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#4638 夫婦:女房殿の話に耳を傾ける Oct. 27, 2021 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 昨日、女房殿が中標津空港から羽田へ飛んだ。年に一度、下水の配管清掃作業に立ち会わなければならないからだ。
 11時54分の中標津空港行バスへ乗るために駅前のバスターミナルまで車で送った。午前中は首都圏の天候が荒れて風が強いと天気予報。午後9時に仕事が終わって50分ほど食事にかかってそれから電話しようと携帯を手に取った途端に着信ベルが鳴った。
 中標津空港へ着いてもなかなか羽田からの飛行機が来ない、出発できたのは1時間遅れだったという。中標津空港⇒羽田はCOVID-19でずっと休便になっていた。3月に東京へ行ったときは中標津空港からは飛べなくて、釧路空港を利用した。

 機長が途中風が強いので揺れますとアナウンス。
「昔はあまり当たらなかったよねー、この頃ちゃんと当たるのよねー」
「そういえばそうだったな、観測精度がアップしているんだ」
「30分くらいずっと揺れてたわ、強い北風だから早く着いたの」
「そんなバカな、南に向かって追い風だから早く着くなんて、まるで自転車みたいだ。ちょっと揺れるくらいでは飛行機はびくともしないから。荷物はすぐにでてきたろう?」
「それが飛行機が連絡通路に横付けになって、そこからバスに乗って到着ロビーへ行ったのよ、いつもの経路と違ったわ」
「そうなんだ、それでバスは6時5分発に乗ったのかい?」
「到着口から出たら5時半になっていたの、自動券売機は5時35分はもう締め切り、だから6時5分発の桜が丘行きを買ったの、だけどバス乗り場へ行ってみたら、3分前で、荷物を入れる車体の下のドアが閉まっていた」
「バスの前にいる人に話して、6時5分なんだけど、このバスに切り換えてもらえますか?って言ったら、手書きで直して、OKです!って」
「ラッキーだったね」
「空港で一人で30分も待っているの嫌だったから」
「それで山手トンネルかい、混んでた?」
「車が込んでいて山手トンネル通らなかった。新宿で中央高速への入り口で込みだして時間がかかって、しばらく甲州街道を走ったわ」
「ノロノロ運転で、退屈だから車のナンバーを見ていたら、八王子や多摩ナンバーが多いの、仕事が終わって帰宅する車かな?」
「7時前に着いたの?」
「ううん、7時15分くらいだった。お弁当買って、神戸屋さんのケーキが3割引き、ずらっと並んでいたわ。8時近かったからもうショートケーキとシュークリームぐらいしかなかった。列の後ろの方の人は買えなかっただろうな。」
「神戸屋さんのケーキは高いけどおいしいからね。」
「8時発のバスに乗って帰ってきた。お弁当食べてお腹いっぱい。」
「何買ったの?」
「とんかつ弁当。」
「残っててよかったね。サボテンかな?」
「そう。メールがあって、今日〇〇ちゃんの運動会だったの、中止にならなかったらしい。だから、明日に延期にならなかった、残念。」
「今週行くって言っていたので、月曜日に東京へ着いていると思っていたみたい。」
「惜しかったね!」

 こんな他愛もない話を30分ほどしていた、なんだかとってもご機嫌である。途中で眞子さんの会見ニュースが入っていたが、それを消してじっくり話を聞いた。
 いつも何かしている最中に話しかけてくるので、ナマ返事で、話の内容を覚えていない。考え事をしていて話しかけられても、音としてしか認識できないのです。それで、「いつも私の話を聞いていない」って叱られてます。きょうはしっかり聞けたな、こんなこと何年ぶりだろう。英作文問題とその解説集つくりで、この1年と10か月忙しかったので、ずっとナマ返事していた(1018回分9200題のメール配信用の問題と解説集ができあがった)。ちゃんと聞いて上げたらご機嫌なのだ。たまには、こうしてちゃんと話を聞いてあげよう。
 一緒に暮らし始めてからもう53年だ。高校生の時にめんこい下級生がいるなと思ってから56年。この年になってようやく日常のお付き合いのコツがわかった。三日に一度くらいは30分間は話をじっくり聞いてみるということ。
 東京時代は土日は書斎に引きこもって常に何かに夢中になっていた。ウィークディも仕事で遅くなるのがあたりまえ、娘と晩御飯を食べたことなどほとんどなかった。
 2002年の晩秋に古里根室に戻ってきてからも何かに夢中になる癖は治らず、阿呆はいくつになっても阿呆です(笑)。
 1年ほど前にリビングに置いてある机を一つ増設して連結し、作業環境を良くしました。冬は別の部屋で作業すると暖房費がアップするので、節約のためにリビングで作業をしていることが多い。今年は灯油が100円を越えたそうだ。根室へ戻ってきてから40円台のことがあったと女房殿。
 北海道は冬の暖房コストがバカにならない。室温26℃で半袖で過ごすなんてことはナシだ。

<余談>
 最近体重は62㎏前後アリ、15年前にスキルス胃癌の全摘手術をしてから、この1週間、体重は最大値を記録している。だが、口内炎がでて、食事が辛い昨日が一番ひどかった。腸の炎症が起きてひどくなると、口内炎が起きる。消化器管としてつながっているのでそうなるのだろうか?
 舌には濃い味付けのものが染みる、びりびりするので、鏡で見たら、舌の中央部付近から奥が薄黄土色をしている。あちゃ、ひどいな、痛いわけだ。食べないのが一番いいが、食べないと体力も体重も失う。経験則だと2㎏減少すると、回復に1か月を要する。
 昨夜は、頭頂部にとろりとしたものをイメージしてそれが口内や腸に広がっていく様子を想像した。内観と言うらしいが、今朝起きたら、口が渇いていないし、舌が痛くない。半分は気のせいかもしれないが、楽にはなった。これで食事が苦痛ではなくなる。好い朝です。
 今日は中3生相手に、教科書の音読トレーニング特訓の日。水曜日は塾は休みですが、今年は高3と中3対象に1か月間隔で音読トレーニングを実施しています。英語アレルギーの人が多いので、放って置いたら勉強しないからです。読めなきゃ英語ができるようになるはずもありませんから。10回音読、そして意味をつかんで、それをイメージしながらさらに3回音読。あとは家で自分で30回読んで10回書いてくれたら、定期テストは8割以上点が取れます。でも家でやらない人が多いんだよね。(苦笑)
 突然化ける生徒がたまに出ます。9年前のことです。学力テストで英語が半分くらいしか得点できなかったMK君が1月から2か月間一番前に座って質問しだしました。入試本番で満点でした。あれには驚いた。受験票もって行って高校の窓口で点数確認して来いと言ったら、本当に満点。MK君、中高とサッカー少年です。彼と同期のIY君が早稲田商学部に一般入試で現役合格してました。中学2年で「塾卒業」の免許を与えた二人の生徒のうちの一人でした。もう塾来なくても大学入試は大丈夫だと感じたので、サッカーしながら文武両道でトライしたらと薦めました。一緒に一番前に座って質問しだしたKT君は総合ABCが11-13点でした。英作文中心に2か月一番前の席に座って質問しだしました。次第にいい質問が出るようになりました。彼も入試本番で49点。当時は60点が満点です。教えた私も、なにより本人が一番びっくりしたでしょうね。KT君は根室で仕事してます。うれしいね。高校時代はバイトに精出してました。それぞれ自分の選んだ道を歩いています。
 成績が突然に大幅にアップする、みんなに起きるわけではない、ごく少数の者に置きますが、こういうことが誰に起きるか本当にわからない、だから生徒が指示通りに家で復習しようがしまいが、わたしがやるべきことだけはやる、後は生徒の問題、最後まであきらめないのです。おそらく英語アレルギーを直す生涯最後のチャンスです。それをものにできるかできないかで生徒の未来に影響があります。
 ブラスバンド部の生徒は定期演奏会が11月下旬にあるので、練習が忙しくて10月の音読特訓には来れませんでしたね。12月と1月の2か月間を充てようと予定しています。大学や看護学校進学の生徒は推薦でほぼ決まりだからやる必要なしです。空いた時間をブラスバンド部の中3へ振替。学力テスト総合Bで英語が80点を超したのは一人だけ。合計点も390点台⇒420点台⇒430点台と目標の450点に向かって着実に歩んでいます。450点の取り方を教えただけ。科学者になりたいというので、学問研究の仕方について具体的な説明はしています。効率的な受験勉強という学習スタイルは棄てるべきです。そういうことをちゃんと織り込んで指導しています。7月下旬から来ている生徒ですが、出遭うべくして出遭った感があります。道内最高峰の難易度の高校への進学。根室高校からでも北大総合理系レベルなら、現役合格できるでしょう。ほんとはこういう生徒は全部根室で育てたいね。今年の3月は旭川医大へ現役合格したO君がいました。生徒の5%は小4から長期戦略で受験勉強すれば、そのうちの半数は北大レベルなら現役合格できるのです。根室の教育関係者はやり方を知らないだけです。1学年200人とすると5%は10人、そのうちの半数の5人は国公立大医学部や北大以上の難易度の大学へ根室高校から現役合格する道があります。



