#5302 多和田葉子『かかとを失くして』『三人関係』Oct. 12, 2024 [44. 本を読む]
一昨年11月下旬に東京へ戻ってきて、一度市立図書館へ行こうと思っていましたが、ようやく今日行ってきました。
マウンテンバイクで坂を下がると市立図書館の最寄りの「支店」に行き当たります。標高差が50mほどあるので、帰りは登りですからちょっと辛い。(笑)
図書館の中で本を読んでいるのは9割がわたし同様、高齢の男性です。お一人高齢の女性を見かけました。空いています。中高生が利用できるような勉強机がありませんでした。市立図書館本館にはそういうスペースがたぶんありますね。一度見学してみます。
「利用者カード」を作成してもらって、多和田葉子さんの小説を2冊借りてきました。多和田さんは日本語とドイツ語で本を書いています。都立立川高校で第2外国語としてドイツ語を履修しています。この地区ではナンバーワンの進学校です。なかなかいい環境で育ちましたね。
標記短編2編を読みましたが、別の時間と空間が妙なところで交差して、平衡感覚がおかしくなって眩暈(めまい)を起こすような小説です。
『かかとを失くして』は1991年に書かれたもので、最初の受賞作品(群像・新人文学賞)です。初期の頃のようで、少し硬い。たとえば、読点が次々に連続して、句点が出てくるまで8行にわたる文章がありました。読点が延々と続き概して文章が長い。1ページに句点のないドイツの哲学者の著作を読んでいるような気分にさせられる箇所があります。外国あるいは田舎から始めての都会の駅に、学校教育が受けられることを条件に書面結婚をした年のころ十代前半の女が降り立ったところから話がスタートします。言葉がよく聞き取れない上に、訛りがあるので地元ではないことがバレバレ。22歳で単身ドイツへ渡った彼女の経験と二重写しになっているのでしょう。なぜか、結婚相手の初老の男は姿を見せないのです。女は男の姿をいろいろ想像をします。最後のシーンで、男の部屋の鍵を、鍵屋を呼んで壊して空けてもらいます。そこで発見したのは、...。そして女は未亡人となります。奇想天外な結末ですが、隠喩があります。
「この欠けた<かかと>は、共同体の文化や習俗になじんで歩く基盤の欠落を示す」と本の末尾で谷口幸子さんが解説しています。
『三人関係』はご想像通り、「三角関係」ではない「三人関係」、倒錯した伝奇小説になっています。性が見かけとは違った「三人関係」が二重に現れます。時間と空間が交錯し、性が捻じれた「三角関係」は、果たして現実なのか主人公の妄想なのか、定かではありません。そうした現実にあるハッキリとした境界が曖昧になっているのがこの小説の独特の世界です。エロくはあるけれど、グロくもとまでは行かぬ、微妙なあたりで何とか品よく漂うような作品に思えました。他の作家さんではこういう印象のものを読んだ記憶がありません。
主人公は会社勤め、コピーをしていると周りの人の身体が透明に見え始めます、おかしな感覚の持ち主です。歩いているときに見えない壁のようなものと頻繁に衝突します。主人公が勤務している会社へ大学生の綾子がインターンシップでアルバイトとしてやってきます。ランチに誘っても言葉が少ない川村綾子が女性作家山野秋奈の書いた本が好きだと言います。じつは主人公もその作家のファンでした。綾子がその女性作家に好奇心があり、作家の夫で画家である山野稜一郎に展覧会で近づきます。そして自宅に招かれます、主人公はランチのときに綾子にその話を聞いたがります。東京北西部に作家が住んでいますが、中央線から乗り換えるらしいのですが、交差しているさまざまな線には「貝割礼駅」という名が見つかりません。空間がなにかの拍子で捻じれたときに中央線から乗り換えることができるようなのです。駅名が伏線になっていますね。貝は女性、割礼は男子の包茎を切除する儀式です女性のクリトリスを切除するのも割礼です。つまり、両性具有がこの物語に関係があると著者は示唆しています。綾子が画家の稜一郎と一緒に住むことになったと突然アルバイトをやめました。