#1379 読解力 (1) Feb.15, 2011 [57. 塾長の教育論]
文章を書くことの前に読むことがある。大量のインプットとその後のアウトプット、当然の順序だろう。まれに少ないインプットで良質の文章を書きうる人もいるが、多くはそうではない、インプットが先だ。
読みの深さは人によってさまざまであるから大まかに4段階に分けてみる。私の便宜的な分類に過ぎないことはあらかじめお断りしておこう。
レベル1:文章が正確に読めない段階である。日本語の語彙が不足しているし、音読させても初見のものは「てにをは」を1ページにつき5箇所前後読み間違える。もちろん書いてあることの意味を頻繁に取り違える。中学1年生にこういう生徒が10%程度はいるのではないだろうか。
レベル2:段落ごとの文意はだいたい正確に読み取れる。高校の現代国語70~80点レベルだろうか。だが、書き手の考えを無批判に取り込んでしまう傾向がある。読んでいる本の種類も数も極めて限定されており、「視野狭窄」の状態にある。「思想的無菌状態」にあり、カルトにかぶれやすい。理系出身者がオーム真理教にかぶれてしまったのは、こういう状態にあったからだろう。いろんな種類の思想傾向の本を読んでいないから、相対的な思考ができなくなり、教祖を絶対視してしまうのだろう。既存の諸宗教教団や共産党にもそうした傾向はある。党の出版物しか読まない人は自らを洗脳して、抜け出すことができない。相対的な思考がいちじるしく妨げられる檻に自らを閉じ込めてしまう。
レベル3:文章を批判的に読むことができるようになる。自分の中に他者の考えを共存させて、自己の考えと対比できる。批判的読書の可能な段階である。
レベル4:文章の奥に潜む筆者の考えを適確に捉えられる段階である。本質的なものを嗅ぎ分ける能力が芽生える。枝葉と本質的なものの区別がつく段階であり、ある著者が書いたテーマAの本を読んで、別のテーマの本の見出しを見てほぼ適確にその内容が類推できる程度に理解が深まる。
眼耳鼻舌身意を六識といい、第七識を末那識、第八識を阿頼耶識というようだが、その識と読解力が関係しているようである。数学者の岡潔は第15識まで区別できるといい、さらに識は奥がもっとありそうなことを示唆している。六識まではわかるがその先はまるでわからぬ。
自我が強いと文意を読み違えることがあるのは要注意だ。自我は暴れ馬であり、制御していないと暴れだしてしまう。
真我の人は文章の読みの深さが違うようだ。"ようだ"というのは(理屈は)よくわからないからであり、(直感的には)よくわかるからである。たいていの人(たとえば私)はたまに自我を消し去ることができるのみ。
数学者の岡潔は「無明の鋭い形式の現れ方が本能である。私には自我本能がその根本であるように思われる」(p.57)と『日本の国という水槽の水の入れ替え方』に書いている。「平等性智は光、自他弁別本能は闇である」とも記し、自他弁別本能を大脳前頭葉で制御すべきと説き、「自他弁別本能を抑止しなければ心眼は開かない」(P.91)とまで書いている。
「売り手よし、買い手よし」だけではダメで、「世間よし」が付け加わるが、これは自我本能の抑止であろう。
人間は自他弁別本能のままに振舞ってはいけない。自分の心お置き所をどうするかで、読解力も違ってくる。同じ文章を読んでも見えてくるものがまるでちがってくるのだ。こんなことは、高校の現代国語では教えてくれない、だからわたしはブログで書く。高校生や大学生になった君たちに伝えたいから。
思春期のうちにある程度の量、いろいろな思想傾向の本を読んだほうがいい。
音読授業で読んだ『読書力』斉藤孝、『国家の品格』藤原正彦、『風姿花伝』世阿弥・林望を何度も読み返して欲しい。見えるもの、見える世界が違っていたら、君たちが成長した証だ。
*#1213 数学者岡潔(1):『日本という水槽の水の入れ替え方―憂国の随筆集』
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2010-09-20
#1296 中3期末テスト社会補習3回の効果:平均21点アップ Dec.3, 2010 [57. 塾長の教育論]
生徒の自立的な学習がニムオロ塾の究極の目標だから、一人の生徒に5科目全教科を教える必要はないという信念がある。塾が丸がかえしてしまっては、自分で考えるチャンスを奪うことにもなる。長い目で見ればそういう学習習慣は社会人となってから副作用が出る。
社会人となったときには必要な専門分野の勉強はしばしば自分ひとりでやらねばならない。仕事で何か課題にチャレンジしようと思ったら独力で何ヶ月も考え続けなければいけないことがある。それができるかできないかはしばしば人生の分岐点となる。
会社人間であった期間が長いのでその経験がニムオロ塾の教育方針に反映していると思っていただいて結構だ。
基本的には塾でやるのは数英の2科目だけで十分、あとの3科目は自分でやる、そういうスタンスがニムオロ塾の方針だ。塾に依存する生徒を育てるつもりはない。
理想的には学習塾では科目を選んで2~3科目学べばいい。
数英2科目は一見して性質が異なり勉強のスタイルに違いはあるが、勉強の方法は共通点も多い。この2科目のスタイルの違いと共通点が分かった生徒は強い。性質の異なる2科目がバランスよく得意科目になる。数学と英語がきっちりやれるようになればその勉強法は他の科目に応用も利く。基本はそういうことだ。
しかし全員がそれだけで他の科目の点数を自力で上げられるわけではない。社会科独特の勉強法もあるからだ。補習授業でそのあたりのノウハウを公開しながら自分に合った勉強法開発のヒントを与えることも時に必要となる。教育は授業を通じて「技の伝授」も大事なことである。
原則は原則、ときに臨機応変にやらねばならぬこともある。
3回だけ社会の土曜日補習で期末テスト範囲をやったらB中学の7人全員が中間テストよりも点数がアップした。平均で21点アップ。
社会科の勉強の仕方がわからないという生徒が三人に一人くらいの割合でいる。こちらからみても数英だけでは心配な生徒がたしかにいるので5科目合計点をアップし学年順位を上げるために「保険」のつもりで3回だけ社会科の補習授業をやってみたのだが、案外効果があった。生徒の士気が高いときに補習をやれば効果も大きくなるのだろう。
