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#5008 午前3時の目覚め:胸騒ぎ Jul. 6, 2023 [A8. つれづれなるままに…]

 午前3時に目が覚めた。誰かが亡くなったことがわかるが、それが誰なのかわからない。
 お昼ころに、用事があって古里へ電話を入れた。そうしたら、「Kさんが1月に亡くなったよ」と突然の訃報。ああ、あいつはついに逝ったのかと納得。

 根室高校2年生の時に、クラス替えがあってあいつと同じGクラスになった。Gクラスは規格外の「掃きだめ」である。言い換えると、一風変わった人材がそろっていた。先生たちの手に負えない生徒が集められていた。学校が生徒管理上の都合から、そういうクラス替えをずっと繰り返してきた。ヒロシは総番、根室商業時代から続いた総番制度の最後の番長だった。なぜ最後かというと、あいつが総番制度を廃止したからだ。異色の総番だった。

 5代先輩の総番はS.Mさん、野球部のキャプテンである。彼には仁義が伝わっており、わたしが根室高校1年生になったときに、一度だけやって見せてくれた。小さな紙に几帳面な小さい字で仁義の台詞がびっしり書かれていた。右手を前に出し、左手を後ろに回して、
「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手間へ生国発しますところ...」
 あの紙はもらったような気がする。机の中へしまってそのままになった。なぜ仁義が必要なのかその時に聞いた。昔はヤクザと根室高校生のいざこざがあったそうだ。そのときは、生徒会長ではなくて、総番長が学校を代表して、話をつけに行くことになる。だから、ヤクザの流儀で「挨拶」しなければならない、そう言っていた。台詞を間違えたら、叩き殺されても文句は言えないとも言っていた。気迫と覚悟のない者には根室高校総番長の仕事はできぬ、そういう時代が5年先輩のときにはあった。
 わたしが根室高校1年生の時に実演して見せてくれたのだから、S.Mさんは社会人2年目のころだ。よどみなくやってくれたから、総番長になりたての頃は、本番に備えてしっかり練習したのだろう。金刀比羅神社の例大祭の時に、S.Mさんの後ろに3歩ほど下がって十数人、目つきの鋭い「トッポイ(不良っぽい)」総番グループが、夜店の出ている道路を連れ立って歩いて、グループのデモンストレーションしていた。声を掛けられない雰囲気だった。
 根室高校の総番長にはいざというときには大きな仕事と責任が伴っていた。根室商業時代からそういう伝統が伝わっていた。わたしたちの役割は、そうした伝統の破壊だった。時代のめぐりあわせだろう。ヒロシもわたしもそういうことを意識して、自然につるんでいた。考えていることは一緒、共産党のA野もそうだった。テーマごとに必要なメンバーが入れ替わる。他のクラスからも、持ち上がるテーマの必要に応じて人材が集まるようなネットワークが自然にできていたから、面白かった。もちろん、先生たちにも協力してくれる人が数人いた。だからやろうと思えば何でもできた。西浜町会長の柏原栄先生は元根室高校の教員だが、9年前の同窓会の時に、わたしたちの時代は7大改革をやったと仰った。そのうちの2つは総番制度の廃止と校則改正だろう。ちょうど時代の節目に当たっていた。
(柏原先生は水晶島の出身で、予科練に合格して土浦航空隊に配属になるときに終戦を迎えた。終戦が半年遅かったら、少年特攻兵となり、戦死していただろう。土浦航空隊で予科練に飛行操縦訓練をしていた一人が、大学のゼミの指導教官、市倉宏祐先生(哲学)だった。先生の遺稿である『特攻の記録 縁路面に座って』は、わたしと同期の伊吹克己教授(専修大学教授)が遺稿を託され編集して出版した。弊ブログのカテゴリ―欄にあるので、興味のある方はお読みいただきたい。哲学者が残した唯一の特攻の記録である。弊ブログでの公開を快く承諾してくれて、原稿のが入ったCDを送ってくれた。)

 ヒロシに聞いてみたが、仁義は1年先輩の総番からは伝わっていないと言っていた。S.Mさんが後輩へ伝えなかったのかもしれない。
 2年生の時に3年生の総番グループと抗争があった。13:7だったかな、北海道新聞に載った。全員1週間の停学処分だった。3年生でケガをした人が数人病院へ行って手当てを受けて、北海道新聞根室支局の記者の知るところとなり、全道版にデカデカと載った。
 同じクラスで羅臼から下宿していたAが、寂しい思いをしているだろうと、1週間、毎日夜9時過ぎに訪問して12時近くまで花札をやって慰労した。ニックネームは「やすべ―」、中間テスト直前だった。(笑)
 いい奴は早く逝くようで、あいつは十数年前にやはり癌で逝った。

 総番制度の廃止には、ヒロシと共産党のA野とわたしが関係している。後輩にしっかりしたのがいないし、ただの不良グループ化して3年が経過していたので、わたしたちの代で、廃止しておかないと、チンピラ同然の組織になりかねないという議論をした。A野もわたしも同じクラスではあるが総番グループではないので、同じクラスの副番のMがヒロシと協力して解体した。

 ヒロシは人気のあるやつだった。彼の周りには自然に人が集まってくる。同窓会でも彼の周りには普通科の連中がたくさん集まって飲み始める。陰なところがなく明るい。天性の何かを持っていたので、同じクラスでもあり、自然につるむことになった。3年になって部活が終わると、一緒に歩いて帰ることがときどきあった。2年間も同じ教室の空気を吸っていてい、ウマがあったのだ。卑怯なことやずるいことはしない男だった

 高校3年になったばかりの時に、担任の冨岡先生に呼ばれて、進路を尋ねられた。都市銀行へ就職して、既に始めていた公認会計士二次試験受験勉強を継続し、資格を取るつもりだと返事した。これは中学校の時に決めた人生選択だった、そのために中学校の担任だった山本幸子先生の強い反対を押し切って商業科へ進学した。山本先生は「この子は大学へ進学する子だ」と母親を2度呼び出して説得してくれたらしいが、母親は「息子が商業科へ進学して公認会計士になると言ってます」と答えて、自分の意志通りに商業科へ進路が決まった。山本先生の診立ては結局当たることになった。当時は商業科の定員は3クラス150人で競争倍率は2倍だった。中学校の成績で真ん中くらいだと、そのあたりがボーダーラインだから落ちる人がいた。
 高校2年で担任となった冨岡先生は、都市銀行に行きたい生徒が同じクラスにいる、お前なら問題なく合格できるが譲れという。生徒会でも活動しているから、釧路の日銀支店に推薦できるので、そちらを受けろと指示された。高卒で日銀に入ったとしても、一生大卒に使われるのは癪に障るので御免だった。それで就職先を決めずにズルズルしているうちに12月になってしまった。小学生の時から毎日数時間ビリヤードの店番をしていたので、労働力が一人抜けるときついが、日本中が高度成長期で沸き立っており、お袋のやっていた居酒屋はとっても繁盛していたし、オヤジのビリヤード店も繁盛していた。オヤジに、大学へ行っていいか訊いたら、OKだという。それで、急遽一月ほど勉強してみたが、受験に失敗した。学校の定期テストと大学受験の違いが身に染みて分かった。(笑)
 卒業式は東京で遊んでいてスポイル。根室へ戻ってきたら、ヒロシが家まで来て「大学へ進学する、一緒に東京の代ゼミへ行こう」と誘ってくれた。根室でビリヤードの店番しながら、公認会計士を受験するつもりだったが、ヒロシの誘いに乗った。
 ヒロシとは代ゼミでほとんど顔を合せたことがなかった。代々木駅前のビリヤードに入り浸ることが多かったのと神田や高田馬場の古本屋街を歩き回って本を買い、哲学や経済学関係の本を読み漁っていた。たまにヒロシの住んでいる高円寺へ行って、遊んだ。そんなときはMも一緒だった。