今度は主人公が画家に自宅へ招かれます。画家には杉本という親友がいます。その杉本を通じて主人公は画家と山野秋奈に近づいたのです。秋奈の指示で1度目に画家稜一郎とのデートでずぶぬれになった主人公は、作家の自宅へ一緒に行きます。秋奈が浴衣を出してくれて、ずぶぬれの服を脱ぎます。その背中に秋奈が大きなふくらみを主人公の背中に押し付けます。2度目の訪問の時に思いもかけぬことが起こります。秋奈は両性具有でした。バイセクシャルだったのです。画家と親友の杉本の関係もホモセクシャルを匂わせます。そこへ正真正銘の女である主人公が舞い込み「三人角関係」が「四人関係」に進展してしまいます。眩暈(めまい)が起きるはずです。途中で杉本と主人公がいつのまにか結婚しているような描写が挟み込まれます。ここでは時間軸がねじれを起こしています。杉本はバイセクシャルだということなのでしょう。
元はと言えば、主人公の強い好奇心が引き起こした異世界への侵入、あるいは「吸引現象」を引き起こす原因になっています。アルバイトで働いていた大学生生の綾子も作家の秋奈へ強い好奇心のあることが描かれていました。強い好奇心が異世界への入り口になっています。
三番目に収録されているのは「文字移植」というタイトルの短編ですが、一読してつまらないと感じました。本の末尾に収載されている谷口幸代さんの「<かかとのない>文学」を読んで、その実験的な試みの意味が解りました。実験的過ぎてエンターテインメント性が薄くなってしまったのは事実です。でも、ドイツ語に興味にある方はとくに面白いはず、是非お読みください。
『白鶴亮翅(ハッカクリョウシ)』は2023年の作品ですが、ずっとこなれて読みやすい文体に変貌しています。30年間の苦闘(?)の跡がうかがわれます。ユニークな作家ですね。この本は初版本でした。
調べてみたら、朝日新聞連載小説を単行本にしたもの。太極拳がテーマになっています。読みやすい理由がわかりました。新聞の読者を考えてのことのようです。
多和田さんは10年以上ドイツで太極拳を習っているようです。ドイツと中国と日本の文化が太極拳をテーマにどのように切り結ぶのか、楽しみです。
彼女の書いたこの2作品を読んだ後で、エッシャーのシュールな大判の絵画の本を見ましたが、なんだか普通に見えます。それほど多和田葉子の描いている世界はシュール、新感覚幻想小説です。凄い書き手です。
1960年生まれですからもう還暦を過ぎています、でも私よりも一回りほど若い。(笑)
多和田さんと一緒にノーベル文学賞の候補となっていた日本人は、「常連」の村上春樹さんですが、彼は1949年1月12日生まれで、わたしと同じ。ずいぶん前に出版された『1Q84』を読みましたが、エンターテインメントとしてはとっても魅力のある作品でしたが、作家として感性の鋭い「旬の時期」は過ぎてしまったという感じを受けました。これからも新しい作品を書いてファンを楽しませてください。
こうして同時にお二人の日本人が、ノーベル文学賞にノミネートされていたというのは、日本文学のすそ野の広さを体現しているようで、誠に喜ばしいことです。
その一方で、若い人たちが読書から遠ざかり、この20年間で全国の本屋さんが半減したという事実も忘れてはならぬことです。公立図書館が、新刊書をいち早く導入して、本を買わずに読む読者が増えたことも書店の減少の一因となっているようです。このままでは、出版社がつぶれていき、紙の本の文化が急激に衰退しそうです。質の高い学術書を出版していた岩波書店ですら社員の給与は普通の会社並みになってしまいました。あれでは校正などの質が維持できるわけがありません。学術研究書は出典をひとつひとつ原典を読んでチェックし、丁寧に校正することでその質が維持されますが、それが人材不足で維持できなくなってしまいました。普通のサラリーマンの給与しかもらえないのでは、高度な職人仕事である学術研究書の較正は、あこがれの職業ではなくなりました。報われません。そして電子書籍での出版が増えています。