社会科と同じとは行かないが数学や英語も個別補習あるいは習熟度別補習の効果は大きいから、ぜひ学校でもやってもらいたい。とくに中3はブカツも「引退」しているから、高校へ入る前に分数や小数の四則演算にまごつく生徒や方程式がスピーディに解けない生徒は放課後補習で徹底的にトレーニングして欲しい。
中学を卒業するときに分数や小数の四則演算がスピーディにできるという能力を保障することは義務教育を受け持つ先生たちの責任だろう。おおよそ半数の生徒が対象となるだろう。
ここをおろそかにしていると高校数学が学びきれない。
今日、根室高校1年生普通科は数学の後期中間テストがあったが、2次関数の問題を全部解ききれた生徒は10%いるだろうか?80%は時間が足りずに四苦八苦しただろう。
内容の基礎的理解と計算速度が勝負を決めるから、どちらもおろそかにできない。高校入学前に十分な計算スピードを身につけておくべきだ。
#1281 長谷川智也君:16歳の高校2年生が公認会計士2次試験に合格 Nov. 17, 2010 [57. 塾長の教育論]
普通に高校へ通学したら合格はできない、1日10時間前後の受験勉強を2年間継続しなけらばならないからだ。だから通信高校を選んだのだろう。
それにしてもずいぶん思い切った選択だ。ナンバーワンの進学校へも行けただろうに、それを捨てて公認会計士受験一本にしぼる。
釧路のZAPPER先生とつい先ごろ、お互いのコメント欄で会話した。高校入学時に80%以上の得点で合格し、1日8時間以上の勉強を2週間以上繰り返し勉強したものは、その後どのような国家試験にもチャレンジ可能だという「假説」である。意見が一致した。
公認会計士試験は昔は3%程度の合格率しかなかったが、司法試験が合格者を増やすために簡単になったので、公認会計士試験も合格者数を増やすために試験が簡単になった。それでも8%の合格率の難関である。
進学校への進学を捨てたところに、この青年のすごさを感じた。捨てるかどうかはひとえに本人の決断にかかっている。これほどの決断を15歳のときにしたというのがすごい。
*読売オンラインニュース「夢中で勉強・・・公認会計士最年少で合格の長谷川さん」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20101115-OYT1T00840.htm?from=y10
#1141 ブカツ指導について Aug. 1, 2010 [57. 塾長の教育論]
久々の塾長の教育論、採り上げるテーマは「ブカツ指導」である。
根室の小中学校はブカツがとても盛んである。そして普段でも6時半までのところが多く、休日ともなると「ニブレン」と称して5時間のトレーニングに励む。
時間がやたら長い。長時間のブカツが意味のない、副作用の大きなものであることに、指導している人たちがまったく気がついていないように見える。論議の材料を投げるから、一度冷静に考えてもらいたい。
反論の自由は保障するので、異論のある人はコメント欄へ書きこまれよ。
昨夜書いたブログ#1140で柏陵中学校の吹奏楽部の金賞受賞と全道大会出場を伝えた。彼女たちが急成長したのは、いたずらに長い時間を費やしたからではない。技術が上の市民バンドや自衛隊のバンドに教えを請うたからだろう。彼女たちは習ったとおりに練習を繰り返して技術を修得した。自信に満ちた声で「先生、金賞とってくるからね」と三人がそれぞれに言い切った。技術が上がったことを実感できたからこそ言いえたのだろう。裏付けのある自信は好結果を生む。
昔の話である。根室高校に明大ラグビー部で選手をしていた先生が赴任してきた。チャンスと思った生徒数人がラグビー同好会をつくった。もちろん当時私も協力した。1年の同好会活動のあとすぐにクラブに昇格させてやると友人に約束してけしかけた。そしてその通りに実行した。
顧問となったM先生(あだ名は「ドモヤス」(テレビの人気番組からの命名)、新卒で赴任してきたいい先生だった)は明大のメニューを高校生の体力に合わせてほとんどそのままやったのだろう。またたくまに強豪校へ駆け上ってしまった。大学ラグビー強豪校の選手経験者がブカツ顧問になるとあっという間に強いチームが出来上がる。
では、中学時代しかブカツ経験のない者が中学のブカツを指導するとどうなるか。技術的には生徒とドングリの背比べの域を出ない。頭の使い方を知らない顧問がいい成果を出そうとすれば、長時間練習させるしか手がない。これは指導理論を無視したあきれた指導法で、「指導」とすらいえない代物だろう。根室のブカツの実態はほとんどがこれ。やった経験のないブカツ顧問を引き受けて途方にくれている顧問もいるだろう。
【ブカツ後遺症は社会人になってから出る】
長時間の効果の低い練習は後遺症がある。社会人になっても、困ると効果のほとんどないトレーニングをしようとする。ただ意味なく頑張るだけ。しかも効果はない。
頭を使わないトレーニングを繰り返したために、それが習慣になって、しまいには個人の性格にまでなってしまったからだ。
こういう人間ばかりを社員で雇った会社は伸びないどころか、民間会社なら早晩つぶれる。民間会社では要らない人材である。
なんということだろう、一生懸命にやった結果がとんでもないことになる。毎日繰り返すことをおろそかにしてはいけない。それが習慣になり性格を創りあげてしまうからだ。タバコを考えても悪い生活習慣をやめることはなかなかできないものだ。ましてや性格にまでなったものを変えることはほとんど不可能である。よほどのきっかけやショックがない限り改めることができない。
【経験のない先生にできること】
高校、大学でのブカツの経験のない先生が顧問をするとできることは限られる。自分で技術指導できなければ外部の指導者との交流機会をつくることだ。柏陵中吹奏楽部がやったように。市民バンドや自衛隊のバンドとの交流機会をセッティングすればいい。彼らが短い時間で効果的な技術指導をしてくれる。あとは指導されたとおりに、熱心に繰り返し練習をすれば、演奏技術は上がる。
根高女子バレー部が小樽へ合宿に行く。全道から10校100人余が集まり、試合やバレー教室を開くという。根室からは部員7名の参加だ。普段は2チームに分かれて試合形式の練習すらできない。生徒数減小は高校のブカツにも影響している(小中学校はもっと深刻だから市教委は学校統廃合を急ぐべきだ)。
先輩の誰が企画して始めたのか、あるいは顧問の先生の企画だろうか?おそらく効果が高い。