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#4509 うっせえうっせえうっせえわ:Ado Mar.15, 2021 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 面白い歌が流行っている。小学生でもすっかり歌詞覚えて「うっせえうっせえうっせえわ」してる子が増殖中だという。COVID-19よりも激パンディミックだ。親が心配していると今朝のNHKラジオで解説していた。

 現役高校生が歌っている。リリースしてから4か月ですでに9500万回の再生回数だという。間もなく1億回を突破する。どこまで伸びるかわからないが、あまりはやると「うっせえ」。

 「正しさとは愚かさとは/それが何か見せつけてやる/ちっちゃなころから優等生/気づいたら大人になっていた/ナイフのような思考回路/持ち合わせるわけもなく/でも遊び足りない/何か足りない/困っちまうこれは誰かのせい/あてもなく混乱するエイディ」

 歯切れがいいね、反逆精神の欠片がラップ風のリズムに乗ってポンポン飛び出してくる。

 「骨まで愛して」は城卓矢が1966年にリリースした歌で、美空ひばりさえもカバーしている大流行した歌だ。そのころ根室高校から明治牧場内を横切って歩いて家へ帰るときに、小学生が

「生きてる限りは/どこまでも/探し続ける恋ねぐら/傷つき汚れたわたしでも/骨まで骨まで/骨まで愛してほしいのよ」

と、体をよじって歌っているのに出くわしたことがあった。思わず顔見合わせて大笑いした、小学生には似合わぬ歌だったから。あれは天気の良い土曜日だった。昔は土曜日は4時間授業。一緒に笑ったのは誰だったかな。サイロの横を突っ切って小道があったあのコースを土曜日に一緒に歩いて帰った同級生はすくない、ヒロシだったような気がする。
*城卓矢 骨まで愛して 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)


Ado うっせぇわ 歌詞 (j-lyric.net)
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歌:Ado

作詞:syudou

作曲:syudou

ただしさとはおろかさとは
それがなにせつけてやる

ちっちゃなころから優等ゆうとうせい
づいたら大人おとなになっていた
ナイフのよう思考しこう回路かいろ
わせるわけもなく

でもあそりないなにりない
こまっちまうこれはだれかのせい
あてもなくただ混乱こんらんするエイデイ

それもそっか
最新さいしん流行りゅうこう当然とうぜん把握はあく
経済けいざい動向どうこう通勤つうきんチェック
純情じゅんじょう精神せいしん入社にゅうしゃしワーク
社会人しゃかいじんじゃ当然とうぜんのルールです

はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたがおもうより健康けんこうです
一切合切いっさいがっさい凡庸ぼんよう
あなたじゃからないかもね
嗚呼ああよく似合にあ
そのもなく不可ふかもないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
あたま出来できちがうので問題もんだいはナシ

つってもわたし模範もはん人間にんげん
なぐったりするのはノーセンキュー
だったら言葉ことば銃口じゅうこう

そのあたまきつけててば
マジヤバない?まれやしない
不平ふへい不満ふまんれてれの
サディスティックに変貌へんぼうする精神せいしん

クソだりぃな
さけいたグラスあればぐにそそぎなさい
みながつまみやすいようにくしはずしなさい
会計かいけい注文ちゅうもん先陣せんじん
不文律ふぶんりつ最低限さいていげんのマナーです

はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
くせぇ口塞くちふたげや限界げんかいです
絶対ぜったい絶対ぜったい現代げんだい代弁者だいべんしゃわたしやろがい
もう見飽みあきたわ
二番煎にばんせんえのパロディ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
丸々まるまる肉付にくづいたその顔面がんめんにバツ

うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
わたしぞく天才てんさいです

うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたがおもうより健康けんこうです
一切合切いっさいがっさい凡庸ぼんよう
あなたじゃからないかもね
嗚呼ああつまらねぇ
何回なんかいかせるんだそのメモリー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシも大概たいがいだけど
どうだっていいぜ問題もんだいはナシ

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 エネルギーに満ちていて、全身からエネルギーがほとばしる若者が出てこないものかと期待して待っていたが、歌の世界に現れた。1980年代にレベッカというバンドがあった。FBで採り上げていた人がいたので、聴いてみた。元気いっぱい、若いころはあれでいい。

 根室商業時代からの伝統だった総番制度はヒロシが潰した。総番制度に普通科の生徒はアンタッチャブルだった。商業科で規格外の生徒たちが集められた「Gクラス」のA野とわたしも少しだけ関与している。1年生が終わり、一年間生徒の性質を見極めたうえで、どうにも扱いに困る生徒たちはベテランの冨岡先生のクラスに集められたのである。お陰で面白いクラスだった。わたしは1年生の時にはFクラス。隣のクラスにヒロシがいたはずだが、お互いに全く面識なしだった。出身中学校もヒロシは柏陵、わたしは光洋だったので接点がない。「Gクラス」へ集められなかったら、接点がないままだったかも。出遭いは偶然、否、行動を考えると必然だった、Gクラスという箱が必要だった。2年と3年の2年間、同じ箱の中で過ごした。1年生の夏から足駄(10㎝くらいの高下駄)を履いて通学した。背が高い方だったから上級生を見下ろすような格好になった。ずいぶん目障りな奴だったのだろう。総番グループだって足駄で通学する奴は少なかった。何かルールがあったのだろう。ルールなんかうっせうっせだった。
 丸刈り坊主頭の校則は2年生になってすぐに生徒会で改正の段取りをして、3か月後には生徒総会で校則改正にこぎつけ、11月の修学旅行は長髪で東京・京都・奈良を歩いた。
 当時の修学旅行は11泊12日だった。こちらはたまたま生徒会会計をしていた私が担当した。校則改正を提案したら、3年生の副会長2人が「おまえがやれ」と言ってくれたからだ。3か月で完了できる具体的な段取りをすぐに決めて実行に移した。目標は修学旅行へ長髪で行くことだった。保護者への髪型のアンケートを実施し、スケジュール通り運んだ。
 当時の生徒会会計は生徒会の帳簿をつけて決算までやっていた。政府で言うと財務大臣のポストだった。簿記の成績のよい者が任命されていた。たまたま先輩のNさんがわたしを指名した。思いっきりのいい人で、2年生の時に各部の予算折衝を「おんちゃ、おまえがやれ」と一人で任された。各部の部長と副部長を生徒会室へ呼んで個別に予算折衝をした。責任が重い仕事だったが、そういう仕事を任されて、人は育つ。

 ぶっ飛んだ高校生時代だったが、ヒロシもおれも社会人になってからちゃんと仕事してきたから、至極まともだ。(笑)

 あいつも会社役員になったし、俺も3度別の会社や病院常務理事を経験して、53歳の時に古里へ戻って来て小さな私塾をやっている。それも役目はようやく先月に終えた、もう少し続ける。
 若いうちは一度はぶっ飛べ!



