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#4481 北方領土の日:予科練入隊 柏原栄先生 Feb. 7, 2021 [21. 北方領土]

 柏原栄先生は特別です。どこが特別なのかお話しておきます。
 花咲小学校を卒業するときにわたしたちと一緒に「卒業」され、光洋中学校の社会科の先生として転任、そして根室高校へ入学すると同時に先生も根室高校社会科の教師になられました。だから団塊世代、光洋一期生(根室中学校が光洋中学校と柏陵中学校に分裂したときのピカピカの1年生がわたしたち昭和23年生まれと24年生まれ)にとっては特別な先生でした。
 わたしは光洋中学校で歴史を一年間教えてもらいました。高校のときに倫理社会の先生が用事があっていなかったときに代わりに来られました。そしていきなりテストでした。問題は普通科で出題された政治経済のテストでした。商業科の倫理社会の授業に、それも代講なのに授業をせずに政治経済のテスト問題をやらせたました。かなり無茶苦茶ですが、だれも文句を言わずにやってましたね。(笑)
 満点だったと思います。頭がよかったわけではありませんよ。最後の問題は文科系と理系に分かれてましたが面白かったのでどちらもやりました。
 中学校は1学年10クラス550人だったので、社会科の成績では目立つ生徒だったのでひょっとして覚えてらっしゃったのかもしれません。商業科へ進学して力が落ちていないか試されたのでしょう、だとしたら期待に応えられたと思います。小4から北海道新聞のコラム「卓上四季」を辞書を使って読み始め、語彙が増えるので「社説」を読みたくなり、そして自然に「政治経済欄」を読んでいました。そのあと中学生になると本の濫読期が来ました。光洋中学校の図書室にあったSF小説はあらかた読んだと思います。そんなにありませんでしたし。語彙は読む量に比例して増えるものですから、好奇心の赴くままにいろいろなジャンルを読み漁った方がいいと思います。ビリヤードの店番しながら暇なときに新聞に読みふける小学生、ちょっと変わっていたかもしれませんね。そういう背景があったから、いまの「公民」当時の「政治経済」は問題集だけでなく新聞を毎日読むことで知識が整理蓄積されていったいったのだと思います。群を抜いて「政治経済」の学力テストの成績がよかったのは新聞を丹念に読んでいたお陰です。学力テストには授業で習わないことが出てきますからそこで差がつくのです。頭のよさの問題ではない、新聞のコラム欄、社説、政治経済面の記事を毎日読んでいたかどうかだけの話なんです、でもそれで得してました。中3の「政治経済」担当の先生はお名前何と言ったかな、吉川先生だったような。
 柏原先生は黒板の字が傑作なんです。達筆ですが、大きく書いたり、小さかったり、おもしろい黒板の使い方を見せてくれました。そのせいでページをめくるように黒板に書いた文字が思い出せました。だから、店番をしているときにその日にやったことを頭の中に再現するだけでよかった。1時間の授業も数分で再現できました。若い時の記憶力はいくらでも大きくなるんです。お陰で、授業を聞いているだけで頭の中にストンストンと知識がたまっていきました。上手な授業にいまでも感謝してます。柏原先生に巡り合ったわたしは幸せ者です、とってもついていました。

 ここに昨年12月23日の道新があります。そこに「命捨てさせる教育の怖さ」と題した柏原先生への取材記事が載ってました。先生は海軍飛行予科練習生だったのです。
DSCN4572s.jpg

 記事によれば、先生は水晶島で生まれ育ちました。国民高等学校進学のために根室へ。高等科2年生の時に学校で予科練を強制的に受験させられたと書いてあります。

 大学でゼミの指導教授(哲学)だった市倉宏祐先生は、卒業を早く切り上げて学徒出陣、海軍でゼロ戦のパイロットになりました。土浦航空隊で少年兵のへ操縦技術を教えたことを先生から聞いたことがあります。そのほとんどが特攻兵として出撃しています。ベテランのパイロットがもう残り少なかったのです。「試験を経て選抜されて予科練へ入隊してくるから優秀な者が多かった」、「かれらが生きていたら...」と市倉先生は無念そうでした。ご自身も土浦で特攻兵として待機しているうちに敗戦の報を聴くことになったのです。市倉宏祐先生には遺稿集『特攻の記録 縁路面に座って』があります。編集に当たった伊吹克己専修大学教授(哲学)の許可を得て弊ブログに全文掲載しているので、一部で結構ですからぜひお読みいただきたい。哲学者による特攻の唯一の記録です。「縁路面」とはエプロンとも言い、飛行機の格納庫の前の部分を言います。

 柏原先生は土浦で実技試験を受けて予科練に合格、14歳の1945年8月に入隊が決まっていました。
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 入隊を目前にした7月、「親と水杯を交わしたい」と休みをとって水晶島へ。8月15日、故郷で終戦の知らせを聞いた。「そのときの自分は国を守るために生きる少年だった。敗戦を信じられず、一日中放心状態だった」。父に背中を押されて間もなく釧路にわたったが、水晶島はその後の9月にソ連軍に占領された。
 釧路工業学校(現・釧路工業高校)を経て日大を卒業し、小、中、高の教壇に立った。自らが教える立場になって感じたのは「国のために命を捨てる」ことを当然と思わせる教育の力と恐ろしさ。教え子には「戦争は絶対にいけない」と訴え続けた。
 福寿草やスズランが咲き乱れ、昆布を運搬する馬が歩き回る、喉かな水晶島。前浜でたくさん獲れる大きな北海島エビを食べたり、片道1時間の通学途中に、道端の甘く熟したハマナスの実をほお張ったりしたのは楽しい思い出だ。
 そんな故郷を奪った旧ソ連は決して許せない。
 「国を守るための戦争」という考え方があるのは理解できる。不戦を訴える自らの考えとの間に矛盾を感じたこともある。しかし、戦争が続けば自分は死んでいたかもしれない。運よく生き延びたが、故郷は奪われ、自由に還ることすらできない。そう考えると「戦争は悲劇しか生まない」という思いは変わらない「本当に平和であるためにはどうすべきか、真剣に考えないといけない」。柏原さんは力を込めた。
 取材は武藤里美記者
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 すごい偶然だと思います。もう1か月終戦が延びていたら、柏原先生は市倉宏佑先生からゼロ戦の操縦技術を習うことになったかもしれないのです。ベテランパイロットは次々と特攻兵として出撃しましたから、生き残りは少なくなっていました。
 危ういところでした、柏原先生、健やかに長生きされてください。

 戦争は悲惨であるが、戦わなければ、北方四島はおろか北海道まで旧ソ連に占領され、道民はシベリアへ移住を強制されて、北海道にはロシア人しか住んでいなかったかもしれませんよ。

 根室から北東1500kmのアッツ島で米軍と戦って日本兵2638名が玉砕しています。傷病兵の一部が生きて捕虜となったがわずか29名だった。生き残れたのは1.08%です。この戦い方が米軍に恐怖をもたらしました。武器もなくなって、降参を日本語で呼びかけられても、銃弾の雨の中を雄たけびを上げて軍刀を振り上げ、本部近くまで迫ったのです。米軍は恐慌を来しました。理解できない、気がおかしくなったものまで出た、それで米国は北からの日本侵攻をあきらめざるをえなかったのです。この米軍の戦略転換で沖縄が塗炭の苦しみを背負うことになりました。とことん戦い抜くことが犠牲を小さくするケースもあるという事例ですが、思わぬところが犠牲になりました。アッツ島の戦いは、大本営の作戦司令部が見捨てた結果、補給なしに玉砕せざるをえませんでした。現地司令官と兵隊にはまことに気の毒なことでした。兵站(食料や弾薬や武器や燃料の補給)がなかったという点でミャンマー(ビルマ)のインパール作戦にも似ているところがあります。陸軍大学出身のエリートである作戦参謀の戦略は無茶苦茶なのです。実際に自分が戦うわけではないのですから、現実の戦闘を経験していません。明治維新を戦い抜いた実戦経験のある将軍がいたときまではよかった。実戦経験のない受験エリート一色になって日本軍の作戦は滅茶苦茶になっていきました。特攻作戦が好例です。虎の子のベテランパイロットに爆弾抱えさせて自爆させる作戦はすぐにパイロットが枯渇し、戦力ダウンはわかり切ったことでした。それでも、やらせた。理不尽としか言いようがありません。
 