運動や演奏はきちんとした指導理論で導けば、思春期=成長期の子供たちの能力は飛躍的に伸びる。大人はそういう機会を提供すればいい。経験のないブカツを担当する先生に求められているのはマネジメント能力である。それだけでも立派な指導者として十分やっていける。
優秀な先生は経験がなくても、マネジメントをしっかりやり、短い時間で子供たちの能力を適確に伸ばす。そういう指導法を経験した子供たちは、頭を使ってマネジメントすることの大切さを自然に身につけてしまうだろう。大人になっても何か格段に飛躍する必要のあるときには、ブカツの経験が役に立つことになる。優秀な管理職や役員あるいは経営者に育つ。
経験のない先生だからこそ工夫の余地が生まれる。その工夫を通して子供たちに伝えられることがある。仕事のマネジメントの大切さを身をもって教えられるだろう。先生のそういう後姿から子供たちは多くのことを学ぶだろう。
【指導理論と技術】
指導理論や指導技術は選手経験のある者ならだれでもあるわけではない。まったく別だ。そういうことを意識してトレーニングしてきた小数の選手は独自のトレーニング理論をもっているものだ。3年間そういう人がブカツ顧問を担当すると子供たちの技術は飛躍的に高まる。全道でトップレベルなどオチャノコサイサイだろう。
わたしはビリヤードのキャロムゲームに関しては国内トッププロの指導技術を知っている。もし、ビリヤードの国体があると仮定すれば、わたしは3年で国体出場チームを育てることができる。生徒の素質もあるから、素質のよい生徒に恵まれれば5年で全国優勝を狙えるチームに鍛え上げることができるだろう。
世界アーティスティック・ビリヤード銀メダルの町田正を育てたお父さんに少しの間、セミプロクラスのトレーニングをしてもらったことがある。スリークッション・世界チャンピオンの小林先生にもノートに図面を描いて、疑問だった点をいくつか教えていただいた。昭和天皇のビリヤード・コーチだった吉岡先生の技術も目の前で何度も見る機会があった。
町田先生や小林先生に教えていただいたことをまとめた研究ノートがある。町田先生のトレーニングメニューは非常にすぐれたものだ。これらをまとめたトレーニング・ノートにある通り練習を積めばアマチュア・チャンピオンクラスの技術は修得できるだろう。
【効果の薄いトレーニングの後遺症は大】
運動の指導は指導理論の裏付けと経験がモノをいう世界だ。3年あれば結果は天と地ほども差が出る。むやみに長時間効果の薄いトレーニングを経験した生徒たちは、社会人になっても同じコトを繰り返す。仕事でそういうことを無意識にやってしまう。長時間のサービス残業を強要するような管理職、役員、経営者に見事に育つのである。
指導理論がわからないとか、経験がないときは外部の指導者を利用すればいい。無理をしてはいけない。技術が格段に上のグループとの交流機会をセッティングすればいい。それがブカツのマネジメントというものだ。
重要なことだから繰り返そう。ブカツ顧問の先生たちは、生徒にやたら長時間のトレーニングを強いてはいけない。そんなことをブカツで繰り返したらしたら、習慣となり、性格になってしまう。それは「教育」でもないし「指導」でもない。悪習慣を植え付けただけの結果に終わる。社会人になってからとんでもない後遺症が現れることまでよく考えてほしい。
【余談】
実は勉強の仕方にも似たようなことが言える。頭を使わない覚えるだけの受験勉強、パターン学習に過度に傾いた学習法は、悪習慣を植え付けるレベルの低いブカツよりもひどい後遺症が社会人になってから現れる。受験に成功した者ほど、そして「発症」が遅い者ほど重症となり、ときに精神疾患や自殺を引き起こしてしまう。
短いスパンでしか生徒を見ていないとこうした傾向に気がつくことはない。つまり学校の先生のほとんどがこうしたことに気がついていない。予告編?いや、このテーマについては何度か書いている。
ニムオロ塾ではこうした後遺症のでない勉強の仕方をさせている。ナマ授業、対話重視の指導にこだわるのはこうした後遺症を防ぐためである。手軽で便利なツールを使う指導法ほど危うい。格好をつけて言えば「企業戦士」としての二十数年の経験からの結論である。
*当ブログデータ
7月末(979日)、累計アクセス数367,220、7月アクセス数28,687。
#1093 テストの花道:勉強の仕方 July 3, 2010 [57. 塾長の教育論]
土曜日は「テストの花道」の再放送日だ。今日は勉強の仕方の一つ、「比較」を採り上げていた。フィッシュ・ボーン・チャート、ブレーン・ストーミング、KJ法などの亜流と思われるような勉強テクニックを紹介していた。これらは一般的な「問題分析法」や「問題解決法」に属するものだろう。
「テストの花道」は勉強の仕方がわからなく悩む高校生にこうした勉強テクニックを「マニュアル化」して紹介する番組である。
【8時間の勉強は学習スタイルの鋳型をつくる】
大学生が数人サポート役に回って参考意見を述べていた。夏休みには毎日6~8時間勉強をやるという。
ここで気がついた。高校生時代の勉強の仕方がその後の学習スタイルの鋳型になるのではないかという假説だ。
受験勉強は答えのある勉強である。効率的にやることを教師も求めるし、生徒もそうありたいと効率的な勉強の仕方を探す。
受験生はしばしばそういう落とし穴にはまる。明治大学教授の斉藤孝の勉強法がそういう学習スタイルの典型かもしれない。難しい問題はとにかく答えをみて解き方を覚えてしまうというスタイルである。これは斉藤氏に限ったことではなく、多くの受験生が採っている学習法だろう。
ちょっと考えてみてほしい、この方法は難問題を数日考え続けるチャンスを端から棄てているのである、もったいないとは思わないか?いずれ現実社会へ出て行けば、正解のない難問題にたくさん遭遇するから、難問題を抱えて何日も考え続けることはいわば社会人になったときの「準備運動」や「基本技のトレーニング」のようなものだ。
すっかりマニュアル化された勉強スタイルが身についた者は、社会人になってから沈没する。マニュアル化された方法論では現実の問題の解決案は出てこないからだ。他人とは違った視点から物事を眺め考え続けることからしか解決案は出てこない。
多くの受験エリートが社会人になって管理職になったときに、自分で目標設定や課題設定ができなかったり、設定された目標がクリアできなくてノイローゼになる。それは受験勉強でつくり上げてしまった学習スタイルの「鋳型」に起因するのではないだろうか?
