#5112 同期の桜・ムサシの訃報 Nov. 12, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]
高校同期のヒロコから昨日電話が入っていたので、電話してみた。昨日、根室会があり、そこでムサシが11/3に亡くなったと聞いて連絡してくれたのだ。
同じクラス3Gの3人、ヒロシとムサシとトシ(ebisu)が東京へ出てきた。根室高校最後の総番長のヒロシとは一緒に上京したから、同じ飛行機便で東京へ降り立った。全日空のスカイメイト、料金は半額6800円だった。1967年当時は中標津空港がない。ムサシは拓大へ進学した。ムサシも総番グループ、三人の副番長のうちの一人だったが、ボンボンで気の優しい奴だった。
東京へ出てきて、わたしは新宿や池袋の盛り場を遊びまわっていた。夏になるとムサシから一通の葉書が来た。ホームシックにかかって寂しいので会おうと。そういうやつだった。
二人でヒロシの高円寺のアパートに泊まって酒を飲んだ。数回そんなことがあった。
二十数年前だったかな、一度、有楽町で偶然にすれ違った。声をかけたら照れくさそうだった。奥さんを亡くしてから数年たっており、女性と一緒でほほえましかった。
ヒロコはクラスは違うが仲の良い友人の一人である。生徒会で一緒だった。ヒロコは初台の「男子禁制」のアパートに住んでいた。なぜかそこは根室人が数人まとまっていた。新宿駅から歩いても20分ほどの距離だったから、新宿で遊んだついでに何度か行ったことがあった。鍵をかけていないので、本でも読んで暇をつぶして1時間も待っても戻らないとあきらめて新宿へ戻る。男女の気遣いをしなくていい気さくな友人である。
同じアパートにヒロシも来ていたことを、30年もたってから知った。彼の奥さんになる人が同じアパートにいたのである。だから、時々行っていたとヒロシ。大笑いした。ヒロシは歌舞伎役者のよう顔立ちで野球部、ずいぶんもてていたが、晩熟(おくて)だった。
根室会に来ていないので、連絡が行っていないのではと気遣ってヒロコが電話してくれた。ヒロコの亭主も数年前に亡くなっている。団塊世代はそういう時期に入ったということだ。来年、東京の同期会を開く予定なので、決まれば連絡をくれるそうだ。ありがたい。行けるかどうかはそのときの体調次第だ。
まだしばらく東京の空気を吸っているつもりだが、元気そうに見えても、突然体調を崩すということがある。会いたい人には、機会を逃さずいまのうちに会っておいたほうがいいのだろう。
高校時代の友人は付き合いの長いのが多い。会うと不思議とあの時代のこころに戻れるから不思議だ。
1月にヒロシが亡くなって、ムサシが逝った。向こうは賑やかそうだ。何年かしたら、また三人で楽しい酒が飲めるかもしれない。
ムサシの冥福を祈る。
<余談:3回英語授業を潰した>
1年生の時の沢井先生は中高6年間で最高でした。音読は低音ですばらしい。説明も理論的でした。文型中心の授業をしてくれました。北大卒の先生で、根室高校の後は釧路国立高専の教授になったそうです。高2と3年次はH先生に変わりました。やる気のない手抜きの授業になぜか無性に腹が立ちました。
あるとき、授業中に席を立って廊下へ出ていき、体育館へいって体育の授業で使っていないことを確かめ、バスケットボールをもって教室に戻り、「体育館空いている、バスケットしようぜ」と声を掛けると、バスケット部のムサシと総番長のヒロシが「おう!」とひと声、ムサシはニコニコしてついてきます。
3回目には、H先生が校長からお咎めがあったようで、気の毒で3度だけにしました。
「授業中に体育館で遊ばせている先生がいる」
職員会議でそう叱責があったようで、他の先生から聞きました。担任の冨岡先生だったかな。私がやったことは当然ご存じですが、お咎めなし。理由なくそんなことをする生徒ではないとよくわかってくれていました。
2年次の化学の先生もいい加減な授業でした。2度質問をしましたが答えられず、あきれて自分で勉強することに決めました。わたしたちが卒業してから別海町へ転任し、あまり授業がずさんだったために首になったといううわさを聞きましたが、公務員ですから首にはなってないでしょう。そういう噂がたつほどの先生だったということ。この先生のときには授業妨害してません。教える能力のない先生もいていいと思っていましたから。でも、やる気のないのは許せませんでした。
いい先生もいました。授業がうまかったのは簿記の白方功先生(北見北斗高校出身、バッキーシラカタの愛称で呼ばれていました)、政治経済の柏原栄先生、英語の沢井先生、生徒に慕われたのは担任に冨岡良夫先生とバスケットボール部顧問の野沢先生。担任は「ドンタ」野沢先生は「ショッちゃん」の愛称で呼ばれていました。
新任で二年間だけの付き合いで授業を持ってもらったことはありませんでしたが、ラグビー部を創設時に顧問を引き受けてくれた明大ラグビー部出身の村田先生、お願いしたので部員集めと1年後の部への昇格はわたしの方で手配しました。発足1年間は「同好会」という規定が規約にありました。同好会の部への昇格は、活動実績を見て生徒会の判断でできたので、お約束できました。指導がいいからすぐに強豪校のひとつになりました。予算の配分は、当時は生徒会会計が部長と副部長を生徒会室に読んで単独で決めていたので自由にやれました。予算は生徒会会計の専権事項でしたから、権限が大きかった。もちろん公平性には意を砕きました。
予算と帳簿の記帳と決算業務が生徒会会計の仕事でしたから、毎年仕事のできる生徒を選んでいました。指名権は生徒会会計にありましたから、先輩の指名があれば否やなナシでした。拒否権ないのです。生徒会選挙の時に、先輩の副会長が2名、次期生徒会長に立候補しろとこれも「命令」でしたから、その旨生徒会顧問へ告げると、校長が反対、表向きは「生徒会会計をしているので、立候補はダメ」、でもそんな規程はありませんから無視してよかったのですが、生徒会顧問が困った顔をされたので、同じクラスだったH勢に副会長への立候補を依頼、副会長の先輩二人に事情を告げて、H勢の応援演説をお願いしました。お二人とも快諾してくれました。副会長の先輩二人がなぜわたしを会長候補に推したのかは理由がありました。1年の終わりころ会計に指名されて、まもなく、丸刈り坊主頭の校則改正を副会長と会計の先輩に相談したら、「おまえがやれ」と言われて、11月の修学旅行に間に合うようにスケジュールを引いて、作戦を練り、2年生になったばかりの四月に保護者へ丸刈り校則の改正を目的としたアンケートを実施しました。髪型は基本的人権の一部だと誘導するようになっていましたので、保護者の方はOKです。校長が弱いのはPTAですから、PTAを味方につけたら、勝負は勝ったようなものでした。あとは集計結果をまとめて、校則改正の規約に則って全校生徒集会を開催して賛否を問いました。それで校則改正ができたのです。修学旅行の3か月前でした。髪を伸ばして東京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行を楽しみました。その経緯を見ていた副会長二人が、「会長に立候補しろ、応援演説は俺たち二人がやる」そう言ってくれたのです。そして校長の反対。