 ヒロシの誘いがなければ、根室でビリヤードの店番をしながら、公認会計士の受験勉強をしていたかもしれない。東京へ出ることはなかっただろう。
 ヒロシが東京へいざなってくれたことで、生き方が広がったのは間違いない。
 いい友人だった。

<余談-1:確信>
 根室高校柔道部で一緒だったN西が、腎臓病で釧路市立病院へ入院していたが、夏に戻ってきて鳴海公園のところですれ違って声をかけた。それから数日後の日暮れ時、ゴーッと音がして二階のリビングの窓の向こう側に大きな白いものが飛んだ。窓を開けたが何もない。霊感の強いおばさんがいたので、「見た?」と訊いたら、「見た、だけど嫌がられるから言わなかった、誰か死んだよ」そう言った。N西はその時刻に亡くなっていた。当時は人工透析がなかったので、治療の手立てがなくなり、残り少ない1週間ほどを自宅で過ごさせようとの主治医の配慮だったのだろう。

 出生前診断検査に関する仕事を学術営業部のS.Aとやった。わたしよりも9歳年下である。沖縄米軍からの導入要請と慶応大学病院ドクターから、日本人基準値を作りたいのでという話だった。この時の所属は学術開発本部で本部長直属のスタッフだった。わたしの役割はプロジェクトマネジャー、どちらもスムーズにやった。MoM値の日本人基準値は白人を100とすると黒人が120,日本人基準値は130だった。画期的な研究になった。妊婦6000人のデータを集めて多変量解析した産学共同研究であった。S.Aはそのご米国で栄養医学の学位を取得し、独立した。2017年の11月ごろ、夜中に目が覚めた。胸騒ぎがした。そしてS.Aがなくなったことを確信して、ネットで調べたら、7月に病気で亡くなっていた。
 ヒロシで3度目だ。わたしは亡くなったら、誰かに知らせるだろうか?思い残すことはないから、ただ消えるだろう。

<余談-2:根室高校生徒会と第1回市民珠算大会開催>
 根室高校生徒会は当時は「会計」は指名制だった。先輩の「会計」のN野さんが、わたしを指名した。帳簿をつけて決算しなければならなかったので、1年生の3学期になると簿記ができる生徒が指名された。
 担任の冨岡先生は珠算部の顧問でもあった。N先輩が「全道大会に行くぞ」と誘ってくれた。彼も珠算部員ではないが、大会だけは応援メンバーで「数合わせ」に協力していた。だから、後輩のわたしに否やはない。日商珠算能力検定試験で1級保持者は、わたしより12歳ほど先輩の横田さんが第一号で根室高校初めての東大現役合格者、わたしが2番目、12年ぶりの合格だった。全道大会は「応用計算」部門で珠算実務検定試験1級の問題を半分の時間でやる競技だった。方程式の文章題10題を競技会では半分の5分で計算しなければいけない。1問30秒である。問題を読んだ瞬間にソロバンで計算を始めなければならないから、典型的なパターン計算である。方程式で解いて仕組みを理解すればあとはパターンに習熟したら誰でもやれる。ただ、30パターンほどの計算を高速でやらないといけない。大学受験の数学もパターンで計算できる。「佐藤の数学」では550パターンだが、偏差値が70を超えているものには200くらいに絞り込める。頭を使わずとも標準問題はパターントレーニングで高速で解けるようになる。受験勉強って、80%はこれでクリアできる。だからいくらやっても、頭はよくならないが、受験問題は高速で解けるようになる。
 全道大会に誘われたのは、他にこの部門で競技できる生徒がいなかったからだ。女子は応用計算が苦手である。全同大会の前に3日ほど、珠算部で選手の合同練習に参加するだけ。N先輩とわたしは特別メンバーだった。
 高橋珠算塾で高校時代に澤山先輩が塾頭でアルバイトをしていた。彼は2年先輩で中央大学文学部へ進学したので、そのあとを高橋尚美先生がわたしに汐見町の分塾を任せた。金曜日だけは先生と交替で曙町の本塾で指導していた。
 3年になって、商工会議所主催で市民珠算大会の話が持ち上がった。高橋先生と富士珠算塾の板野国雄さんが発起人のような形になっていた。根室高校珠算部顧問の冨岡先生が、「卒業生に珠算塾をやらせて、高橋珠算塾をつぶしてやる」なんて、物騒な噂があった。冨岡先生は計算実務を教えていたが、珠算は苦手だった。高橋先生は釧路の人で、釧路の高校卒業後に根室へ来て珠算塾を開いている。一時は根室の珠算のレベルは全道トップレベルだった。指導力が優れていたからだ。後に十段位もこの塾から出ている。
 市民珠算大会の話があったときに、根室高校側と調整がつけられるのはわたしだけだった。運命としか言いようがない。担任でもあり、商業科のボスでもあったと冨岡先生は、快く承知してくれ、協力してくれた。噂は噂にすぎなかった。根室は排他的な土地柄なので、釧路出身の高橋先生は嫌われたのである。日商珠算検定五科目満点合格を狙って、高橋先生は十回ほどチャレンジしていた。どれか満点でない科目が一つあって果たせなかった。1級の合格賞状が何枚も並んでいた、じつに熱心な先生だった。当時は全珠連の段位認定試験はマイナーだった。商工会議所珠算能力検定試験が権威があった時代だった。いまは全珠連の段位認定試験が圧倒的なシェアーを占めている。
 第一回の根室市民珠算大会で、わたしは選手宣誓を任された。原稿は高橋先生が用意してくれていた。暗算部門だけ選手として出場し、優勝した。他は大会関係者として主催者に一人として参加した。10ケタの高速読み上げ算は、高橋先生と板野国雄さんとわたしの3人しかやれるものがいなかったので、当初から、これだけはやらなければならない仕事だった。全部門に出場していたら、全部門で優勝したかもしれない。好きな暗算部門で優勝しておきたかった、他の部門での優勝にはこだわりがなかった、このころから欲張りではなかったのである。執着がないと言えば事情がよく説明できる。
 冨岡先生は2年生になったときの担任だが、2年生になるとすぐに私に訊いた。
「おまえなにやった?クラスナンバーワンはそのままそのクラスというルールだったが、出された。N村先生と何があった?」
 なんにもなかった。現代国語と古典がN村先生の担当科目だった。定期試験の現代国語は全部自分の解釈をテストで書いただけ。定年間近の先生の解釈と、青春真っただ中にいた生徒の解釈は感性が異なるから、同じはずがない。納得いかないので、一度も先生の解釈をなぞったことはなかった。現代国語は評価50だった。古典はさすがに解釈は恣意的ではないので、解説通りに書いた。試験はクラストップだったが、もちろん評価は悪かった。ズラリと5段階で5の評価が並んでいるのに、現代国語と古典で評価3つけるのは苦しかったのだろう。わたしをF組から放出したのである。それでよかった。新しい担任の冨岡先生は珠算部顧問でもあり、歓迎してくれたのだから。2年生になって、新谷先生に現代国語は変わった。函館出身の空手3段の人だった。彼とはウマが合った。
 そんな経緯で、同じクラスになるはずのないヒロシと2年間同級生ということになった。学校は結局、Gクラスに鬼と金棒を揃えたようなことになった。異色の組み合わせだった、ヒロシとの出遭いは運命としか言いようがない
 