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#4244 ビリヤードのタップの調整の技と世界最高のチョーク、そして勉強法 May 8, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

<ビリヤードの思い出:タップの調整>
 わたしはビリヤード屋の息子、小学校へ入学する前からビリヤード台の上で遊んでいました。小学生の低学年からお客さんたちとビリヤードして遊んでもらいました。じきに店番を手伝うようになり、中学生のころは独りでもお客さんたちをさばけるようになっていました。小学生のときには床に就いても頭の中にビリヤード台が浮かんで、そこで球を撞いています。「エアー」でというか「バーチャル空間」でビリヤードできるようになっていました。それで球の配置を変えてトレーニングできるんです。中学生の時にその技が学習に使えることに気がつきました。集中して授業を聞いていると、授業を聴いた後に黒板の文字と先生の説明の言葉が脳内に再現できることに気がつきました。それからは勉強が楽になりました。授業の合間の数分間に目をつむり、頭の中に黒板に書かれた文字を再現すればいいだけ。成績は勝手に伸びていきました。店番の合間に、目をつむって思い出すだけで、数分で復習できました。お店で夢中になって遊ぶことで、ユニークな学習方法を自然に身につけてしまっていました。だから、さまざまな概念を頭の中に思い浮かべて関係を探ることが大好きです。経済学の研究も自然にそちらの方へ向かいました。だいぶ遅れましたが数学も。20歳代の半ばころにユークリッド『原論』とマルクス資本論体系の相同性に気がついたのです。
 高校卒業するまでずっとお店の手伝いをしてましたから、門前の小僧習わぬ経を読むの類でして、ビリヤードの腕前はいつのまにかセミプロクラス。高校卒業して古里の根室を離れて東京生活が始まると、都内の有名ビリヤード店をいくつか訪れました。そしてプロのトレーニングメニューを知ることになったのです。一流のプロの中には、親切にトレーニングメニューを教えてくれる人がいました。ノートに50ページほどトレーニング図面を書き溜めてあります。セミプロからプロになるためのトレーニングメニューです。こんなノートは世の中にあまりないでしょう。プロは公開したがりません。スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生はNHKのビリヤード講座を担当したときに教本を書いていますが、高度な技は書かれた本がないのです。理由をお聴きしたことがあります。「半端な腕前の者が半端な理解でこうはならないとクレームを言う、面倒くさいことになる、だから書かないんです」とおっしゃりながら、そのレベルの技をわたしには丁寧に教えてくれました。「面授」なら人を選んで教えられるので、小林先生は教えてくれました。誤解するような人の質問には答えないでしょうね。
 「毎日来なさい教えてやるから」と言ってくれたのは、八王子市にあるチャンピオンというお店のオーナーの町田さんでした。そこには息子さん用の鉄製のキューがありました。プロのプレイヤーにするのに素振り用に鉄製のキューをつくったと言ってました。それを見て『巨人の星』の「大リーガー養成ギブス」を思い出しました。うちのオヤジなら、考え付いても息子が可愛くてそんなことやらせっこありません。遊びでいいんです。次男の正さんがアーティステックビリヤード世界2位です。長男も同じ鉄製のキューで素振りしたはずと思って、聞いてみました。腕はよかったそうですが、まだプロのビリヤード選手で飯が食える時代ではなかった、それで板前にしたと。次男のときにはプロのプレーヤーで飯が食えるかもしれないと思ったそうです。正さんはボークラインゲームでは全日本チャンピオン。皇族がビリヤードのコーチを受ける霞会館で現在の天皇のコーチだったようです。小林先生が自分の後は彼になったとおっしゃっていました。小林先生の推薦だったのでしょう。
 そういうわけでプロのトレーニングメニューのすごさを知ってます。一流のプロの指導技術や指導メニューは効果抜群です。