そういうわけで会長は中学の時、隣のクラスにいたオサムが立候補となりました。あいつは、一人褌を締め、たんたんと「鉄砲」をしていました。たった一人の相撲部、でも性格が温厚な大柄な男でした。
オサムは漁師の親方の次男坊、あるとき(1967年)16段変速のサイクリング車に乗ってきました。生徒会室の窓の外に置いてました。ピカピカの新車で。
「オサム、自転車ちょっと貸せ、前の道路を走ってみたい」
「いいよ」
と二つ返事でした。貸したくなかったと思います。(笑)
アナログのスピードメーターがついていました。
根室高校前からセブンイレブン方向は緩い下りです。そこを全速力で走ってみました。ダンプカーが前にいました。スピードメーターに目を落としたら、あと少しで時速70㎞です。その瞬間に赤い光が目に入りました。ブレーキランプでした。T字路ですからダンプはブレーキをかけて右に曲がります。あ、と思った瞬間におもいきり右側に自転車を倒して、センターラインを越えて反対車線に出ていました。ブレーキをかけたらタイヤの細いロードバイクですから、タイヤがロックしたまま滑ってそのままではダンプの車体の下に入り込んで、命はありません。どーどバイク用のヘルメットをかぶっていてもアウトだったでしょう。そんなものはあの時代にありません、たまたま対向車線には車がいませんでした。生きるか死ぬかの一瞬の判断、後からドキドキです。あの瞬間は「生きてる!」って実感がわいたのです。危ないことほどドキドキワクワクなのです。流氷に乗って遊ぶのと一緒でした。
オサムが買ってもらったばかりの新車のサイクリング車をあやうくお釈迦にするところでした。あいつ、大事にしているのわかっていましたからね。強引に「貸せ!」って言いました。あの時に死ななくてよかった。優しい奴だから、オサムのこころに傷がついたでしょう。
ムサシは牧場主の長男、どちらもボンボンで人柄のいい仲間でした。
<余談-2:根室高校総番制度>
根室高校の総番制度がいつから始まったのかはわかりません。戦前の根室商業高校時代からだろうと思います。5年先輩のSMさんも総番長でした。野球部のキャプテンでもありました。親戚のお兄さんですから、高校1年の時に半年だったか、1年間だったか、事情があって一緒に暮らしていた期間があったので、総番制度について知るところとなりました。ヤクザともめごとがあれば、学校を代表して総番長が話をつけるルールになっていました。なにせ、気の荒い「ヤンシュウ」の多い漁業町ですから、トラブルはあったのです。
ヤクザともめごとがあったときには、向こうの流儀で「挨拶」をします。「仁義を切る」というアレです。やくざ映画で見たことあるでしょう。SMさん、やって見せてくれました。仁義の台詞が総番長に代々伝わっていました。右手を前に出して、左手を後ろに回して腰を落とし、「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手前生国発しますところ...」とやるわけです。見事な仁義でした。そのときに仁義の台詞を書いた小く折りたたんだ紙をもらいました。机の中に入れたまま数十年がたち机もなくなってしまいました。残しておきたい資料でした。
あの紙をわたしに渡したということは、総番長の後継者には渡していないということ。ヒロシに確認してみましたが、あいつはそういう引継ぎはなかったと言いました。ヒロシもSMさんと同じ野球部でした。二人に面識はありません。普通科ができても、総番長は商業科から出すのが不文律でした。仁義の台詞はSMさんが時代にそぐわないので、後継の総番長に引き継がなかったのでしょう。根室高校生がヤクザともめごとを起こすなんてことはとっくにありませんでした。親分のTさんも、わたしを少し危ない奴と見ていたようで、「姉さん、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたと、2002年11月に根室に戻ってきてから、当時を思い出して笑って教えてくれました。
総番長も5代前のSMさんまでは、責任重大だったわけです。ヤクザともめごとがあったら、それを収めるのは、校長でも生徒会の会長でもなく、総番長の役割と責任でした。半端な覚悟ではやれません。いざとなったときに逃げるようでは総番長にはなれません。根室高校の前身の根室商業はそういうバンカラな学校だったのです。
短歌をよく詠んだ歯科医のT塚先生は、大正6年のお生まれだったかな、根室商業時代に、線路上で両手を広げて蒸気機関車を止めています。どのあたりだったのか、たぶん花咲港へ行った帰りのことではないかと思います。「乗せてくれ」と一言。国鉄の機関手は停車して乗せた、なんて逸話が残っています。根室商業の学生はそんなことをしても大目に見られた時代がありました。いま根室高校の生徒がそんなことをしたら、即逮捕でしょう。
ところで、T塚先生は軍医で中国の華北で終戦を迎えています。そのときのことを短歌で残しています。弊ブログでも書きました。ああ、検索のために実名を記しておきましょう。田塚源太郎先生です。オシャレで品のよい方でした。ビリヤードの常連客の一人です。先生のために帽子掛けスタンドが置かれていました。いつもソフトハットをかぶって来られました。落下傘部隊のオヤジとは気が合っていました。オヤジは「軍医殿」という態度で接していました。いやいや、一度も「軍医殿」なんて呼ぶことはありませんでしたね、そういう接し方をしていたということですよ。二女のケイコさんが、小中高と同じクラスでした。
田塚先生は根室印刷の創業者で考古学者・文学博士の北構保男先生と根室商業の同期です。親友だと言ってました。田塚先生が亡くなってから、残された短歌を(田塚先生の)奥さんや娘さんと編集して遺稿集がつくられています。わたしも1冊もっています。田塚先生は国後島の蟹漁の親方が実家、お父さんが早くに亡くなられたようで、お母さんが漁場と漁を仕切っていたそうです。発掘で何度か訪れたことがあるので、北構先生は「大漁師」と形容していました。人を何人か使って、カニ漁は値が張るので、金額が大きいのです。いま、あんな大きなタラバ蟹がとれたら、漁獲高は軽く1億円を超えるでしょう。国後島沖にはそれくらい密に蟹が生息していました。根室商業には5月になってから入学してきたと北構先生がいってました、ずいぶん気があったようです。
話が転々として申し訳ありません。身近に接して知ったことを書き残しておかないとという思いがどうしても起きます。
同じクラス3Gの3人、ヒロシとムサシとトシ(ebisu)が東京へ出てきた。根室高校最後の総番長のヒロシとは一緒に上京したから、同じ飛行機便で東京へ降り立った。全日空のスカイメイト、料金は半額6800円だった。1967年当時は中標津空港がない。ムサシは拓大へ進学した。ムサシも総番グループ、三人の副番長のうちの一人だったが、ボンボンで気の優しい奴だった。
東京へ出てきて、わたしは新宿や池袋の盛り場を遊びまわっていた。夏になるとムサシから一通の葉書が来た。ホームシックにかかって寂しいので会おうと。そういうやつだった。