<余談-3:根室高校校則改正:丸刈り坊主頭条項の廃止>
 根室高校は男子は丸刈りの校則があった。わたしは一度も坊主頭にしたことがなかったが、中3の冬休みに初めて坊主頭にした。ヒロシはずっと野球少年で過ごしていたから、丸刈り坊主頭に違和感がなかっただろう。高校へ入ったら、校則改正をしようと心に決めていた。わたしは理不尽なことには従わない。効果的な方法を見つけて、やりたいようにやる。
 N先輩がわたしを会計の後任として指名してくれたので、1年生の終わりころに、校則改正を言い出したら、先輩の副会長2人が「言い出しっぺのお前がやってみろ」と面白がっている。修学旅行に髪を伸ばしていきたかったので、スケジュールを引いて、2年生になった途端に、4月に保護者にアンケートをとった。「丸刈りは時代に合わない、髪型の強制は基本的人権に反する」という主張をベースに、学校側が一番弱い保護者をアンケートで味方につけたのである。集計して公表、そして校則改正の規定通りに全校集会を開いて、校則改正をした。東京・京都・奈良への修学旅行は長髪で行くことができた。
 2年生の時に、副会長の先輩二人、F御堂さん(元室蘭税務署長)とH谷さん(元ヤクルト釧路支店長)から、次の会長はお前がやれと指示された。応援演説は俺たち二人がやるから任せとけということだった。生徒会顧問にその旨告げたら、校長が反対に回った。わたしが生徒会長になったら何をやるかわからないので警戒されたのである。先輩二人は、何を言い出すのかわからないので楽しいからやってみろということだった。ところが、生徒会会計をやっているからダメだヘンな理屈をつけて反対された。生徒会会計は後輩のH田に任せるので後ろで見ていたらいいだけ、何の支障もない。強硬に校長が反対しているようなので間に入った生徒会顧問が困っていた。それで、折れてやった。先輩二人が応援演説してくれるのはもったいないので、1年生の時の同級生H勢に副会長へ立候補するように説得して、副会長の先輩二人に、自分の代わりにH勢の応援演説をお願いした。校長が反対していると事情を話すと、すんなり受け入れてくれた。H勢は高校卒業後に富士短期大学へ進学し、卒業した年に税理士試験の合格して、いまも有楽町で税理士事務所を運営しているはずだ。昆布漁師の息子で、家業の手伝いで、コンブ漁が始まると、あまり勉強する時間が取れなかったはず。なかなか勉強のできる同級生だったから、彼の力を認めていた。中央執行委員のT岡さんと同じクラスの中央執行委員のK尻さん、それとH勢がいたので、生徒会会計でも生徒会を自由に動かせた。Y岡とK尻はいまでもお友達だ。(笑)
 生徒会会長へはH作がなった。

<余談-4:癌仲間>
 スキルス胃癌と巨大胃癌を併発し、2006年7月に釧路医師会病院で6時間の手術をして退院。数日後に同級生のお母さんが亡くなった。それで葬儀に出席したら、ヒロシがそばに来て、「ebisu、顔色悪い、もう駄目だな」、顔を覗き込んでそう言った。体重は13㎏減っていた。みんなダメだと思っていただろうが、遠慮して誰もそんなことは言わない。あのとき、ヒロシは本気で心配してくれてると思った。あいつは嘘やおべっかが言えない、ヒロシにはそんなにメンコイところがあった。(笑)
 立っていられないくらい調子が悪かったので、彼の見立ての通りだった。執刀外科医ですら再発する、肝転移しているようで手遅れと思っていたのだから。もちろん、消化器内科医の主治医の岡田先生も、手術は手遅れだったと判断していた。スキルス胃癌と巨大胃癌の併発で、他の臓器へ浸潤していたのだから、当然の判断だった。でも、生き残った。お陰で、岡田先生の息子を7年間教えることができた。根室高校から、国立旭川医大へ道東道北推薦枠で、現役トップで合格してくれた。一般入試でも合格できる点数だったが、国立大ならどこでもいい、家業を継ぐのに医者になれたらいいと息子のT君は言っていた。北大医学部を受けてほしかった。合格できただろう。偏差値は同じである。
 去年の6月ごろだったか、札幌の病院へ入院中のヒロシへ電話した。血液の癌と間質性肺炎の治療中で入退院を繰り返していた。呼吸が苦しくて階段を上がるのもしんどいと言っていた。カミさんが2021年の4月に肺癌で急逝していたので、気落ちしているのがよく分かった。
 退院できたら、酒飲みながら昔話しがしたかったが、飲む機会がないかもしれないと思っていた。新型コロナが流行っているので、サシで飲む機会はついに訪れなかった。
 長い付き合いだった。


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#4963 北海道新聞から朝日新聞へ Apr. 30, 2023  [A8. つれづれなるままに…]

 古里に戻って20年間暮らして、昨年11月下旬に東京へ戻ってきた。
 通算して38年間極東の町に住んでいたが、その間は北海道新聞を購読していた。小4の時から読み始めたから、わたしは高校卒業までの9年間と古里に戻ってからの20年間、合わせて29年間北海道新聞を読み続けてことになる。道新の定期購読はオヤジからだから70年近いお付き合い。何人か顔なじみになった根室支局の人たちが懐かしい。優秀な記者が多かった。