 現在の北方領土返還運動には戦略がありません。戦後75年間も戦略ナシでよくも運動を続けてきたものだと思います。企業経営なら、無能と言わざるを得ません。75年間も無能であるというのは途方もないことです。企業なら7回経営破綻しています。運動は単なるイベント、恒例行事の(予算)消化に堕しているように元島民2世のわたしは感じます。
 「島を返せ!」なんて百万回叫んだって、ロシアが返すはずがないではありませんか。北方領土返還運動には長期戦略が必要です。経営企画や経営管理の仕事をすることが多かったので、そういう経験から、領土返還の戦略をまとめてみました。柏原先生の想いをすこしは受け継いだ戦略になっていれば幸いです。

#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

 フォークランド紛争時のマーガレット・サッチャー英国首相の果断な決断が見事だった。毅然とした態度が参考になりませんか?

*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012

#4025 日露首脳会談6/29:「元島民落胆深く」 Jul. 1, 2019 


<余談>
 2002年の晩秋に古里へ戻ってきた。それから数年して、文化会館だったか、写真展があり、満開の桜の写真に撮影者柏原栄の名前を見つけた。ソメイヨシノだが建物の感じから東京の風景ではないような気がして、お電話を差し上げた。名前を言ったら、覚えていてくれました。母親や姉のことも。記憶のとってもよい先生です。写真の満開の桜は大阪の造幣局でした。
 花咲小学校で柏原先生の同僚だった岩田先生は択捉島蘂取村出身ですが、数年前にお亡くなりになっています。ニホロ会館で数十年ぶりでお会いしたときに、叔母が「貞子お姉さんの息子」と紹介されて、「ああ..」と思い出された様子。「暇だから遊びにおいで、話がしたい」とおっしゃって1年ほど行きそびれている間に、逝ってしまわれた。千歳の叔母と同じ年で、面白い話をたくさん聞いてました。小さな蘂取村の住民は大きな家族のようです。漁場が豊かで宝島だと爺さんから聞いてました。川に遡上するシャケで竹竿が立つくらい魚影が濃い。素手で岸に跳ね上げても獲れるんだそうです。満州で戦死した長兄が「そんなにたくさん獲っても食べきれないからそれくらいにしたら」、何度も聞いたので、自分がその光景を見たことがあるような気がします。
 望郷の想いというのはそういうことでも受け継ぐことができます。

#3901 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』:市倉宏祐先生 Jan. 22, 2019


#3902 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(1) :目次 Jan. 23, 2019

#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019

#3904 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(3):「2.誓子と特攻隊」 Jan. 23, 2019 

#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019





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#4478 望郷の想い:北方領土の日と根室の歌人田塚源太郎先生 Feb. 6, 2021 [21. 北方領土]

 明日2/7は北方領土の日である。
 根室の歌人、田塚源太郎先生の遺稿集164頁に、国後島出身の先生の慨嘆が聞こえる一首が載っているので紹介したい。

 かの嶺も仰ぐことなく育ちつつ未来に領土を言ふことありや

 田塚先生は国後島の蟹漁師の一人息子である。お父さんを早くなくされ、漁場の運営はお母さんが仕切っていた。お姉さんが二人いる。
 根室商業の同級生で大学進学のために一緒に上京した北構保男氏によれば、「国後でも指折りの大漁師(網元)」だそうだ。根室商業進学のために国後から6月に根室へ来た。新学期が始まってからしばらくして現れたと、北構え先生が書いている。国後島の蟹の漁場では若い衆を十数人使っていたようだ。大きなタラバガニがいくらでも獲れた時代である。

 考古学者の北構先生は発掘で国後島を訪れたときに、親友だった田塚先生の実家によられたことがあった。
 この歌は昭和36年に詠まれたもののようだから、わたしと同級生だった二女が13歳のときのもの。国後島にお二人の娘さんを伴なって遊ばせてみたかったのだろう。ソ連領となって訪れることもかなわぬ。国後島を故郷と思うキモチが娘たちに伝えきれないもどかしさが滲んでいる。



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#4249 北方領土占領は米ソの共同作戦だった May 16, 2020 [21. 北方領土]

 ソ連による北方領土占領は米国による無償での艦船支援と米ソの合同作戦として行われたということが、根室振興局の調査で明らかになっている。2017年12月30日朝刊の北海道新聞が報じたこの記事をわたしは見落としていた。
 スターリンの北海道占領計画は留萌と釧路を結ぶ直線で分割占領しようというものだったが、この案の提示を受けたトルーマン米国大統領ははねつけている。根室市は釧路市とともにロシア領だったかもしれない、紙一重だったのである。
 弊ブログ本欄左側にあるカテゴリー欄の「21.北方領土」をクリックすると、面白い記事がたくさん出てきます。この記事が83本目です。

*https://www.hokkaido-np.co.jp/article/380726
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ソ連四島占領 米が援助 艦船貸与、兵訓練…極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局調査で判明

根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。

 振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた

 米国は45年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという

 訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日までに完了した 

 こうした史実が判明したのは、根室振興局が2015年度から取り組む北方領土遺産発掘・継承事業がきっかけ。各国の資料を集める中で、ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマリン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文「1945年8月のサハリンとクリール諸島上陸作戦に参加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)を入手した。

...以下、北海道新聞電子版当該記事へアクセスしてください。

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 根室振興局、いい調査研究してます。

*ブログ「晴耕雨読」がこの記事をとりあげているので、そちらも紹介しておきます。
https://blog.goo.ne.jp/goo6613/e/29e24acbc17932ebc89cc05a6c6b351e

 ブログ「晴耕雨読」の管理人さんは釧路市出身の方です。


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さらば! 検索サイト: 太田昌国のぐるっと世界案内

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  • 作者: 昌国, 太田
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#4120 標津(別海町)の叔父貴:8年ぶりの再会 Nov. 9, 2019 [21. 北方領土]

 標津町と別海町の境のあたりに住む(尾岱沼)の叔父貴のところまで、車を運転していってきた。先月、T叔父貴の嫁さんが亡くなったのを昨日知ったからだ。初めて叔父貴の家を訪れた。

 8年前に根室まで来てくれた。癌に効くからと「猿の腰掛」を砕いたものを袋に入れて持ってきてくれた。T叔父貴は巳年(1929年)生まれで90歳になる。うちのオヤジが1921年酉年生まれだから、8歳年下になる。1924年生まれのお袋の実弟、5歳下。1923年9月1日の関東大震災が起きている。

 叔父貴は終戦の年に16歳、択捉島にいた。3年間ロスケ軍政下で生活して日本に戻ってきた。ピストルで脅されたりしたが、実際に発砲することはなかったという。日本人の青年男子は漁労に従事していた。択捉島での漁は、戦後のソ連の食糧増産のために重要だったらしく、かなりきつかったようだ。

 日本へ戻ってきてから、団塊世代のわたしが幼稚園児のころ数か月間あるいは1年間くらい、根室に来て一緒に暮らしたことがあるので、T叔父貴はわたしには親戚というよりも家族の感情が強い。昭和23年にソ連から引き揚げてきたときには19歳、両親はすでになくなっていたから、苦労したのだろうと思う。
 択捉島蘂取村の前浜の漁場の権利は叔父貴名義になっている。長女であるおふくろは、結婚しなかった妹の老後と死後を心配して、弟にその管理を委ねた。叔父と同じ漢字の名前の叔母は叔父貴が供養している。義務と権利は一体というのが母の考え。
 満州で戦死した兄が生きていれば、長兄が相続しただろう。戦前の択捉島は根室の漁師の3倍の漁がある「宝島」である。北方領土が戦後50年くらいで戻ってきてたら、T叔父貴の暮らしはまったく違ったものだっただろう。