 時は小学生のころ、昭和30年代初めころにさかのぼります。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生は毎年根室に来られて、ラシャの張替えをして、そのあと根室でナンバーワンの腕前の人を相手にアメリカンセリの技を見せてくれました。短クッションで往復するセリです。角に来て、方向転換するときがむずかしいのです。図面上で検討して理屈は呑み込めても、何度もパターントレーニングをしないと身につかない技です。短クッションのセリは吉岡先生以外には見たことがありません。白髪のとっても品の好い方でした。
 スリークッション世界チャンピオンの小林先生にはボールの配置した図面を描いてもって行き、質問をしたことがあります。丁寧に教えてくれます。マッセのキューの構え方を教えてもらいました。吉岡先生とは違った構えで、クビにキュー当たります。吉岡先生の方式はこめかみの上のあたりにキューが当たります。小林先生の構えの方が撞点がよく見えるんです。
 シルクハットというマッセの大技のもち主である町田正さんのマッセの構えは記憶にありません。あの大技は世界で町田正さんだけの技です。台の端から端までL字を描いて玉が走ります。キューの重量は23オンス以上(私が普段使っていたのは14.5オンス)でしょうね、うんと重くないとやれない技。あんな勢いで球を撞くことができたとしても止められません、ラシャを撞いて破いてしまいます。それがちゃんと止まっているのですから驚きです。あの技をテレビで見たときはどういうトレーニングでああなったのかまるでわかりませんでした。お父さんのお店に素振り用の鉄のキューがありました。あれで素振りを繰り返さないと身につかない技です。マッセトレーニング専用の1辺が50㎝くらいの正方形の台がありました。スレート(石)をカットし、枠木を誂える、そしてクッションもゴムを切って貼り付ける、とっても手間をかけて造ったもの。お父さんが息子にマッセの練習させるために特別につくったものです。世界一にするためには何でもやる、父親の執念を感じました。町田正さんはキューの切れがものすごくいい、そして柔らかい。才能もありますが、道具とトレーニングもなければ絶対に身につけられない技、それが「シルクハット」です。トレーニングの仕方がどれほど重要かわかります。おそらく小林先生でも真似できません。そういう特別なトレーニングをしていないからです。
 アーティステック・ビリヤードで世界2位の町田正さんのお父さんのお店へ出入りするようになって、数回目の時、「プロだから、コーチ料をとるのだが、ebisuさんにはタダで教えてあげる」と言われました。わたしは自分の筋がよかったからと思いたいのですが、もっていたキューがある名人の作だったからでしょうね。タップも世界最高クラスのメーカの逸品がつけてありました。「いまもうないよこのタップ、十数年前に見たのが最後、鑢(やすり)を当てさせてくれないだろうか?」と申し入れがあり、OKしました。タップをいとおしむようにやすりを充てて削った後に、タップの調整の仕方を教えてくれました。角を落として半球状に仕上げます。台の上に置いた球と目からキュー先のタップのカーブがちょうどかぶさるような位置から見て、同じになるように調整します。そのほうが球の端の撞点をついたときにミスショットが少なくなります。いや、そうではない、だいじなのはいままで狙えなかった外側の下の撞点を撞き抜くことができるようになった、軽い弱いショットでドロー・ショット(引き)ができるようになりました。大きさの異なる円と円が打突でぶつかります。タップの角に当たるとミスショットが出やすいのですが、半球状に調整すると角がないのでミスショットになりにくいのです。吉岡先生のタップの調整の仕方は半球の上面、そうですね半径で割ると1/4くらいのところでカットしたような穏やかなもの、だから角が立ってます。そういうやり方がスタンダードでした。町田先生のタップの調整法はわたしにはまったく異例だった。理屈がわかったのでそれから、町田先生方式のタップの調整をしています。どうぞ、セミプロ以上の腕前の方は、真似してください。安物のタップや腕が悪ければどんなに素晴らしいタップの調整ができてもおそらく効果は小さい。(笑)
 小林先生は平成のときの天皇のビリヤードコーチ、常連会で準優勝したときに世界最高のチョークをワンケース(12個)を賞品としていただきました。アマチュア全日本チャンピオンのK柴さんに決勝で負けました。一回目は撞き切り(自分の持ち点をノーミスでクリアすること)ましたが、その裏をK柴さんも撞き切り、延長の2戦目はK柴さんが先、2回続けて撞き切りました。試合で撞き切りなんて滅多にあることではないのです。それが3回続きました。初回にわたしに撞き切られたので、あいつ本気モードになった。(笑) さすが元全日本アマチャンピオン本気出すと半端なく強い。ゲームの種類はキャロムゲームの三つ玉です。
 見ている人たちが手に汗握る白熱の試合、準優勝でしたが、観客に大いに楽しんでもらえました。メーカーがとっくに潰れて、小林先生が世界大会用にしか使わないチョークを準優勝商品にいただいたのです。半分は残っています。ダイヤモンドを砂にしたようなきらきらしたものが青色のチョークに混ざってます。思いっきり端を撞いても、ミスショットにならない。こんなチョークは初めてでした。
 町田正さんは今の天皇のビリヤードコーチでした。ボークラインゲームを3回お相手願いました。このゲームの全日本チャンピオンですからね。わたしはお相手していただいただけで感謝感激でした。トレーニングメニューは正さんのお父さんの方に教えていただきました。ノートが50ページほどあります。
 そういうコーチに巡り合うのは、ほんとうに稀。自分の方から出かけないとお会いできません。熱意があれば、叩くと案外と門は開くものです。どんなに偉そうに見えても、実績があっても、相手もやはり人間なのです。熱意にはいつか応えてくれます。(笑))
 駿台予備校の荒木重蔵さん(数学)が小林先生のお店の常連会で一緒でした、プロクラスの腕前です。三菱銀行のN川さんもお上手だった。システム関係の担当だと言っていたような気がします。常連会には日本野鳥の会の方が2名いました。1986年から1992年ころまでの話です。町田先生のビリヤードは八王子、小林先生のお店は新大久保から徒歩2分のビルの2階、仕事が忙しくて、なかなかいけませんでした。
 小林先生のお店にはベルギー製のスリークッションの台が4台ほどあったかな。ラシャが綾織りでなくて平織りだった。掌を当てて前後に動かしてもラシャがほとんどずれません。人間の力では無理そうなのでどうやってラシャを張るのか訊いてみました。ラシャを引く専用の道具があるんだそうです。それで引っ張りながら隙間をつめながら鋲を打つそうです。台にはヒータがついてました。日本は梅雨があるので湿度が高くなるからです。湿度が高くなると、角度が小さく出てしまいます。ベルギー製の台のラシャ張替え一度だけでいいから手伝ってみたかった。吉岡先生のラシャ張替えを小さい時から何度も見ていたし、中学生ころからはオヤジを手伝ってラシャの張替えやったことがありました。いまできるかな?あやしい!自分一人で全部をやったことはなかったけど、作業の段取りは記憶にあります。お手伝いくらいしかできないでしょうね。あれ、結構楽しいのです。張り替えたあと、まっさらなラシャの上で玉を走らせてみる。なつかしい。

 小林先生もビリヤード店の息子です。わたしは「小林さん」と言ったことがありません。どういうわけか出遭ったときから「小林先生」でした。ネットで調べたら小林先生は7歳年上、誕生日が3日違いであることを知りました。あれ、忘年会のときに聞いたかもしれません。誕生日が近くて肩組んで写真撮りましたね。聞いた、聞きました。忘れてました。
 昨年11月に77歳で亡くなられています。お世話になりました、ご冥福をお祈り申し上げます


*ビリヤードスリークッション世界チャンピオン小林伸明
7https://ja.wikipedia.org/wiki/小林伸明

**町田正
http://champion.wp.xdomain.jp/

 町田先生のこのお店はお父さんが経営していたもの、とってもなつかしい。SRL八王子ラボ勤務のときに20回ほどしか行けませんでした。正さんは京王八王子駅前のビルの2階でご自分の店をやっていました。お父さんが亡くなって移られたのでしょう。

<余談:小寺さんと友人K藤>
 小寺さんがバドミントンが学力をアップするのにとっても役に立つと彼のブログで繰り返し述べておられます。市民バドサークルを三十数年間奥様と主宰して来られた。息子さんや娘さんもそのサークルの一員です。小寺さんは東大現役合格、そのまま大学院へ進学し、マスターを終えたあと富士通へ。野球が大好きで、東大野球部のメンバーだったそうです。野球のことは技術的なことをよく知っていますから、大学時代は勉強には熱が入らなかった方かもしれませんね。東大の人は頭で野球する。(笑)
 都内随一の進学校である開成高校に「たまたま合格」(小寺さんの弁)した息子さんは開成でもバドクラブに所属、いまは東工大教授で量子コンピュータを教えています。娘さんもバドの名手だそうです。バドの名門高校関東第一高校の教頭先生のようです。国語が専門。
 小寺さんのブログの愛読者の一人ですから、いつのまにかプライベートなことをよく知っています。

  東大安田講堂の事件があったときに大学院の1年生だったというので、私よりいくつか年上です。1969年1月の東大安田講堂事件では根室幼稚園の幼馴染が立てこもった一人だったので記憶しています。SRLで東証Ⅱ部上場準備要員として私より2か月先に採用されたK藤がその年の受験でした。東大の受験はその年はなかった。「あればわたしは東大法学部卒だった、浪人できないので仕方なく中大法学部へ行った」とK藤。41歳の時に会社を辞めて独立起業、2年後に事業が軌道に乗り始めたときに胸部に進行性癌ができて、半年で逝きました。癖があるけどとってもいい奴でした。事業が軌道に乗り始めたら、一緒に事業をやらないかと誘ってくれました。最初は副社長、断ると社長のポストではどうだろうと。臨床検査業界最大手のSRLでなければやれない仕事がいくつもあるので、それも断ると、事業を分割して営業譲渡、その直後の発病でした。奥さんは東大理三卒、ある有名海外メーカの化粧品部門の開発部長でした。

 小寺さんはバドミントンが学力アップに効果があると繰り返し述べていますが、わたしの場合はビリヤードです。無心に遊ぶ時間をもつことがどんなに脳を活性化するかよくわかります
 子どもの学力アップに興味のある方は、小寺さんのバドミントンのブログをお読みください