 北海道新聞根室支局には、支局長のほかに2名の記者がいるので、根室地域版のニュースが充実しているのが大きな特色である。
 小4の時から「卓上四季」と「社説」を読み、数か月後には語彙が充実して好奇心に駆られて政治経済欄も読むようになっていた。当時の北海道新聞はルビがふってあったので、最初の数か月間は国語辞書を引きながら読んだ。新聞に出てくる語彙はそんなに多くないので、数か月間辞書を引くとあとは、目新しい語彙はたまにしか出てこないので、月に何度か辞書の世話になるだけで読みこなせた。
 東京では日経新聞とジャパンタイムズ。産業用エレクトロニクスの輸入商社に勤務していた時(1978年9月~1984年1月)だけは日経産業新聞と日刊工業新聞、電波新聞も毎日読んでいた、もちろん仕事である。朝8時に出勤して9時までの1時間に読んで切り抜きしてファイリングしていた。オーナー社長の関周さんの好意で、新聞代は会社もちだった。日経エレクトロニクスも会社の経費だったので、6年間とっても勉強になった。入社1週間後には会社の命運を左右する経営改善を目的としてプロジェクトを5つ掛け持ちさせられたので、知らない専門分野の情報入力が必須で、仕事の成果に影響するので貪欲に読み漁った。
 2002年の10月頃極東の町、古里にUターンしてからはジャパンタイムズと北海道新聞に切り替わった。高校生用の授業で時事英語にジャパンタイムズを10年間ほど使ってみた。
 北海道新聞は、小中高生のころはとっても面白かった政治経済欄が、ちっとも面白くないので、連載小説と根室地域版の記事だけ読むようになってしまった。全道各地の死亡お知らせ欄があるので、それを毎日読むという人が少なくない。ローカル紙のいいところだ。

 
 朝日新聞は女房殿が読みたいというので、そういうことにした。わたしは日本経済新聞がいいのだが、東京へ戻ったら、女房殿の意見に歩み寄ることにした。
 今朝の記事で読んだものを上げると、
①「対立煽り拡散 総裁選でも 河野氏に攻撃 中国発「ボット」か」
②「責任あるAI」合意へ G7デジタル相 早急に具体的検討
 専門知識もスキルもない河野氏がまだデジタル相をやっていることに驚きました。
③天声人語: ⇒ここまで1面の記事
④過激な声増幅 揺れる民主主義 AIでの偽の動画見極めむずかしく SNSの責任  米国最高裁判断:2面
⑤AIで作成表示とを義務に EUデジタル政策トップ:3面
⑥米ファーストリパブリック銀 経営不安 株価急落:3面
⑦G7 中露のAI「悪用」警戒:3面
⑧第81期将棋名人戦第2局 藤井 意表突いた攻め合い:⇒20面

 名人戦は朝日新聞がユーチューブで実況中継していたので、最後の2時間ほど観戦した。終盤の緊張感がビンビン伝わってきた。
⑨大佛次郎没後50年 ぶらり散歩が産む作品の妙味佐伯一麦さん 革命の群像穏やかな公正さで 黒川創さん:⇒23面

 大佛次郎次郎は数学者の藤原正彦氏のお父さんである。藤原正彦氏は『国家の品格』の著者
⑩連載小説 「人よ、花よ」今村劭翔悟作:23面
⑪コラム「窓」 またいつでも弾けるように:24面
 ピアノを趣味にしてきた女性が、癌が全身転移で数か月の余命を宣告されて、その期間をどのように過ごしたのかを追った記事だった。52歳で逝った。合掌
⑫「仕方ないよね」の先は 演説会場「ヤジ禁止」 「暴力と言葉の表現は違う 自由を奪ってはいけない」:25面
 昔は、国会の論戦でヤジがバンバン飛んでいた。なかなかオシャレで本質を突いた気の利いたものが多かった。いい加減な答弁や嘘の答弁には当たり前にヤジが飛んだ。国会議員でヤジの上手な人が何人かいた。

 全国紙は読むところが多い、取材記事がしっかりしているし、寄稿記事もある。
 根室には数年前まで「根室新聞」という地域紙があった。部数の減少で廃刊となってしまった。「釧路新聞」が根室もカバーしているので、定期購読している根室市民が千人程度はいるだろう。根室新聞の廃刊の後、新しい地域紙が誕生したが、新聞のレベルになっていない様子。しかし風力発電会社が経営しているので、資金援助しているかぎり続けられるだろう。プロとして脱皮してもらいたい。

 昭和30年代は、根室新聞の連載小説は歯科医の福井鐘一先生(2代目)が書いていた。同じく歯科医の田塚源太郎先生は、元陸軍軍医で華北から兵士を引率して引き揚げてきたのだが、その当時の状況を短歌に詠んで残している。残されたたくさんの短歌は、親友の北構保男先生(考古学者:国学院文学博士)が根室印刷社長をしていた時に、田塚先生の奥さんや娘さん2人と編集して出版している。弊ブログカテゴリ―「22-1田塚源太郎遺稿集」でいくつか紹介した。
  北構先生は根室で新聞社をやりたかったといっていた。道内ではさまざまな地域紙が統合されて北海道新聞となっていたころのこと、起業スタートが遅れたのであきらめ、印刷会社を創業したと仰っていた。新聞社起業の夢が捨てきれなかったのだ。わたしが知っている根室人ではこの3人が群を抜いていた。もうお一人いました、80歳くらいになるかな、銘酒「北の勝」の当主も達意の文章をお書きになる。
 根室には新聞記事の書けるレベルのインテリがいないのではないか。福井先生のように時代小説を書ける人は団塊世代にはいない(根室高校の6年ほど先輩に翻訳家の柳瀬尚紀さんがいたがずっと東京在住の人)。根室在住で、連載小説の書ける人や田塚先生のようなレベルで短歌の詠める人はいない。昔の根室商業卒の人たちの学力レベルはとても高かった。釧路の角田さんが、お酒の席で「戦前の根室商業は旧制中学の釧路湖陵よりも上で、まぶしかった」と言っていた。角田さんは「釧路の教育を考える会」の会長で元釧路市役所経済部長、元釧路教育長、、釧路江南高校、北大卒。
 根室の大人の学力レベルが戦後の70年間で著しく低下したことは否めないだろう。問題なのは根室の子どもたちの学力レベルの低下だけではない。教育を軽視する町には、学齢期の子どもを抱えた40代の医師は赴任して来ない。学力問題を何とかすれば、常勤医不足は解消できるし、市立根室病院の年間赤字も6億円ほど減らすことができる。そんなに難しい問題ではないよ。根室高校から国立旭川医大へ現役で合格する方法は実証しました。道北道東推薦枠合格者10名中、現役トップ合格しています。
 いつまでに何をどのようにやったのかは、弊ブログに書き溜めてありますから、お使いください。毎年一人現役合格者が出せたら、30年後は市立根室病院の常勤医は10人くらいは根室出身者になるかもしれません。根室高校から国立医大へ現役合格が毎年出れば、40代の若い医師が常勤医としてたくさん来てくれます。自分が合格できたように自分の子どもも根室高校から現役合格できる方法があるのですから。首都圏は医師の給料が安い、市立根室は2倍だしています。
 ところで国立大学医学部の学費は6年間で約360万円ですから、とっても安いのです。参考までに記すと、私大医学部は4000万円。
 教育が、地域のそして国の礎であることは論を俟たないでしょう。


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#4930 エアコン2台交換:暖房が意外とパワフルです Feb. 17,2023 [A8. つれづれなるままに…]