 家に上がって、挨拶をし、線香をあげて、それから8年ぶりの再会を喜んだ。とっくに車の運転をしなくなったので、根室に出てくることもない。根室の自衛隊に勤務している息子がいる。息子に会うのは2度目である。11時から三七日の法要をやっていたのだが、胃と胆嚢の全摘・リンパ節切除・大腸一部切除しているので、わたしは午前中は体調が悪く車での移動は11時すぎないと無理、道の駅「おだいとう」で珈琲を飲みサンドイッチを食べて、午後1時過ぎに標津についた。ちょうど法事で集まっていた人たちの最後の一人が帰るところで、見送りに表に出てきていた。

 戦時中は秘密部隊の落下傘部隊員だったオヤジが60歳ころに標津までサイクリングで行ったついでに叔父貴の家を訪れた話や、標津が本店の蕎麦屋福住でそばを食べて、「うまいそばだ」と褒めた話、根室のヤクザの親分だったT嶋さんとオヤジの話など、たわいもないことを小一時間ほど話した。自分の目で見たT嶋さんとオヤジの話を叔父貴が教えてくれた。昭和28年ころのことだろう。
 親分のT嶋さんは、幹部5人にしかオヤジのやっているビリヤード店への出入りを許可しなかった。親分のしつけがきびしいのか皆さん言葉使いはよろしいしとっても行儀がよかった。あるとき幹部でない組員が親分へ連絡事項があって店に来たことがある。「ここは、〇〇さんの店、お前たちは出入りはならぬ」とぴしゃっと云い渡した。店番していて自分の耳で聞いておやっとおもった、堅気のオヤジをまるで兄貴分扱いするようなT嶋さんの態度がふだんから不思議だった。お袋に話しかけるときに「姉さん」というのも。
 理由はずっと後で、オヤジの通夜の席で旭川のN叔父から聞いて知った。戦後まもなく、富良野で映画館でヤクザ屋さん5人ばかりに因縁つけられ、「顔を貸せ」と囲まれてトイレに連れ込まれたことがあり、数分後にそこへN叔父がいくと5人とも倒れていたそうだ。落下傘部隊員は正規兵3人を相手にして互角に戦えるほど厳しい訓練を経ている。オヤジは終戦数か月前の「加藤隼戦闘隊」という戦時宣伝映画の降下訓練シーンの撮影で、最終降下役、すぐ前の隊員が降下気迫を失いためらったので、押し出しながら飛び出したら、主導索に腕をひっかけて右腕複雑骨折、終戦まで別府温泉や青森の温泉で療養。その後遺症で戦後数年間は右腕がほとんど上がらなかったのである。昭和22年にお袋とお見合いしたときに、上がらない腕で箸をもって、顔を箸に近づけて食事していたオヤジを見て、傷ついた兵隊さんの妻になろうと思ったのだそうだ。満州で戦死した兄のことが頭をかすめたのだろう。オヤジは軍隊に入る前に町内対抗の自転車選手だっただけでなくボクシングもやっていたから、左腕一本、ジャブで片付けたのだろうか、おそるべし、落下傘部隊生き残り。それ以降、富良野のヤクザは道路ですれ違うとオヤジをよけて歩いていたと、N叔父が大笑いしながら話してくれた。オヤジは兵隊時代のことを面白おかしく聞かせるのが得意だったが、N叔父から聞いたような話は聞いたことがなかった。旭川のN叔父は、「同じことだろうよ」とほほ笑んだ。Nさん、技術が優秀なので運輸大臣賞をくれるというのに、断るような頑固な畳職人だった。
 それで、オヤジが決して続きを言わなかった話の合点がいった。戦後の食糧難で富良野で野菜や穀物コメの買い付けをして根室へ運んで売っていたことがある。そのときに、T嶋さんは鼻っ柱の強い若頭だった。緑町に松乃湯という銭湯があって、そこで目と目が合って、「表へ出ろ」、応じて外へ出た。話はそこまで、あとは決して語らなかった。二人には愉しい思い出だったのかもしれない。T嶋さん素直なのである、以来、オヤジは兄貴分扱いだったというわけ、オヤジはなんとなく迷惑そうだった。でもチンピラが店に出入りしないのはありがたかった。(笑)

 小学生低学年のころから、空きになると石炭ストーブの焚き付けにざっぱを鉈(なた)で叩き折ってたくさん積んでおくが、わたしはそれを素手でやっていた。手刀や拳骨で叩き折るのである。生渇きの木が混じっているので、撓(しな)って折れないことがある、そういう生木を繰り返し叩くと次第に折れるタイミングがわかってくる。気を入れて本気で高速で叩けば百発百中だということがわかり、そういう叩き方を身体が覚えてしまった。何千本も手刀や拳で叩くから、手刀は次第に固くなり、拳の骨密度も大きくなりパンチが重くなる。重い鉞(まさかり)を全力でふっていたからか、両腕がよく発達して人より10㎝ほど長い。(笑) 空手をやっている人は拳にタコができるが、小学生低学年から繰り返していると、拳ダコができない。だが、破壊力は拳ダコのある者よりもおそらく大きい。当時は廃材もふんだんにあり、五寸角の角材も混じっていた、いま五寸角の柱を使っている家はほとんどないだろう。長柄の大きな鉞でも一発では折れてくれない。振り上げて体を後ろにしならせて背後の土に鉞の鉄部がついたら、ゆっくり振り上げて、振り下ろす瞬間にギュッと握りしめながら、渾身の力で叩く。十数回繰り返すと叩き折れる。四寸角の柱ならもっと楽だ、三寸角の角材なら、2-3発で叩き折れる、まれに一撃で折れることがあった。五寸角についた鉞の刃のあとをみると、どれくらい正確に狙い通りにあたったかが確認できる。渾身の力で一か所を狙って打ち下ろして、1㎝の幅に収めるのは、よほど腰が安定して、振り下ろし方が一つの型にまでならないとできない。住宅用柱に使われているのは現在では三寸角である。正確に振り下ろして、当たる瞬間に握りしめて渾身の力で叩きつける。ぼきっと折れるとスカッとする。
 家の裏庭でそんなことを繰り返して遊んでいると、オヤジはそばを通り過ぎても何も言わない。毎年廃材の角材や焚き付け用のザッパをたくさん預けて、好きにさせてくれた。中学3年生になると、オヤジに頼んで砂とセメントを買ってもらい、混ぜてコンクリートを練って、鉄パイプの両側に太い針金を巻き付けてコンクリートで固めた。40-50㎏くらいのお手製のバーベルの出来上がりである。左官職人がモルタルの壁を塗るときにやっているのを見ていたから、やってみたくなったのだ。真似してやってみたつもりでも、数か月で壊れた。(笑)
 ビリヤード店にはベンチがある、それの片側を箱の上に載せて傾斜をつくり、高い方にベルトを撒いて両足をひっかけて、腹筋する。20セット5回を日に何度か繰り返したら、次第に腰が痛くなり、逆療法とばかりにさらに回数を増やすと、二階の居間へ階段を這って上がることになってしまい、腰が痛くて、病院へ行った。医者が腰を触って、「なにをやったんだ?」と訊く。説明すると、やりすぎで炎症を起こしているから、しばらく休めと叱られた。中学生や高校生のときにはずいぶん無茶をした。30度ほど傾斜をつけてシットアップすると20回が60回くらいの負荷になる。朝早く起きて5セット繰り返す、気が向くと時間をおいてまた繰り返していた。
 鉞で背筋が、シットアップで腹筋が、ザッパ割で手刀と拳が鍛えられた。見かけとは裏腹に血の気が多かった。お袋が亡くなる数年前に「お前が高校生のときに、T嶋が「息子に何かあったら言ってくれ」そう言ったことがあった」と教えてくれた。T嶋さんはわたしに一度もビリヤードをやろうと言ったことがないし、一度もゲームしていない。常連客でゲームをしなかったのはT嶋さん一人しか記憶にない。表面(おもてづら)とは違って、わたしに血の気が多いことを見抜いていたのかもしれぬ。
 高校卒業してまもなく東京・新宿で、ヒロシとムサシの三人でパンチボールを叩いた。腰のひねりを加えて一撃すると180㎏の数字が出た。踏み込まずに腰のひねりだけで叩いた。腕に覚えのある二人は150-160㎏、かなりのパンチ力だった。
 180㎏はプロのボクサーの強打者並み、そして拳は空手家と同等の破壊力なら凶器そのもの。踏み込んで叩いたら、3割くらいは衝撃力が増すだろう。中指のところが他より突き出ているから、その1㎝くらいのところへ破壊力が集中する。顔面ならどこを叩いても骨が砕ける。歯を折るだけではすまない。側頭部にまともに当たれば頭がい骨骨折、脳挫傷で即死だろう。一番硬い額を叩いても同じことだ。加減した叩き方はできないから、素手で人を叩いたことはない。殺人罪で一生を棒にふるようなことはできぬ。
 中三の冬に仲の良かった友人のK池と何かのはずみで喧嘩になったことがある。どちらからともなく外に出ろと雪が50㎝ほど積もった校庭へ、そして取っ組み合いの喧嘩をした。身長は互角、肉付きのよい奴だったから重くて投げ飛ばすのがたいへん、大けがさせたくないから素手ではなぐらない。10分もお互いに雪の中に投げ飛ばし合っていたら息が上がってへとへと、勝負がつかない。雪の中へ何度投げたり投げられたりしても、ダメージはない。そのうちに廊下の窓を開けて3クラスの数十人がワイワイ言いながらみているのでばかばかしくなり、二人とも雪の中で大の字になり大笑いして仲直り、愉しい喧嘩だった。K池、中学校を卒業してから一度もあっていない、転勤族の子どもで性格のよい奴だった、どうしてるかな。先生たちは生徒同士の喧嘩に干渉しない。光洋中学は1学年10クラス550人。