**バドミントンが拓くあなたの未来
https://blog.goo.ne.jp/badmintonmusume/e/e446278865d

 #3066 C中学校バドミントン部:首都圏の技術指導チャンネルを開く Jun. 24, 2015
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2015-06-24

<余談-2:バーチャル空間で無心に遊べ>
 ビリヤード台を頭の中に浮かべて、ゲームを楽しむ技が小学生の時にに身についていたことはすでに述べた。さまざまな問題を脳内の引き出しにしまっておいて、いつでも取り出してそれをいじくることができたから、ルーチンの仕事のほかにプロジェクトをいくつ抱えても負荷にはならなかった。多い時にはルーチンのほかに5つのプロジェクトを2年間抱えていたことがある、このときの5つのプロジェクトはメンバーが役員と部長が2人、課長が3人、実際にプロジェクトの作業をするのはわたし一人、産業用エレクトロニクス輸入商社で愉快な仕事だった。財務委員会、長期計画委員会、収益見通し分析委員会、為替対策委員会、電算化推進委員会、あとで6つ目の利益重点営業委員会の方もシステム化案件を含んでいたので、東京営業所長(課長職)のE藤さんから円定価システムを頼まれて一緒に実務の検討からやった。移動平均値で円定価に使う為替レートの計算式を決め、平均的な納期で仕入レートを決定、推定仕入額を計算して、バルクで為替予約をした。それで、為替差損の発生が消滅、日米金利差で、仕入額の2%ほどつねに円高差益がでるという利益構造に変えた。E藤さんはわたしが付き合った営業マンの中ではナンバーワン。

(昨日、フランスからPCR検査機械の製造で感謝状をいただいたPSS社長の田島さんが営業マンとしてはE藤さんの次かな。1986年ころはアドバンティック東洋という会社の営業マン、SRLの業務部の自動分注機開発のメーカ側の担当者だった。自由に開発をやりたかったのだろう、SRLをがっちりつかんで、会社に見切りをつけ数年で独立している。購買担当で、八王子ラボの検査機器に限らず、固定資産購入はわたし一人でやっていたから、かれのところへの購入協議書の審査を何件もしたし、発注書も何枚も書いた。独立した当初も同じ。わたし一人で年間20億円以上買っていたし、製薬メーカとの検査試薬の価格交渉はもっと金額が大きかった。だから、よほどしっかりしていないと危うい。お誘いに呑み込まれたり、自分の方から接待を要求する、そういう人が絶えなかったのである。程よい距離を保つのが好い。
 田島さんには一度だけ八王子の居酒屋で酒をご馳走になったことがあった。その居酒屋の店主の趣味が全国の酒造巡り。で全国の造り酒屋を回って自分が飲んでおいしいと思った酒だけ買ってくる。といっても十本単位だから、あとで送ってもらっていたのだろう。取材がはいって有名になるともう行かないと言っていた。特別に仕入れた銘酒が地下蔵にたくさんしまってあった。メニューや壁に名前が張ってある銘柄を選んで注文して飲んでいると、「こちら飲んでみてください」とおもむろにガラス製のグイ呑みを三つ並べた。二つは美味しかった、無名の地方メーカーだった。一つだけまずいと感じたので、苦労して仕入れた酒をまずいと言っては失礼だから、「この盃の酒は悪いけど僕の口には合わない」と言ったら、満面の笑み。田島さんと酒談義しながらカウンターで飲んでいたので試されたのだ。そのあとで、とびっきりの酒を出してくれた。こんな味の日本酒があるのかと思うような逸品、驚きました。「すごいお酒を集めてますね」と言うと、医療関係でお金をたくさんお持ちの客が酔って、「一番いい酒をだせって言われるんですが、この酒は出しません、もったいない、味のわかる人にだけ」、酒の選び方も目利きだったが、お追従も上手なオヤジだった。お陰で気分良く酔えました。田島さんとは好い酒呑みました。
 それから何年かして営業本部の関係会社管理部に異動して三鷹の居酒屋で飲んでいた時に、田島さんが八王子ラボの管理職と連れ立って入ってきて、カウンターの隅で飲んでいた。しばらくすると、そのお店で一番高い日本酒が二つまわってきた。卒のない人だ、ちゃんとわたしがいることに気がついていたのだ。わたしがいつ購買部長で八王子ラボに戻ってくるかわからないとでも考えていたのかな、心配なかった。会社はもうそんな部署ではもう使ってくれない。購買システムを作り直すときに、経営管理課長と社長室、購買部の兼務辞令が出たが、一週間でクライアントサーバーシステムでの作り直しの仕様書を書いて担当者に渡した。システム部門でもめたいた。病理医のシステム部長は管理系統合システムのことをご存じない、知識ゼロだった。元々の購買管理システムは担当プロジェクトチームの三人が困ったいたので、外部設計書を半分書いてあげたし、試薬の価格交渉で購買課へ異動になったときに、不具合を全部直してあった。担当システムハウスが管理系統合システムを富士通の当時最大の汎用大型機で稼働させることに決めた合ったので、汎用大型機でEASY-TRIEVEでプログラミングされて動いていた。いい機会だからNTサーバーに載せ替える仕様書を書いて渡したのである。購買在庫管理システムはわたしが書いた仕様書通り、汎用大型機からNTサーバーへ移された。NCDさんの宇田さんが汎用大型機で統合管理システムの運用メンテナンスチーム10人ほどの責任者をしていたので、システム部門から彼にわたしが書いた仕様書を渡すだけで仕事は終わったはず。2年ほどしてそのシステム部長と本社で会社全体の何か催しごとがあったときに、「あの折は大変失礼しました、何も知りませんで」と挨拶があった。ラボ時代に病理医のその人とは何度も話したことがあった。購買の機器担当だったり、学術開発本部スタッフとしてのわたししか知らないから、システム開発の専門家で、会社の統合システム全体の設計を担当していたことを知らなかっただけ。入社した年の1984年にわたしが仕様書を書いて開発した「投資・固定資産管理システム」も購買部に移管されていた。