 20年ぶりに東京へ戻ってきましたが、エアコンはそれほど使っていないのに、3台の内、ひとつは冷媒が抜けてしまって完全に機能停止、2台はだいぶへたってはいますが、動いていました。
 夏場を迎えて、壊れるとすぐには設置できない恐れがあるので、早めの交換をしました。
 今日設置業者の人が来て、取り付け作業に7時間かかって、きれいにやってくれました。外側と内側のパイプにカバーを付けたら、スッキリ。リビングはエアコン専用回路でしたが、もう一部屋の方は専用回路がないので、分電盤からエアコン専用回路を引いてボックスタイプのコンセントを増設しました。

 以前は、ダイキンと日立製のエアコンですが、今回はエアコン専門メーカーのダイキンを選びました。
 エアコンの暖房は弱いだろうと思っていましたが、とってもパワフルです。今使っているガスファンヒータよりも強力、快適です。


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#4928 面白いテレビ番組が少ないのはいいね:放送受信料は1000円でいい Feb. 16, 2023 [A8. つれづれなるままに…]

 東京へ戻ってきてから、暇になったので、テレビの映画を録画してみることが多くなった。推理ものもたいして面白くはないが、暇つぶしに眺めていたが、そろそろ飽きた。
 映画も古いもので名作でもないものがほとんど、NHK放送受信料は高いのにどうしてこんなに安手の古い映画しかやらないのだろう?NHKで見るのはニュースと特別番組くらいなもの。これで地上波と衛星放送受信料を支払うのはばかばかしい。内容に合わせて、放送受信料も1000円以下に下げてもらいたい。コンパクトな予算でも政府の意向に左右されない立派な放送事業は営めるだろう。

 テレビ見るのも飽きたので、1か月ほど、複素平面の問題を解いて暇をつぶそうかと思う。
 そのあとで、複素関数にしようか、それとも...
 経済学に関するライフワークはしばらくお預け、準備作業で読まなければならない科学の方法に関する哲学関係の本が数冊ある。


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#4921 税務申告の時期:決算書プリントアウト Jan. 30, 2023 [A8. つれづれなるままに…]

 2/15の所得税の申告の時期が近づいてきました。昨日、5時間ほどかけて入力とチェックが終わり、先ほどプリントアウトしました。あとは国税庁のホームページのシートに必要事項を入力するだけです。不動産売却は確定申告不要であることがわかったので、通常通りの青色申告でOK。
 女房殿が、月別の証憑台紙にレシートを日付順に附番しながら貼り付けてくれます。それが終わるとわたしの作業が始まります。

 EXCEL上にワークシートをつくって、半自動で決算書を作成しています。
①月別売上集計表:明細表から集計
②経費明細表
③車両関係費明細表
④定期支払経費月別明細表
⑤合計仕訳及びその他の振替仕訳表
⑥合計仕訳管理表及びP/L・B/S関連付表
⑦固定資産台帳
⑧損益計算書
⑨貸借対照表
⑩支払先別医療費集計表

 ①~⑨までが決算書関係、⑩は申告書作成時に必要なデータです。
 必要に応じて各表の項目は自動振り替えされています。イレギュラーな部分は手入力ですが、数字の整合性が各表でチェックできるようになっています。

 2000件くらいのトランザクションなら、このようにEXCEL上で記帳と決算書作成が十分管理できます。少し簿記の知識があれば誰でもできます。年年歳歳手際がよくなります。(笑)
 簿記3級の高校生がEXCELも使えたら、やれそうです。
 わたしは、青色申告は今回が最後になります。

<余談:自作でソフトをつくった意味>
 EXCEL上で、マクロを使わずに各シートをつくって、必要な数字を飛ばすようにしたのは、申告の時に税務署へいくと、別室にたくさんの青色申告事業者と思われる人たちが、やり方がわからないので、税務署員に指導してもらっているのを目撃したからです。つまり、誰にでも簡単に利用できるような仕組みをつくろうと思いました。
 決算書類が独力で作れるということは、経営状態もそうした数字をいじることで数字で理解できるからです。
 自分でやりたいがやり方がわからないという人たちのお役に立てたらなあと思っていたので、ブログ上でもやり方を発信してきたのです。
 今では、安い会計ソフトがたくさん出ているので、そちらを使った方が便利です。でも、仕組みの理解はなかなかできないかもしれません。自作の簡便な仕組みをつくり、自分で運用することは、経営状態を計数で把握し、経営基盤を改善できるということです。零細企業が成長していくためにはこうした会計数値の把握が大事です。大事な仕事を人任せにしないで自分でやってみませんか?

<余談:インプラント>
 12/13にインプラントの歯根埋設手術をしてもらいましたが、上にかぶせるクラウンを製作するために、精密な3次元画像をとりました。器具を歯と歯茎にあてて、上と下の歯全部触って、画像データを撮り込みます。
 32インチほどの専用のディスプレイに表示されていましたから、専用のコンピュータにつながっていたのでしょう。歯の矯正にも使っているそうです。
 サーチが終わって、数分経つと、取り込んだ画像がカラーで表示されます。噛み合わせの隙間の程度を色分けして表示してありました。
 確認すると、ポンとエンターキーを押します。するとデータが義歯を製作するドクターのところへ届いて、受診しましたという返信がありました。
 2週間で、精度の高い義歯ができあがります。これで、2月半ばには左奥歯で噛めます。うれしいな。
 埋め込み手術をして、義歯が入るまでちょうど2か月間です。


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#4915 今冬一番の寒気:-4.5度 Jan.25, 2023  [A8. つれづれなるままに…]

 東京八王子の今朝の最低気温は-4.5度、府中は-3.6度だった。多摩川をはさんで隣同士で最低気温に約1度の差がある。
 暖房はリビングにあるガスファンヒーターのみ、エアコンは電力量が高いので暖房には使わない。
 ガスファンヒータだからがガスが燃焼して水蒸気が発生するので結露する。リビングの北側の窓と北向きの書斎の窓のサッシが結露していた。雑巾で拭き取り搾るとたっぷり水が出た。リビングと寝ている部屋は南向きだが、両方結露していた。もう一つある南向きの部屋は結露ナシである、暖房がないからそうなる。

 こうしてみると、ガスファンヒータはリビングの湿度を上げるのに役に立っているようだ。喉を痛めなくていいのかもしれない。
 他に使っているのは、60㎝の正方形の暖房マット、書斎で使っている。今日、朝日放送の通信販売「ropping」で頼んだひざ掛け暖房「電気ブランケット」が届く。今年から年金生活だから、省エネの暖房で過ごすつもりだ。