大学時代や大学院のときの一つ先輩・友人・同期・後輩のうち8名ほどが大学に残っているが、どの人も大学受験でこうした勉強スタイルを採らなかったのではないかと思う。大学生になってから本を読むうちに、なにか問題意識が芽生え、猛烈な勉強を開始したのではないだろうか。困難な問題を考え抜くという「鋳型」は大学に入ってからつくり上げたようにみえる。
受験勉強でマニュアル化された解法を身につけるのは危険なことなのだ。せいぜい中学生まででやめておいたほうがよい。高校生の時期からは学習スタイルを変えるべきだと思う。パターン学習などはほどほどにしておいたほうがいい、それを徹底するのはもってのほかである。考え抜く習慣を育むような学習スタイルに意識的に切り換えるべきだ。
【岡潔の学習スタイル】
大数学者の岡潔は、学生時代(旧制中学)だったと思うが、数学の問題は難問から解いたと自著で語っている。もちろん、その問題1題しか手がつけられず時間切れのこともあったようだ。それでも自分のスタイルを崩さない強さがある。
岡潔の学習スタイルとテストの花道で紹介された受験テクニックを比較すると面白いことがわかる。今日再放送された「テストの花道」では、現役大学生5人ばかりが標準問題は何かと検討をつけ、その上で難問題は避けると話していた。
受験勉強のテクニックとしてはたいへん有効な方法だろうが、そういうイージーなやり方をテストのたびに続けていると、それが習慣になる。習慣はいつか癖になり、性格を形作る。大人になったときには難しい問題は避けて通るような性格の人間になっている。民間会社で一番不要な性格の人間である。
難問題を飽くことなく自分の頭で考え続け、解決案を見出すような人材こそがどの分野でも求められているのだが、受験勉強を効率的にやった人間ほどそれとは正反対の学習スタイルが鋳型として定着してしまっていて、使い物にならないという現実が理解できるだろう。
【私自身の経験】
手前味噌になり恐縮だが、わたしの学習スタイルは高校時代にその「鋳型」ができたように思える。家業を毎日数時間手伝っていたので普段はあまり学習に時間が割けなかった。その反動で夏・冬・春休みは2週間毎日十数時間の勉強をした。頭の回転がなかなか止められなくなるところまで勉強した。頭は面白いもので刺激になるような材料を放り込めば放り込むほど消化力が巨大化していき、しまいには自分のコントロール外になる。たぶん、思春期特有の異常な集中力のなせる業なのだろうが、そのまま続けたら、戻ってこれなくなる。布団の中に入っても頭は思考を停止せず、暴走が始まってしまい、勝手に考え続ける。ガス欠するまで暴走は続き、疲れ切って空が明るくなってからでないと寝付けなくなる。学習効率はよくなるが、暴走する頭脳はその人を一時期は狂人にするに違いない。わたしには2週間が限度だった。そこでいったん小休止しクールダウンだ。
こうした集中学習に伴う危険は集中力が爆発的に強くなる思春期特有の現象だったのかもしれない。のちに、ヨーガの座禅・瞑想と呼吸のコントロールで頭の暴走が止められるようになってからは2週間の制限がなくなった。たいしてよくない頭でも何日も考え続けるパワーがあれば、研究も会社経営上の問題も統合システム開発も、大概のことはなんとか解決案が出てくるものである。
高校2年生から、公認会計士2次試験受験参考書を使って勉強していた。近代経済学とバランスをとるかのようにマルクス『資本論』やヘーゲルの著作を読み漁った。ニーチェやハイデッカーもさっぱりわからなかったがこの時期に目を通した。時折、わずか数行が理解できなくて何日も考え続けることがあった。頭の中に文章を暗記して繰り返し思い出して考えるスタイルは、いつでもどこでも、寸暇を利用して考えを深化できるので、便利な学習スタイルだった。暗記しようと思わなくても理解できないところが頭の中に鮮明に残ってしまう。
たとえば、数学の問題は問題を暗記して繰り返し頭の中に再現するうちに解決法が見つかることが多い。公認会計士の受験勉強も高校生にとってはそういう学習スタイルを採らざるを得ない領域だった。わからない文章にぶつかると頭の中で何度でも反芻する。そうしているうちにわけがわかってくる。
ベッドの中でも目をつぶって問題を思い出してそれまでの思考をトレースしたり、それまでの思考過程を遮断してあらたな角度から眺めたりすることは、実社会での問題解決に大きな効力をもたらした。
高校時代は実に非効率で回り道の多い学習スタイルを続けていたことになる。受験は失敗したが、それと引き換えに社会人や研究者となったときに効果を発揮することになる「鋳型」をつくり上げることができた。
受験勉強はほったらかしで、公認会計士の受験参考書や経済学や哲学の専門書を読み漁っていた。わからない問題にぶつかるとどうにも思考や読書が止まらなくなるのだ。「鋳型」は性格の一部にすらなっていた。
【学習スタイルは個人の人生選択に関わる問題】
どういうスタイルがいいのかそれはその人自身の選択である。どういうふうに自分をつくり上げるのか、どういう理想像に向かって自己形成するのかという問題が、高校時代の8時間を超える勉強スタイルの中に存在する。
研究者になるつもりがあるのなら、効率的なマニュアル化された普通の受験勉強はしてはならない。研究者としては致命的な瑕を負うことになりかねないからだ。
民間会社でサラリーマンとして生き抜いていくという場合も、マニュアル化された学習スタイルは薦められない。
どのような職業を選び、どのような生き方をするのか、そういう人生にとって重大な選択が、高校時代に培う学習スタイルに潜んでいる。
社会人になってからでは遅い、たくさんの新入社員や同僚をみてきたからこそ、「鋳型」を作る時期の高校生に生まれ故郷の根室で教えてみたいと思った。
一ツ橋や東大に入学できても、マニュアル化された受験勉強にどっぷりつかってしまったら、将来はないだろう、アウトである。出来上がってしまった「鋳型」はほとんど作り直せないものらしい。管理職になり、部下と仕事を任されたら、あるいは経営を任されたときに「鋳型」の欠点が露呈することになる。
黒を白と言い訳に終始する者あり、部下に責任を擦り付ける者あり、任された仕事ができずにノイローゼになる者ありと、屍累々である。それが現実である。
「学問に王道なし」、マニュアル化された受験勉強という安易な方法を選ぶ者には20年後30年後の大事な時期に厳しい現実が待っていることを知るべきだ。マニュアル化された勉強法に寄りかかる者は、鋳型=自己形成の基礎を作るべき時期に怠けたことになる。大工なら新聞も読まずテレビも見ずにひたすら鉋の刃を研ぐ修行の時期のそれを怠るようなものである。高校生は人生の修行時代、つくづくゴマカシは利かないものだと思う。
中高生の勉強の仕方(1) #970 Mar.24, 2010 [57. 塾長の教育論]