二人でヒロシの高円寺のアパートに泊まって酒を飲んだ。数回そんなことがあった。
二十数年前だったかな、一度、有楽町で偶然にすれ違った。声をかけたら照れくさそうだった。奥さんを亡くしてから数年たっており、女性と一緒でほほえましかった。
ヒロコはクラスは違うが仲の良い友人の一人である。生徒会で一緒だった。ヒロコは初台の「男子禁制」のアパートに住んでいた。なぜかそこは根室人が数人まとまっていた。新宿駅から歩いても20分ほどの距離だったから、新宿で遊んだついでに何度か行ったことがあった。鍵をかけていないので、本でも読んで暇をつぶして1時間も待っても戻らないとあきらめて新宿へ戻る。男女の気遣いをしなくていい気さくな友人である。
同じアパートにヒロシも来ていたことを、30年もたってから知った。彼の奥さんになる人が同じアパートにいたのである。だから、時々行っていたとヒロシ。大笑いした。ヒロシは歌舞伎役者のよう顔立ちで野球部、ずいぶんもてていたが、晩熟(おくて)だった。
根室会に来ていないので、連絡が行っていないのではと気遣ってヒロコが電話してくれた。ヒロコの亭主も数年前に亡くなっている。団塊世代はそういう時期に入ったということだ。来年、東京の同期会を開く予定なので、決まれば連絡をくれるそうだ。ありがたい。行けるかどうかはそのときの体調次第だ。
まだしばらく東京の空気を吸っているつもりだが、元気そうに見えても、突然体調を崩すということがある。会いたい人には、機会を逃さずいまのうちに会っておいたほうがいいのだろう。
高校時代の友人は付き合いの長いのが多い。会うと不思議とあの時代のこころに戻れるから不思議だ。
1月にヒロシが亡くなって、ムサシが逝った。向こうは賑やかそうだ。何年かしたら、また三人で楽しい酒が飲めるかもしれない。
ムサシの冥福を祈る。
<余談:3回英語授業を潰した>
1年生の時の沢井先生は中高6年間で最高でした。音読は低音ですばらしい。説明も理論的でした。文型中心の授業をしてくれました。北大卒の先生で、根室高校の後は釧路国立高専の教授になったそうです。高2と3年次はH先生に変わりました。やる気のない手抜きの授業になぜか無性に腹が立ちました。
あるとき、授業中に席を立って廊下へ出ていき、体育館へいって体育の授業で使っていないことを確かめ、バスケットボールをもって教室に戻り、「体育館空いている、バスケットしようぜ」と声を掛けると、バスケット部のムサシと総番長のヒロシが「おう!」とひと声、ムサシはニコニコしてついてきます。
3回目には、H先生が校長からお咎めがあったようで、気の毒で3度だけにしました。
「授業中に体育館で遊ばせている先生がいる」
職員会議でそう叱責があったようで、他の先生から聞きました。担任の冨岡先生だったかな。私がやったことは当然ご存じですが、お咎めなし。理由なくそんなことをする生徒ではないとよくわかってくれていました。
2年次の化学の先生もいい加減な授業でした。2度質問をしましたが答えられず、あきれて自分で勉強することに決めました。わたしたちが卒業してから別海町へ転任し、あまり授業がずさんだったために首になったといううわさを聞きましたが、公務員ですから首にはなってないでしょう。そういう噂がたつほどの先生だったということ。この先生のときには授業妨害してません。教える能力のない先生もいていいと思っていましたから。でも、やる気のないのは許せませんでした。
いい先生もいました。授業がうまかったのは簿記の白方功先生(北見北斗高校出身、バッキーシラカタの愛称で呼ばれていました)、政治経済の柏原栄先生、英語の沢井先生、生徒に慕われたのは担任に冨岡良夫先生とバスケットボール部顧問の野沢先生。担任は「ドンタ」野沢先生は「ショッちゃん」の愛称で呼ばれていました。
新任で二年間だけの付き合いで授業を持ってもらったことはありませんでしたが、ラグビー部を創設時に顧問を引き受けてくれた明大ラグビー部出身の村田先生、お願いしたので部員集めと1年後の部への昇格はわたしの方で手配しました。発足1年間は「同好会」という規定が規約にありました。同好会の部への昇格は、活動実績を見て生徒会の判断でできたので、お約束できました。指導がいいからすぐに強豪校のひとつになりました。予算の配分は、当時は生徒会会計が部長と副部長を生徒会室に読んで単独で決めていたので自由にやれました。予算は生徒会会計の専権事項でしたから、権限が大きかった。もちろん公平性には意を砕きました。
予算と帳簿の記帳と決算業務が生徒会会計の仕事でしたから、毎年仕事のできる生徒を選んでいました。指名権は生徒会会計にありましたから、先輩の指名があれば否やなナシでした。拒否権ないのです。生徒会選挙の時に、先輩の副会長が2名、次期生徒会長に立候補しろとこれも「命令」でしたから、その旨生徒会顧問へ告げると、校長が反対、表向きは「生徒会会計をしているので、立候補はダメ」、でもそんな規程はありませんから無視してよかったのですが、生徒会顧問が困った顔をされたので、同じクラスだったH勢に副会長への立候補を依頼、副会長の先輩二人に事情を告げて、H勢の応援演説をお願いしました。お二人とも快諾してくれました。副会長の先輩二人がなぜわたしを会長候補に推したのかは理由がありました。1年の終わりころ会計に指名されて、まもなく、丸刈り坊主頭の校則改正を副会長と会計の先輩に相談したら、「おまえがやれ」と言われて、11月の修学旅行に間に合うようにスケジュールを引いて、作戦を練り、2年生になったばかりの四月に保護者へ丸刈り校則の改正を目的としたアンケートを実施しました。髪型は基本的人権の一部だと誘導するようになっていましたので、保護者の方はOKです。校長が弱いのはPTAですから、PTAを味方につけたら、勝負は勝ったようなものでした。あとは集計結果をまとめて、校則改正の規約に則って全校生徒集会を開催して賛否を問いました。それで校則改正ができたのです。修学旅行の3か月前でした。髪を伸ばして東京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行を楽しみました。その経緯を見ていた副会長二人が、「会長に立候補しろ、応援演説は俺たち二人がやる」そう言ってくれたのです。そして校長の反対。
そういうわけで会長は中学の時、隣のクラスにいたオサムが立候補となりました。あいつは、一人褌を締め、たんたんと「鉄砲」をしていました。たった一人の相撲部、でも性格が温厚な大柄な男でした。
オサムは漁師の親方の次男坊、あるとき(1967年)16段変速のサイクリング車に乗ってきました。生徒会室の窓の外に置いてました。ピカピカの新車で。
「オサム、自転車ちょっと貸せ、前の道路を走ってみたい」
「いいよ」
と二つ返事でした。貸したくなかったと思います。(笑)
アナログのスピードメーターがついていました。