 今朝はあちこちで水道の凍結事故が起きててんやわんやだろう。中国の黒竜江省、アムール川付近ではマイナス53度を記録したという。

<余談:極東の町の事情と血圧20アップ>
 11月まで住んでいた古里の極東の町ではリビングは朝10度くらいだ。起きる30分前にセントラルヒーティングのボイラーのタイマーでスィッチオンになるので、寝室から降りていくときには床は40度、室温は18度くらいになっている。寝室は寒くなるときだけ暖房を入れておく。暖房を入れておかないと室温は朝5度くらいまで下がる。
 このように室内の温度環境は北海道の住宅の方がずっといい。
 一昨日のテレビ番組で医師が、室温が18度以下の環境で暮らしていると血圧が10程度上がると述べていたが、わたしは20アップしてしまった。
 スキルス胃癌の手術後の血圧は「50-90」で高い方が100を超えたことはない。ところが、先週、病院でドクターが測定してくれたら、「75-118」だった。元々低すぎるからちょうどいいくらいなのかもしれないが、こんなに影響があることにびっくりしている。


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#4898 不動産処分完了 Dec. 27, 2022 [A8. つれづれなるままに…]

 2002年に古里である極東の町へ戻って23年間過ごし、11/23に東京の住まいへ戻ってきました。
 オヤジとお袋が平成元年に建てた家の処分が終わり、今日不動産売買契約が完結しました。不動産屋に連絡を入れたのが8月中旬でした、広告がネットにアップされると1日で5件の申し込みがあり、ストップ。翌日さらに5件あったそうです。そのあとが長かった。でも4か月と10日あまりで希望通り処分できて満足です。

 11月初旬から1600冊ほどの本の処分、そして引っ越し準備作業、引っ越してからの住民登録手続きや介護保険の住所変更手続き、シルバーパス取得など、あわただしい12月でした。ほとんどの作業が終わってホッとしています、正月はのんびり過ごせそうです。
 釧路の不動産屋さんを紹介してくれたMさん、引っ越し業者を紹介してくれた同級生の息子、いろいろな人が協力してくれたおかげで、なんとか引っ越せました。どうもありがとうございます。

 戻ってきてから、ひとつすることができました。週に2回、心の底から愉しんでいます。まだ生活のペースがつかめてませんが、徐々に慣れるでしょう。生活リズムが崩れて毎日の時間の管理ができません、生徒に総要求していたように、ひと月ぐらい記録をつけて眺めます。
 車を手放したので、女房殿の買い物に、毎日バスに乗ってリュックを背負って「荷物持ち」として付き合ってます。歩くことがずいぶん多くなりました。

 日本海側や北海道から大雪の便りがしきりに届いていますが、家の前とバス停の雪かきが懐かしい。でも、そろそろ体力の限界でした。膝や腰を痛めそうな予感がしてました。結構汗をかくのですが、スキルス胃癌で全摘しているので水分補給が追い付かず、尿管結石を2度患いましたが、その心配は今年の冬はありません。ありがたい。
 古里の町にも、日本海側にある町々にも、雪はほどほどの量がいいですね。老人はどこの町にも住んでおり、雪が降れば雪かきしなければなりません。

 ああ、12月にかつての仕事の相棒のS本さんに、立川で会いました。立川は20年前とはまるっきり違う町になっていました。駅周辺はビルが林立しており、オシャレなテナントが十倍以上に増え、人の波も数倍に膨れ上がっていました。20年という歳月はこんなに街並みを変えるものなのですね。首都圏のエネルギーを感じました。なんだか浦島太郎になった気分がしたのは、まんざら錯覚でもなさそうです。
 


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#4849 鍬やママダンプなど道具類:不用になったので差し上げます Oct. 16, 2022 [A8. つれづれなるままに…]

 不要になった冬用道具類と鍬などを処分するので、欲しい方がいらっしゃいましたら、差し上げます。もちろん、新品ではありません。(笑)
 家まで取りに来てください。住所わからなければ、このブログ専用のメルアドがあるので、そちらへどうぞ。

1.鍬(クワ)など
 左から、①鍬(ミツマタ)頑丈な造りです、②鍬(頑丈な造りです)、③土均し道具、④氷割り鉄柱(重さ10kg)、⑤ツルハシ、⑥手斧

DSCN6914s.png

2.除雪道具類
 左から、①冬囲い用細柱、②小型ママダンプ(黄色)、③大型ママダンプ(グリーン)、④氷割り鉄柱、⑤スコップ、⑥屋根雪下ろし道具(延長パイプ2本付)
DSCN6966s.jpg
[新月]10/18②③④⑤⑥行き先決まりました。...m(_ _)m
 


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#4847 極東の小さな私塾のエンディング Oct. 15, 2022 [A8. つれづれなるままに…]

 ニムオロ塾のレギュラーの授業が昨日10/14終わった。2002年11月のスタートだったからちょうど20年間、古里に戻って子どもたちに授業できたことは幸いでした。

 途中、2006年にスキルス胃癌と巨大胃癌を併発して、消化器内科医の岡田優二先生(岡田医院・院長)に「胃癌だと思うので診察してほしい」とお願いし、すぐに内視鏡で癌の診断。そして釧路医師会病院へ入院、後藤幹弘先生(音更町の木野東クリニック)の執刀で6時間の手術、胃と胆嚢の全摘、胃周辺部のリンパ節切除、浸潤していた横行結腸切除、よくいままでやってこれたと、両先生にあらためて感謝です。消化器内科医と消化器外科医という専門医がいたお陰です。当時は市立根室病院には常勤の消化器内科医も消化器外科医もいませんでした。
 お二人の先生と看護師さんたちに手遅れで助からないはずの命を助けていただいた。わたしはその恩を、退院後は古里の子どもたちに授業をし続けることで報いたいと思いました。だから、40日の入院時に数学の問題集2冊を解いてしまいました。貴重な充電期間でした。必要だったのです、入院は天の配慮だと思えました。(笑)

 手術をしてから16年がたち、昨日が最後の授業でしたので、お母さんが数名来られ、ご挨拶ができました。初めてお会いする方もおられた。
 生徒がいたから授業が続けられたわけで、その生徒を塾に通わせる保護者のみなさんがいたから、小さな塾をいままでやって来られました。みんなありがたい。

 塾をやる傍ら、母親の介護、ほとんど女房殿に任せっぱなしで、苦労を掛けました。その母親も平成23年に亡くなりました。長男の義務は果たしたように思います。実際は女房殿のお陰です。

 はっきりした目標があり勉強に熱心な生徒、親に言われてしかたなく来ていた生徒、勉強がわからなくなってどうしていいか悩んで塾へ来た生徒、他の塾が合わなくて来た生徒、動機は一人一人違っていました。急激に成長した生徒、穏やかに少しずつ薄皮をはぐように今までのあまりよろしくない生活習慣を落としていって、人としてしっかりしてきた生徒、全然変わらす辞めていった生徒、ほんとうにさまざまでした。少人数で一人一人丁寧に対応しようと努力したつもりですが、至らなかったケースもありました。
 教えた生徒たちは、人生の荒波にもまれながら、これからも成長し続けるのでしょう。地元に戻って古里の地域医療や地域経済に貢献する者も何人か現れます、期待しています。ああ、何人か戻ってきて地域医療や地域経済を支えています。優秀な生徒の中に北大進学をやめて、高校卒業して根室市役所へ就職して仕事している者もいます。理系科目で学年トップの生徒でしたので、もったいなかった。北大水産なら、楽勝だったでしょう。根室市役所には大卒でなくても、優秀な人材がいます、彼ら・彼女たちは根室の未来にとって宝です、潰さないでいただきたい。もっとも、つぶれるようでは「人財」とは言えません。十年間は辛抱ですよ。

