃって準2級」の出来上がりです。

「ごまかし」じゃないかって?いいえ!

英語がわからなくても、わからないなりに通じ合える、実用的なテクニックなんです。

もう一度、書いておきますね。

「わからなければ相手に聞け!」

「2度目以降は別表現でお願いしろ!」

「答えにつまったら、英語で言い訳しろ!」

言い訳表現を列挙しておきます。

Excuse me, but what did you say?
※※※?
  (← 聞こえた通りに言ってみる)         

Will you say it again more slowly, please?                              

I don't know the word  “※※※”.
What does it mean?
Please tell me.

I understood your question and I have an idea, but I cannot say it in English now.  May I e-mail it to you later? 

これぞ本当の意味での「とっさの一言」です。
憶えておいて損はないですよ。
ご自分のビジネスシーンにあった言い訳表現を考えておくのもいいですね。

 
 HirosukeさんのブログのURLを書いておくので、ドーンと読むべし。
 click here⇒http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/2006-08-07
 

 英語の学習の仕方は個人によってさまざまである。個人的な体験をあまりに絶対視してはいけないと思う。
  しかし、彼のブログは英語を学ぶ上で大事なことがたくさん書かれている。英語学習法という観点から評価した場合に、個別的経験を超えて普遍的な地平にその視線が届いていると感じる。私は彼とは違う動機と方法で英語を学習し、たまたま企業でその技を使って仕事をする機会があった。しかし、専門書を読むことからスタートした私の学習法は、Hirosukeさんと行き着く先が同じかもしれないが、方法論が一般的とは言いがたい。
 Hirosukeさんの英語学習法は体験を通して磨いた技が多いから、いままでの学習法でうまくいかない場合は、音読中心のHirosuke式トレーニング法を真似をしてみることだ。無心に真似をすることはすぐれた勉強法の一つだ。URLをクリックして彼のブログの中から興味のあるテーマを片っ端から読んでみるといい、そして言うことに納得がいったら真似てみる。
 万人に向くオールマイティな英語学習法はないのだと思う。動機がことなれば学習法も違ってくる。自分に合った方法を見つけることだ。見つけたらひたすらやる、渾身の力で一心にやる。
 

 *英検の二次試験を疑似体験したい人はこのURLをクリック!
 http://www.eiken.or.jp/eikentimes/virtual/index.html
  
  *9月27日追加。Hirosukeさんからコメントがあったので参考まで・・・アンダーラインは私がつけました。

It's not a trick. It's one of strategies to take an oral test. No matter what the test is, 英検, TOEIC or TOEFL, we should know that our examiners DON'T care what we are taking about. They only care how fluent we can speak, so when we don't have anything on-topic, just say "Sorry, my mind is blank now, let me think...um...well, I think..." etc. You won't get full score but won't lose full score either.

Another thing, we could make up a story that we feel easy to take about if we are asked our opinion. (In other words, tell a lie lol) They totally don't care what we are talking is ture or fake. Just make it up! The worst thing on oral test is silence. we need to know several ways to avoid it, and these are just some of them.
by CAT (2008-09-14 11:05) 

*「CATさんからのメール」 これを読むと英語でコミュニケーションしたくなる。
 http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/2008-11-08-5


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