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#4700 ポストコロナ:コロナPCR検査センター経営破綻続出? Jan. 24, 2022 [35.1 COVID-19]

 雨後のタケノコのようにPCR検査センターが生まれた。なぜそうなったのか?
 主要な原因は三つ。
 ①2年続いても収まるどころか第6波で最大規模となったCOVID-19パンディミック
 ②法外に高いSARS-CoV-2PCR検査の保険点数
 ③感染研、都道府県立衛生研究所等の利権構造の存在

 先週のPCR検査陽性の最大値は5万人を越えた。東京都だけでも11,227人(1/22)である。今週は全国で10万人に達する日があるかもしれない。でも、2月末にはピークアウトしている公算が大きい。だから、ポストコロナについて気になる点を抑えておく必要がある。今回はPCR検査という視点からポストコロナの風景を俯瞰してみたい。

 SARS-CoV-2PCR検査は、検査外注が1800点、自分のところでやれば1350点である。実際の価格はそれを10倍すればいい。SRLの原価計算システムを熟知し数年間ラボのすべての検査部検査課を歩き回わり、2年半にわたりラボのすべての検査機器の購入や共同開発を担った経験のあるわたしの推測では、大手センターのPCR検査のコストはおそらく2000-3000円程度だろう。なぜこんな法外な価格が設定されたのか?生産性の低い感染研や都道府県立衛生研究所の検査原価をベースに計算し、保健所経由でしか無料検査が利用できない仕組みにしたからだ。感染研の専門家たちがデータを独占したいということもあっただろう。国際的に通用する論文を書くにはCOVID-19の検査データは宝の山なのだ。おそらく、感染研や公立衛生研究所の原価ベースでの価格設定だっただろう。
 この検査を受託することで、感染研や公立の衛生研究所は超過利潤を手にしている。それぞれの決算書を見たら一目瞭然だろう。ため込まれた資金がどのように使われているのだろう?

 いま、保険点数の見直し作業が行われている。4月から1800点だったSARS-CoV-2PCR検査は700点に値下げされるようだ。約40%である。いまはぼろもうけできても、4月には売上は半分以下。そしてコロナパンディミックが終われば、ゼロになる。
 雨後のタケノコのように生まれた検査センターはそのほとんどが売上を失い消える運命にある。公立衛生研究所でPCR検査拡張のために非正規雇用で雇われた職員も仕事を失うことになる。さっさと、次の職場を見つけたほうがいい。先の見込みはないのだから。じり貧になってから職を探しても、殺到するからたいへんですよ。

 働いている人たちが気の毒だが、しょせんはやってはいけない「浮利」を追った事業だった。「浮利」とは長続きのしない、はかない一時の利益のことである。住友家の家訓にも「浮利に趨(はし)らず」とあるが、これは日本企業の伝統的なビジネス倫理の一つである。

<余談:保険点数改定と検査項目標準コード>
 改定後の保険点数が公表されると、SRLにあるコード管理事務局が数千項目の検査項目名とコードと点数のテーブルを改定する。チェックがたいへんだろうな。全国の病院システムやクリニックのパッケージシステムがインターネット経由でそれを取り込み、何事もなかったように4月1日から、新しい保険点数で動く。
 これは、1986年に「臨床診断支援システムとその事業化案」でこのプロジェクトを下位の10個のプロジェクトに分割したときに定められた一つ、「臨床検査項目コードの標準化作業プロジェクト」の成果である。
 BML社の北川システム部長の提案で、業界統一コードを作ろうという呼びかけが大手六社にあり、その2回目のミーティングにSRLシステム開発課長の栗原さんと臨床科学部長の川尻さんと一緒に参加した。栗原さんがわたしにそういう作業部会が発足したことを知らせてくれた。彼は職務上、このエキスパートシステムの稟議書を閲覧していて、わたしに声をかけてくれた。業界で標準コードをつくっても病院が採用するはずがないので、日本標準コード制定の作業プロジェクトにしようと栗原さんと話して、臨床病理学会項目コード検討委員会の委員長だった櫻林郁之助(当時、自治医大助教授)を引っ張り出すことに決めた。櫻林助教授はSRL顧問で、臨床科学部四課の免疫電気泳動の研究者でもあった。だから、臨床化学部の川尻部長(女性)に話しを通しておく必要があった。櫻林先生には1984年に、項目コード検討委員会の仕事を手伝ってほしいと頼まれていたので、大手六社がバックについた産学協同プロジェクトは願ったりかなったり。(笑) 喜んで応諾してくれた。
 2度目の会議で日本標準コード制定へ目標変更と臨床病理学会との産学協同プロジェクトに全員の賛成が得られた。それぞれ、システム部門と学術部門から専門家を共同プロジェクトに出すことにも了解が得られた。3度目の会議から櫻林先生が参加している。
 六社が自社で使っている検査項目コードと検査名を持ち寄って具体的な検討作業が始まった。数が多いので分類と附番ルールを決めるのは時間のかかる作業でした。毎月1回持ち回りで会議を開き、コードが決まるまで3-4年かかった。わたしは5回目くらいまで出席している。六社をまとめ目標を設定し、必要な産学共同プロジェクトメンバーを集めたら、あとは彼らの仕事である。
 1989年に学術開発本部へ異動になった。精度保証部、開発部、学術情報部の三つの部が所属していたので、石神取締役直属の本部スタッフだから、三つの部の仕事にタッチしていた。そのときにもう1回出席している。川尻さんは学術開発部長に異動になっていた。たぶん、この産学協同プロジェクトがらみだっただろう。学術部門から一人出すことになっていたから、川尻さんを学術情報部長にすればいいだけだった。
 事務局をどこに置くかで問題が発生していた。SRLシステム開発部長の志茂さんが産学協同プロジェクトに反対していたので、櫻林先生は当初からお冠だった。BMLへ事務局が行きかかったが、ちょうどいい時にわたしが出席した。BMLは新ラボを建設していたので、システムも入れ替えを予定しており、そのついでの業界統一コードで新システムを運用しようという目論見があった。「臨床診断支援システム開発と事業化案」のプロジェクトの一つである、日本標準コード制定、そして産学共同プロジェクトへ切り換えたのはSRLのわたしだった。櫻林先生から手伝うように申し入れがあって2年後にこの産学協同プロジェクトが発足していた。そうした事情を話したら、櫻林先生は矛を収めてくれた。わたしよりも年上、口ひげを生やして偉ぶったところのない人だった。日本標準臨床検査項目コードの制定と公表は臨床病理学会だったから、業績は彼のもの、業界は標準コードを手にした。これで、病院側はどの検査センターに外注しても項目コードの入れ替えなんて面倒な作業がなくなった。保険点数改定時の手入力での入れ替え作業もゼロになった。
 わたしは日本標準コードはたたき台のつもりだった。世界標準制定へのたたき台だったのである。日本人が世界標準制定に寄与したのはハリケーンの藤田スケールくらいなもの。