 田島さんの話だった、回してくれたコップ一杯千円ほどの高級なお酒は相方と一緒に喜んでいただいた。帰りがけにありがとうと挨拶すると、いつもの笑顔、田島さんと酒の席はその2回だけ。
 試薬の問屋三社と取引していたが、各社年に一度だけ、居酒屋でご馳走になった。付き合ってあげないと、三社とも取引金額が年間数十億円と大きいので担当営業が困るのだ。試薬問屋の担当役員と会うのは年に一度の飲み会だけ。価格交渉は全部、製薬メーカの部長と役員がラボに来て交渉するように切り替えたから交渉事はない。卸の業者相手に価格交渉をしても10%ほどしかマージンがないので、徒労。20%カットが目標だった。入社して2年目の11月、予算編成の責任者のわたしが16億円の試薬カットを提言したことから、専務がプロジェクトを作るから、言い出しっぺのお前が行ってやってみろということになった。購買課長ができっこないと言ったのだろう。迷惑な話だった。卸問屋とちょこちょこ交渉するからやれない。製薬メーカ相手に交渉すればいいだけ。予定を超えた。製薬メーカーには卸問屋のマージンは現状を維持するように約束を取り付けておいた。卸問屋いじめはしない。それから毎年、消費量の増えた試薬の価格交渉が恒例となった。情実が絡む余地は小さくなった。親会社のレビオからは少しだけだったが、レビオの子会社の東レ富士バイオは1984年に導入したCA-19-9が超大型案件だったから、検査試薬の仕入額が大きかった。会社上場で客観的な取引価格を決めないといけないので、入社した3か月目くらいに経理部長のI本さんの指示で、東レ富士バイオの役員と「取引価格の決め方」を決めた。当時は平社員、I本さん自分の担当だったが、富士銀行からの出向部長でどうやったらいいのかわからなかったのだろう。「ebisuお前がやってこい、東レ富士バイオ役員の〇〇さんには電話入れておくので、明日1時に練馬のラボの会議室だ」。20分ほどで紙に書いていった方法で納得頂いた。ドル建ての輸入価格に過去3か月間の為替レートTTBの移動平均値を使うと決めたはず。予定量は計算できるから、毎月先物為替予約をしておけば東レ富士バイオさんの方で為替差損の発生はないよと伝えたら、喜んでいた。為替変動による為替差損発生が向こう側には頭の痛い問題だったのである。お会いする前にそこのところの問題の大きさがわかっていたから交渉は簡単だった。36年もたっているのにいまでもこの癌マーカは使われている。わたしも何度もこの癌マーカのお世話になった。手術前は数値が1000を超えていた。それ以来、基準値を超えたことがない、お世話になりたくない検査項目だ(笑) 
 膵癌マーカ検査は1990年ころ学術開発本部で仕事していた時に、開発部の仕事を理解し、各担当がそれぞれ独自のやり方でやっていた業務の標準化をするためにDPC社Ⅳ型コラーゲン検査試薬と塩野義製薬膵癌マーカ検査薬の共同開発を担当した。こちらの腫瘍マーカのお世話にはなっていない。当時は「死のマーカ」と言われた。検査で陽性に出たときには手遅れだった。膵臓は胃の裏側にあるので見つけにくい。最大手の臨床検査会社にいると、いろんな部門で面白い仕事にありつけます。その都度、異動した部門で、その部門特有のスキルを身につけます。その前から、好奇心に任せて必要な勉強はあらかた終わっていることが多い。だから、異動してから実務でスキルを磨くことになります。いい仕事しないとスキルは磨けませんから。)


 中途入社すると産業用エレクトロニクスの輸入商社でもSRLでも、すぐに予算編成と予算管理の仕事をルーチン業務として任されたが、数十ある費目(中項目レベルで数十項目、SRLでは細目レベルだと百を超えていました)を、時間がぽっと空いたときに三ケタで数項目を動かして頭の中で計算を繰り返していた。だから、どの費目あるいは部門の費用や売上や粗利に異常がでれば全体への影響が三ケタの概数で頭の中で計算できた。珠算で暗算が得意だったからだろう。長期経営計画もそうだった、脳内でのシミュレーションの賜物。暇を見つけると引き出しから取り出していつもやっていたから、具体的な実行計画がデザインでき、それを紙に落とす、そして年度予算編成にもって行けばいいだけだった。
 赤字の会社の経営を任されたときにも、新規事業にかかる経費や必要人員や増加する費用や増加する売上、減少する分野の売上、会社の現状の業務の流れ、そしてシステム化したまったく別の実務でたえず頭の中でシミレーションしていた。思いついたアイデアを組み込んで、数年間の損益シミュレーーションや財務構造への影響が判断できた。だから、業種を変えても現場で数か月仕事をすれば、何が問題で、どこをどのようにいじれば黒字になるのかわかったし、すぐに実行できた。シミュレーションの裏付けがあるので、あとは紙に書いて稟議決裁をもらえばいいだけ、簡単な話だった。で、失敗したことがない。

 ビリヤードで無心に遊んだ時間に育った能力は、このように社会人になってからさらに威力を増した、業種を変えて転職しても経営はつまるところ一緒だったのである
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし

 仕事でそれを貫いただけ。


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#4224 ホタテが美味しい! April 17, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 身が厚くて甘みのある立派なホタテが夕食のおかずに供された。10年物くらいかな、産地に育ったわたしでも高級品に見えた。帆立のフライも最近ときどき食べているが、こちらは冷凍ものだ。
 武漢コロナ騒ぎで高級料理店に客足が遠のいているので、高級品ほどだぶついているのだそうだ。値段が半額程度になっているので、週に何度か贅沢品の10年物帆立が食べられそうだ。(笑)


 ホタテ漁をしている人たちは浜値が下がってたいへんだろう。地元住民のわたしはこうして高級帆立を食することで少しは協力できる。そんなに食べなくてもいいから、武漢コロナ騒ぎがはやくおさまってそこそこの値段になればいい。
 あ、大消費地の中国の買い付けが減っているのが主たる原因のようだ。帆立の値段が元に戻って、身の厚いものが地元住民の口に入らなくなったら、中国が武漢コロナ騒ぎから脱したということか。
 しばらくおいしいホタテを刺身とフライで楽しめそうだ。

 歯舞産のマツブもおいしい。フライパンを熱して、小さく刻んでたっぷりのオリーブオイルにニンニクをゆっくり泳がせ、強火にして刻んだマツブを一気にフライパンへ投入。トーストしたバケットの上へ落とすとジューっと音を立てる。これが絶品なのです。東京都小平界隈のとあるイタリアンレストラン、思い出した「マ・メゾン」で食べたのが最初(84年)でした。ずいぶん昔、懐かしい情景です。



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#4209 ガラガラの公園の桜 Mar. 30, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 上野や井之頭公園や小金井公園にはそれぞれ数千本の桜が咲いているが、小さな公園には数十単位の桜の樹がある。この小さな公園には数人から十人程度しかいなかった。コロナが流行っても、桜は今年も変わらずに訪れる人の目を楽しませてくれる。
 マットを敷いて、お茶とお菓子をいただきながら、20分ほどのんびりお花見しました。

①露出がアンダーな写真になってしまった。下手なわたしが撮ると、せっかくの美人(桜)も不美人に見えてしまうから写真は面白い。大失敗(笑)
SSCN3423.JPG

②これも露出がアンダー。
 横に長く伸びた枝に生命力を感じました、一目盛りぐらい開けたらましになったのかな。
SSCN3424.JPG

③桜は枝が横にも伸びていくから、道路の両側にあると「桜のトンネル」ができる。公園広場の反対側の桜の枝と手前の桜の枝が接近しているように写ってますが、10mくらいは間がありました。これ以上枝が横に伸びたら台風の時に折れてしまいます。
SSCN3425.JPG


④桜の精と接近遭遇
 小さな羽をつけた小さな桜の精が飛び回っています。気のせいだと言われましたが、見える人にはきっと見えますよ。
SSCN3426.JPG

⑤木の幹に三輪咲いた桜、可憐です。
SSCN3429.JPG

⑥こちらは二輪ありました。桜の幹に直接咲いてます。この樹の桜の精は目立ちたがり屋かも、とってもかわいらしい。ぽとっと落ちてしまいそうです。いえいえ、わたしが瞬間接着剤でくっつけたものではありませんよ。
SSCN3430.JPG

⑦八分咲き
SSCN3431.JPG


⑧たまたま行われていた公園隣の小学校の卒業式
 グラウンド金網の隙間から撮ったビデオ画像の一部を切り取って貼り付けました。
 この公園のとなりは全国合唱コンクールで毎年優勝している七尾緑小学校の校庭があります。この日の3/25は卒業式でした。グラウンドで卒業生と保護者だけで卒業式が行われており、卒業生の合唱に公園の桜の精も聞きほれていたようです。とっても上手でした。合唱を指導している後藤先生のプレッシャーは半端じゃないでしょうね。
 左クリックして、ドラッグしてみてください、写真全体が見れます。