根室高校前からセブンイレブン方向は緩い下りです。そこを全速力で走ってみました。ダンプカーが前にいました。スピードメーターに目を落としたら、あと少しで時速70㎞です。その瞬間に赤い光が目に入りました。ブレーキランプでした。T字路ですからダンプはブレーキをかけて右に曲がります。あ、と思った瞬間におもいきり右側に自転車を倒して、センターラインを越えて反対車線に出ていました。ブレーキをかけたらタイヤの細いロードバイクですから、タイヤがロックしたまま滑ってそのままではダンプの車体の下に入り込んで、命はありません。どーどバイク用のヘルメットをかぶっていてもアウトだったでしょう。そんなものはあの時代にありません、たまたま対向車線には車がいませんでした。生きるか死ぬかの一瞬の判断、後からドキドキです。あの瞬間は「生きてる!」って実感がわいたのです。危ないことほどドキドキワクワクなのです。流氷に乗って遊ぶのと一緒でした。
オサムが買ってもらったばかりの新車のサイクリング車をあやうくお釈迦にするところでした。あいつ、大事にしているのわかっていましたからね。強引に「貸せ!」って言いました。あの時に死ななくてよかった。優しい奴だから、オサムのこころに傷がついたでしょう。
ムサシは牧場主の長男、どちらもボンボンで人柄のいい仲間でした。
<余談-2:根室高校総番制度>
根室高校の総番制度がいつから始まったのかはわかりません。戦前の根室商業高校時代からだろうと思います。5年先輩のSMさんも総番長でした。野球部のキャプテンでもありました。親戚のお兄さんですから、高校1年の時に半年だったか、1年間だったか、事情があって一緒に暮らしていた期間があったので、総番制度について知るところとなりました。ヤクザともめごとがあれば、学校を代表して総番長が話をつけるルールになっていました。なにせ、気の荒い「ヤンシュウ」の多い漁業町ですから、トラブルはあったのです。
ヤクザともめごとがあったときには、向こうの流儀で「挨拶」をします。「仁義を切る」というアレです。やくざ映画で見たことあるでしょう。SMさん、やって見せてくれました。仁義の台詞が総番長に代々伝わっていました。右手を前に出して、左手を後ろに回して腰を落とし、「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手前生国発しますところ...」とやるわけです。見事な仁義でした。そのときに仁義の台詞を書いた小く折りたたんだ紙をもらいました。机の中に入れたまま数十年がたち机もなくなってしまいました。残しておきたい資料でした。
あの紙をわたしに渡したということは、総番長の後継者には渡していないということ。ヒロシに確認してみましたが、あいつはそういう引継ぎはなかったと言いました。ヒロシもSMさんと同じ野球部でした。二人に面識はありません。普通科ができても、総番長は商業科から出すのが不文律でした。仁義の台詞はSMさんが時代にそぐわないので、後継の総番長に引き継がなかったのでしょう。根室高校生がヤクザともめごとを起こすなんてことはとっくにありませんでした。親分のTさんも、わたしを少し危ない奴と見ていたようで、「姉さん、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたと、2002年11月に根室に戻ってきてから、当時を思い出して笑って教えてくれました。
総番長も5代前のSMさんまでは、責任重大だったわけです。ヤクザともめごとがあったら、それを収めるのは、校長でも生徒会の会長でもなく、総番長の役割と責任でした。半端な覚悟ではやれません。いざとなったときに逃げるようでは総番長にはなれません。根室高校の前身の根室商業はそういうバンカラな学校だったのです。
短歌をよく詠んだ歯科医のT塚先生は、大正6年のお生まれだったかな、根室商業時代に、線路上で両手を広げて蒸気機関車を止めています。どのあたりだったのか、たぶん花咲港へ行った帰りのことではないかと思います。「乗せてくれ」と一言。国鉄の機関手は停車して乗せた、なんて逸話が残っています。根室商業の学生はそんなことをしても大目に見られた時代がありました。いま根室高校の生徒がそんなことをしたら、即逮捕でしょう。
ところで、T塚先生は軍医で中国の華北で終戦を迎えています。そのときのことを短歌で残しています。弊ブログでも書きました。ああ、検索のために実名を記しておきましょう。田塚源太郎先生です。オシャレで品のよい方でした。ビリヤードの常連客の一人です。先生のために帽子掛けスタンドが置かれていました。いつもソフトハットをかぶって来られました。落下傘部隊のオヤジとは気が合っていました。オヤジは「軍医殿」という態度で接していました。いやいや、一度も「軍医殿」なんて呼ぶことはありませんでしたね、そういう接し方をしていたということですよ。二女のケイコさんが、小中高と同じクラスでした。
田塚先生は根室印刷の創業者で考古学者・文学博士の北構保男先生と根室商業の同期です。親友だと言ってました。田塚先生が亡くなってから、残された短歌を(田塚先生の)奥さんや娘さんと編集して遺稿集がつくられています。わたしも1冊もっています。田塚先生は国後島の蟹漁の親方が実家、お父さんが早くに亡くなられたようで、お母さんが漁場と漁を仕切っていたそうです。発掘で何度か訪れたことがあるので、北構先生は「大漁師」と形容していました。人を何人か使って、カニ漁は値が張るので、金額が大きいのです。いま、あんな大きなタラバ蟹がとれたら、漁獲高は軽く1億円を超えるでしょう。国後島沖にはそれくらい密に蟹が生息していました。根室商業には5月になってから入学してきたと北構先生がいってました、ずいぶん気があったようです。
話が転々として申し訳ありません。身近に接して知ったことを書き残しておかないとという思いがどうしても起きます。
#5111 美しい37手詰め:竜王戦最終局 Nov. 12, 2023 [5.1 脳の使い方]
藤井聡太8冠と伊藤匠七段の竜王戦最終局は藤井聡太8冠の勝利となりました。21歳同士が竜王と挑戦者で戦ったということも特筆すべきことです。
飛角交換から、その角を使っての37手詰め、何と凄い棋譜を残したのでしょう。百年後に語り継がれる棋譜です。それをわたしたちは同時代で見ています。
実戦で37手詰めを読み切る棋力もすさまじいですが、飛角交換でその角を使ってというところが「芸術的」です。チャンピオン戦のたびに進化しているようで、けた外れの棋士が現れたものです。
詰み手順は37手は切れ目なく連続しています。一つ間違っても正解にたどり着けません。藤井聡太さんは正解コースがわかってしまうのでしょう。論理的な積み手順はそのあとで組み立てられているのではないでしょうか。飛車を切るときに、これが積み手順だと確信していたのでしょうね。そこから論理的に読み始める。
数学の難問を解くときにも、こういうやり方でやれば解けそうだと感覚が先に教えてくれます。それに従ってやっていくと、シンプルに正解できます。まるで正解手順を知っている別の誰かが体を操ってやっているかのように感じます。後から見ると、正解手順を最初から読み切って答案を書いているように見えちゃいますね。