学習の仕方は10人いれば10通りあるのかもしれない。いろいろな考えややり方があってよいから、私は私の信ずるところを書こうと思うので、読者は批判的に読まれたい。正反対の意見すらありうるだろう。
何がよくて何が悪いのかは、どういう視点から物事を見ているかに左右されるものだ。まず、悪い勉強法を挙げて、次いでその理由を明らかにしたい。そうすればいい勉強法は自ずと浮かび上がるだろう。
(1)内的自発性に基づかない勉強はまずい
小学生は別だ。小学生はシツケ段階にあるから、無理やりでも低学年のうちに家庭学習習慣を躾けたい。
しかし、中高生には必要ない。自主的な学習機会を奪うからである。この切り替えの時期の対処がむずかしい。児童書から文庫本や新書版の本への切り替えが、好奇心や特定の問題意識の育成の役立つ。子どもの勉強が、オトナの勉強へと飛躍する時期でもある。すさまじい勢いで精神的な成長を遂げる者がいる。
中高生の 時期の学習は内的自発性に基づいてなされるのをもって最上とする。なぜか?大学生になったら一つの科目は週に1度だけ授業がなされる。まれに週2回のものもあるがほとんどが1回90分授業で、1週間経てばほとんど忘れてしまうから、自分で予習・復習して、問題意識を育てる工夫が要る。
中高生のときに、こういう習慣のない生徒は大学生になってもものにはならない。もちろん社会人になっても同じことだ。受験勉強をどれほどやろうとも、ダメだ。それでも100%とは言わない、世の中にはまれな例外がつねにあるからだ。
逆に「パターン練習主体の覚える勉強法(多くの受験勉強がこういうやり方をしている)」は社会人になってからのダメージが大きい。下手な受験勉強のやり方をするとその量に比例して社会人になってからダメージの現れ方も大きくなる。30代ならまだしも50過ぎてから受験勉強の強烈なダメージでノイローゼになる者すらいる。頭を使わない記憶中心のパターン学習はそれほど深刻な副作用をともなう学習法なのである。ほどほどなら薬になることも、過ぎると毒薬だ。自分の子供にそういうリスクを背負わせるような学習をさせたい親は一人もいないと思うが、現実はそれと気づかずにやらせている。
根室高校は毎週数学と英語の宿題を生徒に課している。これは進学実績を上げるには効果的ではあるが、生徒が自ら勉強する機会を奪うことにもなる。こういうことに慣れてしまった生徒は大学へ進学してからがたいへんだ。大学では基本的に宿題がないし「進学講習」もないから、いままでの宿題を消化するだけの勉強の方法は通用しない。自分で予習をしていかないといけないが、高校で3年間やっていないことはできないのである。
中高生のときに繰り返したことは習慣となり、性格の一部と化しているから、容易に直るものではない。酒やタバコ、パチンコやゲームなど習慣となってしまったものの軌道修正は容易なことではないから、ほとんどの生徒が繰り返したことが習慣となり、性格となって社会人となる。いったいどういう社会人になるのだろう?
典型的な指示待ち人間が出来上がる。自ら目標を設定して自力で考える習慣を育まなかった者は社会人となっても自ら課題を見つけ、解決していくタイプの人間にはほとんどならない。
社会人となれば、毎週講義があるわけではないし、授業はないのが基本である。そうした機会を見つけてもせいぜい月に一度くらい社内講習会や外部講習会に参加できれば環境としては恵まれているほうだろう。だから、仕事に必要な技術や知識は自ら目標を立てて学習するしかない。
仕事に関係のある分野を、目標を設定して独力で学習する者は中高生の時代にもそうした勉強の仕方をしているものだ。だから、中高生時代の学習習慣が大切なのだ。
塾はどうだろう?塾で多数の科目を習い、テストの前にはテスト対策漬けにするような学習の仕方をすれば、生徒は「近道反応」があたりまえの人間に育つ。
塾で教えるのはせいぜい2科目、国・数・英だけで十分だ。3科目の中から2科目選ばせればいい。あとの科目は自分で勉強すべきだ。
英数はタイプが違うから、この両方がバランスよくできる生徒は他の科目の勉強の仕方もだいたい心配ない。数・英の勉強法が応用できるからだろう。
何もかもお膳立てして点数を追いかけさせてしまえば、そういう人間に育つ。テストがあればテスト対策、そういう学習を繰り返させてはいけない。繰り返すことは習慣になり、知らない間にそういう性格ができあがる。だから、テストがあろうがなかろうが坦々と自ら立てたスケジュールで勉強すればいい。そうすればしっかりした人間ができあがる。
「教科書リーダー」を使った学習も避けたい学習方法である。昔は「虎の巻」と言った。成績のよい生徒がこれを使っているのをほとんどみたことがない。反対に成績の悪い生徒には必携本であった。あなたは成績のよい生徒が教科書リーダを使っているのを見たことがあるだろうか?
教科書リーダーは便利がよすぎて自分で調べたりする余地がない、それだけで完結してしまうことがいけない。興味が外側に広がっていかないのだ。こういうものは自分で調べて工夫して作るものだ。出来上がったときにはもうほとんど覚えている。勉強法に関しては便利なものほど副作用も大きいから要注意だろう。これも絶対にだめとは言わない。まるでわからない生徒には便利な本であることは間違いない。なるべくならよした方がいいというだけである。
絶対にやってほしいこともある。小学生低学年は徹底的に家庭学習習慣をシツケるべきだ。箸のもち方、鉛筆のもち方、勉強姿勢は学校では教えないから家庭の責任で一切の妥協を排して躾ける。姿勢が悪いと集中力が著しく落ちてしまう。頭の働きの半分は集中力である。つまり、頭の良し悪しの半分は集中力で決まるから、姿勢は重要だ。授業参観のときに後ろから成績のよい生徒の勉強姿勢を観察してみるとよい。他の生徒と比較すれば一目瞭然である。
中高生の時期には自発的な学習習慣を育むべきだろう。だから、全部をお膳立てしてはならない。三分の一で充分だ。あとは自分で工夫しろといいたい。それが社会人となってから何があっても潰れない力を内部に育てることになる。
高校生に宿題はないだろう、まるで小学生扱いだ。学校を批判しているわけではない。高校の先生たちがそうせざるを得ないほど、高校に入学してくる生徒たちに自発的な学習習慣がないのだ。小学校での家庭学習習慣の育成、「読み・書き・そろばん」に代表される日本語力と基礎計算力の充実が小学校教育で要求されている。根室には中学1年生には分数の加減算や小数の乗除算ができないものが半数もいる。家庭学習習慣のない生徒にいたっては1年生の三人に二人もいる。
家庭と小中学校がしっかりしなければ、根室の子どもたちの学力はいつまでも道内最低のままだ。
さて、中高生にはどういう学習法がいいのかわかっただろうか?