紙の文化の終わりを告げる鐘が鳴っているのが聞こえます。あなたもわたしも、紙の文化が終りを告げる大きな時代の転換点に立ち会っているのです。
ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』の冒頭に、ジョン・ダンの詩が掲げられています。
------------------------------------------------
なんぴとも一島嶼(いっとうしょ 孤島の意味)にてはあらず、
なんぴともみずからにして全きはなし、
人はみな 大陸 (くが) の 一塊 (ひとくれ) 、
本土のひとひら
そのひとひらの 土塊( つちくれ) を、波のきたりて洗いゆけば、
洗われしだけ欧州の土の失せるは、さながらに岬の失せるなり、
汝が友どちや 汝 なれ みずからの 荘園 (その) の失せるなり、
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て、
みずからを 殺 (そ) ぐにひとし、
そはわれもまた人類の一部なれば、
ゆえに問うなかれ、
誰がために鐘は鳴るやと、
そは汝がために鳴るなれば
------------------------------------------------
十代の後半に世界文学全集で読んだ『誰がために鐘は鳴る』に載っていた訳詞は、これでした。
河出書房新社から出版されたあの分厚い世界文学全集は、興味のあるものだけ、40冊ほど持っていましたが、故郷の極東の町から東京へ戻ってくるときに、終活を兼ねて処分した2000~3000冊の本の中に入っていました。あの本に載っていた格調の高い訳詞は映画の字幕で使われていたものだったようです。
高校生は『車輪の下』をぜひ読んでください。十代の若々しい感性でないとピンとこないでしょうから。岩波文庫でも新潮文庫でも出ています。ページ数の少ない名作です。
訳詞はこちらのブログで見つけて転載させていただきました。
*誰がために鐘は鳴る ジョン・ダンの詩: ムーミンパパのシルエット (cocolog-nifty.com)
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マウンテンバイクで坂を下がると市立図書館の最寄りの「支店」に行き当たります。標高差が50mほどあるので、帰りは登りですからちょっと辛い。(笑)
図書館の中で本を読んでいるのは9割がわたし同様、高齢の男性です。お一人高齢の女性を見かけました。空いています。中高生が利用できるような勉強机がありませんでした。市立図書館本館にはそういうスペースがたぶんありますね。一度見学してみます。
「利用者カード」を作成してもらって、多和田葉子さんの小説を2冊借りてきました。多和田さんは日本語とドイツ語で本を書いています。都立立川高校で第2外国語としてドイツ語を履修しています。この地区ではナンバーワンの進学校です。なかなかいい環境で育ちましたね。
標記短編2編を読みましたが、別の時間と空間が妙なところで交差して、平衡感覚がおかしくなって眩暈(めまい)を起こすような小説です。
『かかとを失くして』は1991年に書かれたもので、最初の受賞作品(群像・新人文学賞)です。初期の頃のようで、少し硬い。たとえば、読点が次々に連続して、句点が出てくるまで8行にわたる文章がありました。読点が延々と続き概して文章が長い。1ページに句点のないドイツの哲学者の著作を読んでいるような気分にさせられる箇所があります。外国あるいは田舎から始めての都会の駅に、学校教育が受けられることを条件に書面結婚をした年のころ十代前半の女が降り立ったところから話がスタートします。言葉がよく聞き取れない上に、訛りがあるので地元ではないことがバレバレ。22歳で単身ドイツへ渡った彼女の経験と二重写しになっているのでしょう。なぜか、結婚相手の初老の男は姿を見せないのです。女は男の姿をいろいろ想像をします。最後のシーンで、男の部屋の鍵を、鍵屋を呼んで壊して空けてもらいます。そこで発見したのは、...。そして女は未亡人となります。奇想天外な結末ですが、隠喩があります。