将棋の話はよくわからないので、ビリヤードの話をします。わたしはビリヤードを趣味にしていました、趣味と言ってももう30年間ほどやっていません。家がビリヤード場を経営していたので、18歳までそこが遊び場でした。小学校の頃は遊び場、中高のときは毎日数時間店番をしていましたので「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、すこし上手でした。高校卒業後、東京で代ゼミに通いながら、都内の有名ビリヤード店をいくつか回ってみました。1年間は代々木駅前のビリヤード店の常連でした。大学に入ってからもときどきビリヤードしてました。大学院へ進学してからは十数年間やっていません、研究と仕事で暇がなくなったからです。40歳前後の頃、仕事が暇な時期があり、スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のビリヤード場で「四つ球常連会」に入れていただき、数年通ったことがありました。何度か弊ブログにそのころのことを書いています。駿台予備校数学の荒木重蔵さんが四つ球常連会の会長でしたね。彼はディリスのサマーキャンプに参加するほどのビリヤード好きです。腕前はプロテストに合格できるくらいでした。理論派です。図面を用いた研究は彼に教えてもらいました。
検索ボックスに「小林伸明」と入れたら、小林先生に言及した記事がいくつか出てきます。
スリークッションはクッションシステムの計算とそれを実現できるスキルの掛け算で得点能力が決まります。思い描いた通りのコースを球が走って止まります。スピードコントロールも伎倆のうちです。
ビリヤードの巧い下手は「キュー切れ」に如実に現れます。ドロー・ショットを見たら、その人の伎倆や伸びしろがわかります。ドロー・ショットとはバックスピンのかかる撞き方で、手玉の下を撞くほどバックスピンは大きくなりますが、そこには限界があります。タップとタップの削り方、そして滑り止めのチョークの品質が関係するだけでなく、キューの「切れ」の差が出ます。これは天性のものでしょうね。
わたしは、昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生(札幌の白馬というビリヤード場とビリヤードテーブルの販売・調整するお店を経営しておられました、上品な白髪のおじいさんでした)、平成天皇のビリヤードコーチだった小林伸明先生、令和天皇のビリヤードコーチの町田正先生の三人の撞くところを自分の眼で見ていますが、三人ともキューの切れが抜群によかった。
「切れ」以外はトレーニングでいくらでも上達できます。極東の町に西井さんというすばらしい「切れ」の人がいました。東京で修行していたら、間違いなく日本でトップクラスの伎倆でしたね。「バラ球の帝王」でした。私よりも10歳ほど年上です。キューを構えた写真が残っていましたが、あんなにバランスがよくて勢いのある構えの人は見たことがありません。西井さんも天才の一人だった。
町田正先生のお父さんのビリヤード場が八王子にありますが、そこはいま息子の正さんが経営しています。そこに鉄のキューがありました。10㎏くらいあったような気がします。素振り用のキューでした。シルクハットというマッセの技があります。大台で台の端から端まで行って、L字に曲がる技です。打突力が強大でないとできない技です。いまでもおそらく世界中で彼しかできないでしょう。鉄のキューを使った素振りと、マッセ用の小さな台を手作りしていました。練習の仕方が半端ではありません。町田先生のお父さんは「巨人の星」のお父さんのような人です。町田正先生には一度だけ、ボークラインゲームの相手をしていただいたことがあります。目の前でゲームをして撞くところを直接見る幸せ、うっとりしてみてました。ゲームにはなりません、完敗です。町田正先生は全日本ボークラインチャンピオンでもあります。
町田正先生のお父さんのビリヤード場へ行ったのは40歳になったころでした。もっていたキューがよかったのとタップが名品だったので、「削らせてほしい」といわれてOKしました。キューを台に載せて掌で転がしながら鑢を丁寧に当てて、半球状に仕上げてくれました。タップの削り方を教えてくれました。吉岡先生のタップの削り方とまったく違いました。
「わたしはプロのコーチだから、有料でないと教えない、だけどあなたにはタダで教えてあげる」
そういってくれたのですが、仕事が忙しくていけませんでした。それでも基本メニューは伝授してもらいました(図面に書き落としてあります)。町田先生のお父さんの申し出は、わたしのキューの切れが少し良かったから教えたくなったのだと思います。
常連会の大会で元全日本四つ球アマチュアチャンピオンの小柴さんと優勝争いをしたことがあります。大会は三つ球での勝負です。1回目を撞き切り、その裏を小柴さんもつき切りました。2回目は小柴さんが先につき、撞き切りました。戦意喪失でした。(笑) 準優勝。そのときに小林先生が準優勝の賞品にブルーダイアモンドという世界最高のチョークを1ダース出してくれたのです。先生が試合にしか使用しないものです。まだ9個手つかずで残っています。準優勝の賞品の方が値打ちものでした。
撞き切りは、常連会に行っていたころ、高田馬場ビッグボックスで開催されたプロアマ混淆の大会でやっています。5人ずつのグループに分かれ、それぞれのグループにはプロが一人入ります。持ち点にはハンディがついています。これは三つ球でのゲームだったかな。初回でプロと当たったら、撞き切りが出ました。何も考えていません。撞点もかまえただけで、手球がここを突けと教えてくれます。力加減も普段は直径30センチほどのゾーンを想定してその範囲内に入ればいいのですが、理想の位置にピタッと来てしまいます。とっても芸術的なんです。こういう状態の時は「集中モード」ではなくて「分散モード」です。どこにも力が入っていません。リラックスしている状態で、必要な範囲には万全の注意が行き届いて対応できています。注意力の集中は、焦点の当たっているところはく見えていますが、その外側は逆に見えなくなるのです。「分散モード」ではそうした不都合が消えてしまいます。
トップクラスのプロは、そういうことが普通にできるほどトレーニングしています。寝ても覚めてもビリヤードというぐらいトレーニングを積まないとプロでも届かない領域なのです。他に仕事をもっているアマチュアでは端から無理です。そういうレベルのプロは形が崩れてもある程度なら立て直せます。流れがとっても美しいのです。
ビリヤードゲームには個性が出ます。勝ち負けにこだわった勝負が好きな人もいます。稀なのは美しい勝利にこだわる人。
日本人にはスリークッションが相性がいい。スヌーカーは相手を封じることが主眼のゲームですから日本人には合いません。将棋も美しいのです、日本人向きのゲームのひとつです。
藤井聡太八冠の今回の37手詰めは百年後にも語り草になるほどの棋譜でしょうね。飛車を切って角と交換し、その角を使っての37手詰めは芸術の域です。実戦で37手先の詰み手筋が見極められ、一手も違うことなく正解手順で指しきれる、勝ち負けにこだわっているだけでは永遠に届きません。シンプルで美しい将棋が目標なのでしょう。ビリヤードで持ち点を撞き切るときと同じ感覚が働いているのではないでしょうか?