*野口悠紀雄対三浦笙子 英語教育対談(動画)
http://moura.jp/lifeculture/noguchi/
*hirosukeさんのブログ⇒英語学習の強力なサポーター
http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/
生徒の疑問と教育論 #960 Mar.20, 2010 [57. 塾長の教育論]
昨日の授業のことだ、生徒が質問した。
「先生、同意表現と書いてある、これ全部同じですか?」
学校で使っている文法テキストのフォレストのある箇所を指差している。
「同意表現?どういう意味で使っているんだ、どれ見せてみな」
同意表現という用語を知らなかった。agree?なんて見当違いの用語を頭に浮かべながら生徒の指差すところを見たら「同意表現」となっていたが、類似表現という意味で使っており、数学記号に翻訳すると"="ではなく"≒"だ。
文例は忘れたが、おおむねこうだ。
①I don't like curry as much as ramen.
②I like better ramen than curry.
③I like ramen rather than curry.
*(3/24 例文を書き換えました。コメント蘭に誤用を指摘してくれた人が2名います。用例を確認せずに書いた私が不用意でした。①と③の文を訂正しました)
「形が違えば意味が違う」とはhirosukeさんだが、二つの文はニュアンスが違う。日本語で考えても同じことが言える。
①「ラーメンほどカレーは好きではない」
②「カレーよりもラーメンの方が好きだ」
③「カレーよりはラーメンの方が好きだ」
言葉というのは発話者が頭の中に何か伝えたいことがあって、それを自分の語彙の中から言葉を選び、自分の伝えたい内容に一番近い表現を選んで文にする。聞き手が発話された文を介して同じイメージを頭に中に形成できればコミュニケーションは成功である。
ロイヤル英文法549ページには「相関語句」という用語で同じ表現を扱っている。こちらの方が文法用語としては適切だろう。「同意表現」はニュアンスを伝えきれない、誤解を招く用語だ。
同じ肯定文同士の②と③は「相当語句」「類似表現」で括っていいだろう。①と②を比べると、否定と肯定だから形が違う。①だと話者はラーメンもカレーも嫌いなのかもしれない。「どちらかといえば・・・ラーメンの方が・・・」ということかもしれない。論理的にはぜんぜん別の表現だし、意味も異なる。
高1は数Aで「論理と集合」を終わっているから、論理学的な説明でも理解できるだろう。「P⇒Q」、集合の包含関係を考えればすぐにわかる。数学の好きな生徒だったら、そこまで踏み込んで説明してよい。
英語と数学の両方を同じ塾長が教えるメリットは科目横断的な説明が可能になることにもある。学問の領域を超えたクロスオーバーを体験しておけ。大学生や院生や社会人になってから、いずれ必要になるときが来る。
この生徒は続いて質問を試みた。こういうやり取りが楽しい。
「もう一つ別の表現が別のページにあるのですが、これ三つとも「同意表現」で意味は同じですか?」
「形が違えば意味が違う」といったはずだ。=ではなく≒だから、
A≒B
B≒C
C≒D
・≒Z
とやっていったら、A≒Zになるかならないかは、個別に検討しなければわからない。まったく別物になっている可能性もある。A≒Cすら保証できない、個別に検討するしかないのだよ。
ここでわかってほしかったのは、概念の拡張である。個別の問題に当てはまることを拡張して一般化できる場合とできない場合があることに気づいてほしい。これは科学理論にそのまま当てはまる。ニュートン力学だって、相対性原理だって無限に拡張して一般化はできない。理論はかならず自らの適用限界を有しているものだ。
英語にも数学にも自然科学にも経済学にも「相似なパターン」が現れる。そういうことを個々の学習や疑問を通して「体験」してほしい。
疑問が出るということが素晴らしい。ナマ授業にこだわるのは、生徒の疑問を大切にしたいことと、ナマ授業でなければ伝えられない大事なものがあるからだ。
ビリヤード、スリークッションゲームで数回世界チャンピオンになったことのある小林先生に図面を描いて質問をしたことがある。先生は質問を大事にされて、丁寧に教えてくれた。ちょうどNHK教育TVでビギナー向けの講座を終わったばかりのときだったので、ビギナーに続いてセミプロ向けの本を出してもらえると勉強になるのだがと言ったら、「それはできない」と即答された。
理由を聞いてみたら、書いたとおりにやったけどそうはならないと一知半解の人たちからいろいろ批判や問い合わせがでるからだ、そう説明された。技術の微妙なところになるとニュアンスが伝わらないのである。名人に直接教えを請うしかない。八王子の町田先生にも教えてもらったことがある。職人技できちっとしていた。やはりマニュアルや本では伝えられないものをたくさんいただいた。アーティスティックビリヤードで銀メダルをとったことのある町田正のお父さんである。
教育とはそういうものだろう。先生と生徒の直接対話の中でしか伝えられないものがある。500年近く続いている日本の私塾本来のあり方、教育法(伝統)でもある。
世の中にはいろいろな先生がいて、それぞれの信念に基づいて、さまざまな教え方をしている。塾選びは先生選びでもある、誰に習うべきかについては「答え(正解)」はない。自分にあった先生を探し、選べ。
*世界チャンピオンの小林先生のことはブログ#039『世界チャンピオン小林先生と道元:教育の本質』にある。霞会館で皇族にビリヤードを教えていたこともある。現天皇のビリヤードコーチでもある。昭和天皇にご教授申し上げたのは札幌にお住まいだった吉岡先生だったが、白髪の品のよい先生だった。昔、駅前大通の三井ビルの向かい側に、「白馬」(5階と6階の2フロア?)というビリヤードがあった。42年前にはあったが今はない。吉岡先生の経営するお店で、日本で一番品のよいビリヤード場だっただろう。教育とビリヤードに興味のある人だけ読んでください(アメリカンスタイルのビリヤードとヨーロピアンスタイルのビリヤードはまるで違います。品が違う)。