 根室高校から現役で国立医大への合格者を出したいと思ってましたが、OT君が7年間通塾してくれて、一生懸命勉強してました。道北・道東推薦枠で入試、現役トップで合格してます。2次試験の小論文が300点満点で295点でした、そこで差が大きくついて、名だたる進学校からの受験者をなぎ倒してのトップ合格でした。6年間で17冊の本をピックアップして音読トレーニングと大学のゼミ方式での対話型の読解をしてます。音読した17冊の本のリストも、小学5年生1月からの勉強の記録も弊ブログに残してあります。いつまでに何をどうやればいいのか、参考にしてください。後に続く者たちのために指導記録を残しました。旭川医大の偏差値は北大医学部と同じで65です。学費は6年間で360万円にすぎません。学力さえあれば、国立大医学部への進学はほとんどの生徒に可能な選択肢ですよ。
 小4からスタートすれば、OT君と同じくらいの学力を発揮できる生徒が、根室には各学年に2-3人います。今年、札幌光星高校マリスコースへ合格したKH君、一昨年、札幌光星高校へ柏陵中から合格したNS君、この二人はそういう学力の生徒です。NS君は塾へは通わずに独力で学習してました。KH君は昨年8月から3月まで通ってくれました。難易度の高い問題集シリウスをものも言わずに消化してました、いい集中力だった。すでに数ⅠAは8月に終了し、シリウス数Ⅱと数Bをやっています。ブラスバンド部も続けてます。物理学者になりたいのだそうです。思いっきり勉強して、なりたいものになったらいい。京大物理か東大へ現役合格してくれそうです。

 あとは、今日10/15午後から、2時間の英語音読トレーニング授業を残すのみ。予習してくる生徒に限定したら、3人になりました。もう一年頑張り切れば、北大現役合格を目指せる学力があります。メンバーの一人が昨日家族がCOVID-19検査陽性でお休みせざる得を得ないのが残念です。高3年生用教科書PROMINENCEⅢをしっかり予習していました。Lesson6までは終わります。16章あるのであと10章です。残りをしっかりやり切ってください、このテキストは高校教科書では最高難易度の教科書です。これ1冊を2回まわしてください。質問は東京へ引っ越してから、メールで受け付けます。12月にはやれそうです。
 一昨年からやっている、メール配信方式の英作文トレーニングはすでに3年分の問題と解答・解説を作成してあるので、現在の高校1年生が共通テストを受けるまで配信できます。希望者に配信を続けます。

 いままで通ってくれた塾生のみなさん、そして通わせてくれた保護者のみなさん、どうもありがとうございます。これから、引っ越しのために家財道具の整理と処分をします。大きな家具類はお陰様で、ほとんどが引き取り先ができました。これもありがたい。電気製品は東京の家にそろっているので、テレビ一つをのぞいて廃棄処分します。
 古里に戻ってきて20年間、わたしが古里でやるべきことはやり終えました。
 東京へ戻ってからは、ライフテーマである、経済学の体系構成に関する研究と、公理を入れ替えることで新しい経済学の可能性を切り拓く仕事をするつもりです。
 若い人たちが苦役としての労働を公理とする経済学から脱皮して、職人仕事を公理とする経済学をベースにした経済社会を構築をしてくれることを願っています。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」をベースにした大きな社会実験です。いつの時代も、時代を切り拓くのは若い人たちです。


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#4830 根室市役所で土地の買戻し特約抹消申請をする Sep. 21, 2022 [A8. つれづれなるままに…]

<最終更新情報>9/24午前0時20分 民間企業の仕事の仕方追記

 土地建物の売却先が決まったので、引っ越し準備と、いくつかの手続きをしなくてはいけない。昨日、釧路の不動産屋さんから電話が入った。土地が買戻し特約がついているので、その登記の抹消をしてもらいたいという。どこで手続するのか訊くと、根室市役所だという。根室市から購入した土地だからだ。それで、どの課かとさらに訊いたら、「総合窓口へ行って聞いたらわかる」とのこと。そんな窓口はなかったなと思って、権利書や登記簿謄本をもって出かけた。
 1階の固定資産税のところで聞いたら、最初に出てきて話を聞いてくれた人が、わからないので年配の人に代わってくれた。それは法務局だという。市役所がつけた買戻し特約の登記がしてあるなら、市役所で法務局へ買戻し特約登記を抹消しなければならない。わたしが申請できるわけはない。内線で他の課に連絡してくれた。そして最初に対応してくれた人が財政課まで案内してくれた。十数年前に一度訪れたことがあったのでなんとなく懐かしい。財政課が土地の買戻し特約抹消手続きの担当部門なのである。根室市の財産にかかわることだからなるほど、財務課の担当だったのかと、頭の回らない老人にも合点がいった。
 申請用紙に住所と名前と申請年月日を記入した。照す量の収入証紙1000円のものを地下の売店まで行って購入して、2階へ戻って、こちらの手続きは済んだ。地下への通路は冷たい風が通り抜けていた。外断熱の新庁舎ができれば、快適な環境で仕事ができるようになるだろう。
 何日ぐらいかかるのか目安を聞いた。3営業日で余裕を見て27日には完了しているという。法務局へ行って買戻し特約登記の抹消手続きをするのだろうと思う。年に何件もない申請なのだろう。
 お手数かけます。
 

<余談:総合受付窓口>
 SRLに勤務していた時に、「総合受付窓口」が必要だという話が何度か持ち上がったことがある。社内はもちろん社外からの問い合わせを一手に引き受ける役割の部署である。
 臨床検査ラボの八王子ラボは当時8検査部、30くらいの検査課があった。管理部門もラボだけで6つほどあった。本社管理部門がそれに加わり、営業部門と集荷業務もある。システム部門も、検体の受付処理をする業務部門もあり、実に複雑なのだ。結局、全部を理解して、問い合わせに答え切れる人財なんていないということになり、総合窓口の開設は沙汰やみになった。
 釧路市役所には「総合窓口」があるのだろうか?あったらすばらしい。

<買戻し特約登記抹消について:仕事は先手先手でやるもの>
 昭和50年頃に根室市から購入した土地。このころ販売した土地には全部買戻し特約登記がなされているのだろう。転売を防ぐ目的からだったが、土地は値上がりせず、転売しても市役所が買戻しした土地は一つもない。
 いずれその土地が売買されたら、買戻し特約登記抹消申請が所有者から出される。要求が出てからその都度やるよりも、一括でやってしまったら手間がかからない。量が多いなら、暇なときに何度かに分けておやりになったらいかが?財政課は年度予算編成の時期は忙しいから、そのためにも暇なときに一括処理することをおススメしたい。たぶん、1000円の収入証紙がネックになっているのだろう。先手でやれば、手数料が取れません。100か200でしょうね。仮に200件としたら、20万円の話です。