小林先生の残した言葉を引用しておきます。
-------------------------------------
ビリヤードが上手だから
人間の位が上だと思い上がっている者は
とんでもない間違い。人の生きてきた歴史の中で
ビリヤードは多々ある文化の中の一輪の花。
たとえ世界の選手権者になっても
それは小さなこと
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新大久保の小林先生のビリヤード場の常連会に参加していた時には三度ほど忘年会あるいは新年会に小林先生が出席されて、2時間ほど楽しくお話が聞けました。どこかにそのときの写真が数十枚残っているはず。十人前後のとってもアットホームな忘年会でした。
<余談-1:昭和天皇のビリヤードコーチ吉岡先生>
吉岡先生は毎年ラシャの張替えに極東の町まで来てくれていました。来るとその日は泊まって翌日張替え作業です。オヤジが手伝ってやっていました。面白そうなのでわたしはずっとそれを眺めてました。小学校の4年か5年生の時に、プロになりたいと吉岡先生に話したら、「勉強しないたほうがいい」と言われました。素質がないと婉曲におっしゃったのかとそのときは思いました。ところが、吉岡先生ですらプロでビリヤードだけでは飯が食えない時代でした。後に町田正先生のお父さんに「長男はプロでは飯が食えない時代だったので、プロにしなかった。筋は長男の方がよかった」、そうおっしゃたのを聞いて、吉岡先生の言葉の真意が理解できました。
高校を卒業して4月に同じクラスの根室高校最後の総番のヒロシと一緒に千歳空港から飛行機で東京へ行くのに時間があったので、札幌駅で下車して、ビリヤード白馬によりました。吉岡先生、常連で一番上手な人を紹介してくれてゲームの相手をしました。500点の持ち点で、四つ球ではそれが持ち点の最高です。アマチュアのチャンピオンクラスの伎倆です。四つ球は「セリ」をマスターしたら卒業です。吉岡先生の短クッション折り返しのセリ、アメリカンセリは高速でした。いまの世界チャンピオンの3倍ほどの速度で、迷いなくリズミカルの撞きます。職人技です。
翌年、一つ下の後輩と札幌駅前大通りをデートしていたら、「トシボー」と声がします。吉岡先生でした。ライオンズクラブで献血の呼びかけをしていました。孫を見る爺さんのような目で微笑みながら「献血していけ」と仰るので、「はい!」と返事して献血しました。そのときの献血手帳が東京のおじさんが日大駿河台病院で癌の手術をするときに役に立ちました。
<余談-2:平成天皇のビリヤードコーチ小林伸明先生>
小林先生のお店に行き始めたころ、数回スリークッション台で遊んでみました。球の走りがいいのは、台が乾燥しているからで、掌を乗せると温かいのです。ヒータが入っている台は見たことがなかったので、訊いてみました。
「ヒーターが入っているようですが、こんな台は初めてです」
「ベルギー製の台です、国産ではありません」
「ラシャのテンションも違いますね、普通のラシャでは裂けてしまうほどきつく張ってありますね。ラシャの織が違う気がします、これは手では張れない、何か道具があるのですか?」
「ラシャを引っ張る道具があります。四つ球テーブルのラシャは綾織りですが、これは平織りです」
「ああ、そういうことでしたか。一度お手伝いしてみたい(笑)」
この会話で、わたしもビリヤード場経営者の息子であることがバレバレでしたね。一度もそういったことはありませんが、この会話だけで十分でした。だから、少し特別扱いしてくれていたような気がします。ブルーダイアモンド・チョークは、メーカーが廃業して十数年過ぎていました。
いま確認したら、売っています。1ダース30000円しています。ビリヤード愛好家にとっては朗報です。
小林先生に教えを乞うときには図面を書いてもっていって質問していました。
マッセの構えが吉岡先生とは違っていました。吉岡先生はこめかみにキューを当てますが、小林先生は首に当てます。その方が手球の撞点がよく見えるのです。初心者にはその方がいい。四つ球のマッセは小さいマッセがほとんどですからそれでいいのです。少し距離が開くと首では無理があります。上腕の振りの距離が短いので打つ瞬間に力を入れないといけませんが、そうすると速度コントロールがむずかしい。こめかみに当てたほうがシゴキの距離が長いので、強さを加減できます。それに吉岡先生はレストで手球の撞点が隠れていてもちゃんと見えてます。相手の伎倆によっても教え方が違います。初心者には小林先生の指導がいいと思います。小林先生はセミプロ用の教本は出版するつもりがないとおっしゃってました。一知半解の輩が出るので、煩わしいと言ってました。だからそのレベルの質問になると、図面を描いてもっていって質問して、答えを記入して保存しました。
<余談-3:令和天皇のビリヤードコーチ町田正先生>
八王子でかつてお父さんのビリヤード場「チャンピオン」を経営しています。アーティステックビリヤード世界銀メダル保持者です。国内のビリヤードゲームではさまざまなゲームで60回ほどチャンピオンに輝いています。いまでも現役の選手です。将棋なら永世名人でしょう。
お父さんが経営していたころに「チャンピオン」へ十回ほど通いました。あれからもう三十数年たちますが、一度行ってみたいと思っています。
タップの削り方はこちらに書いてあります。
ビリヤードには大テーブル(スリークッション用)と普通のテーブルの2種類があります。ゲームの種類もキャロムゲームとポケットゲーム(穴ぼこの開いた台)の2種類です。スリークッションやスヌーカーは大台です。
元々は象牙の球を使っていましたので、四つ球は大きなボールで、それが傷がついたりすると削って小さくなります。小さくなったボールがポケットゲームに使われました。
象牙の球はドローショットがむずかしいのです。キレがないと引けません。樹脂製のボールは軽いので、下を撞けばドローショットになります。象牙の球でドローショットの練習をしたことがある人はキレがいいのはあたりまえなのです。キレがいいと、撞いた瞬間の感触、手触りが違います。だから、樹脂製のボールだととってもコントロールしやすいのです。象牙のボールが樹脂製に変わりだしたのは昭和30年代半ばころからでしたね。記念に2個持っています。

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飛角交換から、その角を使っての37手詰め、何と凄い棋譜を残したのでしょう。百年後に語り継がれる棋譜です。それをわたしたちは同時代で見ています。
実戦で37手詰めを読み切る棋力もすさまじいですが、飛角交換でその角を使ってというところが「芸術的」です。チャンピオン戦のたびに進化しているようで、けた外れの棋士が現れたものです。
詰み手順は37手は切れ目なく連続しています。一つ間違っても正解にたどり着けません。藤井聡太さんは正解コースがわかってしまうのでしょう。論理的な積み手順はそのあとで組み立てられているのではないでしょうか。飛車を切るときに、これが積み手順だと確信していたのでしょうね。そこから論理的に読み始める。
数学の難問を解くときにも、こういうやり方でやれば解けそうだと感覚が先に教えてくれます。それに従ってやっていくと、シンプルに正解できます。まるで正解手順を知っている別の誰かが体を操ってやっているかのように感じます。後から見ると、正解手順を最初から読み切って答案を書いているように見えちゃいますね。