 話を元に戻そう、標津の叔父貴の息子に年齢を聞いたら、ちょうど一回り下、同じ丑年生まれだった。中学生の時に一度だけ標津を訪れたことがある。そのころ、T田さんが標津駅前で親戚が床屋を営んでいた。少し離れたところに母の叔母の家があり、漁師をやっていた。羽振りがよかった。家には馬が一頭いた。標津町には親戚が数軒ある。そのときに、叔父貴の家までは行かなかった。少し離れていて不便だったからだ。今日、初めて訪れた。

 叔父貴は帰路の運転を心配して、早く帰れとせかす。夕方になると鹿がでるから車の運転が危ないと心配するのである。来る途中に3度草叢(くさむら)にいる鹿を見た。根室市内も鹿が多いので、衝突事故がたまに起きている。時速80㎞なら車は全損だし、ケガもする。70㎞でも突然林の中から飛び出してくる鹿はよけきれないので危ない。だからと言って、よけきれる時速40キロで走る車はいない。軽トラを運転しているお年寄りが時速100㎞超で追い抜いて行った。ずっと飛ばして、見る間に小さくなっていく。道路わきに林のあるところはいつ鹿が飛び出してくるかわからないから要注意だ。角が半分獲れた雄が一頭いた。

 叔父貴はまだ元気なようす、百歳まで生きてくれたらありがたい。母方のほうは叔父と叔母とそれぞれ一人ずつしか残っていない。83歳の叔母は叔母というよりも歳の離れた姉という感情が強い。中高生のころは呼び名も「〇〇お姉さん」と呼んでいた。
 母の兄は満州でソ連軍と戦って戦死、長女だった母は平成23年に亡くなった。叔母たち3人はお袋よりも先に逝った。オヤジのほうの兄弟姉妹も全員亡くなっている。昨年は釧路の従兄が一人逝った。

 帰路、道の駅「おだいとう」に寄ってソフトクリームを食べた。人の数よりも牛の数が多い別海町だから、そこの牛乳を原料に造られているソフトクリームはとってもおいしい。¥350、お値段以上の味、コーンも特別なものを使っている。おススメの一品です。

 叔父貴に久しぶりに会って、昔話をちょっとしたのでこころがうきうきしている。

<余談:理不尽>
 8年前にT叔父にあったときに、「墓参りに行きたい」と言っていた。1週間おいて続けて亡くなった父親と母親の墓があるが、一度も墓参に行っていない。年が明けてから千島歯舞居住者連盟の事務局のある千島会館へ電話して、電話口に出た方に訊いてみたら、今年の分はもう締め切ったとつれない返事。「叔父は島民1世で引揚者、なんとかなりませんか?」と畳みかけても、「無理です」、様々な全国組織に割り当てられていて、根室への割り当てはあまりないのだそうだ。
 T叔父は島民1世で、かつ引揚者でもある。20回30回といっている人も少なくない。高齢であることから、体力がもたないのでとっくにあきらめている。あきらめも癒しの一つだろう。
 わたしもスキルス胃癌になる前は、墓参りをしてみたい気があったが、いまはない、とても体力がもたぬ。病気を患い体力が失われて行けないのだから、私自身が墓参できぬことに理不尽さは感じない。
 母は生前、(択捉)島には複雑な思いがあると言っていた。墓参には一度も行っていない。前浜で川に遡上してくる鮭で竹竿が立つと魚の密度の濃さを表現していた。魚群が密で川に立てた竹竿が倒れないのだそうだ。長兄が川に入って鮭を両手で掬って川岸へ何匹も跳ね上げる、そして腹を裂いて筋子をとる。「樽に一杯とっても食べきれないから、その辺にしたら?」と声がかかる。戦前の話だから冷蔵庫はなかった。そういう話をするときに、母には情景が見えているようだった。辛く悲しかったことばかりではない、いいときもあった、懐かしい思いはあったのだろう。
 漁が豊富なだけに、漁業権をめぐって、島には島の事情があった。一回りしか離れていない末っ子の叔母からそんな話を数年前に聞いた。財産が人を不幸のどん底に叩き落すことがある。しかしそれで生まれてくる命もあるのだから、禍福はあざなえる縄の如し。運命は受容するしかないのである。恨みつらみは人を不幸にするだけ、そこを乗り越えたら幸福が待っている。
 オヤジは「戦友たちはみんな戦死した、俺は幸せだ、戦友たちは結婚もせず、子どもも残さず、靖国で会おうといって出撃して戻らなかった」。大腸癌の手術をした後に、東京へ来て、靖国神社へお袋と一緒にいった。お袋は満州でソ連軍と戦って戦死した兄を弔うつもりだっただろう。そのときに、オヤジは万里の長城へ行ってみたいと言った。戦時中朝鮮や中国にいたことがあったからだろう。医者には無理だととめられていた。翌年再発して手術したが、「開け閉じ」。5か月後に全身転移で亡くなった。死んでもいいから万里の長城への旅行、行かしてやりたかった。
 大学のゼミの指導教官である市倉宏祐教授(哲学)は元特攻隊の生き残りである。オヤジと同じ1921年生まれだ。市倉先生が遺した『特攻の記録 縁路面に座って』は弊ブログに同名のカテゴリーがあって、そこに全文を貼り付けてある。遺稿の編集委員伊吹克己専修大学教授の好意で電子ファイルの原稿を送ってもらった。クリックすれば読めるので、哲学者による唯一の特攻の記録をたくさんの人に読んでもらいたい。


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#4025 日露首脳会談6/29:「元島民落胆深く」 Jul. 1, 2019  [21. 北方領土]