開けない場合は、「人物シリーズ」というカテゴリーをクリックし、スクロールしてください。すぐに出てきます。
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2007-12-31
*kmさんというハンドルネームの方が、コメント蘭に上記の例文の解説をしてくれたので、転載します。好きな程度を表すから不等号で処理できる、なるほどいい着想の解説です。シンプルで美しい。(18日21:55追記)
①「ラーメンほどカレーは好きではない」
これはラーメンがすごく好きでカレーも好きなのだけれどすごくではない
ラーメン>カレー>普通
②「カレーよりもラーメンの方が好きだ」
読んで字のごとしカレーとラーメンの好きさ比較
ラーメン>カレー
③「カレーよりはラーメンの方が好きだ」
たぶんカレーが嫌いなのでしょう、ラーメンも好きではなさそうです。
カレー<ラーメン<普通
であると思います。
いつも病院問題の意見興味深く読んでいます。
根室は国保高いので病院も行きにくくなります。
動詞は二つ、動く動詞と動かない動詞? #914 Feb.20, 2010 [57. 塾長の教育論]
これはhirosukeさんのブログ「タダ英語(文法・語法編)」カテゴリーにある英文法解説記事のタイトルである。"ing"のつく場合と付かない場合を解説している。
学習参考書を読んでもいまいち納得がいかない、説明し切れていないと感じる中・高生は彼のブログを読んでみたらいい。英語の使い方の参考になるだろう。
なぜ、かれのブログを推奨するのか理由も書いておこう。
学習参考書はさまざまな先人の受験用の知識をまとめただけのものが多いから、どれも似たようなものになる。
hirosukeさんの解説は視点が斬新である。自分の頭で考え抜いた説明だ。自分の頭で考え抜くということが素晴らしい。この一点が推奨の理由だ。他の人にはないものがある。
社会人になったときに自分の頭で考える習慣のあるものは強い。先入見をもたず、何ごとにもとらわれない目でみなければ、起きている現象の奥にあるものが見えない。それゆえ適切な対処ができない。自分の頭で考える習慣の芽を中高生のうちに育てておこう。
白川静という漢字学者がいる。三万ページも甲骨文字をひたすら自分の手で写し取って漢字の意味を考え抜き、漢字の呪術的側面に光を当て、既存の学説を根っこからひっくり返してしまった。後漢の許慎『説文解字』でさえも容赦なく批判している。
数学者の岡潔とともに知の巨人の一人に数えていい日本人だろう。既存の学説に縛られていては見えないものがある。自分の頭で考え抜かねば見えてこないものがある。
自分の頭で考えることが大切なのは知の巨人にかぎったことではないだろう、平々凡々並みの能力のわたしたちも同じだ。
さて、hirosukeさんのブログのURLを記しておくので、英語に興味のある生徒はクリック!きっと違う世界が見えてくる。
URL⇒http://tada-de-english.blog.so-net.ne.jp/2010-002-07
「タダで英語(文法・語法編)」カテゴリーの他の解説も読んでみよう。
*白川静・・・ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%9D%99
藤井財務大臣老醜か? #830 Dec.12. 2009 [57. 塾長の教育論]
藤井財務大臣老醜か? #830 Dec.12. 2009
藤井財務大臣は「財政規律」を主張し、無制限な財政支出をとめようとしているかに見える。その心意気はよし、されど民主党マニフェストを否定する勇気はない。バラマキのマニフェストは財政規律を壊すものではないのか。
国家財政の行方よりも財務大臣にしてくれた鳩山氏への義理立てが優先してしまっている。党人としての立場の方が一国の財務大臣よりも重いのだろうか。私的(党派的)な価値が、一国の財務大臣の立場よりも優先してしまうとは情けなし。
私的なものと公的な価値が対立したら、私的なものには目をつぶり天の声に従うしかないではないか。藤井さんはよくわかっているはずだ。
正直に・誠実に国の財政状況について語り、民主党マニフェストで約束したバラマキは間違いであったと宣言し、来年度末に1000兆円に迫る国債残高を減らす戦略を提示すべきだ。
民主党のマニフェストは国家財政を破綻に導くものであると鳩山首相に正直に告げて、鳩山氏がノート言ったら、任に非ずと財務大臣を辞任すべきだ。
77歳の藤井氏は政権を手にする前と後で言うことが正反対になっている。ポストに拘泥して無残な姿をさらさずに、国民に正直に国家財政の現況を語り、破綻を避けるための選択肢を提示して後世に名を残せ。
わたしは小中高生を教えているが、こういう大事な局面で判断を誤らない人間を育てたい。数学や英語を教えていて何ができると笑われるだろうが、一国の財政破綻を何とかするためなら、私(党派)的な価値など平然と投げ捨てることのできる人間を育てたい。会社が法律違反を犯そうとするなら冷や飯を喰っても正論を主張できる強い人間を育てたい。市役所が市民の利益に反するような決定をするなら、孤立を厭わず異論を主張できる公務員を育てたい。
そういう正直で誠実な仕事をする市職員の中から副市長や市長になる者が現れれば、人口が2万人に減少しようとも根室の未来は明るい。
勉強も仕事も結局のところ正直にやるのが一番だ。冷や飯なんぞ10年も続くことはない。たかだか3~5年である。人生のある時期冷や飯を喰うことは人間を鍛える。損得抜きで己の信念を貫く姿を見る人は見ているものだ。損を承知で己の信ずる道を歩むさわやかな人間になれ。
言行一致はまことに難しい。自公政権の定額給付金を批判していた人が、財務大臣になったら「子供手当て」をマクロ経済政策だと言う。立場によって平気で論を使い分けてしまうような財務大臣に国民の信が集まろう筈がない。
国家財政の行方を危惧し、自公政権のバラマキ政策を毅然と批判していた藤井氏はどこへ行ってしまったのだろう。気骨のあるご老人だと思っていたのだが論に走りすぎる。私のメガネ違いだったようだ。人の評価は難しい。
「藤井財務大臣 年齢」をキーにブログを検索していたら、こんなブログがあった。
~10月6日付、財務省ホームページより~