将棋の話はよくわからないので、ビリヤードの話をします。わたしはビリヤードを趣味にしていました、趣味と言ってももう30年間ほどやっていません。家がビリヤード場を経営していたので、18歳までそこが遊び場でした。小学校の頃は遊び場、中高のときは毎日数時間店番をしていましたので「門前の小僧習わぬ経を読む」の類で、すこし上手でした。高校卒業後、東京で代ゼミに通いながら、都内の有名ビリヤード店をいくつか回ってみました。1年間は代々木駅前のビリヤード店の常連でした。大学に入ってからもときどきビリヤードしてました。大学院へ進学してからは十数年間やっていません、研究と仕事で暇がなくなったからです。40歳前後の頃、仕事が暇な時期があり、スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生のビリヤード場で「四つ球常連会」に入れていただき、数年通ったことがありました。何度か弊ブログにそのころのことを書いています。駿台予備校数学の荒木重蔵さんが四つ球常連会の会長でしたね。彼はディリスのサマーキャンプに参加するほどのビリヤード好きです。腕前はプロテストに合格できるくらいでした。理論派です。図面を用いた研究は彼に教えてもらいました。
検索ボックスに「小林伸明」と入れたら、小林先生に言及した記事がいくつか出てきます。
スリークッションはクッションシステムの計算とそれを実現できるスキルの掛け算で得点能力が決まります。思い描いた通りのコースを球が走って止まります。スピードコントロールも伎倆のうちです。
ビリヤードの巧い下手は「キュー切れ」に如実に現れます。ドロー・ショットを見たら、その人の伎倆や伸びしろがわかります。ドロー・ショットとはバックスピンのかかる撞き方で、手玉の下を撞くほどバックスピンは大きくなりますが、そこには限界があります。タップとタップの削り方、そして滑り止めのチョークの品質が関係するだけでなく、キューの「切れ」の差が出ます。これは天性のものでしょうね。
わたしは、昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生(札幌の白馬というビリヤード場とビリヤードテーブルの販売・調整するお店を経営しておられました、上品な白髪のおじいさんでした)、平成天皇のビリヤードコーチだった小林伸明先生、令和天皇のビリヤードコーチの町田正先生の三人の撞くところを自分の眼で見ていますが、三人ともキューの切れが抜群によかった。
「切れ」以外はトレーニングでいくらでも上達できます。極東の町に西井さんというすばらしい「切れ」の人がいました。東京で修行していたら、間違いなく日本でトップクラスの伎倆でしたね。「バラ球の帝王」でした。私よりも10歳ほど年上です。キューを構えた写真が残っていましたが、あんなにバランスがよくて勢いのある構えの人は見たことがありません。西井さんも天才の一人だった。
町田正先生のお父さんのビリヤード場が八王子にありますが、そこはいま息子の正さんが経営しています。そこに鉄のキューがありました。10㎏くらいあったような気がします。素振り用のキューでした。シルクハットというマッセの技があります。大台で台の端から端まで行って、L字に曲がる技です。打突力が強大でないとできない技です。いまでもおそらく世界中で彼しかできないでしょう。鉄のキューを使った素振りと、マッセ用の小さな台を手作りしていました。練習の仕方が半端ではありません。町田先生のお父さんは「巨人の星」のお父さんのような人です。町田正先生には一度だけ、ボークラインゲームの相手をしていただいたことがあります。目の前でゲームをして撞くところを直接見る幸せ、うっとりしてみてました。ゲームにはなりません、完敗です。町田正先生は全日本ボークラインチャンピオンでもあります。
町田正先生のお父さんのビリヤード場へ行ったのは40歳になったころでした。もっていたキューがよかったのとタップが名品だったので、「削らせてほしい」といわれてOKしました。キューを台に載せて掌で転がしながら鑢を丁寧に当てて、半球状に仕上げてくれました。タップの削り方を教えてくれました。吉岡先生のタップの削り方とまったく違いました。
「わたしはプロのコーチだから、有料でないと教えない、だけどあなたにはタダで教えてあげる」
そういってくれたのですが、仕事が忙しくていけませんでした。それでも基本メニューは伝授してもらいました(図面に書き落としてあります)。町田先生のお父さんの申し出は、わたしのキューの切れが少し良かったから教えたくなったのだと思います。
常連会の大会で元全日本四つ球アマチュアチャンピオンの小柴さんと優勝争いをしたことがあります。大会は三つ球での勝負です。1回目を撞き切り、その裏を小柴さんもつき切りました。2回目は小柴さんが先につき、撞き切りました。戦意喪失でした。(笑) 準優勝。そのときに小林先生が準優勝の賞品にブルーダイアモンドという世界最高のチョークを1ダース出してくれたのです。先生が試合にしか使用しないものです。まだ9個手つかずで残っています。準優勝の賞品の方が値打ちものでした。
撞き切りは、常連会に行っていたころ、高田馬場ビッグボックスで開催されたプロアマ混淆の大会でやっています。5人ずつのグループに分かれ、それぞれのグループにはプロが一人入ります。持ち点にはハンディがついています。これは三つ球でのゲームだったかな。初回でプロと当たったら、撞き切りが出ました。何も考えていません。撞点もかまえただけで、手球がここを突けと教えてくれます。力加減も普段は直径30センチほどのゾーンを想定してその範囲内に入ればいいのですが、理想の位置にピタッと来てしまいます。とっても芸術的なんです。こういう状態の時は「集中モード」ではなくて「分散モード」です。どこにも力が入っていません。リラックスしている状態で、必要な範囲には万全の注意が行き届いて対応できています。注意力の集中は、焦点の当たっているところはく見えていますが、その外側は逆に見えなくなるのです。「分散モード」ではそうした不都合が消えてしまいます。
トップクラスのプロは、そういうことが普通にできるほどトレーニングしています。寝ても覚めてもビリヤードというぐらいトレーニングを積まないとプロでも届かない領域なのです。他に仕事をもっているアマチュアでは端から無理です。そういうレベルのプロは形が崩れてもある程度なら立て直せます。流れがとっても美しいのです。
ビリヤードゲームには個性が出ます。勝ち負けにこだわった勝負が好きな人もいます。稀なのは美しい勝利にこだわる人。
日本人にはスリークッションが相性がいい。スヌーカーは相手を封じることが主眼のゲームですから日本人には合いません。将棋も美しいのです、日本人向きのゲームのひとつです。
藤井聡太八冠の今回の37手詰めは百年後にも語り草になるほどの棋譜でしょうね。飛車を切って角と交換し、その角を使っての37手詰めは芸術の域です。実戦で37手先の詰み手筋が見極められ、一手も違うことなく正解手順で指しきれる、勝ち負けにこだわっているだけでは永遠に届きません。シンプルで美しい将棋が目標なのでしょう。ビリヤードで持ち点を撞き切るときと同じ感覚が働いているのではないでしょうか?