  6/30北海道新聞28面のタイトルは次のようになっている。

 領土「足がかり見えぬ」
  日ロ会談 元島民、落胆深く

 関係者のコメントを北海道新聞から引用する。
 ①千島歯舞居住者連盟根室支部長宮谷内亮一さん76歳

今回の会談で何か足がかりがあってほしいと思っていたが、まったく見えない。進展がなく残念だ」
「戦後74年、領土問題は置き去りにされてきた。ほんとうに悔しい。そろそろ現実的な対応をしてほしい
 ②千島歯舞居住者連盟副理事長河田弘登志さん84歳
この状況(元島民の平均年齢84歳)を見れば、一日も早く解決してほしいというのがわたしたちの偽らざる願いだ。首相も肝に銘じてほしい
 ③択捉島出身で札幌の岩崎忠明さん85歳
交渉はずっとロシアペースだ
道がなかったり、ロシア側が訪問を認めなかったりする墓地もある。墓参できる墓地が増えなければ、航空機を使えても意味はない
 ④石垣根室市長
一定の進展を見た
ごみの減容対策は根室市が主体的に担わなければいけない。(四島に対し)分別や減容の指導もできる。できることから一つずつ積み重ねることが領土問題の解決につながる

 元島民と根室市長のコメントには温度差が大きい。元島民の返還運動団体である千島連盟は市長と一緒にやっていけるのかね?


<六月末日:日めくりカレンダーの金言>
 努力なくば、安楽もなく、休息もなし
SSCN2895.JPG

<北方領土返還戦略の作り方>
 北方領土返還運動を担う千島歯舞居住者連盟も手詰まりである、なぜかというと具体的な返還戦略がないからで、どうやれば北方領土の返還が行われるのか自分たちの頭で考えてこなかった。政府にただお願いしてきただけ、そしてビザなし交流や墓参を政府予算丸抱えでやってきたことを反省すべきだ。自分たちの問題しか視野に入っていないことも運動が広がらない原因の一つである。領土問題は北方領土だけではない、尖閣列島も竹島もある。引揚者は北方領土からだけではない、樺太からも満州からも朝鮮からもパラオなど南の島々からも、土地や家屋ややっていた事業、財産すべて失い命懸けで引き揚げてきた人たちが他にもたくさんいる。国民に共感をもってもらいたいなら、こういう人々にも共感があってしかるべきだろう。
 一度、内部で議論してみたらいい。思いつくままいろんな事項を列挙して、整理すればいい。KJ法*やワークデザイン法*を利用して分析し、そういう作業をベースにしてPERTチャート*にイベントを並べて具体的な北方領土返還戦略をたてたらいい。仕事は段取り八分、やり方次第である。方法論を間違えているから70年間ロスしてしまった。

 もちつもたれつの関係を解消する時期に来ているのではないか。このまま「お願い」運動をしても進展はない、千島歯舞居住者連盟の二人もそう言っている。具体的な領土返還論、返還戦略を自分たちで真摯に議論して、公表したらいい。政府の外交政策と真っ向から衝突するよ、そういう覚悟がないなら現状維持、「お願い」返還運動で満足するしかない。他人任せにしていたからこういうことになる。
 弊ブログ#195を参考にしてもらいたい。そしてわたしの案を鼻で笑えるような具体的なシナリオを考えだして公表したらいい。返還運動を政府任せにしてはいけない、どうしてほしいか各人がそれぞれ考え抜いて、具体案をまとめ上げて表明したらいいのである。

*KJ法:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/KJ

*ワークデザイン法:日本創造学会
http://www.japancreativity.jp/category/work-design.html

*PERT chart:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/Program_Evaluation_and_Review_Technique



*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012

#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー



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#3929 VENONA文書と北方領土:四島一括返還の戦略 Feb. 13, 2019 [21. 北方領土]

 VENONA(ヴェノナ)文書の存在を最近知った。FBIが盗聴した暗号解読の公文書が50年たって公開された。その内容は大東亜戦争と東京裁判の見直しを迫る驚くべきものである。

 ルーズベルト大統領の側近に何人もソ連のスパイがいて、日米開戦を画策していたという。ハルノートの原案もソ連スパイ(ハリー・デクスター・ホワイト 財務次官補)の手になるものだった。中国も南京虐殺をでっち上げ反日キャンペーンを米国で繰り広げ、米国世論を反日へ誘導したことが、これらの公文書公開でようやくわかるようになってきた。誰がどこからの指示でどういう機関や組織を作り何をしていたのかが明らかになっている。
 ルーズベルトの前任者のフーバー大統領は、ソ連の拡大をとめるために、日本と協力すべきだと主張していた。当時の米国の保守主義勢力は、共産主義の拡大を防ぐために日米の協力を模索していたのである。

 ルーズベルトは1929年の大恐慌のあと景気低迷と失業者があふれた状況を何とかするために、政府内部に何人もいたソ連スパイの提案を採用して日米開戦の準備をしていた。1941年11月26日に日米交渉で示された「ハルノート」は日本を戦争に踏み切らせるための踏み絵だった。1941年の開戦で米国は1200万人の失業者が職を得、空前の好景気に沸いたのである。見事なものだ。ソ連と中国共産党は戦略という投網を打っておいて、時節の到来をじっと待つ。
*https://ja.wikipedia.org/wiki/ハル・ノート

 ソ連はマンハッタン計画もスパイから情報を入手して、広島に原爆が落とされる日まで知っていた。原爆投下に合わせて開戦すべく、その半年も前からヨーロッパ戦線から軍隊を引き揚げて、10万人も樺太へ集結させていた。そして広島に原爆が落とされた3日後の8月9日に北方領土と樺太そして満州に一斉に攻め込んだのである。ソ連は20年もかけて領土拡張の戦略を練り、米国や日本にスパイを送り込み実行し、まんまとやり遂げた。
 ルーズベルトはスターリンや毛沢東と組んだ、ヤルタ協定は元大統領のブッシュも恥ずべき政策だったと誤りを認めている。米国の保守主義は日本の核武装を歓迎するだろう。米国議会はヤルタ協定はルーズベルト個人が結んだもので、米国政府が正式に認めたものではないとまで決議している。だから、日本は北方領土と南樺太の領有権に関して米国議会と協力できるのである。

 ルーズベルトは第2次大戦で国境を変更しないと明言していたが、ヤルタ協定でスターリンと取引した。東欧や満州をソ連にくれてやる約束をしたのである。旧満州はソ連と中国の切り取り放題を認めた。ポーランドとバルト海三国、ラトビア、リトアニア、エストニアはこうして戦後ソ連に組み込まれた。中国は1951年にチベットへ軍隊を送り併合した。チベットはいまでは中華人民共和国の一部になってしまった。かつての大帝国モンゴルも中国の属国化が進む。元横綱朝青龍がモンゴルに急激に漢人が増えて困ると悲鳴を上げている。チベットの向こう側のウィグル自治区にも中国はたくさんの強制収容所をつくりウィグル人の人権を蹂躙している。これらの発端がヤルタ協定であり、ソ連と中国共産党の戦略の結果である。チベットを併合しただけでは気がすまず、中国はその版図を広げようと「一衣帯水」と称して現代のシルクロードをつくりあげ、モンゴルやその向こうのウィグルにも触手を伸ばしている。あくなき領土拡張の欲望が中国共産党を動かしている。米国の保守主義者はほぞをかんでいるだろう。戦略での負けは取り返しがつかぬ。

 明確な戦略をもって20~30年の歳月をかけて布石を打って、領土拡張を図ったソ連と中国、ソ連は米国政府内部にまでスパイ網を構築して米国と日本を対立に持ち込み、戦争に追い込んだ。中国が米国内部で南京大虐殺のキャンペーンを組織した。関係のない写真をばらまき反日宣伝をおこない米国国民を対日戦争に誘導した。日本が真珠湾を奇襲した12月8日の翌日に、中国共産党は「これで対日包囲網が完成した」とアナウンスしている。米国と日本は見事にしてやられたのである。