SSCN3433.JPG

*七尾緑小学校合唱コンクール
https://www.youtube.com/watch?v=BLhdm0RhGKM


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#4177 大人の恋愛事情:鈴木杏樹さん Feb. 7, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 どことなく可愛げがあって、好い女、テレビ番組「相棒」の居酒屋女将役だった鈴木杏樹の不倫が週刊誌を賑わしている。
 ご亭主が6年前に亡くなって久しい、50歳になった女性が、浜辺の公園でデート、久しぶりにハグされてキスし、その気分になってしまいホテルへ…それだけのこと、ほほえましいではないか。大人のストレス解消、そういう恋愛もあっていい。
 世の中、男と女でなりたっているから、こういうアクシデントはあって当たり前。
 すでに50歳になった鈴木杏樹さん。女として恋を楽しめるのも残る期間はそう長くはない、好みの相手を見つけてときどきつまみ食いしてほどほどに楽しんだらいい。週刊文春さん、この次はそっとしておいてやってください、お願いします。(笑)




<余談:大らかな日本の性風俗事情>
 その昔、日本には若くして後家さんになると、そこへ村の若い衆が入れ代わり立ち代わり、夜這いしたといいます。人間の生理をちゃんとわかっていたのです。健康な肉体と精神の維持には、セックスが不可欠なことをしっていました。だから、後家さんになっても、そちらの方は困らないような仕組みができていたのでしょう。そのうちになじみができたら、一緒に暮らすのもよしです。江戸時代から、地方によっては昭和30年代初頭まで続いていましたとさ。
  ところで東京府中の大國魂神社は「暗闇祭り」で有名ですが、例大祭の3日間は神社境内内では乱交勝手次第、昭和30年代初頭までそういう性風俗が残っていたそうです。高校を卒業して1968年(昭和42年)に東京へ行って、そんな話を地元の人から耳にしました。古代からそっちの方面はとっても大らかだったのです。
 閉鎖的な村落共同体で遺伝子の交配が繰り返されると、次第に劣化していくので、それを防ぐための智慧でもあったのです。暗闇祭りというセレモニーを通じて、村落共同体外部から遺伝子を導入していたということ。夫はこの日、「おまえも祭りに出かけておいで、わたしも出かけてくるから」。それでできた子供は自分の子として育てたのです。都からお公家さんが来ると、庄屋が娘を夜伽させたのも、都の優良な遺伝子を村落共同体にもたらす智慧でした。宮中で歌垣(乱交パーティ)が開催された記録まで日本書紀にはあります。

*https://yajibee.com/post-21865/
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府中くらやみ祭りは歴史もあり、格式の高いお祭りであることがお分かりになったことでしょう。その規模の大きさや格式の高さから、遠くからも大勢の見物人が訪れました。そして、お祭りの場では男女が無礼講であったと言われています。普段はあまり大きな移動もせず閉鎖的な村で過ごしている人たちにとって、府中くらやみ祭りは大切な「出会いの場」でもあったわけです。

普段、限られた行動範囲で過ごしていると出会いの場は限られてしまいます。さらに村の中だけで子孫繁栄を繰り返しているとどうしても「血が濃くなる」というリスクが出てきます。そのようなことを避ける意味でも少子化・廃村を避ける意味でも、府中くらやみ祭りは重要な役割を担っていたようです。

子孫繁栄のために、府中くらやみ祭りが役立っていたとも言えますね。もちろん、男女の無礼講にもいろいろなルールがあり、女性が男性を拒否した場合には出会いもなかったことになっていました。現在でも多くの見物人が訪れるお祭りですから、素敵な出会いもまだたくさん生まれているのではないでしょうか。

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 立派なお社です。府中市は住まいの隣の市ですから、数回訪れたことがあります。
 欅並木が見事ですが、千年の歴史があります。
康平5年(1062年)、前九年の役平定の際に源頼義義家父子が、の苗千本を寄進した。これは現在、国の天然記念物に指定されている「馬場大門のケヤキ並木」の起源である。
大國魂神社 に対する画像結果






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#4159 元旦の朝:快晴、風あり Jan.1, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

①「北の勝」日めくりカレンダー
「誠実にまされる智慧なし」

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 2020年の最初の朝があけました。根室は晴れ、8時の気温は-5.4度、西南西の風11.6m/s、湿度48%でございます。
 年の暮れ30日に雨が降り気温が上がって雨で雪がすっかり溶けてしまいました。ふるさと根室に戻ってから17年目、初めて雪のない正月を迎えております。これで東京暮らしが35年、根室暮らしが36年目。

 あらためまして、新年おめでとうございます。
 みなさまのご健康と災害の少ない年でありますようにお祈り申し上げます。

②極東の町の元旦の朝
SSCN3272.JPG

③ご覧のとおり、バス通りには雪がありません
SSCN3273.JPG

④地元でもなかなか手に入らぬ「搾りたて」
SSCN3275.JPG

⑤大晦日は2017年1月発売の北の勝「搾りたて」でのんびり。
 フライは尾岱沼産のホタテを醤油とタルタルソースで。
SSCN3276.JPG

⑥30日に神棚を清掃し、新しいお札を入れました。
 金刀比羅神社の神様と天照大神が祀られています。水産業の町根室はほとんどの家に神棚があります。
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#4030 ハマナスはバラ科:ほのかに香りが漂ってきます July 9, 2019 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 今日は暖かい。11時の気温が18.2度、南東の風3.2m/秒。昨日は生徒が一人半袖だった。根室っ子は18度でも暑いのである。昨日に続き今日も晴天、そしてとっても暖かい。根室高校生は学校祭でやるパフォーマンスの練習をクラスごとに夜の明治公園でやっている。一年中で一番明治公園に人が集まる2週間だ。

 庭のハマナスが満開になった。
①7/6撮影 ハマナス
 砂地のハマナスはこんなに大きくならないが、土の上だとすくすく大きくなる。ハマナスの遺伝子は同じでも根を下ろす土壌が違うと育ち方も違うところは、子どもたちの学力と一緒だ。肥沃な土壌ですくすく育つのがよいのか、貧栄養な土壌ですったもんだしながら、幹を低くするのがいいのか、さっぱりわからない。社会は両方のタイプを必要としている。
SSCN2925.JPG

②6/4撮影 スズラン
 庭の奥にひっそり咲いているスズランの小さな群落。安いコンデジだから焦点も被写界深度もカメラにお任せ、偶然に後ピンとなり手前のスズランのボケ加減がとってもきれいになりました。一眼レフがあったら、前ピンで後ろをぼかしたのでしょう。偶然の神様のショット。
 背丈が低くて、庭の奥でひっそり咲く小さな花、スズランも風情がある。背丈が学力だとしたら、低いのが悪いか?スズランはちっちゃな真っ白い花を咲かせ、背丈の高く育った大輪の赤いハマナスとはまた別の香りで周囲を愉しませる。

SSCN2824.JPG

 ハマナスもスズランも香りの強い花です。朝起きて庭に出ると香りが鼻先をかすめて周囲へ広がっていくのが感じられます。


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#4023 時間配分の見直し Jun. 29, 2019 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