小林先生の残した言葉を引用しておきます。
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ビリヤードが上手だから
人間の位が上だと思い上がっている者は
とんでもない間違い。人の生きてきた歴史の中で
ビリヤードは多々ある文化の中の一輪の花。
たとえ世界の選手権者になっても
それは小さなこと
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新大久保の小林先生のビリヤード場の常連会に参加していた時には三度ほど忘年会あるいは新年会に小林先生が出席されて、2時間ほど楽しくお話が聞けました。どこかにそのときの写真が数十枚残っているはず。十人前後のとってもアットホームな忘年会でした。
<余談-1:昭和天皇のビリヤードコーチ吉岡先生>
吉岡先生は毎年ラシャの張替えに極東の町まで来てくれていました。来るとその日は泊まって翌日張替え作業です。オヤジが手伝ってやっていました。面白そうなのでわたしはずっとそれを眺めてました。小学校の4年か5年生の時に、プロになりたいと吉岡先生に話したら、「勉強しないたほうがいい」と言われました。素質がないと婉曲におっしゃったのかとそのときは思いました。ところが、吉岡先生ですらプロでビリヤードだけでは飯が食えない時代でした。後に町田正先生のお父さんに「長男はプロでは飯が食えない時代だったので、プロにしなかった。筋は長男の方がよかった」、そうおっしゃたのを聞いて、吉岡先生の言葉の真意が理解できました。
高校を卒業して4月に同じクラスの根室高校最後の総番のヒロシと一緒に千歳空港から飛行機で東京へ行くのに時間があったので、札幌駅で下車して、ビリヤード白馬によりました。吉岡先生、常連で一番上手な人を紹介してくれてゲームの相手をしました。500点の持ち点で、四つ球ではそれが持ち点の最高です。アマチュアのチャンピオンクラスの伎倆です。四つ球は「セリ」をマスターしたら卒業です。吉岡先生の短クッション折り返しのセリ、アメリカンセリは高速でした。いまの世界チャンピオンの3倍ほどの速度で、迷いなくリズミカルの撞きます。職人技です。
翌年、一つ下の後輩と札幌駅前大通りをデートしていたら、「トシボー」と声がします。吉岡先生でした。ライオンズクラブで献血の呼びかけをしていました。孫を見る爺さんのような目で微笑みながら「献血していけ」と仰るので、「はい!」と返事して献血しました。そのときの献血手帳が東京のおじさんが日大駿河台病院で癌の手術をするときに役に立ちました。
<余談-2:平成天皇のビリヤードコーチ小林伸明先生>
小林先生のお店に行き始めたころ、数回スリークッション台で遊んでみました。球の走りがいいのは、台が乾燥しているからで、掌を乗せると温かいのです。ヒータが入っている台は見たことがなかったので、訊いてみました。
「ヒーターが入っているようですが、こんな台は初めてです」
「ベルギー製の台です、国産ではありません」
「ラシャのテンションも違いますね、普通のラシャでは裂けてしまうほどきつく張ってありますね。ラシャの織が違う気がします、これは手では張れない、何か道具があるのですか?」
「ラシャを引っ張る道具があります。四つ球テーブルのラシャは綾織りですが、これは平織りです」
「ああ、そういうことでしたか。一度お手伝いしてみたい(笑)」
この会話で、わたしもビリヤード場経営者の息子であることがバレバレでしたね。一度もそういったことはありませんが、この会話だけで十分でした。だから、少し特別扱いしてくれていたような気がします。ブルーダイアモンド・チョークは、メーカーが廃業して十数年過ぎていました。
いま確認したら、売っています。1ダース30000円しています。ビリヤード愛好家にとっては朗報です。
小林先生に教えを乞うときには図面を書いてもっていって質問していました。
マッセの構えが吉岡先生とは違っていました。吉岡先生はこめかみにキューを当てますが、小林先生は首に当てます。その方が手球の撞点がよく見えるのです。初心者にはその方がいい。四つ球のマッセは小さいマッセがほとんどですからそれでいいのです。少し距離が開くと首では無理があります。上腕の振りの距離が短いので打つ瞬間に力を入れないといけませんが、そうすると速度コントロールがむずかしい。こめかみに当てたほうがシゴキの距離が長いので、強さを加減できます。それに吉岡先生はレストで手球の撞点が隠れていてもちゃんと見えてます。相手の伎倆によっても教え方が違います。初心者には小林先生の指導がいいと思います。小林先生はセミプロ用の教本は出版するつもりがないとおっしゃってました。一知半解の輩が出るので、煩わしいと言ってました。だからそのレベルの質問になると、図面を描いてもっていって質問して、答えを記入して保存しました。
<余談-3:令和天皇のビリヤードコーチ町田正先生>
八王子でかつてお父さんのビリヤード場「チャンピオン」を経営しています。アーティステックビリヤード世界銀メダル保持者です。国内のビリヤードゲームではさまざまなゲームで60回ほどチャンピオンに輝いています。いまでも現役の選手です。将棋なら永世名人でしょう。
お父さんが経営していたころに「チャンピオン」へ十回ほど通いました。あれからもう三十数年たちますが、一度行ってみたいと思っています。
タップの削り方はこちらに書いてあります。
#4888 ビリヤード:タップの調整(画像付き) Dec. 1, 2022
#4244 ビリヤードのタップの調整の技と世界最高のチョーク、そして勉強法 May 8, 2020
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<余談:四つ球>ビリヤードには大テーブル(スリークッション用)と普通のテーブルの2種類があります。ゲームの種類もキャロムゲームとポケットゲーム(穴ぼこの開いた台)の2種類です。スリークッションやスヌーカーは大台です。
元々は象牙の球を使っていましたので、四つ球は大きなボールで、それが傷がついたりすると削って小さくなります。小さくなったボールがポケットゲームに使われました。
象牙の球はドローショットがむずかしいのです。キレがないと引けません。樹脂製のボールは軽いので、下を撞けばドローショットになります。象牙の球でドローショットの練習をしたことがある人はキレがいいのはあたりまえなのです。キレがいいと、撞いた瞬間の感触、手触りが違います。だから、樹脂製のボールだととってもコントロールしやすいのです。象牙のボールが樹脂製に変わりだしたのは昭和30年代半ばころからでしたね。記念に2個持っています。

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