 戦略のない外交がいかに脆弱なものかはソ連と中国の領土拡張の歴史を見ればよくわかる。安倍政権は戦略なしに、北方領土問題をロシアのプーチン大統領と話し合うという。詰将棋が詰んでしまってから形勢の挽回をしようとするようなもの。日本外交はまるで子ども、幼児性がいまだに抜けぬ。
 適切な戦略があれば北方四島返還はできるのだよ。

 千島歯舞居住者連盟のみなさん、根室高校北方領土研究会のみなさん、そして日本共産党のみなさんもVERONA文書に関心をもってください。ヤルタ協定は無効です、それが米国議会の正式見解ですから、北方領土返還運動で日米は協力できます。

*#195「少し過激な北方領土返還論」:MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
⇒ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07


 ところでこの文書は2010年に翻訳①が出ているのだが、値段が3万円以上もする。原著で読もうと思ってamazonで調べたら、代金引換やコンビニ決済が利用できない区分になっている。ネットで銀行口座を入力するのは危なくてやる気がしない。さて、どうしたものかの。amazonはどういう基準で代金決済に制限をかけているのか、ご存知の方がいたら教えてほしい。
 東京で書店回りをする体力があるかどうか。電車に乗って洋書のある書店へはスキルス胃癌の術後は一度も行ったことがない。混んでいる電車で立っているのは辛い、無理だろうな。あんなに本屋を回るのが好きだったのに…

 これらの本は暗号が誰宛てなのか、だれが発信した者なのか、歴史と照らし合わせて個人を特定している。
 ③の本が2014年の出版で一番新しい。解析がさらに進んでいるようなのでこちらを読みたい。大東亜戦争への見方ががらりと変わる。ルーズベルトは米国政府内部に構築されたソ連スパイ網でいいように踊らされていたのだ。

 なお、ウィキペディアは米国政府内部に構築されたソ連スパイ網の実名リストを挙げている。
*https://ja.wikipedia.org/wiki/ベノナ


ヴェノナ

ヴェノナ

  • 作者: ジョン・アール・ヘインズ
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2010/01/30
  • メディア: 単行本
Venona: Decoding Soviet Espionage in America (Yale Nota Bene)

Venona: Decoding Soviet Espionage in America (Yale Nota Bene)

  • 作者: John Earl Haynes
  • 出版社/メーカー: Yale University Press
  • 発売日: 2000/08/11
  • メディア: ペーパーバック
The Venona Secrets: The Definitive Exposé of Soviet Espionage in America (Cold War Classics)

The Venona Secrets: The Definitive Exposé of Soviet Espionage in America (Cold War Classics)

  • 作者: Herbert Romerstein
  • 出版社/メーカー: Regnery History
  • 発売日: 2014/12/08
  • メディア: ペーパーバック

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#3882 羅臼町長の北方領土に対する明快な意見 Dec. 15, 2018 [21. 北方領土]

 15日付北海道新聞根室地域版によれば、湊屋羅臼町長は町議会の答弁でつぎのように語っている。
今まで動かなかった交渉が少しでも動くならば、国の交渉を注視したい。ただ羅臼町の町長としては、国後と択捉の両島が置き去りにされてはならないとはっきり申し上げたい

 隣のページには根室市長が千島会館で千島歯舞居住者連盟根室支部創立60周年事業の一つである北方領土問題研修会で次のように述べた。
元島民や隣接地域の思いを受け止めた総理に結果を任せよう。総理には職を賭して首脳会談に当たってほしい

 参加者50人、市長の講演だから忖度する市役所職員が20-30名くらいは来ているだろう。
 あなた任せ、当事者の発言には聞こえない。石垣市長のこの発言は元島民の心情が理解できていない。歯舞群島や色丹島の元島民は自分たちの島がもどってくるのと引き換えに国後島と択捉島が永遠にロシア領になってしまうことがわかっているから喜べない。一緒に戦ってきた国後島や択捉島の出身者に申し訳がないから、水晶島出身者や数名の歯舞群島出身者は苦渋の表情を浮かべてテレビのインタビューに応えている。
 これが「北方領土返還運動の原点の町」の市長の発言かと耳を疑った。
 尻尾を振る犬はかわいい、だが北方領土の番犬は羅臼町長のように肝心なところでは吠えなくてはならない。

 連盟根室支部長の宮谷内さんも最近のテレビニュースでは遅ればせながら四島返還を口にした。人の心情としてそういわざるを得ない。元島民にとっては損得勘定では割り切れない問題がある。

 ロシアと戦わずして北方領土の返還などあるはずがない、四島返還ノーなら、ロシアと経済断交するぐらいの気概をもって外交交渉してもらいたい。根室市議会で「四島返還、さもなくばロシアと経済断交すべし」という決議をして外交交渉をバックアップすべきだ。「北方領土返還運動原点の町」である根室が何も行動を起こさないで成果がえられるはずがない。

*#3871 根室市長「いかなる結果でも全面的に支持する」
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-12-02-1

 

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#3871 根室市長「いかなる結果でも全面的に支持する」 Dec. 2, 2018 [21. 北方領土]

 「北方領土返還要求中央アッピール行動」が12/1東京都内で行われた。
 「四島を返せ」の掛け声は封印、いったいなにしにいったのだろう。

 水晶島出身の柏原栄先生がテレビの取材に、「70年も実効支配が続いて…四島は日本の領土だと主張してもらいたい」と言葉を選びながら苦渋に満ちた表情で応えていた。2島で妥結すれば、それでジ・エンドであることが分かっていながら、そのあとに2島返還交渉をというのはまやかしの思いだろう。小中高と団塊世代と一緒に学校を転任した唯一の先生である。そういう意味で団塊世代と縁の深い先生だ。昨年亡くなられた元択捉島出身の岩田先生とは花咲小学校教諭時代の同僚である。わたしは中学2年生の時に柏原先生に1年間「歴史」を習った、楽しい授業だった。あの時から成績が飛躍的にアップしたので、恩人だと思っている。黒板に字の大きさをさまざまに変えて場所もときに隅っこを使ったりして書いていた、印象(=記憶)に残る板書でかつ達筆であった。ある日、緑色の「黒板」に書かれた字を丸ごと記憶でき、ページをめくるように3か月間は保持できることに気がついた。家業のビリヤードで幼稚園のころから毎日遊んでいたビリヤード台はグリーンのクロスが張られて、その上を白と赤のボールが幾何学的な軌跡を描く。小学3年生のころには頭の中で無限にビリヤードができた。それを勉強に応用しただけで成績は簡単にあがってしまった。緑色の黒板に書かれた字や図を、苦も無くそのまま頭に浮かべることができた。子どもの頃の記憶力がなぜあんなに大きいのかわからないが、何十枚でもOK、ビリヤードを頭の中でやるのと一緒。頭の中の引き出しから引っ張り出しては確認し、書かれたことを整理してまた格納する。数分単位で暇なときに繰り返せばいいだけ。ノートも鉛筆もいらぬ、ビリヤードの店番をしているときにときどき頭に思い浮かべるだけでよかった。ビリヤードが勉強にそのまま使えることに気がつくきっかけをつくってくれたのが柏原先生の歴史の授業、そして小中高で数人の尊敬する先生のお一人。先生らしい発言だと思いながらテレビを見た。おいくつになられてもブレないインテリである。

 すごいのは根室市長の発言だ、3か月前の市長選挙のときの北方領土返還政策とはまるでちがって、ブレブレ。自分の言っていたことを忘れてしまったのだろう。北海道新聞12/2朝刊31面の記事を引用する。
日ロの交渉が)いかなる結果でも全面的に支持する。それが(領土返還運動)原点の町の思いだ