トルコ・イスタンブールでの藤井裕久財務大臣の記者会見。同行した記者団の一人が次のように質問した。
「内需主導の経済運営が果たして景気刺激策として機能するのか」
それに対する藤井大臣の答え。
「内需拡大をばら撒きだという人がいますが、あれは実に経済政策をわかってない人です。内需というものを中心にして、経済を運営していくということは、これはマクロ経済そのものです。
子ども手当てはばら撒きだと一部に言う人がいますが、そういう人こそマクロ経済の意味をわかっていないのではないかと私は思います。それから特に子ども手当てというのは、次の世代の少子高齢化対策の非常に大きな柱になると思うのです。
そういう意味で、私は内需中心の経済運営という我々の考えについて外国もなんら批判的な意見は出ないし、むしろ積極的に評価していたと認識をいたしております」
麻生政権時、今年度の第2次補正予算案に盛り込まれた定額給付金に関しての民主党・藤井裕久最高顧問(当時)の発言
「失業した人、明日失業するような人は、貰ったらポケットにしまうのが常識だ。消費に回るはずがない」
亡国の全国一斉学力テスト廃止 #815 Nov.28, 2009 [57. 塾長の教育論]
またひとつ、とんでもないことをやってくれた。
事業仕分けチームが、全国一斉学力テスト予算をばっさり削った。愚かな者が事業仕分けをすれば被害は大きい、その見本のような例がここにある。誰が被害者なのかも考えたい。
そもそも教職員労組が全国一斉の学力テストに反対だったから、その支持を受けている民主党の事業仕分けチームの結論は最初から決まっていたのではないだろうか、セレモニーは茶番劇である。
もっともらしい削減理由としてチームメンバーの一人が、「(問題を)公表する方式では経年比較ができず、学力が上がっているのか下がっているのかが判らない」ことを挙げた。つまり学力テストは学力の測定に役に立たないと言い切った。
まことに幼稚な屁理屈であるので、この人は教育について自分の頭で考えたことがあるのだろうかという疑問が湧いた。
いま、地方で問題になっているのは学力の地域間格差や親の所得格差による学歴の固定化である。地方にとってはこれこそが最優先課題だ。言い換えれば、日本の子供たちの国際的な学力低下は都市部の問題であって、地方にとっての切実な問題ではない。
日本の小中学生の学力が数十年単位でどうなっているかは、テスト問題を公表せずに一部の地域をサンプリングし、毎年同じ問題をやらせて観測し比較すれば、全体の傾向が簡単に推計できるだろう。それはそれでやればいいことだ。いまやっている全国一斉学力テストをやめる理由にはなりえない。そのようなことすら理解できない見識の低い人が仕分け人をおやりになっていた。私には単なるcost cutterにしか見えなかった。もっとはっきり言えば、「気違いに刃物」である。
黙していたメンバーも、考えたことのないことは「わからない」と公の場でも言う勇気をもってほしい。
学力の地域間格差は北海道だけを見ても顕著である。札幌周辺や旭川などの大学をいくつも抱える都市部と僻地に大きな格差が生じている。それこそが大問題である。
学力の地域間格差の大きさは卑近な例を挙げるとよくわかる。道東地域では釧路湖陵高がナンバーワンだが、「東京基準」ではあの程度のレベルの学校を「進学校」とは言わない。それほど道東の高等学校のレベルは低いのである。比較のために東京三多摩地域では八王子東高が都立進学校に分類されていることを挙げておく。興味のある人はネットで検索して釧路湖陵高と進学実績を比べてみればいい。東京都立高校は学区ごとにトップレベルの1~2校が進学校に分類されている。
僻地は競争が少ないし、教員の質も都市部に比べて傾向的に劣っていることは否めないだろう。高校の話しだが、旭川東高校校長が根室高校で社会科を担当していた当時の話しとして、「来たくて根室に来た先生は一人もいなかった」と公の席で発言したが、同じ席にいたW根室教育長からは否定の発言がなかったから、一部は真実であるのだろう。もちろん全部がそうだとはわたしは思わない。そうではない先生がいたし、長年住んだ根室を愛し、根室の土となった先生もいる。Y先生だ。
全国一斉学力テストを実施することで、学力の地域間格差が広がっているのか縮まっているのかがはっきりする。そして改善策を講じた場合に、どれほどの効果があったのかについても、学力テスト結果で判断できる。全国一斉学力テストをやめてしまったら、国民は学力の地域格差について知る権利を失う、それほど重要な問題なのである。
11月26日付の北海道新聞2面に北海道の14支庁管内別の調査結果が載っているが、昨年に続いて14支庁管内で根室の中学生が最低だったようだ。しかし、小学校は13番目になったかもしれない、市教委は詳しいデータを公表してもらいたい。
市教委や学校がいろいろ手を打っているようだが、一向に学力が上がってこないことも事実である。プリントをいくら配っても、基礎計算ができない40%もの中学生は補習しない限り救えない。道教委も学力を上げるために、放課後の補習や長期休みのときの補習を言い出したが、こういう簡単なことにどうして何年もかかるのか理解に苦しむ。学校の役割は大きい。基礎計算(小数および分数の加減乗除算)ができない生徒は中1になったらすぐに補習すべきだ。それだけでも数学の平均点は顕著に上がるし、授業内容が理解できれば授業をサボる生徒たちの数も減る。
全国一斉学力テストをやめてはならぬ。やめてしまったら、学力の地域間格差はますます拡大し、有効な手を打てなくなる。
この3年間の全国一斉学力テストがなかったら、根室支庁管内が北海道14支庁管内で一番学力が低いという事実を根室市民は知らなかっただろう。もちろん、市教委も学校も学力向上の具体策を講じなかっただろうことは容易に推察がつく。子供たちの学力は低いままに放置され、進学率も進学する学校の質も年々低下してしまう。それで本当にいいのか?
全国一斉学力調査の廃止の一番の被害者は僻地の子供たちである。つまり、根室の子供たちであり、都市部以外の地に住む北海道の住民250万人だ。
根室の大人たちはこの問題に黙していてはならぬ、わが故郷の将来のため、子供たちや孫たちのために断じて黙してはならぬ。