「この欠けた<かかと>は、共同体の文化や習俗になじんで歩く基盤の欠落を示す」と本の末尾で谷口幸子さんが解説しています。
『三人関係』はご想像通り、「三角関係」ではない「三人関係」、倒錯した伝奇小説になっています。性が見かけとは違った「三人関係」が二重に現れます。時間と空間が交錯し、性が捻じれた「三角関係」は、果たして現実なのか主人公の妄想なのか、定かではありません。そうした現実にあるハッキリとした境界が曖昧になっているのがこの小説の独特の世界です。エロくはあるけれど、グロくもとまでは行かぬ、微妙なあたりで何とか品よく漂うような作品に思えました。他の作家さんではこういう印象のものを読んだ記憶がありません。
主人公は会社勤め、コピーをしていると周りの人の身体が透明に見え始めます、おかしな感覚の持ち主です。歩いているときに見えない壁のようなものと頻繁に衝突します。主人公が勤務している会社へ大学生の綾子がインターンシップでアルバイトとしてやってきます。ランチに誘っても言葉が少ない川村綾子が女性作家山野秋奈の書いた本が好きだと言います。じつは主人公もその作家のファンでした。綾子がその女性作家に好奇心があり、作家の夫で画家である山野稜一郎に展覧会で近づきます。そして自宅に招かれます、主人公はランチのときに綾子にその話を聞いたがります。東京北西部に作家が住んでいますが、中央線から乗り換えるらしいのですが、交差しているさまざまな線には「貝割礼駅」という名が見つかりません。空間がなにかの拍子で捻じれたときに中央線から乗り換えることができるようなのです。駅名が伏線になっていますね。貝は女性、割礼は男子の包茎を切除する儀式です女性のクリトリスを切除するのも割礼です。つまり、両性具有がこの物語に関係があると著者は示唆しています。綾子が画家の稜一郎と一緒に住むことになったと突然アルバイトをやめました。今度は主人公が画家に自宅へ招かれます。画家には杉本という親友がいます。その杉本を通じて主人公は画家と山野秋奈に近づいたのです。秋奈の指示で1度目に画家稜一郎とのデートでずぶぬれになった主人公は、作家の自宅へ一緒に行きます。秋奈が浴衣を出してくれて、ずぶぬれの服を脱ぎます。その背中に秋奈が大きなふくらみを主人公の背中に押し付けます。2度目の訪問の時に思いもかけぬことが起こります。秋奈は両性具有でした。バイセクシャルだったのです。画家と親友の杉本の関係もホモセクシャルを匂わせます。そこへ正真正銘の女である主人公が舞い込み「三人角関係」が「四人関係」に進展してしまいます。眩暈(めまい)が起きるはずです。途中で杉本と主人公がいつのまにか結婚しているような描写が挟み込まれます。ここでは時間軸がねじれを起こしています。杉本はバイセクシャルだということなのでしょう。
元はと言えば、主人公の強い好奇心が引き起こした異世界への侵入、あるいは「吸引現象」を引き起こす原因になっています。アルバイトで働いていた大学生生の綾子も作家の秋奈へ強い好奇心のあることが描かれていました。強い好奇心が異世界への入り口になっています。
三番目に収録されているのは「文字移植」というタイトルの短編ですが、一読してつまらないと感じました。本の末尾に収載されている谷口幸代さんの「<かかとのない>文学」を読んで、その実験的な試みの意味が解りました。実験的過ぎてエンターテインメント性が薄くなってしまったのは事実です。でも、ドイツ語に興味にある方はとくに面白いはず、是非お読みください。
『白鶴亮翅(ハッカクリョウシ)』は2023年の作品ですが、ずっとこなれて読みやすい文体に変貌しています。30年間の苦闘(?)の跡がうかがわれます。ユニークな作家ですね。この本は初版本でした。
調べてみたら、朝日新聞連載小説を単行本にしたもの。太極拳がテーマになっています。読みやすい理由がわかりました。新聞の読者を考えてのことのようです。
多和田さんは10年以上ドイツで太極拳を習っているようです。ドイツと中国と日本の文化が太極拳をテーマにどのように切り結ぶのか、楽しみです。
