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#3953 北構コレクションの常設展示:オホーツク文化 Mar. 15, 2019 [89.根室の過去・現在・未来]

 根室市の歴史と自然の資料館(花咲港)で北構先生が収集したオホーツク文化の発掘品がようやく常設展示される。わたしはオホーツク文化についてはほとんど知識がない。もう少し暖かくなってから見学に訪れるつもりだ。
 先生は国学院大学院の時代だろうと思うが、文部省の依頼でベトナムの王族に日本語を教えていたことがある。日本語を教えながら、フランス語を覚えたという。フランスの植民地だったベトナム独立を視野に入れた国策だったのだろう。米国と戦って勝利したベトコンは、終戦後にベトナムに残って独立運動を指導した日本人将兵が訓練して育てた。

 北海道新聞3/15朝刊記事を紹介する。
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オホーツク文化期の針入れ、骨角器など60点
根室在住考古学者
 北構氏の発掘品 常設展示

 市歴史と自然の資料館

【根室】市内の考古学者北構保男さん(100)が発掘し、市に寄贈したオホーツク文化期などの埋蔵文化財「北構コレクション」の一部が市歴史と自然資料館(花咲港)で常設展示される。北構さんが長年情熱を傾けてきた研究の成果を知る貴重な資料だ。(今井裕紀)

 北構さんは1918年(大正7年)根室町(現根室市)生まれ。14歳のころ、根室港の港口にある弁天島で捕鯨の様子が掘られたオホーツク文化期の針入れを発掘。超1級の資料として考古学会を驚かせた。国学院大に進み北千島でオホーツク文化やアイヌ文化の遺跡発掘調査に従事。戦後は根室に戻り印刷会社を創業し、町議や市議を務めながら発掘調査を続けた。「古代蝦夷の研究」で70歳の時に文学博士号を取得。
 2017年2月、「故郷に役立てたい」とこれまで自身が発掘した土器や石器、骨角器などの埋蔵文化財約13万点を市に寄贈し。常設展示に向け、資料館の学芸員らが資料の台帳づくりを進めてきた。
 今回公開されるのはコレクションを代表する役60点。針入れやアザラシなどをかたどった骨角製品といったオホーツク文化期の出土品のほか、17世紀ごろのものとみられる北千島のアイヌ民族の内耳土器など千島関係の資料も含まれている。…
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 膨大なコレクションのほんの一部が公開される、根室の小中高生に見学してもらいたい。

 北構先生は根室商業のご出身。作詞をよくされた歯科医の田塚源太郎先生とは根室商業の同期である。田塚先生は国後島のご出身、「国後の大漁師の息子」と北構先生はおっしゃっていた。田塚先生はビリヤードの常連のお客様だった、男のお子さんがいなかったのでずいぶんかわいがってもらった。二女とは小学校、中学校、高校と同級生だった。北構先生も田塚先生も背の高い人だ、田塚先生には根室商業時代に武勇伝がある。線路に仁王立ちして列車を止め、乗せたもらったことがあるようだ。当時は蒸気機関車である、止まらなければ轢かれる、同級生と度胸試しでもやったのだろうか。「根室商業の生徒」ということでお咎めなし、おおらかな時代だった。根室商業は道東では輝いていたのである。総番長制度もそのころに元気のよい根室商業の生徒がヤクザともめごとを起こして、その収拾のためにできたものだろう。「お控えなすって、手前生国発します所…」という切り口上が5年先輩まで総番長に代々伝わっていた。総番で野球部のキャプテンだった5年先輩から小さく折りたたんだ紙をもらったのだが、机の中にしまったままなくした。そのときにやってみせてくれたよ。ヤクザ屋さんともめごとがあったときは、総番が交渉することになるので、仁義の切り方は知らなきゃ話にならないと云った。話をつけるためには向こうの流儀で挨拶するのが筋、総番は命懸け、責任が重かったのである。だから、金刀比羅神社のお祭りの時は、総番が前を歩き、一歩下がって総番グループが連れだって練り歩いていた。あれは一種の儀式だったのだろう。普段と違っておっかない顔してた。
 北構先生は市議を何期かやったあとに、市長選挙に出たことがある。ebisuが高校1年生のとき、選挙期間と東京オリンピックが重なっていた。オヤジが応援していたので記憶にある。残念ながら落選した。根室の町は漁師町でインテリが嫌い、歯に衣を着せずにずけずけモノを言う北構先生が煙たかったのだろう。それを境に北構先生は政治の世界から足を洗い、印刷業と考古学研究の二足の草鞋でいくことに決めたのだそうだ。「なにをやっても根室の町は変わらんよ」、ある日印刷会社の応接テーブルで雑談をしていたときに大きな声でそうおっしゃった。「同期はみんな逝っちゃった、昔話ができるのはもう君くらいなものだ」と笑っておっしゃった。先生は40代で政治の世界をあきらめた。
 市長選挙に当選していたら、北構先生が国学院大の文学博士号を取得することはなかったかもしれぬ。市長選挙に敗れ、幸いなるかな。根室のエスタブリッシュメント(=当時の”オール根室”)のアホウどもにかまっていてもしょうがないと達観したのだろう。いまも根室の町は変わらない。
 平成3年にお亡くなりになった歯科医の福井先生は根室新聞に連載小説を書いていた。お亡くなりになる3か月ほど前にたまたま帰省していてビリヤードをしていたら、「トシボー」と呼ばれて誰かと思ったら福井先生だった。周りにいい大人がいた。
 三人の「大人」は皆さんご近所さん、歩いて5分以内の距離。そういえばテニスの大坂ナオミのお母さんの実家も右向かい側にあった。あんな家、高校生の頃にあったかな?記憶にない。
 信金本店の裏に「大坂屋」というアイスクリーム工場があったのは覚えている。小学生のころ、断面積が一辺2㎝の正方形の直方体の形をしたチョコレートでコーティングされたステック・アイスの保管温度が上がって形が悪くなって売り物にならなくなると安く売ってくれた。味は変わらない、結構喜んで食べていた。中学生のころにはその小さなアイスクリーム工場はなくなっていた。

 根室の町に吹く風もその向きが変わりつつあるようにわたしは感じている。「勉強しなくても船に乗れば飯が食える」、そういう時代ではとっくになくなっている。根室は否応なしに変わらざるを得ない。わたしがブログで発信している具体的な提言の三つに一つは時代の変化でゆっくりと実現することになるかもしれない。直球を投げ続けているうちにバターボックスに立ってみようと思う若者がきっとでてくる。ケセラセラ。

 今日は風がなくて陽射しがとってもあたたかい、11時の気温はマイナス0.2度だが、春が来たようだ。雪解け水が下水溝に落ちていく音が心地いい。

 北構先生は、おおらかにご自分の道を歩かれ満百歳になられたご様子、おめでとうございます。




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