<民間企業の仕事の仕方>
  こういうところが民間企業との大きな違いでしょうかね。経費節減の提案書を書き、実行すれば、その金額の1/10くらいは、お金のかかる仕事に了解をもらえます。1984年に産業用エレクトロニクス輸入商社からSRLへ転職して、初年度は経営統合システム開発と予算編成・管理の責任者として仕事しました。システム開発にトーマツ監査法人から助っ人として来ていた公認会計士のシステム開発スキルが低いので、すぐに契約を解除し、300万円/月の経費を浮かしてます。応援不要なので、一人でシステム開発の外部設計書を1か月ほどで書きあげてます。本稼働まで8か月でした。超速のシステム開発。超速だと基本仕様の変更なしですから、開発コストも半分以下となります。実務デザインと外部設計書を書き上げるのが一番たいへんなのです。実務設計と外部設計書がしっかりしていたら、内部設計は簡単です。最初の仕様から変更は一切ありませんから。試行錯誤がないのです。完璧な仕事をしたらいいだけ。「わたしに不可能はないので」...前職の産業用エレクトロニクス輸入商社で、業界トップレベルのSEと仕事して、6年間修業を積み上げ、日本最先端のシステム開発技術を養っていただけのことです。
 複写費が1億円を超えていたので、数社との地域ごとのバラバラな契約をやめて、ゼロックス一本に契約を変更し、ゼロックス本社と3割カットの交渉をして了解をもらっています。2年目は物件費で最大費目だった材料費(検査試薬)の3割カットを提案、これも卸業者ではなく、直接製薬メーカとの交渉へ切り換え3年間毎年3割カット。新規導入項目は数量が前年比100倍や1000倍になったりするので、そこに絞り込むと可能なのです。16~20億円/年のコストカットでした。業務量が毎年15%拡大する中、削減交渉をし続けました。利益がその分増えたということです。この時期は都立病院ドクターへの贈賄事件があって売り上げの伸びが鈍化してました。だから会社の利益の4割は、わたしの提案による検査試薬コスト低減プロジェクトが稼いでいました。
 だから、創業社長の藤田さんは、「臨床診断システム開発と事業化案」の提案書をすぐに認めてくれて、フィジビリティスタディに200億年お金を使ってよしということになってます。NTTデータ通信事業本部と数回ミーティングをもち、コンピュータの処理速度と通信速度がシステムの要求仕様に達するのは30年後ということがわかり数か月で、中止しました。この時に10個にジョブを分割してましたが、臨床検査項目コードの標準化プロジェクトだけは、大手六社と臨床病理学会項目コード検討委員会の櫻林郁之助教授(当時自治医大)の産学協同プロジェクトを立ち上げて、数年間にわたって検討し実現しています。いま全国の病院システムがそのコードで動いています。だから、SARS-CoV-2検査もそのコードで簡単に病院からでも、検査センター経由でもコンピュータデータとして翌日には収集できます。
 こういう仕事をしていた時に、八王子ラボの機器や設備の購入担当をしましたので、最上階の社員食堂の備品を一新するときには、3業者に「値段に糸目はつけません、品質が高くデザインが一番よい提案書をもってきたところへ発注します」と伝えて、1300万円~1900万円の見積書が出され、一番高い1900万円の業者が落札してます。一番安い提案書をだした業者の担当者が「ebisuさん本気で言ってたんだ」と、半分冗談だと受け取って安物の見積もりをしたのだそうです。デンマーク製だったかな、布張りのソファと木製のイスとテーブル。社員のマナーがよくなりました。それまでソファーには煙草の焼け焦げがいくつもありましたが、いかにも高そうな布張りなので、1年間焼け焦げナシ。(笑)寝そべって漫画の本を読む人もいなくなりました。臨床検査学校がラボ見学にいらっしゃいますが、そのときに社員食堂が見せ場の一つでした。「社員を大事にする会社だから、デンマーク製の高級な備品を社員食堂に使っています」と説明してました。一つクレームがありました。掃除を担当する人たちから、重いと言われました。パイプ椅子やパイプの脚のついたテーブルに比べて、ずっと重くなったのです。配慮が足りませんでした。
 金額が張るので分掌権限規定に従って自分で購入協議書を書きますが、1千万ぐらい高くても、仕事で実績のある社員の提案には経理部長も、管理担当専務も黙ってOKだしてくれます。誰の提案かが問題なのです。
 ウィルス検査室の蛍光顕微鏡もカールツァイス社製のもので全部そろえました。技術の高さを売り物にしている会社ですから、ルーチン検査現場では世界最高のものを使っていいのです。「揃えてあげるので、このオリンパスの蛍光顕微鏡の購入協議書、書き直してもってきて。ツアイスの見積もり取っておくので」、「え!ツァイス製の本当に買っていいんですか?」、「責任持つよ、OKだ」。オリンパスは200万円を少し切ります、ツァイス製の蛍光顕微鏡は350万円でした。ウィルス検査部の係長から、廊下を歩いているときに「あれがebisuさんだ!」と言われましたね。検査管理部が検査各部の予算のとりまとめ役なのですが、本社経理部門から予算編成責任者が八王子ラボに異動したのですから、わたしの決断にクレームはありませんでした。予算管理の責任者をしていましたので、予算の実質的な決定権限が平社員のわたしにあったのです。だから、検査管理部長はなにも言いません。逆なのです、ラボの言い分を通してくれる本社とのパイプ役だと思っていたでしょう。実際そうでしたから。平社員でもラボの部長よりも権限が大きかったのです。予算の権限を持っているものが偉いのは国の機関でも一緒ですよ。財政相が偉いし、予算を握っているので権限が大きい。
 本社にはラボのことを理解できる人は誰もいなかったので、いいパイプ役だったのです。新規導入項目開発につながる、ルーチン現場の検査担当者にも高額な機器を、私の一存で買ってあげられました。10人に一人がヒットするだけでいいのです。弾がたくさんなけりゃ、高成長できません。
 そういうわけで、民間企業では、仕事の実績が大きい社員は、いくらでもお金が使えたのです。もちろん、金額が大きい時は会社の分掌権限規定に従って、協議書を書いたり稟議書を書く必要はあります。だれが書いたか、だれが関与したか(承認印)は書類をみたら判断がつくので、わたしが書いたものや承認したものは、経理部長や管理担当役員はフリーパスでした。もちろん、他の部門の担当役員もアンタッチャブルでした。利益の4割を一人で稼ぎ出せば、お金を使うことにだれも文句は言わないのです。もちろん会社の成長には不可欠な投資ですから、どこからもクレームのつけようがありません。自分個人の利益のために動くことはなかったのです。
 利益という打ち出の小づちのある民間企業って面白いでしょ。自分で稼いだ金のいくばくかは、自分の裁量でつかえます。ただし、私的なことには使ってはいけません。世のため人のためですよ。自分のためは一番最後にしましょう。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」で仕事していました。


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