<最終更新情報>
6/30朝 「余談」の条を追記

 土曜日(6/29)だが、高校生は朝から進研模試を受験している。根室高校は7/14・15の学校祭に向けて先週金曜日から準備期間に入っているが、昨日は模試の前日なので高1と高2の生徒が塾へ来て勉強しており、「満員御礼」状態だった。学校祭の準備で勉強時間が取れないことに不安を感じているからだろう、前日なのにまだ過去問をやり終えていない生徒が多い。焦るわな。
 出し物を決めてパフォーマンスのダンスの練習に入っているクラスが多い。衣装のデザインと材料集め縫製作業もはじまる。身体につける小物(ウサギの耳)の制作もしていた。お店の食券を作っている生徒もいた。みんなそれぞれ自分の担当の分を頑張っている、1年生の数英の平均点が20点(百点満点)を切らないことを祈りたい。

 ところで、弊ブログは6/21日に#4022をアップしてから、お休みしてました。じつはFBで遊んでました。FB上でエンジニアのSさんが読んだ本から引用転載してくれるので、そこから議論がはじまります。Sさん多読家だから、片っ端から読んではメモ代わりにFBへ一部を引用転載してくれます。この数日間、自動車メーカー日産の経営について議論していました。じつは昨年から経営に関する議論で何度も日産が俎上に上がっていました。カルロス・ゴーン氏の評価についてSさんとわたしは意見が真っ向から対立していました。延々といろいろな引用や材料をもちだして議論していたのです。新たな材料が提示されたので同じ議論が再燃したわけです。ゲームのようなものです。欧米ではディベートというらしい。カルロスゴーンに肯定的な評価がSさん、否定的な評価、従業員を首にしない、含み資産を処分しない別の方法があったはずというのがebisuでした。日産の経営陣と労組の派閥抗争という負の歴史を抜きにしては日産の経営改革を語れないところに、二人の議論はようやくたどり着いたようです。
 不十分な材料から推論を重ねるとときに見当違いのところへ行ってしまいますが、Sさん、検索の名人で、話題になっていることがらに必要なサイトを上手に見つけて、具体的なデータを提示して推論ミスを修正してくれます。二人で議論しながら、真実に近づいていきますが、読まなければならないものも増えます。理系と文系分野という専門分野のまるっきり異なる二人が、一つのことで具体的に議論を煮詰めていくのは愉しい。
 以上がブログを1週間書かなかった言い訳です。愉しいとついのめりこみます。それもありますが、ブログを書くことになんとなく違和感があり中断していたというのが本当のところです。違和感の正体は生活時間の消費のしかたにあり、時間配分を変える必要を感じているのです。
 どういうペースになるのか皆目見当がつきませんが、ブログアップの頻度は数か月間落ちそうです。まだ配分の仕方については決めてませんが、ニーズに応じて自然に配分が変わるのでしょう。

 ある生徒が高校生になってから時間の使い方がとっても上手になりました。週に4回顔を合わせていると、わたしも時間の使い方を変えなければならないなと思います。教えているつもりが、すっかり学んでいました。それも生徒との言葉を超えたコミュニケーションの醍醐味です。言葉を換えていうと相互作用かな。授業というのはそういう意味でもインタラクティブ(双方向)なのです。相手の変化を観察して、好いところを見つけたら盗もうとね。(笑)

<余談:議論の作法>
 日本人は意見の対立する人との議論をするのが苦手です。感情的になる傾向があるからでしょう。Sさんは意見の対立する相手と感情的にならずに議論のできる人のようです。延々と同じスタンスで、カルロス・ゴーン氏の経営手法を擁護しています。昨年暮れに所得の有価証券不実記載事件が起きたあとでも、それはそれ、それ以前のカルロス・ゴーン氏の経営は問題がなかったし、全体としてみたら社員にもメリットがあったというものです。そういうところが愉快なんです。かれはディベートしてるんです。わたしは欧米流のディベートは詭弁を弄するものなので嫌いですが、かれの設定した土俵に乗って議論をしています。そのあたりは阿吽の呼吸です。
 ところが教育問題で最近ある先生と議論していて、キレました。数年間議論していますがかれのそういう一面を初めて見ました。理由のあることなので、「合理的にキレた」のでしょう。理由をはっきり書いてました。議論をするには論拠を挙げよ、具体的な事例を挙げよ、データを挙げよということでした。これらのどれもないのは反論ができないから、卑怯者だと。まもなく還暦のはずですが「青い」ですね、それも好いところです。こういう性格ですから、きっと出世では損してます。
 面白い人物でしょ、頑固なエンジニア、優れものの技術者で、技能の方も高い。スーパーコンピュータ京の空調設備を設計・施工管理をしたご本人です。理化学研究所の職員ですが、いくつか回り道をしていますから、苦労人です。他人の苦労もわかる人。もう数年さまざまな議論を続けていますから、お互いの手の内を知り尽くしてます、FB上だけですがいい友人です。数か月前に議論の環に参加してきたA大学の教授のKさん(工学)が、東京で三人でオフ会をやりたいと提案してました。異分野コミュニケーション、即時インタラクティブ、愉しいんです。議論のしかたの参考になるので、中高生や大学生に議論をオープンしてあげたいくらいです。(笑)

  高校生の学年トップの生徒には問題をやらせながら、そのときに議論のまな板に上がっている問題をかいつまんで話しています。Sさんがどういう方向から問題を取り上げ、ebisuが反証となる具体例を挙げてどういう反論を展開しているか、ずっとモニターしているわけです。この生徒はそれだけでディベートのトレーニングになっています、だから、弁の立つこと、高校の先生でかれと論理的な議論をして勝てる人はなかなかいないでしょうね。でも、詭弁を弄するようにはなってほしくありません。(笑)
 生徒全員一律という理不尽な宿題の出し方についてクレームを申し立て、学年担任と学年主任の先生たち五人に呼び出されて議論せざるをえなくなりました。ちゃんと敬語を使い言葉を選んで、自分の主張を通しています。この生徒はわたしと話す(雑談ですら)ときでも言葉を崩しません、大人に対する言葉を使い分けています。わたしにはいつものことですが、議論をした先生たちの驚く様子が目に浮かびます。高校生の弁ではありません。その様子は弊ブログのどこかで書きました。今年四月のことだったと思います。


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#4019 戦地からの便り:幼馴染 Jun. 16, 2019  [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 出征前に結婚式を挙げた新妻の元へ戦地の夫から手紙が届くと、姑が開封してみんなの前で読み上げるんだそうだ。新妻は恥ずかしくて顔も上げられぬ。そういう話を母から聞いたことがあった。

 小学校の3年間同級生だった「幼馴染の女の子」の母親が亡くなった、97歳だから大往生といってよい。
 小学生の頃は歳よりも幼い感じのする子、自転車に乗って一度だけ一緒に遊んだことがある。当時は自転車をもっている小学生は珍しく、同じクラスに自転車をもっていたのは二人だけだった。遊んだのは鳴海公園、夕陽がだいぶ傾いてきたのでちょっとの間、一緒に夕陽を眺めてさようならした。ほんとはもっと遊んでいたかった。内気な子だったのでそれっきり誘えなかった。(笑)
 オホーツクの海に近づいていく真っ赤な太陽とないまぜになった懐かしい思い出である。


 35年ぶりにふるさと根室へ戻ってきてから、誰かに誘われて小学校の担任だった鶴木先生を四十年ぶりに訪れた。同じクラスの十人ほどが集まって愉しく昔話をした。その日の夜のこと、幼馴染の話をしたら、母が笑って教えてくれたのが冒頭の話だ。
 数年間自宅で介護していたようだから、たいへんだっただろうが、心残りはないというに違いない。ご冥福を祈ります。



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