 関係者や根室市長としての公的立場に配慮した発言をしてもらいたいね。北方領土問題に関心の薄い大多数の国民がこの発言を見たらどう思うだろうくらいの想像力はもってほしい、北方領土の玄関の町根室市長なんだから。地元根室市長ですら北方領土については「この程度の認識と思い」であると受け取られかねない。
 根室市が四島返還を強く要求しているほうが、政府は外交交渉がやりやすい、カードが一枚増えるからだ。ロシアが強硬なのは、一度分捕って自国領土に組み入れた土地は絶対に返さないという国民が圧倒的に多いからだ。地元市長すら政府に下駄預けでは、強い交渉を政府ができるわけがない。対ロシア弱腰外交には地元の領土返還運動に熱意が見られないという理由がある。今度こそは、安倍総理の対ロシア外交を下支えするために、北方領土玄関口の根室市長がどれほど強硬な領土返還論をぶち上げるかと思いきや、「いかなる結果でも支持する」と後退発言、はなから負け犬、戦う意思すらない、がっくりきた。
 日本が抱えている領土問題は竹島も尖閣列島もある。領土に関して日本国民は腰が引けているとロシアや韓国や中国に間違った印象を与えることになる。実効支配すれば、国民も日本政府も強くは出てこないと思うだろう。尖閣列島も日中中間ラインの資源紛争もが危うくなる。
 東シナ海には日中中間ラインをまたぐ形でガス田が広がっているが、中国は井戸を掘り天然ガスの生産をはじめている。やりたい放題だよ、既成事実を積み重ねれば日本は手も足も出ないとなめられている。そうした国際関係にも配慮のできる市長であってもらいたい。
*東シナ海ガス田問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/東シナ海ガス田問題
 タイムリーですね。昨日(12/3)夜配信された記事です。
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/中国、ガス田試掘を正当化-「主権と管轄権の範囲内」/ar-BBQpR4L?li=AA4RHB&ocid=spartanntp

 市長発言は領土返還交渉は政府マターで根室市は関係ないといっているように聞こえる、なんにもわかっちゃいない、北方領土の玄関口の根室市長の発言は外交問題に影響するのだよ。根室市の在り方次第で北方領土返還外交は劇的に変えられる。弊ブログ#195を一度読んだらいい。ロシアが震撼するような圧力をかけてやればいい。
 北方領土は外交マターで根室市は関与しない、9月の市長選挙の時に政策にそう書いていたのは対立候補の保坂いづみさんではなかったか?弁護士らしい割り切った考え方に頷けなかった覚えがある。他方、石垣氏は長谷川前市長の政策を継承すると宣(のたま)わっていたはずだが、長谷川前市長は昨年の「北方領土返還要求中央アッピール」行進で「四島を返せ」と叫んでいた。「いかなる結果でも…」ではなく、四島返還だった。そして根室市の役割は市民の声を政府に届けることとなっていたはず、石垣氏はいつ宗旨替えをしたのだろう?まだ、市長選挙から3か月たっていない。領土返還に関する市民の意見どころか、千島歯舞居住者連盟内部ですら、2島返還かそれとも四島返還かについて議論も意見のとりまとめもなされていないのである。いつ、どこで市民の声を聞いたのだろう?


 千島歯舞居住者連盟の国後島と択捉島出身者たちは市長の発言に迷惑しているに違いない。水晶島出身の柏原先生は自分の出身の島は返ってきても、93%を占める国後島と択捉島が返ってこないことが確定してしまうことに心を痛め素直に喜べない、だからテレビ取材に一言一言絞り出すように苦渋の表情を浮かべて応じていた。一緒に返還運動をしてきた仲間の思いが犠牲になって、自分の出身の島だけ戻ればいいなんて考える元島民はごく少数だろう

 水晶島出身者の吉田義久さん(81歳)=富山県黒部市=は次のように言っている。
元島民は故郷を追われた点でみんな同じ立場。やはり『島を返せ』が正直な気持ちだ

 国後島出身の岩松昇さん(78)=根室管内標津町=は次のように言っている。
今の状況はわかるが、気持ちをもっと出したかった。四島返還を言い続けて来たから」と本音を漏らす。11月の首脳会談で「交渉が前進してきた」と感じるが古里の返還は見えないままで、「ロシアとの交渉では、日本も態度をはっきり示すべきだ」と訴えた

 12月4日付の北海道新聞15面に載った記事も転載しておこう。「どうなる北方領土」というタイトルの記事に、歯舞諸島多楽島出身者元島民である東狐貢さん(88)の意見が載っていた。東狐さんは根室市から都内のデモに参加した元島民最高齢者である。
「「島が返ってきてほしい。だが、国後、択捉出身の元島民もいる。この方針でいいのか、一言では言えない難しさがある」と胸中を明かす」

 別の紙面に掲載された写真の中の元択捉島民の叔母の表情はめずらしく苦虫をかみつぶしたようだった。昨年亡くなった択捉島蘂取村出身者の岩田宏一氏の望郷の思いが頭をよぎっていたのかもしれない。

#3662 NHK朝までドキュメント72時間:岩田先生 Dec. 16, 2017

<領土は渡さない:サッチャーの毅然とした対応>
 1982年アルゼンチンとのフォークランド紛争時の英国首相サッチャーは毅然としていた。ただちに航空母艦2隻と原子力潜水艦、駆逐艦、フリゲート艦などの軍艦を派遣し、航空機によるアルゼンチン飛行場爆撃を開始、軍隊を上陸させ、アルゼンチン群を英国領から追い出し、鎮圧した。領土は絶対にわたさないという決意を全世界に示したのである。
 四島返還の原理原則の主張を引っ込め、7%の歯舞群島と色丹島で結構でございます、見返りにシベリア開発で兆円単位の経済協力をしますでは、日本人は世界中から腰抜けと思われないか?
 ことと次第によってはロシアと全面的な経済断交へ突き進むくらいの覚悟を決めた外交交渉はできないのかね。

*https://ja.wikipedia.org/wiki/フォークランド紛争

*#2054 マーガレット・サッチャーと領土問題(3) : Aug.16, 2012

#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012

#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー



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#3860 北方領土は2島(7%)返還でおしまい、これでいいのか? Nov. 24, 2018 [21. 北方領土]

 このままいけば、北方領土返還交渉は2島返還でいいのか?
  歯舞群島と色丹島はわずか7%、返還されない国後島と択捉島は北方領土の93%を占める、国後島と択捉島はどちらも沖縄本島よりも大きい。
 北方領土の面積は5,038平方km国後島1,499平方km択捉島3,184平方kmの2島は北方領土全体の93.0%を占めている。比較のために書いておくが択捉島は沖縄本島1,206平方kmの2.6倍も大きい
 週刊現代がタイムリーな解説記事を掲載してくれた。近藤俊介氏が書いている、この記事をお読みいただき、いま一度北方領土問題についてお考え下さい。

 「北方領土交渉、このままいけば「ロシアの圧勝」で終わる可能性
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58551

<要点抜粋>
-----------------------------------------------------
安倍首相は緊張からか、疲れからか、顔色が優れず、虚ろな表情をしていた。だが、発言内容は重大で、日本の戦後外交を歴史的に転換させる舵を切ったのである。端的に言えば、北方領土の4島返還を諦めて、2島返還で決着させるということである。歯舞島と色丹島のみロシアから返還させて、国後島と択捉島は諦めるという決断をしたのだ。
しかも安倍首相は、いま日本で喧伝されているような「2島+α」ではなく、2島の日本帰属を認めさせて返還を死守する、すなわち「2島-α」を出さないことを目標に据えているように思える。