彼女の書いたこの2作品を読んだ後で、エッシャーのシュールな大判の絵画の本を見ましたが、なんだか普通に見えます。それほど多和田葉子の描いている世界はシュール、新感覚幻想小説です。凄い書き手です。
1960年生まれですからもう還暦を過ぎています、でも私よりも一回りほど若い。(笑)
多和田さんと一緒にノーベル文学賞の候補となっていた日本人は、「常連」の村上春樹さんですが、彼は1949年1月12日生まれで、わたしと同じ。ずいぶん前に出版された『1Q84』を読みましたが、エンターテインメントとしてはとっても魅力のある作品でしたが、作家として感性の鋭い「旬の時期」は過ぎてしまったという感じを受けました。これからも新しい作品を書いてファンを楽しませてください。
こうして同時にお二人の日本人が、ノーベル文学賞にノミネートされていたというのは、日本文学のすそ野の広さを体現しているようで、誠に喜ばしいことです。
その一方で、若い人たちが読書から遠ざかり、この20年間で全国の本屋さんが半減したという事実も忘れてはならぬことです。公立図書館が、新刊書をいち早く導入して、本を買わずに読む読者が増えたことも書店の減少の一因となっているようです。このままでは、出版社がつぶれていき、紙の本の文化が急激に衰退しそうです。質の高い学術書を出版していた岩波書店ですら社員の給与は普通の会社並みになってしまいました。あれでは校正などの質が維持できるわけがありません。学術研究書は出典をひとつひとつ原典を読んでチェックし、丁寧に校正することでその質が維持されますが、それが人材不足で維持できなくなってしまいました。普通のサラリーマンの給与しかもらえないのでは、高度な職人仕事である学術研究書の較正は、あこがれの職業ではなくなりました。報われません。そして電子書籍での出版が増えています。
紙の文化の終わりを告げる鐘が鳴っているのが聞こえます。あなたもわたしも、紙の文化が終りを告げる大きな時代の転換点に立ち会っているのです。
ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』の冒頭に、ジョン・ダンの詩が掲げられています。
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なんぴとも一島嶼(いっとうしょ 孤島の意味)にてはあらず、
なんぴともみずからにして全きはなし、
人はみな 大陸 (くが) の 一塊 (ひとくれ) 、
本土のひとひら
そのひとひらの 土塊( つちくれ) を、波のきたりて洗いゆけば、
洗われしだけ欧州の土の失せるは、さながらに岬の失せるなり、
汝が友どちや 汝 なれ みずからの 荘園 (その) の失せるなり、
なんぴとのみまかりゆくもこれに似て、
みずからを 殺 (そ) ぐにひとし、
そはわれもまた人類の一部なれば、
ゆえに問うなかれ、
誰がために鐘は鳴るやと、
そは汝がために鳴るなれば
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十代の後半に世界文学全集で読んだ『誰がために鐘は鳴る』に載っていた訳詞は、これでした。
河出書房新社から出版されたあの分厚い世界文学全集は、興味のあるものだけ、40冊ほど持っていましたが、故郷の極東の町から東京へ戻ってくるときに、終活を兼ねて処分した2000~3000冊の本の中に入っていました。あの本に載っていた格調の高い訳詞は映画の字幕で使われていたものだったようです。
高校生は『車輪の下』をぜひ読んでください。十代の若々しい感性でないとピンとこないでしょうから。岩波文庫でも新潮文庫でも出ています。ページ数の少ない名作です。
訳詞はこちらのブログで見つけて転載させていただきました。
*誰がために鐘は鳴る ジョン・ダンの詩: ムーミンパパのシルエット (cocolog-nifty.com)
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