 わたしは、異動を繰り返し、次々にさまざまな課題の社内プロジェクトや社外との共同プロジェクトを担当したので、ひとつのプロジェクトに数年間携わるような立場にはいなかった。帝人との臨床治験合弁会社だけは、立ち上げプロジェクトに途中から呼ばれて、立ち上げ後は経営の全権を認めてもらって、役員として約3年継続して担当した。これだけが例外。
①1月末までに新会社を予定通りに立ち上げ稼働させること
②赤字の解消
③合弁の解消と資本の引き取り⇒SRL完全子会社化
④帝人の臨床検査子会社の吸収合併

 日経新聞に公表した合弁会社立ち上げはプロジェクトが暗礁に乗り上げ、11月初旬にわたしは子会社からSRL本社の近藤社長に呼ばれて、期限通りの立ち上げと、②③④を三年でやるように頼まれた。近藤さん、元厚生省の医系技官で課長補佐だったから、平気でこんな要求が出せたのだろうと思います。普通は不可能だから、こんな要求はしません。本社へ最初のプロジェクトへ参加するために行ったときに、ちょうどエレベータを降りてきて、エレベータ前で3分ほど話して、4つの課題を引き受け、経営の全権委譲を即決しましたね、思いっきりのよい人でした。わたしにはとっても相性がよかった。(笑) 実は近藤さんと仕事をするのはこれが2度目でした。東北の臨床検査会社へ出向し15か月で創業者の藤田社長に呼び戻されたときにちょうど近藤さんへ社長が交代してました。もどったときに肩書は「経営管理課長・社長室・購買部兼務」でした。一つとっても気に入らぬ理由があって(近藤さんではありません)数か月で辞退、子会社への出向を希望、SRL東京ラボへ出向が叶いました。そんなわがままを聞いてくれるのも部署を変えながらその都度大きな実績を繰り返したたきだしていたからかもしれません。わたしが経営管理部をやめると社員が二人辞めてます。ebisuさんがいないなら「やってられない」。若い人は学びがなくなった職場で仕事を続けるのは人生の貴重な時間の浪費です。20代後半から30歳代は責任のあるそれなりの仕事をしないと腕が上がりません。元気のいい若者でした。一人はエイベックスの課長へ、もう一人は転職した会社が上場して40歳前に経理担当役員になっています。優秀な社員はバカな上司には仕えない、外部が評価します。

 全部期限内にクリアしました。帝人の石川常務には社長はebisuさんだとご指名があった。帝人は合弁会社をやるたびに失敗、後始末を帝人側でしていたのです。「合弁会社がうまくいくなんて言うのも、(資本引き取りによる)合弁解消の申し入れも初めて」と笑って応じてくれました。創業30年以上たっても赤字にあえぐ臨床検査子会社も始末に困っていたのは1990年頃、染色体画像解析装置を帝人の臨床検査子会社が購入したので、知ってました。だから、近藤さんに言われる5年も前から、買収してやろうと考えていました。染色体画像解析装置は東北の臨床検査会社も購入していました。利益が出るほど検体は集められません。SRLが染色体外注検査の8割を握っていたからです。東北の臨床検査会社も経営分析して、資本提携交渉をし、15か月役員出向してました。売上高経常利益率15%の経営改善案を書いたからです。染色体画像解析検査を柱に、赤字会社がSRLの売上高経常利益率を上回る高収益企業に3年でなる改善案でした。藤田さん、ノーでした。出向は創業者の藤田光一郎さんが社長をしていた1993年のことです。オヤジが大腸癌が再発し全身転移で亡くなった年でもあったので記憶にあります。44歳のときでした。



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