これだけ長く首相をやっている割に、成果が乏しいのである。
私は以前、ある元首相に、「日本の最高権力者の座に就いて考えたことは何ですか?」と聞いてみたことがある。すると元首相は、こう答えた。
「首相なんて結局は、3つのことしか考えないんだよ。第一に、自分の在位中、日本が平穏無事であること。第二に、一日でも長く首相の座にとどまり続けること。そして第三に、自分の時代にこれをやったというレガシー(遺産)を残したいということだ。おそらく首相が考えることは、誰がなっても同じだろうよ」
こういった証言から推論するに、安倍首相もいよいよ、「2019年は自分のレガシー作りに邁進する年にする」との決意を固めたということではなかろうか。


日本は、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約でも、ミスを犯している。吉田茂首相がサインした講和文書の第2条(C)には、こう書かれている。
〈 日本国は、千島列島並び日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する 〉
吉田首相は受諾演説で、北方領土の取り扱いに、一応は異議申し立てを行っている。
「日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何らの異議を挿まなかったのであります」
だが吉田首相は、図らずも異議申し立ての中で、「千島列島」の中に択捉島と国後島が含まれることを認めてしまっている。その上でサインしたのだから、これまた日本の自己責任論だ。ただ一つの救いは、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印を拒否したことだった。

これだけ長く首相をやっている割に、成果が乏しいのである。
私は以前、ある元首相に、「日本の最高権力者の座に就いて考えたことは何ですか?」と聞いてみたことがある。すると元首相は、こう答えた。
「首相なんて結局は、3つのことしか考えないんだよ。第一に、自分の在位中、日本が平穏無事であること。第二に、一日でも長く首相の座にとどまり続けること。そして第三に、自分の時代にこれをやったというレガシー(遺産)を残したいということだ。おそらく首相が考えることは、誰がなっても同じだろうよ」
こういった証言から推論するに、安倍首相もいよいよ、「2019年は自分のレガシー作りに邁進する年にする」との決意を固めたということではなかろうか。
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*#3859 北方領土は現状のままでええじゃないか Nov. 23, 2018
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-11-23

#3856 日露平和条約:国後島と択捉島は北方領土の93% Nov. 15, 2018
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-11-15

#3564 セルツェ(心)ー遥かなるエトロフを抱いてー July 2,
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-07-02

*#3475 ロシアに対抗して根室にダミーのミサイルを設置しよう Dec. 5, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-12-04-1

 #3304 補助金もらって寝て待つ2島返還論:楽するとろくなことがない  May 28, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-28

*#195「少し過激な北方領土返還論」MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07

 #465「"Japan sent uranium to U.S. in secret"は北方領土返還運動の好機か?」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-12-30

  #1401「ロシアがフランスから新型軍艦を購入し北方領土へ配備、対抗措置はあるか」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-1

 #1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06

 
#1965 ビザなし交流=通過型観光旅行? June 8, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-08

 #1969 北方領土問題コメント(欄)対話(1): ビザなし交流の虚実  June 11, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-11

 #1973 ビザなし交流in択捉島 住民交流会:もちつもたれつ  June 14, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-14

 #2050 竹島と北方領土 :韓国大統領の竹島上陸にどう対抗する?  Aug. 10, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-10-2

 #2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14


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#3859 北方領土は現状のままでええじゃないか Nov. 23, 2018 [21. 北方領土]

 北海道全域で初雪が降りました、いよいよ冬の到来です。根室の今朝の最低気温は0.2度(午前9時19分)、強風で水たまりが凍りついていました。

 弊ブログ投稿欄へときどきコメントを寄せてくれる阿波の国の方がいらっしゃいます。もちろん、異論を対置して見せてくれるのですが、阿波の言葉でのその語り口も素敵です。
 なるほどな、北方領土問題は外側から見ていたらそういう見方もあるのか、「名無しのゴンベイ」さんとの対話部分だけ紹介します。
(サリーさんも投稿してくれてます。サリーさんはお父さんが引揚者ですから、北の島々にはわたしと同じような思い入れがあります。投稿欄の冒頭にあるので、クリックしてご覧ください。)

#3856 日露平和条約:国後島と択捉島は北方領土の93% Nov. 15, 2018
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-11-15

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大昔、に自由に闊歩して生活していたアイヌが和人に土地を奪われ生活の変容を余儀なくされた。
昔、日本人が生活していた土地がロシアに奪われて追い出された、もしくは、不便を感じて脱出した。
今、すでに多くのロシア人が生活を営んでいる。
将来、この人達を追い出して、もしくは、不便を感じて移住することになるかもしれない土地の所有者を変えることになるのか?
主権と所有権が違っても良いのかもしれん。住んでる者の事を考えてあげたらば。
by 名無しのゴンベイ (2018-11-21 09:50)
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戦って負けたら、土地も財産ものうなってしまう。
平安の昔から東北、そして北海道、北方の島々で和人とアイヌの戦いが、そしてロシアとの戦いがあった。負けたら盗られる、勝てば分捕る、それだけのこと。
領土と領海をめぐる戦争はこれからも隣接する国との間で起る。経済を武器にして戦えばいい。やれんじゃろな、もうけが先だわい。幸か不幸かカルロス・ゴーンと根っこのところは一緒の日本人が増えている。
by ebisu (2018-11-21 15:20)
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いや、わしの言うとることは、この4島が心底必要なもんが今の日本におるのか?ということや。そりゃあればあったで経済開発やらに名乗りをあげるもんもおろうけど、それは余剰のことや。今現に島で生活しているもの達にとっては心底今の状態が続く方がええと思うてるやろ。日本に返還となったらまた新たな悲劇を生み出すことになる。住んどるもんには何の罪もないのにや。
色んな面子もある、うまく話合うて返還して所有権は名目上日本とするが、主権は今のままロシア、ちゅう線もええなあと思う。みんなの面子が立つやろ?
by 名無しのゴンベイ (2018-11-21 18:19
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誰でも故郷へのノスタルジーはある。
ノスタルジーやない、実際に辛い体験もある。
そしたら相手のこともわかるやろ。
生活の拠点が変わる事がどれだけ辛いことか。
政治や経済といったうわべに囚われていたら個々の人の生活が見えんようになってしまう。そして戦争や。
大事なんは実際にそこに住んどるもんの生活やないやろか?
by 名無しのゴンベイ (2018-11-21 18:37) 
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あんたの主張は
今あの島に住んでいる人達を追い出すことになる、
悲しませることになるかもしれんけど、
それを超える程の価値があるんやろか?
今の状態でこの日本で憂いてる人の価値と、
もし返還になったら憂うことになる人達の価値と、
を比べて勝るんかいな?
by 名無しのゴンベイ (2018-11-21 23:23)
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価値があるのかないのかと問われたら、あるんよ。
理不尽なことには妥協はしないという意志を見せることは、価値のあることなんよ。
そのうえでの外交交渉に意味があるんよ。どういう形の返還が実現できるのか、具体的な検討が必要なんだろう。

たとえば、主権も権利関係も戦前に戻す、そのうえで、ロシア人住民の数を半分にして居住を認めることだって、外交交渉のまな板にのせられる。
な~にもせんと、ただ現状追認は納得いかんというこっちゃ。

このままあと二十年の時が過ぎたら、島に住んだことのある人間はきれいさっぱり一人もいなくなる。ふるさとへのノスタルジーがなくなり、静かになるわ。それでおしまいっちゅうことや。

そういうことが、「隠れたカリキュラム」になる。ロシア相手に真っ向から領土返還交渉すらできないヘタレだと、中国は日本をなめてかかる。
73年前にロシアがやったことは、いま中国ならずっとスマートにできると思うだろう。接続海域に中国潜水艦が出入りするようになった。既成事実をどんどん積み上げて侵食してきおる。尖閣列島だけでなく、沖縄も危うくなる。
琉球王国は中国へも朝貢していた歴史があるから、中国の一部だくらいのことはいいよる。日本の未来は危ういのう。ここからは退かぬというラインがない。
by ebisu (2018-11-22 00:14)
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 ハバロフスクの捕虜収容所に収監された日本人を主人公とするこの小説は2014年11月6日に読んだ。(2020/08/11記す)


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